第四章 憤怒と愛情のぶつけ合い Esecuzione_della_Lume.


     1

 夕暮れ時のローマ。
 広い石造りの空間の中で、ぶちりとパンを千切る男がいる。
 その緑色の男はTerra della Sinistra。日本語で表記すれば左方のテッラ。
 ローマ正教の最深部にある暗部、『神の右席』にいるローマ正教徒である。白人にしては身長が低く顔の頬は削れているように見え、老け顔だが年齢は二十前後に見える。目はトカゲのように鋭く陰険そうで、全身を緑色の礼服で着飾っている。(えり)巻きのような首元の服の部分はある意味で笑いが込み上げてきそうで、逆立った薄い緑色の髪の毛は意外と柔らかい。襟巻きには左方のテッラの身長程もある長い羽根のような物が何本もぶら下がっている。
 彼は小さな緑色の椅子に座っており、それに見合う小さな緑色の机には開けられて半分程度がなくなっている葡萄酒やまだ手の付けられていないパンが置いてある。
 彼は今しがた千切ったパンの切れ端を喉に押し込むと、(かたわ)らにいる縛られた少女に話しかける。
「これはこれは、良かったですねー。あなたのような異教徒でも助けに来てくれる者はいたようですよ?」
 その言葉に、縄に縛られている少女の視線が部屋の入口に注がれる。
 そこにいる者は二人。
 少女から見て右にいる一人はあの空港で少女が出会った黒髪の青年。あの時殺されたのかと思いきや、変わらぬ黒いパーカーと青いズボンである。あの小麦粉の刃による血糊(ちのり)もない。
 そして左にいるもう一人。
 明かりがなくとも銀色に輝く鎧と紅蓮のマントで身を包み、細身の剣を携えた男性がいる。
 彼こそが、まさしく少女が望んだヒーロー。
「我らローマ正教が誇る一三騎士団のビットリオ=カゼラ、それから要注意と言われていた異教徒。なんとも豪勢(ごうせい)な救援じゃありませんか。異教徒は生き返ってまであなたを助けに来たようですねー。」
 電球やランプのような明かりもないのに、左方のテッラの下卑(げび)た笑みはビットリオ=カゼラ達にも見える。
 侵入してきた二人のうち、まずビットリオ=カゼラが話す。
「左方のテッラ、で良いのか?」
 その名前を名乗っている本人は特に驚いた様子もなく手と手を叩き合わせ拍手する。
「おおー、私の名前まで知っていて下さったとはありがたい。
 その通り。私が神の右席の左と『神の薬(ラファエル)』を司る者、左方のテッラです。」
 (うやうや)しい作法でその男――左方のテッラは名乗った。
 ビットリオ=カゼラは手に持った剣をより一層強く力を込める。
 そこで手のひらを彼に向け、上条当麻が一歩前に出る。オーレンツ=トライスの時と全く同じである。
「ローマ方言で良いかな、テッラさん?」
「ええ、どうぞ。何なら私が日本語に合わせましょうかねー?」
 上条当麻と左方のテッラ、二人の人外は余裕と余裕をぶつけ合う。ビットリオ=カゼラの鎧の下に、早くも汗が出始める。上条当麻と左方のテッラという二人の特異な人間のぶつかり合いは、牽制し合いでも周りに威圧感を与える。
「いやいや、それには及ばないよ。にしても、ここはイタリアに多く存在する古代ローマ時代の遺跡か何かか? よくこんなところ見つけて拠点にしたもんだ。ローマ正教はホントにいろんな場所にいるぜ。」
「そういうあなた達はあなた達で使徒十字(クローチェディピエトロ)の効果で天使の力(テレズマ)による高速移動術式でも使ったんじゃないですか? ここはフィウミチーノ空港からは結構離れていますからねー、移動手段としては妥当なところかと思いますが。」
 二人の人外は睨み合う。
 使徒十字(クローチェディピエトロ)と言われて、ビットリオ=カゼラには理解できない。高速移動の術式に関係する事のようだが、あるいはローマ正教の暗部に深く関わる事かもしれないと勝手に片づける。
「いろいろとあるんだよ、いろいろと。
 で、だ。お前が攫った女の子は見たところ外傷はないみたいだし、こんな辺鄙(へんぴ)っちゃあ辺鄙な場所で待ってくれてもいたんだ、意味もなくいるわけじゃないだろ。
 もしかして交渉の余地ぐらいはあると思って俺達を待っていたんじゃないか?」
「邪教の徒と交渉する気はない。」
 即断だった。
 左方のテッラは超然として上条当麻に否を叩きつけたという事である。
「なら、カゼラに頼むか。」
 しかし上条当麻もそれに堪えた様子もなくビットリオ=カゼラに託す。
 横目でビットリオ=カゼラの顔を見る表情で、ビットリオ=カゼラはその意図を理解する。
(私の激昂を落ち着かせ、本来の目的を忘れさせないため、か。)
