宇宙歴799年、新帝国歴元年、7月。

 目下のところ、オーベルシュタイン家の構成員は3名である。

 まずは当主であるパウル・フォン・オーベルシュタイン。彼は当時においても後世においても著名人であるため、特に説明の必要はないだろう。

 次に、彼の扶養家族にあたる(であろう)ダルマチアン種の老犬については、その存在を知るものも多いはずだ。この老犬はまったくかわいげのない性格で、柔らかく煮た鶏肉しか食べない。そのため、冷酷無比とおそれられるオーベルシュタインその人が、夜半、老犬のえさを求めるために車を走らせた――というのは、僚友たちのあいだではかなり有名なゴシップだ。

 最後に、あまり知られていないのが、彼の忠実な執事の存在である。名をラーベナルトといい、幼少の頃より彼に仕えている初老の男性である。主の寄せる信頼は厚く、オーベルシュタインが死を目前にして後事を託した。


 このたびの物語は、このラーベナルトの健康診断で異常が見つかることから始まる。






シルフェニア6周年記念作品

 
「ラブストーリーは突然に(前編)

──銀河英雄伝説──

 





 「腫瘍だと?」

 「はい、さようでございます、旦那さま」

 オーベルシュタインの問いに、忠実な執事はいつもと変わらぬ冷静な声で答えた。

 ある朝、朝食後の会話である。

 すでに軍服に着替え、出勤の準備を整えつつあるオーベルシュタインだったが、ラーベナルトの申告に一時支度の手を止めた。

 聞けば定期健診の際、胃のレントゲン写真に不審な影が映ったために精密検査を受けたところ、小さな腫瘍が見つかったという。幸い腫瘍は良性であり、しばらく経過の観察を行って手術の是非を判断するとのことで、緊急に大事に至る病ではないようだ。

 「しかし、わたくしもすでに65歳を超えました。気持ちの上ではいつまでも旦那さまにお仕えするつもりでも、体のほうがついてまいりません。年よる波には勝てぬということでしょうか」

 常に控えめに、日陰から主を支えてきた執事は、このときわずかに自嘲に似た表情を浮かべていた。加えて、普段は必要最低限以上をしゃべらない彼の長い言葉が、次に続く内容をオーベルシュタインに予測させた。

 「つきましては、後継者の育成の必要をご理解いただきたく存じます。僭越ながら、親戚筋に適任と思われる者がおりますゆえ、一度旦那さまにお目通りを願いたいのですが、よろしいでしょうか」

 本心を言えば、新しい使用人の雇用には反対であったオーベルシュタインだが、健康上の理由ではいたしかたない。いまさら新たな執事の公募を出すのは余計に気が進まないし、それならばラーベナルトの親戚という人間に会ってみるのもよかろうと、その場で許可を出した。しかしだからといってラーベナルトが健康でオーベルシュタイン家にとどまってくれることが一番であることには変わりない。念のため、この機会に総合的な検査を受けるようにと指示を出し、待たせていた地上車(ランドカー)に乗り込んだ。

 そしてこの日はじめて、職務にも時刻にも厳格なオーベルシュタイン元帥が、定刻を超えて軍務省に登庁したのであった。

 

* * *
 

 その3日後。ラーベナルトは検査入院のためにオーベルシュタイン家をあとにした。

 こうしてたった2名残されたオーベルシュタインとダルマチアン種の老犬であるが、実際に細かな世話が必要になるのは人間ではなく老犬のほうである。ラーベナルトの入院中は、彼の妻がこの老犬の面倒をみる手はずになっていた。

 人間のほうはというと、一日の多くを軍務省で過ごすため、自宅に帰ってからすることといえば食事と入浴、睡眠くらいのことである。睡眠はベッドがあれば事足りるし、食事と入浴については、ラーベナルトの妻が老犬の世話のついでに支度をしてくれる。

 不自由などほとんど感じないはずだが、屋敷が急に広くなったような、妙に空虚な感覚を覚えた。ラーベナルトひとりが占めていた面積などたかが知れているというのに……物理的にはそうであって心理的にはそうでないことをオーベルシュタインは知っていた。教えてくれたのはまだ若かったころのラーベナルトである。

