「隣に座っても、構わないだろうか?」

 海を一望できる高台で月見酒と洒落込んでいたリィンに声を掛け、グリゼルダは隣に腰掛ける。

「……呆れたな。そんなものまで隠し持っていたのか」

 リィンたちが用意周到なことは理解していた。
 この状況で島に食糧や調味料だけでなく、テントや調理道具まで持ち込んでいるのだから――
 実際、その恩恵を『料理』というカタチでグリゼルダも味わっていたのだ。
 今更、酒が出て来たところで驚きはしないが、リィンが持っていると知れば「分けてくれ」と言う者も出て来るだろう。
 なければ諦めもつくが、あるとわかれば我慢しにくいのが人間だ。
 この集落にはそういう人間はいないと思いたいが、余計な火種にならないかとグリゼルダが心配するのは無理もなかった。

「さすがに無人島じゃ、この手の趣向品は貴重だろうからな」

 そんなグリゼルダの心配を知ってか知らずか、「黙っていてくれ」と酒を勧めるリィン。
 口止め料と受け取ったグリゼルダは溜め息を溢しつつ、リィンが先程まで口にしていた小さなカップを受け取る。
 しかし――

(これは噂に聞く間接キス≠ニいう奴では……)

 カップに口をつけようとしたところで、そのことに気付く。
 妙なところで知識に偏りがあり、世間知らずなところはグリゼルダも例に漏れずお姫様≠セった。
 そもそも、こんな風に男と二人きりで酒を酌み交わした経験は彼女の人生で一度もなかった。

「……飲まないのか?」
「い、いや……香りを愉しんでいただけだ。ありがたく頂戴する」

 リィンに訝しげな視線を向けられ、考えを悟られまいと誤魔化すように酒を呷るグリゼルダ。
 一気にカップの中身を飲み干す。だが、それがいけなかった。

「まさか、間接キスとか気にしてるわけじゃないよな?」

 冗談ぽく話を振り、無意識に核心を突くリィン。
 しかし、グリゼルダは俯いたまま何も答えない。

「まあ、そのくらいで狼狽えたりはしないか。経験の一つや二つ――」
「……ない」
「は?」
「ないと言ってるんだ! 私は処女だ! キスの経験すらない!?」

 ――文句があるのか?
 と、涙目でリィンを睨み付けるグリゼルダ。

「……お前、歳いくつだ?」
「女性に年齢を聞くのはマナー違反であろう」

 眼力だけで人を殺せそうな瞳で睨み付けられ、リィンはそれ以上の追求を止める。
 余談ではあるが、グリゼルダは今年で三十二になる。
 勿論、結婚もしていなければ、これまでに恋人がいた経験もない。
 ロムン帝国の皇女に間違いはないが特殊な立場にいることもあって、そうしたことから無縁の生活を送ってきたのだ。

「酔ってるのか?」
「……酔ってなどいない」

 いや、酔ってるだろうとリィンは溜め息を溢す。
 アルコール度数七十五パーセント≠烽るラム酒を一気に呷ったのだ。
 余り酒に強くなければ、例え一杯しか飲んでいないとしても酔っ払って不思議ではない。
 明らかに酔いが回っている様子で身体をふらつかせるグリゼルダを見て、リィンは溜め息を吐くと、

「な、何を……!?」
「酒を勧めたのは俺の責任だからな。そのまま寝てしまってもいいから、少し身体を休めろ」

 自分が着ていたジャケットを彼女に羽織らせ、肩を抱き寄せた。
 戦場では、ゆっくりと横になって休める機会が少ない。そのため、互いの体温で暖が取れるし、リィンはフィーとこうして身体を寄せ合い眠ることがよくあった。
 本気で嫌ならグリゼルダも拒んだだろう。しかし不思議とリィンをはね除ける気にはならなかった。
 それどころか、ずっとこうしていたいと思えるほど心地の良い温もりに包まれ、自然と瞼が閉じる。

(本当に……不思議な男だ)

 正体を知っても気後れするどころか、こんな風に扱われたのはグリゼルダも初めてのことだった。
 国や身分など、リィンにとっては本当に些末なことなのだろうとグリゼルダは思う。
 最初は信じられなかった。しかしベルが以前言っていたように、リィンは国を脅威に感じていないのかもしれない。
 彼等はどこから来たのだろう? どうやって、それほどの力を手に入れるに至ったのだろう?
 もっと彼等のことを――リィンをよく知りたいと、グリゼルダは思うようになっていた。

 それから、どのくらいそうしていただろうか?

