がんばれ、ご舎弟さま



別視点から書いたそのいちです。
斑鳩閣下→赤の人→唯依姫視点となっております。


そのいちの裏の壱






「……フン、度し難い輩よ」

 司令部(HQ)への通信を切った我は、吐き捨てるように呟いた。

 既に帝都の防衛線は崩壊寸前、ここで手段を選ばず支えねば押し切られるだけ。
 そんな当たり前の事すら分からぬ愚鈍の輩達が、軍の指揮を取っている事が腹立たしい。

「我に指揮権を寄越せば、すぐさま逆転して見せるものをな……返す返すも口惜しい事よ」

 今少し早く産まれていさえすれば――心底、そう思う。

「……あと十年、いや五年早く産まれていれば、より大きな戦力を動かす地位にも着けたであろうに」

 如何に、斯衛最強を謳われる我が第十六大隊であろうと、たかだか一個大隊程度では戦局を動かす事は叶うまい。

「せめて一個連隊……いや、斯衛軍くらいは自由に動かせねば話にならぬわ」

 苛立たしい思いが、言葉となって零れ落ちてしまった。
 自らの野望が、形と成る事すら許される事なく終わる可能性が見えてしまうのが、どうにもこうにも我慢が出来ぬ。

 ……我慢は出来ぬが、焦りを抑えきれぬなどという醜態を許容するつもりも我にはなかった。

 深い呼気と共に体内に燻る怒りと熱を吐き出しながら、気分を切り替えるべく弟を呼び出す。

 ――ひとつ

 ――ふたつ

 ――みっつ

「遅い!
 何をモタモタしておるのか」

 通信が繋がった瞬間、つい怒声が出てしまった。

 いかんいかん、如何に不愉快な事があったとはいえ弟に当り散らすなど、我の鼎の軽重を問われる。
 そんな風に自省する我に対し、そよとも揺らぐ風情を見せぬまま明憲は応じて見せた。

『申し訳ありません斑鳩大隊長殿。
 此度の戦の趨勢について愚考しておりました』

 いつも通りの冷静沈着な声だ。
 流石は、我の実弟。
 まあ幼き日より、日々積み重ねてきた我の薫陶の賜物とも言えるがな。

 そんな事をつらつらと考えていると、自然と我の声も和らいでいった。

「……気になるのは仕方ないが、もう少ししっかりするが良い。
 そなたも既に一個小隊を預かる身。 そして何よりこの我の弟なのだからな」

 そう、いずれ我が天を掴んだ暁には、我が片腕として存分に働いてもらわねばならぬ。
 そなたは、それが出来る器。
 なにせこの我の弟なのだからな。

 そんな我の想いが伝わったのだろう。
 明憲は、静かに、そして我が片腕に相応しい威厳と共に頷いてくれた。

 思わず頬が緩みそうになったが、それらを必死に押し留めると、我もまた無言で頷き返し通信を切る。

 既にして、我の心の内に巣食った焦慮は消えていた。
 我が野望は決して潰えぬ――そう確信できたからだ。

 そう、我ら兄弟ならば、必ずや如何なる危難も乗り越えて、きっと天を掴む事が出来る筈なのだから。





■□■□■□■□■□■□





『ご舎弟様、戦況を憂えるのは分かりますが、隊長として、何より斑鳩家ご当主の実弟としての威厳をお忘れなき様』

 何度か溜息を吐かれている明憲様に私は非礼を承知で諫言した。
 指揮官たる者、如何なる状況であれ兵に弱さを見せる事は許されない――そんな亡き父上の薫陶に従って。

「――許せ。
 我の未熟さであった」
『ハッ!』

 返された冷静沈着な声に、平伏した私の口元が微かに綻ぶ。
 或いは叱責されるかとも思った諫言であったが、躊躇う事無く自身の非を認め、詫びを返す閣下自慢のご舎弟様の聡明さを再確認し、満足する私がそこに居たからだ。

 未だ二十歳にもならぬ身の上ながら、寡黙にして思慮深いとの噂に違わぬお人柄は、十人兄弟の中で、弟達のやんちゃと強情さに悩まされてきた私にしてみれば羨ましい限り。
 本当に、ご舎弟様の半分、いやいや四分の一でいいから落ち着いてくれれば……

