Muv-Luv Alternative The end of the idle

【伏竜編】

〜 PHASE 6-1:アヴァロンへの険路【前】 〜






―― 西暦一九九〇年 九月九日 帝都・枢木工業本社 ――



 どちらかと言うと秘密主義。
 きっぱり言うなら独断専行の気が強い枢木にとって、無用の長物と化していたこの場――広報部・会見場は、この日珍しくも千客万来の様相を呈していた。

 国内のみならず、日本に支社を置く海外のマスコミさえも、多数、姿を見せているその場にて、顔見知りの記者達は各々小グループを自然に形成しつつ、手持ちの情報を交換する。

「おい、一体何の発表か聞いてるか?」
「知らん。社の方に、重大発表があるから来いと連絡があっただけだ」
「ウチもだ」

 困惑の気配が広がっていく。
 どの記者の顔にも、やはりという色が滲んでいた。

 元来、異様な程に枢木のはガード堅い。
 自社の情報を外に漏らす事を、とことん嫌っており、社内の動静をとある記者に漏らした社員が、数日後には機密漏洩の罪に問われて懲戒解雇された例などザラだ。
 社員に対する給与や福利厚生は、同業他社に比較すると抜きん出ている枢木であるが、その辺りの厳しさが、今一つ日本人の気質にそぐわないのか、企業規模に比して国内での知名度や人気が余り振るってはいない。

 ――どちらからと言うと、国内よりも国外での評価の方が高い日本企業らしくない変わり者。

 それが、彼ら日本人記者達の枢木に対するイメージだ。

 そんな変わり者が、何を思ってか、自分から積極的に情報を流そうというのである。
 彼らにしてみれば興味半分、恐いもの見たさ半分といった感が拭えなかった。
 もっとも記者達の一部、具体的には枢木と業態の被る一部企業と懇意にしている者達は、この会見の後に予定されている会食での饗応と相応の小遣いの方に興味が集中しており、そこまで深く考えを巡らす者は決して多くは無い。

 そんな同床異夢そのものとも言える会見の場で、記者暦二十年というとあるベテランが、煙草の無い口元に無意識に指を添えながらボソリと呟いた。

「さて、鬼が出るか蛇が出るか?」
「物騒な言い方だな。
 たかが記者会見だろ?」

 思わず漏れた男の本音を別の記者が窘める。
 だが窘められた方はというと、至極、常識的な反応をこそ鼻先で笑った。

「あちこちに敵を作りまくりながら、我が道を行く枢木だぞ。
 絶対、騒動の種になるに決まってる」

 記者としての真面目な勘、そして職業柄、騒動を求める願望。
 混じり合うそれらに、眉をひそめた相手は、反論を口にしかける。

 だがそこに、小さな叱責が割って入った。

「しっ!
 ……お出まし……だ?」

 語尾が微かに鈍る。
 わずかに見開かれた眼が、ソレを驚きと共に見つめた。

 いぶかし気な視線、戸惑いを帯びた視線、どこか納得した様な視線。
 それら全てが交差する演壇で、一人の少年が良く通る声を発する。

「記者諸君、急な発表にお付き合い頂き感謝する」

 そう告げる目の前の少年こそが、枢木の真の支配者。
 そう知る者が、果たしてこの場に何人居ただろう?

 大半の者が、唐突に現れた年端も行かぬ少年に眼を白黒させつつ、大人顔負けの堂々とした態度で場の中心を奪った彼に、注目せざるを得ない状況が産み出されていく中、その場の空気を完全に掌握した少年は、朗々たる声で己の素性を告げた。

「私の名は枢木ルルーシュ。
 今回の計画の一切を、取り仕切る立場にある」

 その姓名を聞きハッとした表情になる者が幾人か、それ以外の者も、枢木の姓からルルーシュの素性に大まかなあたりを着けるや、特ダネの予感に視線を鋭く尖らせた。
 対して、既にその正体に気付いていた情報通な面々は、彼の言った『計画』の方に興味を惹かれ耳を澄ませる。

 ここ数年の枢木の大躍進を支えてきた複数の計画。
 それ等によって産みだされた数々の品々――OSであったり、建機であったり、或いは戦術機の強化装備であったり――は、多くの者達の興味をそそって止まぬものだった。
 それがそのまま今回の『計画』に対する興味へと引き継がれるのは、ある意味、必然と言えよう。

 そうやって様々な理由から圧力を増した視線の群れ。
 その集中砲火を浴びながら、そよとも動ずる様も見せず、少年は軽く手を振る。
 フッと室内の照明が落ち、入れ替わる様に背後に設えられた大型プロジェクターが映像を映し出す。

「まずは、こちらをご覧頂こう」

 瞬く星々と画面の三割程を占める蒼い星。
 宇宙、それも地球近辺から映した映像である事がそれだけで分かった。

「この映像は、対地高度五百qの地球周回軌道からリアルタイムで送られてくる映像だ」
 次第にズームアップしていく映像を背にルルーシュが語る。
 撮影の焦点が彼の左上、恐らくは軌道ステーションと思われる小さな点へと移っていく中、眼の良い者達が、『ソレ』に気付いた。

「あ、アレは?」
再突入駆逐艦(HSST)
 いやしかし……大き過ぎる?」

 ざわめきが広がっていく。
 映像がズームされていく中、軌道ステーションに寄り添う様に在る黒い巨影――垣間見えるフォルムからして軌道ステーションとは異なるソレ――に居合わせた者達が徐々に気付きだしたのだ。
 そんな中、ステーションとの対比で、その規格外のサイズを悟った一部の連中が驚きの吐息を漏らす。

 概算でも五百メートルを下らぬ巨体を持つ恐らくは宇宙船と思しき構造体。
 一般的な再突入駆逐艦(HSST)が、六十メートル前後である事を考えれば、常識外れと称してもおかしくはない。

 徐々に鮮明になっていく黒い怪物を背後に従える様に、ルルーシュは整った容貌に薄い笑みを浮かべた。

「あの艦こそ、我が枢木が新たに建造した超大型宇宙艦『スヴァルトアールヴヘイム』」
 ざわめきと共に、呆れとも、感嘆ともつかぬ溜息が広がっていく。
 ごく短期間で、あれだけのスケールの宇宙船を建造してのけた枢木の技術力と生産力に、一同は驚きと畏怖の念を隠せなかった。

「全長六百m超、長期間・長距離航行が可能な最新鋭宇宙艦。
 必要とあらば単艦でも、太陽系外縁部まで進出可能だ」

 再び、どよめきが起きた。
 今の人類にとっては破格過ぎるスペックに、その場の面々が気圧される中、いち早く気を取り直したベテラン記者が反撃の口火を切る。

「――新聞の田中です。
 質問よろしいでしょうか?」
「ああ、どうぞ」

 フワリと柔らかな笑みを浮かべて応じる。
 だが、彼の身近な者がソレを見れば、明らかに違和感を覚えるであろう造られた笑みである事が、ビジネスと割り切っての対応である事を示していた。

 もっとも、そんな事など分からぬ記者は、一瞬だけ見惚れるように呆けるが、気を取り直すや慌てて質問を再開する。

「ど……失礼……どうしてそんな化物染みたスペックの宇宙船を?」

 出てきた質問はと言えば、凡庸の一言。
 だが、同時にとても重要な事でもあった。

 何故なら月を奪われ地球に逼塞するしかない今の人類にしてみれば、太陽系外縁部まで進出可能な宇宙船など明らかに過剰性能(オーバースペック)と言える以上、その建造目的こそが一番の関心事となる。

