ケレース地方の中央部に聳える山脈に存在する、死者が最後に辿りつく場所――冥き途。
 転移した瞬間に体を襲った、這いずり回られるような感覚に、思わず顔を顰める。
 視線を正面に向けると、見える範囲には余すところ無く死霊が溢れていた。
 死者を運ぶ川の流れの中を、ここがどこか分からないとでもいうかのように漂っている。

 ……おかしい。
 
「伝説に寄れば、冥き途は死者が辿りつく終焉の地と聞く。だが、この有様は……」
「ねぇ、セリカ。本当にこの先に進むの?」

 私と同様の感想を持ったのか、レクシュミは訝しげな表情を、シャマーラは不安そうにしていた。
 一方でセリカはというと、黙して何も語らず、ただ何事か考えているようだった。

『死者が行き場所を見失っている。冥き途が正常に機能していないわ。
 ……カラータやメルキアで亡くなった人々の魂の数が、許容範囲を越えていたとも考えられるけど……。
 それだけでは死者は迷ったりしない』
「やはり、冥府の番人である魔神に何かあったのか。もしかしたら――」

 私は、近くに感じる魔神二柱の意識がこちらに向けられたことを感じ、そこで一度言葉を切った。
 そんな私を不思議に思ったのか、何かに意識を傾けたままのセリカを除く、同行者二人がこちらに顔を向ける。

 二人の視線を感じながら、僅か思考を巡らせる。 
 なぜ彼女たち――ハイシェラとアムドシアスが狙ったようにここにいるのかは、この際気にするようなことではない。
 大方、ハイシェラがセリカの動向を監視して予測しただけだろう。
 問題は、仮に門番に何かが起こっているとして、なぜ彼女が黙って見ているのかということだ。

 ハイシェラはああ見えて、気に入った者に対しては甘いところがある。
 無論それは、魔神にしてはであるが。

 アムドシアスは、ハイシェラに屈服し使い魔になっていたはずだ。
 純粋な力関係で結んだ契約である以上、一角公はおそらくハイシェラに従っているだけだろう。
 ならば疑問点はハイシェラの動向のみ。

 自らかつて古い友人などと告げた相手に何かが起こっているかもしれない。
 にも関わらず、なぜ行動にでない?
 それとも外部から私たち――おそらくセリカが来たことで、その必要が無くなったのか……?

 彼女の思惑が何なのか分からない。
 私に何を伝えようとしている?

 それも、門番に会えば分かるのだろうか。

「もしかしたら、転移門の周囲に散らばっていた遺品。
 その状況から考えて、行方不明になった人間たちを使って誰かが、ここで魔神に何かをしているのかもしれない」
「……生贄を用いた魔術ということか」

 呟くように返答したのは、ぼんやりと考え込んでいたセリカだった。
 自国の民が魔術の生贄になったかもしれないことを示唆され、レクシュミが眉を顰める。

「考えたくはなかったが、やはりそれが結論であるのか……」

 その言葉に、どれほどの感情が込められているのだろう。
 私とアイドスも、セリカやシャマーラも、生贄という行為に嫌悪の情は抱く。
 だが、それは所詮他人事だ。
 何処の誰とも知れぬ者が死んでも、怒りにまで発展することはまずない。
 私やアイドスにいたっては、元から人ですらない分尚更。
 それどころか、かつての私であれば何の感慨も持たなかったに違いない。

 しかしレクシュミにとっては、罪無き民は全て“他人”ではないのだろう。
 ひょっとしたら、そこに彼女が部下を持たない理由があるのかもしれない。

 強く握り締められた拳から流れる血を見咎め、私はレクシュミに魔術を行使した。
 すまないとそれだけ告げ、心を落ち着かせるように、彼女は目を閉じた。

 場所のせいだけではない、重く沈んだ空気を換えようとしたのか、セリカが徐に口を開く。

「……何れにせよ、考えていてもどうにもならない。先に進んでみよう」
「私は構わない。二人はどうする?」
「訊かれるまでもない。巫女様の民を殺された上、貴方一人置いて引き返したら、私は笑い者だ」

 レクシュミが即答する。
 瞳に宿っているのは、先ほどの燃え盛るようなそれとは違う、静かな怒り。
 どうやら自分の感情を制御できたようだ。
 一方シャマーラはというと、

