「高くつくとは、こういうことだったか」
 ロンベルトは執務室で呟いた。机を挟んでジェイソンが無言でうなずく。
 ダアト領に拠点を置こうとしていた部隊が反乱軍の残党に襲われ敗走を余儀なくされた。
どうやらそこにヘルメス・ダアトの姿があったらしいのだ。
「休暇を余儀なくされたサドラム将軍の部隊を再編したものだったそうですね」
「まったく不甲斐ない奴らよ。部隊長は戦死したらしい。こうなればもう部隊を解体して
兵は別の隊に組み込むほかないな」
 ロンベルトはおもむろに机を指で叩いた。
「おぬし、こうなる可能性を見ていたというのか。ヘルメスと面識があったのか」
「顔は見かけたことがありました。こちらからも確認しておきたいことがあるのですが、
ロンベルト殿」
「何だ」
「ヘルメス・ダアトの顔を初めて見たとき、どう思われましたか」
 その質問にロンベルトは一瞬、つまった。そして油断のならない軍師が何を探ろうとし
ているのかも理解した。
「正直に言おう。かつて造られたというヒクサク様の複製、あれに似ていると思った」
 ササライという神官将がかつていた。第二次グラスランド征伐の頃に忽然と首都から姿
を消した男だ。あの男は神官政治の頃に造り出されたヒクサクの複製だったという。やけ
に神官たちと深い繋がりを持っていたようなので妙だとは感じていた。それ以上のことは、
神官将とはいえ生まれついての軍人だったロンベルトにはわかりようがなかった。
「神託長の地位に就いてからだよ、私が複製のことをヒクサク様から聞き出したのは。今
現在もジェイドとかいう大神官が大事に何体か保管しているそうだな」
 ササライの姿をぼんやり思い返して、なるほどヒクサク様とはあのようなお顔なのかと
思ったものだ。
「しかし、ヘルメスは他人の空似であろう。ダアト領主の養子なのだぞ」
「するとあなたがヘルメスを囮として用いたのは、他人の空似で都合が良かったからです
か」
「邪魔になったうえにヒクサク様の傀儡に似ていた。そこに加えておぬしの策だ。天の配
剤だと思ったよ」
 ロンベルトがそう言うと、ジェイソンは赤葡萄色の前髪をかきあげて、細く長いため息
を吐いた。なぜだか、馬鹿にされているような気分になった。
「まあ、よろしいでしょう。私は人を見る目がありますので、ヘルメス・ダアトがただの
役人では終わらない、そんな気がしたまでで」
 ジェイソンの言いようにロンベルトは何か引っかかるものを感じたが、それが何かは分
からない。
「ハロルド大神官のことですが、気をつけたほうがよろしいですよ。この国の歴史の大半
は神官職によって築かれ、あなたが築き上げてきた物はそのほんの一部分にすぎない。時
間に換算すれば一年に対する一瞬のようなもの」
「それは言われずともわかっている」
 国の機密を今もなお大神官たちが掌握している事実から目を背けたことはない。議会へ
の参加を許してしまったが、これ以上の台頭を許すつもりは無い。
「情報の共有も協議するつもりだ。私はおぬしが言う一瞬のうちに軍人を政治の表舞台に
立たせたのだ。覆されることがあってはならん」
「そうですか、まあ私はどちらに与するつもりもありません。私が忠誠を誓うのはヒクサ
ク様でありますゆえ」
 それではまるで鳥でも獣でもない蝙蝠ではないか。つくづく難しい奴だとロンベルトは
思う。
「では、私はこれで」
 ジェイソンは退室していった。
 しばらくして執務室の扉が叩かれた。入ってきたのは十三部隊三組の面々だった。
 ジャックと、クイーンと、ジョーカー。第一次グラスランド征伐の後、神官政治の廃止
を目指すロンベルトの意志に彼らは同調した。彼らという工作員がいなければ今の地位は
あり得なかっただろう。
「どうも、きな臭くなってまいりましたなあ、ロンベルト様」
 紫色の拳法着に身を包んだ老人が言った。ジョーカーである。八年前よりだいぶ痩せた
が、それでもなお矍鑠としている。
「ゴーヤで火が上がったときには酔いがいっぺんで覚めましたわい。弁解の必要もないと
思いますが、あれはわしらの仕業ではありませんぞ」
「わかっている。それよりジョーカー、任務中に酒とは感心せんな」
「はは、近ごろはめっきり酒に弱くなりましてな、歳ですな。ああ、それより、二組のこ
とですが」
「どうかしたか」
