空の境界
──変わりゆく日常外伝──




めぐるぜんや
 「廻る前夜」




 ──1998年 12月4日──

 「もうこんな時間か…」

 わたし、蒼崎橙子が時計を見ると22時10分だった。日中、唯一の社員が何を思ったのか突然早退し、(特にこれといってやることもなかったのでいいのだが)わたしはずっと次の仕事の企画を考えたり、資料をめくったりして今までを過ごしていた。付けっぱなしのTVの画面には、先日発生した4人目の被害者、「連続猟奇切り裂き魔事件」の緊急特番が放送されつづけている。

 「やれやれ、ずっとこればかりだな…」

 私は辟易しつつ、吸いかけのタバコを灰皿でもみ消し、冷めきったコーヒーを淹れ直すべく、椅子から立ち上がろうとした……ときだった。

 「誰か来るな、こんな時間に何の用だろうね」

 私は、無感動な口調でつぶやくと、人除けの結界をやすやすと通り抜けた侵入者を追った。敵意はない。ビルの正面の入り口から堂々としっかりとした足取りで階段を昇り、四階にあるこの事務所にまっすぐ向かってきている。

 「ふふん、面白いね。客人というべきかな?」

 一体、だれが? 当然、頭に浮かぶ人物で該当者はいない。私は興味を抱き、この夜の客人を迎えることにした。コーヒーカップはとりあえず机の上に戻し、山積みになっている資料を引き出しに投げ込み、服装を整える。

 「おっと、これはいけないね」

 私は、灰皿の上でまだくすぶっているタバコを完全に消す。少々寒いが、空気の入れ換えもするべきだろう。窓を3分の1ほど開けておく。

 「こんなものかな?」

 だいたい片づいたところで周囲を見直す。客人を迎えるには十分とは言い難い。そもそもめったに外部からの訪問などないのだから、整理整頓など普段から力を入れているほうではない。正直、多少散らかっているほうが性に合っているのだ。まあ、先月もそうだが、好むと好まざるに限らず急な客人が顔を出すこともある。文句を言われたわけではないが、また機会があれば、今後は整理整頓にも留意することにしよう。

 そんな思いを巡らせていると、事務所の前の廊下を進む足音が耳に入ってくる。その落ち着いた音は、やがて人影となって入り口に立った。私は椅子に座る。

 「トントン」

 と軽くドアをノックする音。どうやら礼儀正しいようだ。

 「ドアは開いているよ。どうぞ」

 と、私が声をかけるとドアがガチャリと開き、事務所の照明が明確にしたのは背の高い若い男だった。

 「夜分に大変失礼します。はじめまして、私は御上真と申します。蒼崎橙子さんでいらっしゃいますか?」

 突然の客人は「当たり」だった。とても感じのよい声、年齢は黒桐と同じか一つ上、スラリとしたドアの上まで伸びる長身、外国の血が混じっているのだろうか、髪はうっすらと赤みがかかる長めで癖のある黒色。目元と口元に力強さのある端正な顔立ちで、黒っぽいスーツの上に上品な明るい茶系のコートを羽織っている。何よりも目に留まるのは左の耳を飾る碧玉のイヤリングだろう。その装飾が嫌味にならないのが不思議である。

 「はじめまして、私が蒼崎橙子だよ」

 私は椅子から立ち上がり、この若者を奥の応接の場に誘導する。彼は「恐れ入ります」と一礼し、羽織っていたコートを脱いでソファーに腰を下ろした。

 「寒い中をご苦労様。せっかくのお客に申し訳ないのだが、あいにく私ひとりでね。おもてなしをするにはしばらく時間をいただかないといけないのだが、それでよければ温かいコーヒーを淹れるけど?」

