「ふんふんふん〜♪」

 上機嫌に鼻歌など歌いながら、ナデシコ艦長ミスマル・ユリカは廊下を歩いていた。

 火星までの航路は、何事もなく順調に進んでいる。何もなさ過ぎて、艦長であるユリカが暇を持て余しているくらいだ。

 スーパーA.I.のオモイカネさえいれば、ナデシコは通常航行は何の問題もない。そんな訳で、やる事の無いユリカは余った時間を有効に活用すべ く、ナデシコ食堂を目指していた。

 といっても、食事を摂る為ではない。時刻は夜の10時過ぎ。いつも賑わうナデシコ食堂も、この時間となれば流石に閑散としている。

 食堂に入ったユリカは、厨房で一人明日の仕込みをしているホウメイに声を掛けた。

「ホウメイさ〜ん!」

「ん? ああ、艦長かい。どうしたんだい?」

「ちょっと、キッチンを使わせて下さい!」

「キッチンを……? まあ、もう明日の仕込みも済んだから構わないけどね。夜食でも作る気かい?」

「えへへ、違いますよ〜。チョコレートを作るんです!」

「チョコレート?」

「はい。もうすぐバレンタインですから!」

 それはそれは嬉しそうな笑顔でユリカは言った。

「バレンタインねぇ。そう言えば、もうそんな時分だねぇ。テンカワにやるのかい?」

「はい、勿論です! アキトもユリカのチョコを待ってるはずですから!」

「ふぅん……?」

 ホウメイは今日のアキトの仕事ぶりを思い返したが、ユリカが言うような態度は全く見受けられなかった。が、そんな事を言って艦長の情熱に水を注す 事もなかろうと、黙っておく事にする。

「まぁそういう事なら、後片付けさえやっといてくれれば構わないよ」

 そうホウメイは請け負った。もちろん、彼女がユリカの料理の腕前を知っていれば、また違う結果になっていただろうが。

 危うし、ナデシコ食堂!

「ありがとうございます! ホウメイさん!」

「いや、礼を言われる事でもないさ。頑張って美味いチョコをテンカワに渡してやるんだね」

「はい!」

 嬉しそうにお辞儀をするユリカに、ひらひらと手を振ってホウメイは背を向けた。と、ふと気になった事を訊いてみる。

「それにしても艦長、バレンタインの為にチョコレートをわざわざ持ち込んでたのかい?」

「はい? 厨房のチョコレートを分けて貰おうと思ったんですけど」

 首を傾げるユリカに、ホウメイは不安が鎌首をもたげるのを感じた。確認するように、ゆっくりとした口調で、

「……艦長は、材料のチョコレートを持ってないのかい?」

「はい、そうですけど」

「…………」

「あ、あの、ホウメイさん?」

 こめかみを押さえて俯いてしまったホウメイに、ユリカは慌てた声を出した。

 ホウメイは、ゆっくりと面を上げる。

「……いいかい艦長、よーっく聞くんだよ」

「はい」

「ここには、チョコレートは置いてないんだ」

「……はい?」

 瞬きを2,3度繰り返して、ユリカは問い返した。ホウメイはもう一度、言い聞かせるような口調で切り出した。

「ナデシコ食堂には、チョコレートは置いてないんだよ。今まで、デザートでチョコケーキとかが出た事あったかい?」

「え……と。そう言えば、なかったかも……」

「火星に行って帰って来る分しか、食料は積んでないんだよ。冷凍してるって言っても、基本的には日持ちのする主食用のものを優先して選んだからね。 デザートとかは、どうしても後回しになったんだ。インスタントのココアくらいならあるんだけどね」

「それじゃあ、ここにはチョコレートが無い……?」

 惚けたユリカの問い掛けに、ホウメイは沈痛な表情で頷く。

「それじゃあユリカは、アキトのチョコを作れない……?」

 だんだんとユリカの声のトーンが落ちてくる。こくり、ともう一度頷くホウメイ。ここで曖昧な態度を取っても意味がない。気の毒だとは思うが。

 かくん、とユリカの顎が落ちた。

「…………」

「……まあ、チョコレートはまた次の機会って事で、今回は諦めるんだね」

「ふえぇ〜っ! そんなぁ〜〜〜〜〜っ!!」

 夜更けにユリカの声が響き渡り、ナデシコ食堂は閉鎖の危機を脱したのだった。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第16.5話

「ファースト・バレンタイン」



 

