速歩のまま長らく乗る事の無かった愛馬を駆けさせる。二代目轟号、先代を老齢故に土佐の放牧場に譲った際、『乃木さん、御恩はきっと返するがで。』と言われ、彼の馬の息子を本当にこの虎騎亜まで持ってきた山田君のような牧場主だった。たいして構ってやれず乗った途端振り落とされても文句は言うまいと心に決めていたが、馬丁達の世話が良いのかむずがることも無い。
 本来儂は先代の轟号に乗る事も億劫だった。騎乗とは全身運動であり、絶えず全身の平衡を保たねばならない……でなければ馬も堪ったものではないだろう? 結末は振り落とされると言う名の落馬だ。しかし儂が億劫だったのはそれが原因ではない。
 首より上の平衡を保つ顎、即ち歯を若年でほぼ失っていたからだ。孫からは虫歯と揶揄されたが、シナノでの精密検査(みたて)では、儂の歯そのものに欠陥があり軍生活での無理が祟って失うことになったらしい。其の歯すらもあの時に健常者の者と変わらぬモノに組み換わった。そう、鉄嶺での己の支挫じりで…………
 予定通り後方から馬速で言う駈足で近づいてくる騎馬を感じる。此方よりいささか馬蹄が重い。孫が一人で跨がれるわけでもないので高野君に相乗り(タンデム)させてもらっておるのだろう? 彼にも苦労を掛ける。儂等乃木家の支挫じりが為、出世街道から外されこんな遥かなる土地まで飛ばされた。本来彼は東郷さんと同じ立ち位置、連合艦隊司令長官まで上り詰めるというのに。しかも儂は彼には重すぎる責務を負わせた。乃木家は人類の運命という重責を彼と彼の後輩(なぐも)親友(ヒュー)にまで巻き込んだのだ。


 「上等です。我等軍人は民を守り敵と戦う、それが存在意義です。今だ事実も認識できず、結束する事も出来ない世界の国家群という最悪の状況! 対するは150年後の人類の総力を鼻息だけで吹き飛ばし、人類滅亡を導いたとされる【霧の艦隊】を称する最強の敵!! これほど軍人冥利に尽きる事はありません。」


 彼の親友、ヒュー・ダウディング君のはきはきとした言葉がよみがえる。強がりであってもそれは時の彼方において老齢の彼が圧倒的破壊を振りまきながら進撃してくるドイツ第三帝国戦闘空軍(ルフト・ヴァッフェ)を防ぎ止めた良将の名に相応しい物だった。


 ここに来ることはない彼の後輩、南雲忠一海軍中尉。 橙子が湯気を立てながら怒って行状を話すのを数日前儂は微笑みながら聞いていた。彼の言葉、


 「ハツセに乗るのは己の技能向上のため。くれぐれもお忘れ無き様!」 


 この言葉より儂は『帝国海軍未だ衰えず』と確信した。どんなに世界に圧迫されても彼等は国を守り通すだろうと。儂等薩長以来の老人達が彼等に教えるのは栄光ではなく苦渋とそれから得られた大局を見定め『負けて勝つ』意識を、『退いてでも負けぬ』策を、それが御国を150年後の災厄へ『進撃しそして抗う』原動力となるのだから。そして彼・高野君の言葉、