 若者は私の目を見る。不思議なことに彼の瞳に青みがかかっている。

 「いえ、お構いなく。私もあまり長居できないかと思います」

 若者はにっこり笑って言うと、急に真剣な眼差しを向けてきた。どうも、すぐに本題に入りたいらしい。私もソファーに座った。

 「いいよ、私も遠まわしは好きではない。君が今日ここに来た理由を聞かせてほしい」

 青年の青みがかかった瞳が私のそれと交差する。

 「それでは、単刀直入に申し上げます。今、蒼崎さんのご友人が追っている例の事件から手を引くよう、ご友人を説得していただけませんか?」

 式のことを言っているのだろう。例の事件と言われるとピンと来るものがあるが…

 「その理由の明確な部分を聞きたいな。介入されると困ることでも?」

 私は当然のように言う。若者はひるまずに口を開いた。

 「失礼しました。理由は単純です。蒼崎さんやご友人を一族の縁(ゆかり)の者が起こした事件に巻き込みたくない、ただそれだけです」

 若者はきっぱりと言い切った。私は彼の言葉に嘘がないことをすぐに読み取ったが、別の重大な事を尋ねる。

 「一族、と言ったね。御上真……そうか、今わかった。君は“御神”の血を受け継ぐ人間なのだね」

 若者は肯定の微笑をする。この微笑が私は好きになった。

 「なるほど、蒼崎さんは博識な方ですね。さすがは魔術師協会から封印指定を受けている人形師だけあります。そうです、私は蒼崎さんの言う“御神”の人間です」

 「君は私の素性を知っているようだね。恐れ入ったよ。それにしても、あの御神の血を継ぐ人間とは驚いたね」

 きっと、若者には私がとても驚いているようには見えなかったと思うが、表面上の冷静さをなんとか取り繕ったにすぎない。それだけ「御神」という古の固有名詞を思い起こしたことは衝撃的だったのだ。

 御神家といえば、古よりこの国の神術、鬼道、道術、呪術の一族を統括した陰陽師「千里家」の犬神家、式神家、魔神家を含めた「千里四天王」の筆頭だった一族だ。安部晴明亡き後の朝廷お抱え退魔師一族だ。その力は退魔四家として名高い両儀家や巫条家、浅神家、七夜家と同格か格上といってよい。

 この国には、一種独特の魔術組織がある。私が所属していた「魔術師協会」とは一線を画した深く神秘に満ちた集団だ。御神家は本家の千里家とともに、かつてその組織の中枢にいた家柄なのだ。その歴史は1000年にもなるだろう。

 先月、魔術師荒耶宗蓮が起こした事件に、この国の魔術師集団は介入してこなかった。私が倒したかつての同期が言ったとおり、彼らは己の領界を侵犯されない限り、今まで一切の手出しをしてこなかったのだ。

 それが今回、はじめて出向いてきたのだ。それも私が知りうる限り最強の一族が!

 これはただ事ではないが、少なくともなんの悪意も感じられないので私に害はないようだ。気になることはいくらでもあるが……

 ふと、私はあるキーワードに気がついた。

 「君は“一族の縁の者”という表現をしていたが、今回の事件を起こしているのは末端の者なのか?」

 私は尋ねる。若者は迷わず口を開いた。

 「よいところを突いていますが、そうではありません。言い換えると“血筋を受け継いでいる他人”です。彼は自分の能力については理解しているが、まさか古の能力者の血を受け継いでいるなどとは考えてもいないことでしょう」

 私は目をまばたかせた。彼の発言は微妙に矛盾をはらんでいる。

 「まてまて、それは分かったが、今の口ぶりからすると犯人の目星はついているということか? では、なぜ捕らえない?」

 私の追及にも若者は冷静だった。

 「彼は4人目を殺害の直後、行方をくらませています。お恥ずかしい事ながら、御上家と懇意の刑事さんから一連の事件について相談されるまで、われわれと関係のあることだとは考えていなかったのです。私が本家からも依頼を受けて本格的に捜索を開始したのは4人目が殺害される直前でした。後手に回ってしまい、被害者を出した非難は甘んじてお受けします。
 ですが、犯人はまだ少年です。ご友人が彼と関わると、きっと殺し合いになってしまうでしょう。私は彼を保護したいのです。4人も殺害しておいて何を今更、とお考えでしょうが、それでも彼を保護したいのです。彼の殺人動機は復讐です。愛する女性を殺害された怒りが彼を突き動かしているのです。その怒りと感情に自分を見失っただろう姿は、一歩間違えば私でした。だからやり遂げたいのです。ある意味わがままです。ですから、みなさんには手を引いていただきたいのです」

