シルフェニアリレー 企画
黄昏の夢
the red world and true black

第九話

再会 T


 


 

 

 

 

 

 

 

 

テンカワアキトは悩んでいた。

それはもちろん先ほど退室した司令室で行われた密談じみたもの、

ネルフの代表である碇ゲンドウ及び副指令の冬月コウゾウとの、会話の内容についてだった。

碇ゲンドウ(正確には副指令の冬月)から提案のあった、思いもかけない協力要請。

それにどう対処するか、正直な所アキト自身が決めかねていたからだ。

今のアキトの体が元の通りに動くのなら、アキトはこの申し出を受ける事はしなかった。

アキトが集めた情報(入院中の身で在る為、大した物ではなかったが)からしても、

今、ネルフという組織に協力する事が、正しいとは思えなかったのだ。

ただ、今の自身の状態をアキトはよく理解していた。

ラピスとのリンクは切れ、自分の五感のうちの比較的まともに機能しているのは、

バイザーによる補正がある視覚と聴覚だけだった。

それとて、先ほどの司令室の様に極端に光量が不足する場所では、それすらもままならなくなる。

柔を修める課程で身に付けた気配察知の能力が無ければ、

今とて真っ直ぐ歩く事すら出来なかっただろう。

そういった自身の状況を、アキトは冷静にかつ客観的に理解していたのだ。

ふと、自分を先導するように歩いていた案内役であるガードの二人が、

通路の右側に寄るのをアキトは感じ取った。

さらに感じ取る事が出来たのは、別の誰かが近づいてくる気配。

その気配から判断すると、その人物は女性で、

今、自分が出てきたばかりの司令室へ向かうのだろうと、アキトは推測していた。

先行する黒服に倣い、アキトもまた通路の右側へと少し進路を変える。

そのまますれ違うはずだったのだが、アキトはその人物に向けて話しかけていた。

 

「イネ…」

 

しかしながら、その声は途中で止まる。

それは、アキトの目の前に居る彼女と、アキトが思い浮かべた人物が、

全くの別人であると気が付いたからだった。

だからと言って発してしまった言葉が取り消せるわけでもなく、

途中半端に呼びかけてしまった相手からは、アキトに詰問が向けられる事になる。

 

「『いね』とは、去れということかしら?テンカワアキトさん?

 貴方とは初対面の筈だけれど、ずい分な言い様ね」

 

アキトに言葉の棘を向けたのは一人の女性だった。

少女と呼ぶには歳を重ねすぎ、かといって熟女と呼ぶには人生経験が足りてない。

その妙齢の女性は、ファイルを抱えた右手を白衣のポケットに突っ込んだまま、

逆の手で軽くその髪を掻き揚げ、叱責とも取れる言葉をアキトにぶつけて来たのだ。

その失態を悔やみつつも思考を廻らせるアキト。

そしてこれもまた一つの情報収集の機会だと位置づけ、気を取り直した。

おそらくこの先にある司令室に護衛も付けずに向かうであろう彼女は、

このネルフという組織内において中枢に近い位置に居る可能性が高い。

そう考えたアキトは全神経を女性に向けて慎重に口を開く。

どうして俺の事を知っているのか、という疑問はとりあえず頭の隅に追いやって。

 

「誤解を与えてしまって、すまなかった。

 俺の親しい知人にイネスという女性がいるのだが、彼女と貴女を一瞬見間違えたんだ。

 研究者である彼女もまたそういった格好、つまり白衣を好んで着ていたものでね」

 

ペコリと頭を下げ女性にそう告げるアキト。

イネスフレサンジュの事を話す必要性を懸念しながらも、

敵意の無さを示すように、話し方もなるべくフランクにと心がけて話を続ける。

 

「同じ金髪ではあるけれど、よくよく見れば髪型も違うし、

 何より彼女がここに居るわけが無い事に思い至ってね。

 そういうわけで、中途半端な感じで呼びかけてしまったんだ。

 このような場所に呼び止めてしまった事は、悪かったと思う。

 すまなかった」

 

一通りの言い訳を並べた後、改めて頭を下げるアキト。

その様に逆に面食らったのは女性の方だった。

アキトの物言いにそれ相応の言葉を返した彼女だったが、

その後のアキトの低姿勢に、まるで自分が悪い事をしたかのように感じていた。

だからと言って口にした言葉を、自ら覆すほどその女性は素直ではなかった。

 

「テンカワさん、貴方の事情を今思い出しました。

 貴方の知り合いであるイネスという方と私が、何処まで似ているのかはわかりませんが、

 特徴的な箇所が似ていたという事は、貴方の話から推測できます。

 そして貴方の事情を鑑みれば、やむをえない事でもあると理解しました。

 どうやら私も言い過ぎました。頭を上げてください、テンカワさん」

 

固い口調のままでは在ったが、それでも表情は多少崩した女性の言葉。

アキトは自身の行動の結果、事象が良い方に傾いた事をかみ締めつつ頭を上げる。

そして女性の方に全神経を集中させながら、

今となっては不慣れなものになった笑みを表情に浮かべて口を開く。

 

「許してもらえるなら、何よりですよ。

 けど、どうして俺の事に詳しいんですか?」

 

紡ぎだされたのは、その場では当然とも思える疑問。

むろんそれは情報収集をしようとするアキトにとっては、有用な疑問でもあった。

 

「ああ、そうね。貴方にしてみれば私を知らなくても当然の事よね。

 では、改めて自己紹介を。

 私は名前は、赤木リツコ。このネルフで技術部長をやっているわ。

 一応幹部ではあるし、色々な情報は私の耳にも入るの。

 あのミサトにというか、シンジ君に拾われたという、少し変わった経緯が貴方にはあるわ。

 だからこそ尚のこと、貴方の事を覚えていたのよ」

 

そうして待ち構えていたアキトに答える女性こと赤木リツコ。

むろんリツコとてテレパシーや読心術が使える訳ではないので、

そうしてアキトが自分の言葉を待ち構えている事など知る由も無い。

そして両者の間には認識の違いにおいて大きな溝があった。

アキトとってしてみれば願っても無い有益な情報すら、

リツコにとっては些末事でしかなく、全く無自覚にアキトに情報を渡していた。

 

「とすると、さっきの話は、赤木さんに連絡すれば良いんですかね?」

 

アキトはあえてそう問う事にした。

アキトに直接話を持ってきた司令や副司令に返答を返すのが、

本来的な筋だとは、アキトも十分に理解をしている。

そして、先ほどの司令室でのやり取りでは、

そういった細かな箇所まで話を詰めているわけではない。

それ故にリツコに問いかけて、より多くの情報を得ようという算段をアキトは持っていたのだ。

 

「連…絡?」

 

アキトからの疑問に疑問で答えるリツコ。

そこへフォローを入れる様にアキトは口を開く。

 

「つい先ほど、司令室で話が在ったんですよ。

 是非に、技術協力して欲しいと。

 一応、一週間ほど時間は貰いましたが、肝心の連絡方法などはまるきり決めてなかったんですよ。

 で、技術部長の赤木さんに連絡をとれば確実かな、と思った次第なんです。

 あ、それともネルフにはそういった連絡専門の担当が、あったりするんですかね?」

 

そう続けられたアキトの言葉に、リツコは一瞬眉を寄せたものの、

すぐに表情を戻し、投げかけられたアキトの疑問に答えていく。

 

「そうね、直に私宛に連絡を入れる様にお願いできるかしら?

 司令も副司令も忙しい事が多いの。

 まあ、私も暇とは言えないけれど、話を聞くぐらいの余裕は造って見せるわ。

 そういうわけで、結論が出たら司令や副司令でなく、私宛に連絡するということで。

 是非に、良い返事を期待したいところね」

 

そうして最後には笑みを返してくるリツコに感心しながらも、

その表情の変化から別の事実をアキトは把握していた。

先ほど司令室で交わされたの技術提供の話が、

少なくとも今はまだ、目の前に居る技術部長のリツコに伝わっていなかったこと。

そして技術部長であるリツコが、それなりに権限を持っていることだ。

 

「まあ、時間はそれなりに貰いましたから、検討だけはしっかりとさせて貰いますよ。

 それと、アカギさんへの連絡方法は、どうしたら良いですかね?」

 

言葉を濁しつつ愛想笑いを浮かべるアキト。

一方のリツコはそんなアキトに興味を覚えていた。

今、目の前に居るテンカワアキトという男性は、

ある意味ネルフという組織に軟禁されているのと同様の状況にある。

もし、リツコが今のアキトと同様の立場に置かれたら、

不安に押しつぶされ相手の幹部と落ち着いて話などしていられない、と考えたからだ。

それ故に、今目の前に居るテンカワアキトがどういった人物なのか?

という疑問は当然にリツコの脳裏に浮かんだのだ。

 

「そうね、適当にここの職員を捕まえて、伝言をしてもらえば良いわ。

 後でビジター用のIDカードを届けさせるから、それを提示して私宛に伝言をして頂戴。

 一応、そのIDでネルフ内をある程度動けるようには、設定をしておきます。

 期限付きとは言え時間はあるのだから、

 自分の目で見て判断の材料にすると良いでしょうね。

 もちろん、重要区域には入れないし、

 それなりにアナタの行動範囲は限定させてもらう事になるのだけれど…」


「どうも、ありがとうございます。

 時間は貰ったんですが、正直どうしようかって悩んでいたところなんです。

 与えられた部屋に篭ってるだけというのは、どうにも性に合わないものですし…」

 

リツコの言葉に笑みを返すアキト。

アキトにとってそこまでの待遇の話が出てきたのは予想外の事だった。

協力要請があったとは言え、自分はあくまで部外者である。

そういった認識のアキトにとって、

自身の足で施設を見て回れるという事は、良すぎると思えるほどの待遇だったのだ。

それは情報収集を考えていたアキトにとってはまたとない好機でもあった。

一方のリツコも、ただの親切心からそういった待遇を申し出たわけではなかった。

IDカードを発行し、彼の行動をMAGIによって逐一監視する事を、リツコは考えていたのだ。

ある程度自由に泳がせて、彼の目的などを探るという算段でもあったのだ。

むろん、強硬な手段も取れない事は無い。

だが、一応はゲストであるテンカワアキトに対し、

現段階でそういった手段を取る事は適切ではないと判断した結果でもあった。

 

「さて、そろそろ行くわ」

 

話は終わったとばかりに簡潔に告げるリツコ。

 

「ああ、すいません、引き止めてしまって」

 

軽く頭をせ下げてみせるアキト。

 

「それじゃ、テンカワさん。良い返事を期待しています」


「ええ、じっくりと検討させてもらいます」

 

リツコのストレートな物言いに、苦笑をもらしながら答えるアキト。

リツコもまたアキトの答えに苦笑を漏らし、すぐさま背を向けてその場から立ち去った。

アキトもまたリツコに背を向けて、黒服たちに促されるように再び歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが5日前の出来事だった。