「聖バレンタイン・デー。

 3世紀頃に実在したキリスト教カトリック派の司教、聖バレンティヌス殉教の日を記念としている。

 友人・恋人の守護者で、この日に告白すると、その愛は永遠になると伝えられている。

 なお、チョコレートを贈るようになったのは20世紀後期からの習慣で、製菓会社の販売促進企画が時流に乗ったものと思われる……」

 バレンタイン・デーについて検索した結果をルリが棒読みで読み上げている後ろでは、ユリカがプロスペクターに抗議していた。

「納得できません! どうしてナデシコにはチョコレートがないんですか!?」

「何故、と仰られましても……ナデシコは一応戦艦です。福利厚生にはネルガルとしても力を入れていますが、これから向かうのは木星蜥蜴の勢力下にあ る火星です。食料も、必要度の高い物を優先して選んでいる訳でして……」

 トム・ゴドウィンの『冷たい方程式』の例にあるように、そもそも宇宙戦艦には余剰スペースなどない。積んでおける食料・飲料水には限りがあり、 1gたりとも無駄には出来ないのだ。一食分の非常食が生死を分ける場面が、宇宙航行ではあり得る。

 そんな意味では、ナデシコはかなり規格外な戦艦なのである。食事については言わずもがな、相部屋には個別にシャワー・ルームが付き、ナデシコ大浴 場というレジャー・ランドのような入浴施設まである。

 だが流石に、製菓関係にまではネルガルも手が及ばなかった。地球上であれば補給を受ける際に手配する事も出来ただろうが、ここは地球より遙か 6000万q離れた星の海のただ中である。

 ナデシコが火星に向かう目的から見ても、プロスペクターの言う事はいちいち尤もだったのだが、恋する乙女は納得してはくれなかった。

「でもでもっ!」

「いや、ですから……」

 髪を振り乱してイヤイヤするユリカだったが、プロスも無い袖は振れない。何とか宥めようと口を開き掛けた処で、ブリッジのハッチが開いた。

「失礼します。艦長、エステバリスのシミュレーション・データを……」

 イツキの言葉は、対峙しているユリカとプロスの姿を認めて尻つぼみに途切れた。キョトンとした表情で瞬きをしてから、

「……どうかされたんですか?」

「いえいえ、何でもありません」

「そうですよ、イツキさん。あ、データはそこに置いといて下さい」

「はあ……」

 揃って笑みを浮かべる二人にやや気圧されながらも、イツキは言われた通りにデータの入ったディスクをコンソールの上に置く。ユリカとプロスはそん なイツキなど目に入ってないかのように、再び口論を始めた。

「……いったい、どうしたんですか?」

 下部ブリッジに降りたイツキが、ミナトらに問い掛ける。ミナトは苦笑を閃かせながら、

「艦長が、チョコレートの事でチョットね」

「チョコレート?」

「そ。ナデシコにチョコが積んでないから、手作り出来ないってプロスさんに抗議してるのよ」

「手作りチョコ……ですか。艦長はお菓子作りが趣味だったんですか?」

「そういう訳じゃないみたいだけど。ホラ、14日ももうすぐじゃない?」

「14日……ああ、バレンタインですか」

 今気が付いた、という様子のイツキ。

「ですが、それは仕方がないのでは? ナデシコは曲がりなりにも戦艦ですし」

「そうなんでしょうけど、艦長は納得できないんでしょ」

「そういうものですか……」

「あら、イツキちゃんも他人事じゃないんじゃないの?」

「はい?」

「バレンタインにチョコを贈りたい人……いるんじゃないの?」

 悪戯っぽい笑みを向けてくるミナトに、イツキは少し後退った。

「え、え〜と」

「あ、私も興味あります。イツキさんって、誰に贈るんですか?」

「わ、私はあんまり、そういう事は……」

「え〜、ホントですかぁ?」

「ホラホラ、ここだけの話にしといて上げるから、言っちゃいなさいよ」

 通信席からメグミまで加わり、二人がかりの集中砲火を浴びたイツキはたらりと汗を垂らせた。

 

 

 一方、会話から取り残されているその他一同。

「(ずず〜っ)……旨い茶じゃ」

「……むう」

「ユリカ……(涙)」

「バカばっか」

 彼らの出番はこれだけだった。

 

          ◆

 

 結局、ユリカとプロスペクターの論戦は、次回のバレンタインにはチョコを用意しておくというネルガル側の妥協で決着を見た。

 イツキもミナトたちから解放され、ブリッジからの帰り道でほっと安堵の息をつく。

(それにしても……バレンタインですか)