「知っちゃった以上、放ってなんておけないわ。
 ええい、女は度胸よ! 私に何かあったら、あんたが守ってくれるんでしょ?」
「ああ、そのための俺だ。……お前は必ず守る」

 次の瞬間、シャマーラの頬がこれ以上ないほど紅潮した。

「顔が紅いぞ。どうかしたのか?」
「な、なな、何でもないわよ! ほ、ほら、さっさと進むわよ!」

 人間の頬が紅くなるのは病気といった外的要因から、憤怒、羞恥といった内的な要因まで様々な場合があると聞く。
 しかし私には彼女の言動から、その行動と表情の変化の理由を推察することはできなかった。
 レクシュミは怪訝な顔をするセリカを見て「貴方もか……」などと呆れている。
 だが今のやり取りにおかしな点は無かった……はずだ。

『なあ、アイドス。レクシュミとシャマーラは何故あのような様子になっているのだ?』
『……ふふ、さあね。いつもなら怒るところだけど、今回はかえって良かったかもね』

 そんなアイドスの答えを聞いた私とセリカは、ただ首を傾げるだけだった。





 日の当たらない洞窟を抜け、石造りの門が連続して並んでいる階段を降る。
 冥き途は自然に出来た異界と思われがちだが、実際はドワーフが作った人工の遺跡。
 だから想像に比べて、それほど不気味な場所というわけではない。

 途中、死者の川を渡らなければならない場所が二箇所ほどあった。
 橋は崩れているため、徒歩では泳いでいくしかない。
 服が濡れることを考えれば、多少面倒なことになるだろう。
 しかしそれは私が空の勇士を、セリカがリタを召喚し、私も翼を顕現させて、セリカたちを向こう岸に運ぶことで解決した。

 私がレクシュミを、リタがセリカを、空の勇士がシャマーラを運ぶことに決める。
 リタは幽体のためセリカにしか触れることはできないし、まだ私とシャマーラの間には多少の蟠りがあるから順当。
 レクシュミの背中と脚に手を回して抱え、慌てる彼女を多少気にしながら、川を渡った。

 そして、

「ねぇ、セリカ。なんなのこの魔物……」
「……きりが無いな」

 下に向かえば向かうほど、複数の魔物が融合したような異形が現れるようになった。
 プテテット系の魔物だとしても、もう少し形状に特徴がある。
 しかしこいつらは個体それぞれで姿が違い、時折強酸と思われる体液を撒き散らしてくる。

「お前たちにはまだ話していなかったな」

 私の代わりに、レクシュミが先に口を開いた。

「こいつらは私とルシファーが行方を追っている、邪神オディオと呼ばれる者の分体だ」
「……オディオ?」
「ああ、だが今は我々の敵だとさえ認識できていればいい」

 一瞬だけ、レクシュミはこちらに視線を向けてきた。
 私とセリカの“約束”はすでにレクシュミに伝えてある。
 余計なことまでは、“まだ”話すつもりはないということだと思う。

「それからこいつらは、精神に干渉してくる。できる限り強い意志を持て」

 女神の肉体であるセリカは兎も角、ただの人間でしかないシャマーラにそれを要求するのは無茶というものだ。
 だからといって、対処法があるわけでもない。
 神格でもあれば話は別だが、今は早々にこの場所を抜けるしかないだろう。

「早急にここを抜けるぞ。今は、それしかないだろうからな」
「……分かった」

 セリカの電撃系の魔術と、私の純粋系の魔術で一掃。
 作られた道を一気に駆け抜けた。





 異形の魔物たちを退け、階段を最下層まで降りた先。
 視界に広がったのは、川の流れ着いた先の湖の中に、幾十にも連なる閉じられた門が並ぶ開けた空間。
 この広場に至った時から、私は得たいの知れない感覚に襲われている。

 まるで意識が何かに引き摺られているような。
 私が、私では無くなる様なおかしな感覚。

 私も魂が何かに呼ばれているのか。
 もしや、この地に来る前に感じた、あの気配が関係しているのか……?

