序 章 普段通りの難しさ Buona_Notte.


 ――深い暗闇が広がっている。
 その時刻、日本にあるその街はネオンサインとは無縁で、明かりなどとうに消している家庭が大半である。
 その中の同じように明かりのついていないマンションの一部屋で、つんつん頭の動くモノがいる。
「さてと、最終チェックは、と。」
 暗い中で動く彼、上条(かみじょう)当麻(とうま)は不幸である。道を歩けばめったに車が来ない道路でも()かれそうになり、どんな店に入っても少し物色しただけで万引きの疑いがかけられ、自分の見たい番組だけがTVに映らないということもよくある。
「――銃よし、弾よし、呪符(じゅふ)よし、インクよし、血よし、金よし。()けられるものは着けているし、短剣やら杯やらも予備含めて大丈夫。」
 それでも彼は人生を諦めない。
 車に轢かれようが、冤罪(えんざい)がかけられようが、娯楽がなかろうが、テロリストに狙われようが、彼には関係なく、普段通りに振舞った。
「右手の事は、まあいいか。使わなきゃならない程の事もないと思うし。」
 念を入れての確認のために呟いてから右手への視線を逸らし、彼は早速それらを仕舞い込む。
 平静と変わらぬように独り言を話すという、彼の普段通りは今も例外ではない。たとえ今からとある不幸な事情で呪術師(じゅじゅつ)を一人殴りに行くところであるとしても変わらない。
 呪術(じゅじゅつ)
 そう、今から彼は呪術というオカルトの世界へ一人旅立つ。荒唐無稽かもしれないが、まぎれもない事実である。
 オカルトが普段通りであるという事まで含めて、彼の日常なのだから。
「それじゃ、とっとと終わらせて今日のバチカン旅行に備えますか。」
 気軽そうに言って、その青年は部屋の窓から飛ぶ。
 
 
 その、荒唐無稽に聞こえる呪術大戦がなされようとしている日本と同じ時間。
 既に日が落ちているバチカン市国の事である。そのバチカン宮殿内の廊下の一つを、せわしなく動く者がある。
 彼の名はVittorio Cassera。日本語で表記するならばビットリオ=カゼラ。十字教(じゅうじきょう)旧教(カトリック)の宗派の一つ、ローマ正教(せいきょう)の修道士の一人である。
 容姿は整えられており、しかし過度な装飾品は何も付けていない。バチカンでは平均的な身長に男性用の黒い修道服を身に(まと)っているだけである。
 そんな彼は今、普段はある筈の冷徹さと厳格さがない。理由はとても簡単だ。
 彼の(かくま)っているある人物が、自分に何も知らせずに部屋を抜け出し、あまつさえ世界最大宗教たる十字教の最大宗派であり自分も信仰している、信徒二十億人を誇るローマ正教の主席枢機卿の手を焼かせているからである。
 今もその顔をややしかめて歪ませている。
(全く、あいつはどうして言うことを聞かなかった!)
 彼は口からもため息のような苛立ちを覗かせる。
 彼の怒りはある意味ではもっともである。なぜならば、一つはその人物とは行動する際に彼に知らせる事を約束させていた事にある。つまり、今回はそれがなかったという事である。
 それに加えて彼が早朝からいなくなったその人物を探すために、バチカンだけでなくいろいろと回った事も関係している。バチカンどころか移動するためのある特別な方法を使い、外のテヌータ・デイ・マッシミ自然保護区やノメンターナ、カザール・デル・マルモ通りまで探しに行った。そのために彼は今日彼自身がしなければならない事をほぼ全て放り出し、約半日を費やした。
 彼の怒りも当然ではある。
(あの子のこれまでの行いは、子供としてはとても素晴らしく、主や神の子を敬い信じる人間として正しい振る舞いだったというのに! それがなぜ、こんなふうにかの……)
 ぴたりと足音が止まった。顔から若干苛立ちが消える。
 怒り。それは誰にでもある感情である。
 しかしその怒りによって彼はある言葉を思い出す。
(「しかし、わたしはあなたがたに言っておく。兄弟に対し腹を立てる者はだれでもさばきを受ける。兄弟に『ばか。』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者。』と言う者は、燃えるゲヘナに投げ込まれる。」)
 彼はマタイの福音書(ふくいんしょ)第五章二十一節に書かれてある、ナザレのイエス――つまり、十字教の『神の子』であり『主』とも呼ばれる者が言ったとされる言葉を思い出し、そして深く恥じる。
(主も怒りに囚われてはならないと(おっしゃ)った。それを実践しなければ、私は神と主を信じる資格などない。だというのにあの子に対してこのような怒りを抱くとは、なんと私の未熟な事か!)
