Muv-Luv Alternative 赤き竜の紋章


【黎明の章】


第三話 〜傷痕〜






 カツカツとヒールの音を鳴らしながら壇上を進む姿に、一同の視線が否応無しに集まっていく。
 好意的なモノなど殆ど無い不可視の槍衾。
 それらを傲然と或いは超然と見下しながら演台へと到った美女は、その仇名に相応しい不敵な笑みを浮かべて周囲を一瞥した。

 潮の様に引いていくざわめき。

 未だ三十路にも至らぬ小娘に海千山千の大使達が、揃って気を呑まれていく様は滑稽であり、そして恐ろしくもあった。

 ――横浜の魔女。

 誰が付けたか知らぬが、その仇名こそが彼女に相応しい事を再認識した国連加盟国の面々は、それ故にこそ続く言葉の一言一句すら聞き逃すまいとその耳を澄ます。
 音割れの欠片すら聞き取れぬ高性能なマイクとスピーカーを経由して、広い議場の隅々まで『魔女』の声が響き始めた。

 滔々と、或いは淡々と。

 彼女――香月夕呼にしては珍しい抑揚をまるで感じさせぬ平べったい語り口で述べられる報告。
 常ならば、その強烈な個性で周りを引っ掻き回し、望む結果を引き出す彼女には似つかわしくない態度ではあったが、この場合は、これこそが正解であった。

 報告が進む毎に、聴衆たる各国の大使達の顔色が目に見えて悪くなっていく。
 中には青を通り越し白っぽくなった頬を、ブルブルと震わせている者も居た。

 今この場に居る一同のほぼ全てに共通する感情――それは『恐怖』だった。

 夕呼の言うところの軽い反撃のジャブ。

 太陽系規模で進行している異変に彼の『白鯨(モビーディック)』が関わっているであろうという証拠写真付きの考察を、立て板に水を流すようにスラスラと、それでいて酷く平坦な口調で語る様は、常とは異なる態度であるが故に重みと迫力を増していた。
 結果、『白鯨(モビーディック)』との接触を禁じられた事に対する意趣返しは、彼女の予想以上の精神的ダメージを相手にもたらし場を満たす空気の深刻さをいや増す事に成功する。

 BETAという侵略者の猛威が吹き荒れるこの世界において、宇宙からの新たな来訪者が、新たな脅威となる可能性を否定出来る者などおらず、議場を埋め尽くす各国の大使等も例外ではなかった。
 唯一、夕呼による『白鯨(モビーディック)』への接触を徹底的に否定し、葬り去った米国大使のみが、わずかに顔を青褪めさせながらも憎々しげな視線を彼女に送り続けていたが、それは飽くまでも例外に過ぎない。
 その他の者達が、どこか期待する様な、縋る様な眼差しを自身に送ってくる事を気付きながら、意図的にそれを無視した美女は、淡々とした口調を崩す事無く報告を終えた。

 質問を促す声に、競い合うかの如く林立していく手、手、手……そして手。

 わずかでも情報を得ようとして殺到するソレ等を一瞥する夕呼の視線が、苦々しさを湛えて自身を睨む米国大使のソレと重なる。

 ルージュの曳かれた唇が、三日月のような嘲笑を形作った。





■□■□■□■□■□





 吹く風が肌に突き刺すような痛みを与える。
 関東北部に設けられた難民キャンプの一つでは、既に日常の一部となった木枯らしだ。
 羽織った山吹のコートの襟を左手で寄せながら、唯依は吹き荒ぶ風の冷たさに僅かに頬を顰める。

「寒いな……」

 無意識に零れる言葉。
 零れ落ちた瞬間、白く染まったソレに、少女は再び形良い眉を顰める。

 難民キャンプの窮状は、話には聞いて理解していたつもりであった。
 だがやはり、聞くと見るとは大違いとの格言通り、想像を更に下回る現実に胸の奥で疼くものを感じつつも、少女は己の役目を果たすべくその豊かな胸を張る。

 申し訳程度に設えられた粗末な仮設住宅が、吹く風にあおられギシギシと軋みを上げる中、唯依の――否、将軍殿下の使いの来訪を知らされた難民達が、続々とキャンプの出入り口に近い空き地へと集まってきていた。
 集う者たちの疲れ切った姿、どこか恨みがましい眼差し、それら全てが彼女の良心に鈍い痛みを走らせる。

「―――」

 わずかに怯むモノを感じ、一瞬だけ躊躇する唯依。
 だが自身に与えられた役割を忘れる事なく、少女は艶やかな唇を必死で動かした。

「先ずは、皆の生活の場を乱した事に謝罪を」

 その一言と共に頭を下げる唯依の姿に、微かなざわめきが広がっていく。
 政威大将軍の使いともあろう者が、取るに足らぬ――少なくとも彼等自身はそう自虐していた――者達に、いきなり詫びを告げると誰も思ってもみなかったからだ。
 思わぬ出来事に狼狽し、先程の胡乱な空気が風に吹かれて消えて行く中、謝罪の言葉と共に下げていた頭を上げた唯依は、再び朗々たる声で告げる。

「皆の窮状は、既に殿下のお耳にも届いている。
 そして未だ帰郷のメドも立っていない事にも、ひどく心を痛めておられる」

 ざわめきが、ゆっくりと鎮まっていく。
 注がれる視線が、先程のそれとは変わっていった。

 微かな期待と大きな不安。
 ヒシヒシと押し寄せるそれらを肌で感じながら、唯依は再び言葉を発した。

「……故に殿下は、せめてもの詫びを皆に届けるよう命ぜられた」

 その一声と共に、白い繊手が振られた。
 それを合図として、低いエンジン音が連なり響いてくる。

 何事かと音源へと眼を向けた一同のソレが揃って見開かれた。
 難民キャンプのささやかなゲートを潜り、多数のトラックが入ってくる様を驚きと共に見る一同の鼓膜を、今一度、凛然とした少女の声が震わせる。

「殿下ご自身が、私財を投じて用意された物。
 僅かではあるが、日々の生活の足しにして欲しいとのお言葉だ」

 山吹の斯衛軍用コートを纏い屹立する唯依。
 その背後に次々と止まる多数のトラックと、そこに満載された多量の物資に、呆然としていた難民達の脳へ少女の美声がようやく届いた。

 ――刹那。

 歓声が広場を満たした。
 悠陽を讃える声が、そこかしこから上がる。

 だがそれは、物を恵んでもらった事への喜びではなかった。

 無論、困窮する彼等にとって多量の物資の差し入れはありがたい。
 だがそれ以上に、彼ら難民達にとって、将軍殿下が、この国の頂点たる御方が、自分達の事を忘れてなどいないという事が、その事が目に見える形で示されたのが、なによりも嬉しかったのだ。
 BETAによって故郷を追われ、国からも半ば置き去りにされるように難民キャンプへと押し込まれた彼等にしてみれば、この事実は何物にも勝る価値がある。

 歓喜の声をあげる難民達から、その事を感じ取った唯依も、その紫の双眸をわずかに細めた。
 発案者の意図はどうあれ、これが彼等にとって生きる希望となる事は疑いない。
 ならば、このまま事を推し進めるのは、確かに価値ある事なのだと少女は思った。

 音にならぬ吐息が、微かに漏れる。
 大根役者は、大根役者なりにその役を演じきる覚悟を決めた唯依は、再び声を張り上げた。

「数は充分にある!
 慌てず、騒がず、順番に申告して受け取る様に」

 毛布に暖房用燃料、食料、衣服、医薬品――多量の生活必需品が、彼女の言葉を裏打ちするかのように、次々と荷台から下され荷解きされていく。
 GM弾により産み出された富が姿を変えたソレ等は、広場の一角に手際よく積み上げられ、その前に陣取った主計課から引っ張ってきた下士官等の前に、難民達が行儀よく列を作り出した。

