五十年間の旅の中で、私とアイドスは多くの魔物と戦ってきた。
 そもそもあの旅の理由は、魔神として生き抜くための力を手に入れることだったのだから必然だろう。
 無論、人間と戦ったことが一度もないわけではない。

 手にかけたのは、本気で魔神である私を殺しにきた者。
 化生へと堕ち、理性を無くした者。
 悪行を働き討伐依頼が出ているといった一部の人間。
 必要だと判断した場合を除き、極力殺さないようにするのが常だった。

 なぜなら神剣アイドス・グノーシスは慈悲の刃。
 無益な殺生をすれば、容易く穢れてしまう。

 それだけでなく――アイドスが心を痛める姿を、私は見たくないとそう思ったからだ。

 そんな旅の中で、邪神オディオを滅する術が見つかれば僥倖。
 もう一つの旅の理由。
 私がこの世界で生きる意味を見つけることについては、セリカの言葉もあったのだろうが、焦燥を感じることは全くなかった。
 一番の理由は、アイドスといれば必ず見つかる。
 そんな根拠のない安心感とでもいうべきものが、私の中にあったからのように思う。





 華鏡の畔を発って、アイドスの長々とした説教を聞き流しながら飛ぶこと数刻。
 想定外の光景を見ることになった。

 寒空の下、ケレース地方上空を飛ぶ私の視界に入り込んだ、森の中の湖畔に浮かぶ美しい都市。
 ケレース地方にあってその清らかさは他に類を見ない。
 だから一目見て、そこがいつだったか水の巫女が話していたエルフの国だと理解した。

「アイドス……私の感覚が間違いでなければ、トライスメイルの結界が破壊されているようなのだが」
『ええ……この魔力は、一角公のものね。
 何か異質な魔力も感じるし、魔物の封じでも解いて手に負えずに逃げ帰ったのかしら、これは。
 やっぱり考えなしのアホの娘だったようね』
「私もアムドシアスの結界を破壊していたらしいが?」
『アホの娘の結界なんて壊していいの。
 あのね、自信過剰な魔神に力の差を教えてやることは慈悲なのよ?』
「そうなのか?」
『そうなの。だいたいあんな魔力の痕跡を残した結界、壊してくださいといっているようなもの。
 結界というのは、強力無比なのは次善。それと分からないように張ってあるのが最善。
 存在を秘匿するためのものなのに、逆に目立ってどうするの。
 美だの芸術だの言っていたけど、お粗末が過ぎるというものよ。そもそも結界魔術はね――』
「お前は、一角公に思うところでもあるのか?」
『いいえ別に。遥か昔、ケレース地方を旅していたら、美しいだの我の侍従になれだの。
 散々付き纏って五月蠅くした挙句、その数年後に会ったら本人は全て忘れていた、なんてことはないわ。
 もちろん、別に何もなかったのだから恨みなんて持ってるわけないじゃない……ふふふ』
「そうか」

 ここ数十年の間に、快活さが増してきた女神の言葉を聞きながら、意識を再びトライスメイルの湖畔に向ける。
 やがて、次第にその数を減らしていっている異質な気配の中に、四つの大きな異なる魔力を感じ取った。
 一つは、倒せないことはないが、少々骨が折れるだろうという魔神の気配。
 一つは魔神や神格者ほどではないにしても、遥か離れた上空にいて尚、感じ取れるほどの魔力の保有者。
 その魔力の質から連想されるのは生い茂る草木。
 おそらくこの気配の持ち主が、水の巫女が情報のやり取りをしているといっていた賢婦。
 トライスメイルに君臨するルーンエルフの王で間違いないだろう。
 そして一つは、

『……ルシファー、この魔力は』

 漸く私の視線の先に気付いたのか、アイドスも意識を私と同じ方角に向けたようだ。

「ああ、私が知る限りセリカのものだが……いや、行ってみればわかることか」
『でも、エルフは“干渉せず、干渉されず”の言葉通り、他の種族との交流を持たないけど』
「別にエルフに会いにいくわけではない。それに……」