 冷たい潮風が熱を帯びた頬に心地よく感じる。
 酔いが覚めてきたところで、先に沈黙を破ったのはグリゼルダだった。

「……皆とは、どの程度で合流できると思う?」

 何か話したいことがあるのだとは察していたが、そのことかとリィンは納得する。
 現在シャーリィはパーティーを離れ、野営地で待つベルたちを迎えに行っていた。
 そのことは夕食の席でグリゼルダにも伝えてあったのだ。

「早くて明後日の昼過ぎ。遅くとも三日と言ったところか」

 保護している漂流者のなかには子供もいる。彼等の足に合わせるとなると、そんなもんだろうとリィンは予想を口にする。
 一応、確認を取りはしたが、グリゼルダも大体そんなものだろうと当たりを付けていたのだろう。
 大凡の日程を知りたかったのは、受け入れの細かな調整のためだとリィンは考える。
 体面上はグリゼルダに雇われているという扱いになっているため、集落との交渉はすべて彼女を通していた。
 名無しの件を抜きにしても、警戒されていることに変わりはない。なら、グリゼルダに任せた方が軋轢が少ないとの考えもあったからだ。

「リィン。もう一つ、聞いておきたいことがある」
「……なんだ?」
「シャーリィを何故、こんなにも急いで行かせたのだ?」

 迎えをやるにしても、これほど急ぐ必要はなかったのではないかとグリゼルダは尋ねる。
 出発は明日の朝でも、集落で一晩身体を休めてからでもよかったはずだ。
 シャーリィが幾ら強いとは言っても、日が暮れてから送り出すのは幾らなんでも危険が過ぎる。
 そのことは、これまで夜の探索を控えてきたリィンが一番よくわかっていると思っていた。
 なのに、そうした。そこにグリゼルダは疑問を持ったのだ。

「〈名無し〉か?」

 リィンたちの様子がおかしいと最初に感じたのは、集落の人々が開いてくれた夕食の席だった。
 だとすれば、バルバロス船長との会談の後に何かあったのだとグリゼルダは推察する。
 考えられる可能性。それはリィンたちが〈名無し〉の正体に辿り着いたのではないかと言うことだ。
 最初は沈黙を守っていたリィンも、グリゼルダの追及に誤魔化しきれないと悟ったのか、事情を説明する。

「そうだ。あのままだとシャーリィが暴走しそうだったんでな」
「やはり、そういうことか……」

 シャーリィをそのまま集落に残していれば、その日のうちに〈名無し〉に仕掛けていた可能性が高い。
 それを防ぐためにリィンは、渋るシャーリィをベルたちの迎えに行かせたのだと説明する。
 だがリィンの様子から、恐らく理由はそれだけではないとグリゼルダは考える。
 名無しは確かに危険な存在だが、異形の獣をものともしない実力を持つリィンたちが脅威に感じるほどの相手には思えなかったからだ。
 慎重に事を進めようとしている理由は別にあると考えたグリゼルダは、そのことをリィンに尋ねる。

「集落との軋轢を気にして、アドルたちに配慮したのだな。だから待つことにした」

 夕食の席でリィンたちをアドルとエアランが随分と気にしていたことにも、これなら説明が付くとグリゼルダは考えた。
 恐らく彼等もリィンたちが〈名無し〉の正体に辿り着いた可能性に気付いたのだろう。
 いや、リィンなら悟らせないようにすることも出来たはず。そうすると彼等が気付くように態とそのような態度を取ったと考える方が自然だ。
 特にエアランの場合、リィンが犯人でないことには納得していたようだが、最後まで警戒は解いていなかった。
 しかし、それも仕方がないとグリゼルダは思う。彼等が怪しいことは付き合いのある彼女が一番よくわかっているからだ。
 だからセルセタの総督であることを打ち明け、普段ならしないような真似をしてまでエアランを黙らせたのだ。

「アドルたちが始末をつけられるなら、それに越したことはない。だが、期限は明日までだ」

 後顧の憂いを無くすためにも〈名無し〉はここで始末≠オておくべきだとリィンは考えている。しかし何がなんでも自分でやりたいと言う訳ではない。アドルやエアランが対処できるなら、それもありだろう。だから待つことにしたのだ。
 グリゼルダの言うように証拠もなしに犯人を斬りつけて、集落との間に余計な軋轢を招くリスクを避けたかったからだ。ましてや、その〈名無し〉と思しき人物は集落の人々から慕われ、ドギやバルバロス船長のように頼りにされている一人だった。リィンが〈名無し〉の正体を告げたところで信用されるかどうかは怪しい。下手に自分たちが動くと問題が悪化するばかりか、逆に悪者にされかねない。だから彼等に犯人を突き止めさせることにしたのだ。
 しかし〈名無し〉も正体を察せられたことには気付いているはずだ。正体に気付かれたからと言って、大人しく観念して捕まるような奴には見えなかった。自暴自棄になるタイプでもなさそうだったが、最悪の可能性もある。だからリィンは〈名無し〉の注意が自分に向くように手を打った≠フだ。
 勘が正しければ〈名無し〉は間違いなく誘いに乗ってくる。それが明日と言う訳だ。
 獲物を横取りするようで少し気が引けるが、それでもそれ以上は待てないというのがリィンのだした答えだった。
 ここで時間を与えれば、次の犠牲者がでる可能性が高いと考えたからだ。

