黒百合がその場に駆け付けた時、こげ茶の背広の男は今まさに拳銃の引き金を引こうとしているところだった。

 サプレッサーの付いた無音拳銃。その小さな銃口の向けられた先に、意識を失ったアキトが倒れている。その下の地面には、ごく小さな赤い染みが広がっていた。

 その光景を見た黒百合は、状況を理解する前に咄嗟に行動に移っていた。手に持った黒い4センチほどの長さの針を、拳銃を持った男に向けて投げつける。先刻、黒百合を襲った無音拳銃の銃弾である。拳銃をイツキに渡した際、何かの手がかりになるかと思い、これだけは懐に忍ばせていたのだ。

 距離にして7メートル強。慎重に狙いをつけていられるような状況ではない。当たるかどうかは、黒百合の腕をもってしても五分五分――しかし、彼は賭に勝った。

 針は狙い違わず背広の男の拳銃を握る手に命中する。親指と人差し指の付け根の間に喰い込んだ針は、肉を突き抜けて手の平までその先端を覗かせた。

「があっ!?」

 予想の埒外の一撃に、男は仰け反った。取り落とした無音拳銃が地面を転がる。背広の男とアキトの間を遮るように、黒百合はその場に着地した。

「な……貴様、何処から出てきやがった!?」

「人を害虫か何かみたいに言わんでもらおう」

 痛みよりも驚愕に顔を引きつらせている男に、黒百合は怜悧な視線を向ける。

「先刻、俺を狙ったのもお前だな? 何者だ。クリムゾンの手の者か?」

「言うとでも思ってやがるのか……? 殺してやる――殺してやるぞ!」

 男は怪我を負った右手を押さえながら、狂犬のような形相を浮かべる。ばりばりという歯ぎしりの音が、黒百合の耳にまで届いていた。

「構う必要はないわね? 目的は果たしたんだから、行くわよ」

 エレ・カーから女の声が掛かる。背広の男は一瞬だけ逡巡したが、ばっと身を翻すと地に落ちた無音拳銃を拾って車へと駆け込んだ。

「貴様は――殺す! 必ず殺してやる!」

 男の捨て台詞を残して、エレ・カーは走り去っていく。黒百合は追わなかった。腹部から血を流して倒れているアキトを放っておく訳にはいかなかったからだ。

「それは、俺の台詞だ……」

 アキトの状態を確かめ、応急処置を施しながら――姿の見えなくなった車に向け、黒百合は聞く者の魂を底冷えさせるような声で呟いた。

「貴様らは……俺が必ず殺してやるよ」

 

          ◆

 

