ここはヨーロッパ、ドイツのとある村である。
 うっそうと木々が立ち並んでいる森に取り囲まれた、田舎の村である。
 都会の色はまったく見られず、雑然とした雰囲気は皆無である。
 この村に、辺りの風景と似合わない一台の車が現れた。
 黒塗りされた車で、どことなく上流階級の人間が乗り回すようなもののように見えた。
 近代化の進んでいる都会であれば見栄えもよかっただろうが、このような場所ではただ浮いた存在でしかなかった。
 その車の運転席から現れたのは、一人のスーツの上に白衣を着込んだ男性だった。
 年齢はだいたい三十代から四十代くらいだろうか。
 しかし年齢からの老け込みというのは、あまり見られなく、むしろ相応に大人の男性としての渋さを醸し出していた。
 季節が冬であるということもあり、男性が辺りに視線を向ける。
 視線が向けられた辺り一面はすっかり雪が積もっており、まるで真っ白な化粧がほどこされているかのようだった。
 地面から視線を空へと向け、仰ぎ見るようにする。鉛色に染まった空からは白い綿毛のような雪がフワリ、フワリというように降ってきた。
 そんな幻想的な光景を目にしているが、男性は小さな感動を抱くどころか、小さなため息をついた。
 時期的には新しい年を迎えようという頃だろう。しかしそんな村を包み込んでいるのは何ともいえない寒々しい景色だった。
 耳をそばだててみても、足音一つ聞こえてこない。
 シン、とすべてが息を潜めているかのように静まり返っている村のこの状態は、その村がすでに人々の記憶、および地図上から追い出されてしまって久しいことを示している。
 かつては多くの村人たちで活気に満ち溢れていただろう小さな村も、時の流れというものには抗うこともできずにその面影すらも失ってしまっている。
 まだかろうじて原形をとどめている家などの建物はいくつも立ち並んでいるが、もはや人が住み、生活していたぬくもりは感じられず、時折吹き込んでくる冷たい風が身体を震わせた。
 男性はもう一着コートか何かを持って来ればよかった、とここに来て小さな後悔を抱く。
 上に着ている白衣のボタンをすべて絞め、少しでもと防寒対策をする。
とはいえ、焼け石に水だろうが。
 手から提げているバッグを片手に、村の中央を森に向かって伸びるようにしてある道を、左右に並ぶようにして建っている、かつての賑わいをすっかり失ってしまった建物をひとつひとつ確認し、懐かしむようにしながらゆっくりとした歩調で歩いていく。
 かつてはこの村に住む者たちが大勢集まり、賑やかな飲食がされていただろう酒場に目が留まった。キィキィ、という音が聞こえた。木材でできた看板が悲しみの声をもらしているかのように思えた。
 閉鎖されてしまった各種の店は、何人たりとも寄せ付けないようにと硬く閉じられるように入り口に板が折り重なるようにして張り付けられていたようであるが、時の流れに伴う風化や劣化によってその板はすでにその役目を放棄したかのように地面に落ち、自然へと帰るようになっていた。
 男性はこの村にかつて住んでいた人物だ。
 すっかり変わり果ててしまった故郷ともいえる場所に対し、胸にこみ上げてくるある種の感情――懐かしさや郷愁――を無言でかみ締めていた。
 最後に見た故郷の姿とはまったく見知らぬ荒廃した世界となってしまった場所であるが、ある程度の道はまだ記憶に残っていた。
 彼はまっすぐにその通りを歩いていく。
 向かう先は、雪化粧をほどこされた、うっそうと木々の茂っている森であった。
 羽ばたく鳥のさえずりや羽音すらも聞こえない。雪が積もってしまい青々とした草や色とりどりの花々は見えない。森の奥は薄暗く、無音であることがさらに不気味さを助長させているようだった。
 しかし男性が足を止めることはない。
 やや深く積もった雪の上を、しっかりと足場を固めながら歩いていく。長い動物の皮でできたブーツを履いているために、ある程度の寒さを凌ぐことはできる。
 森の中に入ると、何とか目を凝らせば前方の様子を見ることができるようだった。
 バッグの中から小さなランタンを取り出そうかとしたが、必要なさそうだということで、それをそのままバッグの中に戻した。
 さらに奥に進んでいくと、薄暗く、狭かった森から抜け、一気に解放された場所に出た。
 すっかり葉を落としてしまった木々が裸同然の状態で立ち並んでおり、その奥に森の奥に存在するはずのないものがあった。
 そこにあったのは――巨大な古城だった。
 辺り一面の大地にほどこされた雪化粧と同じように、その古城も穢れなき白一色で統一されていた。
建てられたのがいつの年代なのかは専門家でなければ分からないが、とても最近のものとは思えなかった。それにどれほどの建築物でも、時の流れによって朽ちるのが当然である。しかしその古城はまるで時間の干渉を受けていないかのように、美しさをそのままに佇んでいた。
