それは海の底から現れた。
 突如海から浮上したそれは海面でその数を倍に増やし、それが空中に浮かぶころにはさらに数十倍へと増殖した。
 明らかに重力を無視したその巨体は、その外見からは想像もできないほど大量の「敵」をその身から吐き出した。

 そう「敵」だ。
 黒い巨大なチューリップのようなそれと、それが吐き出す紫の戦艦、黄と赤の機動兵器郡。
 それらはまごう事なき地球への侵略者達だった。

 それらは目の前にある基地へ攻撃を開始する。
 紫の戦艦「ヤンマ」が、ハリネズミのごとき対空砲火でスクランブル発進した戦闘機を海へと叩き落し、黄と赤の機動兵器郡「ジョロ」と「バッタ」が基地を守る護衛艦を内側から食い破る。
 撃ちこまれる高射砲やミサイルによる攻撃は、それらが展開するバリアの前に意味をなさず。
 その様はまさに鎧袖一触。
 展開した防衛部隊は瞬く間に彼らの攻勢の前に沈黙した。

 慌てたように飛び立つ数隻の戦艦。
 それは、もはや敵わぬと見て基地を放棄した兵士、将校が乗る脱出船だった。
 戦場に背を向けて逃げ出す彼らの真下で、基地が爆発する。
 残された施設と情報を敵に利用されないように、という防御処置だった。
 この基地は太平洋の情報を網羅する拠点の一つであり、そこに集まる情報と機能は敵にとっても有用なものだ。
 ゆえに、データ消去と施設破壊を兼ねた自爆は必然。
 それによって太平洋を監視するレーダー網に一瞬の空白が生まれるが、それはすぐさま他の情報基地を根幹にしたあらたなサーキットを形成することで補完されるだろう。

 しかしその一瞬が、世界の命運を変えることを彼らは知らない。
 彼らの敵、「木製蜥蜴」もそれは同じだった。

 太平洋に点在する無人島に向けて、一筋の流れ星が零れ落ちる。

 その様子を、世界中の誰もが見逃していた。








 機動戦艦ナデシコ 「IMITATION HEAVEN」

 〜第五話「 Re1:RETURN 」〜












 人間落ちるのは一瞬だと人は言う。

 それは高尚な人間ほど俗に染まるのは早いという皮肉であり、また意味外ではあるが言葉通りの真実でもある。
 げに恐ろしき万有引力(欲)といったところだろうか。
 天上を行く人間だろうが地べたを這う人間だろうが、それに惹かれればアッサリ落ちる。

 だがそれと同時に、黙って落ちていく人間がいないのも、また一つの当然である。

 あるものは必死に踏みとどまろうとするだろうし、あるものはその手を伸ばして何かに捕まろうとするだろう。
 既に落ちてしまったものならば這い上がろうとするだろうし、あるいはその落ちた先で新たな道を見出すものもいるかもしれない。
 結局のところ
 『落ちる』という不幸にしか見えない事柄も、そのものの人生という大きな尺度で見れば、何のことは無い細かな路傍の溝に過ぎないのかもしれない。

 まあ、現在進行形でその穴に捉われている人間がそこまでポジティブなことを考えられるかはさておいて……

 「……!…………っ!?〜〜〜〜!!?」

 さて、踏みとどまる人間、手を伸ばす人間、這い上がろうとする人間、見いだす人間。
 およそ、落ちる人間全てに共通して言えることがあるとしたら、それは一体なんだろうか?
 答えは実に単純……それは、

 「うおおおおおおおおっっっ!!?」

 『叫び』だ。



 ナイトは焦っていた。
 それはもう、ものごっつ焦っていた。
 五臓六腑の根底から搾り出したかのような痛烈なシャウトがドップラー効果を引き連れて長い長い廊下に延々と木魂する中、その発生源たるナイトもまた、長い長い廊下を『真っ逆さま』に落下していた。
 それは比喩でもなんでもなく。文字通りの急転直下かつ垂直落下なダイブだった。
 表現するなら室内型ノーロープバンジー。
 ただし、ゴムもなければ当然命綱もなく。さらに言えば、行き着く先にマットが用意されていたりもしない。
 遊びではできないが、マジならまず間違いなく遠慮するだろう死のアトラクション。
 普通、戦艦の『廊下』で楽しむ遊びでは決してない。いや、どこでもそうだろうが。
 その証拠に、今も廊下を真っ逆さまのナイトは必死の形相で叫んでいた。