 
 少量のアルコールを嗜んだあと、いつもより幾分早めに就寝したオーベルシュタインだったが、翌朝の目覚めは爽快とはいかなかった。予定外の珍事が彼を待っていたのだ。

 困惑顔の兵士がヴイジホン(テレビ電話)を鳴らしたのは、またしても朝食のあとだった。

 足もとで朝食を食んでいた老犬が、かすれ声で「ワフン」と一回鳴いた。本当は「ワオン」と吠えたかったのかもしれないが、勢いがつかなかったのかそれとも鶏肉がのどをふさいだためか、なんとも気の抜けた音しか出ない。

 その直後、食堂に設置されたヴイジホンが控えめに鳴った。パネルは門前からの入電を示していた。火急の用件であれば大本営から直接連絡があるはずであるし……いぶかりながら会話スクリーンをオンにすると、門前の警備を担当している若い兵士が、困惑と緊張がミックスされた表情でこう告げた。

 「早朝よりお騒がせいたしまして、申し訳ありません。実は、閣下にお客人がありまして……」

 「来客だと? そのような予定はないが」

 朝一番の訪問である。予定外の来客など迷惑以外のなにものでもなく、自然と尖った声になったが、普段から愛想のないためか兵士は気付かなかったようだ。

 「はっ、小官もそのように考えましたが、その、こちらのお嬢さんが絶対に間違いないと言うものですから……」

 要領を得ない説明のあと、兵士と、もうひとり誰かが言い争う声が聞こえる。そしてなにより、兵士の告げたある言葉が、オーベルシュタインを戸外へと動かした。

 (お嬢さん、だと?)

 はたして、玄関をくぐり、外へ踏み出した彼の見たものは「お嬢さん」と呼ぶにふさわしい若い女性だった。


 女性、というよりは少女と呼んだほうがしっくりくるだろうか。見目は10代のなかばといったところ、すらりと伸びた長い手足が印象的な「お嬢さん」である。おそらくセミロングほどの長さがある黒髪を後頭部で簡単に束ね、軽く下あごを引き、背筋をぴんと伸ばして立つ姿は、盛夏に育つ若草のようにしなやかだ。服装はごく活動的な半袖のワンピースにシンプルなデザインのエプロン、アクセサリーの類は見当たらない。仮に身に着けていたとしても、強い意志をはらんできらめく黒い瞳が、貴金属の輝きなど打ち消してしまったに違いない。

 彼女は早朝にふさわしいさわやかな笑顔と声をオーベルシュタインへ向けた。

 「あなたがオーベルシュタイン閣下ですね? わたしはエルゼと申します。エルゼ・ラーベナルトです。伯父の入院中、閣下のお世話を申し渡されました。以後お見知りおきを」

 なるほど、ラーベナルトの姪か……執事が親戚を紹介すると言っていたことを思い出す。忘れていたわけではなかったが、具体的な日にちを決めていなかったため、ラーベナルトが退院してからの話になると想像していた。

 いくぶん驚いたが、兵士が差し出した彼女の身分証明証に不審な点はないし、特に追い返す理由もない。数秒の沈黙ののち「そうか」とだけ答えると、彼女はそれを許可と取ったのか「それではまず、なにをすればよろしいですか?」と明朗に尋ねた。前線を経験した軍人ですらもオーベルシュタインを前にすれば緊張で体を硬くするというのに、この少女にはまったく気負った様子がなく自然体である。その度胸に満足感を覚えたが、時刻も差し迫っており、少女にかまっている余裕はない。

 仕事内容についてはラーベナルトの妻に教わるように指示すると、彼女を玄関前に置き去りにして屋敷内に戻り、そしてものの10分で支度を終えてランドカーに乗り込んだ。

 
 厳格な軍務尚書が、年に2度も遅刻するようなことがあってはならいないのである。

 


* * *

 
 ラーベナルトが退院したのは、エルゼが働き始めてから5日後の昼だった。

 「おかえりなさい、おじさま。わたしが『おかえり』なんていうのも妙なものだけど、とにかく元気そうでよかったわ」

 エルゼはオーベルシュタイン家の玄関で、伯父を出迎えた。胃の腫瘍をのぞけばきわめて健康であると診断された伯父と、その伯父を迎えに行った伯母からそれぞれ頬にキスを受け、エルゼもふたりを精一杯抱きしめかえした。

