「リリアナ様、これはチャンスです!」
「チャンスって……」
「太老様が部屋に引き籠もられて既に半日が経過します。ここで優しい一声でもお掛けして、太老様の疲れた心を癒して差し上げれば、太老様の気持ちはグッとリリアナ様に近付くことでしょう」

 カレンの一言は、今のリリアナにとって悪魔の囁きだった。
 祖父には『正木太老の愛人になれ』と言われてきたが、それらしい進展は何一つない。
 ここ最近ずっと何をやっているかと言えば、アリアンナとカレンにメイドのなんたるかを教わりながら、料理と家事に明け暮れる毎日だ。とはいえ、今の自分が贅沢を言える立場にないことくらい、リリアナも自覚していた。

 青銅黒十字の失態、祖父のしでかした責任を取るために、彼女はここにいるのだ。
 最悪、家も結社も潰されていたかもしれない。そのことを考えれば、今リリアナが置かれている環境は破格の待遇と言っていい。
 本来、奴隷のように扱われても文句を言えないのに、今まで太老から理不尽な命令をされたことは一度もない。
 それどころか、制服は支給。食事や住むところを与えられ、実のところ給金も出ている。休みだって、ちゃんとある。
 昨今のイタリアの経済状況は厳しい。消費の低迷、失業率も年々上昇し、職を失った若者達が街には溢れ返っている。これほど好条件の仕事は、街に出ても早々に見つからないのが現実だ。
 そう言う意味でも祖父の言葉抜きに、リリアナは太老に恩義を感じていた。
 そんな太老が心に傷を負い、部屋に引き籠もっている。ひょっとしたら、何か重い病気を患っているのかもしれない。そう思うとカレンの言うように、太老の力になりたいという気持ちがリリアナのなかに湧き起こる。

「それに――これはメイドの仕事でもあるのですよ!」
「メイドの仕事……」
「ご主人様の身の回りのお世話をすることばかりが、メイドの仕事ではありません。ご主人様の疲れを癒し、ご主人様のやる気を起こさせることも私達メイドの仕事。ご主人様の心のケアも、私達メイドに課せられた使命なのです!」

 カレンの迫力に気圧され、リリアナの喉がゴクリと鳴る。
 そうだ。カレンの言うことにも一理ある、とリリアナは考え始める。
 そんなリリアナの心が傾き始めたところで、カレンは最後の一押しに入った。

「俺が辛い時には、いつも君が傍にいてくれる。何かお礼をしなければいけないな」

 ――そう言って少女を抱きしめる青年。
 ――白い青年の指が、すっと少女の唇に優しく触れる。

「ああ、いけません、ご主人様。私は使用人……ご主人様とでは身分が違い過ぎます」
「なっ!」
「身分の差がなんだっていうんだ! 俺には君が必要なんだ」
「な、なななななっ!」

 カレンが芝居がかった口調で語ったそれは、最近リリアナが密かに書き進めているメイドと主人の身分違いの恋を題材とした恋愛小説の一節だった。
 顔を真っ赤にして後ずさるように狼狽えるリリアナ。
 どうして、それを!? と、言った驚愕の表情でカレンを見る。

「さあ、リリアナ様。覚悟を決めてください!」





異世界の伝道師外伝/新約・異界の魔王 第17話『太老の好み』
作者 193






 あれから、どれほど時間が過ぎただろうか?
 いつの間にか、自室のベッドで寝入ってしまっていた太老は、腹の虫に誘われるかのように目を覚ました。

「そういや、昨晩から何も食ってなかったっけ?」

 枕元の時計を確認すると、時計の針は朝の五時を指し示していた。
 昨日の昼過ぎから、半日以上、部屋に引き籠もっていたことになる。

「あ〜。随分と寝てたんだな」

 桜花の言葉がショックだったということもあるが、やはり疲れも溜まっていたのだろう。
 こちらの世界に来る前は、それこそ不眠不休で仕事に明け暮れる毎日だった。ここ数年まともに休みを取った記憶がない。しかも、こちらの世界にきてからというもの気の休まる日は一日としてなかった。
 色々とあり過ぎて、まとまった休みを取った記憶がない。
 自分でも気付かないうちに疲労が蓄積していたのだろう、と太老は思う。