ビジター用のIDカードは、リツコとの邂逅から30分後にはアキトの手元に届いていた。

仕事の早さに驚きつつも、アキトは許されうる範囲の施設を全て見て回った。

ただ、どの施設を回ろうが、アキトは職員からの視線を集めていた。

だからといって、何をされるわけでもないのだが、アキトはあまり良い気分にはならなかった。

少なくとも今は、自分以外に見学者が居らず、それ故に余計に注目を集めているのだ。

アキトはその状況をそんな風に考えていた。

実際のところ、頭の天辺からつま先まで真っ黒というアキトの格好が、注目を集めていたのだ。

なにしろ、実験施設が多いこのネルフ、

そこに努める職員が主立って着用するのは白衣であって、

ただ一人真っ黒なアキトはかなり目立つのだ。

そこに思い至らない辺りがアキトらしさと言えるのかもしれないが。

それとは別に、与えられた部屋から出る足を鈍らせる原因も外に存在した。

アキトが各施設を訪れた時、

必ずと言って良いほど職員が側に立ち、色々と解説をしてくれていたのだ。

だが、その専門的な知識など皆無であるアキトにとって、その解説の殆ど理解できないものだった。

バイザーによって隠された表情は、アキトがまるで理解していない事を職員に隠匿する事になった。

アキトに出来るのは、その解説をただ黙って聞き適当に相槌を打つ事だけなのだが、

それは精神的な苦痛を伴う作業でもあったのだ。

無論、ネルフの職員とて親切心からアキトに解説をしていた訳ではない。

技術部長であるリツコから、ビジターIDを持つアキトに対する接し方の指示が出ていた。

アキトの様子はMAGIよって観察され、解析されて、随時リツコの元へと報告されていたのだ。

そうしたネルフの事情は知る由も無いアキトではあったが、

苦痛から遠ざかるためにその足は、自然とリツコの指示の届いていない場所に向かう事になる。

アキトが寝泊りする為に与えられた部屋を出て向かったのは、ネルフ職員の憩いの場でもある大食堂だった。

ここ5日ほどは同じ注文であるトーストとコーヒーとサラダを頼み、

いまや指定席である東側の端の席に座るアキト。

味も碌にわからぬまま、トーストを齧り、サラダをつつき、コーヒーを啜る。

そうして、あわただしく食事を取るネルフ職員とは対照的に、

ずい分とゆっくりとした食事を終えたアキトはため息をつくのだった。

さて、今日はどうしたものか?と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

碇シンジは悩んでいた。

この周りから向けられる視線は何なのかと。

自分が何か悪い事をしたのだろうか?と。

と同時にデジャビュを感じていたのも確かなことだ。

今現在こうして自分に向けられる視線は、

前に住んでいた所で向けられていたのと同じもの。

まるで針の筵のようなその空間に、

以前のシンジはただ耐えてその場に居続けた。

なぜなら、その時のシンジには逃げる場所など無かったからだ。

預けられているという身分は、模範的であるようにとシンジを強迫観念のごとく縛り付けた。

だからシンジは学校をエスケープした事など無かったし、

蓄積されたその感情をその場で爆発させる事も出来ずにいた。

だが、今シンジを取り巻く環境は前の所とは違っていた。

肉親ではない他人の家に住むという条件は同じにせよ、

その家主は、前の所ほどシンジに優等生たれと押し付けては来ない。

しかも、昨日からは仕事が忙しいといった理由で、顔すら合わせていなかった。

そしてシンジは1つ決心をした。

学校をサボろう。

比較的、いやかなり真面目な部類に入るシンジからして見れば、それはかなり大きな決心でもあった。

1時間目の授業も半ばを過ぎた頃。

ドキドキする心をなんとか宥め、シンジは手を挙げる。

教壇の教師はシンジの名を呼び、立ち上がったシンジは考えていた台詞を告げる。

 

「ネルフの用事が出来ました、早退します」

 

もちろんそれはシンジが一番に考え付いた嘘なのだが、

1時限目を受け持っていた教師はあっさりとそれを受け入れた。

「他の教室でも授業をやっているので、静かに帰りなさい」

と注意をすることは忘れなかったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教室から逃げ出し、学校そのものからもエスケープしたシンジは、

そのままとぼとぼと街んも中心街へと歩いていった。

もちろん、そのまま葛城邸に帰るという選択肢はあったのだが、シンジはそれを選択しなかった。

葛城ミサトが家に居て、鉢合わせする可能性を考えたからだ。

かといって、教室を出るときのいい訳につかったネルフに向かうのも、やはり同じ理由で忌避していたのだ。

行くべき所の無いシンジは、何処に行ったとしても良かった。

それでも、街の中心街へ向かったのは人恋しかったからだろう。

先ほど教室から逃げ出したシンジが、今は人を求めて、

照り返しのの強いコンクリートで固められた歩道をとぼとぼと歩いていく。

それは滑稽で矛盾していて、何とも人間らしい行動だった。

もちろんシンジは己の事をそこまで理解している由も無い。

1時間ほどかけて、第3東京都市の中心街へとたどり着いたシンジ。

さりとて、何か目的がある訳でもなく、ぶらぶらと街中をさ迷い歩く事になる。

どちらかといえば引きこもりがちのシンジにとって、

平日の午前中に中心街を歩くという行為そのものが新鮮だった。

特に何か楽しい事があるわけでも無いのだが、シンジの心は高揚していった。

それは学校をサボっているという罪悪感の裏返しでもあるのだが、

そういった経験を殆ど持たないシンジは当然そのことには気が付かない。

そういった風にやや興奮気味のシンジを、ある特定の職種の人物が呼び止めた。

それは中心街を巡回する補導員だった。

補導員に呼び止められ、学校はどうしたのか?

と訊かれたシンジは、内心はドキドキしながらもネルフのIDカードを提示してこう言った。

 

「えっと、ネルフの任務中なんです」

 

もちろんそれは学校の教師に言ってみせたのと同じ嘘だった。

オドオドとしたシンジの態度は補導員の疑惑を深めたが、

どう見ても本物であるネルフのIDカードの提示は、補導員にそれ以上の追求を諦めさせた。

もし目の前の少年の言葉が事実なら、

その任務中の少年に声をかけた自分は、ネルフの邪魔をしている事になるのではないか?

そしてこれ以上目の前の少年を引き止めることで、

自分の身にネルフからのペナルティが課せられるのではないか?

実質ネルフによって管理されている第3東京都市を雇用主とする補導員が、

その考えにたどり着くのは当然の事だった。

それ故に補導員の取るべき行動は決まっていた。

 

「お仕事、ご苦労様です」

 

出来うる限りの愛想笑いを浮かべ、提示されたIDカードをシンジへと返したのだ。

 

「はあ、どうも」


戸惑いながらも、返されたIDカードを受け取るシンジ。

そして補導員は軽く頭を下げて、逃げ出すようにシンジの前から早足で去っていった。

シンジはその補導員の背中をやや呆れた様子で見送った後に、

返されたIDカードを財布の中にしまい込むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして補導員とのやり取りを5回ほど繰り返したシンジは、

ようやく補導員が自分に声をかけて来る理由に思い至った。

その原因を解消すべく、目の前にあった百貨店のビルに入る事にした。

勿論シンジが向かったのは洋品店。

制服姿の自分がこの時間に街をうろついていれば、

補導員が声をかけてくるのも当然の結果なのだと遅ればせながら気が付いたのだ。

そして洋品店に入ったシンジがしたのは、ネルフのIDカードを提示する事だった。

むろん身分証明を求められたわけではなく、

IDカードがクレジットカードも兼ねている事を思い出しのだ。

同居人である葛城ミサトの説明によれば、

14歳であるシンジに渡されるものだけに、制限は付いているものの、

普通に使う分には問題ない程度の制限だという話だったのだ。

初めて使うものではあるし、とりあえず店員に限度額の確認を頼んだのだ。

店員が調べた結果、カードの限度額は10万という事だった。

予想していたものより大きな金額に少し驚いたシンジだったが、

ここに入った目的を思い出し、店員にこう言った。

 

「えっと、その限度額で、僕をコーデネイトしてください」

 

シンジのその発言は自分のセンスの無さを自覚しての事だった。

元より流行などあまり気にするほうではないし、

ファッション誌も本屋に並べてある表紙を眺める程度しか見たことが無かった。

そんな風に流行に疎い自分よりも、ここはプロである店員に任せた方が良い。

まあ、そんな結論をシンジは出したのだ。

 

「畏まりました。では、どのようなイメージにいたしましょう?」

 

にこりと笑みを見せシンジに問いかける店員。

その笑顔の奥の瞳が、猛禽類のように鋭く光っている事にシンジは気がつけない。

 

「えっと、その、大人っぽい感じで…」

 

店員が向ける笑顔にほっと胸を撫で下ろし、当初の目的を店員に告げるシンジ。

中学生に見えなければ、補導員に声をかけられる事もないだろう。

という安直な考えを持っていたのだ。

 

「畏まりました。

 それではお客様のサイズを正確に計りますので、計測ルームへとご足労願えますか?」

 

そうシンジに告げて同じフロアにある計測ルームへとシンジを促すように歩き出す店員。

シンジはおっかなびっくりながらも、店員の後に付いて行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1時間後、シンジは洋品店に備え付けてあった大きな姿見の前に居た。

 

「いかかでしょうか、お客様」

 

そう訊いてくる店員に、シンジは改めて自分の格好を見直してみる。

確かに中学生には見えないけれど…。

この格好って特定一部の自由業の人にしか見えない…。

というのがシンジの率直な感想だった。

サラリーマンのスーツには無い攻撃的なほどにシャープなイメージで、

黒地と細いグレーでストライプを織り成すジャケットとパンツ。

なで肩のシンジ用に大きな肩パット入りだった。

そのジャケットの下に着ているのは、大きく胸の肌蹴た白いシャツ。

袖元は黒曜石を加工したカフスでまとめ、シャツから覗く胸元には燻したシルバーのクロスが鈍く光っていた。

無論、足元も通学用のスニーカーではなく、ジャケットとに合わせたイメージの革靴だった。

あえてずらした慣れないサングラスをかけ直し、もう一度自分の格好を確認するシンジ。

やっぱり、その筋の人だと思いつつ、シンジは口を開く。

 

「あの、良いんじゃないかな…」

 

そんな感想を持ちつつもイヤとはいえないシンジ。

気の弱さという部分もあるのだが…。

確かに今の格好ならば補導員に声をかけられる事も無いだろう。

そう考えた結果の言葉でもあった。

 

「お客様は顔立ちがお優しいので、それを隠すように、

 「ダーク」というコンセプトで、大人のイメージを演出してみました」

 

その説明を聞いてシンジもようやく合点が行った。

確かに自分はなよなよとしたイメージがあるし、

それを大人びて見せるのは割りと難しい事だったのだろう。

自分の想像していたのとは少し違ったけれど、さすがプロの人は違うんだな。

そう納得したシンジは、店員に示された通りに何枚かの紙にサインを記入していく。

そうしてカードでの初めての会計を終えたシンジは、

さっきまで着ていた制服とカバンを紙袋に押し込み、洋品店を後にした。

ふと、鏡面張りになっていたビルの柱に写る自分を見て、気に掛かったのは頬に残る青アザ。

昨日殴られた部分が、今日になって青アザとなって浮かび上がってきたのだ。

治療をした訳でも無いし、仕方が無いか。

シンジはそう考え、思考に連鎖を広げていった。治療、病院、病室、入院…。

そこで思い出したのは一人の少女。

あの時、エヴァンゲリオン初号機の前で出会った、赤い瞳をした傷だらけの少女だ。

そうだ、お見舞いに行こう。

シンジが導き出したのは割と常識的な答えだった。

そして自分が彼女の名前を覚えていないことに思い至る。

同居人であるミサトからはその名前を聞いていたはずなのだが、

彼女のシンジは名前を直ぐには思い出せないで居た。

アレだけ目立った容姿なのだし、とにかく病院に行けば解るだろう。

そんな安直な予測を元にシンジは歩き出した。

そういえば、あのスズハラだとかの妹も入院してるんだっけ。

病院行きのバス停を探して歩きながら、更にその事も思い出したシンジ。

ただ、昨日殴られた箇所が、ずきりと痛んだ気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イネス=フレサンジュは悩んでいた。

否、正確に言うのならば、悔やんでいた。

ここに来た真の目的であるテンカワアキトの探索の為とはいえ、

どうしてあの場で市街の実地調査をすると言ってしまったのだろうか…と。

今あるこの事態は十二分に想像できた筈なのに…と。

今、自分に向けられている視線は好意的なものでなく、

むしろ好奇的なもので、イネスが決して望まないものであった。

そしてイネスは今自分が、こうして好奇の視線を集めている原因となってる人物達を視線のみで振り返る。

厳つい体躯には合っていないブラックスーツに身を固めた男が二人。

その二人に追従するように付いてくる黒服。

いささか前の二人とは雰囲気が異なり、故に街を行く人々の興味をより引き寄せる結果となっている。

その非日常的な4人の黒服が、イネスのぴたり1m後ろを付いて来ているのだ。

その様は明らかに異様で、イネスの周囲3mには人的空白が生まれる事になっていた。

そしてイネスが思い返すのは、先に行われた国連との会合の事。

結論から言えば、その会合は大成功に終わっていた。

『使徒と呼ばれる敵生体のバリアを崩したこちらの秘密兵器』

という札が功をそうしたのが、大きな要因だ。

更に細かく言えばネルフと国連という2組織間の軋轢が、

ナデシコ側にとって良い方向に働いた結果でもある。

先の戦闘において、街一つを犠牲にした上で、最大威力を誇るN2兵器を持ってしても、

敵生体である使徒を仕留める事が出来なかった国連軍。

かたや、空恐ろしいほどのコストがかり、それでもN2兵器で仕留める事の出来なかった敵、

使徒を殲滅したエヴァンゲリオンを有するネルフ。

国連側は敵生体を征する事の出来る攻撃手段を、

そのネルフに対抗する為に何としても用意する必要があったのだ。

そこへ舞い込んできたのが、食糧援助を求める正体不明の集団の話。

普段なら捨て置かれる類の話ではあるのだが、

その集団の兵器が敵生体のバリアを破ったとなれば話は別だ。

国連軍上層部は満場一致で、その集団に対する援助を決断した。

むろん、協力という見返りを求めての事だ。

さりとて、なんらの保険を無しに援助をするほど、国連軍は能天気な組織ではなかった。

援助に先立ち、ナデシコ側の幹部クラスを国連へ出向させる事を求めてきたのだ。

無論、出向などはお題目であって、実のところは体の良い人質であった。

だが、その要請を無下に蹴るわけにも行かず、

出向に応じる事になったのはイネス=フレサンジュだった。

平均年齢が通常の戦艦よりも比較的低いナデシコの中でも、年長の部類に入る彼女。

なによりその豊富な知識とそれを活かせるだけの才をイネスは持っていた。

そして一番の決め手となったのは、彼女がA級ジャンパーだった事。

つまり万が一の事態に陥ったとしても、自力で逃亡できる可能性が一番高かったのだ。

一刻も早く地上にテンカワアキトを探しに行きたい、そういう本人の希望もあっての事だった。

会合から2日後には、イネスはナデシコを降り、国連へと出向していた。

ただ黙ってそれを甘んじて受け入れるような軟弱さを、イネスは持ち合わせていなかった。

受け入れの手続きが終わるや否や、

自分を含めたところでの第三東京都市への調査団の派遣を要請したのだ。

 

