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仕■人日月抄
深川十万坪
(仕上げに殺陣あり)
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「どこいきゃあがった!」
「逃がすんじゃねえぞ!」
月明かりの下、子供の背丈ほどの葦が生い茂った野っ原を、人相のよくない男たちが、おめき声をあげながら駆けずりまわっている。
其処は俗に〔十万坪〕と呼ばれている埋立地で、享保の頃に深川の商人が幕府に願い出て許され、十万坪築地の新田開発をした場所である。
人家もほとんどなく、田畑も少ない。
ただもう葦の原に松林が点在するといった荒涼たる景観を呈しているのであった。


[挿絵1]

その葦の原の間に、一人の少女が身を潜めている。
歳の頃は、十七〜八といったところであろうか。
メリハリの効いたボディを包む極端に丈の短い着物は、袖口から背中の真ん中までが大胆にカットされており、ちょっと動いただけで横乳が露出してしまうという、なかなかに傾いた身なりであった。
しなやかな牝獣を連想させるバネのあるシルエットと、大人びた美貌の持ち主であるその少女の名は、冴という。
冴は神田明神町で口入れ屋を営む、蓬屋宗右衛門配下の仕■人である。
仕■人というのは、金で殺しを請け負う、平たく言えば殺し屋のなのであるが、只の殺し屋稼業とは一寸毛色が違う。
元締めの宗右衛門に言わせると、「手前どもがお命を頂戴するのは、生かしておいても世の中の為にならない悪党だけでございますよ」とのことである。
そんな仕■人が狙う相手は、やはり悪党だけあって、なかなかに一筋縄ではいかぬ。
たとえば、日本橋で材木問屋を営む木曾屋善吉。
冴が始末するはずだったこの男、事前に探りをいれたところでは、深川の愛人宅に通う際は、供の者は一人もいないということになっていた。
ところが悪党も木曾屋ほどの大物になると、小使い銭欲しさに情報を売り込んでくるチンピラに事欠かない。
仕■人に自分の殺しを依頼したものがいると聞いて、密かに身辺を固めていたのである。
屋敷にいるのは木曾屋と妾だけと聞いていた冴は、その夜に限って屋敷内に伏せていた配下のものどもと鉢合わせしてしまい、ほうほうの体で逃げ出すほかなかったのである。
もちろん、歳こそ若いが、仕■人としての冴の実力は、なまなかの武士など相手にならぬ。
一寸荒事に慣れた程度のやくざ者なら、何人いようと物の数ではないが、用心棒の中に一人、恐ろしいほどの手練れがいたのであった。
「いやがったぞ!」
木曾屋配下のごろつきが、ぐるりと冴を取り囲む。
みな、手に手に匕首や棍棒、木槌に柄杓といった思い思いの得物を持っている。
対する冴は、身に寸鉄すら帯びてはおらぬ。
少女の武器は、己が五体全てである。
均整のとれた美しい肢体からは想像も出来ないが、その脚はひと蹴りで骨を砕き、腕は熟したイチジクのように心臓を握り潰す力を秘めている。
「けぇ!」
匕首を手にしたやくざ者が飛び掛ってくるのを、身を捻ってかわし、勢い余ってつんのめったやくざ者の、がら空きの背中に蹴りを入れる。
「ぐげぼ!」
やくざ者は、顔から木に激突して珍妙な悲鳴をあげた。
「このアマ!」
別のやくざ者が天秤棒を手にして挑んでくるが、たちまち棒を叩き折った冴の当て身を受け、むうんと一声唸って気絶してしまった。
「おんどれがぁ!」
「なめやがって!」
仲間があっさりやられたのを見て怖気づいたか、遠巻きに怒声を浴びせるばかりの男たち。
所詮はチンピラ、相手が強いとわかるやてんで意気地のない連中である。
そのとき、やくざ者たちの輪の中から、一人の男がぬらりと前に出てきた。
「やるな、小娘」
それは頭頂部が禿げ上がり、後頭部とその両側にざんばら髪を生やした、目付きだけがやけに鋭い猫背の中年男であった。
背は低く、脚も短い。
それでいて両腕は、放っておいても地面に届くほど長い。
異形の用心棒が両手を大きく広げ、独特の構えをとるのを見て、冴の顔が強張った。

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