「連絡がつきません。ただ、トウカと話す機会がありました、ジャックが」
 森林迷彩のような、凝った柄のコートに身を包んでいる男が前に出た。
「円議庁の前で。アイラからロンベルト様に言伝とかで。直にロンベルト様に伝えればい
いのに、トウカの奴、わざわざ俺たちを待っていたようでした。それで言伝ですが、反乱
軍の頭領がヒクサク様に見えると」
 ジャックは平板な口調でそう言った。意味がわからなかった。
「お心当たりありませんか」
「心当たりも何も……」
 いや待てよ。思考を巡らせる。アイラがそんなことを言ったということは、反乱軍の頭
領は真実、ヒクサクに似ていたのだろう。正確にはササライに。ロンベルトは彼らが第一
次グラスランド征伐に関わっていた身の上を知ったうえで、部下としたのだ。
 すると仮面の男はササライだったとでもいうのか。いやまさか。
「お前たちは、グラスランドで戦ったとき、あくまで裏方として動いていたと聞いたが」
「そうですね」
 淡々と答えたのはクイーンだ。壮年の女性だが無駄な肉がなくしなやかな体つきをして
いる。
「ササライと面識は」
「あの頃の私たちにとっては雲の上の人でしたよ、神官将とは」
 それもそうか。
「真なる火の紋章を誰が宿していたのかも、知らんのだったな」
「グラスランドでそこまで要職として動いていたわけではありませんので」
 嘘をついているようには見えない。が、ここのところジェイソンやハロルドといった曲
者たちと話していたせいか、余計な詮索をしてしまう。
「まあ、いい。私はそなたらを信じている。連絡のつかなくなった二組は、今のところど
うしようもないのか」
 アイラはロンベルトに対して何か不審を抱いたのかもしれない。ここ最近、扱いにくく
なってきたとは感じていた。
「のお、ロンベルト様」
 ジョーカーが話しかけてきた。
「神官政治の廃止と改革を掲げたおぬしにわしらはついてきたが、あの頃の理想に今もな
お陰りはありませんかな」
 ロンベルトはすぐには答えられなかった。自分の言葉を一瞬封じた感情が何かわからな
かった。
「私は今もこの国の将来を憂いている。それはあの頃と何も変わりない」
 その言葉に満足した様子でジョーカーは笑った。
「はっは、こりゃ試すようなことを言ってすまなんだ。で、わしらは今のところどう動き
ましょうかな」
「今は……そうだな。ハロルド大神官の周辺を探れ」
「御意に」
 ジョーカーは恭しく礼をした。三人が退室する。
 理想とは何だった。ぼんやりそんなことを思った。恥ずかしげもなく理想という言葉を
使っていた過去の自分が妙に恨めしい。だが。
「変わらんさ、今も」
 自分に言い聞かせるようにロンベルトは呟いた。



 見当をつけた川の周辺に人家はなかった。ヘルメスたちは川をたどり、やがてその支流
が洞窟に流れ込んでいるのを見つけた。
「まさかこの中に人が住んでるってことは……」
 洞窟の前でエルクが眉をしかめる。洞窟の中は真っ暗だ。リクが肩にかけたバッグをご
そごそと探り、何かを取り出した。
「じゃじゃん、これぞ絡繰り発電機。ハンドルをくるくる回すだけであら不思議」
 四角い箱にハンドルがついており、リクはそれを掴んでぐるぐる回した。すると箱に空
いた丸い穴から光の帯が伸びたではないか。
「すごい!」
 ヘルメスは思わず感嘆の声をあげる。
 リクはハンドルをぐるぐると回し続ける。
「おい、それは回してないといけないのか」
 リクはハンドルを回し続けていたが、やがて腕が力なく下がり、長いため息を吐いた。
「疲れた」
「当たり前だ。火の紋章を使おう」
 エルクは左手に宿した火の紋章の力で、掌の上に小さな炎を出した。
「私の魔力がいつまで持つかわからない。さっさと探索して戻ろう」
 洞窟に足を踏み入れる。空気の唸る音だけがしている。そして少し寒い。
「魔物が出なければいいけど」
「お前は剣の腕がからっきしだもんなヘルメス」
 それを言わないでほしいな、とヘルメスは唇を尖らせる。上から冷たい滴が降ってきて
頭の上ではねた。川は細い水路となりながらも洞窟の奥へと続いている。
 しばらく歩いたところで行く手がぼんやり明るくなっているのを見つけた。誰かいる。
エルクが掌の炎を消した。警戒しながら歩み寄っていくと洞窟が開けた。