 「ぎゃあああああーーーっ!?」

 脈絡のない事態に混乱するナイト。
 彼の認識の中では、廊下は横向きで自分はそこをアキトを背負いながら走っていたはずだった。
 それがいきなり、足の裏の感触が不自然にズルッっとずれ。続いて『縦』になった廊下を頭から落下する羽目になったのだ。混乱しないほうがどうかしている。

 しかしそれでも、幼いころから訓練を受けたナイトの体は差し迫る生命の危機に反応した。
 理由を追求したい思考を一時棚上げして、後ろ腰の多目的ベルトに装着されたポーチから特性のサバイバルナイフを引き抜く。
 手の甲の部分のIFSが一瞬だけ発光。
 一秒の千分の一で機動状態へと移行したナイフの刀身が淡い光に包み込まれる。
 ナイトはそれを手近な壁に思いっきり叩き付けた。

 常識的に考えれば、刺さるとは思えない。
 だが、ナイフは一度だけガキンと衝突の音を立てただけで、ズブリと壁にめり込んだ。

 「くぉのっ!とぉまれぇぇぇぇっ!」

 ギャギギギギギギと耳障りな音を立てながら壁を切り裂き続けるナイフ。
 金属と金属がこすれあう火花を発しながら、それでもナイフは折れも曲がりもせず。
 ナイトと彼が背負うアキト、二人分の体重と落下のエネルギーを見事に支えきって、やがて……止まった。
 後には数十メートルにわたる切り傷を刻まれた廊下が残った。

 「―――っ!ふぅ〜……」

 ナイトは安堵の息を吐く。
 額から汗が滴となって頬を流れ、顎のラインを伝って下に落ちる。
 つられて下を見れば、もう地面(さっきまでの壁)とは三メートルもない。落下のスピードを考えれば、まさに一瞬の距離。
 ナイトの背中を薄ら寒い気配が駆け抜ける。
 あと少し、ナイフを抜くのが遅かったら自分とアキトは壁にたたきつけられ、スプラッタな前衛芸術になっていたのだ。

 「……駄目だ駄目だ駄目だっ」

 危うくその情景を想像しかけて、ナイトは慌てて首を振ってその想像を打ち消した。
 そうして一度深く深呼吸をする。
 気持ちを落ち着かせたところで自分が張り付いている壁を軽く蹴り、その勢いでナイフを壁から引き抜く。
 支えを失った体は三メートル下の壁に向けて落下し、そしてなんなく着地した。
 ナイフを再びポシェットに収める。
 同時に、背負ったアキトの様子を確認したが目を覚ました気配はない。発見時の様子からして、かなり強力な睡眠薬でも飲まされたのだろう。

 (まあ、今目を覚まされてもたぶん面倒なことになるだろうし、好都合だけどさ)

 助けに来た対象に攻撃されたんじゃ笑い話にもならないしなぁ……とつぶやきながら、アキトを背負いなおす。
 ナイトは辺りを見回した。どうやら現在の「しわす」は艦の頭を下にするような重力設定がなされているらしい。

 (火星の後継者側の抵抗か?癪な真似をしてくれるじゃないか)

 危うくトマトの前衛芸術になりかけたナイトは唇をゆがめる。
 こんな設定、艦内では少なくない被害がでるだろうに……そう思いながらコクヨウへと通信をつなぐ。

 (今にして思えば、あの時のコクヨウの通信もそのことを伝えようとしていたのか?いやでも、それだと……)