 なんとも日本人らしいその光景に、唯依も微かに頬を緩ませる。
 つい先刻までのソレとは、打って変わった柔らかな光を宿した瞳が、遥か南の空へと向けられた。

 その脳裏に、この一件を仕組んだ旗振り役の顔が浮かび、白い頬がわずかに緩む。

『礼ぐらいは言いに行くべきか……』

 帝都に戻ったら、せめて一言なりと感謝を告げようと心に決めた唯依は、微妙に軽さを増した足取りで黒い人だかりへと歩み寄っていった。





 この後、唯依は、二週間近く掛けて関東に点在する難民キャンプの全てに悠陽の使いとして赴く事となる。
 その行為は、やがてTVやラジオでも流され始め、将軍殿下の深い温情と配慮を国民の中に浸透させていくのだった。

 結果、悠陽の名声と権威は大きく伸張し、日本帝国の象徴として無視し得ぬ力を増していく事になる。
 これにより彩峰中将の刑死後、帝国軍内での勢力を減退させていた将軍派も、息を吹き返し、後々の帝国に無視し得ぬ影響を与える事になるのだった。

 またこの余波と言うべきか、殿下の使いとして奔走した唯依も、その秀麗な容姿も相まって、幾度となく立ち働く姿を放送に流される破目になる。
 その結果、当人の意向など蚊帳の外に置かれたまま、悠陽の手足として動く忠節の側近として否応なく周囲から認識されてしまった彼女は、またもや余計な苦労を背負い込む破目になるのだった。





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「……ふむ、順調という事か?」

 艦長席に座ったまま空間に投影されているウィンドウの中の定時報告を読み終えた青年は、感心するように呟く。
 わずかな期間で成果を挙げてくる腹心の辣腕が、相変わらず衰えていない事にアルトリウスの頬も微かに緩んだ。

 対して、感心された当の本人はと言えば、表情筋の一筋すら動かす事無く、真面目一徹といった口調で報告を補足する。

「はい、現地――日本帝国内に幾つかのダミー企業を設立するのに成功。
 現状は、高度AI達のみで運営していますが、今後は現地の人員も雇用し、彼の地への浸透を深めていく予定です」

 まずは足場を築くとの言葉通り、着々と地歩を固めている事を告げる相手に、青年はわずかに目を細めた。

 数が限られる以上、この地における活動の全てを高度AI達で賄う事は出来ない。
 となれば、現地の人間を使うという選択は、至極当然のものでもあった。
 ただ必要以上のしらがみを、この地に持つ事を嫌っていた筈の腹心の方向転換に、わずかな戸惑いを覚えたアルトリウスは問いを重ねる。

「現地の事は、現地の者に……か?」
「ええ、我が軍のAI達は優秀ですが、やはり右も左も分からぬ地では勝手が違います。
 今後の事を考えるなら、現地の人間の手は必要不可欠であると考えます」

 発せられた問いに打てば響くような答えが返る。
 琥珀の瞳が、一瞬だけケイから外れた。
 ここではない何処か、自分ではない誰かに当っているソレに気付きながら、謹厳実直な参謀長は気付かぬ振りをする。

 ――かすかな吐息が零れ落ちた。

「……そうだな。
 無用の摩擦を起こさぬ為にも、この地の者の手を借りるのも必要な事だろう」
「はい、それが賢明かと」

 一拍の間を置いて返された応えに、ケイは小さく首肯して応じた。
 応じて、そして確信する。

 ――やはり手を打つべきだと。

 内心に生じたその考えを、露とも面に出さぬまま黒髪の青年は、極めて事務的な口調で今後の方針について確認を取る。

「では、このまま進めさせて頂きます」
「ああ宜しく頼む」

 どこか思案顔のまま頷いた彼の主君は、一つ頷いて了承を返すと、ゆっくりと席を立つ。
 そのまま歩み去る背を、ケイは何も言わずに見送った。

 どこへ行くかなどと問いはしない。
 主君が、ここしばらく帝都に構えた地上拠点に入り浸っている事を、彼はきっちりと把握していた。
 そして、それが何の為であるのかさえも。

 やや疲れた声が、溜息と共に青年の喉から零れ落ちた。

「……殿下……たとえどれ程、似ていようとも、あの娘は、あの方ではないのですよ?」

 表面上、どう取り繕っていようとも、己自身すら欺こうとも、彼の目だけは誤魔化せない。
 そしてそれ故に、これは自分が対処すべきであると確信した青年は、手にした端末から必要な情報を呼び出すと、以前から考えていた小細工を実行に移したのだった。





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「――以上で、報告を終わらせて頂きます」

 滔々と紡がれていた報告を締める声が室内に響いた。

 今この場は、以前、アルトリウスとの会見に使われた悠陽の居室。
 そこに居るのは、あの時から一人、数を減じた三人であった。

 唯依の報告に静かに耳を傾けていた高貴な少女が、おもむろに涼やかな声を発する。

「ご苦労でした篁。
 随分と手間を掛けさせてしまったようですね」
「とんでもございません!
 殿下の臣として、当然の事をしたまでの事。 お気遣い無きように」

 掛けられた労いの言葉に、唯依は恐縮しきりといった様子で頭を下げた。
 ソファに座っていなければ、そのまま平伏しかねない畏まりぶりに、野太い声が面白そうに響く。

「とはいえ、御主の働きにより殿下の声望が上がったのは事実。
 そうでありましょう?」

 そう言って水を向けてくる紅蓮に、悠陽もフワリと微笑み、信頼する臣下の意見を肯定する。

「紅蓮の言う通りです。
 謙遜は美徳ではありますが、正当な評価を拒む事はありません」
「ハッ!」

 重ねられた労いの言葉に、今度は唯依も喜色を浮かべた。
 自身の行いを苦労などと思った事など無かったが、それでも認められ労われれば嬉しくない筈も無い。
 ましてやその相手が、忠義を尽くすべき将軍その人となれば、喜びもひとしおと言えた。

 高揚する精神に、ここ二週間分の疲れなど、完全に吹き飛んだ唯依。
 だが過ぎ去った日々に思いを致した時、その美しい紫の瞳に陰りが生じた。

 彼女が、この二週間の間、悠陽の名代として見続けてきたモノ。
 連想的に、それらを思い出してしまった瞬間、喜びもまた、空気の抜けた風船の如く萎んでしまったのだ。
 形良い柳眉が寄り、白い眉間に深い皺が生まれる。
 艶やかな少女の唇から、微かに軋む呟きが零れた。

「……勿体無いお言葉。
 ですが、難民達の窮乏ぶりを思えば、我が身の無力さを恥じ入るばかりです」

 悠陽の幼い美貌に憂いの色が浮かぶ。
 いかつい紅蓮の顔に、苦い表情が生まれた。

 控えめな声が、憂うべき現状を問い質す。

「難民達の窮状は、聞きしに勝るという事ですか……」
「残念ながら……その日の食にも事欠く有様。
 これから最も寒い時期を迎えるに辺り、燃料なども足らぬかと」

 主君の問いに小さく頷いた少女は、端的にありのままの事実を答えた。
 高貴な少女の貌に浮かぶ憂いが、更に濃さを増す。
 苦味を堪えるような男の声が、続きを促すように響いた。

「今回の分では、まだ不足という事か?」

 野太い声に返されるのは、再びの肯定。
 美しい黒髪を、再度、揺らしながら首を縦に振った唯依は、嘆息混じりに彼女の見立てを報告する。

「当座は何とか凌げるでしょう。
 ですがやはり、継続的な支援が無くば、今後の先行きに問題が生じるのは確実と考えます」

 今回の支援も一時的なモノ。
 飽くまでも、絶望に浸る民草に希望をもたらす効果こそが重要とされており、その生活を完全に保証してやるには程遠い。
 GM弾のライセンスから得られる利益は莫大であるが、それら全てを難民の生活の為に回す訳には行かぬ現状が、唯依には歯痒かった。
 『彼』の齎した再建計画に納得はしていても、護るべき民草の窮状を目の当たりにすれば、躊躇する想いも産まれてしまうのは仕方ない

 新技術の提供とその一部を売る事で齎される資本。
 それらによって停滞していた国内経済の活性化を図り雇用を創出する。

 そのサイクルは理解できるが、それが現実の物となる時までには相応の時間が掛かる筈。
 今この時に、救いを必要としている者達が、その時を迎えるまで生き延びる事が出来るのだろうか?