 ラーベナルトは、エルゼの父の兄にあたる人物だ。夫人も含めて、幼いころからのつきあいがある。無事に戻って来てくれたことは、素直に喜ばしいことだった。

 その後居間に移り、今度は彼女の近況を報告する番になる。

 「急なことで面倒をかけてすまないが、エルゼ。どうだ、旦那さまに失礼のないようにやっているかね?」

 その質問に、胸を張って「ヤー(是)」と答えることはできなかった。

 家事全般は得意だし、自分の仕事に落ち度のないつもりではいる。しかしそれはあくまで主観で判断した場合の話であって、主から見ればまだまだ行き届いていない部分もあるだろう。もちろん、そうであるなら主の満足のいくまで精一杯改善しようと思う。しかし、主であるオーベルシュタインがなにも言わないので、対処の仕方にほとほと困っているというのが現状である。

 エルゼの困惑した表情からおおよその事情がわかったのだろう、ラーベナルトは微苦笑して「まぁ、難しい旦那さまではあるがね」と言った。

 「おまえの思うとおり、精一杯お仕えしなさい」

 その言葉を残して、ラーベナルトは立ち去る。屋敷のそばに建てられている使用人のための館に、荷物の整理をしに戻ったのだ。

 その昔、貴族たちが時代を支配していたころ、その館には大勢の使用人が詰め込まれていたと聞くが、現在はラーベナルト夫妻がひっそりと暮らすのみである。本館にも部屋を与えられているラーベナルトはそちらで過ごすことも多いようで、館にはどこかさびれた空気が染みついている。

 時代は変わった。それもごく短期間に、劇的に。

 夫婦の住まうその別館は、若いエルゼには、旧時代の名残のように思えるのだった。

 


* * *


 その日の夕食後、ラーベナルトは不在中に迷惑をかけたことを主に詫び、あらためて姪を紹介した。そして正式にオーベルシュタイン家の使用人として働く契約を結ぶことになったが、「至らぬ点があればぜひご教授ください」というラーベナルトの言葉にも、軽くうなずく以上の反応はなかった。

 エルゼは25歳。世間ではそろそろ一人前の女性として認められてもよい年頃だが、生まれ持った童顔のせいで、実年齢よりも若く見られることはたびたびだった。以前、足の不自由な老夫人の屋敷へ通いの家政婦として勤めたころに「まだ学生なのにえらいねぇ。おうちのお手伝いかい?」と言われたことがある。そのときすでに20歳を超え、成人していたエリンである。『学生』という単語が、小中学校を指すのか高等学部を指すのか、それとも年齢通り大学生として見てくれたのか……夫人の口ぶりからすれば最後の一つは選択肢に含まれなかったに違いない。あえて掘り下げることはしなかったが。

 そのようなことをつらつら考えていると、つい先日新しい主人と交わした会話がよみがえり、唇に苦笑が浮かんだ。

 すでに日付の変わろうとしている時刻だったと思う。

 主は新王朝の要職に就く身であり、帰宅はいつも遅かった。エルゼとしては主より先に休むわけにもいかず、料理の仕込みをしたり、普段使われていない部屋の掃除や洗濯を行うなど、細々とした家事をしながら帰りを待っていた。

 ちょうど玄関ホールから2階へと続く階段の掃除を行っていたところ、帰宅を知らせるベルが鳴り、エルゼはあわてて主人を出迎えた。そんなエルゼを彼は無表情に見下ろし、「子どもの発育には、じゅうぶんな栄養と睡眠が必要だ」とのたまったのだ。それはつまり発育が足りていないということで……いやいや、深くは考えまい。ラーベナルトに報告すると、「若い娘の夜更かしはよくないから、早く寝なさいという意味だろう」と翻訳してくれたので、それ以来、主の帰宅が10時をまわるときは先に部屋へ引き上げることにしている。

 部屋といえば、エルゼは本館に部屋を与えられた。ラーベナルトの隣室である。自分の仕事をなるべく早く本格的に引き継ぎたいという、彼の強い要望からであった。

 健康状態に今すぐ不安がなくとも、そろそろ自分の病気や老後を考えだす年齢に差し掛かっている伯父である。そういえば最近、父親も健康管理に気を遣いだしたことを思い出す。

 エルゼは当初、伯父が回復するまでの間の家事手伝いくらいの軽い気持ちでこの屋敷に来た。その上、主人はたいそう変わり者だし(なにせこれまで、例の件を除けば会話らしい会話をしたことがない)、そう長くは続かないだろうと予想していたのだが。

