ゴーヤを目指すため山越えをすることになった。山道は意外と緩やかである。
 ヘルメスは円議庁勤めの青い制服を脱ぎ、旅に適した服装に着替えている。それはカジ
ャがひとっ走りして付近の小さな村から買ってきたものだった。売り物というよりは着古
した服を譲ってもらったのではないかと思ったが、特に文句はない。
 ちなみに青い制服は処分せず、カジャが背負う荷物に加えてある。あの制服に袖を通す
日はもう二度と来ないのだろうか、とヘルメスが打ち沈んでいるところへ、少し前を歩く
仮面の男が言った。
「この山を越えた先がゴーヤのあるアレス領だ。峰は東へ延びるにつれて険しくなり、そ
れはルブラン領にまで達する。水晶雪渓からならこの平易な山道を越えるだけでいい」
 久々に長く歩いたので脚の関節が軋んでいる。すっかりなまってしまった身体がヘルメ
スはなんだか忌々しい。
「魔物もおとなしい。こちらから仕掛けたりしなければ……」
 そのとき上空から黒い影が仮面の男めがけて急降下してきた。男が咄嗟に手を振るうと
光の弾が飛び、影を叩き落とす。烏に似た魔物であった。
「まあ例外はある」
 魔物の首を掴んで持ち上げた仮面の男にエルクが駆け寄る。
「ラインバッハ様、お気を付けください。私が前を……」
「構うな。それよりもこれは今日の晩飯にする」
 魔物なんて食べられるのだろうか、とヘルメスは疑問に思う。
「あなたの名は、ラインバッハというのか」
「シュトルテハイム・ラインバッハ三世だ。仮の名だよ、エルクがつけてくれた」
 それは、なんとも言えない。
 山道の途中で野営となった。魔物の肉を焼いたものは意外とうまかった。肉がしっかり
していて、歯ごたえがある。カジャが振りかけた香辛料もよく効いていた。
 山を越えて起伏の多い土地を歩き、五日で交易街ゴーヤにたどり着いた。雑多な雰囲気
のなかを行き交う人々は活気にあふれていた。ラインバッハが言った。
「北には水晶雪渓とルブラン領、南には亜人の村があり、そして山を越えた東は独特の文
化を持つリュウガ領だ。そのためこのゴーヤにはおのずと人が集まり、様々な物品が行き
来する」
 がやがやと混ざり合う声や多様な人々。そうした生活の匂いがヘルメスにはむしろ懐か
しい。水晶雪渓よりも自分に向いた場所だと思う。
「ここはダアト領に似ているな、好きになれそうだ」
「そうだろヘルメス、いい場所だろう」
 エルクは自分のことのように鼻を高くする。ラインバッハが歩き出した。
「土地の特性を生かすために、ここでは盛んな交易が認可されている。交易で上がる利が
重視されているからこそ、東のリュウガ領なども独自の文化を今にまで残しているのだ」
 人の波を潜り抜け、やがて大きな建物にたどり着く。屋敷と言ったほうがいい。皆に続
いて入ってみると、どうやら商いをする店のようである。帳面をつける者、商品と思しき
荷を運ぶ者など、多くの人間が立ち働いている。
「ここは……」
「この街には多くの商会が存在する。ここもその一つ、ということになっている、表向き
はな」
「表向き?」
「天元交易商会っていうんだぞ、かっこいいだろ」
 やはり得意げなエルクに、ヘルメスはどんな交易品を扱っているのか尋ねた。
「うちが扱ってるのは主に獣から取れる毛皮や牙なんかで、代わりに仕入れるのが鉄や木
材だ」
「ラインバッハ様、お帰りなさいませ」
 すらりとした女性が現れた。結い上げた黒髪と左右を重ね合わせる着物を着ているあた
り、リュウガ領の出身だろうか。伏し目がちの睫毛に色気があってヘルメスはどぎまぎさ
せられた。
「カンナ、少しまずいことになった。が、思わぬ収穫もあった」
「おや……」
 カンナと呼ばれた女性がヘルメスに視線を転じて目を瞠った。
「これは、どういうことか寝る前にでも聞かせてくださいな。今は忙しいので、これで」
 カンナは仕事に戻っていった。
「二階だ、行くぞ」
 ラインバッハに続いて急な階段を上る。襖と呼ばれる仕切りを開けて部屋に入ると、机
や椅子の類はなく、藺草を織って作る畳なる床が広がっている。
 部屋の隅に何枚も重なる綿の詰まった敷物を、エルクが人数分運んできて並べた。車座
に腰を下ろす。
「さて、もう察しがついていると思うが、ここは革命軍の拠点の一つだ。特にここは中枢
と言ってもいい。交易商は表の顔であると同時に、軍資金と物資の調達源でもある」
 ラインバッハがおもむろに仮面を外す。明るい場所で見ると自分と同じ顔であることが
より確かにわかる。
「私とお前は共にひとつの定めを背負っている」
 そう言ってヘルメスを見据えてくる。同じ目のはずなのに、自分よりも深い瞳だ、とヘ
ルメスは思った。
「私は真の名をササライという。聞いたことがあるかな」
「ササライ……それはまさか」
 八年前の第一次グラスランド征伐において、暴走した仮面の神官将を止めるため、グラ
スランド側に付いた神官将がいたはずだ。その名を確かササライと。
「そのまさかだ。私はグラスランド勢とともにルックを……仮面の神官将の暴挙を止めた。
良かったのか悪かったのか、今でもわからぬ」
 ササライの表情からは何も読み取れない。
「確か真なる土の紋章の宿主であると……」
「ああ、そうだ。こう見えても結構いい歳のおっさんというわけだ。突然だが……サドラ
ムという将軍を知っているか」
「はい、それは」
 ヘルメスは語った。三等市民街焼き討ちと、それを指揮したサドラム。そしてその件に
ついてロンベルトを問い質したこと。
「なるほど……。ロンベルトにとって邪魔だったのだな、君は」
 はっきり言われてしまうと、逆に胸がすっとした。
「そのサドラム将軍が失脚した原因については知っているか」
「ハイランド領復活を狙ってデュナン共和国で乱を起こしたと」
「そう、もう十一年も前のことだ。戦功の見返りとしてハイランド……現在のハイイース
ト県を己が領土としようと目論んでいたことは想像に難くない」
「本国の不興を買って呼び戻されたのですよね」
 ササライは軽く目を伏せた。
「そうだな、本国の意向を無視して陣を置き続けていたが……当時はハルモニア国内で内
乱も起きていたからな」
「内乱ですか」
「ああ、それは知ってる」エルクが言った。「水晶雪渓で、ヒクサクが既に死んでいるって
噂が流れたんだ」
「正確には、傀儡にすり替わっている、という噂だった」
 傀儡とはどういうことだろう。
「世の中には似た人間がいるということさ。私や君のように。そしてそれはハルモニアが
持つ秘術と深く関わってくる」
 聞いたことがある。紋章や世界の成り立ちを研究するハルモニアは、他国では及びもつ
かないような秘術をたくさん隠し持っていると。
「その秘術の一つに、生命連鎖の研究がある」
「生命連鎖?」
「人の身体には生命の設計図とでも呼べるような、鎖状の情報体があるという、にわかに
は信じがたい話さ」
 具体的に思い浮かべることができない。
「なんでもその設計図の変化によって生物は多様性を獲得したという。もし仮に、ある人
物と同じ設計図を用いて人を造り出すことができたなら……それはつまり、まったく同じ
人間を複製できるということになる」
 その説明が場に馴染むまで少しの間があった。
「ササライ様、もしや……」
 エルクはそこから先を言うことが恐いのか、言葉を呑んだ。
「そのまさかだ、私はヒクサクの複製。そしておそらく君もだ、ヘルメス」
 ヘルメスの背筋を無数の虫が這いあがったような感覚がした。
「まさか……私はダアト領で……」
 捨てられていたのだ、赤子の頃に。もしや。
「安定した複製を作るためにどれだけ失敗作が出たか、そしていたずらにどれだけの複製
を作ったのか、私にはわからない」
 ササライは淡々と事実のみを告げる。ヘルメスの心は受け入れることを拒否していた。
「私は……誰なんだ」
 体が意思に反して震える。何かが壊れそうになる。
「ヘルメス」
 エルクがふわりと抱きしめてくれる。まるで赤子を抱くような優しさに、心が落ち着く。
「信じられぬのも無理はない。私も通った道だ。傀儡とはそういう意味だ。ヒクサクは既
に亡く、神官が傀儡をこしらえて、政治を私物化しているとの噂が広まったのだ」
「ササライ様、今日はもう……」
 エルクが言った。
「そうだな、明日にしよう。よく休めヘルメス、そして受け入れよ」
 ササライは腰を上げて立ち去った。
 エルクの腕の中で、ヘルメスは吐き気と戦っていた。ササライと瓜二つの顔、そしてサ
サライがヘルメスのことをヒクサクと勘違いした理由。突き付けられた事実を否定する根
拠がどこにも見当たらないではないか。
 同じ人間が、二人も、三人も、いやもっと。
「私は……誰なんだ……」
 呟いた声に、エルクの柔らかな答えが返ってきた。
「お前はお前さ。ヘルメス」
 ずっとエルクの腕に包まれていたい、そう思った。

 窓の外を見ると、日が暮れたのに橙色の明かりが灯って陽気な人々の声がする。仕事を
終えた者、あるいはこれから仕事のある者たちが、思い思いの店で夕飯を買い、路地に置
かれた台で食べているのだ。
 多様な人々。生命連鎖。彼らもそれに従って身体ができているのか。いや、それでも彼
らは人の交わりから生まれている。
「ならば私は……」
 生命連鎖の情報のみから作られた自分は果たして人と呼べるのか。そして自分をダアト
領に捨てたのは誰で、そこにどのような思惑があったのか。わからないことが多い。自分
があまりにも不安定な足場に立っている気がする。
「ヘルメス」
 エルクの声に振り向いた。
「悩み過ぎるなよ。今でも私の目に映るお前は、他ならぬお前自身だ」
「うん……ありがとう」
 考えても埒が明かないことではあった。
「エルク、私の居場所はもう、この国に残されてはいないのだろうか」
 窓の外を眺めながら言った。エルクの言葉は返ってこない。
「私が死んでいないと知ったら、ロンベルトは生かしておかないだろう。どこまでも追わ
れる身だ。ダアト領にだって帰れないかもしれない」
 沈黙が落ちた。窓から流れてくる風がひやりと冷たい。ヘルメスの隣にエルクが並び、
同じように外を見た。
「お前の居場所ならあるさ、ヘルメス。私の隣にお前がいて、お前の隣に私がいる。ずっ
とそうだったろう。それじゃ不満か」
 ヘルメスはエルクの横顔を見た。その意志の強い眼差しは夜の彼方に向いている。
「そうだね、離れていても、私の心にはいつもエルクがいた気がする」
 だから歪まずに自分の意志を貫くことができた。その結果としてここに立っている。
「そう思うと悪くないな」
「それに生きているうちくらい、一緒にいてもいいだろ」
 ぶっきらぼうなエルクの口調がおかしくて、ヘルメスはつい笑ってしまう。
「あ、やっと笑った」
 そう言うエルクも満面の笑みだ。ヘルメスは不意に目頭が熱くなる。これは流してもい
い涙なんだと思い、笑いながら泣いた。