男性はその城を仰ぎ見るようにする。
またこうしてこの場所に戻ってきた。こうするのも何度目であろうか。
 ――男性を城に招き入れるためであろうか、突風が積もっていた雪を吹雪に変える。綿毛のように降っていた雪も、突然変貌し、襲いかかるように地上に降り立つ。
 男性は白の正面の入り口へと躊躇いもなく進む。
 そしてその入り口の門へと手を触れ、そして、中へと足を踏み入れた。


 物語が始まる数年前の話――。
 ある旅の一団が、この森に囲まれるようにしてある田舎村へとやって来ていた。
 名の知れた者たちではなかったがそれなりに懐は肥えており、村一番の酒場を貸り切っての宴が執り行われていた。
 その酒場の店主たちは大忙しであり、料理に酒と次々とテーブルに並べられては、空になった食器を厨房の方へ持っていくという作業が延々と繰り返されていた。
 数時間にも及ぶ宴も、一人、二人とテーブルに突っ伏し、大きないびきをかきながら眠りに落ちていく者たちが現れた。
 ようやくひと段落がつけると、肩を大きく落とし、ため息をつく店主の男性。
 ほとんどの者たちが眠りについている中、一人その一団のリーダーともいえる男性が一人ビールのジョッキを片手に未だ眠りについていない様子に気付く。
 忙しさのあまり話すことができていなかったが、今ならば度の話の一つや二つは利けるかもしれないと思い、彼の妻から同じくビールの入った彼のよりは小さなビンを片手に近づく。
 店主の男性が近づいて来たのを、彼も足音で気づいたようで、チラリと視線を向けてきた。
 彼の目つきは狩人のように鋭く、一瞬肩を震わせるが、顔を背けたために気を取り直して席へと近づき、椅子を引いてそれに座り込んだ。
「旦那、料理と酒どうでしたか?」
 とりあえず、当たり障りのないことを聞いてみる。
「悪くはない。田舎村と侮っていたが、旅先で立寄った酒場の料理の中ではよいほうだった、と思う」
「そうですか。お褒めいただき、光栄ですよ」
 低い声でそれなりに高い評価を貰うことができ、店主の男性も上機嫌な声をあげる。
グイッと口にしたビールがいつも以上においしく感じられた。
「旦那、お疲れかもしれませんが俺に旅の話を一つ、二つ聞かせてくれませんかね?」
 無理を承知で聞いてみたが、気分がよいのか、酒が入っているために顔を赤くしている男性が一言「ああ」と呟き、つい最近立寄った場所での旅のことを話してくれた。
 酒が入ったためか、彼の口は軽く、その旅においてあったことを色々話してくれた。
 この旅の一団は始め彼を含め、片手で数えられるくらいだったそうだ。
 しかし行く先々で、同じように旅に出ていた者たちと出会い、志が同じということで仲間として引き入れていったとのことだった。今では最初の頃の何倍もの人数になっており、そろそろ分かれての活動に移ってもよいのではないかと考えているそうだ。
 そこでどこかに立寄るので面白い場所はないか、と以前の場所で聞き込みをしたところ、この場所が話に出たとのことだった。
「この村ではないですが、噂では大昔、この辺りに城があったと聞いてますよ」
 店主の男性は、ふと昔両親に聞かされた話の中に、それに関することがあったのを思い出した。
 しかしその話を聞いたときも、確か噂、昔話程度だったような気がする。
 森の奥に何があるのかは、村の者たちですら知らない。奥に入った者は誰一人として生きて帰ってきていないからだ。獣に食い殺されてしまったか、それとも何かよからぬことに巻き込まれてしまったのか。さまざまな憶測が村には残っていた。
 少し怖くした話を子どもたちがうっかり森の奥に行かないように釘を刺すという意味でも、森の置くには白い古城があり、そこに入ってしまった者は悪魔に殺されてしまうという内容で聞かせていた。
 彼の一人娘にも同じく聞かせたことがある。
 怖かったのか泣き出してしまい、それ以来は口にしていない。
 あれだけ泣き叫んだのだ、行こうとは思うまい、と彼は楽観視していた。
「俺たちもそれを聞いてここに来たんだ。何人か連れてそこに向かうつもりでいる」
 少なくなったジョッキのビールに軽く口を付ける。
 言葉には一抹の寂しさが混じっているのが感じられた。
 普段ならば、そのようなことを晒すようなことはしないだろう。だが酒を浴びるように飲み、そして今起きている仲間は一人もいない。
 同じ席に店主の男性がいるが、気にしている様子もない。
「俺も年だ、おそらくこの旅が最後になるだろうな」
 自嘲するような笑みを浮かべ、そう言う。
「まだいけるんじゃないですか?」
 そう、店主の男性は励ますように言う。
 自分が彼のような旅を職業にする者の気持ちを分かることなどできないが、それでも彼が旅の話をしているときは生き生きとした顔であったのを見ている。そんな顔ができる者が、簡単にやめられるわけがないと思ったからの言葉だった。