「魔王らしく、か」

 そんな太老に悪魔の声が囁く。
 どうせ、何をしたところで怖がられるくらいなら、いっそ開き直ってしまえばいい。
 鬼姫なら、こういう時どうするか? きっと今の状況を面白可笑しく楽しむに決まっている。
 面倒な仕事に追われる必要もなく、厄介な後始末に奔走することもない。
 考えようによっては、自由を謳歌するチャンスと言うことだ。

「そうだ! もういっそ開き直ってしまおう! 俺は魔王だ! 俺がルールだ!」

 今まで抑え込んでいた感情を吐き出すように、太老はベッドの上で叫んだ。
 桜花に『瀬戸様みたい』と言わることで、一本タガが外れてしまったのだろう。
 どうせ、ここには鷲羽も鬼姫もいないのだ。何一つ、我慢する必要はない。
 予定通り、バカンスを満喫してやる――と太老は意気込む。

「なんか吹っ切れたら、腹が減ってきたな」

 腹の虫が再び鳴る。まずは腹ごしらえをするか、とベッドから起き上がる太老。
 そこで、ふと――不可解なシーツの膨らみに太老は気付いた。
 寝返りを打つように、もぞもぞと動くシーツの山に、太老の視線は釘付けになる。

「まさか……」

 嫌な予感がして、ゆっくりとシーツをはぎ取る太老。
 案の定そこには、一糸纏わぬ姿の銀色の少女が横たわっていた。

「あ、アテナ! どうしてここに!?」
「うみゅ……」

 目を擦りながら、ゆっくりと身体を起こすアテナ。
 光に反射して、キラキラと煌めく銀色の髪から、甘い少女の香りが漂う。

「……朝から騒々しいな。む? 目が覚めたのか、太老」
「目が覚めたのかじゃない。なんで、裸なんだよ!」
「妾は寝る時は、いつも裸だ」

 一瞬とはいえ、アテナの裸体に目を奪われた太老は、必死に自分に言い聞かせる。

 ――相手は女神とはいえ、見た目は幼女だ。
 ――俺はロリコンじゃない、ノーマルだ!

 と、何度も頭のなかで反芻する。
 紳士を自称する太老にとって、幼女に欲情するなど絶対にあってはならない禁忌だった。
 しかし一瞬とはいえ、太老がアテナの姿に目を奪われるのは無理もない。
 ただの人間、それも性欲盛んな年頃の若者であれば、その一瞬でアテナの虜となっているところだ。
 少女の姿をしているとはいえ、相手は人ではなく女神。その姿は人を魅了する。
 智慧と戦いの女神アテナ。人間にはない神秘めいた美しさを、少女は自然と身に備えていた。

「それより、なんで俺のベッドで寝てるんだよ!?」
「世話になっておるからな。これは、ささやかな礼だ」

 少女特有の愛らしさすら感じるアテナの笑みに、太老の胸は激しく波打つ。
 太老とて男だ。この状況で裸のアテナに迫られて、何も感じないわけがない。
 しかし必死に耐える。ここで一線を越えてしまえば、犯罪者の烙印を押されて終わりだ。

「その知識、どこから仕入れた?」
「桜花に『いんたーねっと』と言うのを教えてもらってな。人間の知識もバカに出来ぬと感心した」

 心のなかで、桜花にツッコミを入れることを忘れない太老。この危機的状況を招いた少女に、恨み言の一つも言いたくなる。
 最近、姿を見ないから何をしているのかと気にはなっていたが、まさかインターネットを活用するまで現代文化に馴染んでいるとは、さしもの太老も思ってはいなかった。

「確か、あなたの業界ではこれを『ご褒美』と言うのだろう?」

 ――どこの業界だ! と思わず心のなかでツッコミを入れる太老。
 何とも偏ったアテナの知識に、太老は頭を抱える。

「ふむ。これでは不満か。ならば――」
「ちょっと待て、何をするつもりだ?」

 太老に身体を擦り寄せるアテナ。息が触れるほど近くに、互いの顔が迫る。

「それは勿論、朝の奉――」
「やめいっ!」

 太老がアテナにツッコミをいれた、その時だった。
 ドアの方から物音が聞こえ、太老とアテナは一斉に音のした方へ振り向く。
 部屋の入り口、そこにはリリアナが呆然とした表情で佇んでいた。