 最後の四つ目の魔力。
 セリカのもの同様、以前どこかで感じたことがある気がする。

「何か嫌な予感がするからな」





 ガラスに罅が入ったような音が耳に届く。

 そこにたどり着くまでに、何箇所か何かの封印が破壊された場所を見つけた。
 だが、目の前の広場のソレは明らかに質が違う。

 封じの中にいる魔物は、外の気配を感じ取っているのかもしれない。
 激しく暴れ、そこから抜け出そうともがいている。

 パキッ、とまた結界に罅が入った。
 もはや、あの魔神と思われる存在の体が外気に触れるのは時間の問題だろう。

 翼を消さずに地面に降り立つ。
 そこで両手を封じに当てて、必死に抑え込もうとしている女性を視界に捉えた。

 美しい緑の長髪に、決して派手ではないエルフ族独特の白の衣を着ている。
 こちらの気配には気付いているだろうに、そんな余裕はないのか振り向くことはない。
 後ろ姿から感じ取れるのは、そう、無理に言葉にするなら神聖さ。
 間違いなく彼女がエルフの王――白銀公。
 トライスメイルの王を名乗るだけあり、水の巫女と同種の、何かヒトを惹きつけるものを感じた。

 そして――その隣に腰に手を当てて悠然と立っている、踊り子のような衣装を着た赤い髪の女。

「……懐かしい魔力を感じたと思えば御主だったか。
 だが、今は御主の相手をしている場合ではなくての」

 相変わらずの大胆不敵な態度。
 姿と声は変わっていても、それだけは決して変わらない。

「分かっている。それで――白銀公とは共闘できそうなのか?」

 私の言葉にハイシェラは目を剥き、次の瞬間には笑みを浮かべて白銀公に顔を向けていた。

「その翼……貴方が、水の巫女の言っていた“黒翼”魔神ルシファーですか。
 長い歴史の中でエルフが魔神二柱と共闘したことなど、今までにないでしょうね」
「前例がないならお前が先達になればいい。
 頑迷であることは美徳ではない。
 少なくとも水の巫女は、自国の利益になるならばという条件付きだが、もっと寛容だった」
「耳有る者、心有る者、精魂に刻みし誓いに応諾し、冥きに至る力を以て垣を越えよ。
 冥き途の番人の言葉を聞いたのですから、従わないわけにはまいりません」
「御主ら話は後にしろ。他にも御主の知らぬものがいるであろうが、それもこ奴を滅してからだの」

 長槍を持った幽体の少女。
 腕から先が羽になっている鳥人族の少女。
 それから守護妖精だろうか。
 おそらくは全員ハイシェラの使い魔なのだろう。

 ふとその中の、連接剣を構える生真面目そうなナーガ族の女性が気になった。
 彼女とは以前どこかで会った気がする。
 あるいはセリカと最初に会ったときに、すでに使い魔になっていたのか。
 だとすれば先ほどの、四つ目の魔力は彼女か?
 だが今は、

「それもそうだ」
「ふふん、あれから五十年。どれだけ強くなったか見させてもらおうかの!」

 封じの罅が遂に全体に達し、後一度の衝撃で砕けるのは間違いない。
 それにしても――アムドシアスの言葉は正しかったようだ。
 しかし神殺しは確かにハイシェラだったが、まさか共闘することになるとはな。

「アイドス……」
『行きましょう!』

 瞬間、魔神を封じていた結界が砕け散った。





 トライスメイルの湖畔にその姿を現したモノ。
 太い根で出来た足。
 幾重もの蔦が合わさって出来た腕。
 人間を遥かに上回る巨躯。

 朽ちて猶、魔神にふさわしい魔力を有した醜悪な化生。
 ……巨木の化け物、魔神バーティガヌ。

 白銀公が告げたやつの名は私の知るところではなかった。
 だが、長年この地にいるだけあって、ハイシェラにとってはいつか誰かが封じを破壊するだろうと思っていた相手らしい。