 「御国を守れ。」


 勝典の言葉という。だが彼はその御国が日の本一国ではなく、世界其の物に意味を変えて守ることに其の意思を変化させた。『世界を守る』それがどれほど途方もなく、現実からすればどれほど虚しいものか。だからこそ彼を霧に導いた。あれほどのモノを敵として、そして味方としてどう己を導くのか……【航路を持つ者】として。
 追いついてきた。儂の騎乗する同馬身まで彼と孫の乗る馬、欧号。モンテネグロのニコラ国王陛下から直々に下賜されたものだ。小国とはいえ侮れぬ国だ。日露戦争では露西亜帝国に恩を売る為に態々御国に実効性なき宣戦布告を行おうとし、我等がトラキアに来れば嬉々として手のひらを返し友好を宣して見せる。徹底して口八丁で実利を得ようと画策するは憤懣やる仕方が無いがそれが彼の国、人口100万に満たぬ小国の生きる道なのだろう。『孫姫殿は海を好むとのこと。しかし此の地バルカンは陸こそ見るべきものがあります。孫姫殿には是非とも歴史と言う霧に煙るバルカンの地(ダルマチア)を巡って頂きたいものです。』丁寧な挨拶ながら何処まで知っているのか? と会談の中疑い続けた程だ。
 完全に同馬身になり橙子と儂が同じ位置にくると儂は怒鳴る。馬蹄の響きは腹に応え耳を弄す。大声で叫ぶのが当然だ。


「橙子、これより主と儂の道は分かたれる!」


 あの鉄嶺より8年。あの時、儂が支挫じり教え諭すべき事が出来ず、投げ出し続けて8年! 今、儂は孫に最後の言葉を遺す。





―――――――――――――――――――――――――――――






蒼き鋼のアルペジオSS 榛の瞳のリコンストラクト
 

第四章 第14話








 乃木総督閣下と橙子御嬢さんの叫び声を交えた会話に目を剥き絶句し続ける。一言一句聞き逃すまいと態と不慣れな振りをして馬速を緩めている。そうか、そういうことだったのか! 一見繋がりの無い乃木家と遥か彼方から来た霧の統括記憶艦【シナノ】。すべては世の不可思議と偶然が織りなした巨大な物語なのだと。そしてこれは序章に過ぎない。これから真の意味で人類と霧が其の相克を始めるのだと。
 10年前、この世界と似たような世界から【シナノ】はこの世界にやってきた。己の意思ではなく、己の支挫じりによって。己に敵した人類に抗うだけ無駄という教訓を与えるつもりが世界の壁を誤って破り、この世界に墜ちてきたのだ。そこで死にかけた少女と出会い、その願いをかなえる代償に彼女に取り憑いた。依巫(よりまし)となった少女の名は乃木橙子。今私の前に居る、

総督閣下の御孫嬢だ。


 彼女と総督閣下は力を合わせ、御国未曾有の危機『日露戦争』を覆そうと奮闘する。霧の力をもってすれば今の時代の軍など餓鬼が悪戯した障子の如き有様になるのは必定。しかし、それよりなお恐ろしいのは霧は己の力を破壊に使うのではなく創造者として40年後の破壊の諸力【兵器】を再構成し投入(リコンストラクト)したのだ。
 これでは如何なる国家も抗えない。見えぬ脅威なら妄想で済ませる事もできようが、己の想像できる範囲の圧倒的存在ならそれに阿るか恐怖するしかない。戦争の後、列強各国が狂ったように御国を抑えつけ、その力の源を奪おうとしたのも当然だ。欧米列強にとって己等白色人種のみが支配者、この常識が簡単に覆ってしまう。今度は自分達が無慈悲なる征服者(コンキスタドーレス)の前に屈する被征服民(インディオ)の立場に叩き落とされると認識すれば恐怖も募っただろう。しかし、そうはならなかった。

 
乃木大尉の戦死


 目の前で濁流に呑まれた姿、もはや記憶すら曖昧だ。――もしかしたら気を失っている隙に霧によって記憶が書き換えられたのかもしれない。それだけの力が霧にはあるのだから。――それによって依巫たる橙子御嬢さんが己の欲望の赴くまま力を振ったのだ。
 其の結末が奉天大虐殺、ロシア帝国崩壊、ホーフブルグの屈辱と新聞が騒ぎたてた講和条約だ。そして【シナノ】はこの結末に多大な興味を抱いたと言う。たかが人間が己が雁字搦めに掛けた制約の楔を振りほどき、己を一時的にでも支配下に置いたと言う事に。それでなければ彼等の制約【失われた勅命】(アドミラリティ・コード)を無視してロシアの大地を蹂躙出来る筈が無い。そう、ホーフブルグ講和条約の席でこれが明かされた時。