 翌朝、昨日と同じ部屋で車座になった。
「すっきりした顔をしているな」
 ササライがどこか満足そうに言った。仮面は紐で腰から下げている。
「昨日の話の続きを、お願いします」
 聞く覚悟はできていた。
「ヒクサクが傀儡であるとの噂が首都に流れたところまで話したな。これが原因で内乱が
起きた。円の紋章とヒクサクはこの国の象徴だ。その存在が揺らいだことで民の心が不安
定になった。生命連鎖を研究していたとある大神官の派閥も火消しに躍起となった」
 ロンベルトが政治改革をする前まで、大神官の地位は神官将よりも高かった。
「当時の大神官たちが一体それぞれ何を目論み、何をしていたのか、私にも分からない。
一つの神殿の最高機密文書に触れられるのも大神官のみだったからな。大神官たちが世界
を裏から牛耳っているとの噂もあった。あながち馬鹿にできない噂だったと私は踏んでい
るのだがな」
「世界というと……南のファレナから、西方大陸まで……?」
「そんな時代の権力者だった大神官たちはロンベルトに反感を持っている。議会政治にな
って以降、ある一面において確実に国力が低下したと」
 かつて国を意のままに操っていた大神官は今や議席に加わることさえできないのだ。
「大神官の影響力を削ぎたかったのでしょうか、ロンベルトは」
「そうだな。国政の場から弾かれた神官たちは、国民議員の導入にも反対していたな」
 そこでエルクが言った。
「ロンベルトはもと神官将だったと聞いたことがありますが、神官政治の腐敗を見抜いて
いたのでしょうか」
「ヒクサクを盲目的に信じ、神官にかしずかれて育った私よりは、よほど多くのものが見
えていたのだろう」
 少し間を置いてから、ササライは続けた。
「ヒクサクが傀儡であるとの噂だが、これを流したのはデュナン共和国だったようだな」
「そうなのですか」
「サドラムとの対陣が長期化しそうなのでデュナンの軍師が手を打ったのだ。そういう噂
をまことしやかに水晶雪渓で流せば、たちまち国内は混乱すると読んだのだろう。実際そ
の通りになった」
 あまりに秘密主義が過ぎる政治形態であるがゆえに付け込まれたのだ。ロンベルトはそ
こに神官政治の脆弱性を見たのかもしれない。
「ヒクサクが傀儡なのか、それとも建国当時からのヒクサク本人なのか、私には何とも言
えない。途中ですり替わって、文字通り神官たちの操り人形となっていたとしても何ら不
思議はない。ただ、な。ずっと政治に一言も口を挟んでこなかったヒクサクが、ロンベル
トが提案した政治改革に、急に思いついたように裁可を下した。これがきな臭い」
 ササライが右手で口元に触れる。手袋をはめていないその甲には紋章があった。
「八年前に表舞台で動き出したヒクサク。これがどのような意味を持つのか……」
 それきり言葉は続かなかった。一同、考え込むが、何が出てくるわけでもない。
 ササライがヘルメスに視線を向けて言った。
「ヘルメス、話せるのはこれですべてだ。お前の居場所ならここにあるぞ、この革命軍に
な」
「ダアトには戻れないのかな……」
 ヘルメスが呟くと、ササライが口元だけで笑った。
「いずれダアトも版図に加えてしまえばいい。そうすれば戻り放題だ」
「そんなにうまく行きますか」
「先日もエドワード・アキナスの軍を破ったのだぞ。やってやれぬことはない」
 腰を据えて潰すほどの価値もなかったとさんざん言われていたのだが、あえてそのこと
は黙っていた。
「さて、私はこれから私用がある。まだ合流できていない仲間たちも気にかかるしな」
「具体的にどれほどの損害が出たのでしょうか」
「心配しなくていい、エルク。お前はヘルメスと街でも回って来い」
「では俺もエルク殿とともに……」
 そう言ってカジャが立ち上がろうとしたところへササライが言った。
「お前は私と来い。次の作戦について話がある」
 カジャは口を真一文字に結んで軽くうなずき、ササライと一緒に出て行った。
「だとさ、ヘルメス。朝飯もまだだし、街でなんか食べよう」
 そう言われたそばからヘルメスの腹がぐうと鳴る。エルクが声をあげて笑った。

 食欲をそそるいい匂いが漂っている。人々で賑わう通りを歩いていると、自然と食欲も
湧いてきた。その誘惑に抗えなかったのか、エルクはさっき買ったばかりの串団子を歩き
ながら食べている。
「さあて、どの店に入るかな。リュウガ風の店なんかもあるぞ」
「リュウガあたりではどんな料理をするんだろう」
「米や味噌だな。味噌は独特の濃厚な味がしてな、慣れてくるとくせになる美味さだ。ル
ブラン領への交易品としても重宝されている」
 不意に前方でどよめきが起こった。「腕が折れたぁ!」という物騒な叫び声。駆け付けて
みると、そこには木の台があり、一人の大柄な男がふんぞり返って椅子に座っている。台
の足もとでは腕を押さえてのたうち回るもう一人の男。
「何があったんだ」
 ヘルメスは思わず尋ねた。大柄な男の目が鋭くこちらに向く。
「何って……商売でさ。腕相撲で俺に勝ったら賭け金を倍にして返してやるんだが、どい
つもこいつも相手にならねえ」
「なんだその妙な商売は。商業ギルドに許可は取ってるのか」
 腕相撲で負けたと思しき男はなおものたうち回っている。ひょろひょろ長い身体が大げ
さに地を転がる様は、掘り起こされた蚯蚓を思わせる。
「ちょっと見せてみろ」
 エルクが男の腕をつかんで引っ張ったり曲げたりする。
「痛い痛い痛い! 腕が折れる腕が」
「折れてない、肩が外れてるだけだ、ちょっとおとなしくしてな」
 慣れた動作でエルクが肩をはめてやった。その瞬間ごきりと音がして男が「痛い」と叫
んだが、すぐに楽になったようで正気を取り戻した。
「あー、ひどい目に遭った。悪いがあんた、賭け金を返してくれよ」
「あ?」
 腕相撲男が片眉をあげて、負けたひょろひょろ男を睨んだ。
「だってよ、あんたのせいで肩が外れたんだぜ、商売としてはどうかと思うね。このお嬢
さんのおかげで事なきを得たが、しかしまだ肩がずきずきしやがる。言ってみりゃ治療費
さ、治療費」
「あんたが、賭けたんじゃねえか、金をよ。今さら返せってのは筋が通らねえな」
 腕相撲男の野太い声に、野次馬たちもしんとなる。
 ちなみにいくら賭けたのかと問うてみると、五万ポッチという答えが返ってくる。五万
あればみたらし団子が一か月分は買えるな、とエルクが妙な計算をする。とにかく大金で
ある。
 ひょろひょろ男は大げさな身振りで肩を押さえた。
「あいたたた、また痛んできやがった。こりゃいかんな、五万ポッチじゃ腕を治せねえわ。
これじゃ仕事もできやしねえ。治療費に二十万ポッチ。二十万だ、それくらいは貰わねえ
とな」
「なんだと……」
 腕相撲男の静かな怒りがあたりを圧する。ひょろひょろ男は怯んだ様子を見せたが、そ
れでもなお言い募った。
「お、おめえ、なんだよ、その態度はよ、なんなら出るとこ出てもいいんだぜ、俺には偉
い先生がついててな……」
 そのときヘルメスの脳裏が閃いた。憶測の域を出ないがエルクに耳打ちする。短い説明
だけで要点を飲み込んだエルクがいきなりひょろひょろの腕をつかんだ。
「ちょっと気になったんだが。あんた、この細腕で、こいつに勝てると思ったのか」
 二人の男の腕の太さを見比べてみる。腕相撲男の腕が筋骨隆々として丸太のようなのに
対し、負けた男の腕は小枝のようでいかにも頼りない。
「か、勝てるかどうかなんて……」
「勝てないのは一目瞭然だ。自分が一番わかるはずなのに五万ポッチも賭けるってのはど
ういう心境なんだ。そして頼れる先生ってのは、あんたを弁護してくれる奴のことか」
 一気に畳みかけられて、ひょろひょろ男は目を白黒させる。
「う、うるせえ、一体何が言いたいんだ、ええ、嬢ちゃんよ」
「これは私の勝手な憶測だが……あんたは勝つつもりもないのに大金を賭けた。腕を痛め
たふりをして治療費をぶんどるために」
「俺は実際、肩が外れたんだぞ」
「自分で外したんじゃないのか」
「なんだと!」
 これでは埒が明かないな、と思ったヘルメスは割り込んだ。
「もういいだろう。確かこの領では私的な賭博が禁じられていたはずだ。領内の者ならそ
れくらい心得ているだろう。賭けを開く者、賭けに乗った者、どちらにも非がある」
「でもよ兄ちゃん、怪我させられたのは、それとは別の話だろう」
「違法であるとされる賭けに手を出した、そのうえでの怪我だろう。領主のスズカ卿はそ
うした欺瞞が何よりもお嫌いだ」
 ひょろひょろ男は黙り込んだ。領主に会ったことでもあるのか、とその反抗的な目が言
っていたが、その通り、会ったことがあるのだ。スズカ卿は父と知り合いで、よくダアト
領を訪れていた。
「くそっ、白けちまった」
 ひょろひょろ男は捨て台詞を吐くとようやくこの場を立ち去った。集まっていた野次馬
たちも、拍子抜けした様子で散っていく。
「悪いけど、そういうことだから。店じまいをするべきだと思う」
 ヘルメスが腕相撲男に言うと、彼は巨躯を折るようにして深々と頭を下げた。
「どこのどなたか知らんが、すまねえ。俺は名をカンドリという。お役人には、知らせね
えでくれ、頼む」
 何か事情がありそうだった。どうしてこんな真似を、とエルクが尋ねた。
「俺は少し前まで、ある商会で荷の積み下ろしをしてたんだ。女房がその店のお偉いさん
に縁があってな、会計をやってたから、俺もついでに雇ってもらえてたんだ。でも女房が
死んじまって、そしたら縁も切れたとかで俺はお払い箱になっちまった。俺は体ばかりで
かくなって、まともな生き方ってやつがわからねえ。難しいことは全部、女房がやってく
れてたから。いよいよ金がなくなって、こんな商売しか思いつかなかった」
 人を威圧するような面相だが、話を聞いていると心根は悪くなさそうだ。
「行くところがないのか……」
 自分と同じだ、とヘルメスは思った。
「なあエルク、彼を革命軍で雇えないだろうか」
 エルクに小さな声で提案すると、彼女はうなずいた。
「確かに強そうだ。表向きは、天元交易商会の倉庫番てところか。ササライ様も嫌とは言
わないだろう」
 二人はカンドリに事情を説明した。
「革命軍……よくわからねえが、働く場所があるのか」
「ああ、こんなところで博打をするよりよほどいい。東二番通りに天元交易商会ってとこ
ろがあるから、そこに行って、私からの紹介だと言うんだ。私の名はエルクという」
「わかりやした、エルクさんの紹介と言えばいいんですね」
 そうしてカンドリと別れた。あとはカンナあたりがうまくやってくれるのだろう。
「こんなふうに仲間を勧誘するのは、よくあることなの?」
 エルクが意外とあっさりカンドリの加入を許可したので、慣れているのではないかと思
ったのだ。
「ササライ様は気に入った相手をどんどん味方につけようとするからな。だからって手当
たり次第じゃないぞ、ちゃんと人物を見定めてる。でも、例外はあったみたいだな」
「例外?」
「お前が巻き込まれる羽目になった、あの罠のことだよ。サクマって奴が、あの森をヒク
サクが通るって情報を持ち込んできた」
 それを聞くと人を見定めるというのは難しいことだと思う。
「さて、そろそろ本当に腹が減った。この先にお勧めの店があるんだが……」
 エルクが歩き出す。口に団子の串をくわえている。行儀が悪いので取り上げた。