 考えるナイトの目の前にウィンドウが現れる。そこには珍しくあせった様子のコクヨウが映っていた。
 彼女は通信がつながるなり

 「ナイト様っ!ご無事ですか!?」

 と身を乗り出してたずねてきた。

 「大ジョブだよ。見てのとおり。アキトさんだって、ほら」

 普段はおとなしい彼女のいきなりの剣幕に思わず身体を引きながら、後ろに担いだアキトを示すナイト。
 やっぱり心配させたかぁ……と苦笑する。通信する余裕などなかったし、ナイトの責任ではないが、それでも目の前の女性を泣かせることはナイトの信義に反していた。

 (帰ったらフォローしとかないとな)

 そう考えて一つ余裕の笑みでも魅せてやろうかと、表情を作りかける。
 しかし、その余裕は他でもない……コクヨウによって打ち砕かれた。

 「時間がありませんっ!ナイト様っ、早く脱出をっ!!」

 「は?」

 間の抜けた声を出すナイト。
 確かに現状、ナイトはお荷物を背負って敵陣のど真ん中にいるわけだが、それで遅れをとるほど温くはないと自負している。
 重力方向が変わっているのはネックだが、それは相手も同じはずだし……なにより、システム掌握は健在だ。重力制御系は生命維持に直結する分野だから取り返せたとしても不思議はないが、それ以外の艦内防御火器や隔壁の制御は今もこちらにあるはず。恐れる理由はない。

 「一体どうしたっていうんだ?」

 尋ねるナイトに、対するコクヨウは強い口調で

 「艦がおちているんですっ!」
 と告げた。

 「はぁ?」

 落ちる?どこに?
 疑問符を浮かべるナイト。しかし、コクヨウが映し出した『現在のしわすの状況』を見てその疑問は氷解した。
 疾時雨が撮影している「しわす」のライブ映像……
 それを見て、ナイトの顔がさぁーっと目に見えて青ざめた。
 コクヨウが追い討ちをかけるように叫ぶ。

 「しわすは現在、地球に向かって落ちているんですっ!」

 次の瞬間、ナイトは今までに倍するスピードで走り出した。










 数分後


 「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……し、死ぬかと思った……ま、まさか、地球にボソンジャンプ、してたとは……」

 ナイトは十六夜のコクピットの中で荒い息を吐いていた。流石に高高度から海面にたたきつけられて生きているほど自らのバイタリティに自信を持っているわけではない。
 より凄惨なトマトの芸術になるのだけは勘弁と、ナイトは自らの限界に挑むかのように廊下を駆け、跳び、時にザイルとナイフを駆使して壁を降り、人一人を担いでいるとは思えないタイムで格納庫へと駆け込んだ。
 そして十六夜を機動。
 落下の前面となる正面ゲートを避け、側面の壁を切り崩して「しわす」を脱出した。

 空中でホバリングする十六夜。
 その眼下で、「しわす」の船体が海面に激突した。

 「……」

 衝撃で圧壊する「しわす」。
 集音マイクが拾うその音に、ナイトは顔をしかめた。

 「……殺さなくてもすんだはず……だったんだけどな」

 盛大な水柱があがるのを眺めながら呟く。
 生き残るために殺す。そのことに疑問を持たずに是とするな……それは、ナイトが幼いころから師事してきた師匠の言葉だ。
 今回、予断を許さない状況だったとはいえ、ナイトは極力無駄な殺しはしないつもりだった。
 コクヨウも、多少飲まれかけはしたが、それでも想定していた数の敵を撃破するのみでとどめている。

 あのまま行けば、残りは連合宇宙軍なり統合軍なりに突き出すことで丸く収まったと言うのに……
 それもこれも……

 「……また、あいつの仕業か」

 「あいつ」……それはナイトとコクヨウの影だ。何処までも付きまとい、決して消えない暗い影。
 名前すら呼びたくないと、ナイトもコクヨウも、いつしかヤツのことをそう呼ぶようになった。

 「こんな場所に着てまで」
 あいつに翻弄されるのか……そう続けようとしたナイトはしかし、その言葉を飲み込んだ。

 レーダーが接近警報を鳴らす。
 振り向けば、そこには遅れて追随してきた疾時雨の姿があった。
 そのブリッジには自分のパートナーが乗っている。ある意味誰よりもやつを憎み、怯えている己の半身がいる。
 彼女の前で、あの男のことで悩んだり、受身に回るような姿は見せられない。というか、見せたくない。