「ご、ご主人様……その……私は……」
「まて、リリアナ。お前は何かを誤解している!」

 これはまずいと思った太老は、リリアナの誤解を解こうと慌てて言葉を取り繕う。

「これは違うんだ。別に疚しいことをしていたわけじゃなくてだな」

 そう、相手は子供(アテナ)だ。別に疚しいことをしていたわけじゃない。
 ちゃんと説明すればわかってもらえるはず。
 リリアナの誤解を解こうと、太老が身体を前に乗り出した、その時だった。

「あらあら、これは――」

 タイミングを見計らったかのように、リリアナの背後からカレンが顔を出す。
 口元をにやけさせ、探るような視線で太老とアテナを交互に見るカレン。
 まさかの増援。これは絶体絶命かと太老が顔を青くした――その時。

「リリアナ様。これはチャンスですよ」
「え……チャンス?」

 カレンの言葉の意味がわからず、リリアナは思わず聞き返す。

「前々から気になっていたのです。エリカ様のように魅力的な女性が近くにいながら、健康な若者であるはずの太老様が、どうしてエリカ様に手をださないのか、と」

 言われてみれば確かにその通りだと、リリアナはカレンの言葉に相槌を打つ。
 エリカが魅力的な女性かどうかはともかく、彼女が男受けすることはリリアナも承知している。

「噂によればルクレチア・ゾラ様の誘惑にすら、なびく様子がなかったとの話。心配していたのですよ。もしや、太老様は男色の毛があるのではないか、と」
「おい……」

 とんでもない勘違いだ。太老の口から思わずドスの利いた声が漏れる。

「ですが、それは間違いでした。エリカ様に心を奪われない、そのわけ! それは――」

 胸を張り、自信たっぷりにカレンは宣言した。

「太老様は、貧乳派だったのですね!」
「ちょっと、まてえええっ!」


   ◆


「リリィ、何か悪い物でも食べたの?」

 朝の食卓でリリアナの給仕を受けながら、エリカはそんな質問をした。
 いつもはエリカが何かを頼むと、必ず一度は突っかかってくるリリアナが、今日に限って何も言わない。それどころか、食後に頼んでもいない紅茶とお茶菓子が出て来るくらいだ。エリカが不審に思うのも無理はない話だった。
 そんなエリカの質問に、リリアナは何か勝ち誇った様子で、うっすらと微笑みを浮かべる。

「貴様の皮肉も今の私には通用せん。そうして余裕ぶっていられるのも今のうちだ」
「それは……どう言う意味かしら?」
「何も知らぬとは哀れだな。幼馴染みのよしみだ。どうしても、と言うのなら教えてやらんこともないぞ?」

 強気なリリアナの物言いに、ピクピクとエリカの眉間に青筋が浮かぶ。
 しかし、ここで怒っては相手のペースに呑まれるだけだ。今日のリリアナはどこか違う。

「そう……なら無知な私に、ご教授願えるかしら?」
「まあ、頭を下げて頼むのなら仕方がないな」

 特にエリカは頭など下げてはいないのだが、既に勝利を確信しているリリアナにとって、それは大した問題ではなかった。
 話は今朝に遡る。
 太老とアテナの関係に、少なからずショックを受けたリリアナだったが、そこは王のすることだ。英雄色を好むとも言うし、魔王であるなら当然とも言える。相手が、あのアテナということで驚きもしたが、女神すら籠絡せしめた王の器に感服すべきだと、カレンも言っていた。

 ――そうした男のだらしないところを許すのも女の器量だ、と。

 それに、問題はそこではない。
 太老の女性の好みが判明したのは、リリアナにとって一番の収穫だった。
 ましてや、太老の趣味がはっきりしたことで、最大のライバルと思っていたエリカより、自分の方が優位に立っていることが明らかになったのだ。
 それは――

「なら、心して聞くがいい。ご主人様は実は貧にゅ――」

 次の瞬間。エリカの前を、一陣の風が通り過ぎた。
 余りに一瞬のこととで一時放心し、遅れてエリカはリリアナの姿を捜す。

「リリィ!?」

 しかし周囲を見渡せど、どこにもリリアナの姿は見当たらなかった。


   ◆


「危なかった……。リリアナには口止めしといたけど、今後は気を付けないと」

 アテナには二度としないように注意した。カレンも買収したので問題はないはずだ。
 もう少しでリリアナの口から今朝のことがエリカにばれそうになったが、そこは上手く切り抜けたはず――
 と、太老はリリアナとのやり取りを振り返る。