 そこで思考を振り払い、私はセリカたちが見つめる先に視線を向ける。
 おそらく冥府へと続くと思われる門の前に――その少女はいた。

「お前が、俺を呼んだのか?」

 セリカが声をかけた相手。
 右目が隠れるように伸びた、首より少し下の辺りで切り揃えられた金色の髪。
 米噛みの少し下の辺りから生えた小さな黒い羽が、彼女は人ではないことを示している。
 だが、体躯はリタより尚小さく、一見するとこの場所では場違いな幼子にしか見えない。

 しかし、内包する魔力は私やセリカに及ばずとも、並みの魔神の域を明らかに越えている。
 その上、この少女が手懐けているのだろう。
 彼女の傍に、主を守る騎士のように控えている巨大な三つ首の魔犬。
 冥界の番犬ケルベロス。

「……そう。…………ごめんなさい……貴方は何も悪くない。……でも、私も……大切なもの……守らないと」

 言葉と共に、魔神の両腕に暗黒の秘印術が発現した。
 緑の大きな瞳は苦しげに歪み、何かを堪え様としていることが分かる。

「…………戦いたく、ない。……私の、力は……」

 高まる魔神の魔力にシャマーラは狼狽え、レクシュミは臨戦態勢に。
 私とセリカもまたそれぞれ剣を構える。
 状況は不明だが、今は戦い、行動不能にするしかない。

「……何だというのだ」

 ――と、そこで私は再びハイシェラの視線を感じ取った。
 あいつはいったい私に何を伝えようとしているのか。

『ルシファー、貴方は魔獣の相手を』

 アイドスがハイシェラの意図を理解したのか、唐突にそう告げた。
 魔神を守るようにケルベロスが立ちはだかる以上、特に従わない理由はない。

「セリカ、私はケルベロスの相手をする」

 レクシュミの静止の言葉を無視し、ケルベロスに接近。
 鋭い爪による一撃を身を捻って避け、闘気を込めた強烈な体当たりで遠くに吹き飛ばす。

「――魔神ナベリウスの相手は任せる」

 それだけを言い、私は魔力の枷を外し黒翼を広げ飛翔。
 巨体に似合わない体捌きで、見事地面に着地した魔犬。
 その追撃に出た。





『冥府の番犬ケルベロス。三つ首の魔犬で、その唾液は猛毒よ。貴方なら大丈夫だとは思うけど、一応注意して』
『分かった。……それと厄介そうなのはあの爪だな』

 異常に鋭いとか、特殊な性質を持っている、というわけではない。
 体の規模に相応しくただ大きい。それだけだ。
 だが、致命傷を与えるにはそれで十分。
 あんな物で引き裂かれたら、いくら私でも治癒に時間がかかり過ぎる。

 魔神や神の最大の特徴は、神核さえ破壊されなければ、尋常ではない魔力と時間は使うが、何度でも肉体を再構成できること。
 だから私はこの身が滅んだとしても、神核さえ無事なら死にはしない。
 しかし、果たして冥府の番犬ともあろう者が、弱った敵を放っておくだろうか。
 答えは否だ。おそらくは、神核ごと貪り食われるだろう。

 ならばあの爪の一撃が当たれば死に直結すると言っても過言ではない。
 もっともそれは、私の障壁を突破できる、セリカ並みの威力が出せればの話だが。

「ケルベロス……殺しはしないが、それでも多少の傷は覚悟してもらう」

 アイドス・グノーシスを正面に構え、上空から急降下する。
 迎撃するために放たれたのだろう、暗黒属性の魔力弾を速度を上げながら回避。
 接近して剣を振り下ろすが、障壁に阻まれ体毛で覆われた体にまで届かない。

 そのまま、爪による攻撃を避けながら、風鎌剣による高速の連撃を繰り出す。
 しかし如何せん一撃が弱い。
 傷を負わせるには至ったが、この程度ならば瞬時に回復されるだろう。

「冥府の番犬は名ばかりというわけではないか。たかが犬の分際でオレの攻撃を全て受け止めるとはな」
『……ルシファー?』

 私は即座にその場から退避し、攻撃方法を変更する。
 まず周囲に冷却の魔術で壁を作り、逃げ場を無くす。
 唸り声を上げて、僅か動揺を見せたケルベロスを視認しつつ、更なる追撃の魔術を行使する。
 もとより私は剣技も得意ではあるが、魔術行使の方が錬度は高い。

 絶対氷剣を何本か打ち込み、四肢を地面に縫い止める。
 そして神剣に魔力を収束。
 魔法剣スティルヴァーレの準備に入る。

「……グルルル」

 唸り声を挙げるケルベロスを一瞥し、神剣を振り降ろした。
 神の炎と呼ぶに相応しい熱量が、塊となって魔獣を襲う。
 対象に衝突した灼熱の剣撃を形成する炎が、一気に膨れ上がって紅蓮の華を咲かせた。
 ……しかし、敵の魔防は大したもののようだ。

「――」

 ――健在だ。
 火傷を負っているようではあるが、流石と言ったところだろう。
 ならば冷却系魔術、氷垢螺の絶対凍結でケルベロスを異次元に引きずり込み、氷結させる。
 それで今度こそ終わりだ。オレの邪魔をするのならば容赦は――

「なん、だ……? 今、私は何をしようとした?」

 今、私は自分を何と言った?