 プロスペクターからその報を聞いた時、ユリカは艦長室で書類の処理をしているところだった。

 書類の山はジュンのサポートもあって、あと1/4程にまでなっていたが、それらを全て放り出して、ユリカは部屋を飛び出した。

 流石に今回はジュンも止めなかった。アキトが銃で撃たれて意識不明の重体だと聞かされれば、当然だ。

 ジュンはアキトに対して複雑な感情を抱いているが、少なくともクルーに害悪が及ぶのを喜べるほど、彼は悪人ではない。それに、ジュンはアキトを嫌っている訳ではないのだ。

 ユリカが散らかしていった書類を拾い集めた後、ジュンはプロスに詳しい話を聞いてユリカの跡を追った。

 ジュンがアキトが担ぎ込まれたというヨコスカ総合病院に到着すると、手術室の入り口には手術中を告げるランプが灯っていた。

 先に駆け付けたユリカは、ベンチに腰掛けて項垂れている。両手を顔の前で組んで祈っているようにも見えたが、表情は窺えなかった。

 他にもアキトと一緒に出かけたミナトたちの姿もある。一人見慣れない少女がいたが、顔立ちからして彼女がイツキの妹かなにかだろう。

 ジュンはユリカの様子を気にしながら、ミナトに質問を投げかけた。このメンバーの中では彼女が一番落ち着いているだろうと判断したからだ。

「テンカワの容態はどうですか?」

「分からないわ。私も詳しい容態は聞いてないのよ。黒百合さんから聞いて駆け付けたら、もう手術中だったし……」

「そうですか……そう言えば、黒百合さんは? それにラピス君の姿も見えないみたいですけど」

「それが、私たちをここに案内したらすぐにいなくなっちゃったのよ。ルリルリを捜しに行くって……」

「ルリ君を?」

「ええ……聞いてない? 何でもルリルリが攫われちゃったらしくて……」

「攫われたって……誘拐ですか!?」

「アキト君は、それを止めようとして怪我しちゃったらしいのよ」

「そ、そうですか……」

 狼狽えながらも、ジュンは努めて冷静に状況を分析した。

 攫われたルリは、世界でも数少ない遺伝子操作の成功例――マシンチャイルドである。ナデシコの中ではさして意識する事はなかったが、確かに一般社会の中では特異な存在なのだ。こういった事が起きる可能性も考えておくべきだったのかも知れない。

 ジュンは臍を噬む思いだった。ナデシコの副長として、クルー達の身の安全にもっと気を配っていれば……!

「ジュン君……」

 不安げな声に、ジュンは振り向いた。ユリカが姿勢はそのままで、ジュンを見上げている。

「アキト、大丈夫だよね……ユリカの前からいなくなったりしないよね……」

 その声は、彼女らしくもなく快活さに欠けていた。その大きめの瞳に、不安の翳が揺れている。

「な……何言ってるんだよユリカ。テンカワは大丈夫に決まってるだろ?」

 自分でも確信のない事を言う。だが、それがユリカが一番聞きたい言葉であるという事は分かる。

「ほんと……?」

「そうだよユリカ。テンカワは……その、ユリカの王子様なんだろ? ユリカを置いて……し、死んだりなんかしないって」

 そう言うのは流石に抵抗があったが、効果は抜群だった。ユリカの表情にみるみる生気が戻ってくる。

「うん……そうだよね! アキトはユリカの王子様! もう、ユリカを置いていったりしないよね!」

「そ、そうそう」

 顔を引きつらせながらも頷きを返すジュンに、ミナト達は感心3割、同情7割の篭もった視線を向けた。

「副長も報われませんよねぇ」

「ホントね……」

 手術室入り口の上のランプは、それから2時間後に消えた。

 

          ◆

 

 エリナが黒百合から連絡を受けたのは、ネルガル会長と秘匿回線で連絡を取った直後の事だった。

 受話器の向こうから黒百合が言うには、攫われたルリを助けるために、ラピスと共にナデシコに向かうという事らしい。エリナとプロスには、その場を動かずにいるようにといった内容だった。

『ともかく、シークレット・サービスは動かすな。動きが向こう側に察知される危険がある』

「なら、どうする気よ! 一刻も早く捜し出さないと手遅れになるわよ!」

『分かっている。彼女を捜し出す手段は考えてある』

「どうやって!?」

『そんな事、こんな一般回線で言える訳がないだろう。とにかく、一旦そちらに戻る。くれぐれも先走るなよ』

「……分かったわ。ともかく急いで」

『ああ』

 それで、電話は切れた。

 エリナは苛立ちを隠そうともせず、プロスを呼びつけて黒百合との会話の内容を告げた。

「――という事なんだけど、どう思う?」

「そうですな。ここは確かに黒百合さんの判断が正しいかと。ルリさんの身の安全を第一に考えれば……ですが」

 眼鏡をくいっ、と上げるプロスペクターの態度に怜悧なものを感じて、エリナは戸惑った。

「どういう事?」

「ルリさんは確かにネルガルにとって貴重な方です。世界でも希少なマシンチャイルドであり、ナデシコの運用も彼女無しではままならない状態でした……今までは」

「今までは?」

「現在は、彼女をも上回る能力を持った方がこちらにいます」

 プロスが言いたい事を察して、エリナも厳しい表情を作る。

「それは……あのラピスって娘の事? 報告書は読んだけど……」

「ええ。彼女は現時点で間違いなくルリさんを上回るオペレート能力の持ち主です。彼女さえ確保できていれば、ルリさん一人にこだわる必要はありません。彼女以外にも、オモイカネ・シリーズを扱える方はいらっしゃいますし。少々年齢は幼いですがね。