 お互いの弱みなど知り尽くす間柄ではあるが、その弱みだけは死んでも見せるものか。

 「よっし!」
 パシパシと自分で自分の頬を叩いて気分を入れ替えるナイト。

 大切な女性の前ではカッコつけたくなる……それは教わったわけではないが、師匠と共通する自分の特徴だとナイトは思っている。
 ナイトは十六夜を旋回させ疾時雨へと向かう。

 「とりあえず……帰ったらコクヨウのお茶が飲みたいな」

 呟くナイト。その接近を待たずして、すでに疾時雨のハッチは全開状態になっていた。










×××










 「……はぁ……和む……やっぱり、コクヨウの淹れるお茶は格別だな」

 「ありがとうございます」

 「それで、アキトさんとルリさんは?」

 「現在、アキト様は医務室でナノマシンの最適化処置を。ルリ様は、それに付き添っていらっしゃいます」

 そう言って表示される数枚のデータ。ステータスから見て、それはカルテらしい。
 身長、体重、血液型といった一般的な項目が並ぶ中で唯一、一般人にはない特殊な項目に眼が留まる。

 体内ナノマシン含有率

 読んで字の如く、体内に注入されたナノマシンの割合のことだ。
 IFSを装備したパイロットやマシンチャイルドなどごく少数の人間にはこういった項目が存在する。
 一般的にその含有率は、通常のパイロットで0,1〜0,3%ほど。ナノマシン強化体質のマシンチャイルドでも1%前後だ。
 この割合が高ければ高いほどフィードバックのレベルが上がり、高度なオペレーションが可能になる一方で、感覚障害や拒絶反応、精神の劣化と言った副作用をもたらす可能性も高くなる。
 それは時に生命すらも危険にさらす。「ナノマシン漬け」と言っても良いマシンチャイルドが違法と言われる所以だ。

 (俺やコクヨウが言えたことじゃないけどさ……これはさすがにひどすぎる……)

 芳醇な湯気を燻らせるダージリンのカップに口を付けながら、ナイトは顔をしかめる。
 カルテに表示された数値……それは通常のパイロットからすれば数十倍。違法とされるマシンチャイルドと比べても数倍に匹敵するという恐ろしいものだった。
 下手をしないでも生命に直結するレベルの問題である。
 しかしそれでも生き残っているアキトを流石と手放しで賞賛できないのは、手元に移るもう一枚のウィンドウを見れば明らかだ。

 「死者、行方不明者推定二千名以上……負傷者に関しては倍率ドンでさらに倍倍……か。語りたくないわけだ」

 それは、大破沈没した「しわす」から引き上げた火星の後継者の叛乱に前後する地球圏の情勢データだった。
 そこには、先のコロニー襲撃事件や、それに伴う輸送船襲撃事件などの情報が記載されていた。
 いずれも非公式……だが、もっとも事実に近いデータだった。

 「正確にはその殆どが火星の後継者側の工作員の仕業らしいですが、二百人前後は間違いなく「黒い機動兵器」の所業だと公式記録にもありました。しかし、私達の持っている公式のデータの中にテンカワ=アキトの名前がありません。おそらくその後、全世界規模で情報統制が行われたものと推測します」

 「それも腑に落ちないことではあるけどな……」

 なにせ、アキトを事件の真相から守って得をするのはネルガルと宇宙軍……の中でもごく少数の人間だけだ。たったそれだけの人数で世界すら動かせるものだろうか。
 考えるまでもなく無理だ。
 しかし現実には、ナイトやコクヨウですら、「そういう事件があった」という事実は知っていても、「そこにアキトが関わっていた」という真相は知らなかった。
 ただ、彼の若いころには色んな事があったとしみじみ語る周りの大人達と、自分達が見てきた彼の行動から「どうやらあいつに関わることらしい」という当たりを付けていただけだ。
 「あいつ」が関わるのなら、きっとろくなことではなかったのだろうと思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。