 しばらく行くとまた人だかりに出くわした。エルクがうんざりした顔になる。
「今度は何だ、いつになったら朝飯が食えるんだ……」
 ヘルメスとエルクは人込みをかき分ける。どうやら酒場の前でもめ事が起きているよう
だ。店の者と二人の少女が対立している。
「てめえ、このガキ! 店をめちゃくちゃにしてくれやがって、どういうつもりだ!」
 酒場の男が煤だらけの顔で喚き散らす。確かにその酒場の窓は粉々に吹き飛び、扉も外
れ、黒煙がもくもく上がっている。
「いや、だってさ、あんたらがレインにスケベな服着せようとしたんじゃん。めっちゃキ
モイんですけど!」
 朗々とした声で反撃するのは道化師のような衣装に身を包んだ少女。片手に妙な球体を
持っている。
「な……あのなあ、そういう契約なんだよ。歌姫として雇ってくれって言ったのはそいつ
なんだからな!」
「この子、世間知らずだからさあ、そこに付け込んでばっちい契約結ばせんのはどうかと
思うわけよ、うん」
 道化師の少女は手中の球を弄ぶ。その背中に隠れている黒髪の少女が消え入りそうな声
で言った。
「ね、リク、もういいから……」
「ダメだってレイン、こういう奴らは徹底的に殲滅しとかないとさあ」
 店内から男が十人ほど出てきて言葉を交わす。いずれもがっしりとした体躯だった。
 これはまずい状況じゃないのか、とエルクの袖を引っ張ると、もう少し様子を見よう、
という答えが返ってくる。
 酒場の男が不敵に笑った。
「お嬢ちゃんたち、ちょっとやりすぎちまったな。店の修理代、お前らに払えるのか」
「払う義務なんてないね」
「俺らを甘く見るなよ、絶対に払わせるぞ。たとえ金がなくても、払えるもので払っても
らう。この街では暮らせなくなるぜ」
「おう、やろうっての、宣戦布告だね、それ。んじゃこっちも本気出すか」
 道化師の少女が指をパチンと鳴らす。すると野次馬の半数ほどがどこからか黄色い布を
取り出し、頭に巻き付けた。
「な、なんだ、こいつら……」
 突如として現れた黄色い集団に店の者たちは狼狽する。
「民に溶け込む義賊『タガラシ団』とは私たちのことだ!」
 そう声を張り上げるや否や、道化師の少女が球を頭上高く放り投げた。群衆の視線がそ
れに吸い寄せられる。店の二階くらいの高さまで上がったところで球は破裂し、七色の花
火を咲かせた。
 それが合図となった。酒場の者たちが花火に気を取られた一瞬の隙を突いて黄色い集団
が襲い掛かり、蛸殴りにし始める。
 悲鳴と怒号が上がり、通りは大混乱になる。その最中、道化師の少女がもう一人の少女
と一緒に走り去っていくのをエルクは見逃さなかった。
「ヘルメス、追うぞ!」
 エルクとヘルメスは駆け出した。やがて人けのない路地に入る。そこに二人の少女がい
た。
「あんたら誰? 追手かな」
 道化師の少女は肩にたすき掛けしたバッグから例の球を取り出す。
「ガキの遊びにしちゃ本格的だな。タガラシ団とか言ったか」
 エルクが歩み寄ろうとすると、道化師の少女は警戒するように身構えた。
「その球は何だ。爆発していたが」
「これ? これは私が開発した絡繰り爆弾だよ。内部の機構により爆発までの時間調整は
お手の物。手足が生えて敵地に潜入させるやつとか、いろいろあるよ」
「絡繰り? て何」
 ヘルメスが疑問を口にすると、道化師の少女は答えた。
「聞いたことないかな、歯車とか組み合わせて作る、動く人形ってのあるでしょ。ああい
うのが作れる技術者を絡繰り師って言うの」
「おもしろそうだね」
 素直な感想を口にすると、少女も悪い気はしなかったようで笑みを浮かべた。
「でも、あれはさすがにやりすぎじゃないかな。話を聞いてると店のほうにも問題があっ
たんだろうけど……」
「それはそうかもね。いっつも、やった後で後悔すんだよね。あそこまでやっちったら別
の町に行くしかないよね」
「え、リク、いなくなっちゃうの」
 黒髪の少女がすがるような目で言った。
「あんたはタガラシ団とかじゃないのか」
「レインはこの街の人だよ。親戚がやってた店で歌ってたんだけどね、借金で首が回らな
くなって、お店、つぶれちゃったの。親戚のおじさんおばさんも、レインを置いてどっか
行っちゃったし。それで新しい働き口探してるときにさっきの店ともめちゃってさ。しゃ
ーないから私が出張ったわけ」
 リクと呼ばれた道化師姿の少女がすべて説明してしまった。当の本人であるレインは気
弱そうに縮こまっている。
「なら、あんたたち革命軍に興味ないか」
 エルクが勧誘を始めた。
「うん、聞いたことならあるよ。エドワード・アキナスの軍を追い散らしたとかいう」
「そうだ。お前のタガラシ団とやらは義賊と言っていたな。うちに来てもっとでかいこと
をやってみる気はないか」
「どゆこと、あんた革命軍なの」
「ああ、そうだ。その子に歌う場所がないのだって、黒髪だからじゃないのか」
 レインの肩がびくりと震えた。
「悪い、変な意味で言ったんじゃないんだ。ただ、私たちのところに来れば、歌う場所の
斡旋くらいしてやれる」
 するとリクはにやりと笑った。
「いいね、それ。つまり私らが力を貸せば、みんなの面倒見てくれるってことっしょ」
「そうだ、もちろんそこの歌姫もな」
「よし、乗った」
 リクは球をバッグにしまった。エルクは二人に天元交易商会の場所を教え、そこで詳し
い説明を聞くように言った。
 これで一件落着だ。あの酒場がどうなるかは、知ったことではないが。

 そのあとようやく朝食にありつくことができたのだが、その帰り道、エルクが妙なこと
を言った。
「今すれ違った女、只者じゃないな」
「女?」
「黒いマントを着て、フードを目深に被った奴がいただろう」
 そう言われてもよくわからない。
「この街にはいろんな奴がいるが、しかしあの女は……」
 それきり黙ってしまう。ヘルメスには何がなんだかわからないまま話は途切れ、天元交
易商会に帰り着いた。
 店ではさっそくカンドリが働いていた。店と外の倉庫を行ったり来たりしている。黙々
と働くいい人だわ、とカンナが嬉しそうだ。タガラシ団はまだ来ていないらしい。
 ササライなら二階にいるとカンナが言うので、報告のため階段を上っていく。それにし
ても四つん這いで上りたくなるほど急な階段だ。二階の廊下にヘルメスの足が乗ったとき、
襖の向こうから怒声が響いた。
「聞き捨てならんぞ、今の言葉は!」
 カジャの声だった。エルクが静かに、という仕草をし、襖にそっと忍び寄る。ヘルメス
も同じように聞き耳を立てた。
 男の声が漏れ聞こえてくる。
「俺だって言いたくて言ってるわけじゃありやせん。あの眼帯男が元議員ということが問
題なんです。しかも入ってきたばかりだってのに、もうエルクさんやお頭のそばにいる。
エルクさんとは知り合いだったというじゃありやせんか」
「我々の中に入り込むため、エルク殿と仲良くしていたとでも言いたいのか。それではま
るでエルク殿の目が節穴だと言っているようなものだぞ」
「カジャさん、俺は別にそんなことは……」
「ヘルメスは間者ではない。私が保証する」
 ササライの声だ。
「お頭、何かおかしくありやせんか。何で入ったばかりの眼帯男をそば近くに置いてるん
です。何か隠してやいませんか」
「お前は私も信じられぬというのか」
「この際だから言いますが、お頭がハルモニアの議員と裏で繋がってると言いだした奴が
いるんです」
「何を馬鹿な!」
 カジャが激昂する。
「なぜ私がそんなことをする必要がある」
「お頭は、俺らのことをよく考えてくれてるからです。俺らを二等市民として認めてもら
うために、何か工作をしてるんじゃないかって」
「馬鹿な。私が望むのは、ヒクサクを頂点に据えているこの国の改革だ。我らだけ甘い汁
にありついてどうなるというのだ」
「あの森での奇襲が筒抜けだったのも、お頭と眼帯男がグルだったからじゃないかと……」
「いい加減にしろよ貴様」
「とにかくハルモニアの議員なんて信用できやせん。失礼しやす」
 男が襖を開けて出てきた。エルクとヘルメスにばつが悪そうな一瞥を投げて階段を下り
ていく。
「聞いていたのか」
 仮面をつけたササライが襖の向こうからこちらを見ていた。
「聞こえてしまったもので」
 どこかぶっきらぼうにエルクが言った。
「まあいい。ヘルメスと二人だけで話がしたい。カジャとエルクは下がってくれるか」
「わかりました。さあ行きましょうエルク殿」
 心配そうな目をするエルクだったが、カジャに肩を押されて階段を下りていく。
 ヘルメスは襖をぴったり閉め、ササライに向かって腰を下ろした。
「先ほどの話は気にするな。森での一件以来、皆ピリピリしているのだ」
 ヘルメスは膝の上で拳を握った。
「私はここに……いるべきではないのでしょうか」
「そんなことを言うな。私はむしろハルモニアの内情をその目で見た者がいれば心強いと
思っているのだ」
「私など、議員とは名ばかりで何もできなかった」
「三等市民が参与できない形だけの議会だ」
「二院に分かれている意味も、あまり無いように感じました」
「長いこと神官政治などやってきたから、奴らにはわからないのだ。議会というものが」
 ササライが仮面の奥で笑ったような気がした。しばし言葉が途切れ、階下から聞こえて
くる賑やかな物音に、なぜか救われるような心持ちがする。
「国民議員は各々の領から推薦を受け、それを中央が承認するのだったな。しかしすべて
の階級から広く支持を集めるというのは難しい。よくできた人物ほど支持がばらついたり、
中央の政治を自ら嫌うということもある」
 この領のスズカ卿などがそうである。
「それを考えると、君はとても領民から信頼されていたのだろうな」
 ここは謙遜するところでもないと思い、ヘルメスは無言でうなずいた。
「ダアト領の噂は私も聞いている。小さな領ではあるが階級の格差が極めて少ないと」
「私はずっとダアトにいれば良かったのかもしれないと、思うことがあります」
「それは困るな。君と私が出会えなくなる」
 茶化しているような口ぶりではなかった。ササライはおもむろに仮面を外す。
「私は仮面をつけ、君は眼帯か。当のヒクサクも素顔を表に晒さないと来ている。妙なと
ころで似通っているのだな」
「ダアトで父に拾われたとき、右眼は既につぶれていたそうです。火傷のようになって」
「少し見せてくれるか」
 ヘルメスは少しためらってから、眼帯の紐を外した。それは火傷のような痕を隠すため
のものでもあった。
「これは……」ササライがまるでその痕に魅入られたように目を瞠った。出ようとしかけ
た言霊の裾をそっと掴むような慎重さで喉を鳴らしてから、「すまない、これほどの火傷と
は知らなかった」と言った。
「いえ、別に気にしてはいません、見えないのは生まれつきですから」
 眼帯をつけ直す。ササライはなぜか眉を顰めて黙り込んでしまう。ヘルメスは尋ねてお
きたいことがあったのでおずおずと口を開けた。
「あの……首都で、水晶雪渓で、紋章による自爆行為が相次いでいました。三等市民の過
激派とのことでしたが、革命軍とはなにか関わりがあるのでしょうか」
 少しの間があった。
「ああ、あれか。心配いらない、革命軍はあんな真似はしない。逆式宿しによる自爆など
許されないことだ。むしろどこからあんな邪な術法が出たのか調べさせているくらいだ」
 ササライとしては自爆行為と革命軍が結びつけられることを嫌っているのかもしれない。
未然に防ぎたい、という気持ちもあるだろう。
「それを聞いて安心しました」
「ヘルメス」
 ササライがヘルメスの顔をじっと見据えた。
「私は君を弟のように思っている。実際、私たちには同じ血が流れているのだ。そしてヒ
クサクにも。私には奴の思惑のすべてがつかめない。だからこそ肉薄しなければならない。
すべて民のためなどというつもりは無い、これは自分のためでもあるのだ」
 ササライの弟。ヘルメスは心の中でそう唱えた。するとヒクサクは自分にとってもう一
人の父ということになるのか。
「君は国政の中枢で見てきたはずだな、この国の現状を。それから目を背けることはでき
ないはずだ」
 炎に包まれた三等市民街、ロンベルトの策謀、穴だらけの議会政治。そしてこれまで出
会った人々。それらを思うと自分の気持ちに嘘をつけない。今の自分にできることは、立
ち止まることでも逃げることでもない。今あるこの場所で戦うことだ。
「私はここにいたい。ここからこの国を変えたい」
 ヘルメスは強くそう望んだ。ササライが温かい笑みを浮かべた。
「君はここにいていいんだ」
 ヘルメスの心を縛っていた鎖が、そっとほどけた気がした。