 たとえば、使いこまれた調理器具だったり、すみずみまで磨き上げられた広い廊下。手入れの行き届いた庭園。清潔に保たれた水回り。天気の良い日は、毎日すべての窓を開けて新鮮な空気を取り入れる。そのようにして居心地良くととのえられた空間が、すべて伯父夫婦の気持ちだと思うと、それに応えるのも悪くないと考え始めていた。

 むろん、オーベルシュタインに嫌われて、屋敷を追い出されなければの話であるが。

 


* * *


 8月の終わり。太陽はますます容赦なく白い日射しを照りつける。

 エルゼはサンルームの周囲の庭木に水をやっていた。

 屋敷へやって来た当初はまだつぼみだった泰山木が、いまや大輪の白い花を咲かせている。水をとめて、夏の空気の匂いを嗅いでみる。その芳香が、1ヶ月という月日の早さを教えていた。

 
 その日、オーベルシュタインは休暇だった。

 といっても、彼が希望したものではないらしい。高級官僚や軍人たちの過密スケジュールを憂慮した皇帝陛下が、問答無用で休暇を与えているのだと聞いた。生まれたばかりの国家は若く、そこに集う人間も精気に満ちあふれていたが、生命体である以上適度な休息は必要である。皇帝陛下自身が精力的に政務をこなす人物であるため、陛下にも休暇を取っていただくことを条件に、臣下も順番に有給を消費するという結論になったらしい。

 そんな次第で久しぶりに仕事のない日中を過ごしているオーベルシュタインだったが、エルゼの目にはただぼんやりしているようにしか映らなかった。

 開いたサンルームの扉から夏のかぐわしい空気が流れ込んでいるはずなのに、彼の表情はさえない。白髪の多い黒っぽい髪を風に遊ばせながら、薄茶色の両眼はじっと一ヶ所に固定されたまま。それは手にした書籍の上だったが、ほんとうに読み進めているのなら視線が動くはずである。長い指がページを繰る音を、もうずいぶん長いこと聞いていない。

 エルゼは活動的な気性だった。ストレスの発散は、体を動かすことと質の良い睡眠だと信じていたから、朝からぼんやりとなにをするでもないオーベルシュタインの姿が奇異に映った。彼女が銀河の反対側にいる某寝たきり青年士官の存在を知っていたら、主人のいっときの無気力状態などかわいいものだと思えたのかもしれないが、むろん政治にも軍事にも明るくない彼女が知るはずもない。

 だから、つい言ってしまったのである。気晴らしに、どこかへお出かけされてはいかがですか、と。

  無視されるか、反応があっても「君には関係ない」という冷淡なものを予想していたエルゼは、予想外の返答にとまどうはめになった。

 「では、こういうときはどこへ出かければよいのだ?」

 その声音に、冗談の気配はない。

 まっすぐに主人と向かい合ってみる。その表情のどこを見ても、真剣そのものだ。

 焦ったエルゼは、うっかり自分の行動パターンから答えを出してしまった。

 「え〜っと、買い物、とか?」

 買い物? 買い物だって!?

 エルゼは心の中で絶叫した。女性が相手ならまだしも、男性、それも軍務尚書閣下に向かって買い物とは……!

 穴があったら入りたいとは、こういう心境を指すのだと痛感した。

 (落ち着きなさい、エルゼ。『近所のスポーツジムで筋トレ』とか『犬を飼っている家をめぐるジョギング』なんて答えなかっただけ、まだましよ!)

 おそらくそういう問題でもないと思われるが、動転しているエルゼは自分を落ち着かせようと必死だった。

 続く質問に対する失言は、その努力が報われなかったことを示している。

 「ふむ、買い物か。ではいったいどこで買い物をすればいいのかね?」

 これまた全力で大まじめな問いかけだったので、反射的に近くの大手百貨店の名前を答えてしまったのである。

 

* * *


食品売り場は、ほどほどに混雑していた。

 時刻は午前11時を少しまわったところである。フロアを占めるのはほとんどが主婦と思しき単独の女性客で、その中に混じって店員、子供連れの女性客あるいは女性客同士のグループ、夫婦または恋人同士らしい男女が見受けられる。規則的に配置された陳列棚と、その間を縫うように動く人の群れは、まるで高いビルから見下ろした交差点のようだ。