 そんな疑問が、唯依の、悠陽の、そして紅蓮の胸中に産まれる。

 ――答は、『否』

 どうしようもない憤りを感じ、苛立たしげに紅蓮が吼えた。

「政府は何をしておるのだ。
 予算とて、それなりについているだろうに」
「是親も、必死に対応しているのでしょう。
 先の戦での爪痕が、それ程に大きかったという事です」

 猛る紅蓮を前に、悠陽が悲しそうに眼を伏せる。
 消え入りそうなその声に、我に返った豪傑は、我が身を恥じ入り赤面した。

 ――国土の半分を焼かれ、数千万の民を食い殺された。

 名目上とはいえ、この国の頂点にある彼女にしてみれば、それをどんな想いで受け止めているのだろうか。

 自身よりも更に華奢な肩に、途轍もない重荷を背負って立つ主君の姿に、唯依は憂いの眼差しを向ける。
 少しでも、その荷を軽くしてやりたいと願うのは、悠陽を除く両者にとって偽らざる本音でもあった。

 そんな臣下達の胸中を知ってか知らずか、否、恐らくは全て知った上で、悠陽は淡い笑みを浮かべてみせる。
 儚げなその笑みに、胸を締め付けられる唯依に向け、彼女の主君は厳かに告げた。

「二週間の務め、ご苦労でした。
 本日より三日間の休暇を与えます。
 充分に骨休めして次の務めに備えなさい」

 生真面目過ぎる少女に、まともに休めと言っても効かぬであろう事を先読みした悠陽の一言。
 休む事自体を務めとして命ずる言葉に、その真意を汲み取った唯依の頭が再び下がる。

「殿下のご配慮、無下には致しません」

 そう言って頭を垂れる唯依。
 その頭上に、それまでとはわずかに趣きの異なる悠陽の声が降って来た。

「休みを与えると言っておいて気が引けるのですが、アルトリウス殿に伝えておいて下さい。
 この身がとても感謝していたと――それと、出来ればまたお会いしたいとも」

 先程まで涼やかな美声に宿っていた憂いの響きが薄れ、変わって別の感情がほのかに聞き取れる声。
 俯き臣下の礼を取っていた少女の細い肩が、視認できぬほど微かに震えた。
 心中に生じた小波を、意志の力で抑え込んだ唯依は、悠陽の忠実な家臣として主君の求めに応じる答を返す。

「……はい、殿下のお言葉、彼の御仁に確かにお伝えいたします」

 そう言って請け負う唯依の横手から、野太い声が割って入った。

「その時は、またワシも同席させて頂けますかな?
 先回は殆ど話す機会がありませんでしたが、異世界の武人の話も聞いてみたいところですしな」

 おどけた口調で話す紅蓮に、少女達の頬も揃って緩む。
 無骨に見えて妙なところで察しの良いこの偉丈夫の気配りに、憂いの残滓を洗い流した悠陽の美貌にも困った様な笑みが浮かんだ。

「……紅蓮……篁、頼めますか?」
「殿下の御意とあらば、この身命に変えても必ずや」

 苦笑混じりの問い掛けに、こちらは生真面目そうな答えが返る。
 悠陽と同じく自身のペースを取り戻し、常と変わらぬ真面目ぶりを取り戻した唯依。

 そんな彼女に向けて、悠陽はフワリと微笑みながら、たしなめの言葉を口にする。

「そこまで堅苦しく考えずともよい」
「左様、少し肩の力を抜くがいい」

 重なる言葉。
 そこに篭められた労わりに、唯依は三度、頭を下げた。

「はっ……申し訳ありません」

 そう言いつつも、かしこまる少女の姿に、視線を見合わせた両者の顔に苦笑と呆れが浮かんだ。
 どこまでも生真面目過ぎる忠臣に、困ったものだと言わんばかりの視線を向けながら、悠陽は退出を促す言葉を掛ける。

「では下がりなさい」
「ハッ!」

 濡れ羽色の髪がサラリと揺れる。
 そのまま静々と立ち上がった唯依は、最後に一礼をするとゆっくりとした足取りで退出していったのだった。





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「……ふぅ……」

 わざと明度を落とした室内に、壮年の男の疲れた溜息が響く。
 官邸の執務室内で持ち込まれた難問に頭を悩ませていた榊是親総理は、眼鏡を外して疲れた眉間を揉み解しながら、誰に言うでもなく愚痴を零した。

「まったく彼女の我が儘にも困ったものだ」

 横浜の魔女殿の無理難題に、流石の榊も頭を抱えたい気分を堪え、唸る事しかできなかった。
 これが一年、いや二年前ならまだなんとかなったものをと思いながら小さく嘆息する。

「……正直、今の我が国に彼女の要望に応える力は無い」

 先の大侵攻とその後の混乱の末、国土の半分は焼け野原。
 総人口の三割に及ぶ国民が、BETA共に食い殺されたのだ。
 帝国の力は、二年前と比べれば半減……いや、それ以上に落ち込んでいる。

 そんな自国に、彼女の新たな要望――『白鯨(モビーディック)』との接触に要する人員や資材を調達している余裕など到底無かったのだ。

 無論――

「大きな意味がある事は、分かるのだがな……」

 そう呟きながら、榊は自嘲の笑みを浮かべる。
 人類を、そして恐らくはBETAをも超えるであろう力を持つ新たな来訪者。

 もし彼等と友好的な接触を果たし、その力の一端なりと貸し与えて貰えたなら、人類は盛り返せる。
 いや、盛り返すどころか大きく飛翔する事すら夢ではないという事は、榊にも良く分かっていた。

 とはいえ正規のオルタネイティヴ第W計画とは方向性がまったく異なる以上、そちらからの予算流用は望み薄、いや、間違いなく米国がゴネる事は目に見えている。
 となると第W計画担当国である日本帝国が、大部分を自腹で済まさねばならぬ可能性が極めて高かくなるのだ。

 そして今の帝国には、そんな余裕など逆さに振っても存在しない。
 未だ難民達に満足な住居と食事すら与えることすら出来ない体たらく。
 先日の殿下のご厚意を知らされた際には、ありがたいとの気持ちと共に恥ずかしさと情けなさに一睡も出来なかった程だ。

「悪いが、この要望には応えられん」

 現状を鑑み、そう判断せざるを得なかった。

 落とし所を探るなら、安保理理事国共同での専門の委員会の発足と、その管理下での接触へのアプローチといったところである。
 米国単独での接触は、内心では何処の国であれ避けたい筈だ。
 勝算は充分にあり、もし首尾よく接触を果たせたなら帝国にもそれなりの恩恵が見込めるだろう。
 無論、失敗した場合の責任は、応分に負う事になるだろうが、それでも帝国単独で行うよりは余程マシな筈だった。

