がんばれ、ご舎弟さま



別視点から書いたそのさんです。

ユウヤ→唯依姫→ユウヤ→クリスカ→ステラ→唯依姫→ステラ→
唯依姫→ユウヤ→VG→唯依姫視点となっております。


そのさんの裏






『……ったく、まぶしいな……』

 海面に反射する強い日差しが、オレの眼を眩ませる。
 遮る物さえ無い海の上で、陽の光に炙られる身体から絶え間なく汗が噴き出していた。
 わずかとはいえ海風がなければ、日射病にでもなりそうな陽気に、思わず顔を顰めながらオールを漕ぐ。

 まったく文句しか言い様の無いレクリエーションに、うんざりしていたオレだったが、背後からの視線を感じ、更に気分が下がっていくのを感じた。

「何かご用でしょうか?」

 ひどく投げやりな口調の言葉が口をつく。
 振り返りざま、嫌味混じりに睨んでやったのが、オレにしてみればささやかな抗議だった。

 相も変わらぬ人形の様に固定された表情のまま、相手の肩がわずかに上下する。
 身に付けた軍用のライフジャケットが擦れる音に混じり、微かに聞こえた溜息が妙に癇に障った。

 自分の目線がきつくなったのが判る。
 ……判ったのだが、それを改めようとは欠片ほども思いはしなかった。

 日本人で、サムライの元締めで、実務の全てを篁中尉(ジャパニーズ・ドール)に丸投げしている無責任な責任者。
 どこかママを捨てたクソッタレな父親を彷彿とさせる男――斑鳩少佐。

 その存在そのものが、どうにもこうにもオレの神経を逆撫でしやがる。
 軍人として上官に対する最低限の礼儀は守ったが、苛立ちが募っていくのは抑え切れなかった。

 そのまま顔を合わせていると、嫌味の一つも言っちまいそうになったオレは、再び、元の姿勢に戻るとオールを漕ぐ手に力を込めた。

 グンと速度が上がる感覚と共に、頬に当たる風が少しだけ強くなり、頭が冷えていく気になる。
 次第に冷静さを取り戻していく中、更にボートのスピードが増すのを感じた。

 どうやらあちらも、力を入れ始めた様だ。
 内心はどうあれ、真面目に、そして早めにレースを終わらせるつもりらしい。

『……まったく、こんな鬱陶しい事は、とっとと終わらせるに限るぜ』

 そこだけは同感だと胸の内で呟きながら、オレは、オールを漕ぎ続けようとしたが、再び感じた視線に集中が乱された。

『チッ!』

 口の中で小さく舌打ちする。
 言いたい事があるなら、とっとと言いやがれ――と腹の中で吐き捨てながら、オレは再度、後ろを振り返った。

「……何か?」

 さっきよりも更に不機嫌さを増した声が出やがる。
 流石に拙いかと、少しだけ思ったが、ビクともしない鉄面皮に、そんな気分はあっさり消え失せた。

 ――まったく、あの篁中尉(ジャパニーズ・ドール)だって、もうちょっとは人間らしいぞ!
 ――サムライとかいう化石みたいな連中は、こんな奴ばかりなのかよ?

 そう内心で罵声を上げながら、こちらを見る目に向けて睨み返す。
 だが、それすらも無視する様な無感情な声が、オレの耳へと届いた。

「……何故、ライフジャケットを着ないのかと思ってな」

 なに言ってやがるんだ。コイツは――それが、正直な本音だった。
 思わず鼻を鳴らしたオレは、呆れを隠す事すら止めて、マジマジと相手を見返す。

 ――このクソ暑い中、このくだらないお遊びに、そんな大袈裟な装備を付けて参加してるのは、アンタくらいだろうが!

 腹の底から湧き起ったその嘲りを、少しだけソフトに変えて突き付けてやる。

「この程度のお遊びで、そんな大仰な格好をする方がおかしいと思いますがね?」

 そうだ、コイツがおかしい!
 この程度の事で、ここまで大袈裟な真似をしているコイツがだ。

 無責任な怠け者の上に臆病者。
 一度とはいえ、そんな最低男にビビッちまったオレ自身が情けなく、そしてどうしようもない程に腹立たしい。
 睨む目線に、蔑みの色が濃くなっていくのを感じながら、オレは内心の苛立ちを隠すように、もう一度、鼻を鳴らした。

 すると流石に腹が立ったのか、相手の眼付も険しくなる。
 そうなれば負けじとばかりに力が籠るオレの目線。

 そのまま暫く睨み合ったオレ達だったが、流石に首を捻ったままの姿勢はキツかった。

 最後にもう一睨みしたオレは、そのまま元の姿勢に戻る。
 熱く眩しい南洋の日差しが、再び、オレの眼を灼いた。

『……ったく、まぶしいったらありゃしないぜ』

 陽の光は、変わる事無く眩しく熱い。
 だが、オレの胸中はどんよりとした薄曇りだ。

 腹の中で蠢く不満を感じながら、オレは不愉快さを誤魔化す様に小さく舌打ちしたのだった。





■□■□■□■□■□■□





「イヤだ、イヤだ、イヤだ、やだよぉぉぉっ!」

 砂浜に生えた木にしがみ付いて泣き叫んでいる少女と、その脇でオロオロとしている少し年嵩の少女。

 それをやや離れた位置から眺めながら、私は微かに眉をひそめる。
 くだんの少女が、昨晩、マナンダル少尉相手に起した諍いを、思い起こしてしまったからだ。

 あの時は、見た目の幼さに反して我の強い少女だと思ったものだが、いま私の面前で泣き叫んでいる様は、見た目以上に幼く見えて、いずれが彼女の本当の貌なのかが判らなくなってしまう。
 脇を見れば、あの時、マナンダル少尉の肩を持ち、ビャーチェノワ少尉と口論になったブレーメル少尉も、呆れとも驚きとも付かぬ表情を浮かべたまま成り行きを見守っていた。

 多くの者が、困惑を隠せぬまま傍観する中、そんな事は知らぬとばかりに、火が点いた様な勢いで泣き喚くシェスチナ少尉。
 それを何とか宥めようとしているビャーチェノワ少尉も、手を出しあぐねているのか、恐る恐る声を掛けるだけで、事態の改善にはまるで役に立ちそうもなかった。

『……困ったものだ……』

 胸中でそっと呟く私。

 アルゴス・イーダル両小隊の間で起きた諍いを、水に流す為とのお題目で設けられたこのレクリエーションは、もはや当初の目的を完遂出来るかどうか微妙な感じだった。
 いや、下手をすればかえって拗れる可能性すらありえるだろう。

『さて、どうしたものか……』

 思わぬ躓きに眉を顰めながら、私は、事態の打開策を考える。

 正直なところ本音を言わせて貰えば、シェスチナ少尉の我儘に振り回されるのは面白くなかった。
 そもそも事の発端自体が彼女に有った事も、それを後押ししている。
 少しでも責任を感じているのなら、多少の我慢はして欲しいとも思うのだが、あそこまで身も世も無く泣き叫ばれると、流石にそう告げる事も憚られた。

 となると、これ以上、事がややこしくなる前に、事態を収拾すべきと思った私は、主催者である広報部のオルソン大尉の動向を、そっと盗み見る――

『……ダメだなアレは……』

 ――落胆が胸を過った。

 この騒動を、苦虫を噛み潰した表情で眺めているが、さりとて事態の収拾をしようという意図も見えない。
 収拾する術が無いのか、或いは、意思が無いのかまでは分らなかったが、積極的に動く素振りも見えない以上、期待する事自体止めておいた方が良さそうだった。

 そうやって周囲の状況を見取った私は、一つ小さく溜息を吐く。

 あまり気は進まなかったが、仕方無いと割り切ると、私は一歩前に出ようとした。
 シェスチナ少尉に代わって、ボートレースに参加する旨を告げる為に。
 だが――

「これは何事だ、篁中尉?」
「あっ……い、斑鳩少佐?」

 唐突に背後から掛けれらたあの方の声に、思わず名前を呼び掛けて、咄嗟に言い直す私。

 ――ううっ、不意打ちは卑怯です。

 胸の内で、そう抗議しつつ振り返った私は、微かに困惑した様子で泣き叫ぶシェスチナ少尉を見ている明憲様を見据える。
 片手に釣り竿を持たれている事から、数少ない趣味である釣りを楽しまれるつもりだった事が見て取れた。
 折角のオフを邪魔してしまった事が判り、私の中に申し訳無さが満ちていく。

 そうやって自省する私に対し、言葉には出さず目線で答えを促す明憲様。

 その意図を曲解せずに理解出来た自身に、少しだけ満足しつつ、私の視線がシェスチナ少尉と明憲様の間を往復した。
 正直、どう説明すればいいのか悩んだが、言葉を飾ったところで意味も無く、ありのままの経緯を素直に説明すると、明憲様の双眸に宿る光が、困惑と呆れの成分を変えていく。
 自分が問題を起した訳でも無いのだが、なんとなく肩身の狭い思いを感じつつ、一通りの説明を終えた私の目前で、憮然とした様子で一つ頷かれた明憲様は、思案顔で相変わらず泣き叫んでいるシェスチナ少尉と何とかそれを宥めようと四苦八苦しているビャーチェノワ少尉を見据えた。

 ソレを横で見ていた私は、胸中で蠢く不快感を感じ、微かに眉を寄せる。

 明憲様ご自身には、どうやってこの場を治めようかという意図しかなかったのだろう。
 それは充分に分っていたのだが、それでも私は……

 制御できぬ自身の心に困惑しながら、ビャーチェノワ少尉へと視線を転じる。

 ――軍人らしからぬ挑発的な水着と、それでは隠しきれぬ程に凹凸に富んだプロポーション。
 ――北国の人間らしく、透き通る様な肌は、日焼けの痕を感じさせぬ白さだ。

 女の私ですら、思わず目を見張るほどに美しい少女。
 その少女を、明憲様が見つめている事に、私はひどく息苦しい気分を覚えた。

 嗚呼、これは嫉妬だ。なんと……

『……なんと浅ましい。
 しっかりしろ、篁唯依!』

 自身の内に息づく醜い妬心に嫌悪を覚えつつ、そう内心で叱咤する私。

 明憲様にそんな意図は無いと知っているのに、自分以外の女性を注視している事自体がどうしても気になってしまう。
 なんとも度し難い己の感情を持て余す私を他所に、明憲様は一つ溜息を吐くとシェスチナ少尉へと歩を進めようとした。

 ……そう、進めようとしたのだが。

「――ッ!?」

 ビクンと少尉の身体が震えた。
 次いで、それまで上げていた泣き声がピタリと止まる。

 いきなり急変した様子に、周りの者達が固まる中、恐る恐る上げられた視線が、明憲様へと注がれ、そして――

「怖いよ! 怖いよぉ! 怖いよぉぉぉっ!」

 怯えきった様子も露わに先程の比ではない勢いで泣き出したのだ。
 これには明憲様も虚を突かれた様に硬直し、私を含めた他の者達も状況が理解できずに唖然として立ち尽くす。

 そんな中、唯一の例外たる存在――ビャーチェノワ少尉が、血相を変えて明憲様に詰め寄り、怒声を叩きつけた。

「貴様、イーニァに何をしたっ!」

 上官に対する礼儀もなにも無い剥き出しの敵意。
 ソレが、あの方に向けられたのを見た瞬間、私の頭の中が真っ白に染まった。

「貴様こそ何をするビャーチェノワ少尉!
 それが上官に対する態度かっ!!」

 気が付けば、明憲様に掴みかかっていたビャーチェノワ少尉の手を払い退けながら、そう叫んでいた私。
 怒りに燃える眼差しで私達を睨む彼女を、負けじとばかりに睨み返す。

「イーニァがこんなに怯えているのは、その男の所為だ!
 この子に一体何をしたのかと訊いているっ!」
「根も葉もない言い掛かりは止めて貰おう!
 斑鳩少佐や私が、貴官らと直接会ったのは昨晩が初めての筈だ!」

 根拠の無い憶測を元に明憲様を誹謗する彼女と、怒鳴り合い一歩手前の勢いで言い合う私。

 ――以前、ソ連施設内に立ち入って問題になったブリッジスならともかく、これまで全く接点の無かった明憲様が、何をしたというのか!

