(私はいったい何をやっているんでしょうか……)

 ナデシコ食堂の椅子にちょこんと所在なげに座りながら、少女はそっと嘆息した。

 何をやっていると問われれば、実は答えは分かり切っている。だとしても、嘆かずにはいられない。ルリはこの世の不条理を噛みしめていた。

「はい、おまたせ」

 ことん、とルリの目の前に不条理が形を成して現れる。少し大きめの皿にこんもりと盛られたチキンライス。ケチャップの色に染まったご飯が、ほかほ かと湯気を上げている。

 ルリは俯いた顔を上げた。にこにこと馬鹿みたいに笑うこの少年。彼の行動が全く理解できない。

 お腹の虫の音を聞かれただけでも耐え難いというのに、彼はデリカシーもなくそれを指摘し、食事を持って来ると言う。自分が懇切丁寧に断ろうとして いるにもかかわらず、『いいからいいから』と曖昧に笑うだけで真面目に取り合おうともしない。

 あまつさえ持ってきたのは自分の嫌いなご飯ものである。恨めしげにチキンライスの皿を見つめていると、

「ごめんね。俺ってまだ見習いだから、これしか作らせてもらえないんだ」

 頭を掻きながら、本当にすまなそうに言う少年に、ルリが答えられたのは、

「はあ、そうですか」

 という我ながら間の抜けたものだった。どう受け取ったのか、少年がもう一度「ごめんね」と頭を下げる。

 非常に居心地が悪くなった。

 困った。どうしたものか。

 ここでにべもなく断れば、このまま少年は沈んで二度と浮かび上がっては来れないほどに落ち込んでしまうかも知れない。

 自業自得、因果応報。そんな四文字熟語が頭に浮かぶが、さすがにそれは決まりが悪い。感じる必要もない罪悪感が、状況を思い浮かべただけでひしひ しと沸き上がってくる。

(人間関係を円滑にするのは、作業効率の上でも大切よね……)

 そんな年齢にそぐわぬことを考えながらスプーンを手に取る。薄赤色の小山にさくりと突き刺し、ちょうど自分の口に無理なく収まる大きさにすくう と、それをおもむろに口に納めようとしたところで、じ〜っと自分を凝視している少年の顔が目に入った。

「……そんなに凝視されると、食べにくいんですけど」

「あっ、ごめんね」

 少年は慌てた様子で厨房に戻っていく。それでも気になるらしく、皿を拭きながらもこちらをちらちらと窺っているのがわかる。非常に居心地が悪い。

 気にしたら負けだと訳の分からない事を考えながら、チキンライスを口にする。ぱくり。

「……甘い」

「えっ、そう?」

 声。先ほどまで厨房で皿を磨いていたはずの少年が、何故か自分の背後にいた。

(いつの間に……?)

 後で絶対オモイカネに言って調べさせようと思いながら、表面上は至極平静に受け答える。

「……本当です」

「う〜ん、甘めの方がよかったかと思ったんだけど……」

「私、そんなに甘いものが好きという訳じゃありませんから」

「そうだったんだ……ごめんね。先に訊いてればよかったよ」

 沈み込んだ表情で少年は謝る。

「別に、気にしなくてもいいです。食べられないわけでもありませんし」

 ルリがそう言うと、少年は眉間にしわを寄せて唸りだした。

「う、ん……ホント、ごめんね。この次は、もっとちゃんとしたものをごちそうするから!」

「……は?」

 一瞬、ルリは何を言われたのか分からなかった。この話題はこれで終わりだと思っていたからだ。

「もちろん、俺がおごるからさ! それまでに腕を磨いておくから」

「え〜と……」

 一人で勝手に盛り上がっている少年は、こちらの呼びかけにも答えようとしない。

 次も何も、私はもうここに来る気はないんですけど……

 そう、言ってやろうとしているのだが。

「あっ、そう言えば自己紹介してなかったけ? 俺、テンカワ・アキト。よろしくね」

「はあ……知ってますけど」

「君は?」

「私は……」

 アキトのペースに流されて、自分の名前を告げようとしたところで、暑苦しい声がナデシコ食堂の中に響いた。

「何だ何だ、暗いな〜ぁみんな! よーし、俺がいいものを見せてやろう!」

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第12話

「今までに、出来ない何か」



 

(私はいったい何をしているの……?)