 ……っと、違う違う。

 とにかく斑鳩閣下の仰る通り、ご舎弟の明憲様は、いずれは閣下の片腕となるに相応しい器量をお持ちだ。
 派閥の中には、その座を狙って良い顔をしない者も居ないわけでは無いが、その様な者こそが率先して排除されるべきだろう。

 少なくとも閣下が言われる通り、明憲様が閣下を裏切るような事は、天地が入れ替わろうが有り得まい。
 故に、もっとも信頼すべき片腕として、閣下が明憲様を重用する事に異を唱えるつもりは私には無かった。

 無論、私にも栄達したいとの欲はある。
 だがそれは閣下達を支える形、いわばNo.3で構わないのだ。
 この国難の時、斑鳩閣下を中心としたより強力な国家体制の構築こそが急務。
 閣下を主と仰ぐ我等の内部で争う事こそ愚かしい。

 そういった意味でも、明憲様が閣下の片腕として振舞われる様になる事には大きな価値がある。
 閣下のご舎弟であり、それに相応しい器量がある以上、分不相応な欲を抱いている者も黙らざるを得ないであろうし、そうなればNo.2の座を巡る争いなど自然と消える筈。
 その後に起きるNo.3以下を巡る争いなどは、お二方が睨みを利かせてくれれば自然と下火になるだろう。

 そんな思案を進めていた私の耳に、当の閣下と明憲様の会話が聞こえてきた。

『明憲、これより我が隊は艦砲射撃後、残敵を掃討する為に嵐山方面に進出する』
『ハッ!』
『但し、そなたは指揮下のシリウス小隊を率いて京都駅に向かえ』
『……何故でしょうか?』

 これには私も眉をひそめた。
 落ち穂拾いのような任務ではあるが、その分、危険度は低い筈。
 初陣である明憲様が、適当な武勲を立てるには手頃な任務から外される意図が、私にも読めなかった。

 そんな私や明憲様の疑問を解く様に、閣下は渋い表情のまま答えて下さる。

 なんでも物資の集積所も兼ねていた京都駅からの音信が突如途絶えたとの事。
 偵察を出すかどうかで散々揉めた末に、煌武院家の悠陽様が、斑鳩閣下を半ば泣きつく形で押し切り、部隊を出す事に決まったのだとか。

 ここまで聞いたところで、不遜ながら閣下のお考えが私にも大体読めてきた。
 経緯はどうであれ、これは煌武院家が斑鳩家に借りを作ったという事になる。
 閣下は、ここでご舎弟の明憲様を派遣する事で、その借りの価値を吊り上げるおつもりなのだという事が。

 とはいえ、煌武院の姫君に押し切られた事自体は面白くないのか、やや渋い表情のまま閣下が先を続けるのを、私は耳を澄ませて拝聴し続けるのだった。

『駅には大した戦力は置かれておらん。
 もし奇襲を受けたのなら一たまりも無かっただろう』

 珍しく溜息の混じる閣下の声。
 それをお聞きして、私の眉根もわずかに寄った。

 司令部(HQ)の失態の尻拭い。
 それも煌武院の姫君のゴリ押しが原因でとあらば溜息も出よう。
 おいたわしい事だ。

 やる事なす事、後手後手後手。
 艦砲射撃による援護も、防衛線崩壊前に行っていれば、ここまで押し込まれずに済んだ筈。
 それを帝都近郊を砲撃する事を躊躇った挙句、防衛線を破られ、結果、帝都そのものを砲撃する破目になったのだから世話は無い。
 本当に腹立たしい事よ。

 そうやって無能な司令部(HQ)への怒りを燃やす私の耳に、閣下の最後のお言葉が届く。

『情勢を見極めた上で対処せよ。
 但し、指揮下の戦力で対応し切れぬと判断した場合は速やかに退け』

 ――今はまだ、無理をする局面ではない。

 そう言い残して、閣下は通信を切られた。
 ご舎弟様との間では。

 替わって、私の方の秘匿回線に閣下からの通信が入る。

『――という事だ。
 明憲の補佐は任せたぞ』
「ハッ!
 我が身命に掛けて必ずや!」

 私だけに直接掛けられたお言葉に、思わず身体の芯から武者震いが起きる。
 そんな私の心底を一瞥して見抜かれたのか、わずかに苦笑された閣下は、そのまま通信を切られた。