「状況としては完全に出遅れていると言って良いわね。

 ネルフから提供のあった情報は確かに重要よ。

 でもね、私は私自身の目で見て判断をくだすわ。

 団が組織できないのなら、先に私一人でもいいから送り込みなさい。

 その程度は出来るはずでしょう」

 

強気な発言のイネスに国連の側にもそれなりに反発が起こる。

だが、イネスの言葉にも説得力があり、

また、せっかくネルフに対抗する為に招いた協力者を蔑ろにはできない。

そういった判断の元に決断は下され、それから3時間後、イネスは機上の人となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三東京都市の土を数名の護衛と共に踏むことになったイネス。

そのまま現地調査を行う事を主張し、同じく国連から派遣された2名の調査員とは別行動をとる事になった。

当然、護衛は二手に別れ、イネスにはその内の二人の護衛が付く事になる。

そこまではイネスの想定の範囲内だったのだが、

イネスたちを出迎えたネルフの側からも護衛がつくとは予想してなかった。

むろんそれが善意の申し出などではなく、自分達を監視する為のものである事をイネスは承知していた。

それ故に下手に断る訳にも行かず、ネルフからの護衛も彼女の行動に同行することになった。

その段階まではまだ良かった。

その後、両者の軋轢から来る対抗意識が表面化し、

互いに競うようにイネスの護衛に当たるようになり、

それは同時に周りの人間への威圧へとつながり、現在に至っているのだ。

それはイネスの思惑からは大きく外れた事態だった。

イネスがあえて街中に足を向けたのは、この都市に住む人々の間に流れる噂を知りたかったからだ。

むろんそういった根拠のない与太話は、電脳の世界にも多々存在する事は知っている。

だが、第三東京という都市はMAGIというシステムによって完全に管理されており、

イネスの望む情報を手に入れる事が難しいと判断したのだ。

だが、今のこの状況においては、そういった情報を提供してくれる人間など皆無に近い。

一緒に来た調査団とは別れて行動していくこともあり、すぐさま情報収集をやめる訳にも行かなかった。

じりじりと照りつける日差しの中、額に滲む汗を軽く拭き、サングラス越しに人々を見つめるイネス。

そんな彼女の目に止まったのは、一人の男。

彼女とは別の意味で周りから浮いている細身の男性。

イネスは背後を振り返り、ガードの存在を確認すると、その人物の方へ早足で歩きだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、ごめんなさい」

 

件の人物とすれ違いざま、

肩に担いだセラミック製ののアタッシュケースを相手の肩口へとぶつけるイネス。

大仰にその相手を振り返っての言葉だった。

イネスの脳内シミュレートの結果がこうだったからだ。

相手にわざとアタッシュケースをぶつける。

件の堅気には見えない相手は激怒し、イネスに食って掛かってくる。

ネルフと国連から派遣されている4人のガードを背景にお話合い。

相手のこちらの誠意をよく理解してもらう。

ついでに世間話。

特にここ最近の変わった噂話などを聞かせてもらう。

だが、実際に返ってきた相手の反応はイネスの意図したものとは違っていた。

アタッシュケースの当たったであろう肩口を押さえ、地面に尻餅をつき顔をゆがめる男性。

そしてずれたサングラスの下の童顔に、イネスは彼が少年と言っていい年齢だった事に気が付いた。

 

「あいたたたた…」

 

その童顔に見合う声変わり前の高いトーンで苦痛を漏らす少年。

イネスは慌ててサングラスを外すと、彼の前にしゃがみこんだ。

 

「本当に御免なさい。君、大丈夫?」

 

先に脳内で展開したシミュレートなど破棄し、自らの心情のままに動くイネス。

普段ならしない様なラフな行動を、悔いての事でもあった。

 

「あ、はい、まだ少し痛みますけれど、大丈夫です」

 

少年の顔を覗き込むイネスに対し、腕をさすりながらも愛想笑いを浮かべて答える少年。

なるほど、この子、外見はこんな格好してるけど、中身はずい分と違うのね。

その少年の様子に、イネスはそう正しく理解した。

…でも、これはちょっとしたチャンスね。

そう考えたイネスは先ほどまでのシミュレートとは違う方法を持って、目的を達する事にした。

 

「前を良く見てなかった私の手落ちね。

 お詫びにその辺の店で奢らせて貰うわ。

 イヤ、とは言わないわよね?」

 

軽く笑みを浮かべてはいるものの、有無を言わせぬ強い視線でイネスは少年に語りかける。

気の弱そうな顔立ちの少年はコクコクと首を縦に振る事しかできない。

 

「よろしい」

 

とたんイネスは先ほどとは違い柔らな笑みを見せて立ち上がり、少年に手を差し出した。

少年は促されるままにイネスの手を取り、引き起こされる形で立ち上がった。

 

「じゃあ、行きましょう」


「は、はい」

 

立ち上がった少年の手をそのまま引き寄せ腕を組むイネス。

突然の彼女の行動に、少年は驚き上ずった声で返事を返した。

もちろん、イネスのそれはせっかく捕まえた少年を逃がさないようする為のもので、

少年に対して特別な意図を持っていたわけでは無い。

だが、その行動は少年にとっては少し刺激的なものであった。

あまり人付き合いが得意でない少年にとって、こうして他人と腕を組む事など初めてのことであるし、

何より組んだ二の腕に押し付けられる柔らかな感触は、少年にとって未知なる物だったのだ。

少し顔を赤くしぎこちなく動く少年を引きつれ、イネスは30mほど先にあった喫茶店へと歩き出す。

それは少年こと碇シンジが、イネス=フレサンジュという、もう一人のアレな女性との縁を結んだ瞬間でもある。

もちろんこの時の彼は、それが自分にどんな結果をもたらすのか…などという事を考える余裕が無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『シンジ君、貴方ネルフの関係者?』

 

そう書かれた紙ナプキンを目の前に差し出されたシンジは、

飲みかけたアイスティーでおもいっきりむせ返してしまう。

イネスはそのシンジの様子に満足げ頷くと、別の紙ナプキンの上で再びペンを走らせるのだった。

喫茶店に入った二人は、店員にアイスコーヒーとアイスティーでケーキセットを注文した。

そしてイネスが改めて先ほどの非礼を詫び、シンジはそれを受け入れた。

そして互いの名前を交換し合った所で注文の品がテーブルに届く。

ガムシロップをアイスティーに入れ、ストローをグラスに差し込んでかき回すシンジ。

イネスは飲み物には手を付けず、テーブルに置いてあった紙ナプキンを広げ、

胸のポケットからサインペンを取り出した。

さらさらと紙ナプキンに書き込むイネスを不思議そうに見ながら、

グラスを手元に引き寄せ、挿したストローを口に咥えるシンジ。

琥珀色の液体がストローを駆け上りシンジの口の中へと向かった時、

何も言わずにイネスはその紙ナプキンをシンジの前に差し出した。

シンジはむせ返り、イネスは再びペンを走らせた。

それが先ほどまでに二人が取った行動だった。

そして何とか落ち着きを取り戻したシンジは、再びグラスに挿したストローを口に咥えた。

 

『ひょっとして、あの怪獣を倒したのも君?』

 

再び挿しだされた紙ナプキンの文字に、シンジはぶくぶくとアイスティーを吹いてしまう。

そのイネスの指摘は事前に得ていた情報によるものだ。

敵生体を倒した兵器のパイロットは思春期の子供である。

それはあまり信憑性の高くないものとして、国連から得ていた情報のひとつであった。

にわかには信じがたい話ではあるが、

11歳の少女が戦艦を動かしていた事を知るイネスは、それを頭から否定する事はしなかったのだ。

 

「シンジ君、あまり褒められた作法じゃないわよ?」

 

しれっとした顔でそうシンジに告げながら再びペンを走らせるイネス。

恨めしそうに自分を見るシンジにニコニコとして笑みを向けながら、再び紙ナプキンをシンジに見せた。

 

『盗聴されてるの』

 

腹芸などとは縁遠いシンジではあったが、

流石にそうまでされれば、疑問を口にするという愚行はしなかった。

だからこそ、ただじっとイネスを見つめ、真意を問いただす事にした。

 

「実を言うとね、私、この前のテロ事件の調査の為に国連から派遣された調査員なの。

 もちろん、専門的な検証もするけれど、

 それ以外にもこうして街の人に話を聞くのが私のやり方なの。

 で、一般人のシンジ君にも是非協力をしてもらいたいと思うのだけれど、良いかしら?」

 

あえて一般人を強調して語るイネス。

そのイネスの言葉の意味合いを理解出来ないほど、シンジの頭の回転は鈍くなかった。

シンジがネルフに所属し、そしてエヴァンゲリオンのパイロットである事を、公言するつもりが無い。

目の前の女性は言外にそう語っているのだと理解した。

そしてそれ故に彼女からの頼みごとを断る事が出来ないと。

 

「あ、はい、良いですよ。

 でも、ぼくは一般人ですし、その、ニュースで聞いた事ぐらいしか解りませんけれど…」

 

笑みを見せるイネスに合わせ、シンジもまたそう答える。

ただシンジは自分の出した模範解答に自信が無いのか、おどおどとした態度だったが。

 

「ご協力、感謝するわ。

 でも、私が知りたいのはニュースで知った事よりも、

 ニュースにならないような噂話とかの方なの。

 あの事件の前後で、怪しい人を見たとかそういう話、聞いたことは無い?」

 

じっとシンジの目を見つめ真摯な表情で問いかけるイネス。

そこにある先ほどまでとは雰囲気を違えた真剣な様子に、

イネスが演技などではなく本当に訊いているのだと悟った。

だがそのあまりに漠然とした問いかけに対する明確な答えを、シンジは持ち合わせていなかった。

 

「えっと、怪しいって、どういう風に怪しいんですか?」

 

とはいえ、元より真面目な気質のシンジは、何とか協力できいものかとイネスにそう問い返す。

ずい分と人の良い子ね。

そんな感想を抱きながら、イネスは軽く笑みを作り、自分が追い求めている人物像を語りだした。

 

「…そうね。

 どう怪しいかと言うと黒くて怪しいかしら?