 残された問題はと言えば――

「……魔女殿の腹の虫か……」

 正直な所、これで臍を曲げられても困るというのも事実。
 未だ、日本が第W計画担当国である事によるメリット――国連軍の傘の下、国土防衛体制を強化できているという事実は、弱体化した軍の再編中である帝国にしてみれば捨て難いものだ。

 そしてソレ等が維持できるかは、彼の魔女殿の胸先三寸。
 計算高い彼女が、後先考えぬ行動に出るとは到底思えぬが、この件の意趣返しにとんでもない事をしてくれる可能性は充分にあった。

 となれば何か別の物を差し出して、魔女殿の機嫌を取るしかない。

 ――取るしかないのだが、おいそれと差し出せて、且つ、彼の魔女を納得させる価値あるモノなど、流石の彼も持ち合わせてはいなかった。

 もう暫らく後であったなら、自身の娘を国連軍に志願――すなわち人質として差し出すという手も使えたろうが、今は諸々の事情からそれも出来ない。

 苦悩の表情を浮かべながら、しばし煩悶していた榊であったが、やがて苦々し気な表情を浮かべると溜息混じりに呟いた。

「……止むを得んか。
 正直、心苦しい限りだが、殿下の功績を使わせて頂くしかあるまい」

 魔女殿を宥める最後の手段。
 以前から、彼の魔女が引渡しを求め、軍の強硬な反対と本来の持ち主である煌武院悠陽殿下へのはばかりから頓挫していた物。

 今の帝国軍にとって、掌中の珠とでも言うべき物を差し出す決意を男は固めたのだった。





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 日の落ちたばかりの道を、足早に歩く人影があった。
 山吹のコートを纏い、片手に荷物を携えた唯依は、目的地への道のりを軽い足取りで歩いていく。

 もう幾度と無く通った道。
 眼を瞑ってもとまでは言わないが、多少、考え事をしていたとて間違う気遣いは無い。

 だからという訳ではあるまいが、律動的な歩みを進める少女の脳内では、言い訳と自己弁護の言葉が乱舞していた。

『これはあくまでも、あくまでも儀礼的な物だ』

 自身にそう言い利かせながら片手に携えた大振りのタッパーの状態を気遣う。

 中身は、折角の休みを、ほぼ丸一日費やして作った彼女の得意料理である肉ジャガだ。
 充分に時間をかけ、ジックリと煮込んだ結果、隠し味の胡椒も良く馴染み、母の作ってくれた逸品にも勝るとも劣らぬと自負する会心の出来栄えである。

 そんな逸品を携え向かう先と言えば――

『恩人に礼を言いに行く以上、手ぶらなどと言う真似は出来ん。
 ……ただ、それだけ……ただそれだけの事だ!』

 ――言わずと知れたアルの屋敷。

『決して他意など無い。
 他意などありえん!』

 そうやって、しつこい程に自身に言い聞かせながら、目的地へと足早に向かう唯依であったが、不意にその足が止まる。

 ふと脳裏を過ぎった不吉な想像。
 自身の行いが空回りかもしれないとの疑念が、豊かな胸の奥に産まれる。

『……これは彼の口に合うのだろうか?
 そもそも千年後の人間、それも異世界ともなれば味覚が異なる可能性も……』

 不味いと言われたら。
 いや、言葉にせずとも、ホンの少しでも表情に出されたら……

 柔らかくボリュームのある唯依の双丘に白い手が添えられた。
 胸中に産まれた氷塊の様な冷たく重い感覚を、必死で押さえつけるように強く強く押し付ける。
 コートの下でムニュリと肉が拉げる感じを覚えながら、微かに不規則になった呼吸と鼓動を整えつつ、少女は自省に沈み欠ける己を必死に鼓舞した。

『いや、だ、大丈夫だ。
 この間、馳走になった紅茶も、それ以前に振舞われた物も充分美味いと感じられた』

 これまで訪れる度に受けた饗応を思い出し自身を落ち着かせる。
 少なくとも、不味いと思わせる様な物を出された記憶は無かった。

 ――ならば、こちらが美味いと思う物は、向こうもそう思うはず。

 そう胸中で言い募り、湧き上がる不安を必死に押し殺しながら、律動的な足取りを維持したまま唯依は更に足を速める。
 結果、いつもよりも二割増し歩速を増した少女は、程なくして目的地の門へと到った。

 相も変らぬ周囲に埋没するような没個性なありふれた屋敷。
 目立たぬという観点からすれば、ほぼ百点と言えるであろうその家の門に取り付けられた呼び鈴をほっそりとした指先が押す。
 来訪を告げる音が、厚い門扉越しにも聞こえた。

 しばしその場で出迎えを待つ唯依は、微かな乱れが気になって髪を手櫛で整える。
 枝毛一つ無い綺麗な髪が、サラリとその手に従った。

 やがて門が開かれ、いつもと同じく無表情な使用人が――

「あら?」
「むっ?」

 ――現れなかった。

 代わりに現れたのは、月明かりの中、匂い立つような濃密な色香を放つ肉感的な美女。
 クリーム色のコートの下、仕立ての良いブラウスの胸元からは、零れ落ちそうなほど豊かな肉球が垣間見え、ラインも露なタイトスカートが豊満な腰回りを見せ付けている。
 鼻を突く香水の匂いすら、どこか挑発的で煽情的に感じられ、それが潔癖な少女の癇に障った。

 紫の双眸が意図せぬままにきつくなる。
 女の本能なのか、無意識に生じた敵意が、この少女には似つかわしくないトゲトゲしい雰囲気を纏わせた。

 そんな剣呑な空気を垂れ流す唯依に対し、当の睨まれた本人は微かに口元を綻ばせる。
 ルージュの曳かれた厚手の唇が、薄い笑みを形作った。

「――っ!?」

 唯依の美貌が、羞恥と憤りの色に染まる。
 明らかに子供扱いされた事を悟った少女であったが、自身の直近の行いを省みれば文句を言う事すら出来ない。
 そうやって、やり場の無い感情に整った容貌を朱に染め上げる事しか出来ない唯依の横手を、軽い会釈一つ残して見知らぬ美女が通り抜けていった。

 脇を抜ける際、濃い脂粉の匂いが立ち上る。
 どこか生々しさと『女』を意識させるソレは、唯依に不安と不快を催させた。

 去り行くその背を、今にも射抜いてしまいそうな鋭い眼差しで睨む。
 やがて夜闇の中に、その姿が埋没すると、すぐさま踵を返した少女は案内を請うことすらなく邸内へと駆け込んで行った。

 勝手知ったる他人の家。
 それを地で行く邸内を、迷う事無く最短距離で走破した唯依は、これまでの最短記録を更新しながら目的地へと辿り着くや、断りすら入れる事なく胸中に燃える不可解な感情のままに障子に手を掛け押し開く。

「失礼する!」

 凜とした声には、隠しようの無い怒気が篭っていた。
 思わぬ乱入者に呆気に取られ、こちらを見上げる室内の住人は一人だけ。
 その事に何故かホッと安堵した少女の耳朶を、驚きと呆れが相半ばする青年の声が打つ。