 
全列強は真に恐怖した筈だ。


 たかが10歳にもならない子供の癇癪で世界が滅びかけたのだ! たかが一介の子供の父親が死んだ程度の事で彼等の信仰する主が神罰を起こしたようなものだ!! 実在する神や悪魔に正面から相対するなど愚か者のすること。故に列強は大日本帝国と虎騎亜に御国を分断したのだ。潜在能力を持つ国と絶対的力の源泉を分断し、それぞれを操る。そう列強は己すらただの駒として扱い、世界を組みかえた。白色人種による世界支配という己達の利益を永続化するが為に。だから大日本帝国欧州領虎騎亜が此の世に存在していられるのだ。絶対的力の源泉たる橙子御嬢さんと乃木総督閣下の高貴なる閉鎖空間、即ち座敷牢として……今度の戦争はそれによって発生した歪みが揺り戻しを掛けているに過ぎない。
 そう、この戦争は乃木総督閣下の目論見を覆い隠す為に存在している。バルカン同盟があろうとなかろうともどこかで戦争は必ず起こる。閣下はバルカン戦争が起きなくともその他の地域での戦争で目論見を果たす所存だったのだろう。そしてそれが今、始まろうとしている!!!


 「橙子、これより儂と主の道は分かたれる! 儂は人の道を駆け抜けこの小さな御国を其処にいる人々をその幸福を守り通し、死ぬ。お主も理解していよう。最早儂の命は尽きた。保って一年、奴、シナノの目論見なら此の大戦終わり次第尽きさせるだろう。だが!」

 「奴は言った! 『人に味方などいない』と、『欲しくば己で作り出せ』と!! 故にそれを主に託す。人と霧が相克する時代の階を掴め橙子! それが主がこれから行う霧の相克【人類評定(こなたのきり)失われた勅命(かなたのきり)】の本質である。」


 そう、だからこそ我々は実験動物なのだ。まだ我々にはこの舞台に上がる資格は無い。だが部品としてなら存在はできる。意思ある部品として其の存在意義を見いだせればシナノを始め二つの霧はそれに利用価値を感じるだろう。この時代、この戦でまず我々人類は霧にそれを確信させる。破滅が始まる150年後まで無視されるが如き弱者であってやるものか! 散々に悩まし考えさせコアユニットの演算に負荷をかけ続けてやる。人類の存在価値を霧に突き付け続けるのだ。


 「高野君!」

 「ハッ!!」


 即座に返答する。閣下が私に残す遺言、本来の息子たる乃木勝典大尉に遺す筈だった言葉、その一言一句聞き逃すまいと手綱を駆り耳を澄ます。


 「君には幾度も世話になる。息子に続いて孫まで押し付けるのだからな。最早栄光ある未来等君に与えてやれる力など無いが……。」


 即座に返答する。渤海での絶望、故郷での侮蔑、追い立てられるような赴任と海軍中の冷たい目。だがそんなもの等笑い飛ばせる現実を見た。そんなもの等歯牙にもかけぬ試練を感じた。だから、


 「心配無用です。他の世では私は連合艦隊司令長官まで出世したとのことですが、今ですらそんな物は丸タライ(オスタップ)に投げ込んでも構いません。連合艦隊司令長官等せいぜい一国の命運を担うだけの事、世界の命運を担う“この戦”己の全身全霊をもって相対する所存!」


