自分が他の人と違う、ということを知ったのは物心のつく前、きっと生まれて目を開けたときから。
自分が他の誰にも理解されないモノを視ている、ということを知ったのは物心ついて間もない頃。
きっかけとなったのは、一枚の写真。
「なかなか面白い眼をしているね」
父と母に連れられ、父の知りあいだという人形師の方の作品を見て回っていたとき、わたしはその人形師の方にそう言われた。
第一印象は、変わった人。お母さんとそれほど歳の差もないようだったのに、わたしよりも生きていないようだった。
「娘は魔眼持ちではないが」
お父さんがそう言うと、人形師の方は、作品のひとつを指差してわたしに尋ねた。
「あれ、どう思うかな」
同じ格好をした、2体の人形だった。その人形はとても精巧で、まるで人間みたいで、わたしは率直に、綺麗です、と答えた。
「そう。じゃあ、実はあれは右と左が全く同じものであることを表しているんだけど、そう見える?」
何を言っているのか、よく分からなかった。
「同じに見えるところを言ってごらん」
「格好が同じ」
「うん」
「……表情」
「うん。他には?」
「……えっと」
分からなかった。
「娘には、何が視えている?」
お父さんの声が、すこし怖かった。
「さて……正確なところは私にも分からないが、おそらく時間の連なり、空間の重なり、といったところは間違いない」
「君のことも視えていると?」
「ああ」
「まさか、冗談だろう。娘は人間を、分裂を繰り返す細胞群体である生物を、きちんと1つの個として捉えて識別できている。それでなお時間を視認できるというなら、それではまるで」
「まるで物理世界ではない、何かもっと『根源』たるものをこの可愛らしい眼は捉えているのか……かな?」
「……莫迦な……」
感情、というものは今も昔も視覚できないけれど。
お父さんが、なにかとても驚いていたのは、そのときのわたしでも分かった。
「魔術であれ科学であれ、私の作品であれ、本来なら何十年、何百年もの技術の発展がなければ制作不可能な物が、奇跡的な偶然により生まれてしまうことは間々ある。君のご息女も『そう』だったんだろう。私も、視えるようになった人間には多少の縁もあるが、さすがに生まれた時から視えている者というのは珍しい」
数年さえも生きていないその人形師の方は、わたしの眼を見つめながら、つぶやくように言った。
「その名も無き魔眼を持つ君には、この世界はいったいどのように映っているのだろうね?」
そのときのわたしには、お父さん達の言っていることは、よく分からなかった。


それから数日後、そのとき撮った写真を見て、わたしはようやくあのときの2体の人形は、人形師の方と全く同じ容貌をしていたのだと知った。


 理解は共感。
共感は自身が得てきた知識や感覚を他人と重ね合わせること。
苦しみを知らない人に不幸は伝わらず、熱いという感覚を知らない人に熱量は決して伝わらない。
お父さんにもお母さんにも理解されないという客観的な事実は、幼かったわたしの心を少なからず傷つけ。
常に客観的要素が視えてしまうわたしの主観は、自らの信じるものを信じるということを、わたしから永久に奪い去ってしまった。








 入り口から流れる風に揺れる灯火が仄かに照らす、御巫の地下洞の中。衛宮士郎は眼前の門に片手をかけ、ぐいと押し込んだ。
ほとんど重さを感じないが、しかしゆっくりとしか開かない古い木造の門は、軋んだ音を立てながら、しだいに開いていく。
「――――」
門の先は石灯篭が並ぶ、細く長く続く石畳の回廊。古い神社の夜を思わせるようなそんな風景の先、回廊の途中に立っていたのは、くたびれた茶色いコートを羽織った男。
衛宮士郎の養父である、衛宮切嗣その人だった。
「…………」
ゆらゆらと揺れる石灯篭の灯りを見つめる切嗣に向け、士郎は歩いていく。近づいていくにつれはっきりとしていくその姿は、ぼやけていたはずの記憶のそれと何ら変わらない。何年も前にとっくに見納めていたはずなのに、まるで昨日も会ったかのように思えてしまう。
しかし真実、冷静に考えれば、衛宮切嗣は数年以上も前に死亡している。衛宮士郎自身が死を看取った以上、生存の可能性は皆無であり、そして数年の時を経ても容姿に変化がないということはありえない。既に敵の術中にかかり、脳から都合よく情報を引き出されて視せられている幻覚というのが妥当なところだろう。
だが、それは違うという直感が士郎にはあった。論理的に考えれば、もはや目前にまで近づいた切嗣は偽者のはずであるが、その可能性を考えた上でなお自らの心は間違いなく衛宮切嗣であると断言をしており、初見からして疑いようも無く衛宮切嗣だとささやいている。衛宮士郎自身が、彼が衛宮切嗣であることを保証しているのだった。
「…………」
やがて目の色まで視認できるほど近づいた頃、士郎は懐かしさを胸に言った。
「じいさん」
衛宮切嗣の姿をしたその男は、顔を上げて士郎の方を向き、記憶と変わらない微笑を浮かべて、言った。
「やあ、士郎」
途端、こみ上げてくるものを飲み込み、喉が痛むのをこらえる。
言いたいことはたくさんあった。けれど言葉になりそうもなかったし、言葉にすると、なにか大きなものが崩れてしまいそうだった。
「おかしなところで会ったね」
切嗣は半身を引いて、腕を回廊の奥へと伸ばしてうながす。
士郎は静かにうなずいて、切嗣の横を通って歩き始めた。追って、切嗣も士郎の横に並んで歩き始める。
「じいさん、なんでこんなとこにいるんだ?」
「うーん。僕自身、よく分かってはいないんだけどね……」
切嗣は苦笑しながら言った。
「僕はね、士郎。どうやら君を阻むために呼ばれたらしい」
切嗣が語る言葉の内容よりも、記憶の底に埋もれていたはずの懐かしい語り口に、士郎の意識は占められていた。聖杯戦争が終わり、ここ最近は思い出すこともなかった切嗣の言葉が、記憶が、なにか留め金が外れたかのように溢れては脳裏を過ぎていく。初めて会った災厄の日のことも、一緒に暮らした日々のことも、最期の言葉と共に温もりを失ったときのことも、白い箱に収められ、焼け崩れて小さな壺に収まってしまった最後の記憶さえも。
「漠然とした感覚だけれど、妙な確信がある。それをするために僕はここにいるのだと、疑う気がしない。だが……ここはなんだろうね。現実のようにはっきりとしているけど、どこか夢のような感じだ。――――いや、夢、なのかな。士郎がこんなに大きくなってるし」
「……夢、だけどさ。背、伸びたろ」
士郎は少し背筋を伸ばしながら、横に歩く切嗣に向けてそう言うと、切嗣は声を上げて笑った。
「ははは、確かになぁ。僕が覚えている士郎は、こんな風に見上げるほど大きくはない」
「伸びたの、最近だからな」
「たまに大河ちゃんと牛乳一気飲みをやっていたけど、効果はなかったのかい?」
「さっぱりだった」
「はっはっは」
笑い声も、士郎の記憶の中の切嗣となんら変わらないものだった。
「ところで、士郎はこれから何をしに行くんだい?」
「……少し、困ってる女の子がいてさ。ちょっと助けに」
「へぇ。どんな子?」
「そうだなぁ……いつも着物着てる背の小さな子で、いつも礼儀正しくて姿勢が良くて、笑うと本当に心底嬉しそうに笑う、かな。……でも変に我慢強くて頑固でさ、すごく困っているのに全然頼らないし助けてって言わないし、言いたいこと言わずに胸の中にしまってるみたいだし」
「それ、半分くらいは士郎のせいじゃないのかなぁ」
「……む」
薄々とは感じていたことをあっさり指摘され、口をつぐむ士郎に対し、切嗣はおかしそうに笑う。
「いや、なんでもないよ。でも、そうか、うん。はっはっは」
切嗣はひとしきり笑うと、語調を戻して言った。
「さて……さっきも言ったけれど、僕は君を阻むために呼ばれた」
「じゃあ、どうするんだ?」
「別に何も」
「…………?」
士郎が首をかしげて切嗣の方を見ると、切嗣は言った。
「士郎が、困っている誰かを助けようとがんばろうとしているんだ。それが全部だよ」
ほとんど直感的に、あぁこの切嗣は亡くなる直前の切嗣なんだろうな、と士郎は気付いた。
「これから君が助けに行く女の子は、きっと誰かに助けて欲しいと願っているんだろう。…………胸を張って行くといい、士郎。少なくとも君はいま、君が救おうとしている女の子にとってのヒーローだ」
気づけば、いつの間にか間近となった次の扉に送り出すように、切嗣は士郎の背中を叩く。
「迷わず自信をもって助けるといい。……がんばれ、士郎」
「……ああ」
この切嗣は、確かに士郎の知る切嗣だ。だが、英霊の座のような超常的な存在に記録されただけの存在で、一時的に読み出されて消滅していくだけの「偽物」なのか、それとも本当に亡くなる直前から呼ばれている「本物」で、これから幼い士郎に看取られ死んでいくのか、それは士郎には分からなかった。
御巫の屋敷に仕掛けられた魔術はあまりに高度で複雑なため、専門外である士郎にはどちらであるとも読み取れない。どちらでもない可能性も捨てきれない。
だが、真実がどちらであるかは、「本物」であるかどうかは、士郎にとって意味がなく、どちらでもよかった。
なぜなら、いずれにせよ彼は確かに士郎の知る衛宮切嗣であり、衛宮士郎を救った衛宮切嗣であり、理想を追い求め正義の味方となって誰かを救おうとした衛宮切嗣であるのだ。
衛宮士郎が幼き日に見たものも、そして今見たものも全て衛宮士郎自身の主観。かつての切嗣がどうであったか、今の切嗣がどういう存在であるかなど関係が無く、自らの信じたいものを信じればいい。
「俺、がんばるよ、切嗣」
士郎は扉を開き、そして、困っている誰かを救うために振り返らず進んでいく。

