 もちろん、ルリさんの能力や希少性を考えれば惜しくはありますが、彼女が敵対組織――例えばクリムゾンなどの手に渡る事を考えれば……」

「それよりは格段にマシ、という事ね」

 ごくり、とエリナは自分の喉が鳴る音を聞いた。自分は今、残酷な事を考えている。今まで手段を選ばず出世街道をひた走ってきたエリナにも、流石にそれは躊躇われた。

 それに……ふと、とある少女達の顔が彼女の脳裏に浮かぶ。

 そんなエリナの内心の葛藤を知ってか知らずか、プロスは今まで見せていた冷徹な諜報のプロの表情を崩し、普段の飄々とした笑顔を浮かべた。

「ですがその場合、黒百合さんを完全に敵に回す事になるでしょう。出来れば、その案は避けた方が宜しいでしょうな」

「そ、そうね……」

 エリナは自分が内心安堵している事に気付かずに、ほっと肩の力を抜いて――

「その通りだな」

 背後から掛かけられた声に文字通り飛び上がった。それはプロスも同様で、珍しく驚きを顔に出している。

 慌てて振り向くと、そこにはいつの間に近付いていたのか、黒百合が腕を組んで立っていた。その傍らにはラピスの姿もある。

 黒百合はいつもと変わらぬ無愛想な顔をしていたが、この時ばかりはエリナも肝を冷やした。

「黒百合!? ず、随分と早かったわね」

「まあな」

「い、何時から聞いてたの?」

「エリナが『あのラピスって娘の事?』と言った辺りからだな」

 ほとんど聞いていたらしい。

「おやおや、それでしたら声を掛けて下されば……」

「なかなか興味深い話をしていたんでな。一応忠告しておいてやるが、先程言っていた事はやめておけ。もしそうなって彼女の身に危険が及んだ場合、俺は全能を費やしてネルガルを潰すぞ」

 もし他の者がそんな事を言ったのなら、荒唐無稽な戯れ言と鼻で笑って受け流すところだが――黒百合の声と表情を見れば、そんな気は起きない。

 恐らく、彼ならやるだろう。不思議とエリナは納得していた。

「分かっておりますよ。ほんのたわいのない冗談ですから」

 この頃にはプロスは最初の動揺から抜け出して、いつもの態度を保っている。

「そ、それより、貴方の言っていたホシノ・ルリを助ける手段っていうの、聞かせて貰えるんでしょうね?」

「ああ、もちろんだ。だが、その為にはオモイカネが必要だ。ナデシコのブリッジに行くぞ」

「オモイカネが? でも、今ナデシコは改修中で、オモイカネもダウンしているのよ?」

「分かっている。問題ない」

「問題ないって……ちょっと!」

 彼女の言葉に構わず黒百合は足をナデシコに向ける。その後を慌てて追う事になるエリナだった。

 

 

「それで、どうするの?」

 最初に口を開いたのはエリナである。ブリッジに到着するまで、幾ら尋ねても黒百合は詳しい事を話そうとはしなかった。

 ブリッジ・インするとそのままオペレーター席に向かった。ラピスがその席に座り、黒百合はシートの背もたれに手を置いてこちらを振り返る。

「オモイカネを起動する」

「オモイカネをって……貴方、人の話を聞いてないの? オモイカネは今調整中で……」

「分かっているさ。ラピス、頼む」

「ウン、分かった、アキト」

 黒百合に答えて、ラピスはコンソールの両手を置いた。途端にナノマシンの輝線が手の甲に紋様を浮かび上がらせる。

「何を……」

 エリナが声を上げる前に、それは起きた。

 シートに座るラピスを取り囲むように、幾つものウィンドウが展開して円球状を成す。

 そのウィンドウのひとつひとつには、エリナにはとうてい読み切れないほどの速度でデータが踊っている。ひとつのウィンドウは数秒でデータを読み終え閉じるのだが、読み込みを指示したウィンドウは開いている間、ラピスの周囲を自己主張するように廻っているのだ。その様子は、飼い主に構って欲しくてじゃれついてくるペットを思わせる。

 その中心に座るラピスは、全身にナノマシンの輝線を走らせている。遺伝子操作の証であるその琥珀の瞳から漏れる光が、ただでさえ神秘的なその容姿を、冒しがたい神聖なものにまで押し上げていた。