 そんな憤りと共に、明憲様に濡れ衣を着せようとするビャーチェノワ少尉を叱咤するが、完全に興奮しているのか、先程まで見せていたクールさなど微塵も感じさせぬ勢いで、怒鳴り返してくる。

「そこをどけタカムラ中尉。
 貴様に用は無い!」

 そう叫んで、私を押し退けようとするビャーチェノワ少尉を、そうはさせじとばかりに押し留め、そして叫び返す。

「その言葉、そっくりそのまま返す!
 私も、斑鳩少佐も、貴官に用は無い!」

 そのまま睨み合う私達。
 あまりの剣幕に恐れをなしたのか、周囲から制止の声が掛かる事も無い。
 私自身、彼女の態度――いや、正直に告白するなら、明憲様を侮辱するかの如き言動に腹を据えかねていた。
 後になって冷静に考えてみれば、融和と親善を目的とした場で、やってはいけない事と分かるが、この時の私は頭に血が昇っていたのだろう。
 このままでは、到底、矛を納める気分にはなれない事を自覚しつつ、彼女と対峙する。

 そうやって、一触即発の空気が、私と彼女の間で見る見る膨らんでいく中、


「見えないよぉ! 真っ暗だよぉっ! 怖いよぉぉ!」
「――っ!?」

 号泣し続けていたシェスチナ少尉が、意味不明な叫びを上げるや、睨み合っていたビャーチェノワ少尉の意識が、視線が、私から逸れる。
 そして次の瞬間、信じられぬと言わんばかりの眼差しが、私の背後――明憲様へと向けられた。

『……なんだ?』

 微かな疑念が、私の胸中を過る。
 先程まで、憤怒の眼差しで私を、そして明憲様を睨んでいた筈の彼女の眼から怒りが消え、変わって怯えの色が滲んだからだ。

 ――『見えない』、『真っ暗』……何の事だ?

 あのシェスチナ少尉の叫びが引き出した予期せぬ反応に、私は内心で首を傾げた。
 そして無性に背後を振り返りたくなる。
 今この時、明憲様がどんな表情で、私を、そしてビャーチェノワ少尉達を見ているのかを確認したくて……

 だが、私が誘惑に負けて振り返るより早く、背後から微かな吐息が聞こえた。
 どこか、なにかに納得した様にも聞こえるソレに、私は理屈には寄らぬ直感で、明憲様にはシェスチナ少尉の叫びの意味が、そしてビャーチェノワ少尉の驚愕の理由が判っているのだと悟る。

 ――ズキリと胸の奥に疼痛が走った。

 ニード・トゥ・ノウ――知らされていない事を詮索するのは軍人として間違っている。
 そう理解していても、やはり心のどこかで納得できなかった。
 軍人としての篁唯依ではなく、ただの女である私が……だ。

 一つ唇を噛みしめて、漏れだしそうな思いを噛み殺した私は、それを誤魔化す様にビャーチェノワ少尉へと非難の矛先を向ける。

「退け、ビャーチェノワ少尉!
 これ以上、礼を失した態度を改めないというなら、こちらとしても相応の対応を取らせて貰うぞ」
「くっ!?
 ……そちらこそ退け、タカムラ中尉。
 私はどうしても、その男に確認せねばならん事がある!」

 向けられた敵意に反応する様に、彼女も再び声を荒げた。
 だが、その声音には先程とは違う色が混じっている事が、直接、舌戦を繰り返していた私には感じ取れる。

 やはりナニかがあるのだろう。
 尉官、否、佐官であっても明憲様のような特別な立場にある方しか知り得ないナニかが。
 そして、それはビャーチェノワ少尉達にとって、とても重要なナニかに関わる事であるのだろうと、私は感じていた。

 再び、睨み合いになった私達。
 だが、そんな不毛な時間は、唐突に終わりを迎える。

「双方、鎮まれっ!」
「「――っ!?」」

 強さと鋭さ、そして冷たさを感じさせる声が、私の背を打った。

 思わず固まる私達。
 周囲のざわめきもピタリと途絶え、ただ波の打ち寄せる音のみが場を満たす。

 そんな中、その美貌を凍りつかせたビャーチェノワ少尉が、私の背後を見たまま固まっていた。

『嗚呼、またやってしまった……』

 全身から血の気が退いていくのを感じながら、私は胸中で悔恨の呟きを漏らす。
 以前、ブリッジス少尉と口論となった時と同様に、明憲様の逆鱗に触れてしまった事を悟って……

 自身の愚かさと進歩の無さに穴があったら入りたい気分になりながら、私は恐る恐る背後を振り返る。

 いつもと変わらぬ、いや、いつも以上に感情を感じさせぬ顔で、こちらを見据えている明憲様。
 それを見た私の鼓動が、確実に一瞬止まる。

 なにも考えられず、ただ頭の中が真っ白になっていく私。
 そんな空っぽの私の鼓膜を、冷たく平坦な声が震わせた。

「ビャーチェノワ少尉。
 所属は違えど、貴官の言動は明らかに礼を失している。
 それとも、ソ連軍では、それが当たり前の態度なのか?」
「くっ!」

 非難ではなく侮蔑。
 呆れの要素を多量に含んだ叱責に、悔しげな呻きが彼女の口から洩れる。

 そしてそれを脇で見てた私は、人知れず安堵の吐息を漏らした。
 明憲様の怒りの矛先が、私に向けられたものではない事を悟ったからだ。
 そんな自身の浅ましさを、心の何処かで嫌悪しながら、それでも私は全身から力が抜けていくのを自覚しつつ、首を竦めたまま明憲様のお言葉に耳を傾ける。

「この件については、後ほど、正式に抗議させて貰う」

 この一件を、正式に問題化するとの宣言。
 周囲の者達の視線が、同情めいたものに変わった。
 やり過ぎではとの空気が、少なからず満ちる中、私はどうすべきか戸惑いを隠せない。

 ビャーチェノワ少尉の態度は、明らかに問題を含む物であったのは事実。
 とはいえ、良くも悪くも明憲様の様な方から、正式な抗議として突き付けられれば、ソ連としても素知らぬ振りはできぬだろう。
 下手をすれば降格くらいは充分有り得、そこまでやるのは忍びないという気分も、多少なりとは存在していたからだ。

 そんな私の戸惑いを他所に、明憲様の声が朗々と響く。

「……とはいえ、双方に不幸な誤解があったのも事実。
 その事も、必ず付け加えておく事は約束しよう」

 ……思わず肩が落ちた。
 見渡さずとも、周囲の面々の身体から緊張が解けた事が感じ取れる。

 最後に付け足された一言が、問題を必要以上に大きくする意思が無い事を暗示していた事が、皆に伝わったからだ。

 ――こちからの抗議に対して、ビャーチェノワ少尉が叱責を受けて謝罪する。

 それでこの一件は、終わりになるだろう事を理解し、ホッとする私。
 正直、発端はともかく最後の方は、私の八つ当たりに近い挑発の所為とも言える訳で、これで重大な処分が彼女に下される事になれば、寝覚めが悪いどころの話ではない。

 冷静に落とし所を決めて下さった事に感謝の念を深くしながら、私は明憲様の様子を伺うと、何を思われたのか、私やビャーチェノワ少尉から視線を移し、斜め横をジッとばかりに睨みつけられた。

 その視線の先、今回の親睦イベントを企画・提案したオルソン大尉が、明らかに引き攣った表情のまま固まっている。

 明憲様から発せられる怒気が、鋭さと冷たさを増した。
 思わず一歩、後ずさった私だったが、それを恥とは思わない。
 他の面々は、最低三歩は後ずさっていたからだ。
 先程まで、泣き喚いていたシェスチナ少尉さえも、怯えた表情で木にしがみ付いている。

 そうやって一同が硬直する中、冷たく切り裂く様なあの方の声が響いた。

「オルソン大尉、状況を見る限り、シェスチナ少尉は海に対して苦手意識が強い様だ。
 その彼女に海での競技を強要するのは、アルゴス・イーダル両小隊の親睦を図るという本来の目的に反すると思うが?」
「はっ!
 ……少佐の言われる通りかと」

 滝の様な脂汗を流しつつ、掠れた声が応じた。
 珠と成って流れ落ちていく滴は、明憲様の眼光が鋭さを増した瞬間、更に量を増していく。

 その視線の延長線上に居たマナンダル少尉は、とばっちりを受けて……あの……まあ……なんというか、水着で良かったとしか言えない状況だった。

 ――ううっ、お怒りはごもっともですが、少しやり過ぎなのでは?

 胸中で、小さく苦言を呟きつつも、それを言葉には出来ない臆病な私。
 到底、今の明憲様の矛先を向けられる勇気は持てなかった私は、息を潜めて成り行きを見守るだけだった。

「取り合えず、シェスチナ少尉は陸上での競技に参加する前提で、もう一度組み分けし直してはどうだろうか?」
「……はっ、同感であります」

 明憲様の『提案』に、うな垂れる様に首を縦に振るオルソン大尉。

 その全身が小刻みに震えているが、自業自得と思って貰うべきだろう。
 シェスチナ少尉が泣き出した時点で、彼が主催者として事態の収拾を図っていたなら、あの方の眼に留まる様な事態にはなっていなかった訳ではあるし……

『……何はともあれ、これで丸く収まったか』

 そう胸中で安堵の吐息を漏らすと、明憲様もそう判断されたのか、この場を立ち去ろうと踵を返された。
 いや、そうしようとされたのだが――

『――っ!?』

 続く出来事に私は絶句し、一瞬思考を強制停止させられた。
 明憲様の腕を捕え、寄り添い、否、抱きついている豊麗な水着美女の姿に、唖然として固まった私の耳朶を、どこか笑いを含んだ声が撫ぜる。

「ここまで関わられたのです。
 当然、少佐も参加されますよね?」

 そう尋ねながら、更に、む、む、胸を押しつけていくブレーメル少尉!
 な、なんと破廉恥な!
 ビャーチェノワ少尉ほどではないとはいえ、露出の多い水着から零れ落ちそうな大きな胸を、あ、あ、明憲様に押し付けるなどっ!

 あまりの事に声が出ず、胸中で絶叫する私の面前で、ブレーメル少尉が更に明憲様に密着していく。
 明憲様の顔がわずかに赤みを帯び、それを視認した瞬間、私の頭に血が昇った。

 押し付けられた豊満な膨らみがひしゃげ、それに包まれているあの方の腕。
 どこか満更でもなさそうに見える表情は、徐々に赤くなっていく。

 それらの光景を直視していた私の眦が、ギリギリと吊り上っていった。

 ――嗚呼、そうですか。そうなのですね。

 ひどく冷やかで、それでいて煮えたぎる様な感情が、私の腹の中でドロドロと渦を巻く。
 二人を見据える私の目線が、限りなく細く鋭くなっていくのを感じながら、私は胸中でボソリと呟いた。

『そんなにも女の胸が、お好きですか?
 許嫁の眼の前で、だらしなく鼻の下を延ばすほどにっ!
 ……そんなにお好きだというのなら、後で存分に堪能させて差し上げます』

 そして誓う。

『しっかりと釈明を訊かせて頂いた上で……』

 私の頬が吊り上る。
 応ずる様に、微かに引き攣る明憲様のお顔。

 嗚呼、何故だろう?
 ソレが何故か可笑しくて、私の口元がクスリと小さな笑みを刻んだ。





■□■□■□■□■□■□





「斑鳩少佐っ!」

 振り返りざま叫ぶオレ。
 今は、好きだの嫌いだの言ってられる状況じゃなかったからだ。

 遠くに霞むステラとクリスカのボートの様子が、おかしい事に気付いたのは、ついさっき。
 慌てて双眼鏡で見てみれば、ボート上にはステラの姿しか見えず、しかも何やら慌てている様に見える。
 明らかに何らかのトラブルが発生したのは確かな上、見える範囲に居るのはオレ達のボートだけ。

 オレ達が急いで救援に向かうしかない現状では、ムシが好かない相手とはいえ、無視して動く訳にもいきゃしない。
 そう判断したオレだったが、あの野郎の反応は、オレの予想を見事に外してくれやがった。

 オレの呼びかけにも眼を閉じたままピクリとも反応しやしない。
 眠っているのかと思えば、両腕は休む事無くオールを漕いでいた。

 なんとも判断に困る相手に半ば憤りを感じながら、オレはもう一度、大声で怒鳴りつける。

「少佐! 斑鳩少佐っ!」
「――ッ!?」

 流石にコレは効いたのか、閉じられていた眼がパチリと開かれた。
 一瞬、不審げに細められた眼差しが、次の瞬間、オレへと固定される。
 眠気の欠片も見えぬソレが、眠っていた訳ではない事を証明していた。

 それならそれで、サッサと応えてくれと腹の中で愚痴りつつ、少しだけオブラートに包んだ不満をヤツにぶつける。

「なに呆けてるんですか!?
 寝ぼけてるんですかっ!」

 この非常時に、ボケていたのだ。
 この程度の言い様は許されるだろう。

 わずかに不快そうに顔を顰めた相手に、知った事かとばかりに双眼鏡を押しつける。

「とにかく、アッチを見て下さい!」

 そう言って、後方に見えるステラ達のボートを指差す。
 流石に、オレの剣幕に、容易ならざる事態と悟ったのか、文句も言わずに双眼鏡を覗き込んだ少佐の眉が寄った。

 そのまま真剣な表情で考え込むが、ソレすらもオレには遅く感じられる。

 ――考え込んでる場合じゃないだろうが!