「白銀公、私はハイシェラたちの魔術に合わせて接近する。お前は援護を頼めるか?」
「是非もありません。必要であれば、そうしましょう」

 覚醒領域の付術、聖賢領域の付術と続けざまに唱え、石畳を蹴って空に舞い上がる。
 槍の少女とナーガ族の女性が牽制のために氷と炎の魔術を放ったのを認識する。
 私は襲いかかる蔓を避け、時に斬り落とし、その眼前に向かって飛んだ。
 途中回避しきれなかった蔓は、白銀公の放つ矢と、

「耐えられるかの!」

 女神の肉体を得た魔神ハイシェラの、以前に比べて遥かに威力の上がった純粋魔力攻撃によって殲滅されていく。

 ――だが、そこで違和感を覚えた。

 炎や氷、雷の属性を帯びた白銀の君の攻撃は効いているようだ。
 しかし私の斬撃やハイシェラの純粋魔力の攻撃は、すぐに再生が始まりほとんど効果がないように見える。

『……反万能の属性を帯びているのね、この魔神は』
「今までにはなかった類の敵というわけか」

 ハイシェラやその使い魔たち。
 白銀公もそのことに気付いたようで、しかし誰の表情にも焦りはない。
 この程度のことは予測済みといったところ。
 第一、属性を持った魔術で攻撃すればいいだけなのだから、何も問題はないのだ。

「小賢しい。ならば属性魔術で攻撃するだけだの!」

 緑の色彩を帯びた魔力が、剣を握った方とは逆。
 ハイシェラの左手に収束する。

 ――僅かな思考。

 直後私は後退、ハイシェラの傍らまで下がる。
 発動したのは雷の魔術。
 ディル=リフィーナの隅々まで轟くと言わんばかりの稲妻だ。

 巻き添えを食らっていれば私でも無事では済まない。
 事実、かの魔神は“二つ回廊の轟雷”の直撃を受けてぐったりとしている。

 しかしそこで一つの疑問を持つ。
 魔神ハイシェラは雷の魔術など使えたか。
 まさかこの魔神、代償なしで奪った肉体が使ったことのある魔術。
 更には剣術すらも使えるようになるとでもいうのだろうか。

「魔神ハイシェラ。この者を滅することに異論はありませんが、もう少し周りを気にしてはどうですか?」
「そのような細かいことは後にしろ。
 ほれ、どうやらあ奴はまだ戦うつもりらしいぞ」

 そんな疑問を余所に、ハイシェラの言葉通り煙を上げて止まっていた巨体が動きを再開する。

 ――あれでも倒れないのか、この魔神は。

 ならばと、一度ハイシェラの方に視線を向けた。
 私は両手で持っていたアイドス・グノーシスに自身の魔力を込める。
 やがてそれが、アイドスの魔力と混じり合う。
 彼女に神核がなかった時は扱えなかった魔法剣発動の条件を整え始めた。

「ほぅ、それが五十年の旅で御主が得た力か」

 高まる魔力にバーティガヌから私へ視線の先を変えたハイシェラ。
 どのような攻撃かこの時点で察したらしい。
 見慣れたそのアイドスと同じ顔に、愉悦が混じる。
 他の者は気には留めているようだが、バーティガヌから目を離してはいなかった。
 この魔神だからこそできる芸当だろう。

『お姉様の顔でそんな表情をされると、複雑な心境になるわ……』

 アイドスのそんなボヤキすら愉悦の対象なのか、クククと忍び笑いを浮かべている。

 剣に煌めく灼熱の炎が宿った。
 私自身は単独で扱えない炎の力。

 ――ディル=リフィーナには聖炎剣という剣術がある。
 その名の通り、刀身に宿らせた炎と共に斬りかかることで、斬ると焼くを同時に行い重傷を負わせる剣術。
 ハイシェラもその一部を扱っていたところをみると、そう珍しい流派でもないのだろう。

 ただ聖炎剣は、本来両手剣を用いた剣術だ。
 だからその真の力は今回のような動きの鈍重な相手には強力無比だが、速い相手を苦手とする流派でもある。

 この神霊術はそのハイシェラの聖炎剣と、かつて垣間見た正義の女神を貫いた一撃を基にしている。
 浄化の効果こそ持たないが、邪悪なものを滅するには十分な力を持った聖なる炎。