 とはいえ、当然の如く質問される側も、その程度の事は事前に想定済みであった。
 わずかに考える素振りを見せつつ、ルルーシュは迷う事無く問いに答える。

「ふむ、当たり前と言えば当たり前な疑問だな。
 火星を占拠され、月すらも奪われた人類には、外惑星まで進出可能な宇宙船など無用の長物」

 ここで一旦、言葉を切ると、自身の為した自問自答が、一同の中へと浸透して行くのを待ってから言葉を繋ぐ。

「ならば当然、その無用の長物を建造する理由が存在する」

 再び、その手が振られた。
 記者達へと面を向けたままの彼の背後で、プロジェクターの映像が切り替わる。

「これは……」

 小波のように広がっていく呟き。
 無意識の内に零れたそれ等に気づく事無く、記者達はプロジェクターを注視する。

 漆黒の空間に浮かぶゴツゴツとした岩肌を曝す『ソレ』は、どこか太ったサツマイモを連想させた。

 ――小惑星

 そう呼ばれる類の物だと気付いた者、気付かぬ者の区別無く、ルルーシュの解説が彼等の鼓膜を震わせる。

「太陽系内に無数に存在する小惑星の一つ。
 天文学的には別の名がついているが、我々は計画の便宜上『MFU』と呼称している」
 会場内の各所で、記者達が顔を見合わせた。
 互いの顔に、自身と同じモノを見て取った彼等は、混乱しつつも、唯一の解説者へと視線を戻す。
 そんな彼等の醜態を、どこか面白そうに眺めていた少年は、演台に用意されていた水を一口含み喉を潤すと、彼等の疑問に答えるべく口を開いた。

「この『MFU』は、最大長約八十q、凡そ八年周期で公転している訳だが、来年早々にも地球に最接近する。
 まあ最接近と言っても、数百万キロを隔ててのもので本来地球には何の影響も無いがな」

 そう言って少年は、三度、その手を振った。

「『アヴァロン計画(Project Avalon)』?」

 誰かが、プロジェクターに投影された一文を呟く。
 ルルーシュの顔に、今度は不敵な笑みが浮かんだ。

「その通り。
 今後、我が枢木は、最優先・最重要の計画として本計画を推進する」

 そこで再度、少年は言葉を切った。
 想定通り、狐に摘まれた様な顔で呆けている一同を確認すると、彼は計画の概要を語り出す。

「具体的には最接近する『MFU』の軌道を変更、しかる後、地球−月間のL4宙域に移動させる」

 プロジェクター上に概念図が映し出され、彼の言葉を補足する様に、モデル化された図の中で軌道を変更された『MFU』が、L4宙域へと移動するまでを示した後、唖然として沈黙する一同を他所に、再び画面が切り替わった。

「L4にて安定作業完了後は、『MFU』内部に恒久的な居住空間を設け、そこに大規模生産施設を建設する」

 今度は、『MFU』の概要図が表示され、そこにどのような施設を設けるかが概略で示された。
 各人の予想を完全にブッ千切った『計画』に、皆が皆、眼を白黒させる事しか出来ない中、辛うじて我に返った一人が、喘ぎながら問いを紡ぐ。

「け、建設するって……資材は……」
「我が方の分析では、『MFU』には豊富な資源が埋蔵されている可能性が高い。
 必要な資材は、『MFU』から資源を採掘し、現地にて生産する予定だ」

 立て板に水を流すが如く、サラリと返された答えに絶句する一同。
 BETA侵攻から三十年近い時が流れているが、その間の人類の宇宙における活動は、お世辞にも活発とは言い難い。
 再度の着陸ユニットの侵入を防ぐ為、対宇宙全周防衛拠点兵器群(SHADOW)を筆頭とする地球周辺での防衛・監視システムの構築こそ熱心だったが、逆にそれを越える領域へは殆ど手を出していないのだ。
 当然、くだんの小惑星『MFU』とやらについても、資源探査など行われてはいないだろう。
 有るかどうかも分からぬ資源を当てにしての大計画。
 無謀を通り越して、狂気と言われても不思議では無い程だ。

 困惑の眼差しが、狂人を見るそれに徐々に替わって行く中、当の本人はと言えば、涼しい顔で聴衆を見渡すと口元をわずかに釣り上げる。
 秀麗な容貌故に、より禍々しさを感じさせるそれに、皆が皆、背筋を寒くする中、演台から張りの有る声が飛んだ。

「これは、枢木一社の為ならず。
 帝国の未来を慮っての計画である」

 断ずる声が、僅かにあったざわめきを押し潰す。
 声変わりを終えたばかり位にしか見えぬ少年の放つ覇気が、海千山千の経験を経た筈の記者達を完全に圧倒していた。
 水を打ったような静けさの中、ルルーシュの声のみが朗々と響いていく。

「現在、帝国では大陸での戦闘激化に伴い、友好国の多い東南アジアを後背地とすべく生産拠点の移転を計画しているが、これは愚策である断言しよう」

 切り捨てる様な鋭さが声音に混じった。
 帝国政府の方針を、真っ向から愚策と断じる様に、多くの者達が顔色を無くす。
 中でも、帝国の方針に賛同の意を示し、提灯記事を書いていた大新聞などの記者達については、それが顕著だった。

 そんな彼らを、せせら笑う様に、少年の演説が続く。

「考えてもみるが良い。
 もし大陸が失陥し、帝国が前線国家となった場合、東南アジア諸国が後方国家であり続けられる可能性が、どれ程あるというのか?」

 幼子に言い聞かせる様に、疑問を織り混ぜながら重ねられた言葉に反論する声はない。
 大陸が陥落するという事はそういう事だと、告げる声にただ固まるだけだ。

 回答を或いは反論を期待してもいなかったのか、少年は場をざっと見渡すと再び口を開く。

「そうなった場合、帝国は自国のみならず後背地である筈の東南アジア諸国の防衛義務まで負うことになる。
 それがどれ程の負担を、帝国に強いるかなど考えるまでもあるまい?」

 疑問符で〆られた一言に、日本人記者達が口元を引き結ぶ。
 無資源国である日本が、BETA達と戦う力を維持する為には、資源が豊富で且つ友好関係にある東南アジア諸国との結びつきを強化するしかないと分かっていても、面と向かってデメリットを突きつけられれば、躊躇いを覚えずには居られなかった。

 だが、それでも代案が無い状態なら、それも通った。
 だからこそ限られた状況の中、比較的一番マシな選択をした筈の政府。
 それ故に賛同の意を示し協力してきた自分達(マスコミ)

 そうやって掲げられた免罪符を、眼前の少年は愚策と断じて引き裂いて見せた訳だ。
 ご丁寧にも代案まで用意して。

 整った容貌の中、三日月の様に弧を描く唇
 畏怖と反感を、否応無く掻き立てるソレに、日本人記者達の目線が険しさを増す。
 対して、少なくない国外の記者達は、日本帝国内に嵐の訪れを予感し、その中心となるであろう黒髪の少年を見定めるように注視した。

 そんな人々の様々な感情の渦を束ねながら、ルルーシュは傲然と胸を反らす。

「故にこその『アヴァロン計画』。
 BETAは、地表から一定高度にある人工物を攻撃しない事が、これまでの経験則から判明しており、また宇宙空間における人工物も同じ傾向にあるとの分析がなされている」

 これもまた事実。
 先年、着陸ユニットと思しき飛来物を、『SHADOW』が迎撃に成功した事は世界中に知られていたが、それに対するBETAの報復あるいは排除行動は確認されていない。
 また、月面監視ステーションや月周回衛星も無傷だ。