 ナデシコ食堂の片隅で一人項垂れて、彼女は答えの出ない自問自答を繰り返していた。

 もともと、自分は何故このナデシコに乗ろうとしたのだろうか。

 その答えは簡単だ。もう一度逢いたかったから。

 地球でどんなに木星蜥蜴を撃ち砕いても、どれほど賞賛の声を浴びても、決して心の裡の靄が晴れる事はなかった。

 1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、そして半年が過ぎた頃、イツキは一つの考えに辿り着く。

 待っていても逢えないのなら、逢いに行こう。たとえ徒労に終わったとしても、何もしないよりはましだ。

 その頃から、イツキは火星へ行く方法を考え始めた。

 英雄と褒め称えられても、所詮は一介のパイロット、軍の戦略にまで口を挟めるわけはない。それでも何か方法がないかと手を尽くしているところに、 プロスペクターからの誘いの声がかかった。

 スキャパレリ・プロジェクト。ネルガルの新造戦艦による、第一次火星調査団。

 心が躍った。ようやく火星へと行ける。彼に逢える。

 正直、彼に逢ってどうしたいという明確なビジョンがあったわけではない。ただ一言だけ、謝りたかった。そして怒りたかった。何故あの時、一人だけ で残ったのか。自分はそれほど頼りない存在なのかと、問い詰めてやりたかった。

 それさえできれば、軍での立場など惜しくはなかった。周囲の反対を押し切って、イツキはプロスのスカウトを受ける。そして彼との再逢。

 自分の願いは半ば叶ったというのに、現状はどうだ。

 今の自分は軍の命令に反抗する事もできず、ただ黙って傍観していただけだ。

 地位も、名誉も惜しくない。なのに『命令』という言葉がイツキを縛り付ける。

(私は……)

 そっと視線をあげる。その先では、黒ずくめの青年が女性二人と言葉を交わしていた。

 

          ◆

 

(どういう状況なんだ、これは……)

 バイザーの下に隠されて鉄面皮が揺らぐ事はなかったが、彼は明らかに困り果てていた。

 物思いに沈んでいた所にミナトとメグミに声をかけられ、自分は素っ気なく対応していたはずなのに、何故か向こうは盛り上がって、きゃいきゃいと声 を上げている。

「ねえねえ、ちょっとそのバイザー取ってみてくださいよ」

「いや、悪いが……」

「そうよメグちゃん。人それぞれ事情があるんだから、無理言っちゃだめよ」

「あっ、それもそうですね。ごめんなさい、黒百合さん」

「別に、気にする事はない」

「そうですか?……黒百合さんって、結構優しいんですね。最初に見たときはどんな人なのかと思っちゃいましたけど」

「やーねぇメグちゃん、見かけで判断しちゃダメって言ったでしょ?」

「そうですねー」

「…………」

(何なんだ、いったい……)

 正直、辟易している黒百合だ。

 はっきり言って女性は苦手である。旧ナデシコ時代に女性関係でさんざんな目にあったためか、その苦手意識はトラウマに近い。ある程度親しくなれば その限りではないが、『こちら』の世界でメグミとミナトとはほとんど話をしていなかったはずだ。