 異なる古神。
 二柱分の魔力を掛け合わせたこの一撃。
 私の最大攻撃には劣るが、全力で放てば地獄最下層の永久氷結《コキュートス》さえ溶かしてしまうかもしれない。

 だから極力威力を絞って大規模破壊ではなく、その威力を一点集中させるために、魔力操作を行う。
 アイドスに神核が戻った時点で魔術そのものは扱えた。
 だがそのあまりの威力故、この操作を身につけるために五十年もかかってしまった。

 炎は次第に神剣に纏わりつき、その全てを覆い尽くす。
 その間、鳥人族の少女と槍の少女が私の前にたち。
 二人が復活したバーティガヌの襲い来る蔓を打ち払ってくれている。

「よく分からないけど、僕が守るから頑張って!」
「魔槍のリタ、参ります」

 ナーガ族の女性は白銀の君と共にバーティガヌの注意を惹くように攻撃をしかけ、

「そのような攻撃なくとも、妾が滅してくれようぞ!」
「……過ぎた力は争いを呼びます。ですが、今は目を瞑りましょう」

 魔神ハイシェラは、白銀公の物言いに苦笑して、

「では見せて貰おうかの、ルシファー」

 その言葉を合図に私はアイドスを頭上に掲げ――振り下ろした。

 ――その名を、魔法剣スティルヴァーレ。

 生まれ変わり、慈悲の魔法剣となった、真実の刃。

 白亜の石畳を深く抉っていく。
 突き進む高熱源体と化した炎の斬撃は、魔神バーティガヌ目掛けて一直線。
 ナーガ族の女性と白銀の君の攻撃に気を取られていた魔神。
 その愚かな有様では、音速を越える速度で迫るソレを避けることなどできようはずもない。

 ――両断。

 衝撃に備えるためか、ハイシェラの守護妖精が結界魔術を行使する。
 それから僅か遅れて、刹那に駆け抜けた衝撃波が周囲の全てを薙ぎ払った。
 思ったよりも敵が弱かったのか、次第に晴れていく煙の先に私たちが捉えたのは、蹂躙された足場の無残な姿だけ。
 文字通り全てを焼き尽くした火炎の剣撃。

 ……ハイシェラのことをとやかく言う資格は私にはないな。

『やり過ぎよ……』
「私もそう思ったところだ」





 魔神を薙ぎ払い地に足を付けた私は、

「…………」

 ソレの気配を感じ取った瞬間に――敵意を抱いた。
 どこかで感じたことがあると思っていた四つ目の魔力。
 今、その正体を確かに理解する。
 そして普段は希薄な私の感情が奮えているのを、まるで他人事のように感じ取った。

 白銀公の深いため息を尻目に、愉快気に笑うハイシェラ。
 槍の少女は、先ほどの私の攻撃に呆れたように肩を竦め、鳥人の少女は、引き攣った笑みを浮かべている。
 守護妖精は怒っていることを示すように、頬を膨らませて私の周りを飛んでいた。

「ほぅ、妾たち以外とはなかなか接触を持とうとしないパズモが、そこまで他人に感情を露わにしたのは初めて見たぞ」

 感心したように言うナーガ族の女性の言葉。
 だが、今の私には聞いている余裕はなかった。
 ――アイドスを再び正面に構え直す。

「懐かしい魔力は、どうやら御主だけではなかったようだの」

 気付いたらしいハイシェラが、険しい顔になって私と同じ方向を睨む。

「……トライスメイルに部外者の侵入をここまで許したのは初めてかもしれませんね」

 苦々しげに語る白銀公は――しかし、その表情からは何を考えているのか窺い知れない。

 ――白亜の石畳から、這い出るようにソレは現れた。

 ぼろ布のようなコートから溢れ出た無数の触手が蠢く。
 頭を覆うフードの中で、妖しく光る灰色の瞳をじっとこちらに向けていた。
 間違いでなければ、その視線の先にいるのはハイシェラ。