Light/Night




父と子

















「あんた……沙夜の、父親なの?」
凛は磔になったままの状態で、大空洞の入り口を見据える燕穣悟郎にそう尋ねた。
振り返った燕穣の顔を改めて沙夜と比べてみたが、父娘というほど似てはいない気がした。燕穣は鋭い双眸が印象的な男前だ。沙夜とは目元が違いすぎて、顔の造形はとても似ているようには思えない。
そんな凛の疑念が見透かされていたのか、自覚があるのか、燕穣は小さく笑って言う。
「母親似なんだ。……聞けば、ずっと昔から御巫家には必ず娘が生まれ、代々母親に似るらしいがな。血が濃すぎる、というよりはもっとなにか別の要因なんだろう。実はずっと昔に「 」に触れていたのかもな。いずれにせよ、私は確かに沙夜の父親だ」
「でも、アンタ、燕穣って」
魔術師にとって、姓名というものは大事な要素だ。その人物を表すものであり、自己存在を肯定するものでもある。故に、勢力争いの末に名を奪われ、それが起因となって衰退したという魔術師の旧家の話などいくらでも聞く。
まして御巫のような1000年以上続く大家であれば、名前自体に意味が宿ってくるものだ。共通した字を受け継いでいたり、何らかの命名規則を有していても不思議ではないほどであるのに、燕穣という姓を使うとは考えづらい。
もちろん御巫の外から血を受け入れたため別姓である可能性はある。というより、実際そうなのだろう。
だが、燕穣という名は聞いたことがない。いくら貧窮していたとはいえ、御巫がそんな名も無き魔術師を、受け入れるものだろうか。
「私は、元は御巫の実験体だった」
しかし、燕穣が言ったそれは、凛の予想を完全に外れたものだった。
「実験番号XY-7041、内容は本家同水準の遺伝子技術の男性体への適用検証。両親は神隠しを装って回収した、事故死した男女……というよりは少年少女だな。父は9歳で母は8歳だった。その二人から00-00号から05-21号までを製造。性能および精神面での優位性が認められた04-56号を本家の守護方として登用。燕穣の姓を与えるものとする…………だったか」
「遺伝子技術って……御巫が?」
遺伝子技術は、優生学を尊び血の継承を重んじる魔術社会のまさに対極、科学と魔術が異なることを証明している象徴的なテクノロジー分野だ。名のある古い家ほど忌み嫌うものでもある。いくら魔術協会とほとんど関わりを持ってこなかったとはいえ、神代から続くとされる御巫だ。おいそれと覆せるほど、積み重ねてきた年月は少なくないはずである。
信じられない、という凛に、燕穣は首を振って答える。
「御巫は元々魔術師であることの矜持なんて持ち合わせてなどいなかったよ、凛嬢。少なくとも1000年以上の昔からな。だから魔術を世に広めようとして、迫害されて力を失った。だから科学の可能性に賭けた。そしてその結果、私が生まれ、伽耶が生まれ、沙夜が生まれた。我ら英霊にならんとばかりに、ことごとく才能を捩じ込まれてな」
そう言う燕穣の言葉は、過剰な自信によるものではないのだろうと凛は思った。英霊と一口に言っても色々な者達がいる。聖杯戦争で召喚されたセイバー達のような、英霊のすべてを見渡してもトップクラスの武力を持つ者もいれば、並の魔術師程度の武力しかない者もいるはずである。なぜなら英霊は人外ではなく、英雄視による神格化や恐怖による畏敬により人の身から成った人間なのだ。かの英雄王ギルガメッシュに衛宮士郎が拮抗できたように、衛宮士郎が英霊になる未来があるように、超越的ではあっても、絶対的な存在ではない。
そういったことを考えれば、確かに沙夜なら英霊になれる能力自体はあるように思える。空間跳躍のような大魔術を一小節、ともすれば数工程で行うのだ。寒気のする才能である。
「だがまぁ、実験体といっても環境自体はそれほど悪くはなかったよ。御巫は健全な肉体と精神の両立を目指していたから、投薬や肉体改造といった外法には頼らなかった。殺しの手管は叩き込まれていたが、食事や休眠は十分にあったし、何より、一緒に育った同じ実験体連中がいた。16歳になる頃には、私を残してみんな死んでしまったがな」
「どうして……?」
「当時は特に御巫を狙う者が多くてな。極東の島国とはいえ古くから続く大家、門外不出の秘術の継承付き、しかし直接戦闘能力は並以下。理由は様々だろうが、魅力的に映ったんだろう。魔術師に異能者、悪鬼悪霊や化物、中には死徒もいたが……いずれにせよそういった輩を相手に戦い続け、当時は私もそれほど空間跳躍を使えなかったしな、一度戦うたびに、誰かが死んでいく日々だった」
沙夜には話したことのない話だよ、と燕穣は言った。
「同じ実験体といっても、実験そのものは同一ではなかったから、生まれ年も見た目も性格も様々でな。それゆえ、関係性も様々だった。見知らぬ他人さながらに接する者がいると思えば、悪友のような者もいて、かと思えば兄弟姉妹として接してくれた者達もいた。……血の繋がりなどなかったが、本当の兄弟姉妹であったと今でも思っている」
燕穣悟郎はぽつぽつと、思い出すように語り続ける。
「兄上らは私に剣や魔術を教えてくれた。世俗に疎い私を毎週末連れ出し、酒の美味さや夜の街での遊び方を教えてくれた。私より色々なものを見ていたからだろうな、どこか達観した兄上らだった」
「姉上らはいつも私の面倒を見てくれていた。掃除や洗濯、そして剣の鍛錬で、皆ぼろぼろに手が荒れていたが、世話の焼ける弟だと撫でてくれた手は、いつも優しかった。怒りも叱りもするが、いつも優しい姉上らだった」
「弟達は私を兄と慕ってくれた。剣と魔術を教えてくれとよくせがまれたよ。夜の街に連れて行って初めて酒を飲み交わした日のことは、今も覚えている。上手く生き延びられていたなら、私を超える者もいただろうな」
「妹達も兄と慕ってくれた。毎朝起こしに来てくれていたが、起床時間より必ず10分早かったな。姉上らを真似て、よく私の世話をしようとしてくれていた。日常的に兄上や姉上が亡くなる日々の中、本当に強い娘達だった」
「顔も知らない者がいた。知り合う前に顔を失くしてしまっていたり、遺体すらなかった者もいた。全く現実味のない死だったが、遺影を眺めているだけで不思議と悲しかった」
「憎悪するほど険悪な仲だった者がいた。あれはもう生理的なものだったな。視界に入るだけで喧嘩の理由になった。いっそ殺してやろうと思ったが、私を守って死んでしまった。理由は今でも分からない」
「恋人だった者がいた。芯の強い、しかし可憐で優しくおとなしい娘だった。短い間だったが共に生き、最後まで生き残ったが、最後に死んでしまった。死に瀕しながら、私を孤独にしてしまうと、何度も泣いて謝っていた」
「そうして長兄が産声を上げてからわずか20余年で――同じ遺伝子プールから女の胎を通さず生まれ、共に戦った戦友でもある兄弟姉妹が58人。結局ほとんど最期を看取ってやれなんだ」
言葉を遺す時間があった者も少なかったしな、と燕穣はつぶやく。
「私が16歳になった頃、御巫は空間を隔絶する結界を完成させ、屋敷の安全が確保されるようになった。そのため守護方は不要となり、生き残った私は屋敷を出て、隠密方として一人、敵対する魔術師を殺す日々を送ることとなった。正直、この時期のことはあまり覚えていない。山積みの写真の標的を手当たり次第に斬っていった。空間転移で結界をすり抜けられる私にとって魔術師は脅威ではなく、むしろ肥えた家畜のようだったよ。素性も目的も、善人か悪人かも知らぬまま、私は血糊の乾く間もなくただ屠殺し続けた」