 周囲では整備班のクルーたちがが恨めしげにこちらを睨んでいるが、視線そのものには気づいていても、そこに含まれる意味には当然黒百合は気づかな い。

 どうしたものかと辺りを見回したところで、黒百合の視界に瑠璃色の髪が目に入ってきた。

 動かなくなった黒百合を怪訝に思ったのか、ミナトたちもその視線を追う。そこはちょうど、アキトがルリにチキンライスを持ってきたところだった。

「あら、ルリちゃんったら。食堂でご飯を食べてるなんて珍しいわねぇ」

「あのコックの人って、確か出航の時にロボットに乗ってた人ですよね?」

「そう言えばそうねぇ。いつの間に仲良くなったのかしら」

 微笑みを浮かべてルリになにやら話しかけているアキト。時折謝るように頭を下げているが、ルリの表情は少なくとも嫌がっているようには見えない。

 しかしそれは、ルリとの付き合いがまだ数週間しか経っていないミナトたちから見た物であり、(一方的にではあるが)付き合いの長い黒百合には、そ の動かない表情に浮かんでいる戸惑いの色を見て取れた。

 きっと、今までに自分の蓄積してきたマニュアルの中にない反応を返してきた人物に対して、どう対処してよいのか分からないのだろう。ルリが普通の 少女らしい感情を身につけていったのは、ナデシコでの日常で人の温かみにふれて、その心の殻をゆっくりと溶かしていってからだ。

「……彼女は確か、オペレーターだったな」

「ええ、そう。ホシノ・ルリちゃんって言うのよ。ちょっと変わってるけど、いいコよ」

「そうか……ネルガル秘蔵のマシンチャイルド、というわけだ」

「……ちょっと! そんな言い方しないでよ!」

 黒百合の物言いに、思わずかっとなってミナトが厳しい声を出した。周囲にいた数人が、何事かと振り返る。ミナトもまずいと思ったのか、それからは 声を潜めたが、口調自体は変わってはいなかった。

「マシンチャイルドだか何だか知らないけど、それってあのコが悪い訳じゃないでしょ!? そんな言葉で、あのコをひと括りにしないで!」

「ミナトさん……」

 メグミが驚いたような視線を彼女に向けている。ここまでミナトがルリの事を想っているとは想像していなかったのだろう。そしてそれは、黒百合も同 様だった。

 前回、ミナトが何くれとなくルリに気をかけているのは知っていたが、こんな最初の時期からだったとは思ってもいなかった。意外に思うが、それ以上 に、我が事のように嬉しくなる。

 これほどまでに気をかけてくれる者がいるのだ。大丈夫、ルリは変われるだろう。自分が何か考えるまでもない。自然と時は移ろい、人は変わっていく のだ。

(こんな事まで忘れていたんだな……)

 黒百合の表情が和み、その口元が綻ぶ。それを見たミナトが、逆に戸惑いを浮かべた。

「な、何?」

「……ああ、すまん。そんなつもりはなかったんだ。俺も昔、あの娘に似たような子供を知っていたんでな」

「え……そうなの?」

「ああ。その娘も始めは誰に対しても冷淡だった。人の温もりというものを知らずに育ったせいだろうな。他人に対して、ほかにどんな態度をとっていい か判らなかったんだ」

「……」

「だが、家族の温もりにふれて、少しずつ少しずつ変わっていった。自分では自覚していなかったんだろうが、傍目から見れば明らかなほどに、その娘は 感情を取り戻していったよ」

「そう……なの」

 懐かしそうに語る黒百合に、メグミは唖然としたような顔を向けている。しかしミナトは、彼の言葉の端々にあらわれる暖かみのある感情を見て取っ て、柔らかい視線を黒百合へと送った。

「ちょうど、最初の頃はあんな感じだったな」

「そのコって、貴方の……?」

「……そうだな。妹……そう、妹みたいなものだった。血の繋がりはなかったが……」

「そう……」

 何となく、会話が途切れる。

「……その娘が変われたのも、やはり周囲の環境というものが大きい。ハルカさん、だったな。俺から頼むまでもないかもしれんが、あの娘に対して何か と気をかけてやってくれないか。あの年齢では、周囲の年上の女性に影響される部分も多いだろう」