 私が青年の目を強く見据えても、彼は視線をはずさない。その瞳からは悪意も打算もない純粋な意志の強さがひしひしと伝わってくる。しばらく互いの視線が衝突したままだったが根負けしたのは私だった。

 「わかった、説得はしてみよう。しかし保障はできないよ。なんといってもあれは頑固だからね。自分がそうしたいからそうする、という人間だ。それに、事務所にいつ戻ってくるかもわからない。それでよければ、なるべく君の要望に沿えるよう努力するよ」

 「ありがとうございます。それで十分です。本当は彼女に会ったときに直接伝えようとしていたのですが、うっかり機を逸してしまいました。次に会ったときは必ず私の口からも伝えます。どうかよろしくお願いします」

 一語の澱みもなく若者は答え、ずっと私の眼をみたまま逸らさない。威圧というより、己の意志の固さを伝えているのだと感じられる。その証拠に、さっきから一切の不快を感じてはいない。むしろ、この青年が次に何を語るのか、そのほうが大変興味をそそられる。

 ふと、彼の左耳のイヤリングに目を留める。

 「一つ確認。君が昨晩、うちの式とやりあったという人物だね」

 そうです、と若者は迷わず答える。私は、彼があまりにもすんなり認めるので、少しだけ意地悪をしたくなった。

 「君は4人目の被害者の現場にいたそうだが、犯人と関係がないのなら、なぜ両儀式と戦ったりしたのだ? どうやってその気にしたかは知らないが、あれは誤解しているよ」

 少しは考え込むかと思ったら、

 「それは両儀式さんと戦いたかったからです」

 と即答されてしまった。さすがの私も面食らうしかない。

 「戦いたかった? あの死線を視る魔眼使いと戦いたかったから戦った、というのか?」

 はい、と若者は短く答える。私には彼の頬が高揚しているように映る。

 「私も物好きなほうだけど、君の物好きもたいしたものだよ。あの敵にしたくない魔眼使いと“戦いたい”だなんていうやつはめったにいるものじゃない」

 私が短く愉快に笑うと、この若者は初めて視線を逸らし、頬を赤らめた。なかなかいい表情じゃないか! かわいいね。

 若者は視線をやや下げたまま、私に向き直った。

 「…なんと言いましょうか、あの時はようやく境界に踏み込んで気分が高揚していたと言うのでしょうか、つまり、皆さんと関われるのが嬉しくなって気持ちが暴走したのかもしれません」

 若者の戸惑った表情が実によい。私は、どうやら彼のことが気に入ってしまったようだ。素直に質問に答えることといい、透明な本心や両儀式を私の友人と言うあたり、彼の人間性が読み取れるというものだ。黒桐幹也という社員とは別の意味で私にとって非常に必要な人材に思えるのだ。

 が、「関われる」という意味深な発言が気にかかる。

 「ええ、それはまず、私は黒桐くんと両儀式さんの元同級生だからです」

 私は、銜えてもいないタバコを落とした錯覚に見舞われた。

 「同級生っ!? 黒桐も式も君の事を話題にしたことは一度もなかったと思うが」

 驚いたことは驚いたが、これで一つ目の疑問が解消されたわけだ。ただ、彼は知っていても、なぜ彼らは知らなかったのだろう?

 「それは当然です。彼らとは高校は同じでしたが、在学中、一度も同じクラスになることはありませんでした。私は彼らのことを意識していましたが、彼らは私のことをしらないでしょう。直接かかわることは避けていたのです。だから、私は知っていても、彼らは知らない、意識していないのです。
 ですが、黒桐君の友人で『学人』という同級生がいることはご存知かと思います。私は彼とは高校生になってから友人関係を築きましたが、当時の私の事情から黒桐君や式さんと知り合いになろうとは考えていなかったのです。もっとも、黒桐君は彼から私の名前くらいは聞いたことはあったようです」

 「君は最近、うちの黒桐と顔を合わせた事があったのかな?」

 はい、と若者は素直に答える。

 なるほど、私には二つ目の疑問が解決できた。今日、社員が突然、事務所を出て行ったのはそのためだったのか。

 「ちょうど11月の終わりでした。この辺りを歩いていたら、偶然、黒桐君を見かけて、思い切って声をかけたのです。彼は驚いていましたが、学人を通じて名前を憶えていてくれたらしく、突然でありながら快く昔話に付き合ってくれました」