 『そうか……』という言葉と共に総督閣下がぐいと目を拭う。そしてひときわ激しい声で私達に言葉を掛ける。


 「では、征くとする。靖国で会おうとは思わん。耄碌したらお前達の枕元に立ってやる!」

 「御爺様の意地悪っ!! もうわたしは老いることすらできません!!!」


 カンカンになって文句を言う橙子御嬢さんに閣下は大笑いする。本当に御嬢さんは良き親を持たれた。最後の家族の逢瀬、私も目尻に涙が浮かぶ。前に跨る彼女に囁く。


 「御嬢様、御爺様に見送りの言葉を。」

 「征ってらっしゃいませ。御爺様!」

 「聞こえんぞ。声が小さい! もう一度!!」


 聞こえているのだろうが愛嬌と言うものだろう。精一杯声を張り上げて御嬢さんがもう一度、


 「征ってらっしゃいませ。御爺様!!」


 総督閣下が片手を手綱から離し帝国陸軍の敬礼、そしてその腕を額からくるりとまわして腰に当てる。あぁそうか、乃木閣下が若輩時、女衆から黄色い声で包まれていた時の敬礼のやり方と酒の席で聞いた。それを今行ったと言う事は、

 御嬢さんをやっと一人前と認めてくれたのだ。

 そのまま閣下は馬に鞭当て馬速を上げる。それと同時に後方から近づいてくる轟音と車列、2号戦車各型、装輪式装甲車、半装軌自動車の群れ。御国の装甲旅団群、始まるのだ。40年の後に開花する筈の電撃戦(ブリッツクリーク)、60年の後に実をつける筈の【戦車群機動戦法】(オールタンクドクトリン)が。


 此方は赤茶けた大地を海岸へと下り浜辺へ。その沖合にはこの地中海で一隻しかいない敷島級戦艦【三笠】とそっくりの姿、いや霧の戦艦【ハツセ】が佇んでいる。





―――――――――――――――――――――――――――――






 「中隊総員に告ぐ。東海道箱根関到着。豹共(プーマ)は分隊にて遂次捜索、(ルクス)共は集結、警戒配備に入れ。兵隊はまだ下ろすな。」


 中隊長の命令で戦車(ルクス)は村落の外れに集合し装甲車(プーマ)が辺りに散る。中隊長が訛り丸出しで猫と言う単語(ぬこ)を使うので欧州の動物の事かと初めは思った程だ。
 欧州領を東西に縦貫するヴィア・エグナティア街道を東海道に見立て、西端のテッサロニキ市を京都、東端のイスタンブールを日本橋で言う。欧州領の首府・征京は駿府宿、簡単な様でいて外国人には難しい。徳川の御代の東海道五十三次等外国人でも余程の日本通でしか知らないだろう。しかも先行捜索隊は秘匿名称【弥二さん】本隊を【喜多さん】だから何処の落語かと思いたくなる。

 「了解、2中隊5分隊9号車、先導する。目標は北に見える集落だ。」

 「10号車後続します。御気をつけて。」

 「4分隊援護します。円タク(うんてんしゅ)右旋回急げ!」

 「4分隊大田君、くれぐれも突出せんでくれ。昨日の繰り返しは困る。」

 「了解です!」

 静かに通信を車長が切ると私達も緊張の糸がキリキリと張り詰める。理由は簡単、我が車長殿の顔が仏から鬼に変わるからだ。


 「オィ! タワー小沢。でめぇ前のヘマ繰り返してみろ! その無駄に高いノッポ、万力で締め直してやる!!」

 「ハッ!」


 一瞬彼の背が縮こまったのは解らないでもないけどな。小沢少尉が突出した大田実少尉の豹に釣られる形で回避行動を取ってしまったが故に危うく他の豹と接触事故を起こしかけた。私も急制動で頭を砲塔に打ちつけてしまった位だ。操典通りの操縦をしなければ部隊其の物に混乱が波及し収拾がつかなくなる。記憶力だけでは駄目なのだ。記憶から知識を引き出すという過程そのものが生死を分けかねない。
 砲塔を旋回させ視察用の展望鏡(ペリスコープ)から外を監視する。見る見るうちに村落がはっきりと解るようになり10件もない家々に囲まれた井戸を中心とした広場に入ると息を呑んだ。
 丸焦げになった板葺き屋根、開け広げられたままの民家のドア、そこかしこに転がっているヒトだったモノ。