 この事実から、BETAには宇宙空間にある構造物を攻撃しない習性があるのではとの推測が有力視されつつある。

 ――故にこそ。

「合理的に考えるなら、奴等のその特性を利用しない手は無い。
 帝国が将来を見越して後背地を設けるなら、それは地上ではなく宇宙にあるべきだ」

 自身が推進する計画こそが正しい。
 言外にそう言い切る姿は、一片の揺らぎも無い程、自信に満ちていた。
 帝国政府共々、面子を潰される事となる大マスコミすら反論できぬ程に。

 強靭な意志を感じさせる紫の眼差しが、薙ぎ払うように一同を見回す。
 畏怖、あるいは反感を抱いた者達が、亀が首を引っ込めるように居竦む中、少年はいま一度手を振った。

 背後に投影されていた映像が途切れ、室内の照明が元のレベルに戻る。

「本日の発表は以上となる。
 計画の概要については、出口にて資料を配布するので必要な者は持ち帰るように」

 もはや伝えるべき事は終わった。
 そう言わんばかりに会見の終了を宣告する。

 本来なら、質疑応答を求めるべきところだ。
 だが、完全に気を呑まれた一同に、それを望むのは酷と判断したのか、手元の資料を取り纏めた少年は顔を上げて告げる。

「それでは、貴重な時間を割いて頂いた事に改めて感謝を贈り、本日の会見は終了とさせて頂く」

 礼儀作法の見本として使いたくなるような綺麗な一礼を残し、少年は踵を返す。
 律動的な足取りで、袖へと消えるその姿を、一同は声もなく見送ることしか出来なかった。



 翌朝の新聞は、この日この出来事を大々的に報道。
 一部の好意的な記事を除き、紙面は、ほぼ批判一色で染め上げられた。
 ことに某国粋主義的傾向の強い新聞社は、現役帝大教授、航空宇宙軍高官、あるいは高級官僚のコメントまで取り集め、口を極めて批判の論陣を張った挙句、最後にこう結んでいる。

 ――曰く『子供の妄想に振り回される愚か愚かな保護者達』と。



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―― 西暦一九九〇年 九月十一日 帝都・榊邸 ――



「お忙しい中、時間を取って頂き申し訳ありません」
「いやお気になさらずに、前回は私の方が無理を申しましたしな」

 卓に着いた二人の男が、互いに頭を下げあった。

 どちらも本質的に生真面目過ぎるきらいがあるのか、会う度に同じ光景を繰り返す様に、脇に控えていた第一秘書は、笑いの衝動を噛み殺すのに苦労しながらも何とか節度を保ちつつ、いつも通りに茶の準備を整えると礼儀正しく一礼し襖を閉ざす。
 遠ざかる足音が聞こえなくなるまで、互いに口を閉ざしたまま向かい合う榊と彩峰。

 手持ち無沙汰から伸ばした茶碗を手に持ち、ゆっくりと茶を啜っていた両者は、計ったように同じタイミングで茶碗を置くと、互いに視線を交差させた。

「……それで、答えは決まりましたか?」
「はい………」

 先に口火を切った榊に彩峰が応じた。
 わずかに言い淀む様が、言葉とは裏腹の迷いを感じさせる。
 そんな逡巡を断ち切る様に、真剣な眼差しで榊を見つめた彩峰は、ゆっくりと、そしてはっきりと続く言葉を口にした。

「前回のお話、受けさせて頂こうと思います」
「そうですか。
 感謝します、彩峰少将」
「……いえ、決断がここまで遅れた事を、お詫びしたい位です」

 ホッとした様子で礼を返す榊に、苦味を噛み締めるかの様に顔を顰めたまま彩峰が答える。

 ………確かに、彼にとっては苦い苦い決断だった。

 これまで積み上げてきた信用と実績。
 部下や同僚達からの信頼。
 そして何より罪無き兵達の生命。

 最悪の場合、それら全てを失い、或いは泥に塗れさせる覚悟が要った決断。

 言葉で言うのは容易いが、実際にそれを為すには途方も無い苦悩と葛藤を越えて来る必要があった。
 それでも尚、それを越えることが出来たのは、彼自身が抱く信念ゆえであろう。

 ――人は国のためにできることを成すべきである。
 そして国は……人のためにできることを成すべきである。

 その思いに従って彩峰は選択した。
 自らが最善と信じる道を。

 そんな彼の決断の重みを、充分に理解していた榊は、敢えて労いの言葉を飲み込んだ。
 いま必要なのは、そんなものではないと解っていたからこそ、彼は、これからの事を問う。

「さて……となると席は、どちらに用意すればよろしいか?」

 帝都近郊の部隊か、或いは、いずれ侵攻が予測される九州・中国地方の部隊か。
 どちらが動き易いかと問う榊に、彩峰は予想外の回答を返した。

「可能なら、本土防衛軍にお願いしたいと思います」

 榊の眉が微かに寄った。
 前線指揮官としての名声が高い彩峰少将としては、意外な選択だったからだ。

 そもそも現在の本土防衛軍とは、作戦に応じて各軍から必要な部隊を抽出し統合作戦指揮を執る任務部隊的な組織であり、平時には少数の戦術機甲部隊除き、固有の戦力という物を殆ど保持していない。
 確かにその性格上、日本が前線国家となった場合、指揮系統の一本化という観点からも、本土防衛軍がイニシアチブを握る事は充分考えられるのだが……

「……よろしいのですか?
 辛い選択となりますぞ」
「元より覚悟の上です」

 前線指揮官であった彩峰が、大陸出兵を控えたこの時期に後方に下がるとなれば、それだけで口さがない者達の非難や中傷の的となるだろう。
 ましてや、現時点で実働戦力を殆ど持たぬ本土防衛軍に行くとなれば、風当たりは更に強くなる。
 だが彩峰は、それさえも覚悟の上と言い切った。

「理由を、お聞かせ頂いてもよろしいか?」
「無論です」

 そこで言葉を切り、もう一度、茶で喉を湿らせる。
 手にした茶碗を卓に置き、彩峰は訥々と喋り出した。

「以前、大臣よりお話があってから、色々と考えさせていただきました。
 正直に申し上げれば、本土に残る事については、かなり早い段階で決心が着いたのです」
「答えが今日まで延びた理由が、本土防衛軍行きの理由だと?」

 榊の問いに、彩峰は無言で頷くと、再び、言葉を繋ぐ。

「ええ、多くの犠牲に眼を瞑り、未来の為に本土に残るというなら、どのような選択を採るのが最も望ましいかを、無い知恵を絞って考え抜きました」

 そこまで答えると、今度は彩峰が質問を投げる。

「大臣は、大陸派遣軍壊滅後、日本が前線国家となった場合、軍がどのような防衛体制を敷くと思われますか?」
「……残された戦力を、有効活用すべく動くでしょうな。
 その為の詳細な体制までは分かりませんが」

 そう答えつつも、榊にもある程度の予測はついていた。
 先程、想像した通りに流れる可能性が高いと。

 そんな榊の内心を見通した様に、彩峰は静かに首肯すると、その後を引き取る。

「その理解で正しいでしょう。
 そして恐らく予想されているでしょうが、その為には指揮系統の一本化、すなわち統合作戦指揮能力を向上させる事が主張される筈です」
「その役目を担うのが本土防衛軍だと?」

 再び返された問いに、彩峰は肯定の頷きを返した。

「はい、私もそれ自体に異議はありません。
 指揮系統を分散させ、遊兵を作る余裕など、恐らくその時の帝国には無い筈です」
「だから事前に本土防衛軍に地盤を作っておくと?」

 重ねられた確認に、今度は、彩峰の表情に躊躇いが生じた。

 既に組織として存在している以上、そちらを利用するのは間違いではない。
 但し、そこに合理性以外が、介在しないかというと無いとは言い切れなかった。
 少なくとも、彩峰はその可能性を感じ、そして恐れている。