 黒色の上下に顔の半分を覆う黒いバイザー。

 ひょっとしたら黒いマントも身に着けてたかもしれないわ。

 そんな人物を見かけたって噂、聞いたこと無い?」

 

ある訳、無いわね…。

自分の語るあまりに特殊な人物像にイネスは内心そうため息を吐く。

一方の問いかけられたシンジはびっくりしていた。

イネスが語った人物像の噂は聞いた事は無かったが、

その人物像が自分が発見した人物とあまりに近似していたらからだ。

そうしたシンジの態度はイネスの目には不可思議なものとして映った。

だからと言って答えを急かすことなく、シンジからの返答をじっと待つイネス。

 

「あの、噂話は知りませんけれど、僕、その人を知ってるかも知れません」

 

シンジのその返答を聞いたイネスは、その予想以上の内容に目を見開いて驚いた。

少し震える手で、アイスコーヒーを飲み、深呼吸を始める。

そして何とか落ち着きを取り戻したイネスは、真剣な眼差しをシンジに向けた。

 

「その話、詳しく聞かせてもらえるかしら?」

 

問い掛けでありながら強い意思を感じさせるイネスの言葉に、シンジは大きく頷いて答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

互いの目の前に置かれたケーキをつつきながら話をする二人。

決定的だったのはシンジがテンカワアキトの名前をぼんやりとではあるが覚えていたからだ。

何とかカワ、ア何とかさん。という程度ではあったが、

イネスの口から語られる詳細な事が、シンジの記憶と一致したのだ。

そしてイネスは当然のようにアキトの行方をシンジに訊ねる。

シンジの口から返ってきた病院という単語にイネスはあからさまに動揺を見せ考え込んでしまう。

しかしながらそれも少しの間の事で、大きく息を吸い平静を取り戻すと、病院までの道のりをシンジに訪ねた。

有無を言わせぬ強い意思の視線に射抜かれたシンジは、少し恐怖した。

もしここで断ったら、ブッチギラレル。

正確には言葉に表せないが、シンジはそう確信したのだ。

それ故に彼が取る事の出来る行動は限られたものになった。

 

「ごめんなさい、是非僕に案内させてください」

 

深々と頭を下げたシンジの言葉。

イネスにとっては予想外のシンジの行動ではあったが、彼女はそれを容易に受け入れた。

偶然にも掴んだテンカワアキトの手がかりが途切れておらず、

その場所へ案内までしてくれるとあらばなおの事良い。

そして奇抜とも思えるシンジの行動については、

彼女の周りにいる人物の方がその加減を大きく上回っていたのだ。

いきなり謝るというシンジの行動程度では、イネスを驚かすには到底足りなかったのだ。

 

「じゃあ、案内をお願いするわ。ここはもう出ましょう」

 

言いながら席を立ち、伝票を手にするイネス。

それに続くように席を立つシンジ。

だが伝票をもったイネスは、レジとは別の方向に向かっていく。

それを不審に思いながらも、シンジはその後を追う。

 

「ここの会計よろしく。経費で落ちるでしょう?」

 

言いながらイネスが伝票を置いたのは、周りから少し浮いている人物達の席だった。

ブラックスーツにブラックタイ。

室内だというのにサングラスをかけたままの男が4人。

そんなあからさまに怪しいグループの席に伝票を置いて立ち去るイネス。

状況の掴めていないシンジではあったが、

とりあえずその4人に向けてペコリとお辞儀をし、慌ててイネスを追いかけ店の外へ。

こうしてシンジはイネスを案内がてら、自身が思いついた通りに病院へと向かう事になった。

もちろん、喫茶店の4人の間で、伝票の押し付け合いがあった事など知る由も無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病院に着いたイネスとシンジは、まず総合受付に向かった。

互いの尋ね人の病室を確認するためだ。

忙しそうに働く病院のスタッフに向け、シンジがネルフのIDカードを提示する。

応対に出た病院の女性スタッフは眉を寄せた。

担当は別の窓口だからそこへ向かうように。

東側の別の窓口を指し示しながらそう告げて、すぐさまシンジ達とは別の来客の対応をし始める。

あまりな対応に互いの顔を見合うシンジとイネス。

だがこのまま互いの顔を見ていても仕方が無い事は確かで、先に告げられたま窓口へと向かう事にした。

そこは大きさこそ先ほどの窓口と同程度ではあったが、ずい分と閑散とした所であった。

スタッフもそれに合わせたように3人しか居らず、

来院者でずい分と混みあっていた向こうと違い、椅子に座って待っている人も居ない。

少し離れた場所にある喫煙ブースに1人分の人影が見えるくらいだった。

そこに居る3人のスタッフの制服もネルフ支給のものであり、

先ほどの病院のスタッフとは違う雰囲気を出していた。

そしてシンジは先ほどと同じように、ネルフのIDカードを提示する。

対応に立ったスタッフは面倒くさそうにカードリーダーをシンジの前に置き、

そこにカードを通すようにあごで促した。

シンジは促されるままにIDカードをスリットに通す。

そして表示された情報を見たスタッフの顔が先ほどのスタッフよりもずい分と解りやすく歪む。

ゲッ、とか声に出していれば尚更だった。

それでもそのスタッフは愛想笑いを浮かべ。カードリーダーを引っ込めた。

 

「碇シンジさんですね?今日はどういったご用件で?」

 

慣れていないのか、ぎこちない愛想笑いを浮かべ、シンジに問いかけるスタッフ。

その後ろで残る二人のスタッフがひそひそと話をしていた。

 

「おい、何で本部付きのサードが来てるんだよ」


「オレが知るか。

 事前に聞いてるスケジュールじゃ、サードの予定なんて入ってねえしよ」

 

ただ、あまりに閑散とし静寂に包まれたそこでは、その話し声さえシンジ達の耳まで届いていたが。

多少気分を害しながらもシンジは投げかけられた問いに答える事にした。

 

「えっと、今日はお見舞いに来たんです。

 でも、どの病室かわからなくって、それを教えてもらおうと思ったんです」

 

見知らぬ人と話すことが得意でないシンジは、徐々に尻すぼみになりながら答えていく。

そんな風にうじうじとしたシンジの態度が気に入らなかったのか、スタッフは思い切り眉をひそめる。

 

「はぁ?病室もわからないのにお見舞いですか?

 ったくこれだから本部の人間は…」

 

弱気なシンジの性格を見抜いたのか、大きく肩をすくめてみせて続けるスタッフ。

その態度にショックを受けたシンジは落ち込みかけたその時。

 

「貴方、所属部署と官職、名前を教えなさい」

 

そんな台詞で二人の間に割り込んだのはイネスだった。

その声は今まで聞いた中でも最も冷酷で冷徹で、怒気すら孕んでいるようにシンジには思えた。

 

「あ、いえ、その…」


「ああ、別に答えたくなければ答えなくて良いわ。

 調べれば、直ぐに解る事だもの」

 

淡々と告げられた言葉によって、対応していた職員の顔から血の気が引いていく。

冷酷で、冷徹で、効率重視の傾向が強い、金髪の技術部長。

実質的なネルフのNo3。その存在が頭を過ぎったからだった。

他部門に所属する下級職員であるそのスタッフが、技術部長と面識があるわけではなかった。

ただ、これまでもその噂を聞く機会は多々在ったのも事実だ。

もちろんそれは、好意的でないものの方が圧倒的に多かった。

曰く、ネルフの職員の行方不明者の内の7割は技術部長の実験室で発生しているとか、

そういった類の都市伝説や怪談じみたものが殆どだった。

 

「は、はい、申し訳ありませんでした」

 

そして、彼はそういう部分においては優秀だった。

変わり身と尻尾の振り方を心得ていたのだ。

先ほどシンジに見せた態度とは手の平を返した様に、シンジとイネスに頭を下げるスタッフ。

 

「それで、どなたのお見舞いに見えたのですか?」

 

メモ用紙とペンを手に取り、再びシンジ達に問いかけてきた。

 

「一人はシンジ君の同僚の赤い目をした女の子。

 二人目はシンジ君のクラスメイトの妹でファミリーネームはスズハラと言うわ。

 3人目はシンジ君が2週間ほど前に運び込んだテンカワアキトという男性。

 この3人の病室が知りたいの。至急調べてもらえるかしら?」

 

最初に話をしていたシンジに代わり、スタッフに告げたのはイネスだった。

腕を組みスタッフを見据えながらも、指先は急かすように二の腕を叩いている。

 

「確認します、しばらくお待ちください」

 

そしてスタッフは2人に一礼しながらそう答え、

後ろに居た二人にもメモを手渡し、3人で端末を叩き始める。

そのスタッフの様子に頷くイネス。

窓口からそんなイネスの戻ったシンジは憧れの眼差しで見上げていた。

 

「どうしたの?」

 

その視線に気が付いたイネスはシンジに訊ねる。

シンジは誤魔化すように笑みを浮かべて口を開く。

 

「えっと、その、お礼を言いたかったんです。

 きっと、僕一人じゃ、何も聞けずに逃げちゃったと思うし、だからお礼を言いたかったんです。

 ありがとうございます」

 

イネスに向けペコリと頭を下げるシンジ。

それは言葉の通りの感謝の現れでもあったし、

何よりああいった風にズバリと言って相手を動かして見せたイネスが、かなり格好良く見えたのだ。

 

「別にお礼を言われるほどの事でもないわ。

 私の為でもあったし…。

 それにね、ああいう風にだらだら仕事をしてるのは見てるとイライラするのよ。

 それにシンジ君のIDカード無しじゃ、彼らもああは動かなかったはずよ。

 まあ、持ちつ持たれつで、あまり気にしないで良いのよ」

 

言いながら先ほどの柔ら笑みを見せるイネス。

シンジは己の内にあるイネスへの憧憬の念が大きくなっていくのを感じていた。

 

「お待たせしました」

 

そして検索を終えた先ほどのスタッフが、待っていた二人に呼びかけてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、二人はその場で別れて別行動をとると言う話になった。

シンジの同僚の少女とクラスメイトの妹という少女の病室は判明したのだが、

イネスの探し人であるテンカワアキトの病室は既に引き払われた後だったからだ。

勿論イネスはアキトの行き先を追求したが、返ってきたのは記録に残っていないと言う答えだった。

 

「それなら、仕方が無いわね、ありがとう」

 

そう、スタッフに会釈をし、イネスは窓口に背を向けた。

そして先ほど開いていた手帳の1ページを破り、シンジに差し出すイネス。

 

「じゃあ、ここからは別行動ね。

 そこのスタッフに調べてもらった事はメモしたから、シンジ君は二人のお見舞いに行くといいわ。

 私は探偵の真似事でもして、もう少し調べてみるつもりよ。

 入院患者って時間をもてあましてる人が結構多いし、他愛無い話にも皆割りと付き合ってくれるものなのよ」

 

心配そうに見上げるシンジに対し、微笑を保ったまま答えるイネス。

テンカワアキトの手がかりが途絶えたにも関らず、あまり気にした風にも見えなかった。

そして確認した病室が先の窓口とは反対側だったこともあり、シンジとイネスは元来た通路を戻り始める。

シンジは隣を歩くイネスと自分を比較していた。

僕と同じように人を探しているのに、イネスさんはビシッとモノを言って結果を導き出すし、

それで居てその結果が思わしくなくても、直ぐに次の行動に移ってる。

その人に対する思いが、僕のそれとは違うんだろうけど、

仮に僕がイネスさんの立場だったらそこまで出来るだろうか?

ううん、きっと僕にはそうは出来ない。

僕は普段から鈍くさくて何も出来なくて、

今日はこうして格好だけ変えてみたところで、何も変わらなかった。

やっぱり僕はダメなヤツなんだ…。

そんな風にネガティブな思考に囚われていくシンジを他所に、

二人は最初に訪れた窓口のある辺りまで戻ってきていた。

何故か落ち込むシンジを不思議に思いながらイネスは口を開く。

 

「ところで、シンジ君、

 お見舞いに行くのに、手土産のひとつも持っていかないの?

 今までの話からするとそう親しい威間柄って事じゃ無さそうでしょ?

 だったら、なおさら何か持ていった方が良いじゃないかしら?

 たかが手土産かも知れないけれど、話題の一つにもなるでしょうし」

 

病院へお見舞いに来たというのに、シンジがそれらしいモノを持っていない事を気にしたイネスはそう告げる。

 

「あ、そうですよね…。

 僕、お見舞いに行くのって初めてで、良く解らなかったんです」

 

指摘されたシンジはバツが悪かったのか、頬を指でかきながらそう答える。

イネスはその答えに疑問を持った。

自分達のものとは違うのこの時代の流れの中で、

シンジの歳になってもお見舞いの経験が無いのはおかしいと感じたのだ。

此処に来てからの情報収集で得ている情報によれば、

近親者や友人にそういった例がまるで無い人間など無きに等しいはず。

あの兵器のパイロットでもあるし、この子には何かがあるのかもしれない。

そして、イネスはそんな風にシンジに対する認識を改めていた。

無論、それを表に出すようなことはしなかったが。

 

「そっか、じゃあ今回は手堅く花束にしたらどうかしら?

 丁度そこにフラワーショップもあるし、私でよければ付き合うわよ」


「え?一緒に来てもらっても良いんですか?」

 

病院内に店舗を構えているフラワーショップを指し示しながらのイネスの言葉。

てっきりここで別々に動き出すを思っていたシンジは、多少の驚きを交えた声を出した。

 

「良いのよ、乗りかかった船、とは良く言うでしょ。

 それにね、シンジ君をここで見捨てるほど、私は薄情ではないつもりよ」

 

さも当然と告げるイネスにあり難いと思いながらも、シンジは少しだけ引っかかっていた。

フラワーショップに向かいながらも思い浮かべる事があったのだ。

ひょっとしなくても同情されてるのかな?