 「周囲生存者確認できず。略奪とみられる痕跡あり。車長、潜伏者及び被災者の為の機動歩兵投入を進言します。」

 「…………まだだ、伊藤中尉。」

 「何故ですか? これは恐らく三国の徴発隊によるものです。友邦トルコの被災民を救出し潜伏者を狩り出すのは……」

 「伊藤よぉ? 御前本当にこれが敵軍がやった、そう信じているのか?」

 「え?」


 思わず間が抜けた声をあげてしまい内心『こりゃ鉄拳が飛ぶな』と覚悟したが車長は静かに自分の拳を私の頭に置いた。


 「日露と同じよ。己の国、己の民を守ろうとせず混乱に乗じて傲略(ごうりゃく)に耽る。日露の戦を余所に己の惨めさを理由にして、兵士として最も恥ずべき行状に走る満州に本来いるべきだった軍の成れの果て。」


 何のことだろう? 皇軍でもロシア軍でもない軍隊が満州で略奪暴行を働くと言う意味に取れるが状況が解らない。匪賊の類か?? 嘲るような声が隣から飛ぶ。あぁこれは評価に関わるな……と首を竦めてしまった。それでも視察窓からは顔を離さない。一つの見落としが車内全員の生死にかかわる。

 「考えな。ここから戦闘の終結したエディルネまで20キロネェ! ブルガリア軍からすれば1日の距離だ。しかもトラキアとの結節点でもある村に暴行略奪を働き後始末すらしねぇ。オレ達を見せつける絶好の宣伝材料(ふくしゅう)だ……」

 「ならば尚更!」      何かが違う。その言葉が頭に浮かんだ途端、


 同じくキューポラの視察窓から周囲を監視していた車長が怒鳴る。


 「後進全速!!」


 車長の怒鳴り声とほぼ同時に座席固定索(シートベルト)に体重が押し付けられつんのめる。内心今度は小沢少尉が蹴り倒されない事に安堵した。私達が後退した場所にいくつもの跳弾煙と炸裂弾特有の銃弾片の飛散、それも小銃にしては大きい! まさか対戦車小銃!?


 「やってくれるぜ、土人共が!!」


 地鳴りの様な車長の悪罵に小沢君がまた肩をびくりとさせる。軽くつま先で彼の右肩を押してやる。右旋回右旋回……装甲車は全面装甲こそ相応の厚さを持つが側面装甲は機関銃から乗員を守る程度、後方に至ってはゼロに等しい。今の対戦車小銃、全面装甲が持つとは限らないが最も厚い装甲を相手に向け――正面から斜めに向ける事で傾斜による敵兵器の跳弾を狙う――るのがセオリーだ。今の反応を見て僚車も後退し逆に周囲に散っていた装甲車の半数がこちらに集まって来る。車長は上官、いや其のさらに上官と何か話している。中隊長含め上と通信機越しで話している車長をちらりと見る。相当に不機嫌そうだ。


 「……了解、しかし保障はできませんぜ。ロドルフォ憲兵大尉。」


 通信を切ると車長が私達に命令を下した。

 「全車後退継続、あの村を潰す。」

 「待って下さい! 民衆の生存確認も行わず特別行動隊戦闘指揮綱領を使うのは!!」


 滅茶苦茶だ! あの悪名高い民兵殺伐戦法。トラキアに残るギリシャ系民兵(クレフティス)だけに留まらず、トルコ派遣部隊がクルド人アルメニア人相手に呵責無き悪魔の兵団と恐れられた原因。アレをこんな場所で使えば……
抗弁しようと口を開きかけるが車長の据わった眼で黙らされた。私に叱責と言う意味で使われる罵声が飛ぶ。