「不器用だな。貴殿は……」

 具体的にリィンが何を企んでいるのかまでは分からなかったが、そのやり方が酷く不器用に見えてグリゼルダはそう口にする。
 しかし、

「否定はしない。だが、それはお互い様≠セろ?」

 リィンはグリゼルダに『お互い様』だと返す。リィンたちと結んでいる契約の内容について、グリゼルダはバルバロス船長たちに何も話さなかった。
 所詮は口約束だ。漂流者の捜索と保護だけが目的なら、ここでリィンたちと手を切ってアドルたちと合流することも出来たはずなのにだ。
 なのに、そうしなかった。むしろリィンたちの雇い主と認識されたことで、グリゼルダも少なからず警戒される状況になっていた。
 リィンと交わした約束を律儀に守ろうとしたのだろう。シャーリィに命を助けられた恩を未だに感じているのかもしれない。
 それにしたって不器用すぎるとリィンは少し呆れていた。
 だが、悪い気はしない。少なくとも最初に出会った頃よりは、リィンはグリゼルダのことを信用できる相手だと思っていた。

「そうか、我々は似た者同士なのだな」

 そう言って嬉しそうに笑うグリゼルダ。
 そして温もりを確かめるようにギュッとジャケットを引き寄せた、その時。
 何か硬い物が内ポケットに入っていることにグリゼルダは気付いた。

(……これは?)

 ポケットに手を入れると、銀色の手帳のようなものが出て来た。
 見たこともない淡い光≠放つ道具に首を傾げ、グリゼルダはリィンに尋ねる。

「リィン、この道具は一体?」
「ああ、それは……オーブメント≠セ」
「オーブメント?」
「様々な機能を付与された便利な道具と思ってくれればいい。これは個人ごとに調整されてるから他人の奴は使えないがな」

 どう説明したものかと考えたリィンは言葉を濁しつつ、そう答える。
 導力と呼ばれる力で動く機械のことを『導力器(オーブメント)』とリィンたちの世界では呼んでいる。
 そのなかでも戦闘目的に開発された『戦術オーブメント』と呼ばれるものが、いまグリゼルダが手にしているものだった。
 グリゼルダから戦術オーブメントを受け取ると、リィンは草の上に寝転がった。
 まだ何かを隠していると気付きつつも、それ以上は何も聞かずにグリゼルダもリィンを真似て横になる。

(……こんなにも、この島の空は美しかったのだな)

 そんな彼女の目に飛び込んできたのは、夜空を覆い尽くす星の海だった。
 リィンと出会って一週間。セイレン島に流れ着いてからは、もう二十日以上が経過している。
 なのに、こんなにも綺麗な星空があるということを、グリゼルダは今日まで知ることがなかった。
 強がってはいても、思っていた以上に余裕がなかったのだと気付かされる。
 こんな風に星空をゆっくりと眺めるのは、いつ以来だろうとそんなことを考えるいると、

「リィ……ン?」

 隣で寝息を立てるリィンに気付き、グリゼルダは目を丸くする。
 だが、気付かされる。自分はずっと彼に助けられ、守られていたのだと。
 リィンと出会ってから一週間。彼がまともに睡眠を取っているところをグリゼルダは見たことがなかったからだ。
 クイナには大丈夫だと言ってはいたが、身体は正直だ。本人が思っている以上に疲労が溜まっていたのだろう。
 そして今回のこと――〈名無し〉の件もリィンが何も話そうとしないのは、自分たちに理由があるとグリゼルダは考えた。

「もう少し頼ってくれても良いのだがな」

 そう言ってリィンに寄り添うと、ゆっくりとグリゼルダも瞼を閉じるのだった。


  ◆


「リィンさんは『プリンセスキラー』なんです!」

 突然なにを言いだすんだと言った顔で、アルフィンを見るエリゼ。

「……姫様、頭でも打ちましたか? いえ、頭がおかしいのは昔からでしたね」
「エリゼ。最近、わたくしの扱いが以前にも増して酷くなっていませんか?」
「ミュラー中佐から、とてもためになるアドバイスを頂いていますので」
「オリヴァルト兄様!?」