 正直全く気付いていなかった。言われてみれば、道すがらすれ違う男性クルー達も、何処となくそわそわと浮ついているように見える。

 今日は2月11日。これが地球の街角なら、バレンタイン商戦の広告や看板やらで嫌でも目に付いただろうが、宇宙空間を航行するナデシコの中では、 そういった時節の事柄に対する関心はどうしても薄くなってしまう。

 軍の訓練学校時代、同級生だったカイトやクロウらにチョコレートを贈った事はあったが、あくまで友愛の意を込めた物であって、恋愛感情云々は差し 挟んではいない。そもそも、『本命チョコ』だの『義理チョコ』だの『3倍返し』だのといった風習は、イツキには馴染めない物だった。

 まあ、いつもチョコを貰ったカイトが喜んでいるからいいか、くらいにしか思っていなかった。

 クロウは同級生の少女達からは人気はあったが、本人は全く気に留めていなかったように思う。シンヤはクロウの影に隠れがちだったが、いつも2,3 個のチョコレートは貰っていた。カズマサはジェシカ以外からは受け取っていなかったはずだ。

(……ふふっ)

 その頃の情景を思い出して、イツキは忍び笑いを漏らした。

 カズマサがチョコを貰えなかったのは、普段は喧嘩ばかりしているジェシカが、その日だけはカズマサに付きっきりで周囲に睨みを利かせていたから だ。本人はそれとなくやっているつもりなのだろうが、周囲にはその心情はバレバレだった。

 確かに、気にする者は気にするだろうが、気にしない者は全く気にしないだろう。

 ふと、イツキはこのナデシコの中にあって、最もバレンタインに関心のなさそうな男性クルーの姿を思い浮かべた。黒いマントに黒いバイザー、黒ずく めの青年。

(……バレンタイン、ですか……)

 バレンタイン・プレゼントの本来の意味は、普段お世話になっている人に男女を問わず感謝の気持ちを伝える為のものである。

 そんな事を考えながら、イツキは向かう先を医務室に変更した。

 


 

 そして、2月14日。 

「はい、テンカワさん」

 とサユリが差し出した小皿の上に載っているものを、アキトはきょとんと見返した。

「……なに? これ」

「何って……クッキー」

「いや、それは見れば分かるけど」

 答えながら、アキトは食堂の壁に下げられている時計に目をやった。時刻は朝の10時。もちろんおやつの時間ではない。

「……早めのおやつじゃないですよ」

 アキトの思考を見透かしたようにサユリが言う。

「……え〜と?」

「……もしかしてテンカワさん、今日が何の日か分かってないの?」

「今日って、何かあったっけ?」

 本気で分かっていない様子のアキト。サユリは半ば予想していたとは言え、呆れた声を出した。

「今日は2月14日。バレンタインでしょ?」

「バレンタイン……? ああ、そっか」

 やっと得心がいったように、アキトはぽんと手を打った。

「という訳で、バレンタインのココア・クッキーです。か、勘違いしないで下さいね。普段お世話になってる感謝の印ですから」

「あ、うん。ありがと、テラサキさん」

 にこっと笑顔を浮かべてクッキーを受け取るアキト。その笑顔を見て、サユリは照れたようにそっぽを向いた。

「わ、私だけじゃなくて、他のみんなの分も一緒ですから」

「そうなんだ? じゃあ、みんなにもお礼を言っとくよ」

「そうして下さい」

 頬に朱を散らしながらも素っ気ない言葉のサユリと、そんな彼女の言動の裏にあるものに全く気付いていないアキト。

 そして、そんな二人の様子を遠くから窺っているホウメイ・ガールズ達。

「あ〜、サユリさん、私たちの事もばらしちゃいましたよぉ」

「ココで自分からですってアピールしちゃえばいいのに」

「無理なんじゃない? サユリさんって、結構奥手そうだし」

「言っても、アキトさん相手じゃあ通じないかもだしね〜」

「ホラホラあんた達、手が止まってるよ。早くしないと昼までに間に合わないよ!」

「「「「は〜い」」」」

 

 

 ナデシコ食堂ではバレンタインのサービスとして、ランチ・セットに男性クルー限定でクッキーを付けていた。チョコレートは無いが、インスタント用 のココアで味付けをしてある。