「え? ええ、それは構わないケド……貴方は?」

「……俺には、無理なんでな……」

「え? それって……」

 言い残して、その場を離れる黒百合。言及しようとしたミナトの言葉は、暑苦しい漢の声に掻き消された。

 


 

 ナデシコ食堂に設置されたスクリーンにでかでかと映し出されたのは、ヤマダの持ってきたディスク『熱血ロボ・ゲキガンガー3』である。

 まずこれでクルーの4割が引き、3割が興味を失ったように散って行った。

 残ったのは暇を持て余している、好奇心の強い面々だ。

「あれ? これってオープニング違うじゃん」

「おっ、わっかる〜? 第3話から本当のオープニングが始まるんだよねぇ〜」

 嬉しそうに話すヤマダと、懐かしそうに眺めるアキト。しかし、周囲の反応は至って淡泊だ。

「しっかし暑苦しいなぁこいつら」

「技の名前を叫ぶのは、音声入力なのか?」

 己の聖典たるアニメを馬鹿にされた憤りか、ヤマダは立ち上がってモニターに背を向けた。訴えかけるように、両腕を大きく広げて、

「ちっがーう! これこそが熱血なんだよ! 魂の迸りなんだよ! わかるだろう!?」

 大声を聞いたクルーたちが、『ナニ言ってんだコイツ』というような目でヤマダを見やる。

「みんな、この燃えるシチュエーションに何も感じないのか!? 奪われた秘密基地! 軍部の陰謀! 残された子供たちだけでも事態を打開して、鼻を あかしてやろうたぁ思わねぇのかぁ!?」

「誰だよ、子供って」

「具体的にどうするつもりなんでしょうねぇ?」

「きっと何も考えてないのよ」

「ばかばっか」

 ヤマダの主張は、至って不評のようだ。松葉杖を片手に真っ赤になって叫ぶヤマダ。ますますうんざりした顔を作るクルーたち。

 その輪の中に参加せず、一人モニターを凝視していたアキトは、何かを決意した真剣な面もちで立ち上がる。傍らに携えていた中華鍋を握り締め、ぽつ りと独り言のように呟いた。

「……俺、ロボットで脱出して、艦長を連れ返して来る」

 あまりに抑揚のない声のために、周囲にその意味が染み渡るのに時間がかかった。反応は、1秒後にやってきた。

「「「「「「……ええ〜!?」」」」」」

 ちょっとした騒ぎが起こる。しきりにやめるように言ってくるウリバタケや陶酔しているヤマダの言葉には全く耳を貸さず、アキトはナデシコ食堂の出 口に向けて足を踏み出す。その背後に、声がかけられた。

「やめておけ」

 決して大きくない、物静かな声。それでも周囲に響き渡る何かを持っている。誰もが皆その声主に顔を向けた。物思いに沈み込んでいたイツキも、声を かけられた本人であるアキトも。

 その視線の先に佇む、黒ずくめの青年。黒百合はただ冷淡に言葉を続ける。

「相手は腐っても軍隊だ。銃で武装もしている。素人が鍋を振り上げたところで、蜂の巣にされるのが落ちだぞ」

「……なら、どうしろって言うんだよ」

 憤るアキト。

「俺は、火星に行きたい。行って、火星のみんなを助けたい!

 世界中のみんなが戦争の事しか考えてなくても、きっと何か出来る事があるはずなんだ。みんな、今までに出来ない何か、それをするために、ここに集 まったんじゃないのか!?」