 どういうわけかそこは洞窟の中だというのに畳が敷かれ、箪笥や卓やら調理器具などが
揃っている。
「誰か住んでるのか……」
 と、そのときエルクが後ろを振り向いた。つられてヘルメスも振り向く。瞬間、背後か
ら突き出された刃をエルクが体をそらせて避けた。
「下がってろヘルメス!」
 言われて思わず後ずさりする。いきなりエルクに切りつけてきたのは黒いマントを着て
フードを目深に被った女だった。
「お前は……ゴーヤですれ違った……」
 エルクが呟く。そういえばそんなことを言っていた。
 問答無用で女はエルクに斬りかかった。激しく切り結ぶ。女の剣は鞭のようにしなやか
な動きをし、そして速い。あのエルクが押されている。こんなときに何もできない自分が
ヘルメスは歯がゆい。
 焦りからか、気合の声をあげてエルクが突き出した刃は、しかし難なく避けられた。隙
が生じる。まずい、とヘルメスは思った。気付いたときには女の胴に掴みかかっていた。
女の気がそれる。そこを狙ってエルクが斬撃を放つが、弾かれてしまう。女がヘルメスを
突き飛ばした。尻もちをついて倒れる。何度でも掴みかかってやる。そう思ったとき眩し
い光が視界を射抜いた。リクが例のカラクリから光を放ったのだった。女の目がくらんだ。
「隙ありぃっ!」
 エルクが渾身の一撃を決めようとしたとき、あまりに場違いで気の抜けた、拍手の音が
割り込んだ。
「はいはいはい、そこまでにしようじゃないか若人たち」
 いつの間にか、畳に置かれた卓の前に女性が胡坐をかいていた。煙管から吸った煙を豪
快に吐き出す。
「クラクちゃんもご苦労だったね」
 クラクと呼ばれた黒衣の女は無言で剣をおろした。警戒を解かぬままエルクも剣をおろ
す。煙管の先でとんとんと卓を小突いてから女性が立ち上がった。
「私の名はシズキ・ガロア。そろそろ日の当たる場所に出たいと思っていたのさ。ついで
にガロアと呼んでくれたまえ」
 ガロアと名乗った女性がヘルメスをじっと見据えて歩み寄ってくる。
「あの、あなたがあの手紙を……?」
「その通り。穴倉で暮らしてると世事に疎くなるからね、クラクちゃんが外の世界を見聞
きして、私に教えてくれる。ついでに身の回りの世話もしてくれる。有能だと思わないか」
「なぜこんな場所で……」
「ある組織に属していたんだが、組織の法に背いてしまってね、追放された。金がなくて
商店の果物をかっぱらったら袋叩きにあって、女郎として売られそうになった。ほうほう
の体で逃げ出したんだが組織の手の者がやってきて銃で狙撃されそうになったのでそこら
辺を歩いていたおっさんを盾にして、何とか生き延びてこの洞窟にたどり着いた。ああ、
ここで朽ちていくのかと思っていたら、昔なじみのクラクちゃんが私を見つけてくれてね、
神様はいるのだと思ったね、私の世話をあれこれ焼いてくれて寝付けないときは絵本を読
んでくれて……」
「それは大変でしたね」ヘルメスは涙ぐみそうになるがそこへクラクが言った。
「こいつはたまに大げさな嘘を吐く。八割は信用しないほうがいい」
 とあっさり言った。
「つれないねえクラクちゃん。でもま、組織に今も狙われてるってのは本当なんだが」
 どこまで本当やらわからない。すべて嘘かもしれない。
「ガロアさん、するとあなたは、そこのクラクさんを通して天元交易商会の内情と動向を
追い、そしてあの手紙を……?」
「クラクは忍びでね。それも有能な。ハイランドから流れてきた者の一派だが、これはま
た別の話だ。私は天元交易商会がそう長くはもたないだろうと踏んでいた。クラクちゃん
にかかれば内情が筒抜けだったからね。ハルモニアも早晩、ねぐらを突き止めるだろうと
思っていた、実際そうなった。しかしそこで潰れるかと思いきや、意外に粘る。ヒクサク
に生き写しな若者もいることだし、少しおもしろそうだと思った」
「あなたは、ヒクサクに会ったことが?」
「私の師匠が顔を知っていた。どこにあったかな」
 と、ガロアは箪笥の引き出しを開けて、一枚の紙を取り出した。そこにはヘルメスそっ
くりな顔が書かれていた。
「師匠は絵がうまいんだ。直感型だな」
 このガロアという人は掴みどころがないな、とヘルメスは思った。いったい何をどこま
で知っているのだろう。クラクの諜報力も侮れない。が、味方に付ければこれ以上なく心
強い。