 一分、一秒を争うケースとて有りえる。
 考え込んでいる暇があるなら、すぐ行動に移すべきだ。

 コイツの緊急時の対応に全く信頼を置いていなかったオレは、そう判断するとそのまま海へと飛び込んだ。
 次いで、オレへと視線を転じたアイツに、有無を言わさず捲し立てる。

「少佐は基地に戻って、この状況を知らせて下さい。
 オレは向こうの様子を見てきます」

 一度振り返って、そう告げると、後は聞かずにそのまま泳ぎ出そうとする。

 もうこれ以上、付き合っちゃいられない――そう思ったからだ。だが……

 ――ゴンッ!

「グゥッ!?」

 瞼の奥で星が散った。
 いきなり上から来た衝撃に、海の中に押し込まれたオレは、鼻から入った海水を吐き出しながら浮き上がり、ボートを振り返る。

 予備のオールを片手で持ちあげたアイツが、無表情のままこちらを見ていやがった。

『アレで殴ったのか!?』

 そう悟った瞬間、腹の底から怒りが湧き上がってくる。

 ――この非常時に!

 胸中で燃え上がる怒りの炎が、オレの頭を熱くした。

『上官だろうが、なんだろうが知った事かっ!』

 そう内心で叫びながら、オレは怒声を上げようとして――

「落ち着け馬鹿者。
 基地に戻るまでどれだけ掛かると思っている?
 そんな事をする位なら、このままボートで向かい、二人を回収して引き返した方が余程早く済む」

 ――ひどく冷たく、そして鋭い声に、黙らせられた。

 ボートの上から見下ろす視線の冷たさに、南洋の温い海水からは感じられぬ悪寒を感じるオレ。
 それがオレの頭を冷やし、相手の言葉を噛み砕かせる。

 基地は既に水平線の彼方だ。
 一人で戻るとすれば、一時間や二時間は掛かるだろう。
 それに対してステラ達の乗るボートは、まだ目視できる距離。
 二人で急げば十分そこそこで付ける筈だ。

 何より、今この瞬間、一分、一秒を争うケースであると考えたのはオレ自身。
 そんな状況で、一時間後に基地からの救援が来たとしても手遅れになっている可能性が高い。

「……チッ……」

 忌々しさに舌打ちが漏れる。
 なんとも納得し難いモノがあるが、コイツが言っている事の方が正しいと認めざるを得なかった。

 ジンジンと響く頭の痛みを堪えつつ、オレは悔し紛れに一睨みすると、ボートの上へと這い上がる。
 そのまま投げ捨てた自分のオールを取ると、背後でアイツもオールを持ち直す気配がした。

『ああ、クソッタレが!』

 どうにもこうにも割り切れない思いを抱え込みつつ、それでも腕に力を込める。
 合わせる様に背後に引かれる感覚が過り、波を切るボートの速度が上がった。

 どうやら向こうも本腰を入れて漕ぎ始めた様だ。
 先程よりも、更に速度を増すボートに、オレも負けじとばかりに力を込める。

 もう四の五のと考えるのは止めだ。

 今は一刻も早くステラ達の下へと急ぐ事だけを考えたオレ、それ以外の全てを意識の外へ押し出した。

 もはや交わす言葉もなく、ただただ、ひたすらにオールを漕ぎ続けるオレ達。
 有り余るほどに体力のある現役衛士、それも男の二人組が脇目も振らず漕ぎ続ければ、どうなるかを実証するだけだった。

 そのまま洋上を滑る様な勢いで進むボートは、ものの十数分と掛けずに目標との距離を詰める。
 近寄ってみれば、珍しく血相を変えたステラが、ボートの中で蒼褪めた顔のまま横たわるクリスカに必死に声を掛けていた。
 こちらから見えるクリスカの顔は死人の様に青白く、呼吸もひどく荒い。

 どうみてもただ事ではない状況に、思わず声を掛けようとしたオレの機先を、またまた少佐が制した。


「どうしたブレーメル少尉?」
「少佐!?」

 動揺の欠片も見えぬ無愛想な声に、驚きに眼を見開いたステラが振り返る。
 どうやら慌て過ぎていたのか、オレ達がボートを近づけていた事にも気付いていなかった様だ。
 いつもの余裕綽々な態度もどこへやら、しばらく絶句した後、つっかえつっかえしながら事情を説明し始める。

「……それがその……急に倒れてしまって。
 沖に出てから顔色がどんどん悪くなっていって……
 何度か大丈夫か確認したんですが、『任務は完遂せねばならない』の一点張りで……」

 そこで一旦、言葉を切った彼女は、苦いモノを噛み下す様な顔になり先を続けた。

「……申し訳ありません少佐。
 私がもっと強く言えば、いえ、無理にでも引き返していればこんな事には……」

 あまり感情を見せないステラには珍しく、苦悩と悔恨が色濃く滲み出ている。

 昨日のレセプションでも、珍しく棘のある態度でクリスカと言い合っていたことから、折り合いが悪いのは分っていた。
 一緒の組になった事で、なにかトラブルでも起すんじゃないかと心配していたんだが、どうやらやはり余り上手くいっていなかったらしい。
 そしてそれが原因で、クリスカがこんな事になったのだと思い詰めてやがる。

 そんな事は無いと言ってやりたかったが、簡単には言い難い空気に、オレも思わず黙りこんじまった。

 そんな中、こちらは眉一筋動かす事無くステラの話を聞いていた少佐は、話が一段落したところで一つ頷くと口を開く。
 ただし、その口から飛び出したのは、慰めでもなければ、叱責でも無かった。

「取り合えず、細かな事については後ほど聞こう。
 今は、一刻も早く基地に戻るべきだろう……」

 正直、ヤツがどう判断し、どう動くかを知りたかったオレとしては、肩透かしを喰らった気分だったが、空を見上げながら放たれたソレに、不満を感じつつも同意した。

 見上げる空は、ついさっきまでの晴天が、まるで嘘の様な黒い雲が急速に広がっていやがったからだ。
 注意してみれば、頬に当たる風も先程より生暖かく湿っぽい。

 嵐の到来を告げるソレらに、オレは、やはりとんでもない貧乏くじを引かされた事を悟り、黙って溜息を吐いた。





■□■□■□■□■□■□





 ――音が聞こえる。

『―――――』

 パチパチと爆ぜる音と何かが燃える匂い。

『―――――』

 揺らめく赤い光が、暗闇の中、ぼんやりと感じ取れ、それらに導かれる様に、私の意識がゆっくりと覚醒していく。

『……暗い……』

 薄暗く冷たい感覚。
 気付けば背中がわずかに痛かった。

 まだはっきりとはしない意識の中、ゆっくりと首を巡らし周囲を見回す。
 薄暗い中、赤々と燃える炎が視界に映った。

「……あら、眼が覚めたかしら?」

 炎の向こうから声がした。
 思わず眼を細めると、ぼんやりとしていた視界が、徐々に鮮明になっていく。

「……ブレーメル少尉?」

 あのユウヤ・ブリッジスと同じアルゴス小隊の衛士――退廃と享楽に溺れる軟弱な西側の人間だった。

『何故、こんなところに……』

 脳裏に疑問が浮かび、次いでそれが答えに直結し――

「――っ!?」

 ――私の身体が跳ね上がった。

 思い出した。
 党から与えられた大切な任務。

 自身が、目の前の女衛士と共に、その遂行に当たっていたという事を。
 そしてその途中で、海という存在の精神的圧迫に堪えかね意識が途切れた事を。

「ここは何処だ!
 に、任務はどうなっ……クッ!?」

 ブレーメル少尉に食ってかかろうとし、頭蓋の内側に走った痛みに呻く。
 身体が鉛の様に重く、頭がフラフラした。
 一瞬、暗くなった視界に、眼を瞬かせながら、私は額を抑える。

「無理しないで。
 気分は大丈夫?
 喉は乾いていない?」

 やや呆れたような声で尋ねてくる彼女。
 それに無言で首を振り、不要であると告げる。

 そのまましばし呼吸を整えていると、やがて頭痛も去り、視界も徐々に明るさを取り戻していった。

 そしてそれが、相手にも分ったのだろう。
 落ち着いた声が、再び尋ねてくる。

「どこまで覚えているのかしら?」
「軍用のゴムボートに乗って海に……」

 そう、党から与えられた任務を果たすべく私は海に出て、そして……

「……そこから先は、あまり覚えていない」

 素直にそう答えると、焚き火の向こう側のブレーメル少尉が大きく頷いた。
 そしてゆっくりとした口調で、此処に至る経緯を説明してくれる。

「……そうだったのか。
 済まない。迷惑を掛けた」

 話を聞き終えた私は、わずかに顔をしかめながら詫びを口にする。
 なんとも情けない顛末に、党の名誉に泥を塗ってしまった事に忸怩たる思いを抱きながら頭を下げると、気にするなとばかりに軽く手を振られた。

「風雨も大分弱くなってきてる。
 もうしばらくすれば収まる筈よ。
 そうしたら基地に帰りましょう」

 そう言いながら、薄く微笑んで見せるが、一瞬だけその表情に暗い影が差したのが判った。
 そしてそれが、何に起因するのかも。

「……斑鳩少佐の件だが……」
「………素直に報告するしかないわね」

 歯切れの悪い私の言葉に、やや重く暗い色を漂わせつつブレーメル少尉が応じる。

 話を聞く限り、意識を失った私を助けた所為で落水し、そのまま行方不明になったのだとか。
 正直、イーニァを怯えさせた事には怒りを覚えているが、自分の身代りとなった事を考えると、どう言ったらいいのかが判らなかった。
 向こうも、私に対して良い感情を持ってはいなかったのではと思うと、何故、危険を顧みず私を助けたのかとも思う。

 胸中に生じた理解不能な感情を持て余す私。
 そんな私に向けて、ブレーメル少尉は静かに微笑みながら告げた。

「天候の悪化も含めて、不可抗力であった事は確かよ。
 それに少佐も、死んだと決まった訳でもないしね」

 そう言いながら軽くウィンクをして見せるが、何処か違和感を感じさせるソレに、私は素直に頷けなかった。
 ブレーメル少尉の眉が寄り、眉間に小さく皺が出来る。

「……とにかく今は休みなさい。
 戻るにせよ、それなりに体力は消耗する筈よ?」

 だから休んで、少しでも体力を回復させておけ。
 そう告げる彼女に、私は割り切れないモノを抱きつつも従う。

 またお荷物になる訳にはいかないのだ。
 少しでも休んで、身体を回復させておかねばならない。

 そう自身に言い聞かせて、横になろうとしたところで、ガサリと物音が鳴った。
 音の鳴った方――洞窟の入口に私達の視線が集中する。

 枯れ枝の塊にも見えそうなほど大量に、それらを抱え込んだアイツ――ユウヤ・ブリッジスが、ずぶ濡れになって立っていた。

「ユウヤ!?」

 驚きの声と共に立ち上がった彼女が、そのままブリッジスに駆け寄った。
 どうしたのかと問う声に、蒼褪めた顔のままブリッジスは、ボートが波に浚われたらしい事を告げる。

 思わぬ報告に息を呑むブレーメル少尉。
 私も眉間に皺が寄るのを感じながら、大切な子の事を思う。

『……イーニァ……』

 私にとっての全て。
 そんな存在から、強制的に引き離されてしまった事に心が泡立つのを抑え切れなかった。
 そしてその感情は、行き場を求めてブリッジスへと向かう。

「スマン……オレのミスだ……」

 私の険しい視線を感じたのか、こちらに向けて頭を下げるブリッジス。
 脇に立つブレーメル少尉が、私を咎める眼付で見るのが判ったが、それでも苛立ちを抑える事が出来なかった私は、そのままブリッジスに詰め寄ろうとする。

