「久しき魔神よ、一度は見逃した。されど此度はそうはいかぬ。問おう、何故にこの地に参った」
「確かに呼びはしたが、竜族の長自らとはな。……この地にある月晶石がほしい」
「魔神が光陣営の神の、それも浄化の力を求めるか」
「私は普通の魔神ではないのでな。どうしても青き月の力が必要だ」
「……理由は問うまい。だが、代わりに頼みたいことがある」
「空の勇士の件か。お前たちは同胞の翼を奪うことができないのだったか?」
「然り。正体不明の影と交戦し、狂った空の勇士。我らは彼の者の翼を奪うものを欲していた」
「いいだろう。滅ぼすかどうかはこちらが判断する」
「……良かろう。月晶石なれば山頂の祠にある。リューシオンの加護があれば得られるはずだ」
「神の加護ならすでにある。……頼みは確かに聞いた。ではな」





 ケレース地方を発って、数ヶ月後のことだ。
 立ち寄った町の酒場でイソラ王国女王となったシュミネリア姫の活躍を聞く。
 そしてその日も私は常と変わらず、魔物討伐の依頼を受けていた。
 いつもと違ったのは、突如としてアイドスが不調を訴えてきたことだ。

 魔物を殺した際に溢れる“残念”が原因だと分かったのは、討伐依頼を終わらせた後。
 他の神々や魔神ならば兎も角、慈悲の女神にとって何者かを傷つけるという行為は、本質に反する。
 そのためか、邪気の影響を必要以上に受け、それが苦しみという形になって現れたということだった。

 現状は、どうにか落ち着いている。
 私自身、多少ならば治癒の魔術を扱えることが幸いした。
 だがこれからの戦いを考えると、それではやがて追いつかなくなることは目に見えている。
 そこでアイドスが提案したことが、青き月の浄化の力を神剣に宿すというものだった。

 私は始めアイドスの正気を疑った。
 古神である彼女が中立神なら兎も角、光陣営の神の協力を仰ごうとするなど。
 しかし確かに浄化という点においては、星乙女がいない今、リューシオン以上の担い手はいない。
 加えて邪気の塊であるオディオの分体とこれから先戦うことを考えれば、必要な力となるだろう。
 それに何もリューシオン自身の力を借りようというわけではないのだ。
 幸いにして竜族からは山頂に昇る許可を得た。
 後は依頼を果たすだけか。




 
「よもやこの儂が魔神に助けられるとはな。……だが、長は儂の翼を奪うようにいったのではないか?」

 竜族の戦士、空の勇士。
 竜の姿とヒトの姿を併せ持つ魔神に匹敵する若きかつての調停者。
 未熟と判断されていたため名を与えられてはいないが、その力は狂ってなお絶大。

 だが彼女の中で破壊衝動と理性が争っているせいか、攻撃の精密性を欠き、戦闘不能にすることは容易だった。
 正気に戻すか、それとも滅ぼすか。
 迷うまでもない。ここで殺せばアイドスを更なる“残念”が襲うことになる。それに――。

 そう考えれば取るべき手段は一つしかない。
 性魔術を用いた粘膜接触で精神に干渉し、何とか正気に戻すことに成功する。
 儀式自体は一度アムドシアスで経験していたからか、それほど難しいことではなかった。
 常ならば……アイドスが抗議なりしてくるはずなのだが、トライスメイルでのハイシェラとの会話で、多少考えを変えたらしい。

 私には未だに不機嫌になる理由が分からないのだが、性魔術は単なる儀式魔術ではないのだろうか?
 次に会った時にでもハイシェラ辺りに聞いておこうと思う。

「お前は死にたかったのか?」
「そうではないが……」
「ならば、問題あるまい。……山頂に用がある。長の許可はもらった。悪いが通らせてもらうぞ」
「待て、魔神ルシファー。貴様は、何のためにその力を振るう」

 何のため、か。

「今は私の半身のため……いや、自分のためだろうな。私は私の望むことをしているにすぎない」
「半身……そのセリカと似たような気配のする剣のことか」

 古神ということに気付かれたか。しかし、

「竜族は中立の調停者だったと思うが、何か問題があるのか?」

 空の勇士は首を横に振って答えた。

「……いいだろう。儂を打ち負かした貴様のその刃が曇らぬうちは、召喚石となって我が力を貸してやる」

 事が終った後、そのまま寝転んでいた空の勇士は、立ち上がってそう言った。

「唐突だな」
「不要か?」
「いや、これから先挑むモノを考えれば助かる。オディオという名の邪神だが、お前も交戦したことがあるはずだ」
「あの正体不明の魔物のことだな。今にして思えば、あれが災厄の種だったのであろうな。ならば、尚更放っては置けぬ」
「……好きにしろ」