 ミュラーからアドバイスを貰っているとエリゼから聞き、ここにはいない兄の名前を叫ぶアルフィン。
 エリゼにアドバイスを送った本人ではなく、オリヴァルトの名前を叫ぶあたりがアルフィンらしいと言えるだろう。
 自覚はあると言うことだ。その証拠に次の瞬間にはケロリとした顔で、話の続きに入る。

「話を戻しますが、リィンさんは『プリンセスキラー』なんです」
「もう、それは聞きました。何を仰りたいのですか?」
「わたくしたちだけでなく、リィンさんがクローゼからも密かに好意を寄せられているのは知っていますね?」
「ええ、まあ……」
「それだけではありません。ラインフォルト社の御令嬢であるアリサさんや、更にはオーレリア将軍やラウラさんからも!」

 クローゼというのは、リベールの王太女クローディア・フォン・アウスレーゼのことだ。
 アルフィンを通してエリゼも彼女とは親交があり、現在は愛称で呼び合う仲にまでなっていた。
 そしてラインフォルトのお嬢様であるアリサは今更説明するまでもなく、『黄金の羅刹』の異名を持つ貴族派の英雄オーレリア・ルグィンも世が世なら伯爵家の姫様と呼べなくもない。ラウラも下級貴族の娘ではあるが、父親はあの『光の剣匠』だ。道場の門下生からは『お嬢様』や『姫様』と呼ばれており、アルフィンの言っていることは的外れではなかった。
 そして――

「更にはあの子≠フことです!」

 アルフィンが何を言いたのかを察して、エリゼは深い溜め息を吐く。
 あの子――それが先日話題にでたミルディーヌのことを言っているのは明らかだったからだ。
 恐らく立場的にはアルフィンに次ぐ、本物のお姫様≠ニ言えるのが彼女だ。

「ですが、まだ彼女が兄様のことを好きになると決まったわけじゃ……」

 ミルディーヌがリィンのことを気にしているのは確かだ。
 しかし、あの手紙だけで彼女がリィンを好きになると決めつけるのは早すぎる。
 どちらかと言えば、自分たちが好意を寄せる男性だから興味を持ったという線が濃いとエリゼは考えていた。

「甘い、大甘ですわ! リィンさんは意地悪です。性格が捻くれてます。そこは同意できますわね?」
「ええ、まあ……」
「更には女子供であっても容赦がなく、平然とした顔で相手の弱味を突いてくるサディストです」

 それは言い過ぎでは? と思いながらもエリゼはアルフィンの言葉を否定できなかった。
 その一番の被害者であるエリィのことをよく知っているからだ。
 さぼり癖のあるアルフィンの代わりに、エリゼはエリィの相談に乗ることが多くなっていた。

「対して、あの子もそんなところがあります。人をからかうことが好きな子ですから」

 確かに……と、アルフィンの話に一定の説得力があることを認めるエリゼ。
 ミルディーヌという女性は礼儀正しく悠然とした物腰で、女学院の模範となる理想のお嬢様と言った感じなのだが悪い癖≠ェあった。
 人の弱味を探すことが好きで、気に入った相手はからかわずにはいられない。少しサディストなところがあるのだ。
 その点は確かにリィンに似ていると言えなくもなかった。

「ですが、あの子は人をからかうことは得意でも、自分が弄られることには慣れていませんから……」

 そう言われると確かにその通りかもしれないと、エリゼは段々と心配になってくる。

「そうして相手が弱ったところに優しく声を掛けて落とすのが、リィンさんのいつもの手口ですから油断は禁物なのですわ!」

 この場にリィンがいれば、酷い言い掛かりだと反論したことだろう。
 しかし心当たりのあるエリゼは、すっかりアルフィンの言葉に懐柔されていた。
 貴族や皇族の淑女は、異性から優しい言葉を掛けられることに慣れてはいても、その逆に対しては耐性が薄い。
 リィンはそうした心の隙を平然と突いてくる。時には言葉で、時には力で屈服させるのが彼のやり方だ。
 ミルディーヌがリィンに仕掛けた場合、本人にその気はなくとも十分に応戦する可能性は高いと考えられた。
 そうなったらアルフィンの心配するような結果に陥る可能性はゼロとは言えない。いや、かなり高いように思えてくる。

「それに、もう既に新たな犠牲者がでている可能性も……」
「まさか、兄様でもそこまでは……」
「わかりませんわよ? 異世界の貴族や皇族を既に籠絡している可能性は十分に考えられますもの」

 ありえないと断言できないあたりが恐ろしい、とエリゼは戦慄する。
 フィーがこの場にいたら「二人とも良い勘してる」と拍手を送ったことだろう。
 信頼されていることは間違いない。しかしこの一点に関しては、まったく信用のないリィンだった。



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