 人間ふたり分ほどのスペースを空けた前方を、エルゼが歩いている。

 屋敷にいたときと同じように、Tシャツに薄手のカーディガンを羽織り、伸縮性のあるズボンをはいていた。異なるのは彼女が左手に持つ買い物かごで、この中にてきぱきと食材が詰め込まれていく。無造作に見えるが、ちらりとかごの中をうかがうと、きちんと整頓して置かれていることがわかる。オーベルシュタインは表面に出さずに感心した。

 
 そこはあまりに平和な日常だった。行きかう買い物客たちはだれも、オーベルシュタインになど注意を払わない。さもあろう、私服姿の彼は、どこにでもいるやや陰気な男性である。誰が彼を、帝国3元帥のひとりであり、軍務尚書であると気付くだろうか。彼らに必要なのは食品の品質を見極める目であり、身近な客の正体を暴く必要などないのだから。


 「あのう、旦那さま。ここまで献立表にしたがって食材を選んだのですけれど、なにかお召し上がりになりたいものなどございますか?」

 エルゼが控えめに声をかける。百貨店に向かうランドカーの中ではなにかまずいものでも食べたような顔をして黙りこくっていた彼女だったが、車から降りたとたんに吹っ切れたらしい。精力的に買い物をしていたが、ここにきてオーベルシュタインの存在を思い出したようだ。

 その間オーベルシュタインがしていたことといえば、彼女のうしろを黙って歩くことだけである。いい加減芸のないことだと自分に呆れていたところだったので「ではビーフシチューを」と注文をつけた。特に好きな料理というわけではないが、彼女の作るものなら満足のいく仕上がりになるだろう。

 事実、エルゼの家事の腕前は見事なものだった。基本的な炊事・清掃はもちろんのこと、庭仕事もこなす。そして、そのすべての出来が及第点に達していた。ラーベナルトの話では、共働きの両親に代わって家事一切を取り仕切っていたと言うから、経験値による部分もあるのだろう。

 実のところ、オーベルシュタインには彼女の仕事の落ち度を見つけるためにわざわざ本館に住まわせた、という事情があった。表面上はラーベナルトの懇願に折れる形を取ったが、検診の結果が良好だったこともあり、やはり新しい人間を屋敷に入れることには抵抗を感じていたのだ。身近においておけば早い段階でほころびが生じるであろうことを見越して、それを理由に雇用を謝絶しようと考えていたのである。

 しかし結果は思わぬほうへ転がった。オーベルシュタイン自身が、彼女の仕事ぶりを認めてしまったからだ。特に料理に関しては、ラーベナルトを上回る評価を下している。

(こうもあっさり懐柔されるとは、わたしも年を取ったものだ)

 このときオーベルシュタインの年齢は37歳であり、まだ平均寿命の半分も生きてはいない。僚友たちの間では年長の部類に入るのであろうが、自身の思考にやや赤面する思いである。

 「旦那さま、会計を済ませてきたいのですけれど、よろしいですか?」

 言われてはじめて、買い物が終了していたことに気付く。

 彼女の視線の先にある場所が会計レジのようだ。のこのこついて行くのは、それこそきまりが悪いので、売り場の出入り口付近で待つことにする。余計に手持無沙汰になったために周囲を見渡すと、ふとあることに気付く。

 男女で買い物している客は、ほとんど男性側が荷物を持っていたのである。

 オーベルシュタインはエルゼの並ぶレジを見た。まだ会計は終わらない。それだけ品数が多いのだ。たしか3日分の買い出しだと話していた。野菜などを詰め込んでいたから、さぞ重かったことだろう。

 ここで、ある疑問に突き当たる。

 男女で行動した場合、男性が力仕事を引き受けるのは当然のことわりだろう。ではそれが雇用主と使用人であった場合、どのように対処するのが正しいのか。いやそもそも、この両者がそろって買い物に出かけるということは、そこから間違っているような気がしてならないのだが。

 もう一度エルゼのほうを見た。レジにはいない。作業台で荷物の整理をしているようだ。これも手伝ったほうがよいのだろうか。

 この疑問を解決するために、少しばかり時間がほしかった。大した問題でないことは承知している。今日中に解決すればよいことだ。そうすれば明日からまた、雑念なく職務に精励することができるはずだ。

 エルゼが戻ってきた。

 その手にある荷物は、あえて無視して尋ねる。

 「本日の昼食の準備は、もう済ませてあるのかね」

 「いいえ、戻り次第すぐにご用意させていただきます。シチューは時間がかかりますので、昼食はべつのものでもよろしいでしょうか?」

 「構わん。昼食は、こちらで取るとしよう」

 一瞬エルゼの視線が泳いだ気がしたが、特に不満を申し立てるでもなかったので、そのままにしておいた。

 オーベルシュタインが先頭に立って歩き出す。

 彼女は、そのうしろをやや所在なさげについてきた。

 