 半ばは自分自身に言い聞かせているのだろう。たどたどしい口遣いだが、そこに籠もる想いは直に皆に伝わった。

 しばしの沈黙をはさんで、再び黒百合が口を開く。

「……お前の職業は何だ?」

 唐突な問いだった。面食らったアキトだったが、

「お、俺は……コ、コックだ!……まだ見習いだけど……」

 最後の方は尻つぼみに途切れる。まだ自分に自信が持てない事の現れだ。

「見習いだろうが何だろうが、コックならコックらしく厨房を守っていろ。戦闘はパイロットの仕事だ。そうだな? イツキ」

 話を振られて、イツキがはっと顔を上げた。バイザー越しに視線が合うと、まるで自分の心が見透かされているかのような錯覚に陥る。

 イツキもまた、アキトの語る言葉の中に自分の探していたものの答えを見つけていたのだ。

 もう一度火星に行きたいと思った。黒百合に逢いたいと思った。火星の人たちを助けたいと思った。

 その根本にあるものは同じだったのだ。

 『今までに出来ない何か』。それを成すために自分は火星へ行くのだ。

 確認するように見返すと、黒百合はこくりと肯いた。

(とても敵いませんね……)

  イツキの心の奥から、何とも形容しがたい感情が沸き上がってくる。

「……そうですね。艦長の救出は、私たちに任せてください」

「あ、えっと、あんたはあの時の……」

 アキトが上擦った声をあげる。イツキはにこりと微笑みを返した。

「私は、パイロット兼オブザーバーのイツキ・カザマです」

「あ、お、俺は、テンカワ・アキト。コックっす」

「テンカワ……?」

 イツキが思わず黒百合を仰ぎ見た。その表情は、全く動いていない。

「あの?」

「あ、いえ、何でもありません。よろしく、勇敢なコックさん」

「よ、よろしく」

 差し出された右手と握手する。イツキの笑顔を間近で見せつけられて、アキトは頬を上気させた。と。

 ――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……

 低い鳴動の音と共に、ナデシコ食堂を揺れが襲う。

「な、何だ!? 軍隊の攻撃か!?」

「いくら連合軍でも、武装解除中の戦艦にちょっかいを出す事はせんさ」

 慌てふためく一同と対照的な、黒百合の落ち着いた声だ。

「じゃあ、これは……」

「蜥蜴だな。これで、こんな所で遊んでいるわけには行かなくなった」

「ど、どうするつもりだよ」

「ここから出る」

 黒百合は事も無げに言い放つ。食堂の出入り口のハッチの前で足を止めると、とある少女を振り仰いだ。

「……ルリちゃん」

「はっ?」

 面食らったような、彼女らしくない返事だった。目の前にいる青年からちゃん付けされるとは夢にも思っていなかったに違いない。イツキが共感するよ うに横でうんうんと頷いている。

「な、なんですか?」

「ハッチのロックを解除できるか?」

「あ、はい。……オモイカネ?」

『アンロック』『開錠』『いつでもOK!』

 そんな表示のウィンドウがくるくると宙を舞う。

「すまんな。皆、一応下がっていろ」

「黒百合さん? 何を……」

「まあ見ていろ」

 心配そうに声をかけてくるイツキに声を返して、黒百合は足を踏み出した。

 エアーの抜ける音と共にハッチが開く。その隙間に黒い影が滑り込み――その次の瞬間にはすべては終わっていた。

 

         ◆

 

 一方トビウメでは、ユリカがテーブルいっぱいに置かれたケーキを制覇していた。

 口の周りにクリームを付けながら、アキトの両親について尋ねる。

 コウイチロウが話す火星でのクーデターの真相を聞いて、ユリカは言葉を失った。

「そんな、アキトのご両親が……」

 テロに巻き込まれて死んだアキトの両親。しかも自分が火星を出た直後の出来事とあって、ユリカはショックを隠せなかった。

 重くなった空気を振り払うように、コウイチロウが口を開く。

「さて、ユリカ、そろそろいいだろう。ナデシコの引き渡しを……」

『提督! 大変です!』

「……何だ。どうした」

 肝心要の用件を切り出したところで、図ったようなタイミングで通信が入った。慌てた様子でブリッジ・クルーが報告を伝える。

『活動停止中だったチューリップが動き始めました。進路をまっすぐ武装解除したナデシコに向けています!』

「なっ、何ぃっ!?」

「ええぇっ!?」

 その報告に、ミスマル親子は揃って椅子を蹴って立ち上がった。

 