 私がそう言うと、空の勇士は僅かに笑みを浮かべたようだった。




 
『アイドス、平気か?』
『今のところはね』

 空の勇士の戦いを経て、彼女の案内を受けながらリューシオンの社へ徒歩で向かう。
 竜族の許可の有無に関わらず、空を飛べばそれだけ魔が襲いかかってくる頻度が高いのは変わらないらしい。
 しばらく道無き道を登っていくと、やがて女神の像が納められた祠を見つけた。
 どうやらここが目的の場所のようだ。

「ここがそうか」
「うむ。だが如何に聖地とて、リューシオン自身はここには居らぬぞ」
「それは分かっている」

 現神はラウルバーシュ大陸で肉体を持つことはできない。
 アイドスからその話を聞かされたときは、では現神は肉体を構成する前の私に近い存在なのかと不思議に思ったものだが。

「月晶石は祠の中の女神像の眼となっている。許しがあれば、手中にできようぞ。
 儂は召喚石に戻る。……戦いとなればいつでも呼ぶがいい」

 そう言って、空の勇士は私の腰の袋の召喚石に戻った。

『頼もしい限りだな』
『ふふふ、嬉しそうね』
『嬉しい、か……お前がそういうなら、私はそう思っているのかもしれないな』

 私はどうやら、武人気質というのだろうか。
 空の勇士やハイシェラのようなさばさばとした性格は嫌いではないらしい。

 祠の中の女神像。
 青き月の神リューシオンの像なのだろう。
 その丁度目に当たる部分に輝く青き石。
 おそらくは、これが青き月の力を秘めた石――月晶石。

『ルシファー、それを私に押し当ててくれるかしら』

 私は女神像に手を伸ばしてそこから一つを取り、言葉に従って神剣アイドスの刀身に押し当てた。
 石は刃に溶けるように消えていき、全てが飲み込まれると神剣が淡い青き光を放ち始める。
 しばらくすると、光は緩やかに消滅していく。
 外見的にはアイドスに変化はない。
 だが、刀身が私のものとも彼女のものとも違う魔力で覆われているのが感じられる。

『問題はないのか?』
『ええ、“残念”は浄化されたみたい。……それどころか、今まで扱えなかった私本来の治癒の力が行使できるようになったわ』

 ――ミゼリコルディア。

 アイドスによると、それが行使できるようになった古神系神聖魔術らしい。
 慈悲の名を冠するアイドスの力を用いた、身体異常の治癒と同時に呪いをも破戒する魔術。
 サタンと完全に融合し魔力操作が容易になったことも、私がその魔術を扱えるようになった理由らしい。
 しかし、月晶石を取り込んだことが最大の要因となったのは間違いない。
 膨大な魔力を消費するため、そう何度も気軽に扱えないらしいが。

『リューシオンが力を貸してくれたのかしら……』
『現神が古神に、か』
『真実は分からないけどね』

 何れにせよ得るものはあった。
 一つ試してみたいことができたが、取りあえずは由としておこう。





 ――闇。
 体を覆い隠すそれは、邪神の一部であり、本質だった。
 その名をオディオ。
 それは古の言葉で憎しみという意味を持つ。

 あらゆる生命から精気と魔力、肉体を奪い、肥大化し、異形のものとなった邪神。
 彼は、メルキア王国の王都インヴィティアより更に東にある、薄暗い森――腐海の中に居を構えていた。
 傍らには、ターバンを被り、顔を隠すように口元に布を巻き、灰色のローブを着た一人の魔術師。
 手に持った杖は魔術師の背丈ほどもあり、顔の布の間から覗く紅い瞳は、正気を失ったかのうように暗く濁っている。

 顔を布で覆い隠しているため、魔術師の年齢は分からない。
 だが、魔術の失敗によって生じた魔力暴走によって、彼の体は老化してしまっている。
 その布の下には、通常の老化によって生じたのではない皺を見ることができるだろう。
 彼は一介の魔術師のそれではない、尋常ならざる魔力を内包している。
 魔力の質から闇陣営に属するものなのだろうが、纏う邪気の量が普通ではない。
 そのためか、顔の皺に反して肉体は青年の筋肉質なそれを保っているという、異常な状態に彼の体はある。

 ――男の名を、アビルース・カッサレ。

 オディオの分体によって精神を狂わされ、未だに記憶の中の女神を追い続ける魔術師。
 かつて神殺しを捕縛せんとし、その代償に多くのものを無くした男。
 抱えていた大きな理想。闇夜の眷属が平穏に暮らせる国を作りたいという願い。
 その傍らに、できることならば、セリカがいて欲しいと、ただそれだけを思っただけであったのに。