 一瞬だけ、口にすべきか悩むが、ここは告げておくべきと判断し、彩峰は本心を吐露した。

「……それも確かにあります。
 ですが、それ以上に、本土防衛軍、いえ、それを直轄している参謀本部を牽制できるようにしておきたいのです」

 榊の双眸が、わずかに険しさを増す。

「参謀本部……ですか?」
「はい」

 互いの間に、重い沈黙が落ちた。

 帝国の軍制は大東亜戦争以来、文民統制の観点から、参謀本部に実働戦力を持たせる事を避けてきた。
 参謀本部直轄の本土防衛軍に、現状、固有の戦力が無いのもその余波である。

 ここまで来て、榊にも彩峰の言わんとしている事が理解できた。

 国土防衛の美名の下、どさくさ紛れに参謀本部が、再び実働戦力を隷下に置き暴走する。

 政治家にしてみれば悪夢であり、彩峰のような真っ当な軍人にとっても顔を顰める事態だろう。
 正直、無いとは言えなかった。
 いや、充分に有り得る事態と言える。

 現在の軍高官の顔ぶれと、その言動や行動を思い起こし、榊は、そう判断した。
 厳しい顔に、苦々しさを隠しきれない表情が浮かぶ。

「BETA相手に死力を振り絞らねばならん時に、それは堪りませんな」
「ええ、その通りです。
 だからこそ、その様な事態は未然に防ぎたい」

 その為の本土防衛軍行きであると、彩峰は結んだ。

 ――これは断れない。

 話を聞き終え、胸中で、そう呟いた榊は、彩峰の希望通り本土防衛軍に席が与えられる様、軍に働き掛ける事を約束する。
 この動きにより、彩峰は榊派閥の軍人と認識されるだろうが、それは仕方が無い事と割り切った。
 その事により、メリット・デメリットが生じるのは確かだが、その点は彩峰の才覚に頼るしかなく、それは当人も承知している。

 何はともあれ、まずは一山。

 そう安堵した榊は、その途端、喉の渇きを覚えた。
 柄にも無く緊張していた自分を悟り、目の前に置かれた茶を啜る。
 喉を過ぎる温い感覚に、ホッと一息つきながら、不意に彼は事の発端を思い出した。

 連鎖して思い起こされる騒動の記憶。
 緊張の緩んだ口元から、それが零れ落ちる。

「そう言えば、枢木の件ですが……」

 言いかけて言葉を濁す。
 先日の一件以来、どう評価したものかと頭を抱えているのが現状だった。
 それは彩峰にとっても同じだったらしく、渋い表情を浮かべつつ、歯切れ悪く呟く。

「……さて、どうしたものですか?」
「あの様な真似をするとは、思いもしませんでしたからな」
「確かに……正直なところ困惑するばかりです」

 そこまで会話を交わすと、互いに苦笑いを浮かべた。
 彼等の選択に大きな影響を及ぼす原因の暴走。
 正直、これをどう判断すれば良いのか、さっぱり見当もつかない。
 とはいえ、全てを白紙に戻すというのも有り得ない事であり、彼らとしては今後の対応をどうすれば良いのか決めかねるというのが本音だった。

 故に彼等は――

「当面は様子見、という事でよろしいか?」
「………そうですな。
 今回の一件で、枢木の真価を測り終えてからでもよろしいでしょう」

 ――妥協した。

 ある意味、日本人らしいと言えばらしい対応ではあるが、この場合は仕方なかった。

 こうして榊らは、当初予定していた枢木との接触を当面保留する。
 そしてそれは、あまりにも突飛すぎる『アヴァロン計画』が、歴史の歯車を歪ませた一例となるのだった。



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―― 西暦一九九〇年 十二月三日 帝都・料亭『瓢』 ――



 未だ後方国家としてあり、世界でも有数の国力を保有する日本帝国。
 今のご時勢でも、多少の出費を覚悟すれば、一般庶民さえ苦も無く天然食材に舌鼓を打てる恵まれた国。

 そんな帝国の中にあっても、やはり贅沢の極みと言われるに足るであろう豪華な料理と天然醸造の酒に囲まれながら、彼等の心が晴れることは無かった。

 ジリジリと真綿で首を絞めるように、或いは、暗闇から唐突に白刃が襲い掛かってくるような恐怖が、彼等の精神を荒ませている。

 それ等の根源的な原因はと言えば……

「昨今の枢木の専横は眼に余る」

 恰幅の良い帝国議員が、押し殺した怒りを酒気と共に吐き出した。

「奴等、一体何様のつもりか!」

 軍服を身に纏う高級将校が、杯ごと卓を叩く。

「もう少し持ちつ持たれつというの理解して欲しいものですよ」

 枯れた感じの老紳士が、さも不快そうに顔を歪めた。

「あの武家の恥さらしめが!」

 鍛え抜かれた隆々たる体躯の男が、汚物を見る様な眼差しのまま不満をブチ撒ける。

 ――企業の重役あり、官僚あり、軍人あり、政治家あり、あるいは武家もあり

 様々な立場・階層から、様々な理由で枢木に反感や敵意を抱く一同が介し、互いの立場を越えて反枢木の策を練る。

 これはそういう集まりであった。
 まあ、辛辣な言い方をするなら、『負け犬の集い』とも言える。
 いずれも反枢木の旗幟を鮮明にしていた分、今更、おもねる訳にもいかず、そのままの姿勢を堅持せざるを得ないという意味で。
 そしてそれは、彼等の命――政治生命だったり、社会的生命だったり、或いは実際の生命だったり――を危地に追い込む危険な遊びであるという事を、ようやく理解した時には既に手遅れとなっていたのである。

 ジワジワと伸ばされる枢木の魔手が、彼らとは別グループである反枢木集団を叩き潰し、失脚或いは左遷の憂き目に遭わせたのは、つい一月前の事。
 それ以来、自身の首筋に冷たい北風を感じ始めた彼等は、こうして集まっては事態打開に知恵を絞っているのだ。

「このまま連中の好きにさせておいて良いものか?」

 吼える。

「良い訳が無かろう。
 これ以上、デカイ面をさせてなるものか!」

 吠える。

 ……勢い良く。

 だが、それが虚勢であるのは、彼等以外、いや彼等自身にとっても明らかだ。
 眉間に皺を寄せた某大企業の重役は、苦々しそうな表情で危惧を口にする。

「……とはいえ、彼等の二の舞は、ご免ですぞ」
「あんな無能と一緒にするな!」
「待て、それは聞き捨てならんぞ!
 私も多少の親交は有ったが、決して無能などではなかった」

 弾かれるように上がった否定を、別方向からの声が更に否定する。
 一同のまとまりの無さが露呈する中、憎々しげな声がトドメを刺した。

「どこがかね?
 ただの石コロを掴まされて仲間割れした挙句、好き放題やられたではないか」
「貴様っ!」
「まあまあ、抑えて抑えて。
 ここで我等が仲間割れすれば、枢木を利するだけですぞ」

 知人を馬鹿にされ、激昂し立ち上がりかけた武家の男を手馴れた様子で宥めた重役の老人は、場の空気を締め直すべく枢木の名を口にした。

「「…………」」

 効果絶大と言うべきか。
 言い合いをしていた両者が、不承不承といった態ではあるが、互いに矛を引く。

 呉越同舟、同床異夢。
 元々、雑多な所属である一同に全てを貫く理念もなければ、目的も無い。

 唯一あるのが枢木憎しの感情だけ。
 そんな集団に、内心で溜息をつきつつ政治家の一人が口を開く。

「だが正直な話、このまま枢木の勢力が増せば我等も危うくなる」

 弱気とも取れる発言に眼を四角くする者も居れば、黙って俯く者も居た。
 自身が追い詰められつつある自覚のある者ほど、その傾向は強い。
 敗北主義が蔓延しそうな状況に、先程、仲裁に入った老人が慌てて嘴を差し挟んだ。