「くっ!」
『ルシファー!』

 私の困惑を感じ取ったのか、ケルベロスは低空を飛ぶ私に飛び掛かってきた。
 咄嗟に左腕を差し出し、致命傷だけは免れた。
 しかし、代償は大きい。

「……不覚だな。戦闘中に気を取られるとは」

 神剣を振るうのは、これでは難しい。
 血が流れ出る左腕を押さえ、僅かな時間思考を巡らせる。

 ……あまり気は進まないが、今ある魔力を用いて再構成するのが最善だろう。
 性魔術の応用で自分の精神に干渉。
 痛みを遮断し、左腕に魔力を流し込む。

 これで身体的には元に戻ったが、失った魔力の量が許容の範囲を越えていた。
 腕一本でこの様。
 一級神なら兎も角、多くの魔神がこの手段をほとんど取らないのは無理も無い。
 魔力を失えば、戦うことすらできずに自滅する危険性がある。
 真鍮の封印王《ソロモン》に連なる魔神や、古神に匹敵する魔神ならば可能だろう。
 しかし、誰も好んでやろうとは思わないはずだ。

「少し、厳しいか……」

 先ほどの自分はいったいどうなっていたのか。
 自分ではない別の何かに突き動かされるような感覚。
 まさかこの地に“もう一つ”の肉体が……。
 ならば、私は肉体に宿る記憶に精神が引きずられたのか――?

「ああ、素晴らしい! 何という力!」

 混乱する思考の中に、突如気が狂ったかのような哄笑と共に届いた大声。
 それで私とケルベロスは視線を交わし、戦闘を中止した。

「さあ、私の女神よ。今こそ私の元へ。そして、私にその力を与えよ! この腐海の魔術師に!」
「……おじさん……うるさい…………あっち、行け……」
「良いのですか? 主に逆らえば、その痛みは貴女にも跳ね返る」
「……別に、いい……もう、お前には……従わない」

 ……なるほど。
 あの魔術師がナベリウスを操っていたわけか。
 となればおそらく、あいつがカラータの行方不明事件の首謀者。

「貴様、生贄の魔術をレウィニアで実行するなど、水の巫女に喧嘩でも売っているのか」

 私の言葉に、はっとしたレクシュミが魔術師へ向けていた殺気を強める。
 セリカやシャマーラも同様の思いを抱いたのだろう。

「魔神よ、俺も協力しよう。こいつをここで放って置くわけにはいかない」
「……協力……人間が、私に……?」
「そうよ。魔術師だか何だか知らないけど、いくら魔神っていっても、こんな小さな子を虐めるなんて許せない」
「別におかしなことではない。魔神にも様々な者がいるように、人もそれぞれで考え方が違う。
 ……レウィニアの民を犠牲にした報い、今ここで受けてもらおう!」

 明確な強い意志の宿る彼らの言葉。
 しかしそれを受けた魔術師は、まるで聞こえていないかのように私の方を向いて、

「誰かと思えば我が神の兄君ではないですか。そして――」

 魔術師の視線が私の両腕。
 握られた神剣アイドスに向けられる。

「こちらも素晴らしい力だ。流石は我が女神の妹君というだけのことはある。
 やはり、女神を手に入れるには、同じ女神の力が必要になるのか……」
「……貴様、何を言っている?」

 女神というのがセリカのことならば、アイドスが妹であるというのは分かる。
 しかし、私が“やつの神”の兄、だと……。
 
 おそらく、嗤ったのだろう。
 顔を覆うぼろ布から覗く、紅い瞳を僅かに細め、

「やはり、私の女神は怒った顔も美しい。貴方もそうは思いませんか?」
「……戯言はいい。私が兄とはどういうことだ?」
「ははっ、今回は面白い収穫もありました。これで退かせてもらいましょう。ですが――」