 その光景に、言葉を失って魅入るエリナ達。しばしの間、時の流れる事を忘れていた彼女を現実に引き戻したのは、ラピスの漏らした一言だった。その声と共に、周囲のウィンドウが一斉に閉じる。

「……終わった」

「え?」

 思わず唖然として問い返してしまったエリナ。ラピスの目の前に新たなウィンドウが開く。

『お早うございます』『感度良好!』『大変良くできました』

 銅鐸のマークをあしらった、オモイカネのウィンドウである。それはすなわち、オモイカネが調整を終えて再起動した事を示していた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。まさか、もうオモイカネの調整を終わらせたの!?」

「ウン」

「うんって、そんな……」

 今日はルリが休暇を取っているとはいえ、ネルガルの技術スタッフが一体何人がかりでこの難解極まるソフト・ウェアの調整に取りかかっていたのか……二桁を超える人員が1日かけて終わらなかったものを、今のほんの数分で終わらせたと言うのだ。

「そんな、いくら何でも……」

「ラピスやルリちゃんの能力を考えれば、別にそれほど驚く事でもないだろう」

 黒百合が何でもないように言ってくる。

 実際の所、必要最小限の部分を復旧させただけなので、そう大した事でも無かったのだが、それでも正規のオペレーターに比べて段違いの速度である事に変わりはない。エリナもマシンチャイルドの力は把握していたつもりだったが……百聞は一見にしかず、まさかこれほどのものだったとは。

「ラピス、ルリちゃんのコミュニケの反応を追ってくれ」

「分かった」

 コミュニケの主用途はナデシコ内における通信だが、オモイカネの通信エリア内なら艦外でも使用は可能だ。また、オモイカネからコミュニケの位置を捜索する事もできる。当然ながらオモイカネが起動していなければコミュニケは使えないし、その場合はオペレーターの存在が必要不可欠だ。

 間を置かず、艦橋の正面にヨコスカ・シティの近隣地図が映し出される。その地図上に、点滅を繰り返すひとつの光点。横にその場所の詳細データが表示される。

「旧ヨコスカ港の倉庫か……トメリ運輸という運送会社が使用している事になっているが、ここ3期の経営収支を見ると異常なくらい安定してるな。その割に、詳細な経理データが存在していない。恐らくダミー会社だろう」

「そんな詳しい事まで判るの!?」

「こと電脳世界において、ラピスに知れない事はないさ」

「…………」

 言葉を失うエリナ。

「ラピス、この倉庫の警備システムに進入できるか?」

「ウン」

 ラピスはこくりと頷くと、コンソールを操作した。

「ハッキングできるの?」

「恐らくな」

 単なる運送会社の倉庫としては異常なほどの高レベル・プロテクトの掛けられたセキュリティ・システムだったが、この程度ではラピスを手こずらせるには至らない。程なくしてハッキングが終了し、関連のありそうなデータを片っ端から検索していく。

 幾つものウィンドウが開いては消え、開いては消えて行ったが、やがてひとつの映像データが表示された時点でウィンドウの奔流は止まった。

「当たり……だな」

 それは倉庫内の監視カメラの映像だった。出入り口が開いて、意識を失ってぐったりしているルリを、こげ茶の背広を着た男が運び込む姿がはっきりと映っている。

「なら、早速シークレット・サービスを出動させて、救出を」

 エリナの提案に、今度は黒百合ばかりかプロスまでも首を横に振る。

「ちょっ……どういう事よ!?」

「さっきも言った通り、シークレット・サービスが動くと向こうにも知られる危険性がある」

「なら、どうするのよ?」

 エリナの問いに答える代わりに、黒百合はラピスを覗き込んだ。

「……ラピス、この倉庫の見取り図があれば出してくれ。それと、警備システムは乗っ取っておいてくれ。場合によっては助力を頼むかもしれん」

「ん」

「ちょっと?」

「なに、話は簡単だ。要は相手に気取られなければいい」

 黒百合は凄みのある笑みを浮かべた。獰猛な肉食獣の表情を正面に捕らえて、エリナの背筋に冷たいものが走る。

「少数精鋭……俺が行く」

 

          ◆

 