 若者は楽しそうに話す。よほど黒桐と話せたのが嬉しかったのだろう。しばらく笑顔が続く。それにしても、あのやさ男は一言も私に話をしていない。まあ、プライベートなことだから話さなかったのだろうが、ぼやきでもいいから発言していれば、そうとう展開が違っただろうに。

 「どうかしましたか?」

 若者の問いに、私は意識を呼び戻す。

 「ああ、その黒桐がね、私が式から聞いた話を彼に話したら、血相をかえて出て行ってしまったんだ。きっと君が思い浮かんだので心配になったんだろうね。あいつは思い込むとまっしぐらだからねぇ」

 「えっ! 黒桐君が?」

 若者は初めて驚くと、すまなそうな表情で下を向いた。

 「なに、心配しなさんな、あの男は馬鹿じゃない。自分の限界はわきまえているから、きっと無理はしないよ」

 「そうですね。彼に会ったら謝っておきます」

 「うん、いい心がけだね。ところで気になっていることがさっきからあるんだけど、君は普段からスーツ……じゃないよね? 似合っているけど」

 我ながら的外れで唐突な質問だと思ったが、若者は真面目に答えてくれた。

 「いえ、違います。今日は特別です。こちらにお邪魔するので、それなりに身なりを整えてきました」

 今時、律儀だ。

 「そうか、気を遣ってくれてありがとう。君はなかなか礼儀作法には厳しいようだね」

 私がウインクして言うと、彼はコホンと咳き込むまねをする。

 「いいえ、そうでもありません。たまたまです」

 「たまたまか? そういきなりできるものではないよ。普段も礼儀正しそうだけど」

 私は、胸のポケットに手をかけたが、もちろんタバコは入っていない。存在する場所まで数メートルの距離なのだが、大切な客人を前に今は自重することにした。少しため息が出たけれど……

 「ふむ、あとニつほど質問があるのだが、いいかい?」

 「どうぞ、まだ時間はあります。答えられる内容でしたらお答えします」

 若者の表情は元の静けさを取り戻していた。

 「まず一つ目、君は諸事情で関わることを避けていたと言っていたが、それはどういう意味かな? 元同級生として今頃、突然仲間意識に目覚めたわけではあるまい。もうすこし動機を詳しく知りたいのだが」

 私と若者の視線は重なったままだ。が、彼の瞳の中に一瞬のためらいを捉えた。

 「…それは、私が荒耶宗蓮に用意された駒の一人だったからです」

 私の驚きを若者は冷静な目で見つめていた。まさか、先月倒した荒耶宗蓮の呪縛がこんなところでまだ残存していようとは! もしかしたら戦いはまだ終わっていないのではないかと強く錯覚してしまう。それだけ彼の発言は衝撃的だったのだ。

 「両儀式」という根源の渦へと通じる「器」を得るため、また「彼女」を破壊するため、黒衣の魔術師は過去、巫条霧絵、浅上藤乃という二人の能力者を式にぶつけてきたが、いずれも彼女を破壊するまでに至らなかった。

 ついに魔術師は、一つのマンションに己の粋を集めた結界をめぐらせ、そこに両儀式をおびき寄せることで彼の目的を達成しようとした。その目的は寸前まで成功していたといってよい。私と同期だった魔術師は、あと一歩で全ての記録と、全てを無にする場所に到達しようとしていたのだ。

 それを壊したのは、“臙条巴”というたった一人の少年が起こした「ズレ」だった。その少年は荒耶にとってはただの捨て駒でしかなかったかもしれないが、両儀式を連れだす役割を演じた少年の「人形」は、いつしか植えつけられた感情とは別の感情を…いや、その感情ゆえに両儀式を救出すべく荒耶に立ち向かったのだった。