「師匠というのは、兵法の師匠ですか」
「そう、私はいろんな分野に興味があるが、そのなかでも私を最も適切に表す言葉が、軍
師だ」
「実戦経験は」
「そこそこある。ただずっと引きこもっていたので、なまっているかもしれない」
 ヘルメスは少し考えた。縋れる者には縋りたい状況だった、相手が多少の変人でも。
「わかりました。力を貸していただけますか」
 ガロアは不敵に笑った。
「もう少し堂々としていいんだぞ、少年。これからあなたは私の主人となるのだ、ヘルメ
ス殿。シルバーバーグ仕込みの軍才で必ず革命軍に勝利をもたらすと約束しよう」
 シルバーバーグ。ヘルメスは驚愕を隠せなかった。彼女の師とは、軍師の名門であるシ
ルバーバーグゆかりの者なのか。
「ああ、これでやっと穴倉から抜け出せる。正直、身を寄せる場所がなくて困ってたのさ。
クラクちゃんのご飯も薄味で飽きてたし」
「悪かったな」
 クラクがぼそりと言った。やっぱり変な人だ。
「話はまとまったし、そろそろ帰ろう。いつまでもダアトを空けているわけにもいかない」
 エルクの言葉にうなずいた。
「ああ、ちょっと待って」
 と言ってガロアがまたも箪笥の引き出しを漁り、そこから何やら武器らしきものを持っ
て来た。見た目は旋棍〈トンファー〉のようなのだが、持ち手の部分に引き金のようなレ
バーがついている。
「銃旋棍〈ガントンファー〉という。持ち手の引き金を引くとこちらの短いほうから弾丸
が射出される。私が設計し、とある技術者が形にしてくれた。芸術だと思わんか」
 エルクが興味を示したようで、顔を近づけて見ている。そして言った。
「銃や火薬の技術は、吼え猛る声の組合の専有技術だったはずだが」
「そこはまあ、察してくれ」
 もしやこの人が言っていた組織とは、吼え猛る声の組合のことだったのでは、とヘルメ
スは思った。尋ねても詳しく話してくれそうもないが。
「どうだい、使ってみるかい娘さん」
「私はエルクだ。貰っていいのか」
「使ってもらったほうが輝くのさ、武器は」
 エルクは銃旋棍を構え、何度か振った。使い慣れないだろうに、早くも様になっている。
戦闘の勘がいいのだ。
「言っとくけど、弾丸は有限だ。私一人で作れる弾薬の量はたかが知れている。ここぞと
いうときに撃て」
「わかった。まだ使い慣れないが、特異な武器は相手の意表を突くことができるからな」
 エルクは銃旋棍が気に入ったようだった。
 そろそろヘルメスたちは来た道を戻ることにした。



 洞窟から出た。爽やかな陽光に心が洗われるような気持ちになってヘルメスは伸びをす
る。不意に後ろから口をふさがれた。頭に固いものが押し付けられる感触。突然のことに
頭がついていかない。
「ヘルメス!」
 エルクが叫んでいる。
「動くな!」
 と男の声が言った。
「下手な動きをしたら、小僧の頭を吹き飛ばす、この銃でな」
 どうやら羽交い絞めにされて、銃を突き付けられているのだ。するとこの男は組合の者
か。
「ガロア。機密の持ち出しから何年経ったかな。組合の掟に時効はない。それくらいは分
かっているな」
 ガロアは悠長に煙管を吸って煙を吐き出した。
「あんた誰だっけ。私の知的欲求を満たす邪魔は誰にもできんのだよ。たとえクライブで
あっても」
「余裕こいてる場合じゃねえぞ。俺に慈悲の心はない」
 頭に食い込みそうなほど銃口が押し付けられる。
「いい銃持ってるな。騎士級かい、あんた」
「一秒で、お前ら全員の命を奪える」
「それは困ったね」
 と言いながらおもむろにガロアは空を見た。「あ、鳥だ」と呟く。ヘルメスが視線だけで
上を見ると確かに鳥が舞っている。それがどうした、と思って視線をおろすと、いつの間
にかガロアの左手が懐に入っていた。
「お前まさか、銃を懐に呑んでんのか」
「どうする、その坊やを撃つかね。しかしその瞬間、私もあんたを撃つよ。騎士級ガンナ
ーが相撃ちを望むというのも馬鹿げた話と思わんか」
「貴様……」
「それにあんたが欲しいのは私の命だろう。騎士級としての誇りがあるなら、私と決闘で
けりをつけるのが道理だ」
 男は舌打ちして、ヘルメスを突き放した。そして自らもガロアと同様に、銃を懐に入れ
る。
「いいだろう、お前の誇りを買ってやる。決闘の言葉は覚えているな」
「もちろん」