「今ならまだ巻き返せます。
 幸いにして、向こうが大きな失策を犯してくれた事ですしね」

 見た目上、自信たっぷりといった風情で、そう断言する男に周囲の注意が集まる。

「失策?」
「『アヴァロン計画』」

 老人が皺深い顔を歪めてニヤリと嗤った。
 座に不審と疑問の空気が生まれる。

 批判の的となっている『アヴァロン計画』については、この場に居る全員が承知している事だが……

「確かに荒唐無稽な夢物語だろうが、それが何故、我々の利になるのだ?」

 訝しげな表情を浮かべた武家が、一同を代表して疑問を口にする。
 確かに、枢木の計画が失敗するのは痛快であろうが、それに何の意味が有る、と。

 対して、優越感に満ちた表情を浮かべた老人は、嬉々として語り出す。

「武家の方には、ピンッと来ないかもしれませんな。
 ですが、あれだけの計画を動かすとなれば、動く資金と人も尋常ではないのですよ。
 いかに枢木であれ容易ではないレベル――そう計画が頓挫すれば、一気に屋台骨がへし折れかねない………こう言えば、お分かりになりますかな?」

 室内に緊張が走った。
 次の瞬間、歓喜の表情を浮かべた軍人が膝を叩く。

「成る程、その手があったか」

 投了直前での起死回生の一手に、互いに顔を見合わせる。
 そんな一同の耳元に、更に甘い言葉が注がれた。

「それに今回の計画では、枢木内でも危惧する声があるとか。
 上手くそれ等の不満分子を取り込めば、あるいは枢木自体を乗っ取る事も」

 笑い声が弾けた。
 先程まで、通夜の席の様に沈んでいた者さえも、興奮しながら身を乗り出し、思い思いに言葉を発していく。

「それは痛快だ!」
「奴等が帝国を蔑ろにし、貯め込んだ全てを奪う。
 いや、帝国の下へ取り戻す訳だ……面白い、実に面白い趣向だ」

 暗闇の中に見えた勝機。
 それが彼らのテンションを上げていく。
 だが、熱狂に身を曝す者ばかりと言う訳でもなかった。

「となると、どうやって計画を潰すかだが……」

 早くも、実行手段を模索する呟きが、将校の一人から漏れる。
 枢木の手強さを、嫌という程、味あわされてきた者にして見れば、実際に倒れる所を見るまでは楽観する気になれなかったのだ。
 対して、もはや勝った気になったのか、政治家の一人が楽観論を口にする。

「放っておいても勝手に自滅するのでは?
 専門家の連中も、口を揃えて無謀の極みと嘲っていますぞ」
「しかし、もし万が一成功してしまったら?
 ますます手が付けられなくなるぞ」
「その通り、人事を尽くして天命を待つべきだ」

 根拠の無い予想に、寄って集って反論が集中した。
 バツ悪そうに黙り込む発言者を他所に、何とか妙手をと一同は知恵を絞る。

「年明けには、あの艦……スバルトなんたらが出港するとか。
 そうなってしまえば、こちらからは手が出せないな」
「しかし、軌道ステーションへの出入りは、かなり制限されている筈だ」

 ――迂闊に手は出せん。

 そう結ぶ声が小さくなる。
 移動手段が限られるが故に、容易くは手出しできそうに無い状況に、一旦は喜色に彩られた室内が徐々に暗くなっていった。

 そんな時である。
 事の発起人とでも言うべき老人が、何かを思いついた様に指を鳴らしたのは。

「……式根島ですな。
 あそこには、枢木の造った専用の宇宙港があります。
 もし、あそこが『重大な事故』で使えなくなれば物資の搬入もままならず、計画の進捗に致命的なダメージとなる筈です」
「それで事足りるのか?」

 差し出された打開策に、誰かが半信半疑といった様子で疑問を投げる。
 わずかに同意する声が、チラホラと続くが、勝算ありげな企業家の応えがソレを封じた。

「あれだけの規模の大計画です。
 スケジュールの遅延一日で、眩暈がしそうな金が、羽を生やして飛んで行きますよ。
 ――そうですな、流石に半年も遅延すれば、枢木本体の資金繰りにも回復不能な問題が生じるでしょう」

 兎に角、流れを断ち切る事こそが肝要とばかりに主張する。
 そしてそれ自体は、誤りでもなかった。
 計画が停滞してしまえば、確かに枢木にとって途方も無いダメージを招くのは確実なのだから―――

「そこが狙い目か。
 『重大な事故』が起きたとなれば、枢木の管理責任を追及できる。
 その辺りで時間を稼げば、半年や一年などあっという間だ」
「よし、それで行こう!」

 腹を括った表情で、一同が頷きあう。
 最早これしかないという思いが、彼らの背を押していた。
 逆に言うなら、そこまで追い詰められていたという事でもある。
 恐らく今の立場・地位を維持したまま、年を越せるのはこの中の半分も居まいと言う焦りが、彼らに非常の手段を取る事を選択させたのだった。

 そうやって仲間内での合意に漕ぎ着けた反枢木の面々は、より現実的な話へと移って行く。
 いや、移ったのだが……

「となると、実際に手を下す駒が、必要な訳だが……」
「枢木のガードの堅さは有名だ」
「我等の手の者も、何度、煮え湯を飲まされた事か……」

 再び躓いた。
 苦い物を噛み締めるような表情で黙り込む面々。
 これまでにも、色々とチョッカイを掛けた末の結末を思い出したのか、一部の者は青褪めていたりもする。

「……あやつを使うしかないか」

 今にも歯軋りしそうな呟きが、沈黙を破って響いた。
 その一言で意味を悟ったのか、官僚の一人が問い質す声を上げる。

「『石コロ』を、ですか?
 いやしかし、それは余りにも無謀では」

 先の話にも出た別の反枢木グループ壊滅の切っ掛けを作った男を、この重大事に起用しようという話に、一座の中でも反対の声が次々に上がる。
 だがしかし、そうかと言って他の適任者を押す声が上がる事も無かった。

 現実問題として、曲がりなりにも枢木のガードを破って生還を果たしたのは、今のところ彼しかいない。
 その実績を前に、躊躇する声も徐々に声量を落としていった。

「他に枢木のガードを越えられる者はおらんだろう。
 ヤツとしても、雪辱の機会を与えられたとなれば励む筈だ」

 ついに痺れを切らした政治家の一人が、空回りする議論に終止符を打つ。
 互いの顔を見回していた他の面子も、流石に決心がついたのか、それに反論する事はなかった。

「閑職に回された恨みに期待しますか?」
「それにメリットもある。
 もし失敗したとしても、以前の件の逆恨みという事で処理すれば、我等にまで類は及ぶまい」
「案外、妙策かもしれませんな」

 さざめく様に肯定の意見が重なる。
 自らの不安を押し殺しての賛同。
 だが、ここに最終的な意見の統一は成った。

 その光景を確認し、制度上、彼の人物を動かし得る官僚が、深い吐息と共に宣言する。

「………いいだろう。
 鎧衣に、この件を命じよう」

 ここに再び、賽は投げられた。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九〇年 十二月十日 帝都・帝国軍技術廠 ――