 サユリがアキトに手渡した物もそれだった。但し、他の物とは別にサユリが手ずから作ったものだったが。

 このサービスは、男性クルーの中でも整備班にはとりわけ好評だった。クルー達の中にはナデシコに搭乗して3ヶ月余りの間に彼女をゲットしたちゃっ かり者もいない訳ではなかったが、それはあくまで少数派である。特に整備班は平常時であってもやるべき仕事には事欠かず、多忙な日々を過ごしており、彼女 など作っている暇はなかった。

 彼らにとっては、チョコレートではないにしろ『女性からバレンタインのプレゼントを貰った』という事実は非常に喜ばしい事であり、中には感激して 涙を流す者までいたという。

 そんな恵まれない男性クルーの中にあって、他者から見ても恵まれていると思われる者がいる。美人の幼馴染みに付き纏われている者とかがそうだ(ち なみに他者から見て明らかに恵まれていない者もいたが、此処では割愛する)。

 勿論それは事情を知らない第三者から見ての事であって、当人であるアキトにとっては堪ったものではなかった。

「はい! アキト、バレンタイン・プレゼントだよ!」

 と、昼食後の厨房に顔を出したのは、説明するまでもなくユリカである。自作であるらしい不揃いな形のクッキーを山盛りに積み上げた大皿を、どんと カウンターの上に置く。

 アキトは思わず皿を洗っていた手を止めて、得意満面な笑みを浮かべている幼馴染みを見返した。

「……何だよ、これ」

「何って、クッキー。ホウメイさんに夜キッチン借りて作ったの」

「いや、そりゃ分かるよ! この量は何だって訊いてんだよ!」

「作り過ぎちゃった。てへ」

「お前なぁ……」

 『てへ』ってお前は何歳だよ、とよっぽど言いたかったが、アキトはなんとか我慢した。何にせよ自分の為に作ってくれた料理である。コックを目指す アキトに邪険に出来る訳がない。

 我ながら甘いと思いながらも、はぁっと溜め息をついて、

「ったく。わかった、貰うよ。せっかく作ったもんだしな」

「うん!」

「でも、こんなには食べられないから、他の人にも配ってやれよ」

「え〜、アキトの為に作ったのにぃ……」

「お前なぁ、仮にも艦長なんだから、俺ばっか贔屓するのは拙いだろ?」

「あ、そっか。じゃあ、みんなにも後で配って来ようかな。でもでも、まずはアキトが食べてよ!」

「わかったわかった」

 嘆息しながら、アキトは山の一番上の乗っていたクッキーを一枚手にした。少々形は歪だったが、焼き目は綺麗なものだった。ユリカの意外な技能に、 アキトは少し感心した。

「それにしてもユリカ、お前クッキーなんて作れたんだな」

「え? うん、ホウメイさんにレシピ貰って、初めて作ったんだけど」

 ざりっ。

 まるで、砂と鉄板が擦れたような音がした。と同時に、クッキーを頬張ったままの姿でアキトが動きを止める。

「おいしい? ねぇ、おいしい?」

 期待を込めた眼差しを向けるユリカ。その仕草は、歳不相応に可愛らしいものだったが、肝心のアキトは見ていなかった。いや、それどころかまったく 動かない。 

「アキト? アキトってば」

 応答を返さないアキトに呼びかけるユリカ。

 と、不意にアキトの身体がぐらりと揺れたかと思うと、そのまま仰向けにひっくり返った。

「あれ、アキト?」

「テンカワさん!?」

 驚きの声を上げる、ユリカと遠くから様子を窺っていたサユリ。慌てて駆け寄った二人が見たものは、口から泡を吹き、白目を剥いて気絶しているアキ トの姿だった。

「テンカワさん!? しっかりして下さい、テンカワさん!」

 サユリの呼びかけにも全く反応せず、時折『びくっ、びくっ!』と痙攣を起こしている。そんなアキトの様子を見たユリカが、場の雰囲気をものともせ ず、あっけらかんと言い放った。

「アキトったら、気絶するほどユリカのクッキーが美味しかったんだね!」

「「「「「「「「「そんな訳ないでしょ(だろ)!」」」」」」」」

 その場にいるクルーの声と心が一つに重なった。

 

          ◆

 

「……で、此処にこうしているという訳か」

 と呟いたのは黒百合である。医務室のベットの上では、アキトがしきりに魘されていた。

「う〜ん、う〜ん、クッキーが来る、クッキーがぁ〜……」

 『以前』にユリカの手料理を食べた経験のある黒百合は、その時の事を思い出してかつての自分に同情した。

(トラウマにならなければいいがな……)