 荒耶自身が放った駒がいつしか独立した「意思」を持ち、己の運命に抗ったため、螺旋のしがらみから解き放たれた少年が完璧と思われた罠にほころびを生じさせたのである。

 とは言え、もし私が若者の告白を最初に聞いていたら、きっと平常心で話をしていなかったに違いない。駒としての宿命に目覚め、突然、我々に危害を加えない保証はどこにもなく、荒耶の駒であったという事実は、本来なら簡単に覆せるものではないからだ。

 「しかし、君は彼の駒になりえなかったというのか」

 私は、一つの核心を口にする。目の前で向き合う若者は瞑想するように瞼を閉じると、次にゆっくりと目を開けて再び私の視線に入る。

 「そうです。私は荒耶の駒から逃れたのです…」

 若者は呼吸を整えて続ける。

 「…彼と会ったのは高校生の頃です。その当時、私の能力はまだ不安定で、一つ間違えると暴走してしまうほどでした。まさにその暴走した最中に荒耶宗蓮は現れて言ったのです」

 『その真実を制御し、はるかに超越した力を自在に行使する術を教えよう』

 私は、悟られないように息を呑む。荒耶の執念に寒気がしたのではない。巫条霧絵、浅上藤乃は魔術師が敷き詰めた「宿命」というレールに抗うことはできなかった。私や式でさえ、何年もかけて周到に用意された荒耶のわなを破るのは容易ではなかった。現実、私は一度殺されたし、式もかろうじて勝ったものの、一週間も入院する重症を負ったのだ。

 だが、目の前にいる若者は「そこから逃れた」と言ったのだ。言うだけ簡単ではない。

 私はわずかに乱れた呼吸を整える。

 「…どうして荒耶に駒として扱われた君は、どうやって彼の呪縛から解き放たれたというのだ?」

 私は、次の一答に集中した。

 「そのきっかけは、荒耶宗蓮が皆さんによって倒されたからです」

 「倒したから、か…」

 答えは単純だが、そこに至る過程は単純ではない。それ以前はどうして駒として動くことがなかったのか?

 「荒耶が消滅したことで、まず真が視えたのです。それまで駒として式さんと相間見えることがなかったのは、私の能力が不安定であり、荒耶の欲したレベルに達していなかったためでしょう。
 私の能力が、どうにか安定してきたのは今年に入ってからです。きっと彼は私の能力がある程度安定するまで待っていたのだと思います。そしてどこかで式さんとぶつけることを考えていたはずでした。ですがその前に彼はマンションの件で敗れてしまったというわけです」

 「ああ、そうだな……」

 私の声はまだ驚きに満ちていた。式を取り巻いていた元凶は荒耶の消滅によって、一応の決着をみたといってもよい。不可解なのは「御上真」という最強の切り札を用意しておきながら巫条霧絵や浅上藤乃のようにはならなかった事実だ。あの男が己の計画を優先したために最強の駒を計画から外したなどとはとても想像できない。彼の能力が不安定とはいえ、例の件に加えればまったく違った結末が待っていたはずだ。いや、彼の思惑とおりに運ばなかったと考えるほうが客観的だろう。それは計画の変更か? 新たな駒を得たからだろうか? それともマンションを舞台にした計画に絶対の自信があったからだろうか?

 「いずれも当てはまるな……」

 一つ不安なのは、確かに荒耶宗蓮はどれほどの駒を用意したのかまでは語っていない。あのマンションの戦いの最中で、彼が断片的に口にしたのは二人の名前だけだ。

 ただ一つ断言できるのは、自らを「駒の一人」と語った『御上真』という若者は、荒耶宗蓮の消滅によってその呪縛から解放され、今後も争うことはないということだ。これはありがたいことだった。本格的に『御神』を相手にしていたら、それこそ元凶は荒耶の比ではない。その時は本家も動くだろうが、そうなると私にとっては致命的だ。

 しかし、そこには「理由」も凌駕する「事実」が隠されていることに私は気がついた。もしそれが想像通りならば、もし荒耶の思惑通りの働きをしていたのなら、今頃は「両儀式」という人格と器は荒耶に乗っ取られていたに違いない。