 その存在そのものに悍ましさを感じる、得体の知れない影。
 現れると同時に噴き出した邪気が体を覆っているため、顔を見ることはできない。
 ――否、あれはヒトガタをしているだけの闇そのものだ。
 顔など初めから存在しない。

「やつめ、バーティガヌの魔力を吸収しておるのか」

 ソレは現れたその場から動こうとはしない。
 だが自分たちが倒し、魔力の塊となった朽ちた魔神の、その力を吸収しているらしい。
 その間にも溢れ出た邪気は、着実にエルフの森の澄んだ大気を穢していく。
 そういうものには慣れている私は兎も角、他は迂闊には動けないだろう。

「パズモよ。白銀公と協力してここら一帯を結界で覆ってくれぬか?」

 ハイシェラの声に、パズモというらしい守護妖精は飛びまわるのを止めて、魔力を小さな両手に集中。
 どうやら女神の力を借り受け、神聖魔術の詠唱に入ったようだ。
 何故彼女がそんな魔術を扱えるのか疑問に思っていると、アイドスから答えが返ってきた。

 実はこの妖精、古神時代より存在する高位妖精メネシスの末裔なのだそうだ。
 古神系の神聖魔術が行使できるのは、元々アストライアに仕えていたからなのだろう。
 一方、白銀公は影から邪気が噴き出した瞬間には、すでに行動に移っていたようだ。
 すでに詠唱を終えて、緑の森に闇の浸食が行き届かぬように、邪気だけを通さぬ簡易結界を張り巡らし始めている。

「結界さえ破壊されていなければ、我がトライスメイルにあのような存在の侵入を許すはずはなかったのですが」

 その言葉は結界を過信しているようにも感じられる。
 しかしエルフの森を覆う結界は、即興で張られたそれとは質が違う。

 光陣営に属するエルフの最高神。
 ルリエンへの信仰によってのみ発現する神聖魔術の神の結界だ。
 邪悪なものほどその影響を受けやすい。

 故に、白銀公の言葉は事実だろう。
 その結界を破壊したアムドシアスは腐っても魔神といったところか。
 そんなことを考えている間、得体の知れないものは魔力吸収以外の何かをするような気配はなかった。
 やがて全てを吸収し終える。
 すると奴は、体が結界によって焼けることを気にもせず、地面に沈んでその姿を消した。





 ――得体の知れないものがトライスメイルを去ってから数時間後のこと。
 槍の少女リタ・セミフ、鳥人の少女ペルル、ナーガの女性リ・クティナ、守護妖精パズモ・メネシスは召喚石へ。
 どうにもハイシェラのことを良く思っていないらしく、すでにこの場にはいない。

 本人たちに聞いたのだが、どうやら彼女たちは厳密にはハイシェラの使い魔ではないらしい。
 主は厭くまでセリカなのだそうだ。

 セリカを失うわけにはいかないので、今は体を奪った憎きハイシェラに力を貸しているとリ・クティナが言っていた。
 詳しいことについては、ハイシェラに訊けば分かるとのことだった。
 彼らの事情、というよりセリカの軌跡も気になる。
 しかしそれよりも私は、先ほど現れ今はいない、記憶の中の得体のしれないものに意識を向ける。

 ――間違いない。

 完全なヒトガタであったことなど、多少の変化はあったが、あれは確かにアイドスの抜け殻だったものだ。

「ハイシェラ、あれが――オディオか?」
「いや、我が石化したあの者にしては、邪気の量も魔力の量も少なかった。
 切り離された分体といったところであろうな。
 流石に本体でこのような場所に乗り込む愚行は避けたといったところかの」

 分体――確かにアレに明確な形などないだろうから、そういうことも可能だろう。

「貴女方はあの者の正体を知っているのですか?」
「うむ。水の巫女辺りも疾うに知っておるだろうがの。
 あやつは――人間の抱える憎しみそのものよ。のぅ、慈悲の女神よ」