 そして夜が明けて、黒百合が眠ったままのルリを抱いて戻ってきた時、エリナはほっと安堵の息を漏らした。

 自分が一体何について安堵したのか、それはエリナ自身にも分からなかった。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第31話

「Tenderness」



 

 目が覚めると、目の前には見知った顔が並んでいた。

 ユリカ。ジュン。ミナト。メグミ。イツキ。イネス。そしてケイ。

 ユリカは今にも泣き出しそうなくらい、その大きな瞳一杯に涙を溜めている。その表情を不思議に思って、アキトは聞いた。

「……ユリカ、何泣いてんだ?」

 本当に訳が分からなかったのだが、ユリカは答えはしなかった。代わりに、感極まったように飛びついてくる。

「〜〜〜〜〜アキトォっ!!」

 ユリカの顔が視界一杯に広がってきて――

 ヨコスカ総合病院の一室に、悲鳴が響き渡った。

 

 

「まあ、腹に穴を開けて九死に一生を得た怪我人に力一杯抱き付けば、傷が開くのは当然よね」

「ご免なさいぃ……」

「まあ、気持ちは分かるけどね……」

 瞳をうるうるさせて項垂れるユリカに、イネスは苦笑を浮かべた。

 あの後、ユリカの愛のダイビング(ミナト命名)を食らったアキトが手術して塞いだ傷が開きかけたり、意識を失う前にあった事を思い出してアキトが「ルリちゃんはっ!?」と騒いだり、ユリカがまた感極まってアキトに抱き付こうとしたのをミナトとイツキに押さえられたり、ケイは相変わらずのほほんと微少を浮かべていたり、ジュンは影が薄かったりしたが――意気揚々とイネスが『説明』を始めると、取り敢えず皆は静かになった。と言うかイネスが静かにさせた。

 アキトは手術してから丸3日間意識を失っていた事。攫われたと思われていたルリは翌朝には救出された事。犯人は未だ掴まっていない事。アサミは、2日前に事務所のマネージャーに引っ張られていった事。カイトも連合軍総司令部からの出頭命令によって、既にナデシコを離れている事……

「――とまあ、そういう事があったのよ」

 それら事を自分の分析を交えながら説明し終えたイネスは、満足したように息を漏らした。

 他のメンバーが相変わらずのイネスの説明の長さに疲れ果てている中、アキトだけは俯いて押し黙ったままだった。怪訝に思ったユリカが声を掛ける。

「……アキト?」

「あ、ああ。ルリちゃんは無事だったんだな。良かった」

「でも、アキト君も随分危ないところだったのよ? 黒百合さんの応急処置がなければ、助かったかどうか……」

「黒百合さんが……そうですか。お礼を言っとかないと……

 そう言えば、黒百合さんは?」

 きょろきょろと視線を巡らせて、アキトが尋ねる。この個人病室の中に、黒ずくめの青年の姿はない。

「黒百合さんは、いまはホシノ・ルリと一緒にいるわ」

 イネスが答える。

「ルリちゃんと?」

「さっきも言った通り、犯人がまだ掴まってないそうだから。念のため、という事らしいけど」

「ルリルリもアキト君の事は心配してたのよ? 昨日もお見舞いに来てたし」

「そう、ですか……」

 力無く呟いて項垂れるアキト。

「それでね、アキト――」

 それに気付かずなおも話しかけようとするユリカを、それまで終止笑顔を浮かべていたケイが押し留めた。

「まあまあ艦長さん。アキト君も今まで気を失っていたくらいですからお疲れでしょうし、今日のところはこれくらいにしておきましょう?」

「えー、でもケイさん」

「そうそう艦長、これから時間はいくらでもあるんだし」

「またお見舞いに来れば良い事じゃありませんか」

 ミナトとイツキがケイに同調する。ユリカはなおも不満そうだったが、ナデシコ良識派を代表する三人に言われては反論する隙がなかった。

「うー。じゃあアキト、また明日も来るからね!」

「でもユリカ、ここ最近ずっとテンカワの病室に通ってばかりいるから、仕事が随分と溜まっているんだけど……」

「えーっ! ジュン君酷い!」

「いや、僕に言われても……」

「艦長もちゃんと仕事しないと、またプロスさんに怒られちゃうわよ?」

「ううー」

「それじゃあアキト君、またね」

「あ、はい。有り難うございました」

 ぱたん、と扉が閉まる。途端に静かになる病室の中で、アキトはぼふんと枕に頭を預け、窓の外の青空を見上げた。僅かに開いた窓の隙間から海の湿気を含んだ風が吹き込み、シルクのカーテンを揺らしている。