 しかしその言葉に対して、彼は最後まで何も言わなかった。
そして翌朝彼らは森の奥へと姿を消した。
数日が経っても、彼らが戻ることは決してなかった。
やはり森の奥で何かがあったのだと村人たちは悟った。
 その時から絶対的な掟――森の奥へは一歩も踏み入れてはいけない――が作られた。
 その掟が作られてから数年――。
季節が冬から雪がとけ、春になるように、森の奥そこでまつ凍てついた魂は、今も温もりを一人、求め続けている。


 季節は夏。
 空は透き通った淀みのない海のような青色をしており、いくつか白い雲が風に流されてゆっくりと動いているのが見える。
 空が見下ろす大地もまた、冬に積もっていた白い雪はすっかりとけてしまっており、一面が青々とした草木や色とりどりの花々の姿が見える。
 小鳥たちの羽音やさえずりもまた、世界の命の息吹のように感じられた。
 すっかり景色という姿を変えたドイツのとある田舎村。
 他の村や街との交流は多くないが、森に囲まれているという利点を生かし、材木の提供などを行なうことで外との交流をとぎらせることなく、それなりの関係性を保ち続けていた。
 そんなある夏の休日だった――。
 村の中央には他の家よりも大きく、そして立派そうな、言ってみれば屋敷のような建物があった。そこはこの村の村長の住む屋敷であり、青々と茂った芝生が敷き詰められており、入り口から玄関までの道の途中には大きな噴水が設置されていて、勢いよく空に向かって噴き出している水は霧状になって清涼感を与えてくれる。緑だけではなく、レンガ造りの花壇がいくつも置かれており、その季節の花々が密集するように植えられていた。立派な庭であり、しっかりと使用人たちに手入れがされているために乱れは一切見当たらない。この村の象徴ともいえるものだった。
 屋敷は相当大きな造りになっているため、屋敷内にはいくつも部屋が備え付けられていた。そこに住む村長一家の一人一人の部屋、使用人たちが寝泊りする部屋、応接室や書斎、それ以外にもさまざまな用途で用いられる部屋があった。
 そんなとある一室。そこはこの屋敷の主であり、村長の男性の書斎だった。しかしそこにいるのは彼ではなく、彼の息子であるアスラ・アドルフだった。
 学校もなく、かといってどこかに出かける気も起きなかったために父の書斎に足を踏み入れ、何か面白い書物はないか探していた。
 三十分ほど適当に書物を手にして、ぱらぱらと流し読みをしていたが、これといって彼の眼鏡に適うようなものはなかった。
「退屈だな。これだけあるんだから、一冊くらい面白いものがあってもいいのに」
 と、口を尖らせながら言う。
 数ページを繰るだけで、その書物を閉じ、元の位置に投げ入れるように戻す。
 この書斎は中に入ってから正面向こうに大きな窓があり、その近くには大きな仕事用の机が置かれている。その上には村長であるからさまざまな資料が置かれており、仕事が半端なところで中断されているが、何やら判子を押すという単純なものだったようだ。内容には興味がなかったので、アスラはそれ以上目を通すことはしなかった。
 その机の前には長テーブルとそれを挟むようにしてソファーがある。高価なものなのか、埃一つ被っておらず、清潔な状態である。その上には駒がスタートの状態で置かれているチェス盤が置かれている。
 ソファーに座り、ポーンの駒を手にしてプラプラと指で弄ぶが、この手のゲームは相手がいないと面白くないので、すぐに戻した。
 期待して来てみたものの、思った以上にめぼしいものがなかったことにすっかり気持ちも萎えてしまい、脱力するようにソファーに身体を預ける。
 天井を数分黙って眺めていたが、ふいに顔を横に向けてみる。すると一通りあさるように手をつけていた本棚のある場所に、気になる書物の存在に気づいた。
 もたれかかっていた身体を起き上がらせ、アスラはその本棚の所へと向かう。
 そして気になった一冊に手を伸ばし、それを開いてみる。
 それは父親が昔つけていた日記のようだった。
 そういえば、と自分の父親が日記をつけるのを習慣にしているのを思い出した。アスラ自身も嫌々と言いながらも日記をつけているが、それが習慣となったのは父親がそうするように薦めてきたからだ。
 自分の日記を読み返すというのはつまらないが、他人のそれを読むというのは秘密を知るということとも同義であるため、思わず顔に笑みが浮かぶ。
 父親が戻ってくる気配はないため、日記の一ページ目から順番に読み始める。
 とはいえ、書いている日記の内容はその日にあった他愛もないことが書かれているだけのことで、詳しくではあるが、アスラにとって興味を引くようなものではなかった。
 徐々に退屈さが募っていく。
 軽快にページをめくっていたが、それも徐々に緩慢なものに変わる。