 ――いや、詰め寄ろうとした。

「ユウヤッ!!」

 ブレーメル少尉の悲鳴と崩れ落ちるブリッジス。
 どちらが先で、どちらが後だったのかは、私にも分らなかった。

 ただ糸が切れた様に地面へと倒れ込んだアイツを、呆然と見ていることしか出来ない私を他所に、慌ててしゃがみ込んだブレーメル少尉が、その額に手を当てるや険しい表情を浮かべる。

「……ひどい熱……」

 そう一言呟くと、ブリッジスの肩を持ち、焚き火の傍へと引き摺って来る。

「サバイバルキットから解熱剤を出して!」
「わ、分かった」

 焦りを滲ませたその声に、私も思わず従ってしまう。
 焚き火から、やや離れたい位置に置かれたキットを開けて、中から解熱剤とミネラルウォーターを取り出す。
 そしてそれを大急ぎで彼女に手渡すと、躊躇う事無く薬と水を自分の口に含んだブレーメル少尉は、そのままブリッジスに口付けた。

「――ッ!?」

 胸の奥でナニかが軋んだ気がした。
 思わず眉を顰める私の眼の前で、口移しで飲まされた水と薬を、ブリッジスは無意識に嚥下していく。

 それを見届けたのだろう。
 ホッとした様子で顔を上げたブレーメル少尉は、私の方を見て、何故か面白いものを見た様に相好を崩した。

「……ごめんなさい。
 私も少し慌ててたみたいね」

 そう言いながら笑いかけてくる彼女。

 何が、そんなに面白いのかと言いたくなるほどの笑顔。
 それに何故か不快感を感じ、尖った声が私の喉から零れ落ちた。

「ブリッジスは、一体どうしたのだ?」

 不機嫌そうな声だ。
 自分でも、それが良く分かった。
 こんな口調で問えば、大抵の人間が嫌そうな顔をするものだが、何故かブレーメル少尉は笑顔を崩さない。
 ニコニコと微笑みながら、ブリッジスの頭を膝に乗せ、濡れた髪を撫でつけながら答えを返してきた。

「……多分、ボートを流されてしまった事に責任を感じたんだと思うわ。
 雨の中、あちこち探し回った挙句、せめてもの詫びに薪を集めてた所為で、調子を崩したんでしょうね」

 そう言いながら、ブリッジスを見下ろし微笑む。
 それが何故か、私の胸の奥にざわめきを起させた。

「情けない男だ。
 この状況で体調を崩すなど、愚かとしか言いようが無い」
「……男の子だもの。しょうがないわよ」

 胸中の不快感を振り払う様に吐き捨てる私に対し、笑いながら返す。
 それが更にざわつきを大きくしていくのを感じながら、私はそれを無視するように横になろうとした。

 ――今は少しでも早く身体を回復させ、体力を蓄える事こそが先決。
 ――ブリッジスの様な醜態をさらさない為にも。

 そう自身に言い聞かせながら、眼を閉じようとした私の背に、笑いを含んだ声が掛けられた。

「休む前に鎮静剤を飲んでおいた方が良いわよ。
 気が昂ぶっていては充分に休息が取れないでしょ?」

 そう告げられた言葉に、わずかな反発を感じるが、無視して眠るには指摘された通り、精神の安定が掛けているのも事実だった。
 何とも表現し難い気分を感じつつ起き上った私は、キットの中から鎮静剤を取り出し飲み下す。

「……これで良いのだろう?」

 そう言い捨てると、元の位置に戻ろうとした私に、再び声が掛けられる。

「そっちじゃなくてコッチ」
「なっ!?」

 そう言いながら、ブリッジスの脇を指差す仕草に絶句した。

 脈拍が上昇し、不規則になっていく。
 顔面に血が集まっていくのを感じながら硬直した私に向けて、微笑みを浮かべたまま三度声が掛けられた。

「彼、かなり消耗しているの。
 暖めないといけないんだけれど、焚き火だけじゃ……ね?」

 そう言って再びブリッジスの脇を指し示す。
 その意味するところを悟って、私は思わず抗議した。

「な、何故私が、そんな事をせねばならない!」

 そうだ。 栄光あるソ連軍衛士たる私が、何故――そんな思いと共に放たれた抗議。
 対するブレーメル少尉の眼光が、少しだけキツくなった。

「本気で言ってるのかしら?
 そもそもユウヤも少佐も巻き込まれた側よ。
 そして私達は巻き込んだ側……その位の恩返しは当然だと思うけど?」

 私の頬が、微かに引き攣った。
 ブレーメル少尉の指摘は、的確に私の弱点を突いていたからだ。

 ――望んだ事ではないが、確かに彼らに借りがあるのは事実。
 ――斑鳩少佐には、既に返せないとなれば、その分、ブリッジスに返さねば栄えあるソ連軍衛士としての矜持に関わるだろう。

 そう何処か薄靄が掛かった様な思考で結論付けるが、それでも踏ん切りが着かない私を見かねた様に、ブレーメル少尉が溜息をつき、そして……

「――ッ!?」

 驚愕に眼を見開く私を他所に、ブリッジスの傍らに横たわり、意識の無いヤツをその胸に抱きしめた。

「………」

 唖然とし、声も無く固まる私。
 薬の所為か、白濁しつつある意識の中、その声だけが明瞭に響く。

「さあ、そっちをお願いね?」

 何故か抗いがたいその声。
 それに導かれる様に、フラフラとブレーメル少尉とは反対側に歩み寄った私は、そのまま地面に座り込み、そして横たわった。

 目の前にあるのはヤツの、ブリッジスの背中。
 剥き出しのソレは、衛士らしく鍛え抜かれている事が見て取れる。

「うん、そう。
 もうちょっと寄ってあげて」

 霧が掛かったかのような思考の内に誰かの声が響いた。
 その声に引かれて、私は目の前の背中に自身を近寄せる。

 雨に打たれた背は、未だ濡れていた。
 表面は気化熱を奪われ冷たく、だがその下には炎の様な熱さを感じる。

 触れ合う肌が熱を奪い、そして今度はこちらを熱くしていくのを感じながら、私の意識は白濁の中へと沈んでいった。





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「……ふぅ……」

 思わず漏れた溜息。
 だが、それにすら気付く事無く昏々と眠り続ける二人。

 薬が効いたのか、落ち着いた様子で私の胸に顔を埋めて眠るユウヤと、その彼の背に寄り添いながら寝息を立てているビャーチェノワ少尉。

 起きている時の尖がり具合が、まるで嘘の様な穏やかさに、私の頬も微かに緩んだ。

「普段も、こうならいいのに。
 ……ほんと困った子達ね」

 ユウヤが色々と抱え込んでいるのは、親友であるヴィンセントから聞いている。
 ハーフという出自にコンプレックスを抱いている彼は、どこかひどく不安定だった。
 最近、それなりに落ち着いてきているのは、良い傾向だとも思うが……

「……やっぱり『あの演習』からかしら?」

 以前行われた型破りな演習。
 当時は、随分と無茶をするモノだと思ったが、アレが一つの切っ掛けとなったのは確かだ。
 あの演習以来、事ある毎に衝突していた篁中尉とユウヤの関係も、それなりに距離感が掴めたのか、安定してきている様にも見える。
 少なからず先行きを危ぶんでいたXFJ計画も、なんとかまともに動き出したといえる現状は、関係者としても喜ばしい事だと思っていたのだが……

 私の胸中に暗い影が差す。
 再び落とした視線が、胸の中で眠るユウヤに注がれた。

『……折角、上手く行きそうだったのにね』

 まだ濡れている彼の髪を指先で整えながら、心の中でそう呟く。

 この遭難で出てしまった犠牲者が、XFJ計画の今後に大きく影響を及ぼすのは確かだ。
 名目上とはいえ計画の責任者であり、ショーグンの一族でもあるという彼。
 不可抗力の事故とはいえ、その様な人物が死亡したとなれば、計画そのものもタダでは済まないのは確実だった。
 最悪の場合、計画の中止すら有り得るだろう事態に、私は溜息をつく。

「……本当に困ったわね」

 心の内の思いが、言葉となって零れ落ちた。
 どうなるか、どうすればいいのか、皆目見当もつかない。
 パチパチと焚き火の燃える音を背にしながら、私は小さく頭を振った。

 起きてしまった事は、もうどうしようもない。
 取り合えず今は、自分達が生き延びる事を最優先すべきだろう。
 不幸中の幸いと言うべきか、運良く陸地まで辿り着けた以上、救助が来るまで頑張れれば、残った三人が欠ける事無く生還する事も叶う筈。

 と、そこまで考えた所で、残り一人の事が再び脳裏を過った。

 あまり接点の無い怒らせると怖い上官。
 ひどく無愛想で、ユウヤ以上に取っつき難かった印象が強い。
 アレでは直に接する篁中尉も、気苦労が絶えないだろうと思った事も、今では……

「見た目は良い男……いえ、中身もそうだったのかもね……」

 悔恨混じりの呟きが漏れた。

 海に落ちる危険を顧みず、ビャーチェノワ少尉を助けた彼。
 少なくとも、人として悪い人物だったとは思えなかった。

 もう少し親しく接していればとの思いと共に、悪戯心を出して誘わなければ、或いは、こんな結末には至らなかったのではとも思う。

「篁中尉になんて言えばいいのか……」

 今頃、基地で青くなっているであろう生真面目な少女を思いながら、胸の奥に痛むものを感じる。
 今回の遭難事故は、間違いなく彼女の進退にも関わる筈だ。
 日本帝国の内情には余り詳しくは無いが、それでもショーグンの一族が命を落としたとなれば、関係者の処分は免れまい。
 その場合、彼女が生贄の羊にされるのは明白だった。

 それになにより、きっと彼女は……

「はぁぁ……」

 なんともやり切れない現状に、再び溜息が洩れる。
 最早、自分には何も出来ないと分かり切っている事が、それを認めてしまっているのが更に嫌だった。

『ごめんなさい……なんて言えた義理じゃないわね』

 胸中で後悔の呟きを漏らしつつ、どうしようもない状況に頭痛を感じた私は、ゆっくりと瞼を閉じた。

 今の自分に出来る事は、これ以上、犠牲を増やさず生還する事。
 そう自身に言い訳しながら、私は意識を手放していった。





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 窓から見える嵐の風景を睨みながら、私の心は千々に乱れていた。
 噛みしめた唇から僅かに錆びた鉄の味がするが、そんな事を気にする余裕も無い。

『……私の所為だ』

 後悔ばかりが私の胸を満たし、そしてギリギリと締め上げる。

 本来、明憲様が参加する必要などなかった筈なのだ。
 あの時、キチンとお止していれば、或いは、悪乗りしたブレーメル少尉を窘めていればこんな事にはならなかった筈なのに……

「くっ……」

 醜い嫉妬に気を取られていた自分の愚かさが、卑しさが、情けなくて仕方ない。
 そんな己の浅はかさが、あの方を窮地に陥れたであろう現状が、どうしようもないほどに辛かった。

「……武御雷を持ってきていれば」

 自らの剣たる愛機が、この場に無い事が無念でならない。
 武御雷さえあれば、直ぐにでも飛び出して、明憲様を探しに行けるものを……

 そう歯噛みしながら、私は此処――臨時捜索本部に充てられたミーティングルームにて、明憲様達の行方に関する情報を待ち続けていたが、まともな情報など全くと言っていいほど入っては来ない。
 二重遭難を恐れ、嵐が止むまで捜索隊を出さないと判断した基地側の所為でだ。

 無論、厳重に、否、半ば脅し掛けて抗議もしたが、その判断が覆る事はなく、そればかりか、こちらが勝手に捜索に出る事を、逆に禁じられてしまう始末。
 手も足も出せない現状に、やるせなさだけが募っていった。

「……明憲様」

 誰にも聞かれぬ様に、口中でそっと呟く。
 同時に、泣き叫びたくなるような激情が、私の中に溢れ、心の堤防を崩し掛けた。

 それらの感情を、歯を食い縛って堪える私。
 溢れそうな涙を上を向いて堪え、誰にも見咎められない様に、再び、窓外に視線を転じた。

『……ん?』

 窓の外、空を埋め尽くしていた筈の雨雲に、わずかな切れ目が見えた。
 良く見れば、木々をしならせていた風雨も、心なし弱まっているように感じられる。

『これならば――』

 嵐の終わりを示す兆候に、微かにのぞいた希望の光を感じ取った私は、再度、基地首脳部に談判すべく身を翻す。

 ――刹那、臨時捜索本部のドアが開かれ、血相変えたマナンダル少尉が、シェスチナ少尉の手を引き、室内へと飛び込んで来たのだった





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 微かに爆ぜる音と共に燃え上がる炎。
 ソレをぼんやりと見ながら、私は膝の上で眠る人の髪を梳る。
 微かに濡れた髪から立ち上る潮の香りは、彼の苦闘の名残なのだろう。