 そしてそれを合図にしたかの如く、次々と飛び立っていく我が斯衛第十六大隊の僚機達。
 その雄姿を見送った私の聴覚を、今度はご舎弟・明憲様の声が打った。

「シリウス小隊全機出るぞ!」
『『『『ハッ!』』』』

 明憲様の命令一下、ハンガーに残されていた戦術機達が動き出す。

 白の瑞鶴が三、私の乗る赤の瑞鶴が一、そして青の武御雷が一。

 斑鳩閣下が苦労して手に入れながら、明憲様に初陣の祝いとして譲られた機体だ。

『そなたの初陣の祝いだ。
 ちと惜しいが譲ってやろう』

 珍しく本心からの笑みを浮かべて、そう仰っていた斑鳩閣下の楽しげな顔が、私の脳裏に蘇る。
 そして先程のお言葉もまた……

『何としても、御守りせねばな。
 万が一の事があれば、腹切って詫びても追いつくまい』

 そうやって決意を新たにした私の前で、蒼い機体が闇夜に舞い上がる。
 それに遅れじとばかりに、私も又、愛機の瑞鶴を飛翔させたのだった。





■□■□■□■□■□■□





 カチカチと空しく引き金を引く音のみが私の耳に響く。
 もはや空になった拳銃が火を噴く事は無いと、頭の何処かで理解しながら、私は引き金を引き続けていた。

 薄闇の中、ぽっかりと浮かぶように見える戦友の半身。
 その周囲から立ち上る不快な咀嚼音。
 それら全てが、私――篁唯依の精神をも削り、喰らって行くのが分かった。

 この一夜、たった一夜で次々に失われていった親友達。
 必死に戦い、共に生き抜いてきた最後の一人すらも今失われようとしている。

 それも最悪の形で、そしてなにより、自身の臆病さ故に。

 全てを諦めたのか、微笑あるいは苦笑を浮かべている上総。
 泣き笑いの様にも見えるソレが、私の心を掻き毟った。

 ――だがそれも、もう直ぐ終わる。

 壊れかけた私の心の中で、私が囁いた。

 銃声が呼び寄せたのか、ヒシヒシと迫り来る気配が感じ取れる。
 周囲に満ちていく鼻を突く硫黄臭に、絶望に抗う意志が萎えていった。

 心の中を諦観が満たしていく。
 自分もまた、数えられる事無き死者の一人になるのだと。

 全身から全ての力が抜けていく。
 最早、叫ぶ力さえ失った私は、ただその場に座り込む事しかできなかった。

 このままなら、あと数分と経たぬ内に自分もまた親友達と同じ最後を辿る。
 頭では分かりきっていても、最後の気力が尽きた私の身体はガンとして動いてはくれなかった。

 ただ虚ろな瞳で、親友が喰い殺される様を、そしてその次は自身が喰われるのを見ているだけ。
 そんな情けない終わりの刻。
 それが私の人生の終焉となる筈だった(・・・)

 ――轟と炎の華が咲いた。

 巨大な金槌で殴り飛ばされた様な衝撃と共に、私の身体が吹き飛ぶ。
 衝撃に飛びかけた意識を、全身に降りかかった生温くおぞましい液体の感触と臭いが繋ぎ止めた。

 朦朧とした意識の中、一条の光が私を照らし出すの感じ、わずかに動く目線のみが無意識の内に光源を探す。
 頭上から舞い降りる巨大な影が、霞む視界に映った。

 自身の放った光の照り返しを受けて朧げに浮かびあがる『ソレ』と、一度だけ教官から見せて貰った写真の中の雄姿が私の中で結びつく。

「……武…御雷……」

 瑞鶴に続く新たなる斯衛の刃。
 最強の戦神の名を与えられた巨人を見上げながら私は呆然と呟いた。

 そんな私を尻目に、蒼い武御雷は剣を執り、砲火を撃ち放つ。
 その度に赤い異形が弾け、或いは切り裂かれ駆逐されていく様を、至近への着弾の衝撃で遠のき掛ける意識を必死に繋ぎ止めながら、私は見詰め続けた。

 薄闇の中、蒼い機体が舞い踊る。
 絶望を退ける希望の具現。
 抗い続ける者達が産み出せしモノ。

 鬼神を象った様な恐ろしげなその造形。
 されど私は、その姿を素直に美しいと思った。

 そのまま霞む視界を凝らし憑かれた様に見つめる私の目前で、短くも苛烈な戦闘が繰り広げられ、そして終わる。
 気が付けば、周囲に満ちていた筈の化け物(BETA)共の悉くが引き裂かれ、或いは撃ち砕かれ、無様な肉片と化して散らばっていた。