「篁!?
 ……何か急用か?
 今日は来る日では無かった筈だが……」

 珍しく驚いた表情で、こちらを見る琥珀色の瞳をした青年。
 端然と座すその姿に、ふと既視感を覚えた唯依は、頭に昇っていた血がサァッと引いていくのを自覚する。

「う……あ……」

 言葉が上手く紡げない。
 否、言うべき言葉――言い訳が、まるで思いつかなかった。

『なんだ、なんだ、なんなんだ!?
 私は一体何を……どうして!……なんでっ!……』

 自身が犯した無作法と、それをさせた感情の昂ぶりと、それ等全てを説明し、納得し、納得させる言葉など今の彼女の内にはない。

 何と言って申し開きすればいいのか分からず、ただただ混乱するだけの世慣れぬ少女。
 このまま行けば、どうしようもない醜態と、自身の内に生じた醜い感情の正体を自覚し、羞恥の余り悶死しかねかっただろう彼女は、その不名誉な未来の到来を一陣の風に救われる。

 微かな風が、白い頬撫ぜた。
 同時に室内に漂っていた薄れ掛けの脂粉の匂い――先程の女のそれと同じ物を少女の鼻腔に送り込む。

「――っ!」

 血が退いた。
 更に更に。

 頭がどこまでも冷えていき、そしてどうしようもない程に身体が熱くなっていく。

「……無粋な真似をしたようだ」

 声が漏れた。
 自身のそれとは思えぬ程に、抑揚のない冷たい声が。

 どこか画面の中のお話を見ているような感覚。
 感情の一部が完全に麻痺した事を理解しつつ、自身の眼前の相手を見据える。

「……篁?」

 遠くから聞こえる声、否、今の彼女にとっては只の音の羅列だ。
 それらの音を、右から左に聞き流しながら、唯依の唇が機械的なまでに正確に、そして無機質に動く。

「折角の時間を邪魔してしまった無作法を、お許し頂きたい」

 そう言って見事なまでに隙の無い詫びを告げる唯依。
 そんな彼女を唖然とした様子で見詰めていた青年の喉から掠れた声が零れ落ちる。

「……何を、言っている?」
「失礼する!」

 問い掛けを掻き消すように鋭い一声が放たれる。
 そのまま身を翻した少女は、文字通り脱兎の如く駆け出した。

 長い廊下を抜け、玄関を抜け、門を飛び出す。
 背後から呼びかける声が聞こえた様な気もしたが、とても立ち止まる気にはなれなかった。
 門を抜けて尚、その足が止まることは無い。

 夜闇の中、何かから逃げるように走り続ける唯依。
 手にしていた筈のタッパーは、いつの間にやら失われていたが、それにすら気付く事無く少女は走る。

 月光に照らし出される血の気を失った白い頬。
 そこには途切れる事無き光る筋が、くっきりと刻まれていた。





■□■□■□■□■□





 地上拠点であるアルトリウスの屋敷を管理する高度AIからの定時連絡で、謀の成功を確認したケイは、ムスッとした表情のまま呟く。

「やれやれ……小手先の細工でしたが、上手く嵌ったよう何よりです」

 ――これで両者は、少なくとも唯依は、アルトリウスに対し、一定の距離を保つだろう。

 そう判断した青年に、渋い表情をした老魔術師(マーリン)が、控えめに苦言を呈する。

『……正直、あまり感心しませんぞ。 参謀長殿』

 片棒を担がされた身の上とはいえ、元々、人間に奉仕する事を大前提としている電子知性体にしてみれば、それに反するような真似をするのは好ましくないと判ずるのも無理は無い。
 特に限りなく人間に近い知性を与えられ、アルトリウスの祖父の思考パターンを基に形成されている老魔術師(マーリン)にしてみれば、当然と言えば当然の反応だった。

 そんな老魔術師(マーリン)の反応に、怜悧を以って鳴る青年参謀の顔にも苦い表情が浮かぶ。

「そんな事は百も承知です。
 下種な真似をした事くらいは理解していますよ」

 苦味を帯びた反論――いや、言い訳が不機嫌そうな声音で紡ぎ出された。

 やらねばならぬ事だからやったまで、やりたくてやった訳ではない。
 そう自身に言い聞かせながら、苦い思いを噛み砕き、平坦な声で続く言葉を口にした。

「我等はいずれ還り、そして彼女はこの世界に残る。
 不必要に距離を縮める事は、互いにとって望ましくありません」

 別れが必然ならば、ある程度、距離のある関係こそが望ましい――そう告げる青年に、老魔術師(マーリン)の表情も僅かに緩んだ。

『気苦労が絶えませんな参謀長殿』
「あの方が歩くべきは王道。
 そしてその道を掃き清めるのは私の役目。
 手を汚し、汚名を受ける事は、むしろ本望です」

 掛けられた労いに、ケイは静かに首を振る。
 否定の仕草に続いた言葉は紛れも無く彼の本心だ。
 王佐の才たらんとする青年にとって、その為の行為は苦労などではなく喜びなのだから。

 そんなケイの返答を受けて、老魔術師(マーリン)の目がスッと細まった。
 白い美髯を撫でながら、試すように問いを重ねる。

『参謀長殿は、あの娘が、殿下の王道を穢すと?』

 重ねられた問いに、再び否定が返された。
 無言のまま首を振った青年は、どこか遠くを見る眼差しのまま訥々と答えを返す。

「……良い娘だとは思います。
 ですが文字通り生きる世界が違うのです。
 ならばビジネスライクな繋がりで済ますべきでしょう」

 自分達は彼等に技術という名の力を与え、代償として帰還の為に協力してもらう。

 そういったドライな関係であるべきと一通り主張するとケイはその身を翻した。
 去り行くその背を見送った老魔術師(マーリン)の肩が落ちる。
 老魔術師を象ったAIは、器用な事に溜息までつきながら、ぼそりと一つ呟いた。

『……で、貴女はどうなさるのかな?』

 振り返った視線の先、物陰から出てきたばかりの一部を除き完璧な美貌が映る。
 貼り付いた様な笑顔と、透き通る様な白い額に浮かんだ青筋が、ひどく印象的だった。





■□■□■□■□■□





 ――不機嫌という言葉を具象化すればこうなる。

 今の篁 唯依を見れば、誰もがその言に同意するだろう。

 それほど迄にピリピリとした空気を漂わせながら、唯依は技術廠内の自身の部屋で溜まっていた業務をこなしていた。

 ――三日前までは。

 既に停滞していた業務は、全て片付き、新たに出てきたものも即行で処理してしまった為、既に一月先の業務まで終えてしまった程だった。

 今は、もう終わった仕事を、見直しと称して確認しているだけの彼女。
 それほどまでに、技術廠内での仕事にしがみ付くのは、言わずと知れた彼の所為である。

 本来なら、様々な懸案のすり合わせの為に、来訪せねばならぬ日さえも、業務繁多を理由にキャンセルしたのは、一重に顔を合わせたくない、合わせられない為だった。

「ふぅぅ……」

 形良い唇から、陰鬱な嘆息が零れた。
 もう三度も『見直した書類』を、バサリと執務机の上に置く。

 いつまでも、こうして逃げ続けられる筈も無い事は百も承知だ。
 そうそう同じ言い訳が効く筈もなく、何よりそんな真似をし続ければ帝国の未来に深刻な影響を及ぼすだろう。

『この身も、心も、全て代償として捧げた筈――そうではなかったのか、篁 唯依!』

 煮え切らぬ自身を、胸中で叱咤する。

 己の全ては、既に己の物にあらず。
 全ては、彼に譲り渡した。
 帝国を、世界を救う為に……

 ――もはや篁 唯依という存在は、既に彼の物、ただの所有物でしかない。

 ……そう何度言い聞かせても、揺れる心が鎮まらない、心中の奥深くに澱む暗くドロドロとした感情が、鍛え抜かれた筈の精神の束縛すら打ち破って、彼の下に赴く事を拒ませた。

「我ながら、何たる未熟……」

 自嘲の嗤いが漏れる。

 幼少時から重ねた精神修養の成果は、たとえ数万のBETAを前にしようと揺らぐ事はない。
 そう信じていた少女にとって、その信頼を嘲笑うかの様な己が心が不甲斐ない限りだった。