「……本当に、よくご無事で……」

 呆れとも感心ともつかぬ呟きが、私の唇から零れ落ちた。

 まさかあの嵐の海に投げ出され、生き延びていようとは想像もしなかった。
 ライフジャケットを着けていたにせよ、軍の特殊部隊クラス辺りでも、生存率はいいとこ半々といったところだろう。

「……これじゃ『お坊っちゃま』なんて言えないわね」

 小隊内でのあだ名を思い出し、つい苦笑してしまう。
 なんともタフな『お坊っちゃま』だ――と。

 もっとも最初にそう言い出したタリサは、この間の一件で苦手意識を刷り込まれたのか、もう口の端に乗せる事すらなく半ば死語と化していたので、今回の一件で完全に消え去るのは確実だ。
 あの時の少佐の眼を見てしまったら、私自身、とても怖くて言えはしない。

「……ほんと、怖い人ですね。 貴方は」

 そう呟きながら、改めて眠る少佐を見直した。

 ――東洋人にしては、くっきりとした目鼻立ちは、充分、端正と呼ぶに足る造作だ。
 ――ライフジャケットに半ば隠されてはいるものの全身も軍人らしく鍛え抜かれている事が良く分かる。

「……その上、ショーグンに連なる名家の出で、階級も少佐と」

 実はとんでもない優良物件である事を、今更ながらに認識する。いや……

「……違うか」

 否定の言葉が、呟きとなって漏れた。
 そういった飾りは抜きにしても、『いい男』であると、私の中の『女』が囁いていたから。

 ――あれだけの苦境を、独力で乗り越えてみせるタフさと、それを支える強靭な精神力。

 今の様な時代において、生き延びるのに必須の要素であるソレらを備えながらも、よく居る野蛮と勇敢を履き違えた脳筋連中の様に粗野でもなければ、下品でもない。
 長引くBETAとの戦いで、男達が減り続ける中、そういった男性は貴重な存在だ。

 VG辺りは、それなりにいい男と思うが、あの女好きなところは少々頂けない。
 対して彼が紳士である事は、先程零れ落ちていた私の胸を見ても、動揺する事無くすぐさま眼を逸らした事からも明らかだった。

「高得点ですよ。 少佐」

 先程の自身の痴態を思い出し、わずかに頬が赤くなるのを感じながら、そう呟いた。

 ユウヤの様な可愛いボウヤも嫌いではないが、やはりどこかヤンチャな弟といった印象が強い。
 久方ぶりに巡り合った『いい男』を膝の上に抱きながら、さてどうしたものかと考える私。

 隠しているつもりかもしれないが、篁中尉が少佐を異性として意識しているのは分っている。
 時折、無意識の内に少佐を見詰めている仕草が、とても一途で可愛らしかったから……

 ここで私が少佐に妙なちょっかいを掛ければ、あの不器用そうな娘の事。
 激しく動揺して仕事が手につかなくなるか、逆に嫉妬心剥き出しになって任務に支障をきたすかの何れかだろう。

「それは流石に……ねぇ」

 気の毒という気分が強い。
 なにより、いつも一生懸命な彼女も、可愛い妹の様に感じている身としては、あまりイジメるような真似はしたくなかった。

 とても勿体ない気がするのだけれど、ここはやはり……

「……少しだけ残念です。 斑鳩少佐」

 そういって再び少佐の髪を梳る。
 するとむずかる様に身じろぐ姿を見ていると、不意に少しだけ悪戯心が湧き起こった。
 つい数瞬前に出た結論に反するのだが、お詫びという事にして自分を誤魔化す。

 赤々と燃え盛る焚き火の向こうを、チラリと覗き見た。
 未だ安らかな寝息を立てるユウヤ達が、しっかりと眠っている事を確認すると、私は再び少佐へと視線を戻す。

 こちらもまた、起きる気配は無かった。
 やはり流石の彼でも、嵐の海を泳ぎ切るというのは並大抵の苦労ではなかったのだろう。

 私の唇が薄い笑みを形作った。
 微かに頬が熱くなるのを感じながら、そっと彼の上へと覆い被さる。

 シンとした狭い洞窟の中、炎の燃える音だけが響いていくのを聞きながら、私は暫し篁中尉の事を頭の中から追い出した。
 この位は眼を瞑ってと、胸中で呟きながら。

 ―― どれ程の時が経ったのだろう?
 ―― 一分か、一秒か、それとも一時間?

「……ん……んぅ……」

 誰にも内緒な秘め事に終わりを告げたのは、無粋な呻き声だった。
 弾ける様に私の上体が跳ね上がる。

 焚き火を挟んだ向こう側には、頭をわずかに揺らしながら、重たげに瞼を開けようとしているユウヤが見えた。

『もう少し寝ていてくれてもいいものを……』

 微かな不満の呟きを、言葉に出さずに呟きながら、私は居ずまいを正した。
 頬に残った赤みも、焚き火のお陰で誤魔化せるだろう。

 そうやって何も無かった風を装い終えた私の面前で、眠たげな眼で周囲を見回していたユウヤがこちらを見た。

「おはよう、ユウヤ」

 未だにトロンとした眼の彼に、目覚めの挨拶を告げながら、さあどうやって事の経緯を説明しようかと、私は少しだけ首を捻ったのだった。





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「明憲様!!」

 ヘリが砂浜に着く寸前に飛び降りた私は、恥も外聞も無く叫んでいた。

 まだ遠くに見える人影。
 だが、見間違いようもない御方。

 それを視認した瞬間、私は躊躇う事無く駈け出していた。

 上空を飛び回るアルゴス小隊機とイーダル小隊のチェルミナートルも気にならない。
 ただ一人の人を目指し、真っ直ぐに走り寄る私は、砂浜の砂に何度か足を取られながらも、必死になって駆けていった。

 見る見る内に近づいてくるあの人。
 そして同時に視界に映る同行者達。

『――っ?』

 明憲様の脇に立つブレーメル少尉を意識した瞬間、私の中でジュクリと何かが痛む。
 同時に起きる黒く暗いドロドロとした感情を自覚し、思わず顔が歪んだ。

 ――嗚呼、なんと醜く卑しいのか、と。

 明憲様の無事を確認した瞬間、安堵するよりも先に、一緒にいたブレーメル少尉に嫉妬する私。
 そんな自身の嫉妬深さに、どうしようもない程、情けなさを感じながら、それでも私は恥じらいも無くあの方に縋りつく。

「明憲様っ!!」
「グホッ!?」

 勢いが付き過ぎていたのか、もんどりうって倒れる明憲様。
 そのまま絡み合った私達は、砂浜へと倒れ込んだ。

 私が上で、明憲様が下。
 押し倒す様な形で、あの方の上に乗ってしまった私は、それがどれ程はしたない真似かという事を自覚する余裕すら無くしていた。

 ――盗られたくない。
 ――奪われたくない。
 ――失いたくない。

 そんな恐怖のみが、その時の私を満たしていたから。

 対して明憲様はと言えば、この方には珍しく驚きの感情を露わにし私を見上げていた。
 それがとても珍しく、そして何故か嬉しくて、感情が抑え切れなくなっていく。

「明憲様……」

 感極まった思いが、涙となって溢れかけた。
 微かに震える唇が、もう一度、愛しい人の名を紡ぐ。

「……明憲様……」

 そっと重ねられた唇。
 思えば、これが私の方からした初めての口付けだった。

 その事にようやく気付き、思わず赤面するが、私の身体は更に先を求める。
 より強く唇を押しつけつつ、あの方の中へと潜り込んだ私の舌先が、明憲様のソレに絡みついた。
 同時に、明憲様の首へと回した私の腕が、渾身の力と共に巻きつく。
 上気した私の吐息に、濡れた音が混じった。
 それに覆い被さる様に、周囲からどよめきが湧き起こるのが聞こえてくる。

 微かに薄目を開けて見れば、これまでの険のある表情が消え、代わりに眼を丸くしているビャーチェノワ少尉と口を開けて呆けているブリッジスが居た。
 そしてそこから数歩離れた位置には、口に手を当て驚いているブレーメル少尉が見える。

『……ああ……』

 安堵と優越感に満ちた吐息が、私の口元から洩れた。
 見せつける様に更に激しく口付ける。

 ――この方は私のモノ。そう私だけの。

 喪失への恐怖と、その裏返しである独占欲。
 そんな歪んだ思いが、私を更に突き動かす。

 ――より強く、より深く。

 ただそれだけを思い、私は恥じらいすら忘れ、明憲様にしがみ付いていく。

 後から考えれば赤面、否、真っ青になって卒倒しかねない破廉恥さ。
 事実この後、基地に戻る道中で、恥ずかしくて恥ずかしくて顔を上げる事すら出来なくなるのだが、この時の私は、そんな事に思いを致す事すら出来ないほど錯乱していたのだろう。

 ただひたすらに明憲様を求め、そして繋がりを感じようと足掻く私の背に、あの方の腕が回され、力強く抱きしめられた瞬間、このまま死んでも良いとさえ思ってしまったのだから……

 強く強く抱きしめられ、重なり合う私達。
 周囲の状況すら忘れ果て、私はこの刹那の歓びに溺れ切っていったのだった。





■□■□■□■□■□■□





 嫌な感じの沈黙が、部屋の中にデンと居座っていた。
 どいつもこいつも黙ったまま、酒を舐めていやがる。

『葬式の夜じゃあるまいに……ああ、気が滅入るぜ』

 片手に持ったグラスをグイッと呷る。
 喉を焼くアルコールを感じながら、オレは、ステラが用意してくれたツマミに手を伸ばした。

 ……旨い。
 ごく普通の合成ハムやらチーズやらと、PXで手に入る様なクラッカーを組み合わせただけのありふれたオードブルだが、ウィスキーに良く合っている。
 昨日言っていた『調理にひと手間かけたり……』とのセリフに、今なら素直に頷ける気がした。

 少し気分が良くなったオレだったが、再びグラスを呷ると、中途半端なところで中身が無くなる。

「チッ……」

 良い処で――と思いつつ、一つ舌打ちしたオレは、テーブルの上のボトルに手を伸ばした。

 ……伸ばしたんだが、その手が空を切りやがる。

「……ステラ、なにしやがる」

 少しだけムッとした口調で、オレよりも一瞬早くボトルを掻っ攫っていったステラを睨む。
 熱帯標準軍装(トロピカル・アーミー)の上にエプロンを着けているのは、ついさっきまでツマミを作っていたからだ。
 それについては感謝するが、酒を独り占めするのは許せない。
 だが労働に対価は付き物だし、この程度で目くじら立てるのも馬鹿らしかった。

「注いだら、こっちに寄越せよ」

 と、妥協案を口にしたんだが、そんなオレに向けて呆れた様に肩を竦めて見せる。

「ユウヤ、いい加減にしておきなさい。
 それで何杯目か分かってるの?」
『……うるせえな。
 お前は、オレのママかっての……』

 内心で、きつい眼で睨んで来るステラに言い返しながら、トラブルを避けるべく当たり障りのない返事を返す。

「……まだ五杯目だ。
 たいして飲んじゃいないさ」

 ……そうオレは大人だ。
 この程度の腹芸は何でも無いし、当然、まだ酔っちゃいない。
 心配性なんだよステラは。

 ……って、何だよ?
 ステラだけでなく、ヴィンセントやVGまで変な顔してオレを見てやがる。
 気持ち悪い連中だな、一体、なんだってんだ。

「あ〜……ユウヤ、四杯ほど数え忘れてるぞ。
 それにお前、ウィスキーの前に缶ビールも二本飲んでたろ」

 ……たかが四杯くらい間違えたからって気にすんな。
 オレは全然、気にしないぞ。
 そうさオレは全く酔ってなんかいないんだからな!