 セリカとアビルースの出会いは、セリカの魔力が尽き、倒れていたところを彼が救ったことがきっかけだった。
 フノーロという地下都市で、衣服に食事と世話をやき、ペルルに性儀式を任せ、魔力を回復させる。

 だが、アビルースはセリカが男であると知りながら、女神の美しさに心を奪われてしまった。
 それは仕方が無いことだったのだろう。
 ただの人間であれば、そのようなことはなかったに違いない。
 しかし、神の体というものは、ただそれだけで万人を惹きつけてしまう魔的な魅力を持つ。
 故にこそ、その力を制御できない神殺しは、現神の敵となるだけでなくあらゆる縁を呼び寄せ続ける。
 彼を知りその身に触れたものほど惹かれ、彼を知らず、神殺しの名を聞くものは憎悪や畏怖といった形で。

 兎も角、そうしてセリカに惹かれたアビルースは、付近を彷徨っていたオディオの邪念を受けることで徐々に狂い始めていく。
 やがて狂った心は女神を欲する余り、ついには生贄の儀式魔術を用いて、セリカを捕らえようとするまでに至った。
 
 幸か不幸かその目論見は失敗に終わり、彼は代償として視力を失い、暗い闇の中を彷徨い歩くことになる。
 女神の美しさに惹かれ、我が物にせんとした彼が視力を失ったのは、裁きの女神による罰だったのか、それは誰にも分からない。

 だが、捨てる神あれば拾う神ありといったところだろう。
 狂った彼の心に呼びかけるものがあった。
 セリカをリブリィール山脈まで案内するための洞窟探査の中で、アビルースが拾った黒い欠片。
 ――邪神オディオの分体。

 女神の肉体を持つ男は人間族。
 やがてはその神力に負け、お前のことを忘れてしまう。
 お前の元から女神は離れていってしまう。
 それでいいのかと、邪神は問う。
 嫌だというならば、我の力を貸してやる。代わりに我が命に従えと。

 そのころのアビルースに、もはや理性など残されてはいなかった。
 ただ、己の欲望に忠実に。
 女神の肉体を得るためならば……何でもしよう。

 邪神は問う。
 ならば我の石化を解呪できるかと。

 そして、リブリィール山脈に辿りついた彼は、老化と引き換えに得た力で、ついにその石化を解くことに成功する。
 得た力は、彼に残っていた僅かな記憶さえも失わせてしまったが、代わりに彼は人から魔へと変じ、魔人となり、永久にも近い寿命を得た。
 失ったものは大きい。
 傍らにいたであろう使い魔の名前。
 なぜ自分が女神を欲していたのかという記憶。
 
 だが、彼にはそんなことは関係ない。
 ただ一念、女神の体を手に入れる。
 それだけが彼の生きる目的となった今になっては。

「我が神よ、どうやら女神が目覚めたようです」

 語りかけた言葉に巨大な体が動き始める。
 その姿に魔術師はいったい何を思うのか。

「私も、貴方の力も女神に匹敵するものとなりました。今こそ行動するときでしょう」

 発する声にはっきりと現れる狂気。
 彼に通じる言葉は――もはやない。

 邪神に従うように歩く魔術師。
 少し後ろからその姿を、邪神の父親となった勇者の影が面白いものを見るように、じっと見つめていた。





 戦の神と聞いて真っ先に思いつくのは、現神の中で最大の力を持つ軍神だろう。
 ――マーズテリア。
 三神戦争で名を上げた若い一級神であり、騎士を始め街の衛兵や傭兵に信仰されている。
 一方では民衆には畏怖される存在であると同時に、また一方では身近な存在であるという認識も持たれている偉大な神。

 そんな軍神の大神殿を有するベルリアという王国が、アヴァタール地方より西のレルン地方に入って程なくしたところにあった。
 大陸西方諸国とレウィニアを始めとするアヴァタールの国家間を繋ぐ貿易の要所であり、古き歴史を持つ国である。

 そのベルリア王国、王都ランヴァーナのマーズテリア大神殿の一角。
 夜空を見上げながら、何やら思い悩むように考え込んでいる一人の女性がいた。
 腰まで届く艶のある黒髪に、全てを見通しているかのような蒼の瞳。
 豊かな胸の際立つ、露出が多少多めな朱色を基調としたマーズテリアの神官服。
 厳粛な中にも聖母のような柔らかな空気を彼女は纏っている。
 発した言葉には、誰もが自然と従ってしまうような、そんな雰囲気。
 傍らには、無骨な鎧に大剣を背負う、頑強な体つきの男。
 騎士と思われる彼を粛然と控えさせていることから、その位階は神殿の中でも上位であることが窺える。