 図らずも成し遂げられた戦友達の報復。
 だが、そこに歓喜は無く、むしろ空しさと、そしてやり場の無い怒りがフツフツと私の中に湧き上がってきてしまった。

 ――もう少し、あと少し早く来てくれたなら。
 ――これ程までに強力な機体があったのなら。

 そんな思いが心を過ぎる。
 八つ当たりだと分かっていても、溢れる感情が留められなかった。

 そして同時に、そんな思い抱いてしまう自身の恩知らず振りに、私は死にたくなるような羞恥を覚える。

 ――何たる恩知らず、恥知らず、と。

 相反する感情に翻弄され、私の思考は千々に乱れていく。
 もし身体が動かせたなら、苦悶し七転八倒くらいはしていただろう。
 だが、幸か不幸か至近弾による衝撃波を、満遍なく全身に食らった私の身体は、一時的に神経が麻痺してしまったのかピクリとも動く事はなく、視界もモノクロに染まったままだった。

 そうやって内心の煩悶に苛まれつつも、それを表す術の無い私へと誰かが近寄ってくる。
 覗き込む様に私を見たその男性は、手早く私の呼吸と脈を確認するとホッと肩の力を抜いた様に見えた。

 ――恐らくは、この人が先程の武御雷の衛士なのだろう。

 そう判断した私は、なんとかこちらの意思を伝えようとしたのだが、随意筋全てが不随意筋と化してしまった今の私には、瞬きする事すら困難だった。
 辛うじて動かした瞼も、わずかな痙攣程度しか動かず、こちらに意識が残っている事すら伝える事は叶わない。
 ピクリともしない私が完全に気を失っているものと判断したのか、その人は一通り怪我の確認を終えると、立ち上がって周囲を見回し、不意に動きを止めた。

 わずかに映る視界の端に、端整と言って良い顔を強張らせた青年が、私の背後を険しい眼差しで見詰めているのが見える。
 食い入るような目付きで、何かを睨む彼。
 その視線の先にあるモノを見たいという欲求と、見てはいけないと囁く直感が、私の中で対立するが、未だ動くどころか声すら発せぬ身としては、そもそも選択肢そのものが存在しない。

 そうやって、意のままにならぬ我が身の不甲斐なさに、内心で歯噛みしてた私の鼓膜を今にも途切れそうなか細い声が震わせた。

「そこ……の…御方……」

 弾かれた様に青年が振り返る。
 振り返り、そして、再び固まるのが見えた。

 固まった視線の先にあるのは大破した瑞鶴。
 そして、その管制ユニットに生じた亀裂から、蒼白になった上総の上半身が覗いているのが私からも伺えた。

 もはや青を通り越し、白っぽく見える顔色の上総は、薄闇の中、まるで幽鬼の様にも見える。
 それが名も知らぬ青年衛士を、一瞬とはいえ怯ませたのだろう。

 そんな事を漠然と考えていた私の耳翼を、今一度、必死に絞り出したのであろう上総の声が打った。

「そ……の…お……た」

 今度は固まる事無く彼は動いた。
 慌てた様子で大破した上総の瑞鶴へと駆け寄った彼が、その場で息を飲む気配が、こちらにまで伝わってきた。

 ドス黒い不安の棘が、私の胸を掻き毟る。
 先程聞こえたばかりの上総の声――息も絶え絶えといった感のソレが、私の脳裏で蘇った。
 必死で身体に力を篭めようとするが、強張り感覚の失せた四肢には、まるで力が入らない。
 不甲斐なさに涙が滲み、霞む視界に朧が掛かった。
 白濁していく視界の中、ただその声だけが、ひどく明瞭に響く。