 先程とは別の苛立ちが彼を包む。
 噛み潰しができない後悔の念が彼の中を渦巻き、そして大きくしていく。
 彼は敬虔(けいけん)なローマ正教徒である。かつて儀式を重んじ聖書の中身を軽視するなどと外部からは言われていたローマ正教だが、彼は違う。
 彼は当たり前に聖書も儀式も重んじている。それゆえに、彼は自身がかの者の教えを実践できない事を一層恥じている。
 しばらく後悔したのち、彼は完全に怒りを消せなかったが、悔い改めてから再び歩き出す。
 そうして特段時間をかける事なく、彼は主席枢機卿(すうききょう)マタイ=リースの部屋の前まで来る。バチカン市国住みになってから日が浅いものの、間取りは完璧に憶えている。彼は少しだけ騒がしいと感じるが、悩まずにその部屋の扉を四回叩いて許可を待つ。
「開いている。入ってきなさい。」
 許可はすぐに出た。年老いているが、はっきりとした声だった。
「失礼致します。」
 言って彼はかの部屋に入る。
「マタイ=リース主席枢機卿、私が個人的に匿っている者を保護していただき、ありがとうござ……。」
「ボクは、そうだなあー、今は可愛い可愛いお嫁さんが作った夕飯が食べたいなあ。」
「……います。」
 目に入ってきたその光景を見た彼は絶句し、しかしどうにか言葉を繋いだ。いささか残っていた筈の先程の怒りは吹き飛んでどこにも見受けられない。
 まず彼の目線の先には、あまり装飾が(きら)びやかでない服装と、それに(まさ)るだけの何かが(にじ)み出ている老人物がいる。
 ローマ正教の現主席枢機卿、マタイ=リースである。彫の深い顔立ちや短く蓄えられた白いひげを持ち、普段は厳格という言葉そのものといった表情を見せる人物である。
 またマタイ=リースと同じように飾り気のない内装の部屋にはもう一人の人物がいる。
 白い無地のワンピースとそこから十字架を下げているブローチで前を()めた、袖のない上着を着た少女が椅子に座っている。子供特有の幼い顔立ちながら、将来は美人になると想起させる。
 この少女こそ、彼が匿っている人物である。
 しかし、そこからが問題である。
 ローマ正教の主席枢機卿ともあろうマタイ=リースが、その少女と人形遊びをしていたからである。部屋の中央あたりに黄色い布のシートが敷かれ、そこにカエルの人形やままごと専用の椅子、食卓が並べられている。
 かの少女はローマ正教現主席枢機卿にままごとを、しかも台詞まで言わせて一緒に遊んで貰っていたという事だ。
(どういう事だこれは!? あの次期ローマ教皇に(もっと)も近いとされており、信徒達からの支持も絶大なマタイ=リース主席枢機卿が、何を!? お、落ち着け。落ち着くのだ!)