「ようやく揃ったか……」

 最後の書類のチェックを終え、帝国陸軍少佐 巌谷榮二は、天を仰いで安堵の吐息を漏らす。
 するとその横手から、湯気の立つコーヒーカップが差し出された。

「ギリギリだったな」

 そう言いながら、淹れたてのコーヒーを巌谷に渡した篁は、自身も手にしたカップを軽く掲げて見せた。
 厳つい顔が、僅かに緩む。

 チンッと澄んだ音が鳴った。

 流石に職場での飲酒は憚られるので、濃い目に淹れた珈琲で乾杯を交わした二人は、ここ数ヶ月の修羅場を互いに労いあう。

 そう正に修羅場だった。

 枢木には出せぬ注文を、米国MD社に出す事で危急を凌ぐ策を出しはしたものの、まさかその担当者まで押し付けられるとは、流石に想像もしていなかった両名にとっては……

 言い出しっぺに押し付けてしまえとの安易な発想と、そして恐らくは面子を傷つけられた高官や軍需メーカーの意趣返しが混合した結果の労苦であるが、まさか嫌ですとも言えない為、本来の業務と並行しての折衝作業の日々。
 正直、過労死しなかった事が不思議な程のハードワークの連続に、良くぞ耐え切ったと内心で自分を褒めたくなった程だ。

 とは言え、これでも他の人間がやった場合に比べれば、三割方作業が軽減されているというのが恐ろしい。
 本来、枢木とライセンス契約を結んでいるMD社の活動範囲は、南北アメリカ大陸に限定されており、この件で日本と取引するのは契約に抵触する恐れがある為、おいそれとは行かない筈だったのである。
 内密にMD社と話を付けてくれた彼には、どれだけ感謝しても、し過ぎという事は無さそうだった。

 やがて疲れた表情を浮かべつつ、それでもホッとした様子の篁が、ポロリと本音を漏らす。

「何はともあれ、これで本業に戻れるというものだ」
「ああ、全くだ」

 そう言って軽く首を回す親友を横目で見ながら、巌谷は、手付かずで残っていた書類へと意識を移した。

「しっかし、随分と出てきたもんだな」

 傍らに積まれた報告書をザッとめくりながら、巌谷が呆れた様に呟く。
 帝国が、技術盗用もなんのそので、撃震・甲型を試作した様に、各国もファントム・アップデートシステムを模倣した『新兵装』を開発していたのだが、その内の幾つかについての情報が其処に記されていた。

 ………記されていたのだが。

タイガー(F-5E)向けアップデートシステムは兎も角……コイツら、一体なにを考えてるんだ?」

 心底、訳分からんといった口調で呟きながら、見るからにボリュームたっぷりな『新兵装』の概要を記しているページをめくった。

 ――装甲内部に増槽を設ける。

「………」
 ちょっと眩暈がしたが、気を取り直して次を見る。

 ――固定内蔵火器を装甲内に組み込む。

「………ふぅ……」
 巌谷は、溜息と共にパタリと資料を閉じた。

 やはり訳が分からない。
 見も知らぬ技術者達が、一体何を志向して、こんな物を造ったのかが、彼には全くわからなかった。

 アップデートシステムの中核を成す多機能装甲(MCA)という概念を、表層的にしか捉える事が出来なかったのか、装甲内に雑多な機能を搭載する事で自己満足した結果、本来の目的――装甲の換装のみで第一世代機に準第三世代機相当の機体特性を付与する――を見失っている物が殆どを占めている。
 正直、蛇足の塊りにしか見えないそれ等を反芻しつつ、巌谷は友へと問い掛けた。

「……あ〜〜……増槽が必要なら、外部に着脱式で付ければ済む話だよな?」
「推進剤を使い切ったらパージ出来る分、それが一番合理的だ」

 常と変わらぬ冷静沈着な親友の答えが、巌谷の気分を落ち着かせてくれる。

「……なら、固定火器が必要だとして、お前ならどうする?」
「装甲表面に支持架を追加して固定した後、空力を考慮したカバーで覆う。
 整備や砲弾の補給もやり易いし、いざという時は捨てて逃げれば重しにならん」

 立て板に水が流れる様に淀み無い篁の回答に、巌谷はそうだよなと、言わんばかりに頷いた。
 チラリと動いた目線が、手元で閉じられた資料へ向かう。

「………」

 無意識の内に巌谷は、イヤイヤをする様に首を振る。
 何も考えず、装甲内部に詰め込めるだけ詰め込んでみましたと言わんばかりの画期的(トンデモ)な『新兵装』が、目白押しと言える状況に、やはり彼は首を捻る事しか出来なかった。
 何ともいえない気分に、思わず愚痴が零れる。

「試行錯誤の過程で、色々なアイディアが出てくるのは分かるんだが……
 鈍重な第一世代機を、更にゴテゴテとデコレートした所で時代に逆行するだけだろう?」
「……まあ、それだけ余裕が無いという事なのかもしれんが、明らかに戦術機の進化に逆行してはいるな」

 篁は軽く肩を竦めて肯定する。
 珍しく皮肉の色があるのは、技術将校の視点からみても呆れる面が多々有ったからだ。

 流された血を対価とし得られた戦訓に基づき、現在の戦術機の進化の方向性は『防ぐ』ではなく『避ける』へと定められている。

 ――より軽快に、より俊敏に、そしてより効率的に、攻撃を『避ける』。

 その思想の元、第二世代機、第三世代機の概念は提唱されており、枢木のアップデートシステムが高評価を受けているのも、その概念――機動性と即応性の向上――を装甲の交換だけで実現している故である。

 なのに、それを模倣した筈の『新兵装(魔法の鎧)』が、何故か明後日の方向へと驀進した挙句、厚みたっぷり中身もギッチリな重装甲へと成り下がっている姿に、巌谷は首を傾げるしかなかったが、技術将校である篁には、大まかな理由の想像がついていた。

『OBLを装甲に組み込む』

 言葉で言えば単純だが、装甲全体に張り巡らせたOBLを十全に機能させ、且つ、軽量化しつつも装甲自体の強度や耐久性を、従来以上に保つというのは地味に難しい。
 そして更に、その製造技術――具体的には、歩留まりの低減には必要不可欠な製造工程と品質管理が完全に秘匿されている為、製品そのものを模倣できても、商品として扱うレベルに達する事はなかった。
 現時点で、それを商業レベルで可能としているのは、開発元である枢木とそこから技術供与を受けたマクダエル・ドグラム社のみである。
 先日も、国内メーカーが挑んだ挙句、恥を掻いて終わる結果となったのは記憶に新しいところだ。
 そんな実現困難な命題にぶつかり挫折した各国の技術者達が、上の要求するままにゴテゴテと詰め込んだ結果が、これら万能を詐称する『新兵装(無残な失敗作)』の実態なのだろうと。

 篁は、名も知らぬ技術者達の苦衷を察し、かすかな苦笑を浮かべると、話題を変えるべく親友に水を向ける。

「国内の連中も、結局、モノにするのを諦めたらしいしな」
「色々と悪あがきをしていた様だがな」

 友の言葉に、巌谷は肩を竦めて応じた。

 撃震・甲型がお蔵入りとなり、開発費その他を含めて手痛い出費を被った国内メーカーが、その後も、何かと蠢動していた事は、彼等の耳にも届いている。
 だが結局、何らかの打開策を得る事も無く、泣き寝入りする破目になった事も。

 とはいえ、横道に回されていたリソースが、本道――すなわち、耀光計画へと戻ってくる事は、彼らにして見れば喜ぶべき事でもあった。
 メーカー側にしてみれば、災難の一言であるが、自業自得の面がある以上、あまり同情する気にもなれない。