 そして、魔術師は私が次の言葉をかけるよりも早く、冥き途から姿を消した。





 紅き月ベルーラに照らされた、レウィニアの私の屋敷。
 侍従が整えたのだろう自室のベッドの中。
 汚れ一つ無い天上を見つめながら、私は冥き途でのことを思い返していた。

 ――冥き途。

 あの後魔術師が去ってから、契約に囚われていた魔神ナベリウスを助けるため、セリカが性魔術を用いてその呪縛を断ち切った。
 そのお礼というわけでもないのだろうが、彼女はセリカの使い魔になることを決める。

 ナベリウスの言動を見ていて気付いたのだが、どうやら彼女は外界に興味を持っていなかったらしい。
 それが、今回の件で人間に興味を持つようになった。

 つまるところ、彼女は“名も無き世界”にいたころの私と同じだ。
 世界がそこだけで完結しているが故に、外に関心を持つことは無い。
 ならば、彼女を変えることができる者は、外の者以外に在り得ない。
 同じ魔神である私には不可能。
 しかし、ハイシェラを変えたセリカならばあるいは……。
 終始こちらを窺っていたハイシェラが、その後立ち去ったことを思えば、おそらくそのセリカの行動が狙いだったのだろう。

 外界に興味を向けるという変化は、決して悪いものではない。
 それは、経験者である私が言うのだから間違いない。
 使い魔となったナベリウスは、果たしてどんな世界を見るのだろうか……。
 尤もその後、私を認識したナベリウスが、

「……王様……?」

 などと言い出したのには困った。
 何度違うと言っても、王様と言い続ける始末。
 ……私は王などになる気はないのだがな。

 その後、失った魔力を回復するため、私とアイドスは一度レウィニアの屋敷に戻ることになった。
 本来ならば娼婦でも雇い、性魔術を以て回復するのが早いのだろう。
 だが、悪いことに魔力を失い過ぎた今の私は、はっきり言って相手を殺さない自信が無い。
 となれば魔物を殺し続け、その力を奪うしかない。

 同様に水の巫女への報告のため、レウィニアに帰還したレクシュミ。
 そこから受ける指示如何によっては、私が取るべき手段も変わってくるのだろう。
 結局、やたらに魔物を殺すわけにもいかず、巫女の依頼次第ということになった。

 セリカたちは私たちと別れた後、報酬を受け取って、またしばらくレウィニア近郊を探索する予定らしい。
 オディオが本格的にセリカを狙って動き出すまで、残された時間はおそらく僅か。
 それまではもうしばらく、約束通りに彼らを見守ろうと思う。

 そこで私は、思考を別のことに切り替える。
 言うまでも無く、それはあの腐海の魔術師と名乗った男の発言だ。

 冥き途に渡り、精神が引きずられるような感覚に陥ったのはある程度納得はできた。
 アイドスの説明を聞けば、冥き途には冥府よりなお深い場所に、奈落と呼ばれる場所が存在するのだという。
 おそらくはそこに、封じられているのだろう。
 かつて主神に戦いを挑んだ、もう一つの熾天魔王の体が。
 
 厳密には別物とはいえ、私がかの古神の神核を継いでいることに変わりは無い。
 それ故に、精神が一時的に熾天魔王《サタン》に成りかけた。
 そういうことだと、結論付けることができる。
 何れにせよ、自我意識を保てなくなるあの場所は、私にとっては鬼門になるだろう。

 原因は取り敢えず分かったのだから、それはいい。
 問題は、あの魔術師が言ったこと。
 私が“やつの神”の兄とはどういうことなのだろうか。

 思い出すのは、百二十年前に精神世界でサタンに告げられた言葉。
 確か「その者は、汝と同じ時期に、この世界に堕ちている」だったか。

 まさか、本当にオディオが私の弟だというのか……。
 だとすれば、私は自分の弟を殺すことに……。

 考えても仕方がないのは分かっている。
 直接相対して見なければ分からない。
 
 だがそれとは別に、私は一つの不安を抱えている。
 腐海の魔術師が冥き途を去る瞬間に私だけに告げた言葉、

「ですが――私の女神同様、必ず貴方の女神もあの方の贄のため、頂きます」

 何を馬鹿なと思う。
 どれほどあの魔術師の力が強かろうと、私とて易々アイドスを奪われるまねはしない。
 ましてアイドス自身、強大な力を持った古神だ。
 だが、そこにオディオが加わるとなれば――