『リリアナ。今朝のことは二人だけの秘密だ』
『二人だけの……秘密ですか?』
『そうだ。絶対に誰にも話してはいけない。その代わり、俺に出来ることなら何でも一つ、願いを叶えてやる』
『二人だけの秘密……なんでも願いを……』

 後になって、とんでもない約束をしてしまった気がしなくもないが、リリアナなら無茶な願いはしないだろうと太老は甘く見ていた。


   ◆


 リリアナと別れた太老は、船内に設けられた工房に向かっていた。
 アレクから持ち掛けられた話、そして今朝のやり取りから、ふとしたことを思い出したからだ。

「見つかるといいんだけどな」

 アテナが探していると言った『蛇』が、零式の集めていた骨董品のなかに紛れているのではないかと太老は考えた。
 エリカの見立てでは呪われた危険な物も多いという話だったので、念のため、そうした呪具や神具は工房の奥に隔離してある。

「お兄ちゃん!」
「おはようございます。太老様」
「ん、桜花ちゃん……と、アリス?」

 工房に向かう途中、太老は珍しい組み合わせの二人と出会う。桜花とアリスだ。
 アリスは昨日と変わらずメイド服だが、桜花の着ている服に太老は見覚えがあった。
 淡い桃色のシャツにチェックのスカート。それは以前、ミラノで購入した洋服だった。

「それ、この間、買った服だよな」
「あ、うん。どうかな?」
「よく似合ってる。可愛いと思うぞ」

 太老の一言で、桜花の顔に大輪の花が咲く。
 服に気付いてもらえたこともそうだが、太老に『可愛い』と言ってもらえたことが、桜花にとって何より嬉しかった。
 そんな太老と桜花のやり取りを、アリスも優しげな笑みで見守る。しかし、そんな微笑ましいやり取りも長くは続かなかった。
 先程までの笑顔とは対象的に、桜花の表情に影が差す。

「昨日はごめんなさい。お兄ちゃんの気にしてること言っちゃって……」

 昨日のことを、桜花はずっと気にしていたのだ。
 今も、アリスと一緒に太老の部屋に謝りに行く途中だった。

「ああ、もう気にしてないよ。俺こそ、ごめんな。心配を掛けちゃったみたいで」

 桜花に先に謝られると思っていなかったのか、太老は戸惑いながら自分も頭を下げる。
 結局、似た者同士の二人。太老も昨日のことは気になっていたのだ。互いに心配していることは同じだった。
 二人が握手を交し、仲直りしたのを確認したところで、アリスが二人の間に割って入った。

「ところで太老様。お急ぎのようでしたが、どちらへ?」
「ん、ああ。アレクが零式の集めた骨董品を欲しがってただろう? あのなかにアテナの探してる物も紛れてるんじゃないかと思って」
「なるほど……」

 太老の話に納得しながら一度頷くも、アリスは次の瞬間、目を輝かせ――

「それは是非、私もご一緒させてください!」

 身を乗り出し、太老にそう言った。

「別にいいけど、なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
「あの『青い悪魔』のコレクションですもの。気にならないはずがありません」
「そういうものか?」
「そういうものです」

 太老からすればガラクタの山にしか見えない物も、アリスからすれば違っていた。
 世界各地の結社が秘蔵する名の通った呪具・神具のコレクションだ。オカルト研究の総本山とも呼ばれる賢人議会に所属する魔術師からすれば、どれも喉から手が出るほど気になる一品。金銭的な価値など付けられない物ばかりだ。
 こう見えても、アリスは高位の魔女。やんごとなき身分の令嬢でありながら、好奇心と趣味が高じて魔術の世界に足を踏み入れ、遂には魔女の叡智の一つ『天の位』を極めてしまった、やんちゃ姫。それが彼女だ。
 未知への探究心。好奇心こそ、彼女の原動力。行動力だけならカンピオーネを凌ぐ。
 珍しい物が見られるかもしれないと思うと、アリスの心が躍らないはずがなかった。

「桜花ちゃんはどうする?」
「わ、私は遠慮したい……かな?」

 引き攣った表情で、珍しく太老の誘いを断る桜花。
 哲学士の工房と言うのは宝の山であると同時に、危険な物もたくさん眠っている。
 以前、太老の工房に無断で足を踏み入れて酷い目に遭ったことのある桜花は、哲学士の工房に苦手意識を持っていた。

「アリスお姉ちゃん……無事に帰ってきてね」
「え……?」

 それは経験者故の忠告だった。





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