魔術師が不自然な失踪をしたという話は珍しい話ではないが、おそらく燕穣が行っただろう件のいくつかは、凛も思い当たるものがあった。
会ったばかりの者が翌日するりといなくなる。電話をしていた相手が突然いなくなる。振り返るといなくなっている。そんな、どこででも冗談交じりに噂される都市伝説のような事件の犯人が、燕穣だったのだろう。
たしかに結界による防御、それ以前に侵入者の察知ができないとなれば、どれほど強力な魔術師が相手であっても殺害は容易になるだろう。魔術師も人間である以上、休眠は必要となる。それを守るための結界が、役に立たないと言うのだから。
「それから10年ぐらいか、私は御巫に呼び戻され、御巫の次期当主の護衛任務に就くことになった。何故今さらと思って聞けば、次期当主が私の話を耳にして呼び戻したのだと云う。御巫の安寧のために尽くした者を、今なお下人のように扱うとはどういうつもりなのかと、本家の老人共に噛みついたとな。だが、小娘の気まぐれだと思っていた私は、老人共の望みどおり、殺したばかりの魔術師の首を持ち、着物を返り血で赤く染め、刀に血を滴らせたままの姿で現れてみせた。次期当主殿が身辺に置こうとしている者はこういう者なのだと、見せしめるためにな」
少し思うところがある記憶なのか、燕穣は一拍押し黙った。
しかし、何を感じているのかを察することはできない。沙夜の年齢を考えれば、15年以上も昔の話になるのだ。古く色褪せた、しかし忘れられない記憶というものは、妙な色合いとなってしまい、もはや本人にしか分からない。
「……だが結局、どちらが生首か分からぬほど青ざめた顔をしながらも、頑として首を振らぬため、私は希望通り護衛方の任に就くこととなった。……私は10年振りに屋敷に立ち入ることが許されることとなったが、屋敷はずい分と様変わりしていた。かつて兄弟姉妹と共に住んでいた離れは跡形もなく消え去り、剣の鍛錬で兄弟と踏みならした広場も、洗濯や水汲みで姉妹が通った小川への道も、草木が茂って立ち入ることも難しいほどだった。だが、ただひとつ、兄弟姉妹の墓だけは打ち壊されず、むしろ私が去る前より綺麗にされて残っていた」
「墓の前には、泣いている娘がいた。次期当主殿には生首は恐ろしかったかと問えば、私に何も報いることができないことが申し訳なくて泣いているのだと云う。10年も屋敷に近づくことさえ許されなかった私を、わずかでも兄弟姉妹の生きた残痕が残るこの屋敷に帰らせることが唯一できることだと思っていたのに、長い孤独は私からそのような郷愁さえ奪ってしまったのだろう。それが、この墓で眠る者達に申し訳ないのだと」
「ただ一人だけ兄弟姉妹の墓に手を合わせ、泣いてくれさえもする彼女を見て、私は自分が愚かだったと知った。かつて恋人でもあった妹が、死の間際に私が孤独になると泣いた理由をようやく知った。私は、ただ人を斬って生き延びてきた生き方をやめ、この娘の幸福な人生のために生きて、そして死のうと思った。それこそが、私が兄弟姉妹のもとへ逝くことなく、生き続けることができた理由なのだろうと」
燕穣は、とても穏やかな表情をしていた。
「そんな私に、伽耶は幸福を与えてくれた。……本当に、他人をこれほど愛しいと思えるとは思わなかった。それまでの何にも代えられないと……心の底から思ったよ。殺しに明け暮れていた殺人兵士だった私の、出会わなければどこぞで野垂れ死んでいただろう私の人生を救ってくれた。……私は孤独だったのだと教えてくれた。穏やかな暮らしの中で共に生きる、そんな当たり前のことを教えてくれた。そして私のような愚かな男を受け入れ、沙夜を産んでくれて……生まれたばかりの小さな沙夜が、小さな手で私の指を握ってくれて…………30年近くもの間築きあげてきた価値観が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。伽耶は私に幸福を与えてくれて、そして私はもう、孤独ではないのだと…………老いて白髪の抜け落ちるまで、生涯を共にしたかった」
誰ともなく語る燕穣の言葉は、理解を求めるような語調ではなく、行動の記録のような、あるいはどこか遺言のようなものであるように聞こえた。
「私は、伽耶を諦めたくはなかった。沙夜のことがあるとしても、それは言い繕いようのない本音だよ」
御巫の屋敷の地下、ドーム一つがすっぽり入るような大空洞の中で、燕穣は少し自嘲気味にそう言いながら、感情を押し殺すような素振りなく話を続ける。
「だが、それでも、沙夜がいるのならば、いいのではないかと思った。伽耶の忘れ形見の、可愛い愛娘だ。伽耶ほど上手くはできなくとも、精一杯育てようと…………沙夜はもう、あの名もなき魔眼を通して見える世界を、誰にも理解されなくてもやっていけるだけの成長はしていたんだ。伽耶のおかげで。……だから、伽耶を生き返らせるための努力をするよりは、目の前で母を亡くし、心に大きな傷を負った沙夜を癒す方が、論理的にも感情的にも正しいのだと思っていた」
「……なら、どうして」
「…………それをしている場合ではなくなった」
凛にそう答えながら、燕穣は地に突き刺していた刀を引き抜き、軽く振って握りを改めた。それはまるで派手さのない単なる一振りだったが、セイバーの目ですら捉え切れない動作があった。
振れば身体ひとつで常人では見えもしない達人の刀の軌跡。奥義ともいうべき最適化された身のこなしが、魔術による強化が行われればどれほどのものになるのか知れない。
この時代、この英国にあって和装で日本刀という姿は浮世めいているが、伊達や酔狂などとはとても言うことはできなかった。
「例えばだ、凛嬢。…………この私でさえ、1000m程度の距離であれば、あらゆる結界を抜いて君の部屋に煙草一つくらいは転移させられる。するとどうだ、半刻も経つ頃には部屋は焼けただれ、君の研究成果の大半を駄目できるだろうな。……それを私とは比較にならないほど遠くから、正確に、大質量を転移出来るのが沙夜だ」
燕穣が言っているのは、凛自身もかつて言ったことだ。
しかし、正直それほどまでとは思っていなかった。それなりに準備が必要で、かつ設置型のトラップでもなければ距離も質量も大したものではないと思っていた。誰かを標的にしようものなら、十分に勘づけるようなものであるものと。
「君も分かっているはずだ。どれほどの施設も資材も時間も必要とせず、たった人間一人で行われる転移魔術。それが他者によって振るわれる場合、どうなるのか」
魔術師がもっとも恐れるのは、自らの命、そしてそれまで積み重ねてきた研究成果を奪取または破壊されることだ。それら脅威に対抗するための手段が結界であるが、ここにおいて御巫沙夜の力は、いついかなる時でも即座に対象を破壊・絶命せしめることができる防衛不可能なピンポイント爆撃能力である。
つまり、御巫沙夜の前では結界が機能しない。否、核シェルターであろうと肉の壁であろうと、あらゆる障壁が機能しない。それはきっと、あらゆる組織・個人が渇望する、圧倒的な政治的優位性を与える夢の兵器の現実化。