 天元交易商会とは仮の姿で真実は反乱軍の中枢であるらしい。
 それを突き止めたのは十三部隊だった。二組のアイラたちが首都の過激派を調査してい
る間に、一組はいつの間にか反乱軍の尻尾を掴んでいたのだ。
「一組ってよくわかんね。でもあれ、かわいい子いますよ。厚いコート羽織ってても、こ
う胸と尻が……」
「トウカ、お前はそんなとこしか見てないのか」
 アイラとトウカは樹上にいた。ここからなら天元交易商会がよく見えるのだ。二組の役
目は人の出入りを見張ることだった。一見すると何の変哲もない店だが、たまに商人とも
思えないような雰囲気の者が中に入って、そのまま出てこなかったりする。
「一組の読みはどうやら当たりっすね。ありゃあ只の交易商じゃないっすよ」
 天元交易商会が潰れたら、反乱軍は今度こそ確たる拠り所を失う。間違いないとの確証
を得たら火をかけろというロンベルトの命だった。火をかけ店を襲う役目は一組が担う。
「革命なんかして意味がありますかね、俺にゃわかんねえや」
 トウカはさっきからべらべらとよく喋る。
「革命ってことは血がどばどば流れて、そのうえで国の仕組みを変えるんでしょ。そんな
ことして喜ぶ人ってどんくらいいますかね」
「お前は三等市民の出だろう。何か思うところはないのか」
「つっても今は組合の人間ですけどね。二等市民だろうと三等市民だろうと、争いに巻き
込まれたかないでしょ。ハルモニア兵にだって家族がいるわけだし」
「まあ、そうだな」
 八年前のグラスランドでの戦いがアイラの脳裏をよぎる。
「革命なんかしたところで、詐欺師は相変わらず人を騙すんだろうし」
「騙されたことがあるのか」
「やだなあ、たとえ話っすよ」
 トウカはふと真顔になった。そしてやけに気取った口調で語りだす。
「この国は荒れますよ、アイラさん。ロンベルトの政治改革から八年、かつて権勢を誇っ
ていた大神官たちの不満は頂点に達しつつある。いずれ大神官とロンベルトとの間で対立
の構図が鮮明になるでしょう。もはやこの国は一枚岩ではない。あらゆる思惑が入り乱れ、
どのような行く末に転ぶのか……乞うご期待」
「トウカ、それ誰の受け売りだ」
「ココノエたんです。てへ」
 トウカはおどけた様子で自分の頭をこつんと小突いて見せる。どうせそんなことだろう
と思った。
「ロンベルトもそれくらいは予感してるだろうさ。だからこそ今のうちに、反乱軍をさっ
さと潰しておきたいんだ」
「身のうちに火種を抱えたままで大神官たちを相手にするのは骨が折れるでしょうからね」
「それもココノエが言ってたのか」
 ココノエとヤナギは別の地点から店を見張らせている。一組は客のふりをするなどして
店に出入りし、中の様子をうかがっているようだ。
「反乱軍の頭領はどんな奴か、気になるな」
「でかい音立てたら出てきたりしませんかね。そこを俺がズドンと」
 トウカが銃を取り出し撃つ真似をする。
「馬鹿かお前」
「いいと思うんだけどなあ」
 トウカは指先で銃をくるくる回す。回しながら上に投げ、つかんでは回してまた投げる。
 銃声が空気を切り裂いた。
 間違えて引き金を引いたのだ。当のトウカが一番びっくりしている。
「この阿呆!」
 拳骨でトウカの頭を殴りぬく。バランスを崩して落ちそうになったトウカは枝にしがみ
ついた。
 眼下を行き交う人々が足を止めて怪訝そうにしている。そして只では転ばないとでも言
うのかトウカの期待通りとなった。店の二階で窓が開き、人が姿を現したのだ。
 その瞬間アイラは瞠目していた。木の葉の間から見えているのは仮面をつけた男と、い
つか首都で見た眼帯の若者。その二人の姿が、過去の幻像と重なって、アイラは半ば確信
した。
 あれはササライじゃないか。
 八年前のグラスランドとハルモニアの戦において、ササライはハルモニアの将でありな
がらグラスランド勢に力を貸した。本国の意思に背いた神官将ルックを止めるために。グ
ラスランドのカラヤ族出身だったアイラもササライとともに戦ったのだ。
「間違いない」
 仮面をつけていて顔こそ見えないが、身のこなしからしてササライだ。ササライとルッ
クの面差しはよく似ていて、二人は事実上の兄弟だったと話に聞いている。ならば傍らに
いる眼帯をつけた若者の容貌はどうだ。やはり似ている。
 これがどういう状況なのかわからない。
「反乱軍の頭領は仮面つけてるって話でしたね。んじゃ間違いないかな。横にいる人が気
になるけど、あれって首都で会った国民議員ですよね」
 トウカが手の甲に銃身を置くような形で構え、狙いを定めようとする。
「待てトウカ」
「何で。ここでズドンとやっちまえば火なんてかける必要ないっしょ」
「いいから待て。この任務は何か妙だ」
 トウカは銃をおろす。
 反乱軍にササライがいて、どういうわけかあの国民議員もいる。そしておそらく仮面と
眼帯を取ってしまえば二人の顔はよく似ているのだ。
 ロンベルトはこのことを知っていたのか。それとも知らずに任務を与えたのか。
「トウカ、ロンベルトのもとに走れ。そして伝えろ。反乱軍の頭領はヒクサク様に見える。
殺してよいのかと」
「ヒクサク? 何言ってんですアイラさん。持ち場を離れていいんですか?」
 嫌な予感と肌がひりひりするような感覚がする。空気がざわめいているのだ。
「精霊が騒いでいる。私たち二組はロンベルトの別命あるまで待機だ。ヤナギとココノエ
にもそう伝えろ」
 それだけでトウカは了解した。
「わっかりました。アイラさんの勘はよく当たるからなあ」
「トウカ。ロンベルトに心を許すな」
 トウカは無言でうなずくと、木から飛び降りて一瞬で駆け去った。
「さて……これからどうしようか。いずれ来る瞬間ではあったけど、案外早かったな」
 三組の面々と交わした約束を思い出した。今は尻尾を振っておけ、噛みつくときが来れ
ば自分でそれとわかるはずだ。ジャックがそう言っていた。
 打つべき手はトウカに託した。あとは様子を見るしかない。