「介錯は?」
『――ッ!』

 鼓動が止まった。
 最悪の想像が、現実になった事を告げるソレを、私は無意識に拒否しかかる。
 だが、そんな私の弱さを戒める様に、か細い声が三度届いた。

「おねが……い…します。
 でも、その…前に……」
「心配ない。
 山吹の衛士の娘なら無事だ」

 ひどく優しく穏やかな声が、たどたどしい上総の声に重なる。
 今にも消えりそうな安堵の吐息が、微かに聞こえてきた。

 申し訳なさと情けなさが私の心を責め苛む。

 これは本来なら私がやらねばならなかった事。
 そして出来なかった事。

 結果、上総の苦痛を長引かせ、無関係な人の手を汚させる事になる始末。
 動かぬ我が身が呪わしく、声すら発せぬ喉が恨めしかった。

 そんな私の自省と自虐を他所に、静かな力強さを感じさせる男性の声が再び響く。

「名はなんという?」
「山…し…ろ……かず…さ…と…もう…します」

 放たれた問いに途切れ途切れの声が答えるのが聞こえた。
 次いで数拍の間を置き、彼の声が私の下にも届く。

「山城上総……確かに覚えた。
 家の方には、必ず伝えよう。
 ご息女は最後まで見事に戦い果てたと。
 この斑鳩明憲が、介錯を勤めた事も含めてな」
『――ッ!?』

 私の胸中に驚愕の波紋が起きる。
 まさか五摂家縁の方だったとは。

 そしてそれは、上総も同じだったのだろう。
 喘ぐような苦しげな息遣いが、静寂の中、微かに感じ取れたが、その先を制する様に鋼を思わせる鋭く硬い声が終わりを告げた。

「斑鳩明憲、謹んで介錯仕る」

 空気が変わった。
 シンと鋭く張り詰めたものが、感覚の失せた私の肌にもピリピリと感じ取れるような錯覚を覚える。
 息をする事すら苦痛に感じる空気の中、朗々たる声が放たれた。

「御免!」

 薄闇の中、一度だけ銃声が鳴り響く。
 何処までも遠く、高く。

 耳鳴りの様に響き続けるその音を、私は終生、忘れる事が出来ないであろう事を確信していた。





 やがて、砕けた床を踏みしめる音と共に、再び、彼は私の下に戻ってくる。
 未だ倒れ伏す私を両腕で抱きかかえたその人は、一度だけ小さな溜息を漏らすと、そよとも揺らぐ気配すら見せぬまま武御雷へと歩み出した。

 ぼやける視界に映る彼。
 それをジッと見上げる私の中で、小さな呟きが木霊する。

 この人が――

 ――私を助けてくれた人。
 ――そして、上総を殺した人。

 感謝が、悔恨が、そして憎悪が、私の中で混じり合い心を掻き乱した。

 逆恨みであると理性では分かっている。
 恨み、憎むなど筋違いも甚だしいという事も……

 ……だが、冷たさすら感じさせる整った容貌に、一片の動揺さえも浮かんでいない事が、どうしても割り切れない。
 この人にとって、介錯とはいえ上総を殺した事が、何の感慨も及ぼしていないという事実が、私にはどうしても納得出来なかったのだ――この時までは。

 ――ポトリ。

 ナニかが私の頬に落ちる。
 全身に被った気持ちの悪いBETAの体液とは異なる暖かい雫。
 それが私の頬を伝い、そのまま下へと流れていく。

 惹かれる様に私の視線が引きつけられた。
 薄ぼんやりとした視界の中で、整った青年の顔のみが僅かに鮮明さを増す。

 ――ポツリ。

 再び私の頬を濡らすナニか……いえ、彼の頬を流れ落ちた一筋の雫が、私の中にゆっくりと染み渡っていく。

『……な…みだ……』

 眉一つ動かさぬ能面の様な表情を保ちながら、ただ静かに落涙するその姿――それを目の当たりにすることで、私は自身の誤りと愚かさを自覚した。

 胸の奥に痛みと熱が産まれる。
 産まれた熱は血流に乗って全身へと広がり、私の中に根付きかけていた暗く冷たい塊を、ゆっくりと、でも確実に融かしていった。

 ――ポタリ。

 再び、彼の涙が私の頬濡らす。
 それがひどく心地良く、微かな安堵の吐息が漏れた。

 私の鼓動がわずかに高鳴り、熱が更に広がっていく。
 それと同時に、急速に意識が薄れていくのを私は自覚した。

 後から考えるなら、その時の私は絶対的な庇護者の存在を認識する事で、緊張の糸が途切れたのだろう。
 張り詰めた弦が不意に切れる様に、次の瞬間、私の意識はプツリと途絶えたのだった





 ――そして三年後。






 後書き

何故か調子に乗っての連載化。

皆さん微妙に誤解していますが、まあそんなモノでしょうしね。

唯依姫の場合は、上総の最後や唯依の華奢さを感じて覚悟を決めたので、さほど勘違いという訳でも無いか?
次回はオール唯依姫視点での輸送機内のお話ですので、乞うご期待。





押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.