「鎮静剤を打ちましたから、しばらく安静にしていれば落ち着きを取り戻しますわ」

「……そうか」

 声を返して、黒百合はカーテンを閉めた。診察用に使っている、スチールの椅子に腰掛ける。

 頬に手を当てながら、ケイはのほほんと呟いた。

「それにしても、随分と時間が経ってしまいましたわね」

「……そうだな」

 今日医務室を訪れたのは、別にアキトが倒れたのを聞いたからではない。ナデシコ出航の際、木星蜥蜴の襲撃でお流れになったお茶の席に、改めてケイ に誘われたからだ。

 黒百合は五感を失っている為、茶の味を楽しむ事はできないが、それを言って場を重くする事もあるまいと黙っていた。

「そういえば、イツキはまだ来ないのか?」

 周囲を見渡して黒百合が問い掛ける。いつも約束の時刻はきっちり守る、規則正しい長髪の女性パイロットの姿が見えない。

 ケイは悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「ふふ、イツキさんでしたらもう来ていますよ?」

「そうなのか?」

「ええ、奥でちょっと準備をして頂いているんです。今日のお飲み物は、イツキさんが淹れているんですよ」

「そうか、珍しいな」

「ふふ、そうですねぇ……」

 しきりに愉しそうに笑みを浮かべているケイを黒百合は怪訝に思ったが、それを尋ねる前に診察室の奥のカーテンが開いて、イツキが姿を現した。

「すいません、お待たせしました。慣れなかったので、ちょっと手間取りまして……」

「いや、構わないがな」

 イツキはカップを乗せたトレイを手に持っていた。ビーカーやフラスコといった実験器具ではないところを見ると、容器もイツキが用意したようだ。

「どうぞ、黒百合さん」

「ああ」

「ケイさんも」

「有り難うございます、イツキさん」

 空になったトレイを置いて、イツキも黒百合の隣の椅子に座った。しかし自分はすぐに飲もうとはせず、ちらちらと黒百合に視線を注いでいる。

「……ん?」

 口にする前に黒百合はカップの中身を見た。そこに満たされていたのは、お茶でもコーヒーでもなかった。やや粘性を帯びた、焦げ茶に近い色の液体が 湯気を上げている。

「これは……ホット・チョコか?」

「あ……そうです」

 イツキはびっくりして黒百合を見返した。まさか飲む前に気付かれるとは思っていなかった。

「イツキは甘いものが好きだったのか?」

「え、その、まあ。人並みですけど」

「そうか……イツキも女の子だからな」

「そ、そうですね」

 他意のない黒百合の言葉だったが、それを聞いたイツキは頬に朱を散らせた。何故かは自分でも分からないが、やたらと照れくさく感じる。

 そんな彼女の様子には気付かずに、黒百合はこくりとホット・チョコを啜る。

「……ふむ」

「ど、どうですか……?」

「ん?」

 横を見ると、イツキがやたらと真摯な表情でこちらを窺っていた。

「……ああ、旨いぞ」

 黒百合はしばし考えて、無難な答えを返しておく。本当は甘かろうが辛かろうがこの舌は何も感じないのだが、それを今伝える必要はなかった。

 それを聞いて、イツキはほっと安堵の息を漏らした。そんな彼女に、黒百合は苦笑する。

「そんなに鯱張る事もあるまいに」

「いえまあ、そうなんですけど。こんな日ですから……」

「こんな日……?」

 言いさして、黒百合は今日が何の日かを思い出した。そして、イツキが何故ホット・チョコを淹れたのか、その理由にも思い当たる。

「ああ……そういう事か」

「その、黒百合さんにはお世話になっていますから」

「そうか……まあ、有り難く戴いておこう。

 そういえば、このチョコレートは何処から調達したんだ? 艦長がチョコがなくてミスターに抗議していたと話に聞いたが」

「あ、これはケイさんから戴いたんです」

「ケイさんが?」

 視線を向けると、ケイは柔和な笑みを浮かべていた。

「ホット・チョコ用に、私物で持ち込んでいたんです。わたしも時々、甘いものが飲みたくなるので」

「…………そうか」

 なんとなく、ケイが面白がっているように黒百合には感じられた。何故かと問われたら上手く形容できないのだが。

(もしかして、全て承知の上でチョコを用意しておいたんじゃあるまいな?)