「ふう……」

 横になると、途端に睡魔が襲ってきた。自覚はないのだが、やはり怪我のせいで体力を消耗しているのだろう。心地よい微睡みに身を委ねて、アキトは意識を手放した。

 

          ◆

 

 こんこん。

 アキトを眠りの淵から呼び覚ましたのは、そんな規律正しいノックの音だった。

「ん……あ、はい」

 取り敢えず応えてから、ふと時計を見る。寝付く前に覚えていた時刻から、長針が3周ほど盤上を回っていた。

「失礼いたしますよ、テンカワさん」

 がちゃり、とドアが開いて、入ってきたのはプロスだった。何時洗濯してるんだろうかと疑問に思うようないつものベスト姿。

「プロスさん」

「どうもテンカワさん、ご健在で何よりです。この度はとんだ災難で……

 今回の事は、私どもの危機管理体制にも落ち度があっての事。ましてや企業間の争いにテンカワさんを巻き込んでしまいまして、大変申し訳ありませんでした」

 プロスはいかにも申し訳なさそうに低頭する。

「あ、いえ、別に気にしてないっスから」

「そう言って頂けると助かります。それで、実はですね、お見舞いに来たのは私だけではないのですが……」

「え?」

 疑問符を浮かべるアキトに、再びドアが開いて黒ずくめの格好の青年が入ってくる。

「黒百合さん?」

 だが、来訪者は彼だけではなかった。ドアを開けたままで待機している黒百合に迎え入れられるように、彼の胸くらいの背の丈の少女が、おずおずと入室してきた。

「ルリちゃん?」

 瑠璃色の髪をツイン・テールに纏め、ナデシコの制服に身を包んだ少女に、アキトは目を丸くした。先程ミナトとの会話で話題に出てきた少女が、いきなり訪れて来るとは思ってもいなかった。