 * * *


 百貨店というのは実に便利なところだ。ひとつの建物内に多くの施設がそろっているので効率がよい。

 軽食喫茶に腰を落ち着け、改めて半日を振り返る。

 まず雑貨売り場で万年筆のインクを買い、家具売り場でクッションカバーを買い(これは宅配サービスを利用した)、食品売り場で食料の買い出しをする。日常の業務、あるいは普段の休日の中では、決してルーティンに組み込まれない行為だ。ただし、すべてを主導したのはエルゼであり、オーベルシュタインはただそのあとをついて歩いていただけにすぎない。

 では、それを無駄な時間と感じるか否か。

 答えは「否」だった。興味深い体験をしたという感想を抱いている。

 エルゼは神妙な面持ちでグラスの水を飲んでいた。買い物をしているあいだはあれこれと考えをめぐらせていたようだが、それが終わるとすることがなくなってしまったらしい。白い指先が、グラスをつかんだりはなしたり、忙しなく動いている。

 注文したメニューが届くまでには時間がある。

 オーベルシュタインは、この時間をさきほどの疑問解決のためにあてようと考えた。

 「緊張しているのか?」

 彼女の動きがぴたりと止まった。小首を傾げて少し逡巡するそぶりを見せたあと、

 「はい……少し」

 と答えた。それでも、黒い瞳はまっすぐにオーベルシュタインを見つめている。

 そうか、彼女も緊張しているのか――そう考え、そしてようやく気付いた。

 オーベルシュタイン自身も、やや緊張していたことに。

 気付いて初めて肩の力が抜ける。すると口からは、なめらかにいくつもの質問がすべりおちた。

 彼女は、そのひとつひとつに丁寧に答えた。

 ときどきは考えながら、あるときは即答で。

 そのたびにくるくると表情を変える。その姿はまだ少女といってよいほどあどけなく、それがつい彼女の実年齢を忘れそうになるゆえんだとわかる。

 
 結局、食事が届くまでのわずかな時間に、オーベルシュタインはエルゼを質問攻めにした。

 そしてそれを得難い時間だと感じた彼は、自身のささやかな疑問に解答を得ることができたのである。

 


* * *
 

 今日はとてつもなく肩が凝った……洗い物をしながらエルゼは思った。

 原因ははっきりしている。今度から、買い物にはひとりで行こう。

 
 主の希望通りビーフシチューを提供したエルゼは、その後片づけをしながら今日のできごとを思い返していた。

 正直なところ、百貨店へ向かうランドカーの中では生きた心地がしなかった。なぜこんなことになったのだろうと天を呪ったりもしたが、結局のところ自身の失言が招いた事態である。あきらめるしかない……待て待て、当事者はもうひとりいる。いくらなんでも本当に買い物についてくるなんてあり得ないだろう。

 ところがそのあり得ないことが起きてしまったのだ。

 雑貨屋から食品売り場まで、それこそ背後霊よろしく(笑)エルゼのうしろをついてまわっていたオーベルシュタインだったが、会計を済ませて戻ってみると、なぜだか活動的な気分になっていたようで、食事に誘われ、しかもその席で質問攻めにあった。

 軍務省というところがおそろしいところだとは聞いていたが、まさか自分がそれを体験することになるとは思っていなかった。気分は容疑者、主人はさながら検察官のように思えた。

 緊張しているのかと問われ「少し」と答えたエルゼだったが、本心では「大いに」と叫びたい気分だった。しかし視線をそらすことは矜持がゆるさず、まっすぐ目を見て向かい合った。

 するとどうだろう、義眼と聞いていた双眸は、意外なほどに穏やかだったのである。

 彼の目を見て、ひとつずつ質問に答えていくたび、少しずつ肩が軽くなる思いさえした。

 思えば、ふたりきりで過ごしたことなどほとんどなかった。お茶を運んだり、廊下ですれ違ったり、彼の帰宅の早いときには給仕をする。そのとき、会話らしい会話を交わした記憶もない。同じ屋敷に暮らしながら、なんと希薄な接し方をしてきたのだろう。