そんな疑問を抱き、シンジは彼にしては珍しくイネスの直に訊ねることを決意する。

 

「あの、イネスさん、

 僕って、そんなに頼りなく思えます?」


「……そうね、若いとは思うわよ。

 あ、すいませーん」

 

シンジの問い掛けに対して苦笑を共なって誤魔化す様に答えるイネス。

そして話はそれまでとばかりに、フラワーショップの店員を呼び止めた。

それから、しばらくの後、一緒に花束を購入した二人は、

先に話をしていた通りに、それぞれ別行動をとり始めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジが先に向かったのは、同僚である綾波レイの病室だった。

彼女の名前もイネスから貰ったメモにあり、

そう言えばこんな名前だったとシンジは改めて同僚の名前を思い出していた。

そして、メモにある名前をもう一度見ながら、

病室の前にかかるネームプレートのそれと照合していた。

殆ど初めての顔合わせになる事もあり、緊張した面持ちでシンジは病室のドアをノックする。

 

「―――」

 

しかしながら、部屋の中からは返事がなく、沈黙のみが返ってきた。

それを不審に思ったシンジは、手元のメモ用紙と病室のプレートを再び確認する。

綾波レイ。

ネームプレートの文字とメモにある文字を交互に見ながら小声で読み上げる。

一字一句同じ文字を確認し再び意識を病室のドアの方へと向ける。再びのノック。

 

「―――――――開いているわ」

 

しばらくの沈黙の後、シンジの予想とは違う答えが返ってきた。

入っても良いって事だよね?

シンジは首を傾げて自問しながら、ドアノブを回してドアを開ける。

 

「失礼します」

 

そんな言葉を伴いながら病室の中へと入る。

シンジが目にしたのは先ほどの返事と同じく予想とは違う光景だった。

腕を吊り包帯を頭に巻いた少女が、

シンジがサポタージュしてきた第一中学の制服姿でベッドの側に立ち、

病室に入ってきたシンジをじっと見つめていたのだ。

その足元には口の開いたバッグが置いてあり、

更に言えばベッドの周りはずい分と片付いており、私物の一つも無い様に見えた。

 

「あなた、誰?」

 

見据えられ固まったシンジに向けて、包帯を巻いた少女綾波レイが問いかける。

包帯で覆われていない片目には、警戒心すら浮かんで見えた。

真っ直ぐに向けられるその瞳に気圧されながらも、シンジは大きく息を吸いレイの問いに答えていく。

 

「初めましてではないんだけど、覚えてないかもしれないね。

 僕は、碇シンジ。

 今度サードチルドレンをやる事になったんだ。

 だから、綾波さんの同僚になるんだけれど…」

 

頷きもせずにじっとシンジを見据えるレイの態度に弱気の虫が出て、

最初こそは勢い良く話していたシンジだったが、最後はいつものように尻すぼみになってしまう。

心中では不安が増大し、レイの顔を真正面から見ることも出来ない。

ひょっとしたら先ほどの答えに何か間違いがあったんじゃないだろうか?

そんな風に自分の口にした言葉すら疑い始めていた。

 

「―――貴方が、サードチルドレン。

 ―――貴方が、使徒を倒したの?」

 

確認するように続けられるレイの言葉。

ようやく返ってきた言葉にシンジはほっと胸を撫で下ろした。

 

「あ、うん、一応そういうことになってる。

 正直に言えばあの時は無我夢中で、自分が如何したかなんて良く覚えていないんだ」

 

レイの言葉にエヴェンゲリオンでの戦闘を思い出しながら答えるシンジ。

その言葉の通りにシンジは自分がどう戦った等といった事をうっすらとしか記憶してなかった。

 

「そう、良かったわね」

 

だがそれに対するレイの態度はシンジには理解できないものだった。

プイとそっぽを向き何の抑揚もなくレイは口を開いた。

何か怒らせるような事を言ったのだろうか?

困惑したシンジはそんな感想を抱き己の発言を振り返る。

特に問題は無く彼女や彼女に関る何かをバカにしたと取れる言葉も無い。

訳が解らなかった。

やっぱり、女の子は苦手だ。

そう再確認し、シンジはため息を一つ吐く。

 

「サードチルドレン、何をしに来たの?」

 

そんなシンジにやはり視線を外したままのレイが問いかける。

その言葉の調子はやはり堅く、詰問されているような非難されているような印象をシンジは持った。

「あ、その、あや、綾波さんの、お、お見舞いに来たんだ。

 でも、もしかしたらって思うけど、今から退院するところだったの?」

 

そしてシンジはレイに答えながら、先ほどから頭の中に浮かんでいた推測を口にした。

綺麗に片付けられたベッドの周囲、足元に置いてある着替え等が入りそうなバック。

そしてなにより彼女が寝巻きなどではなく第一中学の制服を着ているのは、

此処から移動する為である事が容易に推測できたのだ。

その推測に頷く事で答えるレイ。

やはりシンジの方は向いて居なかったが。

ずい分と嫌われてるな。

その態度にため息を一通吐きながらもレイの側へと歩み寄るシンジ。

 

「じゃあ、これは退院のお祝いだね」

 

言いながら、先ほど購入した花束をレイへと差し出した。

 

「何?」

 

ようやくシンジの方を振り返り、花束とその顔を交互に見ながらレイは短く問いかける

 

「何って退院のお祝いだよ。

 あ、ショットガンなんて仕込んでないから、安心して受け取ってくれれば良いよ」

 

そう答えるシンジにレイは首を傾げる事で答える。

イネスさんの冗談、まるで受けませんでしたよ…。

そしてシンジは内心でイネスに恨み言っていた。

まるきり素の反応を返すレイに、恥ずかしくなったシンジは、

強引にそ吊ってない方の手に花束を持たせると、そのまま後ずさり病室の入り口の方へと下がっていく。

 

「えーっと、綾波さんも退院の準備で忙しいだろうし、

 僕はこの辺で失礼させてもらうよ。じゃあ、またね」

 

後ろ手にドアノブを回し、早口にまくし立てるシンジ。

 

「サヨナラ」

 

ちらりとシンジを一瞥した、レイの口からの一言。

やっぱり嫌われてるんだ。

そう考えたシンジはがっくりと肩を落とし、病室を出て行った。

パタン。

音を立て閉まったドアにレイは視線を向ける。

そして思い起こすのは、サ−ドチルドレンと名乗った少年に対する自分の取った行動の事。

自分が取ったそれは普段とは異なるもので在るとレイは理解していた。

そしてその原因が自分の心のざらつきの所為であることに思い至る。

嫉妬とよばれるその心のざらつきを、今のレイはまるきり理解出来ないで居たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてシンジは再びフラワーショップへと足を運んでいた。

先ほどとは異なるアレンジの購入する為だ。

目的のものを手に入れ、シンジはイネスに貰ったメモにある病室へと向かう。

同僚である綾波レイへのお見舞いで多少落ち込んでは居たものの、何とか気力を振り絞り、

メモにあった病室の前までたどり着いた。

鈴原ハルミ。

手元のメモと病室にかかっているネームプレートが一致する事を確認するシンジ。

大きく息を吸って気を張りなおし、病室のドアをノックする。

 

「はーい、どうぞ」

 

先ほどの綾波レイの時とは違い、すぐさま女の子の声で返事が返ってくる。

 

「失礼します」

 

シンジはドアノブを回し、言葉と共に病室の中へと入る。

半身に振り返りドアを閉め、ベッドの方へと向き直るシンジを襲う衝撃。

とは言ってもそれは強烈なものではなく、

何か柔らかいものが投げつけられ、自身の視界を塞いだのだとシンジは理解した。

 

「このアホ兄貴!うちの見舞いなんてええから、とっとと学校行けって昨日も言うたやろ!」

 

投げつけられたそれが床に落ち、シンジの視線もそれに合わせて床へと向けられる。

そこに落ちていたのは枕で、きっと今の声の主の枕なのだろうとシンジは推測する。

 

「失礼します、なんて気色悪い言葉使こうたかて、うちは誤魔化されへん」

 

下を向いたシンジの額に当たる柔らかい何か。

シンジの額から床に跳ねたそれはぬいぐるみだった。

結構小さな子なのかな?

そんな事を思いながら顔を挙げ、それが飛んで来たであろうベッドへと視線を向けるシンジ。

 

「うちが何言うてもいっつも黒ジャージの癖に、今日だけはけったいな格好しくさってからに…」

 

言葉と共に投げられたぬいぐるみがシンジの胸の中に収まった。

と同時にベッドの上の少女、鈴原ハルミとシンジが始めて顔をあわせる事になった。

 

「…あれ?お兄ぃちゃうやん…」

 

ベッドの上で事実に気が付き、そう呟くハルミ。

そしてシンジが口を開くよりも早く、シーツを被りベッドで丸くなってしまった。

完全に声をかけるタイミングを逸したシンジは、

どうしたものかと悩み、とりあえず投げつけられた物を拾い集める事にした。

枕とぬいぐるみを2つ抱え、ベッドの側に立つシンジ。

だが近寄った事により、ベッドの上で丸まっているシーツが余計に堅くなったようにも見える。

 

「えっと、その…」

 

シンジの声に丸まったシーツは余計に頑なになり、

中の少女が顔を見せる気配は皆無であるようにシンジには思えた。

この日何度目かになるため息を吐いたシンジは、

とりあえず拾い集めたものをベッドの上に戻していく。

そしてベッドの上で丸まったままのシーツに向けて提案をする。

 

「えっとさ、3分後にまた来るから、色々と無かったことにして、最初からやり直さない?」

 

答えを待つシンジ。

けれどもベッドの上からは何の反応も無い。

もう一度ため息をつき立ち去ろうとした時、ベッドの上のシーツの中から声が聞こえた。

 

「……ええよ」

 

短かったけれど、それは確かに先ほどのものと同じ少女の声だった。

ようやく話が出来そうだ。シンジはそんな風に安心し、その言葉の通りにその場から離れる事にした。

 

「じゃあ、3分後に」

 

そういい残し、ベッドから離れていくシンジ。

やっぱり女の子って難しいな。

そう感想を抱きながら、シンジは取り合えず病室から出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はーい、どうぞ」

 

3分後、ノックされたドアの向こうからハルミの声が響く。

 

「失礼します」

 

先ほどと同じ少女の言葉に、先ほど同じ言葉を返しながらシンジはドアノブを捻る。

さすが枕は飛んでこないよね?

そう考えながら、病室の中へと入っていくシンジ。

その予想通りに枕は飛んでこなかったが、

代わりに投げかけられたのはベッドの上の少女からの視線。

たとえ年下、どう見ての小学生の少女からのものとは言え、

軟弱な部分を持つシンジが多少たじろぐには十分なものだった。

それでも何とか気力を奮い立たせ、その視線を正面から受け止めベッドの直ぐ側まで歩み寄るシンジ。

 

「お兄さん、誰や?」

 

ハルミの口からでた当然の疑問に、シンジの緊張の度合いが高まる。

聞きなれない独特のイントネーションがその緊張に拍車をかけてもいた。

 

「は、初めましてこんにちは。

 ぼ、僕は君のお兄さんのクラスメイトで、碇シンジっていうんだ。

 えっと、これ、お見舞いの花」

 

多少どもりながら、緊張した面持ちでシンジはそう続け、

持っていた花束をベッドの上のハルミに差し出した。

 

「あ、ありがとう」

 

差し出されたそれを少し驚きながらも受け取るハルミ。

彼女がコレまで受け取ったお見舞いの品の殆どが食べ物であったのが驚きの原因だ。

例外的に仲の良い女友達から受け取った花束は、その娘自らが川原で摘んできた物であり、

シンジが差し出したものよりもずい分と貧相な物だった。

むろん、それはそれで嬉しかったし、ハルミは感動したが。

花なんて腹の足しにならんもん貰ろうたかてしゃーないやろ。

と、ちょっとしたお願いを兄に一蹴されていた事も、ハルミの驚きの裏側にはあった。

家は男所帯やし、そういったことに期待してもしゃーない。

そんな風に諦めていたハルミの気持ちは、シンジの行動で良いほうに裏切られたのだ。

 

「ほんまに、ありがとう」

 

渡された花束を眺め、表情を崩したハルミの言葉。

シンジはハルミに喜んでもらえた事に安堵し、高めていた緊張の度合いを下げていく。

ハルミは一通り花束を堪能し終えたのか、

その形が崩れないようにそっとベッドの脇のテーブルの上に置いた。

そしてハルミの思考は花束の贈り主であるシンジの方へと向いていく。

イカリシンジさんか…。

お兄の口からは聞いたこと無い名前やけど結構良い人そうやな…。

そう考えたハルミではあったが、その思考に違和感を覚えた。

自分の兄の口からよく名前の出てくる親友、

ケンスケなる人物が、自分のお見舞いに来ていない事に気が付いたのだ。

なのに何故、兄の親友ではなくその口から名前を聞いたことすらない相手が、

わざわざ自分の見舞いにやってくるのだろうか?