「親父は子どもの時から生真面目だったのかよ」

【×月×日 季節は夏、この村は毎年のように緑に包まれている。
 燦々と降り注ぐ太陽の光、時折現れる雨雲は恵みの雨を齎してくれる。
 そのおかげで今年も農作物は順調に育っているという報告が来ている。すでに市に出されているものも、それらの恩恵をしっかりと凝縮しているようだ。
 そんな今日であるが、村には似合わない貴族風の服装をした家族がどこからか現れた。都にいれば映えるだろうが、この場所では逆に浮きだってしまっている。村人たちも警戒していた。
 三人家族のようで、その内の一人の娘と思われる少女に、僕は目を奪われた――】

「本当かよ、親父ぃ」
 まさか日記を見る限り、今と変わらず生真面目で異性にはあまり興味がない少年だったのだろうと思い込んでいたが、どうやらそんなことはなかったようだ。
「そうだったら、俺、生まれてないからな」
 と、父親もやはり男だったのだと、今とは違うことに思わず小さく笑い声がこぼれた。
 日記にはさらに続きがあり、ページをめくった。

【――彼女は美しかった。
 この村に住む、どの娘たちよりもだ。彼女は市に並べられている農作物の一つ一つがまるで始めてみる珍しいものと言わんばかりに、目を輝かせていた。それを手に取り、隅々まで食い入るようにしてみている。
 彼女とその家族はどうしてこの村にやって来たのだろうか。
彼らは一通り市を見て回ってから、森の方へと向かっていった。
 村の人たちが叫んで呼び止めようとしたが、最後まで彼らはこちらを振り向くことなく森の奥へと消えていってしまった。
 森の奥に入ってしまったら、誰一人として助かることはない。彼女ももう、助からないのだろうか。
 僕はあの時どうして彼女の手を掴み、村に戻さなかったのか、とこの日記を書いている時も後悔に胸が痛む】

 と、ここでその日の日記が終わっている。
 アスラは読む流れでついついもう一ページをめくってしまう。
 次のページには一文字も書かれていなかった。
 しかし日記の代わりに描かれていたものがあった――父親が一目惚れしたという少女の似顔絵だった。相当丁寧に描かれているためか、アスラもまた、その似顔絵に思わず目を奪われてしまっていた。


 この村には酒場というのは一箇所しかない。
しかしその酒場は古くから代々親から子が継いでいる伝統的なものであった。
 酒場としては夕方頃からが本格的な仕事であるが、朝から仕込み作業などがあり、ゆっくりと休める時間というのはあまりなかった。
 休日ということもあり、この酒場を経営している一家の一人娘であるレイラ・シュタインもまた手伝いとして朝から精力的に動いていた。
 この酒場は朝からも店を開けており、軽めであるが朝食を提供していた。それを目当てにやってくる者たちも少なくなかった。
 店にはすでに数人の村人たちがテーブルに着いており、注文を終えた状態で料理が運ばれてくるまでの談笑をしていた。
 厨房の奥から両手のお盆の上に料理を乗せたレイラが現れた。
 明るい営業スマイルを振りまきながら、客の男性たちの前に丁寧に料理を並べていく。
「お待ちどう様! 残さず食べてよね!」
「おう、レイラちゃんはいつも元気だね」
「この店の料理を残すわけないだろ。残したら俺たちでとっちめてやる!」
 二人の男性はレイラの言葉に便乗して大きな声で言う。
 この店での食べ残しなどは禁忌とされており、もしそれを犯してしまったのならここの店主の妻に張り倒されることになる。そのことを村人たちは知っているからこそ、けっして無理な注文はしないようにしていた。
「おーい、レイラ。料理ができたから運んでくれ」
 厨房の方から父親の声が聞こえた。
 レイラは「分かった」と一言声を飛ばし、二人に一礼して厨房へと戻った。
 次々とできあがっていく料理をテーブルと厨房との間を行ったり来たりして運んでいく。
 まったく息つく暇もないが、幼い頃から行なっていることであり、もう習慣となってしまっているのか苦ではなかった。
 忙しいとはいえ、夕方以降に比べるとそれほどでもない。
 休日とはいえ、仕事があるということで料理を食べ終わればさっさと店を後にしてしまうのがほとんどだ。
 レイラはそんな彼らがきれいに食べてくれたおかげできれいさっぱり料理がなくなった皿を片付けていく。
 ふきんでテーブルの上を拭いていると、まだ食事を終えたというのに席を立たずに談笑をしている男たちがいることに気付いた。
 仕事の途中ということもあり、話しかけるのは自重したが、なぜか興味を引かれたので聞き耳を立ててみた。
「そういえば、この季節になると時々思い出すことがあるんだ」
 一人の男性がそう話を切り出した。
「なんだよ、聞きたくなるじゃないか」
 興味津々という表情を浮かべ、同席している男性が話を促す。
「お前も知ってるだろう? あの噂」
 ――あの噂?