 ビットリオ=カゼラは新品同前のように修復された鎧の中で怒りを鎮める。アロンダイトを握り締める力は変えず、想いを変える。
 彼がここに来た理由。
「その子を解放しろ。」
 それは少女を救う事。彼はそのためにここまで来たのだ。
「嫌だ、と言ったら?」
 当然のように左方のテッラは返す。そもそも何の利益もなしに攫った人間を解放する事はあり得ない。今の言葉はただの念押しである。
 その念押しが予想された通りに無意味になって、ビットリオ=カゼラは対峙した時よりもある程度落ち着きを取り戻していく。
「交渉の余地がないわけではないはずだ。カミジョウ。」
 言われ、上条当麻は黒い穴の空間を作り、そこからから丸められた大きな白い紙を取り出す。
 左方のテッラは目を細める。
「邪教の徒とは交渉する気がないと言った筈ですが。」
「あくまでも私が貴様と交渉している。カミジョウはただの付添(つきそ)いのようなものだ。」
 兜で隠された顔は左方のテッラから窺い知る事はできない。ビットリオ=カゼラはこういった事に慣れていないが、それでも兜で顔が隠れているという事がかなり有利だという事を理解している。腹芸はできずともそもそも腹積もりも顔色もさらけ出さなければいい。
「テッラ、貴様がもしも交渉に応じてくれるならば、これをくれてやる。」
 上条当麻は縦にその大きな紙を開く。
「それは……っ!?」
 トカゲのような目を大きく開く左方のテッラに条当麻が答える。

「四大天使の一体、神の如き者(ミカエル)の肉体構造を描いた図だ。」

 ビットリオ=カゼラにも、少女にも、あるいは左方のテッラでさえ完全にはその価値を理解できないかもしれない。しかしそれは逆にそれ程までに価値のある図であるという反証でもある。
 そこに描かれていた者、それは天使の構造だ。
 詳細に至るまで天使神の如き者(ミカエル)神の祝福(ゴッドブレス)の配置や濃度といった部分が赤色で鮮明に描かれている。人間にある程度近いような形で描かれており、至るところに注意書きのような物が暗号文で書かれてもいる。他には神の如き者(ミカエル)が持つという剣まで横に描かれており、それだけでも見る者が見れば金をどれ程出しても惜しくないと思わせる物である。
「ちゃんと本人から誰かに見せてもいいっていう許可は取ってあるからな。」
 そんな誰も思っていないような事を、上条当麻は補足した。
「カミジョウ曰く本物だそうだ。入手した経緯(けいい)は話せないらしいが、天使化を進めている貴様には分かるだろう?」
 そう、言ってしまえばこれは出鱈目(でたらめ)としか思えない物品である。誰も天使の解剖をした事がないにもかかわらず、上条当麻はこれがその天使の肉体構造を描いた詳細図だと主張している。ローマ正教徒であろうとなかろうと普通の者ならば一笑して終わりだろうし、天使の人間の如き姿形は人間がそういう形を押し付けているだけにすぎないという定説も存在する。本物であるならばその価値は計り知れないが、一方で測れる者が限られ過ぎている。
 だが、普通の者でなければ。
 十字教の神の右に座しようとする者ならば話は違う。特に、自身の肉体を天使にさせようとしているような人間には。
 計り知れない物を測る事ができ、ゆえにどれ程の財宝と引き換えであろうとも手に入れたい物なのである。
「……くくく。ハハハハハッ!」
 案の定、左方のテッラが声を高くして、この部屋を明るくする不思議な光に照らされ喜んだ。
「そうかそうかそうですか! そんな物まで手土産に持ってきてくれましたか! ありがたい事です。
 では、殺した後に奪いましょう。うん、それがいいですねー。」
 その場にいた左方のテッラ以外の三人が沈黙する。
 彼らはまだ認識が甘かったという事を思い知らされる。敵がどのような者なのか、知らずに今この場にいる愚を後悔する。
 敵はオーレンツ=トライスを簡単に殺し、またビットリオ=カゼラと上条当麻を瞬時に戦闘不能にさせた、神の右席の一人。神と同等になるために、肉体を天使に近いところまで改造するような者。
 左方のテッラなのだ。
「ああ、異教徒、お前の薄汚い血でその図を汚さないでくださいよ。我々神の右席が目的に到達するための貴重な資料です。私としてはそれ以上に個人的な関心を寄せてしまいますがねー。」
「それが、答えか。神の右に座るなどという不遜な考えに囚われる事が、正しいとでも言うのか!?」
 怒りよりも驚きでもってビットリオ=カゼラは問いかける。
「主は、助けるべき人間を限定なされなかった! 主より十字教の行く末を託された(サン)ピエトロとて、そんな事は一度たりとも語りも手紙に書きもなされていない!