 そう言ってガロアはすうと息を吸い込み、「吼え猛る声、地上に降り立つ影」朗々と言い
放った。それに応えて男も、
「吼え猛る声、神を撃つ輝き!」
 と言い放つ。しかし次にガロアが言い放った言葉は、
「今だ!」
 それに応えてエルクの銃旋棍が火を吹いた。弾丸は男の左手を吹き飛ばす。間髪入れず
にエルクが男と距離を詰めた。銃声。男の放った弾丸はエルクの右腕を抜けた。顔をしか
めるエルク。そして、まるでそれに呼応したかのように、右手の紋章が光った。
 エルクが、輝く右手で男に掴みかかる。そして異様なことが起きた。
 男の全身が弛緩したようにだらりとなる。瞳は虚ろとなり、そしてうわごとのように呟
いた。
「ここに俺は、いない」
 男は白い光に包まれたかと思うと、次の瞬間には跡形なく消えたのだ。
 しばらく誰も、何も言えなかった。
「なんだ、今のは」
 当のエルクが魂を抜かれたように呟いた。
 平原は驚くほど静かだった。


 狐につままれたような気分でダアト領に帰り着いた。エルクは右手を見つめている。
「ふむ、ここがダアトか。暖かい雰囲気だな。でも少しピリピリしているか」
 ガロアがそう評した。彼女は視線をあちこちに転じては何か感想を述べる。やがてダア
ト家の屋敷に着いた。屋敷の前でアルスが待っていた。
「ああ、兄さん。お客さんが来ているよ」
「客? 私にか」
「エルクさんにも会いたいそうだ」
 不思議に思いながら応接間に向かった。そこにその女性はいた。
 肌が透き通るように白く、長い黒髪は艶やかだ。けがれなき純白のローブと、触れるこ
とを躊躇させるような尊さを纏っている。
 女性の持つ神聖な雰囲気にヘルメスはしばし立ちすくんだ。
「そう、あなたが、そうですか」
 穏やかな声で女性が言った。顔はこちらに向いているが、瞼は閉ざされている。光を見
ることが叶わないのだ、と気付く。
「ヘルメス、知り合いか」
 エルクに尋ねられ、首を横に振る。
「私はレックナートと申します。いきなり訪ねてきた失礼をまず詫びます」
 レックナートは丁寧な所作で頭を下げた。
「御用件は、何でしょうか」
 ヘルメスの問いに、レックナートは少しの間をおいてから言った。
「あなたに授けたいものがあります」
 レックナートが、まるで蝶が羽を広げるように手を伸ばすと、淡い光とともに背丈くら
いの大きさの石板が現れた。
「これは……」
「約束の石板と言います。しかし今はまだ、あなたにすべてを話せる段階にありません。
とりあえず今は、これが大切なものということだけ、伝えておきます」
「おい、あんた何なんだいきなり。こんなもん持ってこられても……」
「あなたが、架け橋の紋章を宿したのですね」
 エルクの言葉を遮ってレックナートが言った。
「紋章……あんた、これのことを知ってるのか」
 エルクが右手の甲とレックナートを見比べる。レックナートの眉が少し動いた。
「変化の紋章に引き寄せられましたか。どうやらすでに時の架け橋を渡らされた者がいるよ
うですね」
「おい、どういうことだ」
「今はまだ」
 レックナートはそれだけ言い、ヘルメスに顔を向けた。「少し失礼します」と言って、細
い指でヘルメスの眼帯に触れた。その指が侵しがたいものに触れたように引っ込む。
「やはり、あの方と同じ……。変化の意志は……まだ強いようですね」
 意味の分からないことを言ってレックナートは下がった。
「今日のところはこれで失礼します。いずれまた」
 レックナートの全身が淡い光に包まれて、その光が消えたとき、彼女の姿も消えていた。
 突然の来訪者の意図がわからず、ヘルメスとエルクはしばし顔を見合わせた。
 彼女が置いていった石板に歩み寄る。石板にはなぜか自分の名前が刻まれていた。そし
てエルクや、ガロアたちの名も。
「気味が悪いな」
 エルクが呟く。だがヘルメスはどういうわけか、石板に懐かしい思いを抱いた。そこに
刻まれた名前を見ているだけで、心が安らぐような。
 不思議な人だったな。
 なぜエルクの紋章のことを知っていたのだろう。自分はずっと昔からあの女性のことを
知っていたような気がする。なぜそんなふうに思うのだろう。しばらく頭からレックナー
トの姿が離れなかった。




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