 男性の言葉に、聞き耳を立てていたレイラも首を傾げた。
「森の奥にある白い古城のことだよ」
「ああ、その噂のことか」
 話を切り出した男性が説明すると、気いていた男性は納得したという顔を浮かべる。
 レイラもそのうわさについては知っていたので、そのことか、と胸中で呟く。
「そのことに関係するかもしれないんだけどよ。俺たちがまだガキだった頃に会った少女のこと、覚えているか?」
「少女……、ああ、あの少女のことか!?」
 思い出そうと思案顔をしばらく浮かべていた男性は、思い当たることがあったのか、大きな声をあげた。
「美しいというのか、何だ? 別次元の存在だったな」
 思い出しているのか、男性たちは天井を仰ぎ見るような体勢になる。
「そうだな……、俺も目を奪われたよ。でも森の奥に行ってしまったんだよな。あんな美しさをもった奴とは、もう会えないだろうな」
 彼女がどのような姿をしていたのかが分からないため、どのような美しさだったのかを彼らのように想像することはできない。
 彼の言葉を聞く限り、その別次元の美しさをもつ少女は森の奥へと足を踏み入れ、きえてしまったようだ。
 だが噂の森の奥にあるとされる白い古城と関係があるのかもしれないという話。
もしかすると、その古城に彼女がかつて住んでいたのかもしれない――とレイラは考えた。
「おい、今の言葉、女房に聞かれてみろ? とんでもないことになるぞ?」
 体勢を戻し、テーブルの上に肘をつくようにしながら男性がつっこむように言う。
 そう言われた男性はやや引き攣った笑みを浮かべている。
 ――相変わらず、奥さんの尻に敷かれてるのね。
 ここに彼女がいたらどうなっていたことか。
――おお怖い、怖い。
わざとらしい笑みを隠れて浮かべながら、レイラは仕事をこなしていく。
 その後の男性たちの話はレイラの興味に引っかかるような内容のものではなかったので、それ以上聞き耳を立てることはしなかった。


 アイク・ルシュドは村からは何里も離れた首都にある有名が医学校に通っている研究医で、将来は医学の道に進もうと志している少年だ。
 年齢は十七歳と、まだまだ少年から青年へと成長する途中の過程であるために、若干の幼さと精悍が同居している感じの顔立ちをしている。生真面目な性格なためか、髪は清潔そうに整えられており、黒一色に統一されている。
 そんな彼は今日久しぶりの長期休業ということで、村に帰省することにしていた。服装は医学校で普段着ているような研究医用のものではなく、上下とも季節に合ったものだった。森に囲まれているということから、下は長ズボンを穿いている。
 荷物の入った大き目のトランクを片手にゆっくりとした歩調で村を目指し、森が切り開かれ、整備された一本道を歩いている。
 二年前に村を離れ、首都にある医学校の寮へと入り一人暮らしを始めた。
 父も同じ道を歩んだことから、出発する前には必要ある無しにかかわらず、色々なことを教えられた。
 母には家事のことを一通り叩き込まれた。忙しくなると、身の回りや食事がおろそかになるということから、簡単にできることを中心に教わったのは今でも役に立っている。
 一人暮らしを始めてからは何度も心細さを感じていた。
 夢を叶えるためとはいえ、まったく未知の世界での生活であるために、不安要素ばかりが付き纏っていた。
 一番は同じ医学校に通っている者たちのほとんどが首都や都会から来ている者たちである中で、彼だけが田舎村出身だということだった。田舎臭さが周りから浮いてしまうのではないかと大きな悩みの種だった。
 しかし元来誰かのために一生懸命になれる性格と真面目さが周りに対して好印象を与えられたのか、田舎村出身ということに対してはあまり偏見をもたれることはなかった。中には数少ないが妬みをもつ研究医もいた。
 心細さには毎週のように届けられる両親や幼馴染からの手紙に支えられていた。特に幼馴染の手紙は量が多く、時間を相当割かなければ読み切れないほどの文量の時もあった。ほとんどの内容が彼女の目から見られた村の様子や彼女の日常についてで、この二年間のものを纏め上げると、一冊の本になるのではないかというほどになっており、置き場に困っているのは内緒だ。
 しばらく久しぶりの景色を堪能しながら歩いていると、向こうに村の入り口と思われるものが見えた。
 そこから数分も経たない内に、アイクは故郷へと足を踏み入れていた。
 久しぶりの登場に、村人たちはアイクの姿を見つけると仕事の手を止めて集まってきた。
 将来この村の病院を継ぐことで期待されていることもあるが、元来彼の人当たりのよさも要因の一つだった。
 ――おかえり、アイク。
 ――久しぶりだな。
 ――いつまで村にいるのか?
 ――学校の方ではうまくいっているか?
 ――向こうでの思い出話を聞かせてくれよ?
 あっという間に囲まれ、他方から声がかけられる。
 もみくちゃにされ、背中を誰かに叩かれる。
 しかしアイクは嫌な顔一つせず、苦笑いを浮かべながら一つ一つの質問に言葉を返す。
 ようやくその中から抜け出したアイクは、まっすぐ自分の家へと向かった。


 ナナ・イーリスは九人家族の長女だ。
 彼女の朝は早く、村中から聞こえる鶏の鳴き声とともに起床する。
 母親とともに朝から朝食の準備を始める。
 父親が起き、それに続いて兄弟たちがゾロゾロと起床してくる。
 中にはなかなか布団から抜け出せない者もおり、力づくで被っている布団をひっぺがえし、鍋の裏底をお玉で叩いて起床させるなど忙しい。
 家族が使う分の水を村の中央にある井戸から汲んでくるのも彼女の役目だ。
 朝早くから並ばなければ、長い行列を並ばなければいけなくなる。
 それに大家族であるために、一日に消費する分と数日分を合わせると相当な量になる。そのため何度も家と井戸の間を行き来しなければいけなかった。