 主人がエルゼに対して関心を持ったのであれば、それは歓迎すべきことだった。

 

 エルゼの両親は共働きで、ふたりとも同じ商社に勤めている。

 仕事が忙しいため、帰宅時間も遅い。ときには長期の出張などもあった。さびしい思いもしたが、優しく誠実な父と、怒りっぽいが気立てのいい美人である母のことを、エルゼはとても好きだった。ふたりに負担をかけまいと、自然、積極的に家事を覚えるようになっていく。

 実を言うと、姉と兄がひとりずついるにはいるのだが、彼らをあてにするのは、早い段階であきらめたエルザである。

 姉は作家兼翻訳家。締め切り前になると部屋にこもり、ときどきうめき声などが聞こえてきたりもする、なんとも不可解な職業に就いている。昼夜が逆転することもしばしばで、加えて、家事に対する関心も薄い。そこだけを聞くと薄情と思われるかもしれないが、エルザがまだ子供だったころ、同年代の友人たちをさしおいて遊び相手をしてくれたのは彼女である。いまでも、仕事のないときには映画や洋服の買い物などに誘ってくれる優しい姉だ。

 兄も優しい人で、幼いエルザにごはんを用意したり、お弁当を作ったりしてくれたのは彼だ。ただおそろしく不器用な人で、大人になった今でも週に一度は自宅のコップや皿などを破片に変えている。そのくせなにを勘違いしたのか、ウェイターが自分の天職だと信じて疑わない。よく首にならないものだとハラハラしているのだが、職場には絶対に来てはいけないと言い渡されているため訪れたことはない。ともかく、彼に家事を任せるとあと始末が面倒なので、すべてひとりでやるように心掛けている(ときどき気を利かせて手伝ってくれるが、無残な結果に終わっている)。

 おかげで、家事全般はお手の物だ。

 その自負がエルザを強くした。もともと好奇心が旺盛で物怖じしない子どもだったが、成長するにつれ、緊張するとかあわてるとかいう状況とは縁が薄くなってきたのである。

 はじめてオーベルシュタイン家を訪れたとき。伯父から「旦那さま少し変わった方だが、とても立派な方だよ」と教えられていたので、初対面の人物に挨拶をする以上の気負いはなかった。ところが、家族にそのことを知らせると「あのオーベルシュタイン元帥のところで働くのか!?」と異口同音に驚かれてしまった。そして軍務尚書に関するあれこれの噂を聞き……要するに先入観を植え付けられたわけである。

 

 そして今日。

 会話を交わすことで、それらを払拭することができた。

 「帝国元帥」だとか「軍務尚書」だとかいう人を、エルザは知らない。知っているのはただパウル・フォン・オーベルシュタインという名の「旦那さま」だけ。

 世間の大勢にとって畏怖される人物であっても、エルザにとっては少し変わった、でも優しい雇い主。それでいいのだろうと思う。

 結局、あの大量の荷物をランドカーまで運んでくれたのは彼だった。

 ランドカーの運転手と、私服姿の護衛役の驚くさまを見たときには顔から火が出る思いをしたが……それでも今日は、いい一日だったと思える。

 

 最後の一枚の皿の水分を拭き取り、ラックに収める。タオルは朝一番に洗濯しよう。新しく購入したのだから、クッションカバーも取り替えなくてはならない。明日はいい天気になるということだから、この際屋敷中のカバー類もまとめて洗ってしまおうか。それを済ませたら、朝食には焼きたてのスコーンをお出ししてみるのはどうだろう……少しでも主のためになると思えば、早起きなど少しも苦にならない。

 
 そういう一連の家事が、『仕事』から『誇り』に変わる。

 自身の中に起きた大きな変化を、このときエルザはまだ知らないでいた。

 

 
 ≪続≫

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 あとがき

 こんにちは。

 「厳格なオーベルシュタイン元帥に、恋人ができたらどうなるだろう?」という企画はいかがでしたか?

 初めて銀英伝を読んだとき、わたしはこの人が苦手でした。

 でも何度も読み返すうち、少しずつ魅力がわかってきました。

 本人は努めて他人に自分を理解されないように一生を終えましたが、台詞や行動の断片から、実はそれほど冷淡な人でもなかったのでは……と考えたのが、この話を書こうとしたきっかけです。

 しかも続きます(汗)

 少しでも楽しんでくだされば幸いです。よろしくお付き合いください。

  2010年12月1日 ──路地猫みのる──

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