 ナデシコにチョコレートが積んでない事も、イツキが黒百合にバレンタイン・チョコを贈ろうとする事も、予め予測していたのかも知れない。

 勿論ケイはナデシコで会うまで、黒百合が搭乗する事を知らなかったのだからそんな訳はないのだが、そう思わせるだけの雰囲気が彼女にはあった。

「…………」

 黒百合は何となく釈然としなかったが、取り敢えず何も言わないでおく事にした。

 医務室の中に、チョコの甘い芳香が漂う。黒百合には感じられなかったが、それが彼の気分を損なう事はなく、三人はしばしの歓談を楽しんだ。

 


 

 黒百合とイツキが医務室を辞した後。

「う〜ん、う〜ん……はっ!」

 ベットの上で魘されていたアキトが、漸く目を覚ました。ばっと身を起こして、慌てて周囲を窺う。

「…………はぁ〜、夢かぁ〜〜〜……」

 周囲に先ほどから自分を追いかけていた歪なクッキーの姿が無いのを確認して、アキトは盛大な安堵の溜め息を吐いた。

「あら、アキト君、目が覚めました?」

 物音に気付いたケイがカーテンの隙間からひょっこりと顔を出す。

「あ、ケイさん」

「ああ、まだ起きちゃ駄目ですよ。もうしばらく安静にしていないと」

「あ、はい」

 言われるまま、素直にアキトはベットに身を沈めた。かちゃかちゃと、ガラスの擦れる音がカーテンの向こうから聞こえてくる。落ち着いて見てみれ ば、ここが医務室である事に気付いた。

 カーテン越しに、アキトはケイに呼びかける。

「あの、俺……?」

「アキト君は、食堂で気絶されたんですよ」

「あ……そうなんですか?」

「覚えてらっしゃらないんですか?」

「えっと……そういえば、何かやたらと凄いものを食べたような気が……良く思い出せないんスけど」

 どうも、ユリカ手製のクッキーのあまりの衝撃に、食べる前後の記憶が曖昧になっているようだ。

「まあ、無理に思い出す事はないですよ。落ち着かれれば、自然と思い出します」

「あ、はい。そっスね」

「それに、思い出さない方が良いかも知れませんし……」

「は?」

「いえいえ、何でもありまんよ。はい、どうぞ」

 ケイが差し出したのは、耐熱ビーカーだった。度々医務室に出入りしているアキトは、もう実験器具に飲み物を入れられても驚かなくなっている。

「……これは?」

「ホット・チョコです。甘くて美味しいんですよ」

「ありがとうございます。あれ、でも、チョコって……」

「ああ、これはわたしが持ち込んだものですから」

「あ、そうなんスか」

「ええ。それをイツキさんが淹れたんですけどね」

「え? イツキさんが?」

 アキトは自分の手にしているホット・チョコをまじまじと凝視してしまった。

 そんな彼の様子に気付いているのか、ケイはころころと笑う。

「ええ。先ほど一緒に戴いたんですけれど、飲み切れなくて。余り物で申し訳ないですけれど」

「い、いえ、そんな事ないっス」

「そうですか? じゃあ、それを飲み終えたらお薬を出しますね」

 そう言い残して、再びケイはカーテンの向こうに消えた。

「…………」

 アキトはしばらくの間、耐熱ビーカーの中で湯気を上げるホット・チョコを見つめていたが、やがておもむろにビーカーに口付けた。

 ずず〜っ。

 アキトのホット・チョコを啜る音だけが医務室に響く。その頬は、ホット・チョコの温かさ以外の理由で朱が差していた。

 

          ◆

 

 ちなみに、ユリカ作成のクッキーは第一級危険物に認定され、厳重に焼却処分された後、ダスト・シュートより宇宙に廃棄された。

 ユリカはアキトを撃沈させた罰として、プロスペクターよりナデシコ食堂の掃除を言い付けられた。

「ふえ〜ん、アキト〜(泣)」

「ほらほら艦長、モップはしっかり腰を入れて拭くんだよ!」 

 

 

 こうして、ナデシコでの最初のバレンタインの日は幕を下ろしたのだった。

 

 



後書き

 この作品は、アナクロ本編のエピソードとは関係ない番外編的な扱いとなります。
 元来は今は亡き「ぴよこ’s Village」でバレンタイン限定で掲載していた作品ですが、今回転載に当たって一般公開する運びとなりました。
 番外編的、及び外伝的な挿話は他にもあるので、そちらも随時公開していこうかと考えていますのでよろしく。



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


あさひさんへの感想はこちらの方へ

掲示板でも歓迎です♪



戻 る

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.