 彼の思考回路は焼き切れる寸前である。生真面目ゆえに雲上人のような人にこんな事をさせてしまっては慌てようというものである。
 人形といっても日本製のカエルのキャラクター達(ビットリオ=カゼラはそのキャラクター達の名前を知らない。)であったため、彼は特にそれを咎めるという発想をしない。いや、そもそもできない。
 そのまま動悸と息切れを激しくしたまま硬直するという大道芸をしてしまった彼を見たマタイ=リースは、何を勘違いしたのか見当が違う言葉をかける。
「カゼラ、そう(かしこ)まらなくてもよい。この少女も主の教えを知った者なのだ、助けるのは当然だよ。それに、異教徒であっても異端の教えを信ずる者であっても、救いを求めているならば、我々は救うべきではないか?」
 実に穏やかに言葉をかけられた彼は硬直など忘れ、より一層の人間性の差を感じた。それでも(よど)まずに返事をし、失礼のないようにする。
「はい、仰る通りです。主の教えを守る者として、私もそうあるように生きたいと思っております。」
 彼は自分を決して清く正しい人間だとは考えていない。彼は神や主の教えや言葉を実践しているが、しかし同時に日々の中で感じる自分の内面を恥じている。
 事実、先程まで彼はそこにいる少女のために一日を棒に振った事で怒っていた。しかし目の前の老人の男性はずっとその少女と共にいて、あまつさえ少女に合わせて人形遊びに文句一つ言わずに付き合っていたのだ。
(考えるに、なんと私の器の小さい事か。主よ、お(ゆる)しください。あなたの信徒は未だ他者に怒りを覚える愚か者なのです。)
 彼は心の中で再び主に赦しをこいた。
 すると、少女が人形を片付けを終えて彼に寄って来る。少女は彼に対して笑顔を向ける。その笑顔には誰かに遊んでもらった事への嬉しさが溢れている。
 彼は少女を見つめ、出会った日の事を思い出す。
 
 
 ビットリオ=カゼラが少女を拾った時はつい最近の事である。イタリアのある一都市にある、街道の清潔でないはずれに、少女はいた。
 その日彼がイタリアに向かった理由は、先月起きたある人物とオカルトを信じている人身売買の商人による事件の調査だった。オカルトといってもローマ正教とは程遠い邪教の類であり、彼自身最も嫌う物の一つである。
 そんな中、彼はそのひどく怯えた少女と出会った。
 出会ってすぐに少女に手を差し伸べるべきだと直感した。それは十字教徒としてでもあったが、それ以上に彼のどこかが彼自身に訴えかけてきた。
 当初少女は言葉も分からなかったらしく、助けようとしても逃げてしまった。しかし元々疲労していたせいで数歩もしない内に転んでけがをしてしまった。その傷を診てやった事で少しだけ彼に心を開いたらしい。
 その後、怯える少女にパンを与えたり普段は飲まないような子供向けのジュースを買ってやったりもした事で、彼に完全に心を開いた。
 問題はその後の処遇であった。彼には(なつ)いたが彼以外には全く懐かなかったため、ローマ正教が運営と管理を行っている教会に預けられなかった。もちろん正規の(結論としてはあまり彼がいるローマ正教の部署と関わりのない)孤児院に預けようともしたし、彼も少女の両親探しに尽力したが、全くだめであった。
 また少女は常に彼の傍についていこうともしたため、彼自身の負担にもなっている。
 結局少女の処遇は一時的に彼が預かる事になった。そこで喋れないながらも多少の意思疎通が可能になった少女と彼の部屋からあまり出ないよう、出ても(サン)ピエトロ大聖堂をうろつくのではなく、また移動するにしても空腹や用を足すときなどに限定するように約束した。
 
 
 しかし、少女は今回その約束を破った。確かにビットリオ=カゼラは少女とあまり一緒に居てやる事はなかったが、それでも約束を破る事を看過する気にはならない。
(そう、約束を破った事をちゃんと怒るべきだ……しかし、それでいいのか?)