          ◆

 

 外には三人の兵士が立っていた。

 まずハッチの向こうに立っていた兵士の無防備な背後から、首筋に手刀を一撃。その男が倒れる前にその脇をくぐり抜けて、隣にいた男の腹に拳を叩き 込む。

「なっ!?」

 最後に残った一人が、慌てて手に持ったマシンガンを黒百合に向ける。しかし引き金を引く前に眼前が漆黒に覆われた。

 ゴシュ。

 左手でマシンガンを払いのけたのと同時、右の掌底が兵士の顔面を捉えていた。

 木連式柔の一・『虎顎』。

 くずおれる軍人。1秒にも満たない瞬く間の出来事だった。

 揃ってぽかんと口を開けているクルーたちに、黒百合は至極平静に言う。

「さて、さっさと行くぞ。まずは格納庫だ」

 

 

 格納庫は黒百合とゴート、そしてイツキの三人によって速やかに解放された。拘束された軍人が、イツキに向けて口惜しげに叫ぶ。

「カザマ中尉! 《紫衣の聖女》ともあろう者が、軍の命令に逆らうのか!」

「私は、自分の意志でこのナデシコに乗りました。命令は関係ありません。処分は、火星から返ってきたら受けますよ」

 穏やかにそう言い返して、イツキはエステバリスのコクピットに乗り込んだ。

 I.F.S.コンソールに右手を添えて、エステを起動させる。モニターが点り、照らし出されるコクピット。

『イツキ。俺はこれからブリッジの解放に向かう。艦長が戻ってくるまで、チューリップの注意を引きつけてくれ』

「はい、分かりました!」

 黒百合のコミュニケに返事を返し、イツキはレバーを握りしめた。

 さあ、行こう。これからが、自分の本当の戦いだ。

「イツキ・カザマ……参ります!」

 

          ◆

 

 トビウメのブリッジに戻ったコウイチロウは、開口一番、

「状況はどうか!?」

「敵チューリップ、現在、ナデシコより発進した機動兵器と交戦中です!」

「何だと?」

 モニターを見やる。紫色の空戦フレームが、華麗に宙を舞ってチューリップの触手を翻弄している。

「あのエステバリスの色……カザマ中尉か?」

「て、提督! ナデシコの連絡艇が、発進許可を求めています!」

「なっ、なにぃ〜!? ユ、ユリカ!?」

『あっ、はーいお父様』

 コミュニケからは脳天気な声が返って来た。

『ユリカ、何をしてるんだね!?』

『何って、ナデシコに帰るんです』

「帰るんですってお前……」

「ユ、ユリカ! ミスマル提督にナデシコを明け渡すんじゃなかったのかい!?」

『え〜? 私そんなこと言ったぁ?』

「「んなぁ!?」」

 あんぐりと口を開くコウイチロウとジュン。

『艦長たる者、決して艦を見捨ててはならない。そう教えて下さったのはお父様ですわ。

 それに……あの艦には、ユリカの王子様がいるんです!』

「な……なにぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 コウイチロウの魂の絶叫が響いた。

 

          ◆

 

『と言うわけで、今から戻りまーす』

「な、何ですってぇ!?」

『か、格納庫、占拠されました! 至急、ブリッジを……ぐわっ!』

『もう逃げられんぞ。観念しろ』

「ば、馬鹿言ってるんじゃないわ! 人質はほかにも……」

『さーて、そいつはどうかねぁ』

 ホウメイのコミュニケの後ろでは、縛られた兵士たちが蓑虫状態で転がっている。

「そ、そんな馬鹿な」

 愕然とするムネタケ。その背後に声がかけられる。

「これまでだな」

「ひぃっ!?」

 飛び上がって振り向くと、そこには黒ずくめの男が立っていた。入ってきたのに気付きもしなかった。ブリッジのドアは開閉の際に音がするにも関わら ず、だ。

 背後には、警備していたはずの部下たちが転がっている。それをミナトやメグミがロープでぐるぐる巻きにしていた。

 だが、そんな光景もムネタケの目には入らない。

「あ、アンタ、一体何なのよ!」

「それをお前に教える必要があるか?」

 黒百合が手を伸ばす。視界が掌で完全に覆われて、ムネタケは意識を失った。

 