――つまるところ、そういうことなのだろう。おそらく御巫沙夜は、燕穣悟郎とは異なり『近づかない』という誓約さえ意味を成さないような転移距離、それこそ地球上どこにいても誰かが対象になりうるような超長距離転移の実現を、誰かに知られてしまったのだ。そして、その能力により得られる強権を欲した者に組織レベルで追われようとしている。
そう、個人ではなく組織。これが非常にまずい。殺せばよいという個人間の闘争では終わらない。ましてその組織に公共性があった場合――たとえば魔術協会のような――その組織を潰せばよいという話にもできない。立ち向かう、という選択肢は完全に消滅する。
「…………」
言葉を失った凛を見かねてか、セイバーが口を挟んで言った。
「燕穣、貴方はそれを回避しようと?」
「いいや。そもそも目前の脅威を回避できたとて、またいつか他の誰かに狙われ続ける。いつまでもそんな輩をすべて退けられる保証はない」
そう言った燕穣は、おそらくは沙夜を守るために、ずっと敵を殺し続けてきたのだろう。10年の孤独を経てようやく幸福を得てからも、その幸福を守るために、沙夜が生まれる前から、ずっと長く。
燕穣には疲れたという素振りはない。ただ、自身の妻であり沙夜の母である伽夜の死と、御巫の家の滅亡を契機として、沙夜の転移魔術を狙うものすべてから守り続けることは不可能だと至った。
「ゆえに、端的に言えば、私の目的は単にそれら脅威からの逃亡だ。しかし、その為にはどうしても伽耶の力が必要となる」
「それは不可解です。ただ逃れるのならば、沙夜の魔術に勝るものはないでしょう。貴方の奥方を蘇らせずとも、彼女ならどこへでも」
「普通の娘らしい人生を考えなければな」
そこで、今度はセイバーが言葉を失った。
「……貴方は」
「この屋敷の結界とて、万難を排するものではない。死祖のような者が出てくれば破られうる。それにこの時代、一度狙われたならばどこに逃げても変わりはしない。人は既にあらゆる地を踏破し、天から目を行き渡らせ、情報は一瞬で世界を駆け巡る。であれば、ただひたすら人と関わらず生きていくしか道はない。……沙夜にそんな人生を送らせるなど、私は許容できない」
「…………っ」
凛は今度こそ絶句する。魔術師にとって、子とは己の魔術を受け継がせる弟子である。優秀であることが求められ、何より魔術師らしく魔術を研鑽することが求められる。
しかし燕穣は、まるで魔術師らしくない、ある種一般的とも言える父親の心情で動いているのだ。そこには魔術をどうこうという考えは一切無い。極めて単純に沙夜の身を案じ、沙夜の人生を祈っているに過ぎない。
「御巫という生まれゆえに、魔術は伽耶が、剣は私が教えたが、本当はただ普通の娘として育てたかったよ。それに、どうも御巫の娘は色恋の才能がない上に男の趣味が偏ってしまっていていけない。だから沙夜には普通の学校に通い、仲の良い友人と過ごし、人助けだの人殺しだのをしている年上の男などではなく、喧嘩の一つもしたことがなくとも、幸福な一生を共に過ごせるような平和な男を見つけてほしい。そしてできれば、剣も魔術を使うことなく生きて、ありきたりな幸せを求めてほしい」
凛は、いま自分の目の前にいる男は本当に魔術師なのかと、そう疑わざるをえなかった。凛は自分の父の遺した最後の言葉で、魔術師になることを決めた。父もそれを望んでいたはずだし、そうなるよう育てていたはずだ。それは間違いないし、魔術師というのはそういうものだ。連綿と続く研究の果てにある『 』に辿り着こうとするのが魔術師であり、そのために何世代にも渡って魔術刻印という形で継承を続けるのが魔術師であり、そうでなければ魔術師ではないのだから。
しかし、燕穣は魔術を、剣すらも捨てることを願っている。チートのような手段でチートのような才能を得て、なのにそれを放棄しろと言っている。
頭痛がするほど理解ができない。見つかってたった100年ぽっちの遺伝子技術で、しかも科学の力を使ってまで辿り着こうとしている御巫の魔法が、娘が幸福になる為だと言うのはどんな皮肉なのだろう。
そしてようやく理解ができた。
沙夜が魔術師らしくない理由はどう考えても両親のせいだ。沙夜が燕穣と敵対するのに二の足を踏んで、その結果こうなった理由はどう考えても燕穣のせいだ。沙夜はどう考えても心底愛されて育っている。かつては燕穣と仲睦まじく暮らしていた風景が容易に想像できる。沙夜が未だに燕穣と一緒に暮らすことを夢見ていることも簡単に理解できる。
幾千幾万もの魔術師がどれほど望んでも得られない才能と、それを得るために投げ捨ててきた慈愛に満ちた平和な家庭、その両方をなぜ御巫は得ているのかと疑問を叫ばずにはいられない。
「…………フフッ」
燕穣は小さく笑ってから、流麗な流し目をアキトに目を向ける。
「恥ずかしながら、これが今回の件に関する私の全てだ。これでいいのかな、テンカワアキト君」
「……ああ。それで、いい」
燕穣に自身が沙夜の父親であることを言わせるような言動を取っていたアキトは、不満気なく頷く。
それが燕穣にとっては理解しがたいものであったのか、終始達観した様相を見せていた燕穣は訝しげに尋ねた。
「私に迷うことを期待しているのか?」
「いいや。……迷ったのか?」
「どうだろうな…………少し、気が晴れたような感もある。なかなか掴めない男だよ、君は」
燕穣は少し困ったように肩をすくめ、しかし愉快そうにからからと笑った。そしてそれにつられたのか、アキトも口元を緩ませる。
それは、セイバーにとって少なからず意外なことだった。
「――――……」
テンカワアキトという人物は、もっと危うい精神の持ち主だと思っていたのだ。復讐の相手を失えばその矛先を変えていき、やがては世界そのものを呪うような人間だと思っていた。事実、セイバーが戦乱の時代に幾人も見てきた復讐鬼達の中で、復讐を終えてもなお猛る者達は一様にそうであったし、そしておそらく復讐を終えたはずの彼の眼にも、未だ消えることのない鋭い光があった。過去に戻れば復讐を繰り返すとの言葉もあった。
だが、彼の眼からは燕穣を呪うような感情は一度も見出せなかった。それどころか、まるでどこか古いの友人のようだ。刀で胴体を大きく斬られたというのに、今こうして拘束の身であるというのに、一体彼は燕穣に何を見出したというのだろう。
「――――……」
おそらくは。彼は燕穣がただの狂信者ではなく、正誤の葛藤というプロセスを経て意思決定を、選択を行ったことを確認したかったのだろう。燕穣の出した結論そのものをどう思っているかは分からないが、先程のやりとりの中で彼はそれを確認したのだ。
(俺と君とは違う)
(私とでは少し似ているのかな)
そして彼が自身に、燕穣が彼に発した言葉は、正しかったのだ。
片や復讐の繰り返しを宣言し、片や娘の為でありながら自分の選択だと論じた。彼らは正誤の葛藤というプロセスを経て、意思決定を行い、そして選択したことを、選択した内容を否定しない。
そして自身は、聖杯を望んでまで選択の取り止めを願っている。
(私は、一体――……)
セイバーの中で、迷いが加速していく。
何百何千万という国民を率いた王と、たった一人の為にと動く彼らは決して同列ではない。そしてそのことと、燕穣のために自身を捧げることにそもそも何の因果もない。
しかし聖杯に願う機会を逸して、さらにその願いそのものに疑念を抱きながら、あてどもなく現世に留まり続ける身であることに平静でもいられない。