「……」

 彼女は何も答えずに、俯いたままだった。何か思い詰めているかのように、その表情は暗い。

「ルリさんが今回の事で貴方にお話ししたい事があるという事でして。私たちは外に出ていますので……」

「え? あ、ちょっとプロスさ――」

「それでは、宜しく」

 怪訝な表情のアキトを笑顔で見送って、プロス達は部屋を出た。扉が閉まり、病室には現在アキトとルリの二人しかいない。

 何なんだろう、と疑問に思いはしたが、アキトは取り敢えず気にしない事にした。椅子に腰掛けた少女に話しかける。

「ルリちゃん……黒百合さんに助けられたんだって?」

「はい。攫われてから私はずっと意識がなかったんですが、そういう事らしいです」

「そっか……良かったよ、ルリちゃんが無事で」

「……私なんかより、テンカワさんの方がよっぽど危なかったそうですよ? 黒百合さんの応急処置がもう少し遅ければ、間に合わなかったかもしれないと……」

「あはは、何かそうらしいね。気が付いたらもう手術は終わってたから、実感は無かったんだけど」

 ぽりぽりと頬を掻くアキトだったが、相変わらず俯いたままのルリに、怪訝な表情を浮かべた。

「ルリちゃん?」

「……どうしてですか?」

「え?」

「どうしてあの時、私なんかを助けようとしたんですか?」

 キョトンとして、アキトはルリを見返した。あの時、というのは、恐らくルリが車に連れ去られようとしている時の事だろう。

「どうして……って……」

「危ない、とは思わなかったんですか? そうでなくても、例えば人を呼ぶとか、方法はいくらでもあったはずです」

「あ……まあ、確かにそうかも知れないけど。あの時はとっさの事で、そこまで考えが回らなかったって言うか……ともかく、助けなきゃって思って……」

「どうして、助ける必要があるんです?」

「へ?」

 ルリが何を言いたいのか分からなくて、アキトは内心首を捻った。

「どうしてって、普通は助けると思うけど。ま、まあ、確かに俺が何か出来た訳じゃ無かったけどさ……」

「私は、普通の人間じゃないです」

「え?」

「私は人の手で生み出されたマシンチャイルド……人形なんですよ? どうしてテンカワさんが、身の危険を冒して助けようとする必要があるんですか」

 ルリは俯いていた顔を上げて、目を丸くしているアキトを見た。その琥珀色の瞳は何の感情も映してはいない。

「それに……私の他にもマシンチャイルドはいるんです。私よりも優秀な……」

 誰、とは言わなかったが、それがラピスの事を差している事は明白だった。アキトはラピスとはさして話をした事はないが、彼女が副オペレーターの任に就いているのは知っている。

「だから、私を助けようとして、テンカワさんが怪我する必要なんかなかったはずです」

 言いたい事を言い終えたのか、ルリは再び押し黙って俯いてしまった。

 一方のアキトは軽い混乱状態にあった。正直言ってルリが何を言いたいのか分からない。

 そう言えば……あの日、ミナトにショッピングに誘われた際に、ルリが何か悩みを抱えているらしいと聞かされた事を思い出す。

(あ、そっか。この事なんだ……)

 アキトは納得したが、相変わらず彼女が何に悩んでいるかは分からない。ちょっと考え込んだ後、躊躇いがちに口を開いた。

「えっと、さ。必要、必要じゃないとかじゃなくて。やっぱり普通は、ルリちゃんを助けようとすると思うよ。うん」

「でも、私は……」

「ルリちゃんが、その……マシンチャイルド? だからだとか、優秀だからだとかは関係なくてさ。同じ船で暮らす仲間じゃん。やっぱり、助けると思う。

 それに、もう、誰も助けられないのは嫌だから……」

「それって……」

「俺、第一次火星会戦の時、ユートピア・コロニーにいたんだ。空の方じゃ宇宙軍が木星蜥蜴と戦争してて、俺は地下のシェルターに非難してた。そこでね、アイちゃんって子と知り合いになったんだ。丸くて可愛い目をした7歳くらいの女の子。ケイさんの娘さんなんだ。配達のバイトの途中で、バイクに積んであったミカンを上げたら喜んでた。大きくなったらデートしようって約束してね。

 結局、宇宙軍は負けちゃって、俺のいたシェルターにも木星蜥蜴が入り込んできたんだ。俺もブルドーザーを動かしてバッタを足止めとかしたりしたんだけど、突然爆発が起きて……」

 アキトは苦しそうに顔を顰めた。

「ケイさんはアイちゃんは生きてるって信じてる。俺も信じたい。でも、火星で助けた人達の中にアイちゃんはいなかった。それに結局、俺はアイちゃんを助けられなかった。助けられなかったんだ……」

「…………ひょっとして、似てるんですか?」

「えっ?」

 しばしの沈黙を挟んだ後のルリの言葉に、アキトは俯いていたおもてを上げた。

「私、そのアイちゃんに。だから優しくしてくれるんですか。夜食を作ってくれるとか……」

 あくまで無表情に淡々と……それでいて何かを堪えるようにその小さな身体を震わせて言うルリに、アキトは困ったような笑みを浮かべた。

「違うよルリちゃん。全然似てない。アイちゃんが太陽だとすれば、ルリちゃんは月ってところかな。眼に痛くない、優しい光……」

「…………」

「今でも、アイちゃんの事は夢に見るんだ。きっと、心の中で引っかかってるんだと思う。だから正直言って、アイちゃんとルリちゃんを重ねてないとは言えない。でも、ルリちゃんをアイちゃんの代わりだなんて思った事はないよ」

「……でも」「俺は」

 ルリが上げ掛けた声を、静かな声音で遮る。優しさの篭もった視線を少女へと注いで、アキトは言葉を継いだ。

「俺は、ルリちゃんがいなくなったら悲しいし、寂しいと思う。たとえルリちゃんの代わりに誰が来たって、それは変わらないよ。

 ルリちゃんは、アイちゃんの代わりにはならない。逆に、アイちゃんがルリちゃんの代わりをする事もできない。ラピスちゃんが……ルリちゃんの代わりにならないと同じようにね」