浮かんだ疑問にハルミの中の警戒感が頭をもたげてきた。

 

「イカリシンジさん、いいましたね?

 あんた、ホンマにお兄ぃのツレなん?」

 

再びシンジを見据えハルミは言葉を待つ。その問い視線にシンジは緊張を高めていく。

 

「ぼ、ぼ、僕は…」

 

咄嗟に応えることなど敵わず、言葉を詰まらせるシンジ。

ごくりと生唾を飲み込むだけで、次の言葉が上手く紡げない。

 

「ちょ、ちょっとまって」

 

高まった緊張に上手く思考できてない事を自覚したシンジは、そう短くハルミに告げ、

くるりと後ろをふり返りハルミに背を向ける。

そして高まった緊張と興奮度を下げるために大きく腕を動かしながら深呼吸を始めた。

やおら始められたシンジの行動。

ハルミはぽかんと深呼吸をするその背を見ていた。

そして先ほど頭をもたげてきた警戒感が霧散していくのを感じていた。

こげな人を警戒するのはアホらしいわ。

ハルミの心中にはそんな思いが浮かんでいた。

 

「よし」

 

5、6回ほど深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻したシンジはハルミの方を振り返る。

 

「えっと、鈴原とはクラスメイトだけど、友達って訳じゃないんだ」

 

シンジの口から返ってきた答は、ハルミの予想の範囲の内容であった。

 

「ほな、なんでうちの見舞いに?

 ……はッ!?うちのこの愛くるしいぼでぃが目当てなん?

 いーやー助けてお父ちゃーん、手篭めにされるー」

 

両腕をクロスさせて胸元を押さえ、身をくねらせるハルミ。

 

「!?!?」

 

シンジはハルミのその行動に戸惑い、即座に言葉を返せない。

遂には後ろを向いて、先ほどの深呼吸を再びやり出す始末だった。

 

「シンジさん、ちょっと待ってや」

 

そして、その背に呼びかけるのはハルミ。

その声にシンジは深呼吸を止めて、ハルミの方を振り返る。

 

「あのな、シンジさん。うちのボケにボケで返すのはええ。

 せやけど、うちが突っ込みきらへんボケはあかん。

 もう一人誰か居って、順に突っ込んでくれるんなら、まだ場は納まるけどな。

 二人で突っ込み無しにボケとったら、寒いだけやん。

 せやからな、もう一度、行くで」

 

じっと自分を見つめ真剣に語るハルミの迫力に押され、シンジは訳も解らず首を縦に振った。

そしてハルミは息を吸い、先ほどの行動を繰り返し始める。

 

「はッ!?

 さてはうちのぐらならすなぼでぃが目当てなん?

 いーやー、助けてお父ちゃーん。手篭めにされるー」

 

先ほどと同じようにベッドの上で身をくねらせるハルミ。

その振りに正直シンジはてんぱった。

とにかく何か言わなければと、ろくに思考もせぬまま口を開く。

 

「そ、そんなばかな事は無いよ!

 グラマラスというよりはグランドって感じだと思うんだ。

 それに平均的な数値は詳しくは知らないけれど、どう見ても標準以下だし。

 まあ、将来的には期待できるかもしれないけれど、

 この世の中ってそういった部類では期待を裏切るように出来てると僕は思うんだ。

 あ、でも、それが良いっていう一部限定された嗜好を持つ人達もいるから安心だね」

 

一息でしかも早口でまくし立て、最後に笑みをハルミに向けるシンジ。

 

「だれが抉れ胸やねん!!」

 

そのシンジの胸元に突っ込みを入れるハルミ。

そして二人はアイコンタクトを交し合い、互いにサムズアップをしてみせる。

 

「シンジさん、結構やりますやん。正直、此処までとは思うてへんかった」


「いや、その、無我夢中で…。もう一度やれって言われたって、二度と出来ないよ」

 

ハルミの褒め言葉に、シンジは頬をかき照た様子を見せる。

互いに和んだ雰囲気の中、ハルミはふと真面目な表情に戻りシンジへと問いをぶつける。

 

「シンジさん、うちな、ホントのところを知りたいねん。何でやの?」

 

それは多分、言葉の足りない問い掛けで、それでもシンジには事足りている問い掛けだった。

シンジもまた真剣な表情に戻り、返すべき言葉を慎重に選んでいく。

 

「うん、あの、気分を悪くしないんで欲しいけど、ついで、という部分は確かにあったんだ。

 ここに来る前にも別の人のお見舞いに行ってたんだ。

 そして昨日君が入院しているって事をたまたま知った。

 そういう意味では君の所に来たのは、ついでに寄っただけなんだと思う。

 でもね、僕もはっきりとは自覚していないんだけれど、それ以外にも理由があったんだ。

 詳しくは話せないけれど、僕は君に迷惑をかけた。

 だからそれを謝りたくて此処に来たんだとも思う。

 すこし落ち着いて考えて、ようやくその事に気がついた。

 だから、その、ごめんなさい」

 

言いながらシンジはベッドの上にハルミに頭を下げる。

そのまま微動だにしないシンジに戸惑ったのはハルミだった。

まるで覚えの無い事で謝られて、ハルミは大きく困惑していた。

 

「し、シンジさん、頭を上げてーな。うち、訳の解らんことで謝られても困る」

 

困ったハルミは先ほどとは違う弱々しい声で、頭を下げたままにシンジを諭す。

 

「あ、うん、そうだね。ごめんなさい…」

 

頭を上げてハルミの声に答えるシンジ。

だが、更に謝ってしまった事に気がついてバツが悪そうに頬をかいて誤魔化した。

そんなシンジを見ながらハルミは考えていた。

目の前の彼が自分にかけた迷惑とはなんなのであろうか?

と。そのハルミの目に止まったのはシンジの左頬に貼ってある湿布。

そしてハルミが思い出すのは一昨日の兄との会話。

 

「ホンマ、クソやであのロボットのパイロット。

 味方が暴れてけが人出してどないするっちゅうねん。

 もし、会う事があったら絶対パチキかましたる!」


「はいはい、お兄ぃの好きにしたらええやん。

 あんなごついロボのパイロットやで?

 返り討ちに合うのが関の山やろーし。

 うちもよう知らんけど、きっとお兄ぃなんて足元にも及ばへん凄い人やで」


「そ、そんなん、やってみな解からへんわ!」

 

そう言い捨てて病室を後にする兄をハルミはため息交じりで見送っていたのだ。

そして昨日、その兄がなにやらニヤニヤしながら語った言葉。

 

「ワイは、やれば出来るオトコなんや」

 

きっと何時ものように碌でもないことに違いない。

そう思い、追求こそしなかったが、確かに浮かれた兄がそう言っていた事をハルミは思い出していた。

それはハルミにとって十二分なヒントとなった。

一筋の流れが頭の中でつながり、内心は否定したくはありつつ、それがシンジへの問いかけとなる。

 

「なあ、シンジさん、その左頬、お兄ぃに殴られた跡なんか?

 お兄ぃに言われて、シンジさんはうちの処に見舞いに来たんか?」

 

三度シンジを見つめ問いかけるハルミ。

シンジは投げかけられた言葉に驚き、思わずハルミからの視線をずらしてしまう。

それでもハルミに返すべき言葉を考える。

何を応えるにせよ、話せることは正直に言おう。

決心をし、じっと自分を見つめてくるハルミの視線を受け止める。

 

「確かにコレは鈴原に殴られた跡だ。

 けど、此処に来たのは鈴原に言われたからじゃない。

 さっきも言ったけどついでだったし、何より僕がそう決めたから、君の、ハルミちゃんの処に来たんだ。

 それをどうしてかって訊かれると上手く言葉に出来ないけれど…。

 きっと僕は僕がやった事を誰かに聞くのではなく、

 自分自身で確認をしたかったからだって、今はそう思ってる」

 

ハルミへと視線を向けてゆっくりと落ち着いた様子で語りだすシンジ。

ハルミはベッドの上でシンジが告げた言葉を噛みしめ、自分なりに理解をしようとする。

そしてたどり着いた結論をシンジへと向け話し出す。

 

「シンジさんは凄いお人やとうちは思う。

 やっぱり、うちのお兄ぃなんて足元にも及ばへん。

 お兄ぃの八つ当たりで殴られて、それでもうちに頭を下げられる。

 お兄ぃに殴られる原因となったうちのこと、恨んでもええ筈やのに。

 ホンマ、ええ人やと思う。

 まあ、うちのお兄ぃに殴られてる辺り、腕っ節はそんなでも無いみたいやけどな」

 

ベタ褒めのハルミの言葉にシンジは、むずがゆさを感じていた。

こうして此処にいるのも偶然の産物であり、自分でしっかり考えて行動した結果ではなかったからだ。

 

「僕はそんな風に良い人じゃないよ。

 ハルミちゃんの言うとおり、暴力も苦手だし、喧嘩なんてした事ないし…」

 

照れくさそうにそう返し、自身の告げた後半部分に落ち込むシンジ。

成す術もなく殴られたのを、心の何処かで気にしていたのだ。

 

「まあ、せやろな。格好こそ、そんなんやけど、なんや違和感あるし」

 

からからと笑いながらそう続けるハルミに、シンジの心はざっくりとダメージを受けた。

落ち込むシンジを見ながらも、ハルミは再び真剣な表情に戻り、口を開く。

 

「せやけどな、シンジさん。

 苦手やとかやった事無いとか関係無しに、やらなあかん時は来ると思うんや。

 オトコの世界いうんは、正直、うちにはよう解らへん。

 けど、うちはシンジさんがお兄ィをがつんといわして欲しいと思うとる。

 あのアホ兄の勘違いを直して欲しいんや。

 うちがシンジさんに頼めるスジや無いことはわかってる。

 せやけど、うちがこの事を頼めるの、今はシンジさんしか居てへん。

 碌に足の動かんようになってまったうちに代わって、お兄ィの目を覚ましたってくれへんやろか?」

 

その言葉でハルミの症状を知ったシンジはショックを受けていた。

目の前の活発そうな少女が、そんな状態だとは思っても見なかったからだ。

ハルミからかけられる期待の重さを感じつつも、シンジは答えを出した。

 

「僕に、それが出来るかどうか解らないけど、とにかくやってみるよ」

 

多少の戸惑いを交え、それでも少女の願いを受け入れる事を決めたシンジ。

 

「ほな、うちの取っておき教えるさかい、耳かしてえな。あんじょう頼むで」

 

シンジから返ってきた答えに嬉しそうに頷くハルミ。更にそう続け笑みを見せ、

シンジの耳元でその取って置きとやらを話し始める。

強い子だ。

それに引き換え僕は……。

そうしてネガティブな思考に囚われて行くシンジ。

そんな今のシンジに出来るのは、一生懸命話すハルミの言葉をしっかりと聞くことだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「それで、シンジ君の方は如何だったの?」

 

再び病院の玄関近くで出くわしたイネスとシンジ。

イネスが誘う形で、二人は喫茶室へと来ていた。

購入した紙コップの飲み物をテーブルに置き、イネスがシンジに問いかける事で話を始めた。

 

「はい、あの、同僚の綾波さんとは何故だか上手く行きませんでしたけど、

 クラスメイトの妹さんとは仲良くなれたと思います」

 

返ってきたシンジの答えにイネスは首を傾げる。

イネスの感覚的には、おかしく思えた所為だ。

 

「どうにも、綾波さんにはよく思われてないみたいで…。

 会話もそんなにしてませんし。別に気に障るような事を言った覚えが無いんです。

 けど、綾波さんは僕の何かに怒ってるみたいだったんです」

 

苦笑しながらイネスに状況を話すシンジ。

それはシンジが無意識にイネスを頼っているが故の行為であった。

出合ってから数時間しか過ごしていないのだが、

周りに居る大人の中で最も頼りになる人物の一人として、イネスは認識されていたのだ。

シンジを取り巻く環境の特殊性が、そうした認識に至る原因でもあった。

 

「そうね、相手のあることだし、仕方が無いわね。

 その娘とは今後の付き合いもあるんだし、そういう娘だって認識して、

 じっくりと時間をかけて打ち解けて行くしかないんじゃないのかしら?」


「そうだ、今日だけじゃなくて、これからも綾波とは一緒の事があるんだ…」

 

返ってきたイネスの答にショックを受けるシンジ。

そのまま肩を落とし落ち込むシンジをイネスはただ静観するだけだった。

若い二人の間の事に細かく口を出すつもりなど毛頭なかったからだ。

求められたらアドバイスぐらいは、と考えている辺りはシンジに対して甘いのかもしれない。

 

「あ、そうだ、イネスさんの方は如何だったんですか?