 ――本当にこの身が、ただの物であれたなら、どれほど楽だったか。

 そんな想いを抱きつつ、いま一度嘆息した少女の耳朶を、時を告げる鐘の音が突く。
 おもむろに視線を転じた時計は、既に十八時を指していた。

 一応とはいえ、終業の時間ではある。
 もっとも山ほど業務を抱えている技術廠の職員にしてみれば、これからが本番とも言える時間だ。
 そして唯依にしてみれば、何とか粘る口実を見つけねばならぬ時間帯でもある。

 しかし、今日はありがたい事に、まともな用事があった。
 不快感とセットであるのが不満だが、それでも何も無いよりはマシ。

 そんな捨て鉢な気分と共に、手早く片づけを終えた唯依は、一旦、屋敷に戻って仕度を整えるべく部屋を後にしたのだった。





■□■□■□■□■□





 読経の声と微かなすすり泣きが、門を潜ったところで少女の耳にも聞こえてきた。
 わずかに重くなった気分を感じながら、玄関脇に置かれた記帳所にて名前を記し、包んできた香典を差し出す。
 丁重な達筆で書かれた自身の名を眼にした相手が、かすかに眼を見開くのに気付いた唯依であったが、意図的に無視してそのまま奥へと進んだ。
 行く者の流れに乗り、戻る者とすれ違いながら、他者には気付かれぬように小さな溜息を吐く。

 先の明星作戦にて戦傷を負い、治療の甲斐なく亡くなった武家の長男の通夜。
 さほど付き合いがあった訳でもなかったが、同じ『山吹』の当主として参列した唯依は、周囲から注がれる好奇と嫉妬の視線を黙殺しつつ、作法通り仏前にて焼香を済ませると、喪主や家人に一礼をしてから次の者へ焼香の席を譲る。

 仏となった故人の前では似つかわしくない囁きが、随所で交わされる中、話題の主である少女は、毅然として胸を張りながら胸中で不満を吐き捨てた。

『……フン、そんなにも珍しいか』

 『山吹』の身でありながら、『赤』を押し退け現将軍の側近に成りおおせた少女は、それ故に少なからぬ嫉視を浴びる毎日。
 特に武家の集まるこの場では、それが顕著となるのも道理と言えば道理と言えた。
 正直、不快としか言えない状況であったが、このままそそくさと逃げ帰る訳にも行かないのが辛いところである。

『これも篁家当主としての務め……我慢、我慢だ……』

 そう自身に言い聞かせながら、最低限の付き合いを果たすべく設けられていた饗応の場に出向いた唯依は、空いている適当な席につき軽く箸を付ける。
 筆で刷いたような形良い眉が僅かに寄った。

 味付けはまあそれなり、だが使われている食材がよろしくない。
 一応は、天然物の様だが、正直これなら合成食の方がマシなのではと思えるレベルだった。
 自身でも相応に料理を嗜む少女は、それなりに味覚も鋭い。
 周囲から注がれる無遠慮な視線にも辟易し、唯依は完全に食欲を失ってしまった。

『……もういいだろう、流石に……』

 豊かな胸の奥で、そう諦めの呟きを漏らした少女は、手にした箸をそっと卓に置く。
 最後のけじめとばかりに、猪口に注がれていた酒を飲み干すと、それもまた卓へと戻し、楚々たる振る舞いを崩す事無く立ち上がった。
 視線が上がり、そして止まる。
 居心地の悪い場を辞そうとしていた唯依であったが、饗応役として立ち働く親族らしき女性の一人に軽い既視感を覚えたのだ。

「んっ?」
「――っ!?」

 思わず漏れた疑問の声。
 それに導かれる様に、こちらを見た相手の顔色が僅かに変わった。
 その反応から、相手もこちらを知っている事が伺えたが、それでも思い出せない。

 ……思い出せなかったのだが。

『どこかで会ったか?
 それもつい先日……』

 記憶の中、それもごく最近のソレに、何かが引っ掛かる。
 棘の様に突き立つソレに不快と不審の念を抱きつつ、都合悪そうにそそくさと去っていく喪服の背を見送った。

『ダメだ。 まるで思い出せん』

 そう胸中で呟きながら、唯依は微かに首を振った。

 何か、とても嫌な記憶に繋がっているような何とも気持ちの悪い感覚。
 思い出したくないような、それでいて思い出さねばならぬような、どうにも表現し様の無い思いが胸中にわだかまる。
 自身でも制御の利かぬその心中の動きに、焦燥にも似た不快感を覚えながら、それでも表面上の節度を繕い少女は静かにその場を後にした。

『義理は果たした。
 篁家当主の務めとしては、これで充分だろう』

 心の中で言い訳を呟きながら、どこか逃げる様に足早に玄関を潜った。
 周囲から、相も変わらず注がれる無遠慮な視線に、うんざりとしながら門を抜けた少女は宵闇の中にその姿を紛れ込ませたところでようやく一息吐く。

 やれやれと言わんばかりに、ややはしたなく首を回して肩の凝りを取る唯依。
 その背へと、押し殺した声が掛けられる。

「もし」
「ん?」

 振り返った唯依の視界に先程の妻女が映る。
 黒い喪服に青白い光が降り注ぐ中、月明かりに照らし出されたその美貌が、少女の中で途切れていた記憶を繋いだ。

「――っ!?」

 唯依の瞳に険が宿る。
 女のソレに自嘲と後ろめたさが浮かんだ。

「……こちらへ……」

 言葉少なく小さな声で一言告げると、女はそのまま背を向け歩き出した。
 疑念と不審を抱きつつも、押さえ切れない衝動が唯依の背を押し、その後を追わせる。
 しばし無言のまま歩き続けた二人は、やがて連なる武家屋敷が織り成す小道の先、ぽっかりと出来た小さな空き地へと辿り着いた。

 街の隙間に出来たその場所に、ぽつんと立つ一本の老木。
 一枚の葉すらなく枯れ木の様に寂しく立つソレの下で足を止めた妻女――否、あの日、彼の屋敷ですれ違った女が、唯依へと向き直った。

「まさか今をときめく篁家の姫様と、あの様な場所で出会うとは思いもしませんでした」
 己の迂闊さを自嘲する独白が、薄闇の中に響く。
 眼を伏せ佇むその姿に、唯依の双眸が険しさを増した。
 腹の中で蠢く気持ちの悪い感情。
 それを押し隠す様に、義憤を燃やす少女の耳に、再び女の声が届いた。

「……もしかして、あの御仁は姫様のいい人なのですか?」

 どこか弄う様な、嘲るような声音。
 微かに口元を覆い隠す仕草。
 意味ありげに自身を見る眼差し。

 それら全てが、どうにもこうにも唯依の癇に障った。
 胸中に渦巻く思いが、武家の妻女にあるまじき不義を働く女への批難となって迸る。

「夫のある身であの様な……貴様、恥を知れ!」

 義憤と嫌悪、そしてそれ以外にもう一つの感情を含んだ言葉の一撃を受けた女の貌に暗い笑みが浮かんだ。

「夫のある身……ですか……」

 勇猛をもって鳴る斯衛の女衛士の身が、わずかに退かれる。
 何という事の無い言葉に秘められたナニかが、唯依を怯ませたのだ。

 光の無い双眸が、そんな少女を見詰める。
 重たげに双丘が揺れ、その下にある心臓が不自然な鼓動を刻んだ。

 生のままの女の唇が、再び動く。

「……確かに、この身は夫に操を立てていました……もうこの世には居ない夫ですが……」
「なっ!?」

 抑揚の無い声が、薄闇の中、ゆっくりと広がる。
 その内容に、思わず絶句した唯依へと自嘲と自虐に塗れた二の矢が放たれた。

「ああ……取るに足らぬ『白』……その中でも下位であった夫の事など、由緒正しい『山吹』である姫様は、当然ご存じないでしょう?」

 光の絶えた瞳の中に、暗い焔が微かにチラつく。

「過日の帝都防衛戦、我が夫も斯衛の衛士として参戦し、そして帝都と共に果てました」
「――っ!?」

 唯依の頬が、白を通り越して青くなる。
 自身の初陣でもあったあの戦で夫を亡くしたと告げる女を前にして、即応できる程、まだ人間として練れていない少女は、返すべき言葉すらなく立ち尽すことしか出来なかった。
 そんな彼女を他所に、滔々と、あるいは淡々と女が言葉を紡ぐ。