 「黙れ大木(ウド)。」

 いきなり顔に車長の掌が覆い被さる。指に力を入れれば私の顔面など拉げるに違いない。それほどの恐怖を放ちながら私の上官は言う。


 「御前ェも感づいたんだろ? 奴等が撃ってきたのは42年式99型対物自動銃、有坂閣下の最後の傑作だ。作った本人が『基礎設計はできていた。私はそれを弄っただけ。』と己の功にしなかった20粍口径対戦車銃(アンチマテリアルライフル)だぞ! んなモンの出所なんざ決まってる!!」

「ハ! 申し訳ありません。」


 顔を覆われながらも口で自らの言葉を訂正、頭で其の兵器のその諸原を反芻、あんな物が命中したら幾等重装甲と言えども装甲車ではひとたまりもない! 只でさえ装甲車は捜索と機動力に力を置く。いくら戦闘偵察、強襲偵察を主任務とする黒豹でも、いや猛獣である黒豹なら己を確実に殺傷できる銃の前にのこのこ体を晒す事は絶にしない。それで終わりとばかりに車長が通信機を取り連絡を始める。


 「……大田君、全車後退お願いしますよ。伊藤、お前は代替地を探しとけ。此処は使えん。」


 村を迂回し私達の本来の任務『前線補給拠点候補地』を捜索に戻る直前、あの村が驟雨のように降り注ぐ噴進弾の弾着で地上から消し去られるのを見た。車長の呟き、


 「乃木公を奴等は解ってねェ、味方にこれ以上ない程優しい人間は敵には異常に過酷になるもんだ。特に裏切り者にはな。





◆◇◆◇◆





 戦争が終わった後、思いつく、日露戦争で戦場となった満州は本来何処の国に属し、何処の国が守るべきだったのか。そう清帝国、その軍隊崩れの匪賊が日露戦争のさ中で己が国民に何をしたのかを。己等の無力さを尻目に関係の無い軍隊が己の国の覇権を争う…………規律と統制、何よりも誇りを失った軍がどれほど惨めで凶悪な物に変わるのかを。消滅した村、そこに立てこもっていたのは皇帝師団から脱走した元トラキア住民の志願兵だった。




―――――――――――――――――――――――――――――





 「第二師団第二連隊、壊乱しつつあり。第三連隊後退が止まりません!!」

 「敵左翼、数が多すぎます! これではいくら火力があっても。」

 「弾薬は腐るほどあるんだぞ! 徹底的にばら撒け! 弾を惜しむな!!」

 「無茶だ! 当たらなければ機関銃もただの棒でしかないんですよ参謀長!」

 「いいからやれ! 神の名の元、死んでも其処を通すな!!」

 「クっソおぉぉ! やってやる。死ねばこっちが先達だ。神に栄光あれ!!(アッラー・アクバル)!!」

 向こうが乱暴に電話を切ったのだろう。参謀長が怒りとやるせなさのあまり激しく軍用電話の受話器を叩きつける音、私は指揮杖を作戦机に立て、その先に手を乗せたまま目を閉じている。
 我等は間違っていたのか? いや、正しい筈だ。事実三個皇帝師団の奮戦具合は凄まじい。20万ものブルガリア軍を僅か5万の兵が支えているのだ。損害比など恐ろしい勢いで開きつつある。此方は1個連隊が戦力を失いつつある今、ブルガリア軍は1個師団が溶け崩れるように消えているのだ。確かに皇帝師団に日本帝国軍の様な戦車、装甲車、航空機は無い。乃木総督(パシャ)が与えなかったのではなく。自動車を扱える兵士を揃えられなかったのだ。だが有り余る汎用野砲、機関銃、携帯歩兵砲、機関小銃、機関拳銃そしてその弾薬。これほどの鉄火なら上辺だけの国民感情しかなく単なる欲得の塊である欧州人等ひとたまりもあるまい。そうエンヴェル将軍も私、ケマル・アタチュルク・パシャも考えていたのだ。
 だが、ブルガリア軍のやり方は想像を絶していた。それは敵第一波を撃退した時に解っていた筈なのに。奴等は押し寄せてくる。恐怖も誇りも無く、まるで狂乱した北辺の蛮徒(ヴァリヤーギ)の様に。その集団密集は此方で言う洪水、日本人が恐れるツナミという海からの破滅の如く。あれは軍隊ではない、20万ものオスマンとムスリムへの憎悪に汚れきった死兵の群れだ。