「なっ、もう止めとけ。
 明日もあるし、二日酔いになったりしたら唯依姫に怒られるぞ」

 その一言が、オレの脳裏に黒髪のイメージを喚起する。
 何とも表現し難い気分が、オレの腹の中でとぐろを巻いていた。

「……ステラ、ボトルを寄越せ」

 不快感を振り払う様に強い口調でそういうと、一つ溜息を吐いたステラは、ボトルを寄越す代わりに、新しいグラスに氷を入れてウィスキーを注いでから手渡してきた。

「それで終わりにしないさい」

 本当に心配性だな。
 まだ全然酔っていないって言ってるだろうに。

『……まあ良いか』

 声には出さずに呟きながら、オレは手渡されたグラスに口を付けた。
 喉を通り過ぎるアルコールの熱を感じながら、ぼんやりと考える。

『『もういい……死ね』……か。
 フン、惚れた男を馬鹿にされて怒っただけじゃねぇか。
 あの篁中尉(ジャパニーズ・ドール)にも、人間らしいところが有ったって事か……』

 何とも奇妙な気分だった。
 任務、任務に凝り固まっただけの人形娘とばかり思っていたのにな……

『……ったく、それならそれで、もう少し人間らしくしやがれってんだ』

 あ〜〜……どうにもこうにも締らねぇ。
 明日……どんな顔をして、中尉に会えばいいのか……皆目見当もつかな……かった。

 ……まったく……本当…に、オ………レ……に………





■□■□■□■□■□■□





 床に落ちたグラスを拾い、散らばった氷を始末したオレは、仕込みを入れた相手を振り返った。

「あ〜〜ステラ、なんかしたのか?」
「……少しだけね。
 悪いお酒は、身体に良くないもの」

 薄く微笑みながら、答えてくれるステラ。
 軽くグラスを傾ける仕草が艶っぽいねぇ。
 ホント、チームのメンバーでなきゃ当の昔に口説いてたんだがな……あ〜〜勿体ねぇ。

 そんな事を胸中で呟くオレの横手から、ユウヤを背負ったヴィンセントが申し訳なさそうに詫びを口にする。

「ああ、悪いな。
 気を使ってもらって……」
「どういたしまして」

 再び優雅に答える彼女。
 熱帯標準軍装(トロピカル・アーミー)の標準タンクトップが、胸のボリュームに耐えかねてユサリと重たげに揺れる。

 ……嗚呼、本当に勿体ねぇ。

 内心で無念の涙を飲み込みつつ、オレは愛の狩人らしく軽快なトークを披露する。

「しっかしねぇ……いやぁ〜予想外だったぜ」

 何が予想外だったかは言うまでも無い。
 今日の飲み会でユウヤが荒れていたのも、アレの所為だろうしな。

 案の定、ステラにもそれだけで通じたのか、軽く一つウィンクすると、オレに振りに応じでくれた。

「篁中尉が、斑鳩少佐に気が有るのは分かってたんだけどね」
「ホントかよ?」
「気付いてなかったの?
 案外鈍いのね」

 以外や以外だな。
 そんな素振りには、ちっとも気付かなかったぜ。
 こりゃ〜オレもまだまだ修行が足らんな。

「……しっかし唯依姫がねぇ。
 由緒ある家柄ってヤツ絡みなのかな?」

 オレなんぞには想像も付かないが、そういったやんごとなきお家の人間には、色々としがらみとかもあるんだろうな。
 こうロミオとジュリエットみたいな悲恋とかさ――

 などと妄想の翼を羽ばたかせつつ、言ってみたんだが、冷たい目で睨まれちまった。

「少なくとも、彼女の方はベタ惚れだと思うけど?」
「まぁ確かに……」

 あ〜〜確かに。
 昼間のアレを見ちゃ否定できんわな。
 まあ、少佐の方はどうなのかまでは良く分からなかったがね。

 正直、あの人は良く分からん。
 唯依姫以上に感情を見せないし、見せたかと思えば、とんでもなく怖いし。

 そこまで考えたところで、つい先日の事を、思い出しちまったオレは、鉛の棒を無理矢理飲まされた様な気分を味わいつつ、それから逃れる様に話題を変える。

「オレとしては、アッチの方が気になるんだがね」

 そう言って、ユウヤ達が出ていったドアの方を意味ありげに見ると、ステラも軽い苦笑を浮かべて頷いた。

 アレだけ毎日やり合っていたのに、唯依姫と少佐の関係を知った途端のあの醜態……というか、酔態。

 あ〜〜つまり、そういう事なのかねぇ?

「まだ恋愛感情までは、行ってなかったんじゃないかしら?」

 オレの予想をステラが否定した。
 まあ、言ってみただけなので構わんが。

 確かにありゃ、ホレたハレたまでは逝っちゃいないな。
 精々、麻疹……いや三日麻疹くらいか?

「そうだな。
 ありゃ、どちらかというと喧嘩友達が、いつの間にか大人になってたのが面白くないって感じだな」

 そう言って決めて見ると、ふと視線を逸らしたステラが、どこか遠くを見る様な眼差しのままボソリと呟いた。

「もう少し経ってれば、分からなかったけどね」
「………」

 ……あ〜〜、こりゃステラもなんかあったな。
 興味が無い訳じゃないが、つっつくのも拙そうだ。
 まっ、オレみたいないい男は、そこら辺の空気も読むもんだぜ。

「流石に細かいところは当人に聞かなきゃ分からんわな。
 とはいえユウヤはともかく、少佐と唯依姫の方は、明日辺りなんか言うだろ」
「………」

 沈黙したままグラスを傾ける彼女。
 ああ、やっぱり奮いつきたくなるような良い女だよ、お前さんは。

 頭の中で宗旨替えする事を、真剣に検討しつつも、オレはオレらしく演じて見せる。
 ここで締めなきゃ、ヴァレリオ・ジアコーザの名が廃るってもんだ。

「じゃ、最後に乾杯といくか?」
「何に対しての乾杯かしら?」

 乗り良く応じてくるステラ。
 良いねぇ。やっぱりこうじゃなくちゃな。

 オレの口元が、ニヤリと歪んだ。
 ここで乾杯するならコレしかないだろう?

「それはもちろん。
 我らが唯依姫の幸せを祈って――ってのはどうだ?」
「いいわね」

 艶やかな笑みと共に同意が帰って来た。

 ……取り合えず、適当に今夜のお相手を見繕うかね。
 一夜の情熱のお相手くらいは、どうにかなんだろ。
 このまんまじゃ、眠れそうにねぇわ。

 そうと決まれば、善は急げだよな。

「それでは、我らが唯依姫の幸せを祈って――」
「「――乾杯!」」

 澄んだグラスの音が、室内に響き渡った。





■□■□■□■□■□■□





 ――嗚呼、穴があったら入りたい。 いや、いっそひとおもいに介錯して欲しい。

 陰々滅々たる空気を纏いつつ、私は深く深く落ち込んでいた。

 つい先刻、皆の前で晒してしまった痴態と狂態。
 明日、どんな顔をして小隊のメンバーと顔を会わせろと言うのだろうか?

『出来る筈が無い!』

 心中で力の限り絶叫する私が居た。

 いま思い返しても恥ずかし過ぎる。
 暴走としか言い得ぬ自身の行動を思い出す度に、羞恥の余り、腹を掻っ捌いてしまいたい衝動に襲われる私。

 ――嗚呼、本当になんと言う醜態を!

 寄せては返す波の様に、何度も何度も繰り返し、自省の念が私を責め苛んでいく。
 嗚呼、本当に全く――

「あ〜……唯依?」
「――っ!?」

 唐突に掛けられた声。
 それを聞いた瞬間、私の背筋に電流が走った。

 全身の筋肉という筋肉が硬直し、心臓すら止まりそうになったが、それでも私は顔を上げない……否、上げられない。

 際限なく頭に昇って来る血が、私の頭を熱で茹だらせていた。
 きっと今の私の顔は、熟れ過ぎたトマトよりも真っ赤になっている事だろう。
 恥ずかしくて恥ずかしくて、とても明憲様と眼を合わせる勇気など持てなかったのだ。

 そんな私に呆れられたのか、困った様な気配が感じられたが、それでも私は顔を上げられない。
 今、明憲様のお顔を見たら、私はきっと羞恥の余り、卒倒してしまうからだ。
 流石に、これ以上、醜態を晒すのは遠慮したい私としては、非礼を承知で俯き続けるしかない訳である。

 結果、私達の間に何とも言い難い空気が流れた。
 とても居心地の悪い時間がゆっくりと過ぎていく。

 だがそれも、やがて終わりを迎えた。

 一つ深い溜息を吐いた明憲様が、誰に言うともなく――とはいえ、私しか居ないのだが――話し出したからだ。

 要約するなら、もう取り返しはつかないという事。
 そして、これも良い機会と割り切って、私達の関係をアルゴス小隊の面々にも打ち明けてしまおうという提案を告げる。

 そんな明憲様の解決策を聞きながら、私はビクンビクンと身体を波打たせるだけだった。
 嗚呼、本当に情けなさ過ぎて、薄らと涙が滲んでしまう。

 一時の感情に流されて、折角の配慮を無にしてしまった挙句、あの大失態を演じてしまったのだ。
 愛想を尽かされても仕方なく、だがそれが途轍もなく恐ろしい。
 その事を確認したくて、でも知るのが怖くて、口に出せずにウジウジと悩み続けていた私。

 そんな私に対し明憲様は、彼らへの説明を、ご自身で行うと告げられた。
 一瞬、私を当てにする気が無くなられたのかと、目の前が真っ暗になりかけたが、私の余りの憔悴ぶりを見かねてと言われた事で、思わず安堵の余り脱力する。

 まだ見限られてはいない。
 それどころか心配して下さっている事が、はっきりと分かったからだ。
 胸中に芽吹き掛けていた不安の念が、ゆっくりと消えていくのを感じながら、私は明憲様にお詫びする。

「……申し訳ありません。
 私の失態から、とんだご迷惑を……」

 本当に申し訳なくて、情けなくて……
 震える声で、そう謝る私に、明憲様は首を振って気にする事はないと仰られる。
 元々、隠し事をさせたのは自分なのだから、バレた時点で、それを収拾するのも自分の役目であると。

 そこまで言われた時点で、私は恥ずかしさに身を縮こまらせていた。
 気遣って頂くのは嬉しいが、やはり自身の失態が原因であると思えば、それが心苦しくもある。
 本当に、このまま融けて消えてしまいたくなるような心境の私だったが、続く小さな呟きが、そんな私を救い上げてくれた。

「……嬉しくなかった訳ではないしな。
 まあ、少し恥ずかしくはあったが……」
「えっ?」

 どこか気恥しげに呟かれた明憲様。
 思わず漏れた私の声が、間抜けて響く。

 ――今この方は、何と言われた?

 そんな頓珍漢な疑問に続き、数瞬前のお言葉が、私の脳裏で際限なく繰り返される。
 そして、その意味を理解した瞬間、見る見る内に熱くなっていく私の頬。
 浅ましい願望が生んだ幻聴ではとの疑念も生じるが、私と対なす様に明憲様のお顔も赤くなっていき、聞き間違いなどでは無かった事を教えてくれる。

 ――ああ、本当に反則です。

 胸中に歓喜の念が爆発的に広がっていくのを感じながら、明憲様を見上げる私。
 その視線から逃れる様に、明後日の方向を向いた明憲様は、誤魔化す様に話題を切り替える。

「広報部の方から、今回の遭難により発生したスケジュール遅延に対し抗議があった」
「はっ?」

 いきなりの一言に、思わず間抜けた声を上げてしまう私。

 ――ううっ……何をやっているのだろう。
 ――本当に馬鹿か私は。

 内心で、思わず自分を罵倒しつつ、続く言葉を聞き逃さぬ様、耳を澄ます。

「抗議はあったが、反論して黙らせた」
「……反論ですか?」

 私の眉が微かに寄った。

 確かにスケジュール遅延は、彼らに限らず、軍人にとって看過しがたい物だろう。
 だからこそ抗議があるのは分かるが、それに反論を返し黙らせるとは、少し穏やかではない気もした。
 なにか、この方の怒らせる様な事が有ったのだろうか?