 彼は本来ならば少女の勝手な振る舞いを怒るべきだと思いつつも、彼は悩んでいるままである。怒りという感情に流されてしまうような自分、それを反省したばかりだというのに、また怒りに囚われる事を良しとはしたくない。彼は少女を見ているようで、まるで違う事に悩んでいる。
 そこに、老人のはっきりとした声が彼の耳に届く。
「カゼラ、怒る事と叱る事は違うぞ。」
「は?」
 しかしいきなり声をかけられたため、彼は不躾な言葉を発してしまった。すぐにそれを恥じて謝ろうと思うが、マタイ=リースはそれよりも早く言葉を繋ぐ。
「叱る事は想いやる事だ。誰かへの愛からくる、相手への想いやって諌める事こそが叱るという事だ。
 決して、ただ日々の鬱憤(うっぷん)のはけ口として相手に怒りをぶつける事とは同じではない。怒りに囚われるのではなく、想いやりでもって諌めるのだ。」
 マタイ=リースは穏やかな目を(たた)えて、彼を真っ直ぐに見つめている。
「叱ると、怒る……。」
 彼は噛み締めるように反芻(はんすう)する。
 彼は今までは怒る事も叱る事も同じだと思っていた。だが、そう言われて改めて意味を考える。
「かつては主もまた、怒りを(あら)わにした事もある。しかしそれは、人々を救う事を妨げる事に対する怒り、つまり叱りだったのだ。」
 反芻し考える彼にマタイ=リースはかすかに微笑みながら肯定した。
 彼は少女を見やる。少女は不思議そうに彼の顔を覗き込んている。
 最初に出会った頃よりも余裕があり、服も汚ればかりではない。間違いなく少女は幸せだろう。もしかすると、約束破りもそういった人並みの余裕や幸せがもたらしてしまったのかもしれない。
 少女の思考など結局彼には分からない。それでも自分が何を考えているかは分かった彼は少女の目線まで(かが)む。
「もう、私に無断で抜け出すな。約束を破るのは神様を信じない者だけだ。お前はもう主の愛を知っているのだから、そのような事はするな。」
 彼は強い口調で叱った。真剣な面持ちで少女の目を捕えると、その目は申し訳なさそうな色を出している。
「反省できたか?」
 少女は申し訳なさそうにしながらも、こくりと頷いた。
 彼は少しだけ顔の緊張を解いて話す。
「よし、お前はもう悔い改めた。主もきっとお赦しになられるだろう。」
「そうだな、主は慈悲深い。君がちゃんと正しい行いをし続ければ、『神聖の国(天国)』へも行けるはずだ。」
 彼は笑って赦し、マタイ=リースもそれに同調した。
 少女もそれを理解してまた笑顔になる。自然とその場の雰囲気は穏やかで温かいものになる。
 その中で、マタイ=リースは一言。
「ところで、カゼラよ。」
 マタイ=リースはその言葉と一緒に彼に向き直り、彼も何事かとマタイ=リースの方を向く。
「この子が見つかったのはバチカンを離れた自然保護区域の一つだという事は知っているか?」
「いえ、それは初耳です。」
 すっかり失念していた事を聞かされて彼は素直に答えた。それを聞いてマタイ=リースは少しだけ顎と目線を引いて、それからもう一度ビットリオ=カゼラに顔をしっかりと向ける。
「そうか。まあ、この子は悔い改めようと努力すると決めたのだから、あまり蒸し返したくはない。だが憶えておいてくれ。」
 彼は頷く事で一旦の返答をする。そこに少女が服を引っ張る。両腕を上げているところから、彼は抱っこを所望してきている事が分かる。
 彼は少女の要望に応えて抱きかかえて立ち上がる。
「はい。それでは、私とこの者は自室に戻ります。ありがとうございました。」
 抱きかかえられた少女も何かを口にするが、それはかすれさえしなかった。彼はまだある事をマタイ=リースに説明していなかった事を思い出し、すぐに少女を弁明する。
「この子はどうやら喋れないようです。決してふざけてはいません。どうか……。」
「よい、私も遊んでいた時に知っている。そのような事で怒りも叱りもせん。」
 言うと同時に、マタイ=リースは遊んでいた時の人形を彼に渡した。彼も少女を抱きかかえていない方の腕でそれを受け取る。
「その事については本当にありがとうございました。何分、私にもしなければならない事がありまして。」
 申し訳なさそうに言う彼に対し、マタイ=リースは態度を変えずに返す。
「なに、私は年甲斐もなくその子と遊んでいたにすぎない。できる事なら、また遊んでほしいくらいだ。」
 マタイ=リースは笑って答え、少女もそう言われて笑顔になる。
 つられて、ビットリオ=カゼラにも笑みがこぼれる。
(やはり、マタイ=リース主席枢機卿は素晴らしい方だ。私も未熟で視野の狭い部分をなんとかしなくてはな。)
 少女とマタイ=リースが手を振り合う中、彼はもう一度返礼してその部屋を退出した。
 
 
 バチカンより離れた暗い場所。そこからバチカン周辺をぎろりと見回す目がある。
「……。」
 ほんの少しの間それは歪んだが、また元に戻る。
 それは何も言葉を発さずに、息を(ひそ)めて彼の者を待つ。



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