 精々、茶呑み話の一つ程度であり、そして彼らにとって、それは一つではなかった。
 手にしたカップの珈琲を啜りつつ、今度は巌谷が、小耳に挟んだ話題を提供する。

「そう言えばタイガー(F-5E)絡みで、EUから技術提携の打診が有ったそうだが、こちらは枢木側から断ったそうだ」

 現在EUで活躍中の小型軽量戦術機であるタイガー(F-5E)は、練習機を元にしているものの機体自体の評価は高い。
 だが惜しむらくは、小型機の悲しさ、拡張性に乏しいという点がネックとなっていた。
 元々の設計に余裕のあるファントム(F-4)の様に、装甲の換装だけで済ますには難しいものがあるらしく、それ故、枢木も手を出すのには二の足を踏んだ結果がそれである。

「基礎設計そのものは悪くないから、機体自体を弄れば、まだいけるとはロイド氏の言だが、同時にアップデートシステムのコンセプトから外れるとも言っていたな」

 早く、安く、簡単にというのも、枢木のアップデートシステムの売りであり、駆動系を含めた改装までいくとなると、最早、その範疇から外れた単なる改修である。
 次期主力戦術機の開発又は選定に難儀しているEUにしてみれば、場つなぎという位置づけでなら、それでも良かったのだろうが、枢木の視点からみるとコストパフォーマンスの面から見て意義を見出せなかったというのが実情だ。
 その際、そんな無駄をする位なら、イーグル(F-15C)ファルコン(F-16)でも買っておけと放言し、EU(あちら)の担当者を激怒させたのは、ロイドらしいといえばらしいと言える。
 まあ結局のところ、あらゆる機体に適応できる万能兵装などという代物は、所詮、子供の空想の中にしか存在し得ないという世知辛い現実を示す一幕となった出来事だった。

 だが、それにしても悔やまれるのは……

「正直、枢木が戦術機開発から弾かれた時、周りから反感を買っても良いから、口添えしておけば良かったな」

 ただ、その一事。
 卓越した枢木の技術力と、それを支え、そして産み出し続けている奇矯な天才の手を、この先も、直接借りる事が叶わぬことが悔やまれた。

 だが篁は、そんな未練を一刀の元に斬り捨てる。

「今更だな。
 死んだ子の歳を数えても、空しくなるだけだ」

 そう言って軽く肩を竦めて見せる親友に、巌谷の口元もわずかに綻んだ。
 過去を振り返り反省の糧とするのは良いが、それに囚われるのは頂けない。
 時計の針が戻らぬ以上、確かに篁の言う通り、空しくなるだけだと気付いた巌谷は、軽く息を吐くと、速やかに頭を切り替えた。

「……まあ、あちらの口利きで、必要な装備が揃えられただけ御の字か」
「ああ、これで大陸に渡る将兵達に、必要な装備を持たせてやれる」
「それだけでも、当面は充分……といった所だな」

 何はともあれ、当面のやりくりは付いた。
 現在の帝国の主力を担う撃震(F-4J)が、老朽化による耐用限界を迎え始める二〇〇〇年代初めまでは、アップデートシステムの導入により、相応の戦力維持は叶うだろう。
 後は……

『……耀光計画を、どうするべきかだな』と、篁は胸中で独白した。

 紆余曲折こそあったが、帝国軍の戦力向上は成った。
 ……しかし

『耀光計画が失敗すれば、帝国の未来が閉ざされるのに変わりは無い』

 これはあくまでも、次期主力戦術機が完成するまでの場つなぎでしかない。
 次へと繋げる為にも、新たな機体の開発が必須である事を、彼は良く理解していた。

『何とかしなければ』

 再び停滞気味の耀光計画を、そして帝国の未来をこそ彼は案じる。
 現状は、高い要求仕様に対し、保有技術の劣勢が、どの様な形で影響するかが頭痛の種であった。
 技術面の問題から、設計余裕をギリギリまで切り捨てたタイトな設計案が上がって来る辺り、この懸念が老婆心とは思えず、彼の胃がキリキリと痛む日々が続いている。

『やはり……根本から考え直すべきかもしれんな』

 この時、篁の胸中には一つの案が産まれていた。
 突飛過ぎる案であり、間違いなく大きな反発も産むだろう。
 だが、上手く行けば多くの課題を一気に解決できる筈だった。

 そうやって逡巡する思いを抱え、迷いを覚えた男は、無意識の内に背を押される事を期待し、親友へと視線を移す。

 篁の眉がわずかに寄った。

「……どうした巌谷?」

 何か考え込む様に、窓外を見ている友が其処に居た。
 思わず零れた問いに、巌谷がハッと反応する。

「……いや、何でもない」

 掛けられた問いに言い難そうに言葉を濁す。
 分かり易すぎる親友の仕草に、篁は苦笑を浮かべながら重ねて問うた。

「嘘を吐くな。
 傍から見ればバレバレだぞ」
「……貴様には敵わんな」

 内心を、あっさりと看破された巌谷は、どこかほろ苦い表情を浮かべると、胸中を整理するように眼をつぶった。
 そのままリズムでも取るように指を動かす仕草を、しばし続けた後、彼は眼を開く。
 何かを決意した眼差しが、篁を射抜いた。

「年明けには、大陸派遣軍の第一陣が出る訳だが……
 それと一緒という訳にはいかんが、俺も大陸に渡ろうと思っている」
「巌谷っ!?」

 唐突な親友の宣言に、思わず篁は大声を張り上げる。
 冷静沈着を旨とする親友には似つかわしくない反応に、巌谷の面に一瞬だけ痛みにも似た色が浮かんだ。

 ……だがしかし、

「『耀光計画』の進捗が思わしくないのは、貴様も分かっている筈だ。
 ここは計画自体に刺激を与える為にも、実戦でのデータを取っておくべきだと考えた末の事だ」

 既に腹を括った巌谷の結論は変わらなかった。
 彼もまた、彼なりに耀光計画の進捗を案じ、その打開策を模索したが故の結論なのだから。

「だが、お前が直接行く必要は……」

 唖然として、呟くように零れた友の言葉が、巌谷の心に響く。
 だがそれでも、これだけは譲れないとの思いが、彼の言葉に力を宿した。

「有る!
 今この時、実戦で得た生きた経験は、必ず次期主力機開発の益となる」

 触発されるように、篁が激しい語調で反論する。

「兵器開発に実戦経験者の意見が、必要不可欠なのは事実だろう。
 だが、必ずしも開発担当者が、実戦に出てデータを集める必要は無い筈だ!」

 正論だった。
 全ての開発者が実戦経験者である必要性は何処にも無い。
 それでは開発者の数を揃える事自体が、困難になるだけだ。

 そうやって正論を掲げ、翻意を促す親友と、巌谷は睨み合う。

「お前は、反対という事か?」
「ああ、反対だ」

 もはや売り言葉に買い言葉に近い。
 互いに、互いの存念を掛けて双方の意志が激しく火花を散らした。

 このままでは埒が明かぬ。
 そう判断した巌谷は、一つ深呼吸をして気を鎮めると、唐突に攻め手を変えてみた。

「俺が斯衛から帝国軍へ移った理由は、貴様も知っているだろ?」
「……ああ知っているとも」

 篁の顔に、一瞬だけ戸惑いが浮かぶ。
 巌谷が斯衛軍から帝国軍へと移った理由を思い出したからだ。

 満足そうに巌谷が頷く。

「俺が帝国軍に移ったのは、BETA共と戦う為だ。
 戦って、奴等の事を肌で感じ、そしてそれを戦術機開発に生かしたい。
 それをお前は、間違っていると言うのか?」

 それが理由。
 それを考慮する限り、巌谷の行動は終始一貫しており、何処にも矛盾は無い。
 その事を理解できてしまうが故に、どうしても返す答えは鈍くなった。

「……そうは言っていない。
 確かに『耀光計画』の進捗は思わしくない。
 だからこそ、計画半ばにして開発衛士の中心である貴様を、欠く訳にはいかんのだ!」
 わずかに歯切れが悪くなりつつも、篁は反対の姿勢を崩さない。
 それ程までに、『伝説の開発衛士』のネームバリューは大きかった。
 計画への悪影響を懸念せざるを得ない程に……