 そんな疑念を抱いた私に対し、明憲様は、常と変らぬ静謐な声音で説明して下さる。

「そうだ。
 そもそもボートレース自体は、広報部が主催したものだ。
 当然、主催者側には、参加者の安全を保障する義務がある」

 淡々と非は広報部側にあると告げられる明憲様。
 そしてその主張を、私は脳内で吟味する。

 ただし、思考の主眼は明憲様の言われた事ではなく、この場合、自身ならどうしていたかという点だ。

 確かに明憲様の仰る通り、主催者側に参加者の安全を保障する義務があるのは間違いない。(最初に安全は保障しないとでも前置きしていれば別だが)
 その視点からすれば、スケジュール遅延という結果も、彼らが安全を担保出来なかったという原因に起因する以上、抗議する事自体が筋違いと言えた。

 問題の発生原因が、何処にあったかという点から考えるなら、そういう結論に達するのはいとも容易い。
 だが、最初に抗議があったという時点で、そこに思いを致せなかった私が対応した場合、相手の主張を唯々諾々と受け入れていた可能性もあった筈だ。
 そうなれば相手の事を慮り過ぎて、こちらが要らぬ不利益を被る形になる訳で、責任者としては問題ありの判断とも言える。

『……はぁ……まだまだ未熟……か…』

 と胸中で嘆息する私。
 今後のXFJ計画遂行上、交渉事や駆け引きに臨まねばならない局面が多くなる可能性を考えれば、この程度のやり取りで、ババを引かされていては話にもならない。
 場合によっては、計画そのものに、ひいては明憲様ご自身にも、多大な迷惑を掛けかねないのだから、もう少し用心深さを磨くべきと気を引き締めた。

『もっと精進せねばな……
 明憲様のお荷物にならない為にも……』

 そう心の中で、誓いを新たにする私。
 そんな私の内心の動きを見透かした様に、明憲様が注意を促してくる。

「スケジュール遅延を補填すると称して突き付けられた妙な要求も拒絶した。
 無いとは思うが、私を通さずに、この件を盾に広報部から何か要求されても拒否するように」
「ハッ! 了解しました」

 正直、少しだけドキリとしたが、身体に叩き込まれた反射行動が、それなりの敬礼を返してくれた。
 しかし警告されるという事は、やはり明憲様に危うい奴と見られているのだろうか?

『ううっ……否定できない我が身が情けない……』

 微妙に落ち込みつつも、それでも気力を奮い立たせるべく自身に言い聞かせる。

 ――至らぬ処、足らぬ面があるならば、これから磨き上げ、そして補うだけだ。
 ――今回の件も、自身の未熟を自覚し、成長する為の良い教材だったと思えば良い。

 そう己自身を鼓舞する私だったが、そこで不意にとある疑問が頭をもたげた。

 敢えて言うなら瑣事。
 既に終わったと明言されている以上、ほじくり返す事に意味は無い。

 ……だが、何故かとても気に掛かった。

 どうしても疑問を抑え切れなくなった私は、しばし迷った後、やや歯切れ悪く明憲様にお尋ねしてしまう。

「……一つ、質問しても宜しいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「ありがとうございます。
 ……その……妙な要求とは、どのようなモノだったのでしょう?」

 穏やかな声で返された許しに、私も肩の力を抜きつつ、さりげない口調で疑問を口にする。
 口はばったい言い方になるが、明憲様の機嫌も良さそうだったので、特に問題はあるまいと楽観視していたからだ。

 ――しかし。

 ピクリと引き攣る明憲様の頬。
 この方には珍しく泳ぐ視線が、私の不安を掻き立てた。

「………」
「明憲様?」

 ――訊いてはいけなかったのだろうか?

 そんな疑念を抱きつつ、いま一度、明憲様の名を、お呼びすると、今度は少しだけ眉を寄せ考え込む仕草を見せた。

 私の中で、ムクムクと広がっていく不安の黒雲。
 自分が地雷を踏んでしまったかもしれない事を悟り、秘かに冷や汗をかく。

 そのまま固唾を飲んで、明憲様の一挙手一投足に眼を凝らし、耳をそばだてる私を前にし、一つ小さな溜息を漏らした明憲様は、部屋の隅にあったテーブルへと歩み寄り、そこに置いてあった紙袋を手に取り、そして私に手渡した。

『???』

 思わず脳裏に疑問符が乱舞する。
 特に何も言われないが、コレの中身を見ろと仰りたいのだろうか?

 そう考えて、チラリと明憲様を盗み見ながら、紙袋の口を開ける。
 特に制止される事も無いと分かった時点で、やはり中身を見ろとの意味かと納得した私は、そのまま袋の中に手を差し入れた。

『……?』

 指先に触れる感触は、何かの布地の様だった。
 細かくは分らなかったが、化学繊維か何か……それも、かなり小さな物?

 と、そこまで辺りを付けた時点で、何となく嫌な予感がしてきた。
 このまま見なかった事にした方が良い様な気が、しきりにするのだが、こちらから尋ねた事の答えがコレだと言うのなら、検めもせずにもう良いですとも言い難い。

 逡巡しつつも、退路の無い私は、一つ大きく息を吸って腹を括った。
 紙袋の中身を鷲掴みすると、そのまま一気に手を引き抜く。

「こ、これはっ!?」

 己が手の内にあるソレを見た瞬間、絶句する私。
 再び頭に血が昇って来るの感じながら、やはり見なければ良かったと心の底から後悔した。

 目の前で、その存在を誇示するのは、鮮やかな山吹色の水着。
 それも、今朝私が身に着けていた国連軍の競泳用水着とは似ても似つかぬ代物だった。

 水着というより下着……いや、それよりも更に、その……布の面積が少ない。
 こ、これではその……胸や、尻を充分に覆えないのではないか。

 一瞬、これを身に付けた自分を想像してしまった私は、余りの破廉恥さに頬が更に熱くなっていくのを自覚する。
 反射的に明憲様をきつい目線で睨んでしまうが、こちらはやや憮然としたご様子で、私の不作法を咎める様に告げられた。

「勘違いしない様に。
 それは、オルソン大尉が持って来た物だ」
「………えっ……その……つまり………」

 溜息混じりの明憲様のお言葉。
 それを聞いた瞬間、自身が勘違いしていた事を悟り、思わずどもりながら、手にした破廉恥な水着と明憲様を交互に見てしまった。

 ――ううっ……申し訳ありません。本当に、本当に申し訳ありませんでした!

 濡れ衣を着せかけてしまった事を、内心で詫びを呟きながら、昇った血が退いていくのを待つ。
 そう、よくよく考えてみれば、明憲様が、この様な露出狂紛いの水着を、私に着せようとする筈が無いのだ。

 そう自身を納得させた私は、申し訳無さに俯きつつ、明憲様の様子を伺う。
 すると再び、軽い溜息を吐いた明憲様は、事の次第を簡潔に教えてくれた。

「それを着て、広報素材用の写真撮影に参加させろと要求された」
「わ、私がですかぁっ!?」

 抑える間もなく、素っ頓狂な叫びが私の口から迸った。
 手にした水着に爪が食い込んでいくのを感じる。
 同時に頭が灼熱の羞恥に浸されていくのを実感し、瘧でも起した様に全身がワナワナと震え出した。

『なんという事を!
 なんと破廉恥なっ!』

 憤怒と羞恥が私の中で激しく荒れ狂う。

 ――未来の夫たる方にすら、まだまともに見せていないと言うのに……こ、このような、は、は、恥知らずな水着を着させた上に、そ、それを写真に撮らせろだと!

 脳裏に浮かぶオルソン大尉の顔を、心の刃で滅多切りにしながら憤る。
 今度会ったら目に物見せてくれると誓う私の耳に、こればかりは変わる事無い沈毅な声が届いた。

「もう断ったと言った。
 唯依が、そんな真似をする必要は無い」

 熱が、怒りが、スッと退いていく。
 一気に力が抜けた身体をソファーに預けながら、同時に的確な対応を取って下さった明憲様に感謝の念が湧き起こった。

 先程、懸念した通り、もし私が対応していたらどうなっていた事か……
 最悪の場合、悪い癖である自省癖を発揮して、スケジュール遅延の責任を取るとの美名の下、言われるままに、この恥ずかしい水着を着た挙句、写真まで撮られる破目になっていたかもしれないのだ。

『……本当に、明憲様が居て下さって助かった』

 そう素直に安堵し、そして尊敬の眼差しを向ける。
 ……本当に、本当に、感謝と畏敬の念を抱いていたのに、それなのに――

「まあ個人的には、それを着た処を見てみたかった気もするがな」
「――っ!?」

 私の頭の中が、真っ白になる。
 さらりと言われたその一言が、私の中の全てを呆気なく吹き飛ばした。

 目線がきつくなるのが分かる。
 だがこれは、明憲様が悪いのだ。
 私の信頼を、尊敬を、裏切ったこの方が……

 そんな私の心情が、ダイレクトに伝わったのだろう。
 珍しく慌てた表情を浮かべた明憲様が、わずかに揺れる声で前言を撤回した。

「……冗談だ。
 それは後で捨てておこう」
「………」

 そうは言われても、私の頭の中は、既にグチャグチャだった。

 否定されても素直に頷けず、さりとて嘘とも断じられない。
 千々に乱れる思考が、どっちつかずで揺れ続ける中、これまでの出来事を思い返した私は、不意にとある考えに至った。

 この方が、時折、真面目な表情のまま……その…あの……この手の冗談を言っては、私をからかうのを楽しまれるていたのは事実だ。
 私が……その…所謂、奥手なので、からかい易いのだろうと思っていた――今までは。

 だが…だが……本当に、それだけなのだろうか?
 もしかしたらコレは、その……求められているというヤツなのではないのだろうか……と。

 俯いたまま巡る思考の渦。
 三度、昇り始めた血が、私の頭を煮え立たせていく中、故国に残してきた副官の声がまざまざと蘇る。

『……よろしいですか隊長。
 明憲様の程の御方なら、隊長の様な初心でネンネな方相手に、直接、閨事を求める様な不見識な真似はなさらないでしょう。
 ですが、それに安住し、明憲様の優しさに甘えていては、妻として、そして女としての鼎の軽重を問われるだけだと認識するべきです』

 初めての口付けに成功し、浮かれ切っていた私から、根掘り葉掘り状況を聞き出した後、そう忠告してくれた彼女。
 あの時は、えらく恥ずかしい思いをしたものだが、真剣そのものといった雨宮の態度に飲まれて頷く私に、彼女は更に告げたのだった。

『前にも申し上げましたが、明憲様とて男なのです。
 多かれ少なかれ、女性を求める欲求があるのは間違いありません。
 ですが隊長の様に純粋培養の方に、それを直接求めるのは下品であり、下策でもあると思われるでしょう。
 ならばどうするか………
 ……簡単な事です。
 さり気なく場を整え、雰囲気を作り、そうなる様に流れを作って下さる筈。
 そう例えば、冗談に紛れて、少しだけ艶っぽい話題を振って来る等々………』

 ……頬が更に熱を増した。

 微かに盗み見るあの方の顔。
 そこには、その様な色は浮かんでいないと思う。
 思うのだが……

『……とはいえ明憲様の事です。
 決して露骨には求めないでしょうし、顔にも、態度にもお出しにはならいでしょう。
 ですが、だからこそ、隊長の方で、本当のお心を汲み取って動くべきなのですよ!』

 そうなのだろうか?
 そうすべきなのだろうか?
 今こそ一歩踏み出す時なのか?