 大変ではあるが苦痛ではなかった。
 長女だからというだけではなく、頑張る彼女に対して家族がいつもありがとうと感謝の言葉をかけてくれるのがうれしいからだ。
 ある程度の家事を終え、朝食をとり終えるとナナは鞄を手にして家を出る。
 今日は休日であるが、彼女のアルバイト先はほぼ毎日営業している。彼女がアルバイトとして仕事をする頻度としては週五が決まりとなっており、勉学の方にも力を入れなければ将来職業として勤めることはできないと言われていたので、素直に従っていた。
 家からは少し離れているために駆け足で道を進む。
 同じように仕事に出ている村人たちに元気な挨拶をする。
「おう、おはようナナちゃん」
「相変わらず、今日も元気だね」
「だって、それがあたしの取り柄だから」
 村人たちも、彼女の元気で明るい性格を気に入っていた。
 彼女自身、凡人であることを自覚しているが、それだけは誰にも譲るつもりはなかった。
「今日も頑張りろうね。行ってきます」
 そう言って、ナナは再び走り出す。
 昨日アルバイトから帰る際、そこに看護士として勤めている女性から聞いた話であるが、アイクが帰ってくるとのことだった。いつ頃帰ってくるかは分からないようであるが、それほど遅くはないだろうと思う。彼の家は病院とつながっているので、もしかしたら、今から行けばばったり病院で会うことになるかもしれない。
 そう思うと胸がどきどきと高鳴るのを感じた。ずっと走りっぱなしであるからなのかもしれないが、きっとそれだけなのではないと彼女は自覚していた。
 早く会いたい――。
 その想いを胸に、ナナはさらに強く地面を踏みしめた。


 朝早くからダン・ガントは父親とともに森の中へと入っていた。
 さすがに村の掟に奥深くまで入ってはいけないというものがあるので、規定されている場所にはしっかりと目印となる杭が何本も横並びに打ち付けられていた。以前はロープなどで進入禁止を強めていたのだが、年月とともに朽ちてしまったのか、今では巻きつけられていた跡が残っているだけで、ロープそのものはなくなっていた。
 とはいえ、身の危険を省みずに森の奥へと足を踏み入れる者はいない。
 命の保障がないとされているため、自殺願望者でもない限りは入ることはない。
 彼の家系は代々、木を伐採する林業を生業としていた。
 彼の父親も、祖父からその仕事を引き継いでおり、ダン自身も将来はそうなることを約束されていた。彼自身もそれには不満を抱いてはおらず、この仕事を楽しいとさえ思っていた。
 この村はドイツにおいても森に囲まれ、端の方に存在しているために都など、ここよりも外とのつながりが極端に薄かった。豊富な木材があるということから、それを出荷することで、わずかでもしっかりとしたつながりをもつようにしていた。
 今日もまた手斧を肩で担ぎながら仕事場である森の中に来ていた。
 木々の間には適度な空間があるため、森の中は真っ暗ではなかった。
 空から降り注ぐ太陽の光が証明となって、辺りを明るく照らし出す。
 木を切ることが主な仕事であるが、彼らは木を植えることも仕事としている。
 切ってばかりでは、いずれこの辺り一帯は開かれた場所になってしまう。
 村人の人口が今よりも何倍にも膨れ上がるならば、そうすることも必要かもしれないが、今はそうする必要性はあらず、木材提供を途切れさせないことが大切だった。
 すでに他の仲間たちはそれぞれの仕事に移っている。木を切る者、植える者と色々だ。
 ダンも持ってきていた手斧を片手に、めぼしい木を探すために歩き回る。
 どんな木を切っても構わないというわけではない。木の様子を見て、ある程度の年月が経ち、適度な大きさに成長しているものを切るようにしていた。
 手斧に両手を添え、しっかりと握り締める。
 誤って手から離れてもしてしまえば、周りで作業をしている仲間たちを殺めかねない。
 ダンはゆっくりと手斧を振りかぶると、勢いよく根元に刃先を叩き込んだ。
 鋭い刃先が、数センチ根元を抉る。それを何度か続けていくと、徐々に中央へと傷が深くなっていく。あと二、三度打ち込みさえすれば、自然と倒れるだろう。
「みんな、木が倒れるから離れてくれ」
 ダンの声に、近くで作業をしていた仲間たちがそそくさと離れる。
 それを確認してから、もう一度手斧を握り締め、それを打ち込んだ。
 ミシ……ミシミシミシ、と小さな亀裂音が断続的に聞こえると、直立不動であった木がゆっくりと傾き始め、そして周りの木々を倒さないようにその間に挟まる形で地面に重低音を響かせながら横たわった。
「よおし、それじゃあこいつをまず運ぶからみんな手伝ってくれ」
 父親の掛け声に男たちの勇ましい返事が聞こえる。
 木の周りにロープを巻きつけ、それを十数人の男たちで引っ張っていくのだ。
 この一本の木を運ぶ作業だけでも半日以上はかかる。
 その後さまざまな大きさに切り分けていくなどという作業もあるため、実質一日に伐採できるのは二本、多くて三本が限度だった。
 ようやくロープを木に括りつける作業が完了した。
 あとここからは完全に力仕事となる。男たちがそれぞれロープを掴み、肩で背負うようにする。
 ダンも同じように自分の持ち場へと移動する。
 そんな時、ふと森の奥へと視線を向けた。
 なぜか向こうから誰に見られているような気がしたからだ。
 森の中に入れば、人間以外にもさまざまな動物が生活している。大人しいものから人間すら食料としている獰猛なものまでさまざまだ。常に警戒する必要があるということから、向けられる視線というものには敏感になっていた。
 しかし森の奥へと向いてみたものの、向こうは木々に一切手をつけておらず、太陽の光は差し込むことはないため、真っ暗な闇が漂っているだけだった。
 目を凝らしてみても、それは変わらない。
 気のせいか……?