 ナイトはコクヨウに向き直る。
 「コレを見てると、俺達がここに来たのも、案外偶然じゃなかったのかも……とか思えないか?」

 「運命論は嫌いだったのではないですか?」
 クスリと苦笑するコクヨウ。その顔を見て、ナイトは

 「いーや、ごつごうが嫌いなだけさ。結ばれるべくして結ばれる縁は大好きだよ」

 「違いが良くわかりません。どちらも『都合がいいこと』に変わりはないように思えますが?」

 「違うんだなぁ〜、これが。運命って言うのは誰にも分からないし誰にも決められないこと。ご都合ってのはそのまんま、誰かの手の上で都合よく展開が操作されること」

 「……そういう割には、周りの影響を色濃く受けた視聴スケジュールを立ててらっしゃるようですが」

 たまに録画予約をまかされるコクヨウはナイトの嗜好をさして少しだけ皮肉る。
 どこかあさっての方向に眼をやりながら、ナイトは「現実とフィクションは違うからなぁ……」と言って逃げた。

   「あー……それにほらっ、ご都合主義ってのは製作者サイドって言うか、つまりは外から見たときの言い方だろ?でも実際……というか、そのフィクションの世界の中ではそんな外の事情は関係ないわけじゃないかっ?だから、登場人物たちからすればそれはご都合でもなんでもないわけで、つまりそれは視聴する立場の人間からしてもご都合ではなくて……」

 そしてそのまま延々と言い訳を始めるナイトに、思わずコクヨウは小さく吹き出した。
 声を立てて笑いはしないが、明らかに楽しそうな雰囲気が体中からにじみ出ている。
 それを見て初めて、ナイトは自分がからかわれていたことに気づいた。
 頬が少し赤くなる。
 わざとらしく咳払いをすると、「まあ!そんなことよりっ!」と話題を元に戻すのだった。
 コクヨウもすばやく空気を改める。

 「こんな世界に飛ばされたことは、俺たちにとっても意義があると思うわけだ。アキトさんのナノマシン含有率にしても、俺たちじゃなけりゃ後十年は解決する問題じゃなかっただろう」

 解析が進み、表示されているナノマシンの中には十年後にその実用性が検討されだした種類のものも含まれている。
 研究自体はそれ以前から始められていただろうが、発表されたレポートの提出元がネルガル系列ではない。
 ネルガルがそのナノマシンを研究していなかったとはいえないが、少なくとも……アキトの治療が目的とはいえ、それによって得られたノウハウと成果をネルガルが利用しないはずは無い。つまり、ネルガルではこのナノマシンの問題を解決するのに十年はかかったはずなのだ。しかし

 「私達の知るアキト様は、その頃には確実に現在と同じ健康体でした……であれば、何かしらの原因があったと見て当然……というわけですね?」

 「そういうこと」

 そう言ってカップの中の紅茶を飲み干すナイト。すぐさまコクヨウがお変わりを注ぐ。
 そうしながら、コクヨウは言葉を続けた。

 「……ルリ様や、ラピス様のこともあります。私自身、今のアキト様と私達の知るアキト様にギャップを感じてもいます。ならばやはり、私達で導いていくのが運命なのでしょうか」

 「俺はそう思う。っていうか、そうじゃなくても見てられないしな。帰る手段も今のところないし、丁度いいさ」

 「では」

 「ああ、俺たちは……俺たちが教わったことを、あの人に返していこう。ご都合で世界を動かしたいんじゃない。あの人たちを助けるために俺たちはここにいる……それが、運命なんだと信じて」

 「御意」
 恭しく頭を下げるコクヨウ。テーブルの上に並んでいたカルテのウィンドウを消して、ナイトは再びお茶を楽しむ。
 ラウンジの外壁は疾時雨の周囲の大海原を映し、遠くには無人島と思しき影が霞んでいた。
 時刻は丁度昼を過ぎ、さてアキトさんの様子を見たら昼にしようかねと考えるナイト。
 そのナイトに、コクヨウは控えめに尋ねた。