 交易街ゴーヤから南に行くと亜人の村があり、そこのコボルト地区に革命軍の協力者が
いるという。その者がたくさんの古文書を蓄えているとササライは言っていた。
「古文書など歴史的価値のある遺物を民間で取引することは、ハルモニアの法で禁じられ
ている。だからこそ監視の目を盗んででも手に入れたい好事家がいるのだ」
 あらゆる知は『一つの神殿』という場所に集約される。またそうあるべきだとハルモニ
アの中央政府は考えている。
「いざとなれば息のかかった商人を通して、中央政府に売りつけることだってできるかも
しれない。神官どもはまさか払った金が我々の懐に入るなど思いもよらない」
 しかしまだそれをするための準備が整っていない。古文書の出所が革命軍だとわからせ
ないためには複雑な段階を経て商人に卸す必要がある。そのための経路がまだ構築できて
いないのだ。
「いずれ古文書の密売は我らにとって大きな資金源となる。念のため亜人の村から別の場
所に移しておきたい」
 一所に置いていて摘発でもされたら、せっかく集めた古文書は一時に失われてしまう。
「そろそろ中心となる拠点もゴーヤから離れた場所に変えようと思っている。天元交易商
会には今まで通り何食わぬ顔で商売を続けてもらうわけだ」
 今後の布石とするため古文書をいったん亜人の村から引き上げたい。そこでヘルメスと
エルク、そしてタガラシ団のリクは任務を帯びて亜人の村に向かった。
 馬で二日ほど草原を行くとこんもりした森が見えてきた。亜人の村は森を切り開いて作
られているようだ。森の北側の門をくぐるとさっそく亜人たちがいて、中にはハルモニア
兵と思しき人間の姿もある。
「ここは亜人の村の玄関口みたいなものだ」
 エルクがそう説明した。ハルモニアの兵士たちは亜人の風景に馴染んでいた。毛玉のよ
うなビーバーと談笑を交わしている兵士もいる。
「意外と、仲良しそうだね」
「亜人の村は特別な区域なんだ。亜人部隊を構成中のルス・クル神官将が管轄している」
 あの眩しい頭の人か。ヘルメスはルス・クルの豪快な笑顔を思い出す。ここへ立ち入る
のに特別な通行証がいらないのも彼の計らいなのか。
「ルス・クル神官将は亜人に優しいのかな」
「優しいかどうかは知らないが、まあ不当な差別はしてないよな。配下の兵士たちもご覧
の通りだ」
 玄関口とされるこの区画にはコボルト、ビーバー、モールが入り混じっている。村の玄
関であると同時に交流の場でもあるのだろう。兵士たちは鎧を脱いだ軽装で力仕事を手伝
ったり、長椅子に座って年寄りのコボルトと話したりしている。
「犬のような姿のコボルト、水上生活をするビーバー、地中に穴を掘って暮らすモール。
三種族が互いを尊重し平和に暮らすのはこの村くらいだ」
「他の場所では凄い虐げられてるよね、亜人て」
 リクもここの光景が珍しく思えるらしい。
「私はハルモニアは嫌いだが、ルス・クルだけは嫌いになれない。一度ここの風景を見て
しまったらな」
 エルクの先導でコボルトが住む区画に向かった。どうやら木々を天然の壁として、種族
ごとに別々の場所で暮らしているらしい。
「種族によって習俗や環境も異なるからな。無理して一緒に生活しなくてもいいんだ」
 コボルト地区は比較的、人間の住む場所と似ているようだった。どれも同じような形を
した石造りの家が建っている。
「あ、人間だ」
 丸い顔のコボルトがヘルメスたちに走り寄ってきた。見かけは二足歩行する犬なのだが、
スカートをはいているのでいちおう女性なのだとわかる。
「ねえ人間。光る球とか持ってない?」と尋ねてくるので、「ごめん、持ってないや」とヘ
ルメスは答えた。
「残念だなあ。でもパイを作ったの、食べていかない?」
「ごめんね、用事があって」
「そっか、しかたないね。バイバイ」
 コボルトは走り去っていく。
「いきなり話しかけられた」
「モテモテだなヘルメス」
 エルクにからかわれる。
「光る球ってなんだろう」
「文字通り光る球なんじゃない?」
 リクが答えになってないことを言う。それからも何人かのコボルトに話しかけられた。
ここにいるコボルトたちは人懐っこい。むしろこれが本来の性質なのだろう。
「えっと、ここだな」
 エルクが一件の家屋に見当をつけて立ち止まる。出入り口の横に青い布がかけられた家
だ。他に変わったところはない。中に入ると背の高いコボルトがいた。立ったまま何かの
書物を読んでいて、突然の訪問者にも気づく様子がない。あるいは気づいていない素振り
をしているのか。
「鏡が森を焼き払ったようですよ」
 いきなりエルクがそう言った。コボルトが横目でこちらをうかがう。
「コボルトはどうしましたか」
「勇猛果敢に戦った」
「よろしい」
 コボルトは本を閉じた。今のは符丁か。
「用件は分かっています。そこの棚にあるので、あるだけ持っていきなさい」
 言われた通りエルクが腰くらいの高さの棚を開ける。中には四角い鞄があった。鞄の中
身を確かめると難解な文字の書かれた紙が分厚い束になっている。
「確かに。ありがとうございます」
 エルクが鞄を手に取り礼を言った。
「いえいえ。もうすべて目を通しましたので」
「文字が読めるんですか」
 ヘルメスはついそんなことを言ってしまい、すぐに己を恥じて深く頭を下げた。
「すみません。亜人の方たちは文字が読めないと、聞いたことがあって……」
「いいのですよ、顔をお上げください」
 コボルトの目は柔らかな光を宿していた。
「あなた、お名前は。私はロッキーといいます」
「ヘルメスです」
「ヘルメスさん、あなたの言ってることは決して間違いではないのです。多くのコボルト
は人間の文字を習得する必要性を感じない。私が読めるのは、人間に育てられたからなの
です」
「そうなのですか」
「文字が読めると、人間というものがわかってくる。ただ、同じコボルトには奇異な目で
見られることもあります。物を知るというのも善し悪しです」
 ロッキーは窓のそばまで歩いていった。金色の毛が陽光を浴びてより一層鮮やかになる。
「太陽があれほど輝くのは、あの星がかつて真の紋章を宿していたからだと聞いたことが
あります。紋章は神羅万象の力が顕現したものだともいわれるし、紋章こそが森羅万象を
形作ったのだともいう。しかし」
 ロッキーがこちらを振り向いた。
「そんなことを知ったからと言って、それは進化と呼べるでしょうか。知っていても知ら
なくても、太陽はそこにあり、昼間は我々を照らす。それだけわかっていれば十分だ。難
しい理屈をこねて、そのために争うよりは、知識がなくとも平和に暮らすほうがよほど賢
いと思いませんか」
「そっかなあ」とリクが異論を唱えた。「言いたいことはわかるけどさ、知ろうとしないと
進歩もしなくないかな」
 ロッキーはリクの意見も尊重したいのか、目を細めて頷いている。少し考えてからヘル
メスは言った。
「人間がもし己の知識を誇るあまり亜人に対して優越感を覚えるとしたら、それはきっと
間違いだ。人間は自分たちにとって必要だから、文字を作って知識を追い求めているに過
ぎない。だから、複雑さが必ずしも優れているわけじゃない」
 ロッキーはうん、うんと頷き、そして言った。
「自分の価値観は絶対ではありません。コボルトの中にも、自分たちの好みの料理を兵士
さんたちにわからせようとする者がいます。悪気はないのでしょうがね」
 各々が思いを巡らせているのだろう、しばし沈黙が落ちた。
「さて、あまり長居はしないほうがいいですよ。ここの兵士さんたちは気のいい人ばかり
だが、仕事は仕事としてきちんとこなす方々です。あなたたちのこともそれとなく気にし
ているに違いない」
 余計な疑いをかけられる前に立ち去ったほうが賢明か。ヘルメスたちは礼を言って辞去
した。
 ロッキーの言葉には考えさせられた。この集落は一見すると平和だが、ルス・クルの管
轄ということは兵役の訓練もしているのだろう。人間の勝手な試みに亜人たちが付き合わ
されていると言えなくもない。
「難しいな」
 静かな森の集落を歩きながらヘルメスは独りごちた。

 帰途、小高い丘の上に差し掛かったときそれは見えた。薄暮の空に向かって黒煙が立ち
上っている。何が燃えているのか一瞬わからなかった。しかしあの方角は間違いなくゴー
ヤなのだ。
「エルク……あれは」
 そこから言葉が続かなかった。ヘルメス同様、エルクの表情も凍り付いている。
「急ぐぞ!」
 エルクが馬腹を蹴って駆けだした。ヘルメスとリクも続いた。駆けるほどに疑いようも
なく確信は強まった。ゴーヤが燃えている。
 途中、ゴーヤから逃げてきた人々に出会った。そのうちの一人に何が起きたのか尋ねた。
「反乱軍です、反乱軍が町中に火を放ったんだ。大変なことになった」
 ヘルメスは愕然とした。
「どういうことだエルク」
「馬鹿な、そんなことをするはずがない。何が起きている」
 焦燥が募った。心臓が早鐘を打った。馬を潰す勢いで駆けた。ゴーヤの手前まで来たと
ころでカンナたちの姿を見つけた。カンドリとレインやタガラシ団の者たちもいる。
 リクがレインの無事を喜び、ヘルメスもみんなが大事なさそうなのでほっとする。
「いったい何があった」
 エルクが尋ねるとカンナは首を振った。
「わからない、いきなり町中に火が放たれたみたいで、店にも剣を持った人たちが踏み込
んで来たわ。それをササライ様が魔法で倒して、私には店の者たちと一緒に逃げろと」
「ササライはまだ街にいるのか」
「どうかしら。無事であることを祈るしかないわ」
 話を聞けば、町中が炎に包まれただけでなく武器を持った怪しい連中が人々を斬り殺し
ていたという。
「もう街には戻れないな。危険すぎる。だがササライ様だけは、なんとしても救い出さな
ければ」
「私たちはどうしましょう。どこか合流地点を決めておいたほうがいいかしら」
 ヘルメスの頭に考えが浮かんだ。
「西のセフィラ湖の中ほどに島があります。私が治めていたダアト領です。今は弟が領主
をしているので、私の紹介と言えば受け入れてもらえるはずです」
「それしかないな」
 エルクも頷いた。
「わかりました、ダアト領ですね」
 カンナは意志の強さを感じさせる瞳で頷き返す。
「リクもカンナたちと一緒にダアト領を目指せ。道中の安全確保を頼む」
「オッケー」
「それと、これを」
 エルクはカンナに古文書の入った鞄を手渡した。
「とても重要なものだ」
「わかったわ」
 ヘルメスとエルクは再び駆け出した。ヘルメスもカンナと一緒に行くべきだとエルクは
言ったが、そういうわけにはいかなかった。ササライは兄弟なのだ。
 ゴーヤを包む火炎は予想以上にすさまじかった。何もかもが燃えている。建物も、人も。
火が放たれたのはつい先刻という感じだった。ヘルメスたちは煙に巻かれないようにしな
がら天元交易商会の辺りを目指した。
 店のあった通りはまだ火の手が小さかった。しかしそこに店の面影は既になかった。ま
るで途方もない力で上から押しつぶされたかのような、瓦礫の山があるだけだった。
「ササライ様は……ササライ様!」
 エルクが叫び、瓦礫に駆け寄った。それに答える微かな呻き声が聞こえた。
 ササライはいた。全身を瓦礫に押しつぶされて、頭だけがなんとか出ている。
 エルクとヘルメスはササライの肩を掴んで、なんとか引きずり出そうとした。しかし圧
し掛かる瓦礫の重さは相当なものだ。挟まれたササライを少しも楽にすることはできない。
「ササライ様……」
 建物の残骸を除去するのは、河原の石を運ぶこととはわけが違う。とても二人だけの力
で取り除くことはできない。
「くそ……っ。 何もできないのか!」
「エルク」
 不意にササライがその名を呼んだ。
「ヘルメスもそこにいるな。よく聞け、これから私は最後の力で真なる土の紋章を使う。
ここ周辺の地面に作用し、この瓦礫の上に、更に土砂を降り積もらせる」
「なぜそんなことを……」
 ヘルメスの口から悲痛な声が漏れた。
「遺体の発見を遅らせる。私が死んだという事実を、その確認を、可能な限り遅らせるの
だ。私が革命軍のためにできる、最後の役目だ」
 ヘルメスとエルクは何も言えなかった。ササライのかすれた声が、笑ったような気配を
帯びた。
「ヘルメス、エルク、革命の火を絶やすな。そして国中の、虐げられた人々に、希望の火
を分けるんだ」
 ヘルメスの喉が詰まった。意志の力で声を絞り出す。
「わかりました。必ず」
 エルクがササライに縋り付くようにした。
「ササライ様、真なる土の紋章を、私に。それなくして革命軍は……」
「それは無理だエルク。紋章は主を自らの意思で選ぶ。私にはどうしようもない」
「そんな……」
 そのときだった。エルクの右手が淡い光に包まれた。光はひときわ強くなったかと思う
と、徐々に小さくなり、そして消える。そこには痣が、紋章が宿っていた。
 エルクは動揺を隠せずにいる。ヘルメスも同じだった。真なる土の紋章が移動したのか。
いや、形が違う。
「それは……私の……紋章ではない」
 ササライがかすれた声を絞り出すように言った。
「エルク……その紋章を憎んではならない。その力に……善悪はない。大切なのは、お前
の心だ」
 ササライの呼気が笛のような音を立てる。
「さあ、もう行け。ここもじき炎に包まれる」
 二人はササライと瓦礫に背を向けた。エルクが今にも泣き出しそうな荒い息を吐いてい
る。ヘルメスはエルクの手をしっかり握った。
「エルク、まだ諦めちゃいけない」
 エルクは意を決した瞳で大きくうなずいた。二人は駆け出した。一度も振り向かなかっ
た。通りの角を二つ曲がった辺りで地面が揺れた。重い轟音が空気をも震わせる。
 さようなら、兄さん。
 ヘルメスは心の中でそう唱えた。