 私は、それを確かめる必要があった。

 「御上、君の…」

 突然、何処からともなくアラームが鳴った。

 「失礼しました」

 若者の腕時計が鳴ったのだ。彼はすばやく音を止めると、襟を正して背筋を伸ばした。

 「大変申し訳ありません、時間です。そろそろ行かなくてはいけません」

 私は言いかけた言葉を呑み込み、別のことを口にする。

 「そうか、残念だな。まだ聞きたいことは山ほどあったのだが、時間ならば仕方がないだろう」

 自分の名残惜しげな声に、内心意外に感じてしまう。

 「申し訳ありません。事件が解決しましたら、またこちらにお邪魔させていただきます。それが私の望みですから。そのときに今日の残りの疑問についてお話します」

 「そうだな、必ず約束して欲しい」

 私は、無意識に右手を差し出した。後になって考えると顔から火が出るほど「柄でもない」ことをしたと自覚するのだが、このときはごく自然と当たり前のように、そうすることが必要なのだと心が訴えていたのだ。

 「ありがとうございます。かならずこちらに寄らせていただきます。自らが望んで踏み出した一歩です。だから必ず戻ってきます」

 若者は笑って私の手を握り、去り際に一礼すると碧玉のイヤリングを輝かせてドアのむこうに消えていった。

 「本当に残念だな。もうすこし話していたかった」

 私はつぶやき、直後に不機嫌になった。その理由を探してまで素直に認めたくないので、我慢していたタバコに火をつけて深く吸い込む。

 ふと、時計を見ると24時を過ぎていた。そんなに時間が経ったとは思えなかったのだが、もう2時間近く経っていたのだ。それだけ中身のある話を集中して話していたのだろう。我ながら話し込んでしまったことが、なぜか気恥ずかしい。

 不意に、私の背中に冷気がさす。

 「いかん、いかん、ついうっかり閉め忘れていた」

 先刻、換気のために開けていた窓をピシャリと閉める。窓の外は師走の深夜、もちろん人影など皆無。明るくない街灯やビルの灯火だけが、寒さの増した漆黒の闇をぼんやり照らす。

挿絵
 「さむいな」

 つぶやいて、めったに着ない上着を羽織る。話に夢中になっていたので気がつかなかったのだが、事務所の中はだいぶ温度が下がってしまったようだ。

 「コーヒーを淹れなおすか…」

 私は、飲みかけのコーヒーカップを再び手に取ると、隣の台所へ向かう間に思案をめぐらせる。

 さて、明日はまず黒桐のヤツを問い詰めよう。朝一で御上真と面識があったことをとっちめてやろう……まてよ、それでは面白くないな。あの男をある程度追い詰めてから、今日のことを切り出そう。あくまでも自然に「今、気がついた」みたいに持っていこう、うんうん。次に式が戻ってきたら彼は味方だと説得する必要がある。きっと式はオレの勝手だと言うに決まっているだろうがね。一応は約束だから話さないとなぁ……

 私は愉快気に笑い、ソファーの横を通り抜けて台所への扉を開ける。

 「扉を開ける?」

 私の手が停まった。神妙な気分とともに……

  この「扉」を開けて、向こうに何が待っているのだろう? 御上真という若者が運んでくる新しい日常の変革だろうか? それとも危険で退廃的な非日常への誘いであろうか? 青い空から灰色の空へと変わるのが当たり前のように、朝と夜が交互に訪れるように、黒桐幹也とも違い、両儀式とも違う日々の光景は、

 「ふふ、楽しいに決まっているじゃないか」

 私は「扉」を開けた……



 ──END──

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あとがき

空乃涼です。外伝の二話目です。ここまでしか切り裂き魔事件のSSを書いていませんorz
この後続くはずなんですが、「承」の部分で頓挫…… 

そんな状態です(泣

しかし、心理を書くのは難しいです。奈須先生の描写能力に感嘆です。よく一つ書いたら次の心理面をあんなに書けるなと思います。

それにしても、このままだと第7章の公開はゴールデンウィーク直前か夏前か……
Remixバージョンを観てきました。ところどころに新カットが入っていました。皐月の「再認」の部分をリミックスでは本編よりも詳しく述べていたように思います。まあ、あのままだと玄霧の動機が原作より薄っぺらになってしまいますからね。補完しておいた方がいいでしょう。

2009年4月21日─涼─

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