 少し胸に引っかかりがあるが、ダンは父親の声に引き戻される。
 ロープを引くのに力を入れる。
 ズズッ、と地面を滑る音が、まるで闇の奥から何かがやって来るように不気味さを感じさせていた。


 その日の夕方、酒場は村人たちが集まり、大いに騒いでいた。
 人数が多く、入りきらないということで、持ち寄ったテーブルに料理やお酒を出していた。
 祭りがあるわけではないのだが、村から首都の医学学校に在籍しているアイクが夏休みということで帰郷したお祝いをしているのだった。
 村長の挨拶に始まり、アイクの乾杯の言葉を皮切りにこの騒ぎが始まったのだ。
 主役であるアイクは大人たちに向こうでの生活について質問を受けたりしていた。お酒を飲むのになれていないために、水を飲むようにしている大人たちと違って、あまりの苦さにしかめっ面を浮かべながらもチビチビと飲んでいた。
「村では何かありましたか?」
 ある程度話すことは話したところで、話題を変えるためにアイクが口を開いた。
 これ以上自分のことを詮索されると、変な方向にいきかねないという不安が頭を過ぎったからだ。
「悪いことは起こってはいないよ」
 いつもは生真面目な性格から、固い表情ばかりを浮かべている村長も、酒が入ったためか破顔させながら言う。人一倍村のことを考えているからこそ、よくないことが起きていないことの喜びを噛み締めているようだった。
「むしろいいことはあったな」
「そうだな。ファムさん宅の娘さんが無事に出産したんだよ」
「へぇ、それは喜ばしいことですね」
 口についたソースを拭いたナプキンをテーブルに置きながら、言う。
 そういえば、彼女は自分がこの村から出て行く二年前に結婚したのだと思い出す。
「元気な女の子だったな。彼女に似て、お淑やかになるんじゃないか?」
「父親が木こりだか豪快な性格になるかもしれんぞ」
 みんな酒が入っているためか、面白半分で話をしている。
 だが誰もが彼女の出産を祝っており、その子どもの未来に幸多かれと祈っているのは分かる。
 首都は確かにたくさんの人間で溢れており、こことは違って便利なものも多かった。
 木造作りではなく、レンガ造りという強度のあるもので、安全性も高い建物だった。学校はもちろん四階建てという、この村では想像もつかない高さのものであり、広大な敷地であるために研究室や教室というものはこの村に住む者たちが宿泊するのに利用しても、十分に余りが出るほどの数だった。
 そこを歩く者たちの服装は、仕事で汚れたものではなく小奇麗なもので、一着セットで買うのでもアイクではとても手の出せる金額ではなかった。
 行き交う者たちは確かに幸せそうに笑っていた。
 だがそれは表の世界ではだった。
 首都では裏の世界もあった。
 建物の間にある通路の壁に身体を預け、死体と変わらずにいる者を何人もいた。
 すでに事切れ、ハエが集り、蛆が涌いている死体もあった。
 すでに死んでいる母親の乳を吸い続けている餓鬼のような赤ん坊の姿を見た。
 お金がないために、盗みを働く少年の姿を見た。
 お金を稼ぐために、自らの身体を商品としている少女の姿を見た。
 生きるために自分たちの子どもを商品とし、必死に助けを求める子どもと、涙を流し何もできないでいる親の姿を見た。
 憧れと期待を抱いていたが、そのような裏の世界を見てしまってからはこの村が恋しくなってしまった。
 誰もが満ち足りた生活を送ることができており、首都で見たような悪夢のような光景はありえない。
アイクにとってはこの村の方が、居心地がよかった。
「っと、そういえばそろそろアイクくんも付き合いを考える時期なのじゃないか?」
「えっ?」
 唐突に話を振られ、戸惑いを隠せない。
「確か君の家の病院でアルバイトをしているナナちゃん。彼女なんてどうなんだい?」
 突然同級生のことを話題に出され、返答に困る。
 彼女とは他の友人よりも前から付き合いがある。同い年であるが、まるで兄妹、姉弟のように育った仲だ。彼女は確かに一人の異性としては魅力的であるが、そのような関係になりそうかと聞かれても困るというのが本音だ。
「今は医者になることで精一杯なので、色沙汰の方はちょっと……」
 そう言うが、アイクも年頃の少年だ。
異性に対する恋慕というものも人並みに持つ。
 とはいえ、田舎出ということもあり、これまで学校では勉強に研修とそちらばかりに力を入れすぎてしまい、今ではそれらが彼にとっての恋人となっていた。
 考えれば寂しいことなのだが。アイクはそんな自分に向けて、ため息をつく。
 あまり面白い返答ではなかったためか、彼らは興味を失せてしまったようだ。
「アイクくん、友達のところに行ってきたらどうだい? 久しぶりの再会だ、たくさん話してくるといい」
「そう、ですね。それでは失礼します」
 飲み物の入った木製のコップを手にし、アイクは席を立った。


 店のとあるテーブルには、同じ学校に通っている者たちが集まっていた。
 彼らは小さい時から仲が良い関係である。
 村長の息子であるアスラ。
 この酒場の娘であるレイラ。
 アイクの家の病院でアルバイトをしているナナ。