(……私はこの現世で、これ以上何をしようというのだろう……)
「セイバー」
かすれ気味の声に、セイバーは知らず俯けていた顔を上げる。闇の中にあっては業火のような威容を放ち、闇が払われ光が灯ったならばその光に消え入りそうな、存在の危うい黒衣の男が、セイバーをまっすぐと見据えていた。
彼は言葉を発しない。セイバーの抱えるものが1000年物の年季入りの問題だとは知らないだろうが、言葉ひとつでどうにかなるものではないことを、彼は理解しているのだろう。
いや、そういう理屈ではどうともならないもの、というものを彼は既に知っているのだ。
――テンカワアキトという男は、自らの行いを肯定しなかったが。しかし、否定もしなかった。
燕穣悟郎を肯定しなかったが、否定もしなかった。
彼が問うたのは選択の是非ではなく、その選択を行ったのだという意思表示だ。
(――……ああ)
セイバーは表情には出さず、内心自嘲する。
何を今さら、士郎だって、そうだったのだ。士郎はセイバーの選択を否定したが――それはセイバーが選んできた選択を無かったことにするということであるがゆえだ。士郎はセイバーことアーサー王が選択して進んできた道程を祝福していたのだ。
ここにきてようやく、セイバーは燕穣悟郎とテンカワアキト、そして衛宮士郎がセイバーに対して放った言葉を真に理解できた気がした。もちろん、だからといって『この選択』を取り下げるまでに至るものではないが、これまで『この選択』を否定してきた者は、むしろアーサー王を肯定しているがゆえなのだというのは、幸福なことなのだろう。
……しかし、まったく、アーサー王という人物は、これほどまでにたやすく揺らぐような人間だっただろうか。あるいはその揺らぎのない堅固さが仇となったのかもしれないが、今はそのことを考えるべきではないだろう。
「燕穣悟郎」
セイバーが名を呼ぶ。すると、迎撃に備えるため刀を抜いていたと思えた燕穣は、何ともなく振り返り、セイバーを真正面に見据えた。
「なんだろうか」
まっすぐと相対する様からは、セイバーが数多目にしてきた諸王とは異なる力強さがあった。
否。これは実にありきたりなものだ。戦乱の世の中で民を守る精錬潔癖な王として生きたあまり、ついぞ理解しえなかったもの。方向性こそ違うが、遠坂凛も、テンカワアキトも、燕穣悟郎も、アーサー王の時代の民の誰しも持っていた、ありきたりな人としての強さ。
「燕穣。貴方の主張通り、確かに聖杯を得るという目的を失った私は、この時代で2度目の生を享受しているようなもの。そしてこの生を諦めたところで、私はまだ死すこともありません」
燕穣は静かに、真摯な態度で聞いていた。どこかセイバーに一定の敬意を抱いているように思えた。
「しかし、私がこの生を諦めるということは、私の自殺に他ならない。…………実はその是非は、ある人物と既に数年に渡って係争中なのです」
それを聞いて、燕穣は少し残念そうに、どこか嬉しそうに笑った。
「……成程。では、私ではなくその人物との決着を先につけるのが筋というもの。最終的な貴女の選択がなんであれ、いま貴女が私に答えるのは不義か」
燕穣は、やれやれと額に手を当てる。
「貴女を口説き落とせたならと期待をしたが、さすがにそこまで上手くは回らないか」
しかしその様子には、多少の焦燥も見られない。セイバーの拒絶も織り込み済みで、その上でこの時間跳躍の成功を確信しているかのようだった。
それが、凛には不思議に思えてならなかった。いくら古い昔からその技術と知識を伝えてきたとはいえ、結局御巫は一度も時間跳躍を成功させていないはずなのだ。まして、今やろうとしているのは機械を組み込んだ超変則術式、そもそも発動するかどうかさえ疑問に感じる。
しかし燕穣は、決して愚かしい盲信をしているようには思えない。言動は常に冷静であり、狂気は感じられず、人間性は失われていない。彼自身、呆れるほど高度な空間跳躍の使い手でもある。沙夜の父親だというのなら時間跳躍の知識もあるはずだ。
(…………それに)
今の話からすると、燕穣は沙夜のために動いているということになる。もちろんすべて鵜呑みにするわけにはいかないが、この期に及んで嘘八百であるとも思えない。そもそも嘘をつく必要もない。
であるならば、沙夜の行動の理由が分からなくなってくる。
人間が人間の行動を阻害するのは、自身に何らかの不利益が生じるのを回避するためだ。肉体的に、精神的に、経済的に、社会的に、あるいは他の何かの不利益。
例えば、見ず知らずの他人が食事するのを止める者はいない。しかしそれが自身の食料であったならその限りではない。
例えば、親しい友人が結婚するのを止める者はいない。しかしその相手が悪女であったなら、自身の良心ゆえに、その限りではない。
それならば、燕穣の行動により生じる沙夜の不利益とは一体何があるのだろうか。
明日の日の出により出る結果としては、セイバーの損失、次いで可能性として遠坂凛の損失。そして可能性として沙夜の母親の蘇生。そこから波及する、平穏に暮らせる環境の獲得。そのはずだ。
その、沙夜にとっての重大なメリットを台無しにしてまで、何の不利益があるというのだろう。どれほど好意的に解釈しても、御巫沙夜にとって遠坂凛は人情を得られるほどの間柄ではないし、まして魔術師として考えるならば、経済大国の街中で貧困国で子どもが死んでいるといった広告を見かける程度のものである。気まぐれに助けることはあっても、自身の幸福を捨ててまでのことなんてありえない。
(そうまでして沙夜に何のメリットが…………)
ふと、凛の妙な既視感が湧く。いつか、どこかで、感じたような。否、つい最近、あるいは日常的に、すぐ身近に感じたような。
「さて」
燕穣の言葉で、既視感の正体に辿り着きそうだった凛は我に返る。
「久々に腹芸なしに楽しめた時間だったが、おしゃべりはここまでのようだ」
言葉を切った燕穣につられて、凛は空洞の奥へと視線を移した。薄暗く、水脈が近くを通っているのか水が滴り落ちる空洞の入り口、石灯籠に照らされた階段を、着物を着た誰かが降りてくるのが見えた。裾からのぞく、遠目に見ても分かるほど細い脚。骨と筋肉そのものが未成熟であるがゆえの、幼年特有の細い脚。
それが沙夜であると気づくのと、燕穣から耳障りな金属音が響いたのはほとんど同時だった。
「――――!」
そして、沙夜が階段からいなくなっていると気づいたのは、沙夜が燕穣に斬りかかり、それを燕穣が刀でいなしたのを見た後だった。
「もしやこの期に及んでなお、うだうだと世迷言を言いだすのではとも思ったが」
燕穣の言葉に続いてさらに金属音が続く。音を頼りに目を向けると、燕穣からはるかに離れた場所で機械に刀を振り下ろそうとする沙夜の刃が、不可視の壁のようなものに阻まれていた。魔術による障壁とは異なる、空間自体が歪曲したような強力な障壁。それが何かを考える暇もなく、沙夜のすぐそばに燕穣が現れる。
気づけば燕穣の刃は横薙ぎに振り抜かれていて、沙夜はそれを避けつつ逆袈裟に斬り上げて、燕穣はそれを身をひねって回避していた。ただしそれは二人の体勢を見た凛の推測。それで正しいのかは分からなかい。それ以外にもあったのかは分からない。
まるでコマ送りで再生されているようだ。まばたきもしていないのに動いている最中が視界から欠落していて、一瞬一瞬の静止した瞬間しか見えない。それさえも数拍分も纏まってしまっているから、動作の繋がりが認識できず脳が混乱してしまっている。