 「……いまさらですがナイト様?であればこれも、私どもの運命だとお考えですか?」

 「……いまさら驚いても仕方ないだろー……ある意味丁度良すぎて笑えてくるわ」

 茶菓子をぽりぽりやるナイトの目の前に映ったデジタル表示……グリニッジ標準時が示す現在時刻は、午後十二時三分四十五秒……

 時は西暦、二一九六年……ナデシコ発進の、三ヶ月前―――










×××










 アキトが眼を覚ましたとき、彼は周りが真っ暗だったことに驚いた。
 暗いこと自体に驚いたわけではない。
 覚醒しているという自覚はあるのに何も見えない……それは、視覚を失ってからのアキトの日常だったからだ。
 ラピスとのリンクのおかげで生活こそ可能だったが、それでも常時リンクしていてはラピスに負担をかけてしまう。ゆえに、睡眠時間など、余裕を持てるときは極力リンクを控えるようにしてきた。
 完全にリンクを切るとラピスが不安がるので限定的な機能を残してのものではあったが、それでも、特に睡眠時は不必要な視覚情報はカットされていた。

 だからこそ分かる。

 この暗闇は、アキトの知る暗闇ではない。
 まぶたを開いていても、閉じていても何も見えない。そういう暗闇とは根本的に違う。

 暗闇が見える……暗いんだと知覚できる。
 ラピスとのリンクは途切れているはずなのに視覚がある。
 その事実が、アキトを驚愕させていた。

 (……実験の結果が裏返ったのか?)

 マイナスとマイナスを掛け合わせたらプラスになるように、実験の結果起こった副作用がお互い反作用して視覚を回復させたのだろうか?
 アキトはなんとなく自らの顔に手を当てた。
 そして……

 (っ!触覚も!?)

 額に当たる肌の感触と温もり……気がつけば、病人着らしい衣服の感触と、その上からかけられているらしい毛布の重みも感じられる。

 「一体、なにがっ―――!?」
 と、思わず疑問の声を上げれば、一言一句違わず耳がその言葉を聞き分けることに驚き、同時に……

 「し、舌……俺の、舌が……」
 言葉を発したことで動いた舌からは、確かに唾液の味を感じた。
 消毒液のものらしい独特の匂いに混じって、微かに花のような香りがすることにも気づいた。

 「五感が……」

 震えだすアキト。
 封じられていた「視覚」「嗅覚」「聴覚」「味覚」「触覚」が一気に戻ってきたのだ。感動と、わけのわからない衝撃にアキトは震えていた。
 その震えを感じ取ったのか、アキトのひざの上で何かが動いた。

 「!」

 一体いつからそこにいたのだろう。
 なにかはもぞもぞとアキトのひざの辺り……正確には、アキトの寝かされているベッドの脇でうごめいていた。

 (コレだけ接近されて気づかなかったなんて!)

 アキトは己の迂闊さを呪う。
 だが同時にチャンスだとも感じていた。感覚が戻ったことはこの際好都合だ、武器など無くてもこれなら十分に戦える。
 ヤマサキがどういうつもりかは知らないが、こうも無防備に放置されているところを見ると、アキトの感覚が戻ったことには気づいていまい。
 あとは、そこにいるヤツを人質に……あるいは利用して隙を伺えば……

 闇の王子として生きてきた数年の間に培った冷徹な思考が一瞬で反撃プランを構成する。
 その思考を元に、アキトは気配を頼りにすっと手を動かし、身体の重心を移動させる。
 神経を集中すれば、確かにベッド脇に人間がいることを感じる……

 (―――小柄だな……好都合だ)

 もとより研究畑の蒼病短に遅れをとるとは思っていないが、それでも組し易いに越したことは無い。
 ベッドにもたれかかって寝ていたソレが、僅かに身を浮かせたその瞬間っ

 「―――ハァっ!」

 一瞬で身体を引き起こし。相手の腕を取って絡め、ベッドの上へ押し倒した。
 いきなり戻った身体の感覚にうまく慣れず。折ろうと思った腕は折れず、体勢もうつ伏せではなく仰向けになってしまったが……
 それでも、この体制なら不審な動きがあり次第手刀で喉を潰せる。

 いきなり押し倒された相手側はまさかの事態に驚いているのか、パニックで声も出ないらしい。
 抵抗されないなら好都合、とアキトは「研究員」の身体をまさぐり、IDなり武器なりが無いかを探る。
 んぅっという声が漏れると共に、手のひらから微かな柔らかさが感じられる。

 (……女?)