 そうやって逡巡する私。
 嗚呼、何故か頭がクラクラする。

 視界がグルグルと渦を巻いている様な錯覚。
 思わず閉じた瞼の裏に、ブレーメル少尉が映った。

 ――艶やかな笑みを浮かべ明憲様の腕を、その胸に抱く様が。
 ――あの方に従う様に歩み寄ってきたギリシャ彫刻の様に完璧な肢体と美貌が。

 私の視界と意識を満たし、そして苦く黒い想いを蘇らせた。

 フラフラと揺れる私の心の天秤。
 それが一方へと傾いていく。

 そして……

「……唯依?」

 ……最後の重りがコトリと載せられ、天秤が完全に傾いた。

「……ご…ご……」

 私の口が勝手に動き出す。

 いや……嘘は止めよう。
 これは、私自身が望んでいるのだから……

 そう割り切った瞬間、淀みながらも言葉が流れ出す。

「……ご覧に……なりたい………ですか?」

 それが余りにも予想外だったのだろう。
 あの明憲様が、言葉を失い絶句する程に。

 だが最早躊躇わない。
 己の心の欲するまま、求めるままに、私は必死で言葉を紡いだ。

「あ、あ、明憲様が……その……の、望まれるなら……あの……」

 嗚呼、声が震える。
 恥ずかしさに滲んだ涙で視界が曇った。
 顔が、首筋が、全身が燃える様に熱い。

 恥ずかしくて、恥ずかしくて、恥ずかしくて。
 本当に、このまま熱で融けてしまいそうになりながら、私は残された気力と勇気の全てをかき集め、明憲様を見つめ続けた。

 そんな私の目の前で、眼を丸くして固まった明憲様。
 この方が、こんな顔をする日を見ようとは、夢にも思っていなかった私。

 ……明憲様の首が、ゆっくりと上下に動き、私は安堵の余り、へたり込みそうになる。

『……まだ……まだだ、しっかりしろ篁唯依!』

 崩れそうになる心と身体を、声にならない声で叱咤する。
 丹田に力を込め、遠のきかける意識を必死に繋ぎとめながら、私は内心をおくびにも出さず立ち上がった。

 そのまま身を翻した私は、明憲様に背を向けたまま囁く様な小声で告げる。

「……着替えてきます。
 バスルームを、お借りします」

 ただ一言、そう言い置くとそのままバスルームへと向かった。

 足取りは品良く、静かに――そう心の中で何度となく呟き、戒める私。
 一瞬でも気を抜けば、そのまま全力疾走で逃げ出したくなる衝動を、必死で押し止めながらバスルームの扉を潜る。
 背後で閉まるドアの音を聞いた瞬間、不覚にも両膝が不様に笑い出した。

 そのまま倒れ込みかけた我が身を、壁に手を当て辛うじて支えながら、私はきっちりと握り締めていた水着を睨む。

 親の仇を見る様な、或いは、穴が開きそうな程に真剣な眼差しで睨みつけるが、布地が増える訳で無し、さりとてもう少し大人しめのデザインに変わってくれる事も無し。

『……全く、我ながら未練がましい事だ』

 胸中で諦めの悪い自身を嗤うと、造り付けの小さな洗面台に水着を放り出す。

 そして私は、逡巡を断ち切る様に熱帯標準軍装(トロピカル・アーミー)の標準タンクトップを一気に脱ぎ去った。

 実用本位で飾り気の無いブラを付けた上半身が対面の鏡に映り、そこで一旦手を止めた私は、鏡の中の自身をしばし見詰める。

『それなりに有るとは思うのだが……』

 今まで余り気にしていなかった事が妙に気に掛かった。

 ――あの方に、貧相な代物と思われないだろうか?

 などと、埒も無い事をウジウジと気に掛けてしまう私。
 どうしても、昼間見た光景――量感たっぷりな少尉の巨乳に腕を挟まれ、満更でも無い顔をしていたあの方の姿が、チラチラと脳裏に浮かんでしまうのだった。
 確かに、その……ブレーメル少尉と比べれば、多少、劣っているとは思うが、それは人種的な問題であって、同じ日本人の中で比べれば、それなりのモノだと思うのだが……

 ……でもやはり、明憲様も大きい方がお好きなのかも――疑念と不安が胸中を過る。

『……ぐぬぬぅっ……もうちょっと気を使っておけば良かった。
 いやいや大きさでは及ばずとも、形の良さや肌の張り、肌理細やかさなら……って、違う。 違うだろ私っ!!』

 いつの間にやら脱線していた思考に気付き、胸中で絶叫した。

 ――嗚呼、本当に何をやっているのだ。私は……

 自身の迷走ぶりに溜息を吐きつつ、私は当初の目的へと軌道を修正した。
 本当に飾り気の無い――もう少し洒落っ気を出すべきだろうか――ブラを外すと、抑え込まれていた乳房が、ふるりと重たげに揺れる。
 開発主任としての業務の合間にも、怠る事無く続けていた衛士としての訓練の成果か、特に型崩れする事も無ければ、その……垂れる事も無い自身のソレに、内心で安堵の吐息を漏らしつつ、水着のトップを着けた。

 替わって床に落ちたブラの立てる微かな衣擦れの音に重なる様に、腹を括って脱いだハーフトラウザーの蟠る音が微かに響く。

 最後に残った色気の欠片も無いシンプルな白のショーツと、ソレに比すれば圧倒的に面積の少ない水着のショーツ。
 双方を見比べた私は、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 一瞬、逡巡するが、既に覚悟を決めた以上、ここで尻込みする事など許されない。

 そう自身を鼓舞しつつ、最後の一枚を思いきりよく脱いだ私は、小さく丸まったソレを床のトラウザーの上に置き、そして代わりに水着のショーツを穿いた。

『……こ、これは………』

 鏡に映る自身の姿に、呆れと動揺が入り混じった呻きが漏れた。

 やはり布地が少ない。
 その一言に尽きた。

 トップは胸の谷間の半ばまでが覗き、オマケに膨らみの下まで覆えていない。
 ショーツについても同様で、股間を覆う部分は、本当にギリギリ。
 ちょっと激しく動けば、大事な部分が覗いてしまいそうで怖い。

 振り返って背を鏡に映して見れば、こちらは輪を掛けてひどかった。
 割れ目が半分近く覗いている上に、お尻そのものも大半が露わになっている。

 想像以上の露出ぶりに、カァッと全身が熱くなっていくのが分かった。
 鏡に映る我が身が、瞬く内に薔薇色に染まっていく。

『こ、こ……こ…この格好で、明憲様の前に出るのか?』

 途方も無く高いハードルだ。
 到底無理な気がする。

 バスルームから出て、あの方の視線を感じた瞬間、頭に血が昇り過ぎて卒倒してしまっても不思議ではないように思えた。

『む、無理だ……やはり私には……』

 弱気の虫が顔を出した。
 どこか自身無さ気な顔した私の影が、鏡の中でションボリとしている。
 このまま逃げ出したい気分になりつつ、私は未練がましく背後のドアをチラリと振り返った。

 ――あの向こう側には、あの方が居る。
 ――私を待っている。

 と、そこまで考えたところで、否定の意思が私の内でうごめいた。

 ――本当にそうだろうか?
 ――全ては、私の勘違いなのでは?
 ――もしかしたら、この様な肌も露わな水着を自ら着ると言い出したはしたない娘として、呆れておられるのでは?

 やはり着れませんでしたと謝ったとしても、決してあの方は怒らないだろう。
 きっと困った様に笑われて、それで終わりになる筈だ。

 そう思ってしまえば、掻き立てた筈の気力も勇気も萎える。
 背に手が回り、トップのストラップに手が掛かり―――掛かったところで、そして止まった。

『それで良いのか?
 本当に、後悔しないのか……私は?』

 勢いで馬鹿な事を言ったのは確かだろう。
 或いは、単なる勘違いの可能性もあろう。
 このまま退けば、何も失わないのは確かだが、同時に、何も得れないのも間違いない。

 何も無くさず、何も得れず、何も変わらない。
 そしていつか失う事を、盗まれる事を、奪われる事を、卑屈に恐れ続けるのか?

 ……背に回していた手が、脇へと落ちた。

「……はふぅぅ……」

 一つ小さく溜息が出た。
 自身の内に巣食った弱気の虫を吐き捨てた私は、鏡の中の私を見つめる。

 迷いは晴れて……いない。
 未だ私は迷ったままだ。

 これで正しいのか確信が持てない。
 それを選ぶべきかが判らない。

 だが……

 鏡に映る『私』が、『私』を真っ直ぐに見つめ返す。

 ――手を延ばさなければ手に入らない。
 ――例え一歩であれ、踏み出さねば先に進めない。

 『私達』は、ゆっくりと頷き合う。
 そして『私』は、『私』に背を向け、新たなスタートラインとなる扉へと向き直った。

 ……とはいえやはり、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 頬に、首筋に、全身に、再び熱が籠るのを自覚しつつ、私はドアのノブへと手を掛けた。

 低い軋みと共にドアが開かれる。
 先程と、全く変わらぬ姿勢のままで椅子に腰かけているあの人。
 常と変らぬ様に見えるそのお顔も、私には動揺と困惑を隠している事が分かる。

 それが少しだけ、私の気を軽くしてくれるが、本当に少しだけだ。
 トップとショーツを両腕で隠し、震える声でつっかえつっかえ問い掛けるのが精一杯である。

「……ど……ど、どうで……しょう……」
「………」

 ああ、お願いですから何か言って下さい。
 何か言って頂けるだけで、私は………

「……あ…明憲様?」
「……ああ…良く似合っている……」

 再び、勇気を振り絞った呼びかけに、夢から覚めた様な表情を浮かべた明憲様が、こちらも少しつかえながらも、こたえを返してくれた。

 それだけで、私の身体から強張りが取れる。
 引き攣っていた頬も、心なし解れていくのが分かった。

「そ、そうですか……」

 溜息混じりの安堵の呟きが、私の唇を割った。
 ゆっくりと微笑みが浮かんでいくのが分かる。

 水着のトップとショーツを覆っていた腕を、ゆっくりと離すと、何故かホッとした表情を明憲様の面に浮かんだ。

『む……どうして?』

 明憲様の思わぬ反応に、私は少しだけ戸惑った。

 ――隠さないでいた方が、お好みなのだろうか?
 ――やはりその……求められているのか?

 そう内心で首を捻る私だったが、その疑問を解き明かす暇は与えられなかった。

 まじまじと私を見詰める明憲様。
 視線に宿る熱が、私の肌を炙る。

 胸に、腰に、尻に、そして太腿に、注がれる熱い視線。
 それを感じる毎に、私の鼓動が高鳴り、肌が羞恥の色に染まっていく。

 恥ずかしくて、恥ずかしくて、恥ずかしくて……でも、私の中の一部が、その事に歓びと誇らしさを覚えていた。
 この方の関心を、そのお心を、今この時だけは、私が独占していると実感出来たから……

 そんな思いが、私により大胆な行動を取らせた。
 以前、雨宮に見せられた雑誌の写真を思い出しながら、胸を両腕で抱え込みつつ、少しだけ前かがみになってみる。

 うろ覚えな記憶頼りの実に素人くさいポーズとぎこちない笑顔。
 だがそれでも、その時の私にしてみれば精一杯背伸びした行為でもある。
 胸の内で破裂しそうな程、ドキドキと高鳴る鼓動を感じつつ、ソッと明憲様の様子を伺った。

 唖然とした様子で私を凝視する明憲様。
 それだけでも、羞恥心を押し殺して、こんな真似をした価値が有ったと満足する私だったが、明憲様は私の予想以上の反応を示してくれる。

 フラフラと立ち上がる明憲様。
 それでも視線は、私に固定されたままだ。

 そのまま私へと歩み寄って来るあの方に、私は恥ずかしさに耐えかねて眼を伏せるが、その場から退く事は無い。
 耳鳴りの様に響く己の鼓動を感じつつ、緊張の余り、荒くなりかける呼吸を必死で整える。

 後三歩で、あの方の手が届く。
 後二歩で、私に触れてくれるだろう。
 そして最後の一歩を踏み込んだ時、きっと――

 ――差し延ばされた両腕が、私を抱き寄せ、抱き締めた。

 熱帯標準軍装(トロピカル・アーミー)の薄いタンクトップと小さな水着越しに密着する私達。
 無いに等しい薄布の向こう側に感じ取れる明憲様の逞しさと体温とが余す事無く伝わってきた。
 こうしているだけで感じ取れる鼓動は、きっとこの方に伝わっているであろう私の鼓動と同じくらい早く激しく打ち鳴らされている。

 明憲様の腕の中、見下ろす瞳と見上げる目線が絡み合った。
 強く強く私を求めてくれている事が分かる明憲様の双眸が、私を、私だけを見つめている。

 その事がとても嬉しくて、それまで以上に真摯に明憲様を見つめ返すと、ふと、その頬が緩んだ。

 微笑まし気な笑顔。
 普段なら慕わしく思えるソレが、今この時だけは、少しだけ気に入らない。

 子供扱いされた様な気がした私は、少しだけムッとした表情を浮かべると、それを実力で否定させる為に、明憲様の首に腕を回した。
 そのまま力を込め、微かな抵抗を粉砕しつつ、明憲様を私へと引き寄せる。

 重なり合う私達の唇。
 交わし合う呼気と絡み合う舌先が産み出す快楽に、私は痺れる様な陶酔を覚えながら、ゆっくりとのめり込んでいくのだった。











 後書き

 ご舎弟さまシリーズそのさんの裏でした。

 今回は何故か大増量
 ううっなんででしょう?
 まあその分、糖度も多めと信じたいところ。
 ご満足いただけると嬉しいんですけどね。

 さて、次回はカムチャッカへ。
 キョヌーな未亡人さんの出番です!

 しかしふと思ったんですが、漫画版のステラとミラ・ブリッジスの区別が難しい。
 これだけ似てれば、マザコンボーイなユウヤなら、ステラにママの面影を見て惚れても不思議は無いと思うんですけどね。
 まあイシガキ先生の作品上でのお話ではありますので、それ程こだわりもないですが

 さて、それでは次回も宜しくお願いいたします。





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