 

 気絶したムネタケを縄で縛って後ろに転がして、ミナトたちは自分の席へと戻った。

「で、どうするの?」

 ミナトが艦橋の黒百合に指示を仰ぐ。

「何故俺に訊く?」

「何でって……艦長も副長も提督もいないしぃ」

「オブザーバーのイツキさんはエステバリスに乗って出撃しちゃってますし」

「黒百合さんも一応、ネルガルの人なんですよね?」

 ミナト、ルリ、メグミの三人からの物言いたげな視線を受けて、黒百合はため息をついた。

(本来、これはイツキの役目なんだがな……)

 モニターに映るイツキのエステを見やる。チューリップの触手相手に奮闘している紫の空戦フレームに、心の中でだけぼやきをぶつける。

「……艦長が戻るまでの時間を稼ぐ。チューリップの相手はエステバリスに任せよう。相転移エンジンを起動」

「はーい、相転移エンジン、起動♪」

「グラビティ・ブラストをフルチャージ。ディストーション・フィールドは張らなくていい。通信士、艦長たちの乗った連絡艇の誘導を頼む」

「わかりました!」

「チューリップの気を引かないよう、微速で敵後背に回り込む。敵とこちらの位置関係から、トビウメに被害を与えない射角を割り出してくれ」

「了解」

 黒百合の指示に、打てば響く鐘のような返事が返ってくる。のんびりとした雰囲気はともかく、さすがに人材は一流だ。

 モニターの中のイツキのエステバリスは、危なげなく触手を躱している。ラピッド・ライフルでチューリップの気を引きつつ、その動きを誘導する。

「お待たせしましたーっ!」

 大きく回り込む軌道を描くナデシコがその後背についた時、ちょうどいいタイミングでユリカがブリッジに帰ってきた。既にすべての準備は整ってい る。

「イツキさん、下がってください! グラビティ・ブラスト、ってぇぇぇぇぇぇっ!」

 ユリカの指示に従ってイツキのエステが離れたと同時、威力を収束させた重力波がチューリップを貫く。自然世界にはあり得ない、黒色の奔流に引きず られるようにその巨体を瓦解させ、太平洋上に爆発の華を散らせた。

 

          ◆

 

「今までに、出来ない何か、か……」

「え? 何か言った? 黒百合さん」

 黒百合の呟きを耳聡く聞きつけたミナトにかぶりを返して、黒百合はモニターに視線を移した。

 あの時の、アキトの言葉を思い出す。

 ここに自分の答えはあった。たとえそれがルールにそぐわぬ事だとしても、自分は今までにやり残した事をこの世界で果たすのだ。

 贖罪ではない。こんな事で自分の罪が許されるとは思っていない。

 しかし、この世界のアキトに自分のようにはなって欲しくはなかった。たとえそれが浅ましい代償行為だとしても、自分の果たせなかったコックの夢を 叶えて欲しい。

(それにしても、若かりし自分の言葉に教えられる事があるとはな……)

「あら? 黒百合さん、笑った?」

「ん?」

 いつの間にか、ブリッジクルーの全員が自分の顔を見ていた。

「いや……何でもない」

「うっそ。確かに笑ってたでしょ?」

「気のせいだ。それよりも、連合軍の追撃を撒かねばならんだろう。進路を赤道線へ。海面すれすれを低空飛行していれば、レーダーではキャッチできん さ」

「あーっ、それはユリカのセリフですぅ」

 情けないユリカの声に、ブリッジが笑い声に包まれる。

 そんな中、コンソールに向かったままのルリがクスリと微笑んだのに気付いたのは、オモイカネだけだった。

 

 



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