 アキトは思わず手を止めた。
 身体のアウトラインにそって動かしていた手の感触とうめき声、現在胸元……と思われる箇所を探る感覚からするとそう結論づけるを得ない。
 いや、訂正するなら少女だろうか?

 女性の研究者は珍しいがいなくはない。
 事実、彼がとてもお世話になっていた研究者は女性だ。しかし、この背格好は流石にない。
 推定身長は150cm弱、体重……軽い、痩せ型で15歳前後の少女、さっき組んだ瞬間に分かったが、髪は長め……

 (……)

 強いて言うならあの子の様な体系の子……というか、あの子くらいの子。
 そんな年でこんな場所にいるとは、怒るべきか悲しむべきか……それとも自分と同じ実験対象か?だとすれば、怖い思いをさせたことは詫びねばならないがしかしその確証も無いわけで……
 胸元に手を置いたまま、迷うアキト。
 彼も良い具合にパニクってるらしい。今現在、自分が他人に見られたら言い訳出来ないような状態であることを理解しているのだろうか?いや、きっと理解していないだろう。
 と言うか理解していても遅かっただろう。
 なぜなら、彼はどんなに変わってもテンカワ=アキトだからだ。
 基本的に、彼の女性に対する運は……激烈に悪い。



 動体反応を感知して照明が点灯する。



 ―――ゆっくりと、眼を疲れさせない計算された速さで明度をあげていく照明は……アキトと、彼が組み伏せた少女の姿をあらわにしていった……
 そこには

 「……」

 「…………」

 「………………ルリ、ちゃん?」

 見間違えるはずも無い。それは、義娘であり、妹のような存在であり、仲間でもある。テンカワ=アキトの大切な人……ホシノ=ルリその人だった。
 だらだらと冷や汗が滝のように流れ出す。
 アキトはようやく、今の自分の体勢に気づいた。
 慌てて手をどけようとするも

 「んくぅ!」

 予想だにしなかった衝撃に変な風に手が動いてしまい、ルリの薄い(本人には口が裂けてもいえない)胸をなでる。
 反応したルリがかすかに喘ぎ声をあげるのに、一気に覚醒し目の前の「ありえない」を現実と完全肯定した脳が全力で手を放せっ!と最大レベルの警告を発する。

 だがしかし、重ねて言うが彼はどんなに変わってもテンカワ=アキトである。こと女性が絡むと、彼の運はウォール街に舞った紙ふぶきのように軽いのだ。

 医務室の扉が開く。

 「ルリさん、夜食もって来ました、よ……」

 「しばらく交代いたします。ご休憩、を……」


 後に、彼らは語る「あの時確かに時は止まっていたのだ」と。
 ぐちゃぐちゃになったシーツ。
 押し倒された少女。
 のしかかる青年。
 乱れた着衣。
 胸元をまさぐる手。

 なんていうか、イロイロ疑いようがない。

 「あ、あの、ナイトさん。コクヨウさん」

 頬を赤く染めたルリが、二人に呼びかける。
 二人は油を指し忘れたブリキ人形のように、軋みを利かせた動きでルリのほうをむく。
 二人に向かってルリは恥ずかしそうに……

 「……見なかったことに、してくれませんか?」

 「「!!……し、失礼しましたっ!!」」

 ナイト、コクヨウ、そろって遁走。
 それでもしっかり夜食を置いていくあたり彼らは偉い。
 取り残されたアキトとルリはしばらく無言で見つめあい……その後、ポツリとルリは呟いた。

 「あの……続け、ますか?」

 音よりも速く、アキトはベッドから飛びのいた。
 途中、ベッドサイドに足を引っ掛け頭から地面に落ちたが……彼にはむしろ、それが目覚めてから一番の幸運だったのかもしれない。







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