ただ分かったのは、この二人はある一定以上の距離は空間跳躍で移動しており、一定以下の距離では身体機能による移動を行っているということだった。
「ィヤァッ!」
「リャァッ!」
空洞内のあちこちから移ろい響く、幼さと気合を含んだ高い声。そして威勢を含んだ低い声。かすれるような耳障りな金属音、火花の散る音、打ち合う剣戟の音、岩の崩れる音、風切り音。
遠くかと思えば目の前に現れる。
「キァッ!」
燕穣の出現に続いて沙夜が現れ、剣を振るう。それを半歩引いて回避した燕穣は、いつの間に頭上に迫っていた人間ひとり潰せるような大岩に刃を振り抜く。刀身より大きいはずの大岩は、大理石のテーブルのように綺麗に切り裂かれ、燕穣を避けて落ちていく。そしてその片割れが地面に着くかというところで、その下を這うような低さでくぐり抜けた沙夜が飛び跳ねるかのように斬り上げ、しかし燕穣に剣先を弾かれる。そこで、瞬きもしないのに二人の姿は消え、岩が落着して砕ける音だけが虚しく響いた。
まるで違いが分からないが、斬り合える間合い内では空間跳躍より剣閃の方が一瞬速いらしい二人の剣闘は、セイバー達英霊とは異なる意味で、凛には次元の違う戦いのように思えた。
「まさか、この時代にこれほどの剣士が…………」
そして当の英霊であるセイバーにとっても、心に響くようなレベルの戦いであるようだった。
そもそも西洋の剣技とはまったく趣向が異なっているのが見ものだった。二人は基本的に真正面から刃で受け止めることをあまりしない。岩を両断できるほどの切れ味と頑健さをもつ業物を持ち、沙夜に対して圧倒的に膂力が優位にある燕穣さえ打ち合いをせず、回避することを第一とし、それが困難であれば逸らし払おうとする。身体能力ではなく身のこなしと剣の扱いに優れていなければ不可能な戦術だ。空間跳躍という絶対的な回避手段がありながらそういった技術を練り上げているということに、素直に感嘆する。
(…………あるいは)
セイバーの脳裏に、月を背負った長刀の剣士の姿がよぎる。聖杯戦争で柳洞寺の山門で戦った、佐々木小次郎という名の剣士も、本来はこういった剣技を主としていたのだろうか。彼が最期に見せた、一瞬のうちに三閃を繰り出す技。ただの剣閃をして宝具の域まで達したあれこそが、斬ることを主眼とした刀で宝具との打ち合いを余儀なくされた、彼の本来の姿を象徴していたのではないだろうか。
もちろん、その解答はいまや得られない。だが少なくとも、彼に不満はなかったはずだった。そして、セイバー自身にも。
「キァッ!」
しかし、広い地下空洞の中で散発的に響く威声を聞くうちに、セイバーの胸の内に、一剣士としての戦意が沸々と沸き上がってくる。凛や士郎、そしてあの二人にも申し訳ないが、あの場に混ざって存分に剣を振るってみたいという気持ちが溢れてくる。辛辣な人生を経て円熟した剣技と、才能に満ち溢れた幼い剣技。それらが如何ほどのものか、是非ともこの身で受けてみたい。それが叶わぬのなら、せめてもう少しの間、この剣技を見ていたい。
(ですが…………)
セイバーの見立てでは、そう長く続く戦いではない。表面上は拮抗しているが、実質的には圧倒的な差がある。
そろそろ終わりだろう。才能が、違いすぎる。
「う……ぐっ!」
腹から空気が洩れ出たような、くぐもった声が響く。
燕穣の放った蹴りが、沙夜の脇腹を打ち、沙夜の芯を折るかのようにひん曲げる。勢いそのままに打ち抜かれた沙夜は衝撃計測に使われる人形のように、何度も回転しながら地面を転がり、燕穣が両断した大岩に背を打ち付けてようやく止まった。
「く……っあ」
あまりにも体格差の異なる、鋼鉄のように鍛錬された男性からの蹴撃は、年齢以上に未成熟な沙夜の身体機能を奪うには十分だった。必死に立とうとするが、身体中が軋んでしまっているかのようにガグガクと麻痺している。
肋骨の数本が骨折かヒビ、そしてそれ以上に内臓系へのダメージが大きい。もはや、短時間での回復は見込めなかった。
「仕舞いだ、沙夜。……傷ひとつ付けられず、か。やはり才能というものは大きいな」
そう言い放つ燕穣に、沙夜は息絶え絶えになりながらも睨みつける。
「ッ…………ま、だ」
沙夜は震える体のまま、必死に立ち上がろうとする。しかし、立ち上がるまでで精一杯だろうとセイバーは思う。
成程、沙夜は確かに剣の才能は優れている。あの年齢でこれほどの剣技を身に付け、なお才能に翳りも見られない。このまま順当に鍛錬を積めば相当な域に達することだろう。時代が時代なら英霊ともなれるような才能があると思える。
しかし、これから何年の研鑽を積もうと、それにより燕穣が年老いようと、それでも燕穣には敵わないだろう。
「く、うっ…………」
沙夜には剣士の、人斬りの才能が致命的に欠損している。つまるところ、脇腹が空いていれば条件反射的に躊躇なく斬り捨てられることが剣士としての才能であるが、沙夜にはそれができない。迷う。考える。そうこうしている間に斬る間を逃す。有意識下では斬る意思を宿しているが、無意識下では全力で斬ることを回避しようとしている。
珍しいことではない。むしろ、何の抵抗もなく人斬りができる人間の方が圧倒的に少ない。実際、戦場においては往々にして剣術の才能に乏しくても剣士の才能がある者が武功を挙げるものだ。その点で言えば、あれほど愛娘の未来を案じていながら、その愛娘を容赦なく傷つけられる燕穣は剣士としての才能は沙夜の比ではない。そして、素人同士の戦いではない以上、そこに偶然なんてありはしない。
燕穣の方が、強い。
「わたしはっ…………まだっ……」
なんとか沙夜は立ち上がるが、もはや戦える状態にあるようには見えなかった。一度身体の自由を失った沙夜の無意識は、身体の制御を沙夜の意識に明け渡しはしないだろう。
「沙夜! アンタもうやめなさい!」
このまま進んだ先の予想図が見えたのか、凛は声高に叫んだ。
「なんで私達を助けようとしているのかは知らないけど! アンタ、燕穣と敵対する理由なんてないじゃない。自分で言うのもなんだけど、燕穣がやろうとしていることはアンタの不利益にはならない。アンタには私達を助ける理由なんて、どこにもない」
それに、と凛は絞りだすように言った。
「燕穣はアンタの、お父さんなんでしょ」
「…………」
しかし沙夜は、頼りなげな身体を刀で支えたまま、動こうとしない。柄をぎゅっと握りしめたまま、俯いたままだ。
やはり、なぜそうまでして退こうとしないのか、凛には分からなかった。燕穣のやろうとしていることのどこに、沙夜の不利益があるというのだろう。母親が蘇生できる可能性を捨て、自分が平穏に暮らせる未来を捨ててまで、沙夜が得られるものとは何があるのだろうか。
そもそも沙夜のこれまでの行動もよくわからない。沙夜が燕穣に反対して袂を分かったのがいつ頃なのかは分からないが、少なくとも実際の行動として、沙夜は士郎と接触し、あの青い石の修復を士郎に依頼した。つまり、燕穣が今回行おうとしている事とは別の方策を検討していたと考えるのが妥当だろう。
つまり、沙夜は沙夜で時間転移の実現を目指していたはずだ。
つまり、沙夜にだって何らかの達成したい目的があったはずなのだ。
「…………」