 ゴーヤでいったい何が起きたのか、ロンベルトにはわからなかった。配下の十三部隊が
ゴーヤに反乱軍の拠点を発見した。そこまでは確かだった。拠点であるとの確証が得られ
たら、店に火をかけろとも言った。
「あくまで店に火をかけろと言ったのだ。町中が燃えたとはどういうことだ」
 忌々しい思いが口から洩れた。店だけを燃やすには水の紋章で類焼を防げばいい。それ
くらい一組も心得ていたはずだ。
「十三部隊のほかに、何かが動いていた」
 そういう報告が三組から上がってきていた。おそらく町中に火をかけたのはそいつらな
のだ。住民を斬り殺して、挙句それを反乱軍の仕業だと吹聴しているのも。
 円の宮殿の、ヒクサクの居室に入るとそこにはすでにジェイソンがいた。そしてもう一
人。
「おぬしは……」
 その男はロンベルトに軽い会釈をした。ふてぶてしい笑みを浮かべながら。
 ロンベルトは湧き上がる嫌悪感を抑え込んで言った。
「確か、ハロルド大神官でしたな。如何なる用でここに。ヒクサク様の居室ですぞ」
「おぬしが余計なことをする前は、我らがヒクサク様の御傍に仕えていたのだ」
 仕えていたとは、肩腹が痛い。神官長という威光を体よく利用していただけだろうに。
「ゴーヤが火に包まれた件を先ほど耳にしてな。どうやら反乱軍が火を放ち、住民までも
殺していったそうではないか、実に嘆かわしい」
 ハロルドはさも残念そうに首を振る。
「しかし、妙な情報も入ってきたのだ。火が放たれる前、ゴーヤでおぬしの子飼いが動い
ていたとか」
「なぜそれを」
「私にも諜報畑の部下くらいおるよ。よもやとは思うのだがな、火が放たれる計画を、お
ぬしは事前に察知していたのではないかな、ロンベルト卿」
「何を……っ」
 ロンベルトは感情が迸りそうになるのをこらえた。自分が知っていたのは、反乱軍の拠
点がゴーヤにあったということだ。町中に火を放ったのは十三部隊ではないし、おそらく
反乱軍でもない。するとまさか。
 ロンベルトはハロルドを睨みつけた。
 この男の部下が、ゴーヤを消し炭にしたのではないか。
 しかし証拠がない。
「まあそんなことはどうでもよい。今日は一つ提案したいことがあってな」
「提案?」
 ロンベルトは内心、身構えてしまう。
「私とその部下を、聖円議会の議席に加えてもらいたい」
 いずれ来そうな話だと思ってはいたが、やはり来たか。
「真相はわからぬがゴーヤが反乱軍のせいで焼け落ちてしまったのは事実。三等市民の自
爆行為といい、こうも凶事が続くのは現行の政治基盤に問題があるからではないかな」
「火災については現在も調査中です」
「我ら神官の力添えなしに、この国は安定せぬ」
 ロンベルトは首を振りながらため息を吐いた。
「できませんなハロルド卿。私が政治改革を行った意図くらい理解しておられるはずだ。
神官が政治に参与できるようになっては、意味がない」
「そうか、困ったなあ」
 ハロルドはおもむろに手を後ろで組む。そして言った。
「ゴーヤは焼け落ちてしまったな。もし仮にあれが反乱軍の仕業でないとしたら、火を放
ったのは誰だろうな。その何者かによって反乱軍の拠点が潰されたということになる。さ
て誰の仕業やら」
 ハロルドの濁った視線に見据えられ、不覚にもロンベルトは動揺した。この男は私を強
請ろうというのか。
 何と言われようと、ロンベルトは町に火をかけろとは命じていないし、十三部隊にもそ
んなことをする理由はない。しかしあらぬ疑いでも第三者の目にはどう映るか。
 助けを求めたわけでもないが、ロンベルトはジェイソンのほうを見た。興味なさそうに
そっぽを向いている。
「まあ、おぬしが駄目というなら仕方ない。こちらにはこちらのやり方がある」
 ハロルドが立ち去ろうとする。ロンベルトは焦燥に駆られ、そして呼び止めてしまった。
「わかりました。聖円議会に、神官の席を用意しましょう、それでいいのですな」
 ハロルドが顔だけで振り向いた。
「それで結構」
 たったそれだけ言い残して、去っていく。
 それで結構、だと。ひどく馬鹿にされたような気がしてロンベルトは内心、はらわたが
煮えくり返っていた。
「別段、悪い選択でもなかったと思いますよ」ジェイソンが言った。「現行の議会政治が仲
良しこよしで行き詰っているのは事実なのでしょう。神官が入ってくれば少しは場が引き
締まるのではないかと思いますがね」
「ジェイソン、そなたまでも私を愚弄するのか」
「思ったことを言ったまでです」
 ロンベルトは歯噛みするしかない。どいつもこいつも。
 不意に水晶の壁の向こうからヒクサクが笑声をあげた。長い笑い声が反響する。この国
主も何を考えているのやらわからない。笑われたのは自分なのか、とロンベルトは思った。





  第三章 新生革命軍



 セフィラ湖の畔にリュートという町がある。そこからダアト領に向かって船が出ていた。
リュートに着くまでヘルメスとエルクは特に何も話さなかった。たまにエルクは右手の甲
にぼんやりと視線を落とした。その甲に宿る紋章が目に入れば、いやでもササライの死が
心を占めてしまうのだろう。
 あの紋章はササライのものではない。本人がそう言っていた。では何なのか。考えても
分からないことではあった。
 歩き続けて、くたくたになりながらリュートに着いた。日が暮れかけていたので宿屋を
訪ねると、そこにはどういうわけかカンナがいた。タガラシ団の者も食事をとっている。
「どうしたんですか、もうとっくにダアトにいるものとばかり思ったのに」
 元気のないエルクに代わってヘルメスが尋ねた。するとカンナは困り顔になった。
「それがね……ダアト領はハルモニア軍に占領されてしまったのよ」
「何だって……」
「いきなりのことだったらしいの。ダアトに反乱分子が紛れ込んだ可能性ありとかで……
ゴーヤが焼けたのだって私たちのせいにされているから、警戒強化のためというハルモニ
アの言い分は、まあもっともなんだけど……」
 どこか腑に落ちないとカンナは言いたげだ。ヘルメスにはなんとなく読めた。
「私の領では身分による差別がない。父の代からそのような統治をしてきたから。だから
ハルモニアは、革命の芽を徹底的に潰すために、ダアトに捜査の手を入れたのかもしれな
い」
 あるいは穿った推測になるが、ヘルメスが生きていることをロンベルトが知って、帰り
道を断ったと思えなくもない。
「とにかくそういうわけで、足止めを食らってしまったのよ。幸い、私たちの素性はハル
モニア兵にもばれていないわ。ゴーヤから逃げてきた難民ということにしたら、あっさり
信じてもらえたから。今は町の人の暮らしを助けたり、畑仕事を手伝ったりして、住まい
を貸してもらっているわ」
 しかしそれもいつまでも続けられるわけではない。滞在が長期に及べば正体がばれない
とも限らない。
 ダアトの占領はいつ解けるのか。それを何もせず待つのはあまりに悠長だ。ヘルメスは
考え込んだ。
「今日はゆっくり休みなさい」
 カンナの穏やかな声に顔を上げた。こんな状況なのに、気丈な笑みを浮かべている。ヘ
ルメスは急に気が重くなった。ササライの死を、彼女や革命軍のみんなに黙ったままでい
いのか。
「カンナさん、ササライ殿は……」
 ヘルメスは言葉に詰まった。カンナはゆっくりと首を横に振った。すべてわかっている
というふうに。
「行方不明、なんでしょ。わかってるわ。真の紋章を宿したササライは、燃え盛る街で最
後まで避難誘導をした。今もどこかの難民を助けている。そうに違いないわ」
 ああ、そうか。ヘルメスは思った。この人は分かっているのだ、何もかも。泣き出した
いだろうに、背筋をしゃんと伸ばして。
「すみません……」
 ヘルメスは頭を下げずにいられなかった。その頭をカンナが優しくなでる。子を慈しむ
ように。ヘルメスはどういう顔をしていいのかわからず、しばらくその姿勢のままでいた。

 眠る気分ではないと思っていたが、その夜はよく眠れた。ベッドに沈みこむような疲労
感が翌朝にはすっかり取れて、体が軽かった。エルクは相変わらず元気がない。朝食のと
きも覇気のない顔で、何も喋らなかった。そして明らかに紋章を気にしている。何か起死
回生の一手を打つことができれば、エルクの気分も変わるかもしれない。
 とりあえず船着き場まで足を運んでみる。そこにはハルモニア兵がたくさんいた。ダア
ト領に駐留する部隊への補給に船を使っているのだという。船を自由に使えなくなってひ
どく不便だ、と町の漁師がぼやいていた。確かにこれでは、ダアトに船を出すどころでは
ない。
 遠く湖上に浮かぶ島を眺める。あの故郷の島は無事なのか。噂では、ハルモニア兵がダ
アト領の三等市民を蹂躙しているという話も聞く。暴行を受けてぼろ雑巾のようになった
コボルトの死体が、船着き場に流れ着いたという陰惨極まりない噂もあった。あくまで噂
だが、火のない所に煙は立たぬともいう。
 ハルモニア兵をダアト領から追い出すために、どうすればいい。
 リュートの町から敵兵を一掃したのちダアトへ船で乗り込むか。いや、駄目だ。ダアト
に駐留しているのは一個中隊という話だ。とても今の戦力では太刀打ちできないし、正攻
法では島への上陸すらままならないだろう。
 何か名案はないものか。タガラシ団が畑で働いている。カンドリは薪割りをしていた。
彼らを路頭に迷わせてはササライに顔向けができない。
 宿屋の部屋に帰る。ヘルメスはふと、ベッドの枕元に筒状に丸められた紙を見つけた。
おそらく昨日はなかったものだ。何の気なしに紐を解いて、紙を広げる。それは差出人不
明の手紙だった。
 目を通しているうちに、ヘルメスの心臓が熱を持ったように強く鼓動した。足もとしか
照らせなかった光が途端に開けたような感覚を覚える。
 皆を集めよう。逸る気持ちを抑えながら、ヘルメスは階下に向かった。
 やがて町の広場に革命軍の全員が集結した。町の者はヘルメスたちのことをただの交易
商と見ている。すれ違った老人が「店が焼けたんだって、大変だねえ、若旦那さん」など
とヘルメスに声をかけてくることもある。
 ゴーヤから焼け出された難民は他にいくらでもいて、そのうちの一団がこうして集まっ
ていてもさほど変には思われない、ということだ。
「で、ヘルメス。大事な話って何」
 リクが言った。ヘルメスは一枚の紙を取り出した。それは先程の手紙の内容を要約した
ものだった。
「これに一通り、目を通してほしい」
 皆が回し読みしていくのを、目を閉じて待った。「全員、読んだぞ」というエルクの声に
目を開けたとき、決意の光を宿した眼差しがヘルメスに集中していた。
「この作戦を考えたのは、あなたなのか、ヘルメス殿」
 カジャが言った。何と答えるべきか逡巡したのち、ヘルメスは迷いなくうなずいた。
「私の発案だ」
 皆の間から感嘆のため息が漏れる。そのときエルクに袖を引っ張られた。顔を寄せ、み
んなには聞こえない小声で語りかけてくる。
「本当にお前が? お前、こんなに頭良かったか?」
「すごく失礼なこと言うね。仕方ないからエルクには白状するけど、実は、枕元に置いて
あったんだ」
「枕元……って……」
「差出人は分からない」
「大丈夫なのか?」
 エルクの表情がこわばる。
「誰が置いたのかもわからない胡散臭い手紙だけど、これ以上の策はない、と正直思った」
「ハルモニアの罠の可能性は?」
「その可能性も考えたけど、罠にしては回りくどいよ」
 ヘルメスたちの正体がばれていて、その捕縛が目的なら正面から宿屋に乗り込むなりす
れば済む話なのだ。
「じゃあ、その手紙の差出人の意図は、いったい……」
「わからない。が、私たちには正直、ほかに打つ手がない。すべての道をハルモニアにふ
さがれてしまったかに思えたとき、この手紙が現れた。私はこれに賭けてみようと思う」
 ひそひそ話をやめて、皆に向き直った。
「この策を実行しようと思う。どうだろう」
 ヘルメスの呼びかけに、誰もが顔を見合わせる。カジャが言った。
「実に綿密で、抜かりのない策だと思います」
 それに続けてリクが言う。
「計算式みたいだけど、どこか生き生きした作戦だね。まさに絡繰りって感じ」
 カンドリも。
「力仕事なら、あっしに任せてください」
 しかしまだためらっている者がいる。無理もない。新参者の発想に、そう簡単に乗れる
わけがない。そんな彼らを元気づけるようにカンナが言った。
「身を捨てる覚悟でやりましょう。それしか道がないのだから。それとも、誇り高き革命
軍がこのまま何もせず、ハルモニアに捕まるのを待つつもりですか」
 ためらいは強い意志に塗り替えられた。賛意の声が口々に上がる。
 ヘルメスはここぞとばかりに声に魂を込めた。
「ササライ殿は、必ず我々を見てくださっている。この作戦にすべてをかけ、生まれ変わ
った革命軍を立ち上げるのだ」
 皆が天を突くような歓声を上げた。
 しかしその最中、数人が立ち上がって、その場から立ち去っていく。ヘルメスに睨むよ
うな一瞥を投げながら。
「あの者たちは……」
「ヘルメスのことをよく思っていないんだ」
 隣でエルクが言った。
「あのときの話、覚えているだろう。元国民議員のお前を、よく思わない奴がいる。新参
者がササライに気に入られていたのも、気に食わないんだろう」
「そうか。なら、この数でやるしかないな」
 話し合おうにも耳を貸してはくれないだろう。今はそんな暇もない。
「お前はササライを救うために、私と一緒に燃え盛る町に飛び込んで行った。みんなそれ
を知ってお前への評価を改めたみたいだ。それでもやっぱり、強情な奴はいるんだよ」
「いずれわかってもらうしかないさ」
「ヘルメス、私も腹を決めた。この作戦にすべてをかける」
 エルクの双眸に強固な意志が戻ってきていた。やっぱりエルクはこうでないと。ヘルメ
スは力強くうなずき返した。