 アキトは優しくルリの頭を撫ぜた。何だか偉そうな事を言ってるなぁ……と思わないでもなかったが、今はこうするのが正しいと思えた。

 ルリも、普段なら「子供扱いしないで下さい」とか言って手をはねつけるところなのだが……不思議とそんな気にはならなかった。

 今まで思い悩んでいた事の答えが出た訳ではない。だが少し……ほんの少しだけ、心が軽くなったような気がする。それは、もしかしたらただの錯覚かもしれない。だが今は、その錯覚に身を委ねても良いような気になってくる。

 初めて頭を撫でられる人の手の感触は温かく、心地よくて……

「…………ルリちゃん?」

 静かになったルリを怪訝に思ってアキトが声を掛けるが、いらえは返ってこなかった。俯いた顔を覗いてみると、彼女は椅子に座ったままの姿勢で寝息を立てていた。

「ルリちゃん、眠っちゃったの……?」

「最近、碌に眠っていなかったらしいからな」

 質問ともつかない独り言に返事を寄越したのは、いつの間にか入室して来ていた黒百合だった。驚き、慌てかけたアキトをジェスチャーで黙らせる。アキトは声をひそめて尋ねた。

「黒百合さん……ルリちゃんが悩んでた事、知ってたんですか?」

「ああ。ミナトさんに聞かされてな。だがまさか、ラピスと自分を比べて悩んでいたとは思わなかったが……」

 黒百合の声に苦いものが混ざる。

 彼女をアキトと二人きりにしたのは、彼女がアキトの容態を気に掛けていた事もあるが、それ以上に彼女が何か思い悩んでいるのが分かっていたからだ。

 ルリは、黒百合に対しては心を開いていない。警戒している、と言う方が正しいだろう。それは年齢の近いラピスに対しても同様だ。

 ブリッジ・クルーに対してはいくらか打ち解けているが、ミナトがそれとなく尋ねてみて駄目だったとすると、他のメンバーが相談に乗れるとは思えない。

 そうすると、他に彼女と少しでも関わりのある人物と言えば、食事の場で言葉を交わしているアキトくらいのものだった。

 駄目で元々、くらいの気持ちで二人きりにさせてみたのだが、これほどすんなり事が運ぶとは思わなかった。それだけ、ルリが爆発寸前だったという事か。その小さな身体に、どれだけの人に言えない思い悩みが溜め込まれているのだろう。

 黒百合は、ルリの背中を労るようにさすりながら、

「胸に溜まっていたものを誰かにぶちまけて、少しは気が軽くなったんだろう。張りつめていた糸が切れたんだな」

「あの、黒百合さん。俺の事はいいですから、ルリちゃんをベットに運んであげて貰えますか?」

「ああ、そのつもりだ」

「それと、あの……有り難うございました。俺を助けてくれたのって、黒百合さんなんですよね?」

「……ああ」

「ホントに有り難うございました。それに、ルリちゃんも助けたんですよね。俺……あの時、何もできなくて……」

「お前は対人戦闘の訓練を受けている訳ではないし、そういった荒事に関しては素人だ。気に病む必要はない」

「でも、何も出来なかった……何も出来なかったんです……! 俺は、また……!」

 ぎりり、と奥歯を噛む音が聞こえてきた。寝ているルリを慮って声を押し殺しているアキトは、シーツをぎゅっと握りしめて肩を震わせる。

「…………」

 黒百合はしばし、黙ってその光景を見つめていたが……やがて言った。

「……力が欲しいか?」

 その問い掛けに、アキトは反応を見せなかった。構わず、黒百合は続ける。無力に嘆くかつての自分に。

「後悔しないために。誰かを護るに足るだけの――力が」

 躊躇いがなかったと言えば嘘になる。己がアキトに対して望んでいるものとはかけ離れている事も承知していた。

 だがそれでも……その想いを誰よりも理解しているからこそ、敢えて黒百合はアキトに選択させる事にした。彼が何と答えるかが分かっていたとしても。

 アキトの肩の震えはもう止まっていた。伏せていた顔を上げ、決意の篭もった眼差しを黒百合へと向ける――

 ざあ…っ、と木々がざわめきの声を立てる。

 窓から吹き込む風が、安らかな寝息を立てているルリの髪を優しく揺らした。

 

 


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