『ねぇ、ルシファー。少し話をしましょうか』





『こうして二人で旅を続けてきて、本当にいろんなことがあったわよね』
『……どうしたんだ、突然』

 アイドスの、いつもの快活な口調に陰りがある気がする。
 ベッドから体を起こし、傍に立て掛けてあった神剣アイドスに視線を向けた。

『少し、これまでのことを考えていてね。
 貴方と出会ってこうして共に歩んできたけど、私の選択は、今回は間違っていなかった』
『……よく分からないが、お前がそう思っているのならば私は嬉しく思う』

 くすりと、彼女が笑った気がした。

 ふと、何とも言えない衝動が湧き、視線を神剣から逸らす。
 視線を向けた先では、紅い月の光が窓から入り込み、部屋全体を照らし出していた。
 あまり華美な装飾を好まないため、私は調度品の類をこの部屋には一切置いていない。
 ベッド以外には、家具は魔術書の並んだ本棚くらいのもの。
 殺風景な部屋を、今だけは少し恨めしく思う。

 そうやって何とはなしに、ぼんやりと部屋を眺めていると、

『今日は紅い満月の夜。だから、今ならきっと――』

 アイドスが告げたその言葉の直後、神剣が淡い光を放ち始める。
 この光景を見るのは二度目になるだろうか。

 一度目は紅き月神殿。
 ハイシェラがどうしても姿を見たいと、そう言ったためだったように思う。
 例え神であろうとも、肉体の再構成には負担がかかる。
 アイドスの場合は滅ぼされたわけではないので大したことはないのだが、それでも制約は当然あった。
 
 彼女が実体化する条件は一つ。
 赤き月神殿のような、魔力が高まり召喚の儀式を行うことができる場所にいること。
 故に今日のような、欠けていない紅い月の夜は、

「この姿で会うのは久しぶりね、ルシファー」
「……そうだな、アイドス」

 彼女が顕現する条件を十分満たしていた。





 紅く長い髪を揺らし、彼女はベッドの縁に腰掛ける。
 真っ白な肌は月の光に照らされて、清らかながらも確かな色気を帯びていた。
 
 振り返るようにして、私を覗き込んできた彼女の顔。
 少し潤んでいるような琥珀色の瞳は、すっと真っ直ぐに私を見つめている。
 精霊種に近い感覚を抱かせる雰囲気と相まって、その光景はひどく神聖なものに思えた。

 恐ろしいほどに美しいというのは、まさに彼女のことを言うのだろう。
 強く惹き付けられ、彼女から目が離せない。
 女神と呼ぶに相応しい美貌は、抗い難いほどに私を誘惑してくる。
 これでは、あの狂った魔術師のことをどうこう言えそうにないな……。

「本当に多くの人間と出会った。
 いいえ、人間だけじゃなく、変わった魔神にも現神にも会った」
「……本人にあったわけではないが、お前に浄化の力を貸したのは蒼き月の神リューシオンだったな」

 こくりと、ゆっくりアイドスは頷く。

「神の力に頼るのではなく、自らの意思で生きようとする人間にも出会った」
「……シュミネリア・テルカ。ハイシェラという王を見て、そして自らも女王としてイソラ王国を治めた賢王」
「当時は何となくだったけれど、今ならはっきりと理解できる。
 人の弱さも、そして彼女のような人の強さも」

 顔を正面に戻して私に体を預けるように寄りかかり、アイドスは続きを語る。

「ただ、私はそれを認めたくなかったのだと思う。人は神の加護が無くても生きていける。
 そう思ってしまったら、慈悲を冠する私の存在理由は……」
「それは――」
「――でもね」

 彼女は言い淀んだ私に被せるように、

「だからこそ、きっとお姉様は人として旅をしていたのだと思う。
 人に必要なのは神では無く、同じ人の力。それを知ったから」
「……それだけではないだろう。彼女は現神に危険視される一級の古神。
 その力を封じなければ、人に関わるのも一苦労だったはずだ」
「ええ、そういう理由もあったでしょうね。でもそれは、実際に会ってみないと分からない」

 何かを願う信者のように、アイドスは瞳を閉じた。

「……お姉様は人として行動して、最後にどんな答えに辿りついたんだろうか。
 そう思ったとき、私にもまだできる事があると気付いた。だからね、ルシファー」

 振り返り、彼女は優しげな瞳で私を見つめてきた。

「私はその答えが見つかるまで……いいえ……その答えが見つかってからも、ずっと貴方と生きていきたい」
「……何故、私と?」
「貴方が私を救ってくれた。道は一つではないのだと教えてくれた。そして――」