 テンカワさんの手がかりはありましたか?」

 

うなだれた頭をいきなり上げて、シンジがそう訊ねてくる。

自分の事は話したし、色々してくれたイネスの状況が気になったのだ。

 

「そうね、まあ、手がかりが無いわけじゃないわ。

 とはいえ、決定的な事が解っている訳でもないのよ。

 あご髭にサングラスの怪しい男と真っ黒で黒いバイザーの怪しい男は一緒に出て行った。

 色々と話してくれた皆からの情報を統合するとそうなるのよ」

 

あご髭にサングラスの怪しい男。

その言葉でシンジの脳裏には一人の男の姿が思い浮かんだ。

 

「その二人が病院の玄関に乗りつけた黒塗りの車に乗り込んだそうよ。

 アキト君がそんな車を手配できるとは思えないし、

 そのサングラスの男がそれなりの人物だと私は思ってるわ。

 その分、接触は難しくなりそうだけど…」

 

難しい顔をしたまま、イネスは続ける。

手に入れた手がかりはアキトの所在を確定するまでには至らず、

それでいて今後の情報収集は難易度が上がる可能性が高い。

イネスは現況にそう結論を出していたからだ。

 

「あの、そのサングラスの人、僕は知ってるかも知れません」

 

イネスには突然と取れるタイミングで語りだしたシンジ。

何を言っているのだろう?

そんな疑問と共にイネスはポカンとシンジの言葉を待つ。

 

「そのサングラスの人、父さんかもしれないんです。

 ヒゲでサングラスで、怪しいっていう人相だし、

 それに司令っていう役職もありますから、黒塗りの車ぐらいもってるかも知れないですし」

 

そう続けられるシンジの言葉に驚きつつも、

事前に国連を通じて手に入れた情報を反すうするイネス。

第三東京都市に関る重要人物の名前ぐらいは記憶していたのだ。

流石に顔までは解らないが。ネルフの最高権力者の名前は直ぐに弾き出すことができた。

ネルフ総司令、碇ゲンドウ。

なるほど、今、目の前に居る少年と同じファミリーネームではあった。

それだけの事なのだが、イネスはシンジの言葉を信じる事にした。

最高責任者の息子が、その組織の有する兵器のパイロットだった。

まるでフィクションのような話ね。

と同時にそんな感想も抱いた。

 

「じゃあ、シンジ君からお父さんに、アキト君の事を確認してもらえないかしら?

 もちろん私自身が、自分の立場でもって確認する事も出来るでしょうけれど、

 きっとそっちのほうが手っ取り早いでしょう?」

 

それ故にイネスはシンジに向けてそう提案した。

もっともそれは、シンジとその父親の親子関係を知らないが故の事で、

両者のこれまでの経緯を知っていたならば、イネスとてそんな提案はしなかったのだ。

 

「僕が…父に……ですか」

 

そんなイネスの提案はシンジにとって少なからず衝撃だった。

イネスが聞き取った人物像が自分の父親に近いと思い、シンジはそれをイネスに告げただけだ。

まさか、そんな風に話が進むとはシンジは予想していなかったのだ。

あまり乗り気を見せないシンジにイネスはテコ入れをする。

 

「まあ、助けた相手の事を知らなくても良い。

 シンジ君がそう考えるなら、訊いて貰えなくても仕方が無いでしょうね」

 

続けられたイネスの言葉にシンジは眉を寄せる。

シンジとてテンカワアキトと自分の父親がどうして一緒に行ったのかは気になっていた。

だが、それをわざわざ父に訊きに行くのは気が引ける。

否、むしろ嫌だとまで思っていたのだ。

 

「――――――」

 

何もイネスにへんとうが出来ず黙ってしまうシンジ。

そのシンジの様子にイネスは己の失策を悟った。

覆水盆に返らず。

口から出てしまった言葉は無かった事には出来ない。

それ故に、イネスはすぐさまフォローを入れることにした。

 

「そっか、ごめんなさい、シンジ君。

 貴方の家庭環境を知りもしないで勝手なことを言ってしまって…。

 本当にごめんなさい」

 

腰掛けたままではあるが、シンジに向けて頭を下げるイネス。

その事の成り行きに驚いたのはシンジだった。

頭を下げたままのイネスに、如何言ったら良いのか悩みつつ、

ああ、きっとさっきのハルミちゃんもこんな風に困ったんだ、

と逃避気味に考えた。

それでも何とかイネスの行為を止めようと口を開く。

 

「い、イネスさん、止めて下さい。

 イネスさんがそんなことをする必要は無いですよ。

 むしろ謝らなきならないのは僕の方です。

 その、とにかく頭を上げてください」

 

必至のシンジの言葉にようやく頭を上げるイネス。

そしてほっとするシンジへ笑みを向ける。

 

「シンジ君はやっぱり良い子ね。

 だからこそ、やっぱり私が悪かったのよ。

 シンジ君とお父さんの事はプライベートな事だし、

 シンジ君がそこに触れて欲しくないと思うのなら、尚更私が悪かったと思うわ」


「いえ、その、そこまで気にして貰わなくても…」

 

笑みと共に向けれれた言葉にイネスの誠実さを感じ、シンジもまたそう柔らかく返していた。

 

「それで、少し訊きたいんだけど、そのイカリゲンドウさん…、

 まあ名前ぐらいは私の組織にも伝わってるわ。

 そのイカリゲンドウさんとシンジ君は、実の親子ということで良いのかしら?」

 

少し訊き難そうにしながらも、あえて疑問を口にしたイネス。

シンジは首を縦に振る事でその問い掛けに答えた。

 

「だったら、これを一つの切っ掛けと考えたら如何かしら?」


「切っ掛け…ですか?」

 

イネスのの言葉をオウム返しに問い返すシンジ。

 

「そうよ、丁度良い機会だと、私は思うわ。

 さっきも言ったけれど、私はシンジ君とお父さんの関係なんて詳しくは知らないわ。

 ただ、シンジ君がお父さんに何か思うところがあるのは、今までの話で理解したの。

 でも、アキト君の事を理由にして、お父さんと話をしてみたら如何かしら?

 アキト君の事でなくても、シンジ君には話したい事があるでしょうし」

 

さらに続けられるイネスの言葉にシンジは首を傾げて見せた。

 

「あのね、シンジ君みたいに、行儀良さそうな子が、そんな格好して街を徘徊してたのよ。

 それに、シンジ君、まだ学生でしょ?

 そうして学校をサポタージュしてたら、誰だって何かあったんだって思うわよ

 それに私が簡単に治療してあげた左頬の事もあるし」

 

シンジにそう告げて幾分冷めかけた飲み物を口にするイネス。

シンジもそれにつられて飲み物を飲みながら考える。

割とわかりやすい行動をしてたんだ。

そんな風に今日の己の行動を振り返っていた。

 

「よう、姐さん、ここに居たのかい?」

 

とそこで横合いから呼びかけてきたのはシンジの見知らぬ男。

着ているものが寝巻きに見える事から、入院患者なのだろうと推測する。

 

「あら、さっきの…。

 呼びかけてくるなんて、何か別の事でも思い出したのかしら?」

 

男にそう訊ねたのはイネス。

この男がイネスの情報収集先の一人であったのだ。

 

「いんや、そうじゃねえ。

 さっき言ってたヒゲにサングラスの男、あいつ今ここに来てるんだよ。

 そこの下に見えるでけぇ車あるだろ?そこから出て来た」

 

男の指摘の通りに窓の外を眺めて見るシンジとイネス。

男の言うとおりに、一つ下のフロアーにある玄関の先に、黒塗りの大きな車が一台停まっていた。

 

「お、ご本人の登場だ。―――なんだ?ずい分と若い愛人連れてるな」

 

男の言葉の通りに、病院の玄関に姿を見せたあご髭にサングラスの男。

それは先にシンジがイネスに語った通りに、彼の父親である碇ゲンドウだった。

だがそれよりもシンジの目を引いたのは、その隣を歩くもう一人の存在だった。

ゲンドウのてが腰に回り、ゲンドウと寄り添うようにして歩くのは、

腕を吊り包帯を頭に巻いた一人の少女だった。

 

「ったく、金持ちは羨ましいぜ。

 あんな若い女を囲えるんだからな。

 一体、どんなプレイすれば、あんなんに出来るんだか」

 

下卑た想像を口にする男。

イネスはタバコを1箱男に渡し、呆然と窓の外を眺めるシンジを指差した。

 

「っといけねえや、子供の前だった。じゃ、失礼するぜ姐さん」

 

タバコを懐にしまいつつ、男は立ち去って行った。

イネスはため息を吐きながらシンジへと視線を向ける。

下らない噂を気にするなと励ますつもりだったのだ。

 

「イネスさん、僕やります!」

 

が、先に口を開いたのはシンジだった。

 

「今夜にでも、父さんと話してみます。

もう一つ、訊かなきゃならない事が出来ましたから」

 

決意を瞳に宿し、そう言い切るシンジ。

イネスは慰めの言葉を取り消して、別の言葉をシンジへと向ける事にした。

 

「そう、頑張ってね、シンジ君」

 

結果オーライという事かしら?

そんな風に考えながら、イネスはシンジを単純に励ますのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、シンジとイネスの二人はネルフへと向かう事になった。

イネスは先にネルフへ向かった調査団と合流する為、

シンジは司令である碇ゲンドウとなんとしても話をする為だった。

ネルフに着いた二人がまず向かったのは国連からの調査団に提供された一室。

正確には二人で向かったのではなく、シンジがその場所への案内を買って出たのだ。

国連から派遣された調査団が三人揃う事になり、イネスは先に着いていた二人と軽く挨拶を交わす。

そして、シンジの事は、此処まで案内してくれたネルフ関係者の子供だと紹介した。

シンジの身分等の小さな誤魔化しは調査が進めばわかってしまう事ではあったが、

イネスは先にシンジと交わした言葉を違える様な真似はしなかった。

短いながらもこれまでシンジとの間で築いた信頼関係があり、それを失うことを良しとしなかったからだ。

シンジは子供ではあるが、それ故にその言葉は履行されるべきだとイネスは考えていた。

そして事態が進展したのは二人の内の一人が漏らした一言に起因していた。

食堂に全身黒尽くめの怪しい輩が居た。

その一言を聞いたイネスはシンジを引きつれ部屋から飛び出した。

無論イネスが目指すのは先に黒尽くめの男の話が出たネルフの食堂。

ヒールを脱ぎ捨て足先のストッキングを引き裂き通路を全力で走り出すイネス。

そのイネスを追いながら食堂の場所をナビゲートし、ギリギリで着いて行くシンジ。

そのシンジの体力も、食堂まであと僅かと言うところで尽き果てた。

 

「その先の角を曲がれば直ぐに食堂です」

 

前方に見える案内板を確認し、そうイネスに怒鳴ったところでシンジの体力は尽きた。

そしてイネスはその言葉どおりに食堂へと走り抜けていった。

息も絶え絶えの状態でようやく食堂にたどり着いたシンジが目にしたものは、

床に倒れこんだ二人の男女が抱き合う姿だった。

全身黒尽くめの男の胸に抱きつき、涙を流すイネス。

その顔を覆うバイザーの所為で表情こそ覗えないが、

必至でイネスを慰めている様に見える黒尽くめの男。

その彼は確かにシンジとミサトが病院へと搬送した男性、テンカワアキトであった。

イネスさん良かったですね。

シンジは心の中で静かに告げて食堂を後にする。

と同時に決心をしていた。

今度は僕の行動する番だと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジはその場所でひたすら待っていた。

彼がこうしてこの場所に待ち始めてから、かれこれ三時間は経っていた。

その瞳がじっと見つめるのはネルフの司令室の扉。

シンジがこの様に待っている経緯は想像に難くないものだ。

至ってシンプルな会話がこうした経緯を生み出していた。

 

「父さん、話があるんだ」


「私は忙しい、後にしろ」


「解った、仕事が終わるまで待ってる」


「好きにしろ」

 

およそ親子らしからぬ会話を交わしたシンジは、技術部長であるリツコを訊ねた。

同居人であるミサトもネルフには居るはずだが、

学校をエスケープした手前、どうにも会い辛かったのだ。

その用件は先ほどの電話に関するもので、

父であるゲンドウが今何処で仕事をしているか訊ねる為だった。

MAGIによりゲンドウのスケジュールを確認したリツコは、その仕事先が司令室であることを告げた。

 

「明日からは少し不在になるけれど、今なら司令室に居るはずよ」


「調べていただいて、ありがとうございました」

 

リツコの言葉に頭を下げてお礼を返すシンジ。

そのまま詳しい事を告げずに立ち去るシンジの背中を、首を傾げながらリツコは見送った。

まさかね…。

そう思いながらもリツコは受話器を上げ、保安部へ連絡を入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジが司令室の外で待っている間、その中に居るゲンドウとて遊んでいる訳ではなかった。

人類史上初めて、敵生体である使徒の撃破に成功したネルフは、

約三週間という時間が経った今でも繁忙の頃合はいまだ落ち着いていなかったのだ。

全ての報告を出し終えた部署は幾分の余裕も出てきたが、

総司令であるゲンドウが楽になるのにはまだまだ時間が必要だった。

ネルフの前身であるゲンヒルの体勢を色濃く受け継いだままだった事も、

ゲンドウがいまだ開放されない一因だった。

数ある報告書等はいまだ紙で作られており、ゲンドウの手による裁決を必要としたからだ。

MAGIを用いた組織改革を視野に入れつつ、今はただ未決の書類に目を通すゲンドウだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、保安部の報告を受けたのは直轄の上司であるコウゾウだった。

サードチルドレンが、司令室の前で司令を待っている。

如何、対処したらよいか?