 「閣下、やはり敵先鋒はワラキア(ルーマニア)人です。彼等は難民を兵士として徴兵し楯として使っているとしか。」

 「だからどうしたと兵士達に言ってやれ。今度は我等がルテニア人やワラキア人になりたいのかとな。あれは難民ではなく悪魔だ。偉大なる神と愛する者の為に悪魔と戦って死ね。神は必ずや死者を天へと導く。……どうした? 急げ!」


 副官すら鼻白み、何かを言おうとするがそれを眼で制する。解っている! 私はムスリムでも敬虔な信徒ではない。むしろ真っ先に地獄行きの背教者だ。それが神の言葉で愛すべき陛下の兵を使い捨てにしている。もしかして間違っていたのか? 私の心で、私の声で、誰かが囁く。
 何故敵左翼に相対する右翼にシリア総督府の兵を入れてしまったのか。たかが1個大隊相当、されど1個大隊相当。その空間が弱点となり第二師団と第三師団の間隙に大穴が開いた。そこにブルガリア軍は1個師団2万もの兵を捨て石同然で叩きつけてきたのだ。
 汎用砲の水平射撃で分隊相当の敵兵が粉微塵になり機関銃陣地からの側防射撃が小隊規模の敵兵を戮殺(りくさつ)する。それでも奴等は全身を止めない。地面より凹んだ機関銃陣地を人の洪水が包み込み敵味方構わず陣地と言う器を血と屍のスープに変えるのを見た我が軍兵士達の中には恐怖のあまり士気阻喪する者、敵前逃亡を図る者が続出した。戦意旺盛といっても何故此処までという新米参謀や指揮官の中で数少ない軍医が宣告する。

 難民に麻薬を投与し使い捨てにする。

 欧州人共は我等の山の民(ハッシッシ)を麻薬でイカれた暗殺者と恐怖し侮蔑するが、お前らも同罪だろうが!


 「電信員、ノギ・パシャに伝えてくれ。敵は麻薬中毒者を使い捨ての兵士にしている。肉弾戦では兵士の心が持たないとな。我等はここで戦って死ぬ。トラキアに神の御加護を。」


 皇帝師団5万、一小隊残らず壊滅、それと引き換えに15万のブルガリア軍を消滅させて見せる! 残り5万ならばノギ・パシャは楽に料理できるだろう? あのリュイシュン、ホーテンを実現出来たのだから。そうすればイスタンブールも陛下も救われる。先達たるエンヴェル・パシャでは些か心配と思うのは私の傲慢だが、彼以外に我が国を背負える人材はいない。私などまだ若輩だ。皇帝の取り巻きどもを抑え込めないだろう。力ずくで排除すれば二月前に起こった日本帝国での叛乱、それを導いた愚者と同じ末路を辿る。


 「全予備兵力を投入する。兵士に伝えよ。神と国は今、汝等の命を欲すると!」


 少し前に読んだロシア-ジャパン戦争の詳報、コダマ・パシャの絶望が良く解る。だがこれほど戦を整えてもらいながら、なおノギ・パシャに縋る。それは我が国が一国ですら無いという証になってしまう。欧米列強の様な富国で無くとも良い。己の国を己の力で守れる事、ふと気が付いた。