 あの手紙にはダアト領をハルモニア兵から奪還するための策がしたためられていた。手
紙の通りにやれば必ず奪還できる、とまで書かれてあったのだ。手紙の一枚目にはこのよ
うな書き出しがあった。

〈天元交易商会の者へ
 突然このような手紙を送り付けた失礼をまずは詫びる。私は少しばかり兵法をかじった
経験がある者だ。ゴーヤで長期間の足止めを余儀なくされている諸君らに知恵を授けてや
ろう。ありがたく思え。〉

 なかなか居丈高である。そして二枚目から具体的な説明となる。

〈私の推測だと、リュートからダアト領の駐留部隊へは、定期的に補給と連絡をする船が
出ているはずだ。奴らの狙いはダアト領に軍事拠点を置くことではないかと思われる。
 まず諸君らはリュートから湖沿いに南へ向かう。すると竹林の中に小さな船着き場があ
るのを見つけるだろう。ハルモニア兵の警戒から外れた盲点と言ってもいい。ここから軍
の輸送船に偽装した船を出す。船には少数精鋭が乗る。輸送船に偽装するためには、青い
旗でも上げておけばいい。中央政府で働く連中はみんな青い制服を着ているし、兵装にも
青色が使われている。つまりこの国では青色は即ち国家を表す。それと、お前たちが賢明
なら議員の制服を捨てずに持っているはずだ。必ずそれを使え。制服がなければ成功確率
は半分以下に下がると思え〉

 手紙に書いてある通りリュートから南下すると、小さな船着き場があった。傍にはみす
ぼらしい小屋がある。
 水辺には立派な船が繋がれているが、勝手に使っていいものだろうか。
「勝手に使うなよ」
 不意に声がしてヘルメスたちは振り返った。着流し姿の男がそこにいた。
「船を出してえのか」
 男が低い声で言う。ヘルメスは男に歩み寄った。
「どうしても船が必要なのです。ダアトまで行くための船が」
「ダアトまで? そりゃまた何の用で」
 そこでエルクが割り込んだ。
「それは言えない。頼むから舟を出してくれ」
「言えねえか……なら仕方ねえ。これに決めてもらう」
 男が握っていた手を開くと、そこには三つのサイコロがあった。
「ちょっとこっち来な」
 小屋の横に小さな机と椅子があり、机の上には薄汚れたお椀が置いてあった。
「リュウガではよく知られた博打だ。出た目の大きさを競う」
 そう言って三つのサイコロをお椀に投げ込んだ。サイコロが陶器のお椀の中で転がり、
涼やかな音がする。
「出た目は四と四と五。同じ目を除いて、残ったひとつが自分の目になる。つまり五が出
目だ」
「二・二・四なら出目は四ですね」
「そうだ。まあやってみるのが早い。お前らのやることをお天道さんが認めたなら、サイ
コロは答えてくれるはずだ。兄ちゃんが勝ったら舟を出してやる。俺が勝ったときは、そ
うだな、そこの嬢ちゃんを置いていけ」
 そう言って男はエルクを指さす。
「な、ふざけたことを……!」
 侮辱されたと感じたエルクが声を震わせる。
「大事なものを賭けてもらわんと割に合わんさ。どうだ、尻尾巻いて逃げるかい」
 無茶苦茶な理屈だが舟を出すためにやるしかない。
「やろう」
「いい度胸だ」
 さっそく男がサイコロを振る。出目は五。
 絶望的だ。六を出さねば勝ち目はない。確率は六分の一か。
 サイコロを握りしめる。緊張で手がこわばる。思い切ってサイコロを振ったその瞬間、
しまったと思った。三つのサイコロ、うち一つが椀の外に飛び出てしまったのだ。
「しょんべんか、また盛大に負けたな」
 男はにこりともせず言った。嫌な汗がヘルメスの額に浮いた。
「さて、男と男の約束だ。その嬢ちゃんを置いていきな」
 一瞬、周りの音が遠くなった。ヘルメスは大きく息を吸って、吐いた。そして腰に帯び
てきた剣を抜いた。
「おいおい兄ちゃん、力に訴えようってのか」
 男が身構える。ヘルメスはその剣を横にして、男に差し出した。
「もう一勝負、お願いする。もし私が負けたらその瞬間、この剣で首を落としてもらって
構わない」
「ヘルメス、何を……」
 エルクがそれきり絶句する。ヘルメスは本気だった。睨むように男を見据えた。
「あんたの首なんか賭けられても、こっちは嬉しくもなんともないんだがな。まあいい、
その決意を買ってやろう」
 男は剣を受け取るとヘルメスの横に立った。その位置からサイコロを投げて見事、椀の
中に入れてみせる。出目はまたも五。運に魅入られているかのような男だ。
「さて、兄ちゃんの番だぜ」
 ヘルメスはサイコロを三つ拾った。負けた瞬間、この首は飛ぶ。すべてが終わる。頼む、
と念じてサイコロを振った。三つのサイコロが椀に入ったのを確認した瞬間、目を閉じて
いた。サイコロの撥ねる音が響く。研ぎ澄まされた空気が肌を凍てつかせる。
「嵐だ」
 男の呟く声がして、ヘルメスはくっついたようになっている瞼をゆっくり開けた。
 椀の中に出た目は。
 五・五・五。
「これは……」
「嵐だ!」
 男が剣を地面に突き刺すと、椀の中を覗き込んだ。身体を小刻みに震わせている。
「あの、この場合は……」
「兄ちゃんの勝ちだ!」
 がばっと顔を上げて男が言った。
「俺の運をねじ伏せる奴が現れた! こいつは、面白くなってきやがった!」
 まるで先ほどまでの胡乱な態度が嘘であるかのように、男は全身から気力を発散してい
る。
「ヘルメス!」
 エルクが抱き着いてきた。
「この馬鹿、無茶しやがって」
 背中を叩かれながら、ヘルメスは全身から緊張が抜けていくのを感じた。
「よし、船を出してやる。俺はオニロクってんだ。お前さんの名前は」
「ヘルメス・ダアトだ」
「よっしゃ、俺はあんたらに協力する。サイコロが認めたんだ」
 船も確保できた。青い布で作った旗を立て、ヘルメスは議員の制服に着替える。次の手
を確認するため手紙を読み返す。

〈偽装船の準備が整ったら、次に重要なのが船を出す時刻だ。前もってハルモニア軍の輸
送船がどれくらいの間隔で出るか、船着き場の近くまで行って調べておくことだ。ハルモ
ニアの船と鉢合わせてしまったら元も子もないからな。そして次の輸送船が出るよりもい
くらか早く偽装船を出せ。早すぎても駄目だし遅すぎても駄目だ。頃合いは自分たちで見
定めろ〉

 今がちょうどいい頃合いだった。出るのが早すぎても遅すぎても、敵に不審船として捕
捉されかねないことになる。軍の輸送船は一日に二回出るらしい。ならば次の船が出るま
での、ちょうど中間あたりの時間帯を狙う。それならば敵船とすれ違う恐れもないし、ダ
アトの船着き場で「少し早い到着だな」と怪しまれても、「雨雲が出てきたので」とでも言
えば切り抜けられるはずだ。
 偽装船には荷を積んである。荷と見せかけて木箱や俵に入っているのは人である。
 青い制服を着たヘルメスは、難民を視察するためリュートに派遣された神官を装う。同
乗するエルクたちはヘルメスが雇っている三等市民の奴隷という設定だ。
 船を出した。操船はオニロクがやってくれる。見事な舵さばきだった。
 湖の風は冷たい。そして穏やかだ。空から鳥が急降下して、湖に飛び込んだと思ったら
次の瞬間、魚をくわえて水面から飛び出した。見慣れた光景だった。こういう形で故郷に
帰ることになるとは思ってもいなかった。
 島が近づいてきた。改めて手順を確認し、上陸の準備をする。
 やがてダアト領の船着き場に着いた。数人のハルモニア兵が歩み寄ってくる。
「補給の船か? 少し早くないか」
 訝る兵士に、ヘルメスは胸を張って言った。
「私はリュートに逃げ延びた難民の状況を視察するためロンベルト様に遣わされた。つい
でにダアトの生活水準も調査しておこうと思い、そなたらへの補給も兼ねてここまで来た
のだ」
 雨雲の影も見えないのでこうとでも言うしかない。兵士がぴしりと背を伸ばした。ロン
ベルトの名が効いたのだろう。
「生活水準の調査とは、具体的にどういう」
「この領では身分や人種による差別がないと聞く。一体どのような統治をしているのかロ
ンベルト様は非常に興味を持っておられる。皆を平等に扱いながら、生活水準が平均値を
保てているのか、など」
 口から出るに任せている。どうせ下級兵士がロンベルトのことを詳しく知るはずもない
のだから、せいぜい威厳を強調しておくとしよう。こちらはもう肝を据えるしかないのだ。
「あなたのような人が来るとは聞いておりませんでした。失礼ですがお名前は」
 ヘルメスはもったいぶって咳払いした。
「シュトルテハイム・ラインバッハ十三世である。我が家系の源は古く、遠く群島諸国よ
り興り、代々貴族の家柄として栄えてきた。やがて先祖は北方への進出を試みトラン共和
国、デュナン君主国に数々の勇名を残し、やがてハルモニアで……」
「わ、わかりました、もう結構」
「ふむ、いいのかね。とりあえず荷を運び入れようか」
 カンドリとエルク、そのほか数人が荷を船から下ろす。中に入っているのはタガラシ団
である。