「もはや操を立てる相手も無い身。
 それでも篁の姫様は、不義と詰りますか?」

 完全に感情の絶えたその声が、唯依の喉を締め上げる。
 同じ戦に臨みながら、自身は生き残り、彼女の夫は死んだ。
 その一事が、唯依の良心に重く圧し掛かる。

 だがそれでも、ひりつく喉を無理矢理動かし、反論を紡がせたのはなんだったのだろうか?
 潔癖な乙女ゆえの義憤か、或いは………

「……い、いくら夫を亡くしたとて……いや、だからこそ亡き夫に操を立てるべきだろう!」

 もはや杓子定規な正論に縋るしかない唯依の反論。
 由緒ある家の跡取り娘として、幼少時から刷り込まれた武家の妻のあるべき理想を突きつけられた相手は、どこか歪んだ冷たい笑みを浮かべた。

「それは恵まれた方だから言える言葉ですよ。 篁の姫様」

 微かな嘲りを篭めた女の声。
 それが潔癖な筈の乙女の口すら噤ませた。
 理屈だけでは、道理だけでは反論し得ぬ何かを含んだソレに、唯依は沈黙を強いられる。

「先の戦で夫を亡くし、財産も失い、頼るべき本家もガタガタの状態。
 そんな八方塞の状況の中、女の細腕で、どうやって生きていけと仰るのですか?」

 吐き捨てるような問い掛けに、少女は思わず目を逸らす。

 唯依の脳裏に、つい先日見たばかりの難民キャンプの光景が浮かんだ。
 孤児となり、或いは寡婦となり、未来への希望すら抱けぬ者達の姿が。

 だがそれでも、胸の奥に渦巻く感情――嫉妬という名のソレが、血の気を失った少女の唇を強引に動かす。

「……だ、だが……だからと言って、夫の喪が明けて直ぐに別の男と……その……」

 そこまで言ったところで、今度は真っ赤になって言いよどむ唯依。
 それを怪訝そうに見ていた妻女――いや、寡婦は、不意に合点がいったような表情を浮かべると、苦笑混じりに呟いた。

「ああ成る程……篁の姫様は、噂とは正反対の初心な方なのですね?」
「う、初心ぅっ?」

 素っ頓狂な声をあげ、思わず眼を剥く唯依。

 その反応に、自身の感じた印象が正しかった事を確信した女は、内心でホッと胸を撫で下ろす。
 巷に流れる噂――言葉巧みに悠陽に取り入った小才子、栄達の為、紅蓮大将に身を任せた姦婦――等々の悪意に満ちたソレ等が、幾ばくかの事実を含んでいた場合、わが身の破滅は確定する筈だったのだ。
 どこか懐かしく、眩しいモノを見るような眼差しになった彼女は、そのまま訥々と事実のみを告げる。

「姫様は、ひとつ考え違いをしておいでです。
 あの御仁と私は、姫様の考えている様な仲ではありませんわ」

 恋仲であるとか、将来を誓ったとか、そんな関係ではないと言外に否定する。
 明言されたその一言に、ホッと緩んだ唯依の頬が、続きを聞いて引き攣った。

「ただ一夜、春を売るだけだった筈の行きずりの間柄……もっとも売り損ねましたが」
「なっ!?」

 女の言葉の意味を理解した瞬間、唯依の美貌が更に赤くなる。
 もはや完全に茹で上がった少女の耳翼に、自嘲に塗れた女の問いが響いた。

「汚らわしいと思いますか?
 ですが、そうでもせねば、私も、そしてあの人が遺してくれた忘れ形見も、武家として生きていけないのです。
 ……寒門とはいえ武家は武家。 その体面を保つには、どうしてもそれなりのお金が要るのですから……」

 宵闇の中、寡婦となった女の双眸に光る物を見たのは唯依の錯覚では無かったのだろう。
 当の本人自身が、今の自身の身の上を誰よりも恥じながら、それでも必死になって亡き夫が遺してくれた子と家を護ろうとしている事が、唯依にも痛い程分かった。

 もはや言葉すら失った唯依の面前で、深々と女が頭を下げる。
 俯くその姿勢を崩さぬままに、寡婦は必死の懇願を紡いだ。

「姫様、取るに足らぬ軽輩の身ではありますが、それでも家を護りたいと願う愚かな女をお救いください」

 更に下がる頭。
 そのまま土下座でもしようかといわんばかりの姿に、唯依は息を呑む事しか出来なかった。

 ――言える訳が無い。
 ――罪と呼べる筈も無い。

 そう思った。
 そう思ってしまった少女の心中が伝わったのか、下げていた頭を上げた女は、必死の形相でその願いを口にする。

「どうか、どうか全ては無かった事、見なかった事に」

 そう言って懇願する寡婦の姿に、唯依は、ただただ圧倒され、頷く事しか出来なかった。

 対して沈黙を守る事を約束させた女は、ようやくホッとした様子を見せると身体の力を抜く。
 そのまま感謝の意を示す様に、今一度だけ深々とお辞儀をすると、この場を去るべく出口の小道へと歩み出した。

 呆然と立ち尽す唯依の傍らを、黒い喪服の影が通り過ぎていく。
 以前とは異なり脂粉の匂いは感じられなかった。
 ただ微かな花の香を残し去って行く。

 その影が視界の隅へと消えた瞬間、ドッと肩に圧し掛かった重圧を感じ、唯依の膝が崩れ落ちそうになった。
 真珠の様な白い歯が、ギリッと不吉な音を奏でる。
 武家として、篁家当主として、最後の矜持を杖に辛うじて立つ細く弱々しい背中。
 その背に向けて宵闇の中から、今宵、最後となる一矢が放たれた。

「姫様、最後に一言」

 唯依の背が、ビクリと震えた。
 だが振り返らない、否、振り返れない。

 自身が、これ程までに臆病であったのかと、内心で臍を噛みながら、それでもその背が翻ることは無かった。
 そんな震える少女の背中に、静かな静かな弾劾の言葉が放たれる。

「陽の光が強くなれば、生まれる影も濃くなるのです。
 貴女の様に太陽の恩恵を受けることの出来ぬ者が居る事も、お忘れなきよう」

 それを最後に、気配が遠のく。
 闇の中、完全にソレが途絶えた瞬間、ほっそりとした肢体は、力なくその場に崩れ落ちる。

 惨めだった。
 そして何より悔しかった。
 無知であった自分が、無力である自分が……

 この国が負った傷痕は、自身が知ったつもりになっていたものなど比較する事すらおこがましい程に深く暗い。

 その事に気付く事すらできぬまま賢しげな事を言っていた自身の愚かさが、情けなく、そして恥ずかしかった。

 悔恨と羞恥に震えるその身を白い腕が抱き締める。
 必死で押し殺していた嗚咽が、堰を切って溢れ出そうとしていた。

 ――そう溢れ出す筈だった。

「ふぅ……困ったものね。
 事情は分かったけど、こんな可愛い子を泣かせるなんて」
「なっ?」

 唐突に響いた声が、嗚咽を、悲嘆を押し退けた。
 思わず声の主を仰ぎ見た唯依は、眼を剥き、そして絶句する。
 思考が完全に硬直し、しばし息をする事すら忘れる程に、その驚愕は深かった。