 だがそれは、巌谷にも分かっていた。
 分かった上で、それでも必要と決断した以上、彼もまた止まれない。

「その計画を進める為にも、必要だと言っているんだ!」
「実戦データを集めるだけなら、貴様が戦場に出る必要は無いと言っている!」

 互いの主張がすれ違う。
 親友達の間に生じたわずかな亀裂、それが産む結果を、今はまだ誰も知らなかった。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九〇年 十二月十八日 式根島 ――



 夜空を覆う雲が、月を、星を隠す。
 曇天の下、闇に包まれた海原には、ただ波のみがユラユラと蠢いていた。

 そんな中、暗い色の海に、一筋の白い線が浮かんだ。
 ゆっくりと広がり行く白い筋。
 それを更に切り裂くように、黒いナニかが浮かんできた。

 有る程度の知識がある者なら、それが何かを看破出来ただろう。
 軍の保有する特殊潜航艇であると――

 やがて、穏やかな波間に浮上を完了した潜航艇のハッチが開かれた。
 最初に上がってきた男は、狭い甲板に降り立つと波間へと黒い物を放り投げる。
 着水した瞬間、ドタバタと暴れまわり出したソレは、やがて黒いボムボートへと変じた。
 ボートに付いた綱を引き、船体へと横付けしたところで、ホッと一息つく。

 その時――

「手間を掛けた。
 後は宜しく頼むよ」

 背後から唐突に掛けられた声に、ギクリッと心臓を一つ鳴らしつつ、彼は振り返った。
 振り返った先に立つのは一人の男。
 トレンチコートとそれに合わせた帽子を粋に着こなしている。

 今回の任務のお客人だった。
 呉からここ式根島まで、彼を運ぶのが上から下された命である。
 それ以上の事を知る権限は無く、また知るべきでないと判断していた軍人は、労いの言葉にも、定型通り任務の枠内にて応じた。

「ハッ、ご武運を!」

 返された形式的な敬礼。
 答礼を返すべきかと一瞬考えた客であったが、軍人でもない自分がやるのもおかしかろうと軽く会釈を返して応じると、そのまま危なげない足取りで、ボートへと飛び移った。
 いきなり掛かった負荷に、不安定なゴムボートが激しく揺れるが、絶妙なバランス感覚の賜物か、特に問題なく揺れを収めてのけると、備え付けのエンジンに火を入れる。
 ゆっくりとした速度で動き出すボートが、安全圏まで離れたと判断したのか、彼の背後で潜航艇が、再び、潜航を開始していた。

 波間へと沈み行く姿を、何処か醒めた眼で眺めていた男は、口元にニヒルな笑みを浮かべる。

「……いやはやご武運とは。
 もし放火魔に、そんなモノがあったら洒落にならんだろ?」

 燻る自嘲を吐き出した。
 そして……

「やれやれ、こんなベタな真似をする破目になろうとは」

 ……己の美学に反する行為を嘆く。

 余りにも堅い枢木のガード。
 関係者以外の出入り困難な離島という立地条件。
 更に、短過ぎるタイムリミット。

 悪条件を上げればキリの無い今回の任務。
 正直、格好悪いだのなんだのと言える余裕がなかったが故の選択であった。

 そうやって胸中の不平不満を零す中、船はゆっくりと岸辺へと近づいていく。
 島影を挟んだ反対側、宇宙港などの施設が集中する側とは逆になる闇の多い方へと進むボートは、やがて小さな入り江に辿り着いた。

 手早くボートに穴を空けると、男は軽く縁を蹴る。
 二メートルを越える距離を助走なしで跳んで見せた男は、無事、砂浜に降り立つと背後を見やった。
 ゆっくりと沈み行くボートが、掛けっぱなしのエンジンに引き摺られ、沖合いへと動いてくのが見える。
 やがて波間に完全に没した一時の相棒を見送った男は、さてとばかりに僅かに乱れた襟元を直すと、まるで既知の土地であるかの様な足取りで歩き出し、数分後、待ち人の下へ辿り着いた。



「釣れますかな?」
「――っ!?」

 磯の岩場から釣り糸を垂れていた男が、ビクリッと身体を震わせながら背後へと振り向いた。
 ややくたびれた感じの中年の男だった。
 取り立てて特筆すべきところもない極々普通の男。

 資料では、妻と子供三人、更に年老いた両親を養っていたな――と、脳内で反芻しつつ、コートの男は言葉を重ねる。

「釣れますかな?
 カワハギ辺りが釣れたなら、一匹譲って貰えませんかな?」

 恐怖に彩られていた男の顔が、安堵と疑心に取って代わった。
 わずかに逡巡する眼が、値踏みするようにコートの男を見回す。
 やがて、内心の決着がついたのか、男は震える指先で脇に置かれていた大き目のクーラーボックスを指し示した。

「そ、そこのクーラーボックスに入ってる。
 欲しけりゃ……持って行けばいいさ」
「それはそれは」

 動揺しまくった男の声を、脳内で吟味しつつコートの男は、ボックスに手を掛ける。
 敢えて見せた背中、だが危険を知らせるモノが彼に伝わる事はなかった。
 そのままボックスの中身を改めると、必要な物を取り出す。
 振り返ったその先には、青い顔に脂汗をびっしりと浮かべた中年が居た。

 男の口元に憐微の色が浮かぶ。

「おお、これは見事な。
 これ程の物を、タダで頂くのは心苦しい。
 些少ではありますが、代金としてお納めを」

 何かを誤魔化すような芝居がかった口調と仕草。
 どこか作り物めいたソレを演じつつ、男は用意していた封筒を中年の男に渡す。
 ズシリと重いソレを手にした瞬間、相手の顔に歓喜と後ろめたさが複雑に交じり合った色が浮かんだ。

「あ、ああ」
「それでは」

 見届けるモノを見届けた男は、もう用はないとばかりに背を向ける。
 どこか呆然とした様子で、その背を見送る中年の視界から、やがて木々が彼を覆い隠した。

「どう見ても素人丸出し……篠崎のお嬢様の手の者という線は消えたか」

 生い茂る樹木の間を、かすかな月明かりのみでスイスイと抜けて行く男の唇から、独白がこぼれ落ちる。
 上が用意した内通者という事で、始めから疑ってかかっていたのだが、どうやら杞憂だったようだ。

「巨大に成れば成る程、どうしても隙が出来るものだが……」

 自身の疑念を、言葉に出しつつ整理する。
 如何なる組織であれ、完全な一枚岩という事は有り得ず、必ず何処かに付け入る隙はあるというのは事実だが、少し都合が良過ぎる気もした。

 わずかに燻る警戒心。
 だが、事実がどうであれ、これからの自身の行動は変わらないと判断し、男はその場で立ち止まった。
 手にした品を広げ、わずかに覗く月明かりにかざす。
 大金と引き換えに得た品――地下まで含めた最新の島内施設の詳細情報を僅か数分足らずで脳内に納めた男は、木々の隙間から垣間見える雲隠れしつつある月を見上げた。

「さて、気の進まないところではあるが、これも宮仕えの悲しさというヤツですかな」

 そう一言呟くと、男――鎧衣左近は、再び落ち始めた夜闇の中に、溶ける様に消えていった。







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どうもねむり猫Mk3です。

う〜ん。
膨らみすぎ。
書いてる内にどんどんと。


それでは次へどうぞ。




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