凛は、沈黙を守っているテンカワアキトを見やる。もしやこの男に原因があるのかとも思ったが、違うと思い至った。テンカワアキト自身が燕穣と同じように、沙夜を苦々しい目で見ていた。
「なにか知ってるの」
凛が漠然とそう尋ねると、アキトは少し逡巡してから答える。
「知ってはいるが、俺の口からは言えない」
「アンタね、そんなこと言ってられる状況じゃ――」
「いや、それもやむ無しだろう、凛嬢」
食って掛かる凛をたしなめるように、燕穣は言った。
「本来沙夜の口から言わねばならない事柄でもあるし、そうでなくても我々のような部類が口にするのは少々憚られるものでもあるしな」
同感であるのか、テンカワアキトは苦々しいため息をついた。
それを聞いて凛はますます分からなくなる。テンカワアキトや燕穣悟郎のような人間が口にできないとは、どういうことだろうか。いっそこの二人なら何を口にしても不思議はないとさえ思えるが、何が躊躇われるというのだろう。
困惑していると、燕穣はすこし落ち着かなさげに胸元をまさぐり、煙草らしき白棒を一本取り出した。
「まぁ、この場であるから言うが、まぁつまり」
燕穣はそう言って、取り出した煙草に火をつける。
「早い話が」
そして一服した後、不味そうな言った。
「好いた男の身内が傷つけられるのが、嫌だと」
「は……?」
凛は目を丸くする。
それはあまりに直球というか、魔術師としては甘い凛でさえちょっと無いような、夢見頃なお嬢さんの理不尽というかである。
「そんな、理由……?」
「もっと言ってやってくれ」
燕穣は肩を竦めながら、呆れた様子で言う。咥えた煙草は普通の煙草ではなく香の類なのか、不思議な匂いのする煙だった。
「おかしな娘だろう? 知らぬ存ぜぬで放っておけば、士郎君のそばからアルトリア嬢と君がいなくなるかもしれないというのにだ。当時沙夜の顔も名も知らなかった士郎君が悲しむようなことは嫌だと言う。そのために自分の未来を棒に振っても良いと言う」
「それの…………なにが、いけないの」
刀を支えに、刀の柄を抱くようにして立つ沙夜は、囁くような声で叫んだ。
「親しくしていただける方が……不幸に見舞われないことを祈ることが、どうしていけないの」
「どうしてもなにも、前提からして駄目だな」
燕穣は、沙夜がそう出すことを分かっていたのか、間隙無く言った。
「百歩譲って、自分の幸福を逃すのを良しとするのは許容範囲だ。一般的に、例えば恋愛などでは普通に古典物だしな。しかし」
燕穣は指で挟んだ煙草を握りつぶしかけながら、苛立たしげに続ける。
「自分の将来が閉ざされてしまってもいいというのは、やってはいけないことだ。それをやっていいのはお前一人が誰とも知られず死んでいくだとか、自分の命に代えてもよいものがあった場合だけだ。お前にとってこの二人はそれに値するのか?」
「…………」
沙夜は答えない。否、答えられるはずもなかった。
まるで叱られている子どものように、うつむき、きゅっと刀の柄を握っている。
「『お前達』はいつもそうだ。自分がそうすることで誰かが不幸にならなければ、そうするべきだと思っている。誰かが幸福になれば自分も幸福だなどと思ってもいないのに、それを望んでやろうとする。自分の行動の不合理さを認識していながら、それが正しいことだと信じて省みようとしない。何度も何度も報われるどころか悲惨な目にあっても、それを止めようとしない」
ついに煙草を握り潰して、燕穣は怒声を放ち続ける。
「『お前達』は1000年前からずっと同じ結末を目指して歩んでいるだけだ。沙夜に伽夜、それに伽夜の母君にご祖母。そして私のし…………いや」
娘の沙夜に話すつもりはないのか、燕穣は姉妹達と言いかけたらしい言葉をせき止める。
「……御巫の血に連なる女は、誰も彼もがそんな調子だ。誰も彼もが、誰かの幸福を祈って止まず、そして誰も彼もが、自分の幸福を二の次三の次にして、結果、自分という不幸を生み出して救いきれない結末を迎える」
「そんなことない!」
痛みが残っているのか、かすれ気味の声で沙夜は叫んだ。
「そんなこと、ない…………母様だってそんな……わたしは幸せだって。…………幸せになれたって」
「その幸福を得られたのが御巫伽耶なら、その幸福を奪ったのも御巫だ。御巫はお前と伽耶を犠牲に、お前という平行世界の門を完成させることを優先した。そしてお前はその思想に殉じて、今や完成まで後一歩のところだ」
「ち、ちが……う。わたしは、ただ……!」
燕穣は潰れた煙草を投げ捨てる。
「気づいていながら事が起きるのを防げなかった私ではあるがな、私の娘であるがゆえに言わせてもらう。『お前』には自分本位に幸福になろうという考えが決定的に不足している」
「そんなこと――――!」
「ならば何故ここに来た!?」
びくり、と沙夜は身体を震わせる。
常日頃から落ち着いた父親像が沙夜の中にあったのか、怯えが瞳の中に見え隠れしている。
「ならば、何故ここに来た。何故お前と衛宮士郎だけを残したのか、分からなかった訳ではないだろう。 ……お前が本当に自分本位に幸福を求められると、そう言える人間であるなら、今お前はここには来ていない。きっと今頃こんな地下洞穴の中ではなく、空調の効いた部屋で恋焦がれた相手と睦まじく過ごすことができ、夜が明ければ邪魔者となる女は排除され、あるいは母すら生き返る。お前にとってそれが一番不利益を受けず、そして利益を得る選択だった。――――だがお前は、こうして自分の不利益になる選択を取った」
「だっ……て。だって……」
「成程、恋焦がれた者の為と。……それで? 私を止めて、お前はどうするというんだ沙夜。母は生き返らない。恋焦がれた相手は手に入らない。友人の一人どころか、人間と接触する機会すらほとんど得られぬまま、一生涯を脅迫の道具として終わらせたいのか? それとも逃亡生活をするのか? 私は付き合わんぞ。これまで通り、お前の平穏を得られる方法を模索することを優先する。生きていればいつか幸せに、などというのはほんの一部でも人間との繋がりを維持していられるものだけだ。人間の全くいない場所で、何の種類であれ幸福など得られるものか」
それは、燕穣自身の内から生じた言葉でもある。10年もの間、孤独に人斬りを続けていた燕穣すら、御巫という人間社会との繋がりがあった。それゆえに御巫伽耶という伴侶を得る機会があった。それがなくても、人斬りという内容上、人と接する機会はあったため、いつか同様の機会を得る可能性はあったはずだ。
しかし、そもそも間接的にさえ人間と接触しないとその機会そのものが存在しなくなる。人間の幸福とは、本能と理性の両面から生じるものであるが、人間の生態上いずれも人間との接触を必要とする。直接的皮膚的な接触にせよ、電子的や紙面的な関節接触にせよ、なんらかの反応ありきである。
「これが最後だ、沙夜」
燕穣は刀を握ったままつかつかと歩み寄り、沙夜の小さな胸元に刀を突きつける。
「選べ沙夜。ここがお前の人生における一つの分水嶺だ。選ばないなんてことは出来ない。立ち向かうことも、別の道を探すことも、逃げることも、何もしないとことも、強制されることも、全て選択の一つだ。お前の魔眼ですら選択の先の流れなど見えはしないし、たとえ何を選択しても全て同じ結果に帰結してしまうとしても、選ばないなんてことは出来ない」
もはや着物の繊維に切っ先が触れるほど近く、燕穣は刀を突きつける。
「さぁ。お前はどうしたいんだ?」
「わ、わたしは……」