 そんな少女に向けて、僅かに笑みを含んだ悪戯っぽい声が降って来る。

「やはりここは、魔法使いのお姉さんの出番よねぇ」

 そう言いながらくるりとターンを決めて見せた黒衣の美女は、艶やかに微笑んだ。

 黒いトンガリ帽子に、黒いマント。
 ご丁寧な事にブラウスもスカートも、微妙に色合いを変えた黒だった。

 右手に携えた箒と共に、軽くポーズを取る魔法使いを自称する知己の女性――サーヤ・カタギリを前にして、眼を丸くすることしか出来ない唯依。
 その面前に、(自称)魔法使いの手にした箒の柄が突き付けられる。

「泣きべそかいてるシンデレラ(灰かぶり)のお姫様を、王子様のところに送ってあげるのは、魔法使いのお姉さんのお仕事よ」

 そう言って意味ありげな笑みを浮かべる美女に、その言わんとしている事を悟った唯依は思わず抗議の声を上げ掛ける。

 ……上げ掛けたのだが相手の行動は、それよりも一手早かった。

「じゃあ、行ってらっしゃ〜い」

 朗らかな別れの言葉と共に、唯依の視界全てを虹色の光が覆い尽くした。





■□■□■□■□■□





「はぁ……」

 憮然とした表情のまま書類を眺めていた琥珀色の眼をした青年は、小さな溜息と共にソレを閉じた。
 どうにもこうにもやる気が起きず、気もそぞろなままに見ていても、全く中身が頭の中に入って来ない。

 このまま続けていても時間の無駄と割り切ったアルは、書類を卓へと放り出すと、ゴロリと畳に横になった。

 あの日から数日、どうしても気力が湧いてこない。
 本来の来訪日に落ち着いて話をするつもりだったが、その日は適当なキャンセルの理由のみを電話越しに告げられ、そのままそそくさと切られただけだった。

 あからさまに避けられているのは分かっている。
 そしてその理由もだ。

 ケイが余計な気を回して手配した娼婦。
 全くその気にならなかったので、金だけ握らせて返したが、タイミング的に見てニアミスしたのは確実だった。

 未だ潔癖な乙女であるあの娘が、匂い立つような『女』を撒き散らしていたあの娼婦と接触すればどうなるのか。
 そして、そんな女を屋敷内に招き入れていた自分をどう思うのか。

 考えるまでもない事だ。
 その結果がどうなったのかを自身の眼で見て、耳で聞き、そして実感として体験したのだから……

「全く……余計な事を……」

 思わず愚痴が零れる。
 ありがた迷惑な真似をしてくれた腹心に、恨み言の一つ二つは言ってやりたい気分だったが、そうすると何故恨みに思ったかまでを追求されるのは確実だった。

 結果、不満を溜め込みつつも一人愚痴る事しか出来ない我が身を嘆くアルトリウス。
 鬱屈した思いを抱き、憮然とした表情を浮かべながら、手持ち無沙汰な青年は何の気なしに天井を見詰めた。

 美しい木目が見えたが、それがどうしたという気分にしかなれない。
 どうにもこうにも気が腐っていく事を自覚した青年は、酒にでも逃避しようかと思いつき、半身を起こした。

 畳に映る自身の影。
 それが一際濃くなっていくのに気付く。

 反射的に、天井をふり仰いだ視界を、虹色の光が焼いた。

「なぁっ!?」

 冷静沈着を旨としていた筈の青年将校の喉から驚きを示す奇声が迸った。

 転送の際に生じる極光に驚いたのではない。
 そこから落ちてきた存在、否、人物が余りにも予想外だったからだ。

 反射的に伸ばされた両腕。
 受身すら取れぬまま畳に叩きつけられる筈だった柔らかな肢体は、青年の腕に抱きとめられ、その胸にすっぽりと納まった。

 惨事の発生を未然に食い止めたアルトリウスは、ホッと胸を撫で下ろすと、その腕の中にある少女を見下ろす。
 見下ろして、そして……

「篁……」

 ……絶句した。
 そこに見たものが、余りにも意外過ぎたから……

 見上げる紫の双眸の内には、今にも溢れ出しそうな程の涙が溜まり、幾つもの感情が寄り合い、せめぎ合い、少女の美貌を損なっている。
 唇を噛み締め、零れそうな涙を、必死で堪えているその様に、青年の腕には無意識に力が篭った。

 柔らかく華奢な肢体を、その胸に抱き寄せ、抱き締める。
 唯依は、反射的に身動ぎ、抗おうとするが、それすらも封じ込めるように更に力を篭めた。

 強く、より強く。
 もう二度と、この腕の中から放さないといわんばかりに。

 やがて、少女の身体からゆっくりと力が抜けていく。
 代わって、押し付けられた胸元から、微かな咽び泣きが零れ出した。

 心の堤防は既に決壊し、少女の生のままの感情が溢れ出す。
 篁家当主として自身に課した節度も、斯衛としての矜持も、一切合財が涙と共に流れ落ちていった。

 アルトリウスの胸に添えられた白い手が、彼の服をきつく握り締める。
 親に縋る幼子を思わせるその仕草に、青年の頬が微かに綻んだ。

 背に届く艶やかな黒髪を青年の手がくしけずる。
 泣く子をあやす様に、ゆっくりと、そして優しく。

 やがていつしか嗚咽が途絶えた。
 白い手からゆっくりと力が抜けていく。

 完全に脱力し、その身を預ける唯依。
 微かに届く安らかな寝息が、泣き疲れて眠ってしまった事を教えてくれた。

「……無用心な事だ」

 僅かに苦笑を含んだ溜息と共に、そう呟いたアルトリウスは、寝た子を起こさぬ様に注意しながら、その身を抱え直した。
 涙と共に心の澱を流し尽くしたのか、安らいだその寝顔は、ひどくあどけない。

 まるで童女の様な唯依の寝顔を見ながら、青年はもう一度だけ嘆息したのだった。





■□■□■□■□■□





 西暦二〇〇〇年一月

 日本帝国政府は、これまで帝国が独占していた試製99式対レーザー追加装甲の一部を国連に譲渡する事を閣議決定する。
 この決定を受け、帝国軍の一部が猛反発するも、軍自体は渋々ではあるが受け入れを選択した。
 国連から代償として提示された二個連隊相当のストライク・イーグルは、戦力不足に喘ぐ帝国軍にしてみれば喉から手が出るほどに欲しい代物だったからである。

 結果、一部不平分子の反感を駆り立てつつも、日本帝国は国連に対し、二個小隊分・計八枚の試製99式対レーザー追加装甲を譲渡。
 この内二枚が国連軍・横浜白稜基地に、四枚は米国に、残りは一枚は、それぞれソ連とEUに譲渡され事態は一旦決着する。

 しかし、政治的取引として行われたこの一件により、軍内部の過激派による現政権への不満は、これまで以上に高まっていく結果となるのだった。






 後書き

 ボロボロの日本帝国という感じで書いてみました。
 BETA大侵攻後だと、まあこんな感じかなと。

 さて、離れて寄ってさてどうなる?
 ……寝ちゃいましたけどね。

 まあ唯依姫には、今後に期待という事で。

 ではでは。





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