慎重と評価される保安部長は、コウゾウに確認の連絡を入れてきたのだ。

話のまるで見えないコウゾウは、傍らで仕事をしているゲンドウに確認を取る。

 

「子供のやる事だ、好きにさせておけ。そのうち諦めて帰るだろう」

 

書類から顔も上げずに、コウゾウの声に答えるゲンドウ。

コウゾウはため息を一つ吐き保安部長へ支持を出す。

サードチルドレンに2人の課員を付け、サードと共に待機させろ。

要約すれば、そういった指示だった。

そしてその指示を受け、保安部の課員が二人、挟み込むような形でシンジの側に立つことになる。

そのままシンジと保安部の課員は、3時間と言う時間をその場で過ごす事になった。

そして先にその場から動いたのは、シンジではなく保安部の課員だった。

無論シフトの関係もあるのだが、3時間が経過した時点で交代し、

別の課員がシンジの側に立つ事になる。

だからと言ってシンジがその態度を変えることは無かった。

膝を抱えて通路に座り込み、じっと司令室の入り口の扉を見つめているだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから更に2時間ほど経過し、シンジはようやくゲンドウと話す機会を得ていた。

とはいえ、シンジの積極的な行動の結果と言うわけではなく、

むしろコウゾウによる計らいに因る処が大きかった。

司令室での執務を一通り終え、一息入れるために司令室を出たコウゾウは、

司令室の前に座り込んで居るシンジを目に留めた。

当然してシンジとその傍らに立っていた保安部の課員に事情を聞き、そのまま司令室の中へと取って返した。

 

「碇、今すぐその手を止めてお前の息子と会って来い」


「冬月、何を言っている?」


「司令室の外でお前の息子が待っている。かれこれ五時間近くもそうしているそうだ」


「―――子供の我侭だ、放っておけば良い」


「確かに子供の我侭かも知れん、だが、彼はサードチルドレンだ。

 我々の有する貴重な戦力でもある。

 レイが退院した事は聞いているが、今すぐに戦力としては機能するかは甚だ疑問だろう。

 それに、お前は彼に好きにしろと言ったそうじゃないか。

 その言葉に色々と含むところはあるだろうが、つまりな、お前の負けだよ、碇」


「………」

 

そんな会話を交わし、ゲンドウは言葉を失い憮然とした表情のまま手を止めた。

そのまま椅子から立ち上がりコウゾウに一言だけ告げる。

 

「先生、後は頼みましたよ」

 

コウゾウに何かを手渡すのと同時にその言葉を残し、そのまま司令室を後にするゲンドウ。

一瞬何のことか解らなかったコウゾウだが、

手の中の碇という印鑑に気がつき、ゲンドウの意図する事を汲み取った。

 

「高く付くぞ、碇」

 

司令席に積み上げられた書類の山を見て、コウゾウはそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで話とは何だ?」

 

保安部の課員を入り口に立たせ、5m四方ほどのミーティングルームに篭ったゲンドウとシンジ。

二人が椅子に座るのと同時にゲンドウが口を開いた。

じっと見つめてくるサングラス越しの視線に耐え、一つ息を吸い込んだシンジは口を開く。

 

「あの、綾波さん、綾波レイさんの事なんだけど…。

 父さんと綾波さんはどんな関係なの?

 ひょっとして愛人、じゃなくて父さんは一人身だから恋人だったりするの?」

 

その問い掛けにゲンドウはしばし唖然とした。

よもやシンジからそんな問い掛けが来るとは予想していなかったからだ。

ずり落ちた気がするサングラスを押し上げ、ゲンドウはシンジの問いに答えていく。

 

「私はレイの保護者になっている。ただ、それだけだ」


「で、でも、今日綾波さんが退院する時、

 ずい分と親しげだったじゃないか、この目でちゃんと見てたんだよ」


「それはレイは怪我人であり、迎えが必要だったからだ。他意は無い」

 

シンジの言葉を切って捨てるゲンドウ。

その厳とした態度に、シンジは更に付け加えようとした問い掛けを飲み込んだ。

「僕のときは見舞いにも来なかった癖に、どうして綾波さんを?」

シンジが飲み込んだのはそんな疑問だった。

「レイの方が大切だからだ」

そんな答えが返って来るの来るかもしれない事にシンジは恐怖したのだ。

 

「じゃ、じゃあ、次の話だけど、テンカワアキトさんを、何でネルフに連れて来たの?」

 

そうして逃げるように別の疑問を口にするシンジ。

イネスとアキトの再会を自分の目で見てはいたが、

そのテンカワアキトと自分の父のつながりを知っておきたいと思ったからだ。

意味が無い行為なのかもしれないが、イネスとの約束をシンジは忘れてなどいなかったのだ。

 

「大人と大人の話だ。お前には関係ない」

 

歯牙にもかけずといった風のゲンドウの言葉。

さすがにこの物言いに、カチンときたのかシンジは眉をひそめた。

 

「解ったよ、直接テンカワさんから訊いてみる事にするよ。

 僕とテンカワさんの話だから、父さんには関係ない事だからね」


「好きにしろ」

 

シンジの子供じみた言葉を再び切って捨てるゲンドウ。

シンジは己の頭に血が上るのを感じ、慌てて口を開くを止めた。

そのまま大きく深呼吸し興奮している自分自身を落ち着けていく。

5回ほど深呼吸を繰り返し落ち着いたシンジは、最後の疑問をゲンドウに投げかけた。

 

「父さんは、良く解らない理由で人から殴られた事ある?

 もしあるんなら、その時はどうしたの?」

 

ゲンドウをじっと見つめたシンジの言葉。

 

「なるほど、それがお前が本当に訊きたかった事か。くだらん話だ」

 

ニヤリと笑みを見せ、シンジに返すゲンドウ。

見透かされ、バカにされた。

衝撃を受けたシンジはパクパクと口を動かすだけで声を出せずに居た。

そんなシンジから視線を外し、ゲンドウはやおら立ち上がる。

「そう、くだらない話だ。

 だが、かつての私は確かにそういう場所に居た。

 目が合っただの、無視をしただの、そういった事で絡まれて殴られる。

 それは何ら特別な事では無くて、私にとってただの日常だった。

 むろん、私とて黙ってやられる事はしなかった。

 相手にはそれ相応の対応をしたものだ。

 時には数の力で敗北する事もあった。

 だが、その対価は必ず支払わせてきた。

 私にとって世界とは、自分と敵だけで出来ていた」

 

頭に血が上ったシンジではあったが、ゲンドウの続けた独白を聞き、徐々に落ち着きを取り戻していった。

初めて聞く父の過去に驚いた部分もあり、納得の行く部分もあった。

父さんの方が大変だったのかな?

そんな疑問すら浮かべつつシンジはゲンドウの独白に耳を立てる。

 

「だが、その世界は終りを告げた。

 私が彼女に出会ったからだ。

 私がまだ六文儀という性を名乗っていた頃、出会った彼女の名前は、碇ユイといった。

 そう彼女はお前の母親であり、そして彼女が私の世界を変えたのだ」

 

さらに続いたゲンドウの言葉にシンジは違和感と嫌な予感を覚えていた。

語るゲンドウの声に喜色が混じり始めたのも、その不幸を予想させる一因だった。

何かおかしい。

きっと碌な事にならない。

そう思いながらもシンジはゲンドウを止める事が出来ない。

 

「初めて出会ったのは雨の日だった。

 何時ものように数人がかりで殴られ、道路に打ち捨てられた私をユイが看病してくれたのだ。

 アパートの彼女の部屋で目を覚ましたときは、本当に驚いたものだった。

 「お早うございます」

 目が覚めた私に笑顔の彼女の声がかかる。

 その笑顔を一目見た瞬間から、私は彼女に惹かれていたのだろうな…」

 

少し遠い目をしながら語るゲンドウ。

頬は僅かながら緩んでいるようにも見える。

シンジは自分がとんでもない地雷を踏んだことを自覚した。

そして、そのシンジの自覚は正鵠を獲ていた。

もとより逃げ場の無かったシンジは、その後2時間に渡り、

父が語る妻と自分の惚気話を延々と聞かされる事になったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アハハ、アハハハハ」

 

シンジは哂っていた。

ゲンドウと会話を交わした翌日。

学校の己のクラスでだった。

ことの起こりはこうだった。

昨日と同じように授業をエスケープしようとしたシンジ。

それにぐちぐちと文句を垂れたのはトウジ。

そしてシンジは教室の後ろの出入り口まで足を進め、後ろを振り返る。

そのまま一気に加速し、そのベクトルをそのままに両足を前に向ける形でジャンプする。

言わずもがな有名なその足技の名前は、ドロップキックというものだ。

自分の席に付いていたトウジに、襲い掛かるシンジをかわす術は無く、そのまま盛大に両者は激突した。

周りの生徒数人を巻き込み倒れる両者のうちで、意識があったのは攻撃を仕掛けた側のシンジだけだった。

そして突如シンジは笑い出す。

悩まず、戸惑わず、ただひたすらに突き進め。

そのアドバイスは確かなもので、自分にも彼女から教えてもらった取っておきが出来た。

でもやたらと身体が痛い。

それはつまり忠告にあった通りに、椅子とか机とかに身体をぶつけたからだろう。

そうシンジは認識していた。

だが気分はハイだった。

何が可笑しいのか自分でも解らぬまま笑いがこみ上げ、

その衝動に身を任せ床に倒れたままただ哂った。

ピリリリ

突如鳴り響く通信音。

シンジの行動に唖然とするクラスの皆に関らず、

その電話の持ち主である綾波レイは自分に与えられた責務を淡々とこなす事にした。

 

「非常召集、先に行くわ」

 

哂っているシンジの側に立つと無表情にそう告げる。

そうか、白か。

イメージどおりだね。

寝転んだまま彼女を見上げそんな事を考えるシンジ。

そして吊った腕が邪魔なのか、走り難そうにレイは走り出す。

声をかけるぐらいなら、起こしてくれても良いのに。

やっぱり嫌われてるのかな…。

内心ため息を吐きながら起き上がるシンジ。

そしてシンジもまた、先行するレイの後を追うように走り出した。

第3東京都市全体に向け、使徒襲来の警報が鳴り響いたのは、その10分後の事だった

 

 

 

続く


あとがき

なにはともあれ、お疲れ様でした。

こんな長文、読むだけで疲れますよね?まあ、書いた方も疲れましたが。

ぶっちゃけ、長いだけで内容が無いこの9話。

次の方が、どう進めてくれるのか非常に楽しみであります。

次の方の素晴らしい話を期待しつつ、この辺で。

では。



ちょーど戦闘開始のところでバトンタッチとなりました。
ネクストランナー、犬です。

さて、さすがはくまさんです。
やや拡散気味だった話をうまいこと纏め、繋いでくださりました。
イネスが出向というカタチを取ったことでナデシコからネルフへのパイプが細いながらも成立。
孤立していたアキトとも連絡がつき、情勢が安定してきています。
次の使徒戦で武力面でもある種のバランスが形成されるのでしょうね。
……されるといいな。

シンジがイネスと接触し、当然のことながらエヴァ世界にはない人格に触れ、変化がみられるところもポイント。
こういう変化こそがクロスの醍醐味ですので、それを殺さずにいきたいと思います。


次が戦闘ってのがすごい困るんですが……。
がんばります。

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