〈荷を検められることはないだろう。奴らは不審船が来る可能性にすら気づいていないは
ずだからな。だが念のため自分たちだけで運べ。兵士に運ばせると重心が安定しないせい
で案外ばれてしまいかねない〉

 兵士たちは荷を運ぶのを手伝おうともしなかった。奴隷の仕事に手を貸すことがそもそ
も嫌なのだろう。こちらとしては好都合だった。
 不意にどこからか遠吠えのようなものが聞こえた。すぐにコボルトの悲鳴だ、と気付く。
「今のは……」
「ああ、尋問です。反乱軍の内通者とかで。コボルトってのは丈夫ですね、少し叩いたく
らいじゃびくともしない」
 込み上げる怒りをぐっとこらえた。一刻も早くダアト領を解放しなければ。
 少ない往復ですべての荷を兵糧庫に運び込んだ。人が暮らしている場所はこの船着場か
らはもう少し歩くことになる。

〈ここからが最後の仕上げだ。荷は怪しまれることなく駐屯地の内部まで侵入できたこと
だろう。すぐに荷から飛び出し、方々に火を放て。大丈夫、船着き場から集落までは離れ
ている。領民に被害が及ぶことはない〉

 火事だ、という声が上がった。それと同時に、不審船が近づいてきています、という報
告も上がる。続けて耳を圧する爆音。リクが絡繰り爆弾を手当たり次第に破裂させている
のだ。
「いったい何があったのですか」
 ヘルメスは怯えたふりをして見せる。
「わかりません。おい、いったいどうした!」
 一人の兵士が駆け付けてきた。
「駐屯地内で火事です! 爆発も上がっています!」
 そこへ追い討ちをかけるように、体の芯を震わすような轟音が湖から響き渡った。何艘
もの船が銅鑼か何かを鳴らしながら迫ってくる。船には旗が翻っていた。革命軍を示す赤
い旗が。
「なんだと……もしや本当に反乱軍が潜伏していたのか」
 船着き場は混乱の渦中に叩き落とされた。タガラシ団の活躍が思いのほか凄まじく、爆
音は絶えることがない。そこに銅鑼の音が重なるとまるで脳が揺さぶられたようになる。
「弓を持て! 船を寄せ付けるな!」
「だめです、岸に近づくと敵船から矢が雨のように!」
「ひるむな! 矢を……」
「兵器庫が炎上! 矢が使えません!」
 危険がないと信じてゆるみ切っていたハルモニア兵たちは右往左往するしかない。瞬く
間に船着き場は基地としての機能を失っていた。
「報告します! 集落のほうで領民が暴動を起こしました!」
「なんだと!」
 いつの間にかヘルメスのそばからエルクがいなくなっていることに、誰も気づいていな
かった。ヘルメスと幼馴染で領民に知己も多い彼女が、この混乱に乗じて集落まで走り、
領民に呼びかけたのだ。今こそ反撃の時だと。
 被害甚大、戦闘不能者多数、との報せが入る。
「反乱軍は潰れたはずじゃなかったのか!」
「あのものすごい数の船を見ろ! リュートの駐留部隊が破られたってことだ! 奴ら本
気だぞ、このままここにいたら……」
「北の船着き場は無事だ。あちらから撤退するしかない」
 混乱の最中、兵士が口々に言い合う。撤退したらハルモニア軍の威光が、などと言う者
もいて、会話は纏まりがない。こうしている間にも銅鑼の音はどんどん大きくなる。

〈城や拠点は外からの攻めには強いが、内部から攻められると呆気なく崩れ去る。内外か
ら同時にとなると、もう成す術はない。ダアト領には北と南に船着き場があったはずだ。
北を手薄にしておけば、ハルモニア兵は自然とそちらから逃げていく。以上で策は成る〉

 もうハルモニア軍の士気はがたがただった。更に駄目押しを加えるためヘルメスはさっ
と手をあげた。今まで奴隷のふりをしていたカンドリが、赤い布にくるまれた背丈より長
い棒を、船の中から取り出した。勢いよく地面に突き立てると風が吹き、ほどけるように
して赤い旗が翻った。
「ラインバッハ殿……?」
 ハルモニア兵が目を白黒させている。
 ヘルメスはここぞとばかりに声を張り上げた。
「私はラインバッハではない。革命軍頭領が弟、ヘルメス・ダアト!」
「なんだと……」
 兵士は驚愕に目を見開いたまま、首から血しぶきを上げた。一人のコボルトが剣で掻き
切ったのだった。ハルモニア軍と戦うということは、人を殺すということだった。わかっ
ていた。綺麗ごとでは済まないと。覚悟しなければならないのだと。
「ヘルメス殿」
 コボルトが言った。よく知る領民の顔だった。名はジーク。
「先ほどまで尋問を受けておりました。ヘルメス殿が助けに来てくださったのですね」
 ジークの逞しい体には痛ましい傷跡があった。
「遅れてすまない」
「いえ、来てくれると信じておりました。ヘルメス殿なら来てくれると」
 そう言ってもらえると心が軽くなった。
 たった今絶命した兵士は隊長か何かだったのだろうか。それまで踏みとどまっていたハ
ルモニア兵たちも算を乱して逃げていく。
 船着き場から上がる黒煙をヘルメスは仰ぎ見た。
 もう後には引けなくなった。



 今回の作戦において領民から四人の死者が出た。ハルモニア兵に刃向かったのなら死を
覚悟せねばならない。たとえそうだとしてもヘルメスは申し訳ない気持ちになった。
「そんな顔をするな。みんなお前に感謝しているんだぞヘルメス」
 エルクがそう言ってくれた。ハルモニア兵たちはダアト領民に一方的に嫌疑をかけ、執
拗に取り調べていたのだという。もう心身の限界だったところへ、ヘルメスが革命軍を連
れて現れた。今こそハルモニア兵を追い出すときだ、と領民たちは奮起したのだ。
「リュートからの船がすごかったね。こっちが怖くなるくらいの迫力だった」
「革命軍の生き残りをなめるなってことさ。あれくらいの駐留兵なら朝飯前だ。なんたっ
てリュートの町民も協力してくれたからな」
 船が使えなくなったことにリュートの人々も困り果てていたらしい。またダアト領に近
いということもあり、ダアトの現状に同情の念を持つ者も多かったのだ。
 ダアト領奪回作戦から一夜が明け、日は中天に差し掛かろうとしている。領内は落ち着
きを取り戻しつつあった。領内を歩いていると領民が親しい声で話しかけてくれる。
 やがてヘルメスの実家が見えてきた。大きすぎない屋敷である。屋敷の前にはたくさん
の人々が集まっていた。口々にヘルメスの帰還と勇気を称える。
「やっぱりいい領主だったよな、お前は」
 エルクがどこか誇らしげに笑う。
「兄さん、お帰り」
 そう言って歩み寄ってきたのは弟のアルスだった。現在のダアト領主でもある。以前と
はあまりに状況が違い過ぎて、ヘルメスはなんと言っていいかわからなかった。
「兄さんには聞きたいことがたくさんある。昨日の今日でくたびれてると思うけど、中で
話そうじゃないか」
 屋敷に入る。久しぶりの我が家という感じがした。首都の共同住宅よりよほどくつろげ
る。
 ヘルメスは包み隠さず話した。首都で見聞きした現状。国民議員の地位を失い、ハルモ
ニアから追われる身になったこと。革命軍と出会いその意志を貫いてダアト領を奪還した
こと。
「そんなに酷いのか、水晶雪渓は」話を聞き終えてアルスはため息を吐いた。「ハルモニア
兵が僕らに辛く当たるわけだな。まるで別の生き物みたいに感じる」
 この領がおかしいのだ、と一部の国民の目には映るのだろうか。だとしたら寂しいこと
だとヘルメスも思う。
「それで兄さん。これからどうするつもり? ダアト領は昨日の作戦に呼応したわけだか
ら、ただでは済まされないと思う。最悪、領民の首が飛ぶ」
 アルスは手刀で首を軽く叩いて見せる。
「私は余計なことをしたかな」
「とんでもない、兄さんが来てくれなかったら、僕が奴らを刺していたよ。ハルモニア兵
の奴ら、わざとリナが嫌がるようなことするんだ。あのままだと危なかったよ」
 リナというのはアルスの恋人である。
「統制力のない部隊だったのかな。ハルモニア兵にしては品がなかったという感じがする」
「そうか? ハルモニアなんてあんなもんだろ」
 ヘルメスの意見をエルクは一蹴した。
 少し背筋を伸ばしたヘルメスは、大きく息を吸って、吐いた。そして言った。
「私はここに、新生革命軍を旗揚げしようと思う」
 少しの間があった。アルスが小さくうなずいた。
「当然だね。おとなしく首を落とされるのを待つなんて御免だ。あんな屈辱を受けるのだ
って、もう二度と嫌だ。抗えるだけ抗ってやるさ」
「領民は賛成してくれるだろうか」
「兄さんがやることなら、みんなわかってくれるさ。それくらいの覚悟がなければ、昨日
の作戦だって成功しなかった」
 地の利は悪くない。この島は湖に囲まれているため容易に攻め込むことができない。大
軍で攻めるとなれば何艘もの船がいる。必然的にリュートの船着き場を利用することにな
るが、そこを革命軍が押さえていればハルモニア軍は手出しができなくなるはずだ。
「ただ、そうなると一刻も早く地盤を固めないとね。僕は信じてないけど、ゴーヤの町を
革命軍が焼いたという噂もある。心証が悪いままにしていては革命の炎は広がらない」
「それと、ハルモニア軍と真っ向から事を構えるなら、軍師が欲しいな」
 エルクの意見にヘルメスは首肯した。ダアト領奪回はあの手紙のおかげで成功したのだ。
もしもっと早くあれだけの智謀があったなら、ゴーヤで根も葉もない噂を流され、すべて
が後手に回るということもなかったかもしれない。
「手がかりは手紙だけか……」
 ヘルメスは例の手紙を取り出して机に広げた。あの作戦がヘルメスの発案でなかったと
いう事実は、主だった面々を集めて詫びたのでみんな知っていることだった。そうすると
今度は、手紙の主は誰か、という話になった。ぜひ革命軍に加えたい、と。
「筆跡では何もわからないし、紙も至って普通の物だ。ジークに臭いを嗅がせてみたけど、
魚の臭いがすると言っただけだった」
「魚?」
 アルスが手紙の一枚を取り上げた。そして鼻に持っていく。しばらくしてきっぱりと言
った。
「このインクは独特の臭いがする。淡水烏賊の墨だよ」
「よくわかるな」
 エルクが驚く。アルスは生き物の生態に詳しいのだ。
「しかも臭いからして、鉄分を含んだ餌を食べている。ここいらで条件に当てはまる川は、
割と近い。ここから北東、リュートから北に向かえばすぐだ」
「その周辺に手紙の送り主がいるということか」
 考えてみれば、リュートの近くにいるからあれだけの情報を把握できたのかもしれない。
 善は急げということで、さっそくその川を目指すことにした。

 つづく



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