 木こり家系のダン。
 四人は今回の主役であり、友達でもあるアイクが来るのを待っていた。
 それまでの時間、アスラがまず話題を振った。
「なあ、みんな。みんなはこの村の掟である、森の奥に入ってはならないというのは知っているよな?」
「馬鹿にしないでよね、トーゼンでしょ」
 権力を鼻にかけたような言い草に、ムッとした表情を浮かべながらレイラが言う。
「知っているけど」
「それがどうかしたのか?」
 ナナ、そしてダンが続けて尋ねた。
「それと関係してるんだけさ、俺今日親父の書斎で面白いもの見つけたんだよね」
「面白いもの?」
 ナナは首を傾げる。
「親父が俺たちくらいの時に、すんげぇ美人の女の子と会ったっていう日記を見つけたんだ。ちゃんと似顔絵もあった」
 こっそりと持ち出していたそれを開きながら、三人に見せる。
「これは……」
「確かに美人だ……」
 アスラと同じく、目を奪われている三人。
 何とか口を開いたレイラとダンが、それぞれ短い感想を口にする。
「そういえば私も聞いたわ。今日の朝だけどお客さんが話していたのにも彼女かは分からないけれど、見た少女が別次元の美しさだったって」
 偶然なのかしら、と思いつつもレイラは話を続ける。
「それに噂では、森の奥には白い古城があるらしいわ」
「白い古城、? まるで童話みたい」
 ナナは昔母親から聞かされた童話にも森の奥にあるお城が出てくるものがあったので、興味をもったように言う。
「その女性、少女は森の奥に入っていったんだよな?」
 ダンは木製のコップを鷲掴みしながら中の酒を口に運ぶ。
 ゆっくりと息を吐き、アスラに聞いた。
 アスラはその質問に対して、「ああ、そうらしい」と頷きながら答える。
 まさか、あの視線は人間のものだったのか?
 仕事中に感じた気になる視線についてダンは考える。
「そこでなんだが、最近俺退屈してたんだよね」
 意味深気にアスラが言う。
 嫌な予感しかしないと、ダンは細い目をさらに細めながら彼のことを見る。
「それにこの噂、謎だって思わないか?」
「確かに謎って言われれば、謎だけど」
 口元に手を当て、レイラは難しそうな表情を浮かべながら言う。
「アスラくん、それでどうしたいの?」
 手で包み込むようにコップを手にしているだけで、口に運んでいないナナの言葉に、アスラはにやりと口角をつり上げた。
「大方、森の奥に行って確かめてみたい、だろう?」
「ご名答」
 ため息混じりにダンが呆れたように言う。
 悪戯っぽい笑みを深めながら、アスラは指をパチンと鳴らす。
「明日にでも俺たちで本当に白い古城があり、そこに謎の美女が住んでいるのかを確かめてみないか?」
 そうは言うが、村の掟に反することになる。
 厳重注意で済まされるだけならよいが、生きて戻れなかったらと思うとやはり乗り気が起きない。
 レイラ、ナナ、ダンのそれぞれ渋るような表情を浮かべている。
「なんだよ、なんだよ。そろいも揃って怖いのか?」
 煽るように言うアスラであるが、三人の態度は変わらない。
「とにかくこの話はもうおしまい」
 ピシャリと言うレイラの言葉に、二人は同意するように頷く。
 ただ一人、アスラだけが我侭な子供のように不貞腐れ、口を尖らせている。
 そこに久しぶりに会うアイクの姿が現れた。
「アイク!」
 パァッと花が咲いたように、ナナの表情に笑顔が浮かぶ。
 重苦しかった雰囲気が薄まったようで、レイラとダンも久しぶりに会う友人を歓迎する。
「ささっ、アイクはナナの隣に座って。ほら、ダンはこっちに移動する」
「分かった、分かった」
 ニヤニヤとした笑みを浮かべながら指示を飛ばすレイラと、それに苦笑いを浮かべながら従うダン。
 どうしたのかという疑問顔を浮かべているアイクであるが、立ち上がったダンに席を譲られ、肩を押されて強制的に座ることになる。
隣にはナナの姿があり、酒が入ったためか、若干頬が朱色に染まっていた。
彼女のことを監察してみると、なぜか視線を膝辺りに落としており、時折アイクのことを見ては視線を戻すという行動を繰り返している。
「ひ、久しぶり。げ、元気だった?」
 若干震えが入っているが、歓迎してくれているのはよく分かった。
「ぼくの方は大丈夫。ナナは? 家の病院でアルバイト続けてくれているんでしょう?」
「あたしも元気だよ、うん。おじさんも、おばさんも優しいから」
 そのことを聞けて、アイクは胸中で安堵する。
「そう、よかった」
 小さく笑みを浮かべると、ハッとした表情を浮かべ、また彼女は目を逸らしてしまう。
 何か悪いことでもしちゃったかな……?
 ばつが悪そうな表情を浮かべ、どうしたらよいのかと困ったようにこめかみを指でかく。
 そんな二人のやり取りを見かねたのか、レイラが口を挟む。
「はいはい、今日はアイクの向こうでの話を色々聞かせてもらうんだからね」
 覚悟しなさい、と指を鼻先に突きつけながら言う。
 ダンはそれを尻目に、アイクのさらに料理を盛り付けている。
 どうやら今日の夜は長くなりそうな気がした。



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