 僅かに頬を染め、

「何よりも、こうして共に歩むうちに、いつの間にか貴方がもう一つの、私の生きる意味になっていた。だから――」
 
 それは私も同じだ。
 そう言いかけて――止めた。
 代わりに、

「ル、ルシファー!?」
「……よく分からないが、これが一番正しい答えだと思った」

 そっとアイドスを抱きしめていた。
 壊れ易い硝子細工でも扱うかのように、優しく胸に引き寄せる。

「……貴方とこうするのは、これで三度目ね」
「……そうなるな」
「ねぇ、ルシファー。自分の行動の意味分かっているの?」
「どうだろうな。ただ、そうしたいと思ったからしただけかもしれない」
「……仕方がない人ね。でも、そんな貴方だから私は――」

 私にしては珍しい、本当に強烈な衝動。
 先の戦いで魔力が尽きかけていたことが理由では、ない。

 強く抱きしめ、言葉を遮って口付けをする。
 普段ならば、単なる魔力補給としか感じない行為。
 だが、今はそれだけではない。
 彼女が欲しい。
 そう感じた。
 そしてそのまま、衝動に身を任せ――





 明くる朝、目覚めるとすでにアイドスは剣に戻っていた。
 本人に尋ねると、新たな魔術攻撃か何かと思うほど怒鳴られた後、恥ずかしかったのだと告げられる。
 昨日は随分積極的だったのだが、その辺りは変わらないらしい。
 一度怒鳴られて何となく言ってはいけない気がしたため、本人には伝えていないが。

 今にして思えば、きっとアイドスは彼女なりに、私の悩みをどうにかしたいと思っていたのだろう。
 要らぬ心配をかけたと思う半面、その思いを嬉しく感じている自分がいることに気付く。

 だが、アイドスのおかげで随分と楽になった気がするのだ。
 魔術師の言葉はアイドスにも届いていたはず。
 だというのに、彼女は私の心配をしていた。
 これで、私がいつまでも悩んでいたら馬鹿ではないか。

 それに例え相手が何者であれ、関係ない。
 私はただ、私の思う通りに行動すればいい。
 そういえば、水の巫女も似たようなことを言っていた気がする。
 まさかこうなることを予知していたのだろうか?
 ……在り得ないと言い切れないのが恐ろしい。

 早い話、私にとって優先すべき相手は誰なのかということだ。
 水の巫女やレクシュミにとってはそれが、レウィニアの民。
 ハイシェラ、アムドシアスは自分自身だろうか……。
 セリカは記憶を失っているが、アストライアになるのだと思う。
 アイドスは……、

『どうしたの?』
『……昨日のお前は特に綺麗だったと思い出しただけだ』
『え? ……い、今すぐ忘れなさい、ルシファー!』

 レウィニアの街を歩く中、私が意識を向けたことに気付いたアイドス。
 そんな彼女の優先すべき相手は、勘違いでなければ私なのだろう。
 そして、そんなことを思う自分に僅かに驚く。
 ……そう思えるほどには、私は“私”として確立したらしい。

 だとしたら、だ。
 私が優先すべき相手もまた、アイドス以外にいるはずがない。
 まして、血の繋がりがあるわけでもない邪神。
 会ったことさえない“義弟”が敵対してくるというのならば……。

 神々の世界でもまた、兄弟同士の争いなど珍しくはないのだ。
 ならば、せめてその罪を背負うことにしようと思う。
 アイドスやセリカ、私の優先すべき者たちを弟かもしれない者が――オディオが狙うというのならば、揺るがぬ決意をしよう。
 そう――弟の命を奪うという決意を。





 屋敷の二階のバルコニーのテーブルの椅子に、私とレクシュミは向かい合って座っていた。
 私がレウィニアの屋敷に戻ってから、二週間ほどが経つ。
 アイドスのおかげか魔力もほとんど回復し、十全たる状態に戻りつつあった。

 そして私は、屋敷で療養している間のセリカたちの動向を、レクシュミに聞いていた。
 彼らはブレニア内海に面した場所にある、南の庭園遺跡に出向いていたらしい。
 あんな場所に何かあったかしらと、アイドスは不思議に思ったようだ。
 まあ、何かあるから出向いたのだろう。