ーーー―ふと。沙夜の脳裏に、いつか見た平行世界の自分の姿がよぎる。
父と母と共に暮らしていて、衛宮士郎がいて、手をつないで一緒に日向を歩き、夜道を歩く、そんな平穏で、心躍る世界。
もはや決して叶いはしないだろうと思った、夢のような世界。

無い物ねだりをしてはいけない。
それは分かっている。
そもそも、今思えばあれは平行世界の自分ではなく、ただの夢だったのかもしれない。
思い描くこともできず形にもなっていなかった、自分の幸福を現した一夜限りの夢。

…………分かってはいる。
違うのだ。それは、ただの夢ではない。実現できる、夢なのだ。
今、御巫沙夜はじきに世界中の魔術師から追われるだろう身であり、父はそれをなんとかするため奔走していて、母は亡く、恋慕った相手のそばには既にに素敵な女性がいる。
それをすべて、どうにかできる。
わたしの『魔法』を完成しさえすれば。

魔法が完成すれば、きっと追われることはなくなる。
魔術なんて発見されていなくて、空間転移が一般化さえしている並行世界軸の未来へと行けばいいのだから。
……そう、時間転移はそもそも平行世界の運営の一端。母様の声帯移植で可能になった『真言』も、声による指定で瞬間的に門を開いて、平行世界の事象を取り込む魔術。今はまだ魔法が未完成だから制約はあるし、それなりに魔力は必要とするけれど、原理的には実現できる現象に不可能なんて存在しない。
だから、魔法さえ完成すれば、追われることなく平穏に暮らせる世界にだって行ける。
魔法さえ完成すれば、父様はまたわたしと一緒に暮らしてくれる。
魔法さえ完成すれば、母様だって魔法で蘇生して、また三人で暮らすことが出来る。
魔法さえ完成すれば、魔法さえ完成すれば、士郎様に振り向いてもらうことだって。一緒に、知らない世界に来てくれることだって。
ずっと一緒に生きていくことだって…………

 


――――誰かを犠牲に、魔法さえ、完成すれば。

 


「できない…………」
沙夜は小さく首を振る。その拍子に、つと溜め込んでいたものが頬を伝う。
「わ、わたし…………わたしだって、幸せになりたい。母様みたいに、幸せだって、笑って言えるように、なりたい、でも」
震える声と肩のまま、沙夜は続ける。
「でも、できない…………むりだよ。どうしても、そうしようと思ってみても…………わ、わたしには、で、できな」
しゃくり声を上げながら、沙夜は続ける。
そもそもで言えば、現時点であっても限定的な並行世界運営魔術である真言を使えば、普通の肉体を持つ人間の操作なんて造作も無かった。
その気になれば、衛宮士郎の記憶を改竄することもできた。衛宮士郎の気持ちを御巫沙夜に向けることもできた。
遠坂凛とセイバーという人物がいなくなった原因を、衛宮士郎の中から消失させ、その隙間に入り込めばよかった。
そして魔法が完成した暁には、二人を蘇生させ、その上で改めて衛宮士郎の気持ちを御巫沙夜に向ければよかった。
あるいは、魔法の完成までずっと眠らせておいてもいい。
そうすれば結果として、衛宮士郎の中に不幸は生じない。誰も犠牲にならなかったことになる。何事もなかったかのように、元の鞘に戻れる。

沙夜の頭の中では、その図面まで引けているのに、どうしてもそれができなかった。
結果的に蘇生できれば誰かを犠牲にしてもいいなんて。
辛いという気持ちさえ生じさせなければ、魔術なんかで恋人を奪っていいだなんて。
でも、それをすれば、きっと幸せになれるのに。
幸せだって、笑って言えるはずなのに。
「わたしだって、幸せに、なりたいよ…………お父さん……」
燕穣は、そうか、と小さく言った後、突きつけていた刀を下ろす。
「分かった。ならば、お前は事が終わるまでそこで寝ているといい」
「――――!? 待て燕穣ッ!」
はたして、叫んだのはテンカワアキトだったか、セイバーだったか。
燕穣は沙夜の支えの刀を蹴り飛ばし、沙夜の腹を真一文字に斬り裂いた。


















――――父と子――――





あとがき
いちいち時間がかかってますが、たぶん終わると思います。
たぶん・・・・・・。



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