 「今日はトラキア航空隊は安息日かな?」


 ここ数日の間一日に十数機のさぎがやってきて敵の陣地に爆弾を投げ落とし機銃掃射を行って帰っていく。敵ブルガリア軍のイカれた麻薬中毒者にはなんの効果もないだろうが一時的とはいえ敵兵は恐慌に陥り、獲ったばかりの陣地を捨てて敗走するのだ。有難い話だ、僅かそれだけの援護で皇帝師団の崩壊寸前の士気が盛り返すのだから。天空からの神の雷、敬虔で在っても無くても兵士は今の戦いが正義である事を己に刻みこめる。――流石に聖地に向かって礼拝し始めた輩は殴り倒ざるを得ないが――その力が今日は無い。

 「既にノギ・パシャが南10キロ、ウズン=キョプルルに布陣を開始しております。明日にも来援しましょう? 航空隊は補給と休養を行い明日に備えていると思われます。」

 「後2日……後2日! 欲しかったなぁ。」


 参謀の一人が報告するが無念の余り声が出る。明日には皇帝師団全てがどの戦闘力を喪失し敗残兵の群れに変わっているだろう。例えブルガリア軍の大半を同様の目にあわせていたとしてもだ。ノギ・パシャの周りには欧米人の記者が常に張り付いている。彼等に我等皇帝師団の健在ぶりが伝われば我が祖国を指す言葉、『欧州の重病人』という悪意ある侮蔑も払拭できそうなのだが。その前に軍自体が崩壊するなどもってのほかだ。

 
体面よりも護国を


 
勝利よりも負けなかったを



 「パシャ、準備が整いました。」    副官が耳打ちする。


 立ち上がり指揮杖を握りしめる。将軍自ら先鋒に立つ、統制の下策なれどもそんな贅沢は言えない。最後の予備兵力と前線の全皇帝師団で敵の半数、5個師団10万人を相手取る。少なくともホーテンのコダマ・パシャよりはマシな戦になる筈だ。敵はあの恐るべきロシア軍ではない。ただ愛国に酔っただけの狂騒者の群れであるブルガリア軍だ。


 「征京司令部より緊急信です!!!」


 征京との無線通信電話を担当している数少ない国の電信員が電文を手渡す。凶事なら向こうも何かあったか、吉事なら予定通り明日から此方を援護してくれるという報告なのだろう? そう思い目を通す。息を呑んだ。


 「電信員! 対応地形表を直ぐ持ってこい! 急げ!!」


 これでもアタチュルク(完璧なる人)の尊号を頂いたのだ。私には過ぎた称号だが部下達がそれで夢を重ねられるのならばと常々使っている。その私の頭脳どう逆さに振ってもこの地形対応語はあり得ない。一体パシャは一体何を考えて、いやトラキア司令部の瑕疵なだけなのか? 暗号表、地形対応語を見比べて私は呻く。


 
「発・征京司令部、着・大日本帝国欧州軍全装甲旅団」


 
「攻撃目標、ブルガリア首府【ソフィア】」



 ここから300キロもの彼方をどうやって指呼に収めると言うのか!? 貴方は、貴方の見る戦争はどんな形をしているのか! 副官に揺さぶられ我に返るまで私は茫然と立ちすくむしかなかった。






◆◇◆◇◆








 百隻以上もの船団が海岸へ近づこうとしている。その三分の一は5000トン級の中型貨客船を改造した兵員輸送船だが、残りは違う。かつて大日本帝国第三軍を神速で遼東半島に移動させ、ロシア旅順守備隊を孤立に追い込んだ一等輸送艦と二等輸送艦。一等輸送艦は後部甲板の大発に中隊規模の兵を乗せ、二等輸送艦は其の腹に敵前に展開し兵士達を援護する戦車・装甲車を満載する。その中で異彩を放つ二艦、かつての霧がいた世界ではこう呼ばれた艦が形も所属も時代すら変え、其処にいた。

陸軍空母 銘を【神州丸】【秋津丸】

地獄が上陸する




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