 そして、次の目的地をレクシュミに尋ねたところ、

『メルキア王国、王都インヴィティアか……。どうやら余程運命の神はセリカを逃したくないらしいな』
『ラケシス、クロト、アトロポスの三姉妹ね。でもあの三人は三神戦争で確か……』
『……そういう意味で言ったのではないのだがな』
『そ、それくらいもちろん分かってるわよ!』

 兎も角、ならば私の次の目的地は確定した。

 毒が突然湧き出し、土壌が汚染されたという奇妙な事件。
 メルキア王国にはオディオの本体がいる可能性が高い。
 そして、もしそうならば、必ず向こうから姿を見せるはず。

「レクシュミ、セリカたちとは一時別行動を取ろう」
「……それはいいが、何故だ?」
「誤魔化す必要は無い。戦神の聖女があいつと接触したがっているのだろう?
 動くとすればそろそろだろうからな。ならば、そこに私がいては邪魔になる。
 目の前に魔神がいるというのに、落ち着いて話ができるほど胆の据わった女なら話は別だが」
「あの方なら、できる気がしてならないぞ」
「……そんな気もする、な。しかし聖女が平気でも、周りの兵はそうはいかないだろう。
 そしていくら水の巫女の客とはいえ、魔神である私が許可なしに王都に入り込むのはまずい。
 万が一にも正体が判明したら、この国とメルキア王国の関係がどうなるか分からない」
「……是非も無い。で、どう動くのだ?」
「セリカが動けば、その肉体を狙っているオディオも今度こそ間違いなく動く」
「冥き途での一件で、もしかしたらと思っていたが……。
 やはり貴方も、メルキアの事件もあの魔術師によるものと感じているのだな。
 そして貴方は、それがオディオに力を与えるための、生贄の魔術の代償と考えている」

 流石、レウィニアの紅き盾といったところか。
 こちらは大して意図を伝えたわけでもないのに、そこまで察するか。
 この分ならば、結論に至っていてもおかしくはないな。

「ああ、だから始めはセリカとは別行動をしてメルキア入りする。
 お前は、王都来訪の許可が下りるだろうから、そこでセリカの動向を掴んでくれればいい。
 私は近隣の村落で待機して、何かあった場合に――」
「――つまりそれは、セリカを餌にオディオを誘き出すということだな」
「身も蓋も無い言い方をすればそうなるな。もっとも囮になる可能性があるのはセリカだけではないが」
「それは、どういうことだ?」

 言うべきか、言わざるべきか迷い、結局私はレクシュミを信じてアイドスのことを打ち明けた。
 レクシュミは初め大きく目を開き、次いで険しい顔になり、そして最後に、

「……少なくとも、巫女様がそれを承知で貴方を受け入れたのならば、私が言うべきことは何もない。
 それに、貴方の人柄は、短い間ではあるが、共に行動して幾分理解したつもりではある。
 その貴方が大切だというのならば、古神とて邪神というわけではないのだろう。それに……」
「それに?」
「その、私も貴方のことは嫌いではないと感じている。
 だからアイドスという古神がどのような存在なのかも、何となくではあるが分かる気がするのだ」
「そうか……礼を言う」
「れ、礼を言われるようなことは言っていない」

 それきり、レクシュミは黙ってしまった。
 だがそれが照れ隠しなのだと、今の私には理解できる。

「アイドスは常に一人で争いの無意味さを説いてきた。しかし、誰も彼女を理解しようとはしなかった。
 争いを無くすなど、人間からすれば夢想でしかないし、ましてアイドスは古神。
 現神の支配するこの世界において、だからこそお前のような存在は貴重だと思う。だから、礼を言う」
「……貴方は、本当に慈悲の女神を大切に思っているのだな」
「ああ、守りたいものだと感じている。無論、そこにセリカやお前も入っているが」
「か、勝手にしろ!」
「そうさせてもらう」

 何度となく似たような状況になったことはある。
 しかしやはり多少人というものを理解しても、何故彼女たちがこのように動揺するのか。
 その原因だけは未だに理解できない。恥ずかしがっているのは分かるのだが……。
 人間というのは複雑だ。
 まあ、そんなことは今はいい。
 
 メルキア王国――王都インヴィティア。
 魔神としてなら兎も角、レウィニアの客である現状で、私がそこに行くことはできない。

 だが、もうすぐということになるのだろう。
 百七十年に渡る一つの旅の目的を果たす時が、確実に近づいていた。



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