 ……忘れそうになっていたが、そういえばこの魔神は基本的に優しくはないのだったな。

『…………』

 沈黙を守るアイドスが気にはなったが、何を言えばいいのか分からない。

「ハイシェラ……」
「ほぅ、御主がそこまで感情を示すか。五十年の間に多少は変わったようだの」
「…………」
「ククク、そう睨むな。ほれ、白銀公が話に入れず困っているであろう」
「そのようなことはありません。ですが、今の会話でだいたいの事情は掴めました」

 白銀公はそれで、この件については終わりだというように、戦いの傷跡に視線を移した。

「相も変わらず何を考えておるのか分からぬやつよ」

 ハイシェラの愚痴にも似た呟きにも動じず、

「……オディオなる者の侵入を許すことにはなりました。
 ですが、貴方がたの助力がなければトライスメイルが滅んでいた可能性があったこともまた事実。
 不本意ですが、礼を言わねばなりませんね」
「不本意なれば礼などいらぬぞ」
「もとより私……私とアイドスはハイシェラに会いに来ただけで、だたの気まぐれだ。同じく礼などいらない」
「では、心よりの感謝を」

 思いもよらぬ返答に、ハイシェラは随分と驚いたようで、

「よもや、エルフからそのような言葉が聞けるとはの。少しは話の分かる者も中にはいるということかの」
「我々エルフは、緑の森を剥き、毒を滴らせ、地に争いを呼ぶ者を許しません。
 ですが、トライスメイルを統べる者としては兎も角、白銀公個人としてならば礼も述べましょう」
「ほぅ、宴会でも開いてくれるというのかの。
 ――ククク、いや冗談だ。これ以上いても仕方がない故、我は帰るとしよう。
 ルシファー、御主らはどうするのだ?」

 ハイシェラの問いに、私は思考を巡らす。
 もとより、ケレース地方までやってきたのはセリカの軌跡をハイシェラに尋ねるというのが主な目的だった。
 だが、オディオの行方が気になるのも事実だ。
 アイドスが狙いならば……。
 だがやつの狙いはおそらく――

『ルシファー、どうかしたの?』
「……いや。……お前が良いというのなら、セリカのことについて話が訊きたいのだが」
「ふむ。話すといっても我も経緯など知らぬし、言うべきこともないのだがの。
 まあよい。ターペ=エトフの城に案内しようぞ」

 悩んだが居場所が分からない上、やつに対処する方法は相変わらずない。
 ならばと、結局は当初の通りにすることにした。
 ふと、ハイシェラから白銀公に視線を移すと、何かを言いたそうにしている。

「どうした白銀公」
「……魔神ルシファー。貴方は“神殺し”ではありません。
 ですがあの魔神を滅した力……水の巫女の言葉の通り、貴方もまた大きな流れの中心にいる存在なのかもしれません。
 巫女ならぬこの身には、それが何なのか分かりませんが」

 ……なるほど。
 水の巫女が魔神である私を容易く座所まで招いたのには、そのような裏があったからか。
 確かにそのような予知でもなければ、そうそう魔神を“客”になどしないだろう。
 それでも聊か腑に落ちない点はあるが……。

 それから白銀公は言葉を選ぶように瞳を閉じ、

「ですが、貴方自身がこの地に災いを齎さぬ限り……トライスメイルは、貴方に敵意を持たぬことをルリエンに誓いましょう」
「……私も無駄な争いは望まない」
「その言葉が聞ければ十分です」

 白銀公の真意は分からない。
 だが、争わずに済むというのならそれに越したことはない。
 ……アイドスが悲しむからな。
 御主ら堅苦しいぞなどとハイシェラは言っていたが。

 その後白銀公はハイシェラに、人の軍が動きを起こしそうなことを忠告したようだった。

「では、我ら場違いな魔神は去るとしようかの。ほれ御主ら、ぼうっとしておらんで行くぞ」
『ハイシェラ、私は古神なのだけど』
「古神とて魔神と呼ばれるものもいるであろうが」

 呼び寄せた飛竜に跨ったハイシェラの言葉に促され、私は翼を広げて宙に浮かんだ彼女に並ぶ。
 最後に眼下の白銀公を一瞥し、私はトライスメイルを後にした。



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