「ゾノ・ジよ。私はマーズテリア様より下された、世界を揺るがす災いの予言に従い、まずはレウィニア神権国に向かうことになりました。
 貴方には、その護衛と……災厄の種となる可能性のある者の、監視と調査を命じます」
「畏れながら申し上げますが……抹殺ではなく監視、ですか?」

 騎士の訝しげな言葉に僅かに苦笑し、その反応が普通なのだろうと彼女は思う。
 軍神マーズテリアに仕える者として、邪神の存在を認めるわけにはいかない。
 それどころか相手は百年以上前、神の肉体を手に入れ、ケレース地方を騒がせたとされる魔神の疑いがある者だ。
 この騎士の反応も当然だろう。

 だが、マーズテリアとしてはその存在を許さなくても、彼女個人の意見はそうではなかった。

「マーズテリア様は他の現神と違い、寛容な面も持ち合わせている。軍門に降るのであれば、古神でもその存在を許すでしょう」

 そこで一度言葉を切って、神殿の外に向けていた視線を副官である騎士に向ける。
 かつて亡国で刺客として働いていた男。
 彼女がまだマーズテリアの一神官兵であったときに、魔族に滅ぼされたその国を救済するために出向き、その折に配下となった騎士。
 以来、彼は彼女の副官のような立場を勤めている。

「私は渦中の存在が我らの敵か、味方に引き込めるか、まずは見極めたいと思います」
「……仰せのままに」

 神の言葉でも授かったかのように、厳かに礼をする忠義厚き騎士――ゾノ・ジ。
 命を救われるという大恩ある主に忠実に従い、使命とあれば命をかけて遂行する。
 そういう男だからこそ、彼女は安心して傍に置くことができていた。

「ありがとう。……三日後には出立する予定です。騎士たちにもそのように」
「御意」

 迷いのない返答。
 騎士の礼を取り、彼はそのまま他の騎士たちの宿舎に向かっていった。
 廊下の先へと彼が消えるのを最後まで穏やかに見つめ、彼女は再び夜の空を見上げた。

「……神殺し……セリカ」

 呟いた言葉を聞くものは居らず、その胸の内を理解できるものも、本人を含めて誰もいない。
 ただ、その名を騎士の報告で聞いたときから、妙に頭に残って消えることの無い名前。
 そして、

「黒翼、魔神ルシファー」

 レウィニア神権国からの情報により知れた、ここ数百年の間に存在が確認された新たな魔神。
 情報の通りならば、水の巫女が客人と認めるほどには穏やかな気性。

 特徴である戦う時のみ現れるという黒い翼から、堕ちた天使であり、どこぞの古神の使徒であったのだろうことは分かる。
 それに戦わずして一度は水の巫女の軍門に下ったという情報もあり、教皇を始めとする上層部は邪神の疑いがある者ほど重要視してはいない。
 寧ろ魔神といえば、アヴァタール地方で確認されているハイシェラやアムドシアスという好戦的な者たちこそ危険視されている。
 だがこの魔神の存在が確認された時期を考えると、丁度セアール地方のバリハルト神殿が邪神によって滅ぼされたとされる年代に一致する。
 これは単なる偶然か?

 ルシファーという魔神はレウィニアやトライスメイルの白銀公からの情報通り、本当にただの魔神に過ぎないのだろうか。
 両者共に何か隠し事をしている気がしてならない。
 そこまで考え、彼女は溜息を吐いた。
 何にしても魔神の方は兎も角、災厄の種と思わしき者の情報を得て、その存在を見極めなければならない。
 それが軍神マーズテリアの聖女である自分の役目。

 そう思い、彼女――ルナ=クリアは、訪問することになるレウィニアについて考える。
 水の巫女の治める彼の土地は、豊かな土壌に恵まれた国家と聞く。
 ここベルリアに負けず劣らず、活気の溢れた国であることだろう。
 
 そうして三日後、マーズテリアの聖女ルナ=クリアは、王都ランヴァーナよりレウィニアの王都プレイアへと旅立った。

 もしも現神側が、古の魔王のかつての名を知っていれば、マーズテリア神殿はこの時点でまた違った対応を取ったのかもしれない。
 だが実際は三神戦争以前にその名を無くし、地獄の底に封じられていたため戦争開始まで戦うことが無かった。
 十二枚の翼を持った唯一の天使であるという事実も、遥か昔の伝説となり人間族から忘れ去られている。
 知っている者たちもイアス=ステリナ縁の一部の者となれば、現神側が把握できていないことも仕方がない。
 或いはいっそ邪龍という形で現れていれば――。
 もしくは魔神ハイシェラより事情を知った白銀公がマーズテリアに話していれば、知られていただろう。
 しかし、実際にはそのようなことはなかった。

 ルシファーという魔神が何者であるのか。
 その正体をもう一つの事実と共に聖女が知るのは、それから数週間後のことになる。



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