 だというのに、貴様はカミジョウを殺すと!? 心無い傭兵のように、死者から物を奪うと言うのか!!」
「ええ、そうですよ。」
 当たり前の事を、当たり前のように語っている。左方のテッラの言葉は終始そういう態度である。
「何か勘違いをしているようですが、私は心無いごろつきの真似をしようとしているわけではありません。そもそも最初から神聖の国へ行く事もできない異教徒共ならば、しかるべき処置を与えてやらねばならないという事です。そこの異教徒は生き返りの如く傷を全治させてここへ来たようですが、それはただの汚らわしい異教の魔術によるものと推測できます。
 それに、日々生きるため家畜の命を奪う事に、そこまで私達は躊躇(ためら)いや戸惑いを感じているわけでもないでしょう?」
 薄く、(よこしま)な笑いが後に続く。
 左方のテッラは平然と、自身の正しさを説いた。自身に陶酔しているわけでも、熱狂的に弁舌を振るったわけでもない。
 ただただ、当たり前を語った。
(こいつは。)
 ビットリオ=カゼラは確信する。
(こいつは、間違っている。それだけで、神や主は神聖の国に行ける人をお選びになりはしない。)
 神聖の国。神が作るとされ、死後善人のみが行けると言われている幸福の国。悪人の場合は煉獄(れんごく)で罪を償うか、地獄で永遠に苦しむとされている。その国に行くためには、確かに十字教徒であるべきだろう。
 しかし、ビットリオ=カゼラはどうしてもそれだけが重要だとは思えない。それはこれまでは漠然とした考えでしかなかったが、ビットリオ=カゼラの頭の中で急激に鮮明に想像されていく。
 例えて考えれば、簡単な話である。
 上条当麻という人間がいる。異教徒であり、魔術師でもある日本人だ。しかも神の恩恵や主の愛を知る機会があり、実際に知っているにもかかわらず、上条当麻はローマ正教に改宗する気配を微塵(みじん)も感じさせない。
 ならば、そんな上条当麻は煉獄や地獄に送られねばならないのか。ローマ正教徒でないだけで、神は無慈悲にも審判を下すのか。
 そんな筈はないと、ビットリオ=カゼラは信じている。
 上条当麻はその力を誰かを傷つけるのではなく助けるため、守るために使っている。現にビットリオ=カゼラは上条当麻に助けられた。
 その体験から上条当麻は絶対に悪人ではないと、ビットリオ=カゼラは心から信じている。
 もっと広くいうならば、未だに文明と接触しておらず、原始的あるいは民族的な生活をしている部族も世界にはまだ存在する。その部族の者達はローマ正教どころか十字教の存在すら知らない者達ばかりで、十字教に触れる事があったとしてもすぐさま入信するわけではないと予測できる。
 それでも、正しい心を持った者はいるだろう。罪を犯す事なく、誰かに親切にしてきたような者もまた、その部族にいるだろう。
 ならばその者達は、善人であるのにもかかわらず神聖の国へ行けないのだろうか。十字教を知らず、その神や主とされる者の愛を知らないというだけで、地獄に堕ちねばならないのだろうか。
 ビットリオ=カゼラはこれもまた、全くそう思わない。神は全知全能である。その文明と接触していない部族の人間一人一人を知っておられる筈である。その者達の中から善人を見つけ出して神聖の国へと導く事もまた容易い事だ。
 ユダヤ教のような選民思想ではなく、本当に全ての者に平等な救いの機会がある。それがフィウミチーノ空港で陥った醜い心境を脱して得られたものによる、ビットリオ=カゼラの考えるローマ正教である。
 もしかするとその考えは甘いかもしれない。ただの空想でしかなく、文明と出会っていない部族の中に善人が一人もいない可能性もある。上条当麻とて、その全てが演技による騙しかもしれない。絶対はこの世になく、神が住まうとされている天界(てんかい)にしかないのだから。
 それでもビットリオ=カゼラは今だからこそ信じる。ビットリオ=カゼラの信じる神は、決して狭量(きょうりょう)な神ではないと。主は、寛容であるからこそ教えを広め、皆を救おうとなされたのだと。聖霊もまた、そういった性質を持つがゆえに世界に満ちて救いを与えてくれるのだと。
 隣の東洋人の魔術師と、そして囚われの少女がいてくれたからこそ辿り着けた結論だ。
 鎧の中で新たに得たその想いを研ぎ澄ませて、また新たに覚悟する。十字教徒として、ローマ正教一三騎士団の一人として、そして今度は人としても。
「もう一度だけ言う。その子を解放しろ。」
 左方のテッラを止め、少女を救い出す事を。
「嫌だ、と言ったら?」
 同じ事の繰り返しにしかならなかった。トカゲのようなその目は、笑いもせずに真剣に否を突き付けている。
 ならば、ビットリオ=カゼラの行うべき事は一つ。
「力ずくでも構わない。その間違いを正す気がないなら、貴様を倒して正させてやる。」
 鎧の中からの言葉は、それでも左方のテッラに明瞭に届く。
 その結論は。
「あなた程の敬虔なローマ正教徒の言葉ですからねー、ご意向に沿いたいところですが。しかし、できるのなら、と言っておきましょうかねー。神の右席を舐めないでいただきたい。」
 左方のテッラから余裕の笑みがこぼれる。足元にいる少女という人質がいるからだろう。
 少女を助けるための策を練り出すビットリオ=カゼラに、それまで口を一旦閉ざしていた上条当麻が声をかける。
「結局戦う羽目になったか。まあこうなるとは思ってた。」
「すまんな、私に交渉事は向かないようだ。」
「いいっていいって。どっちに転んだところで、あいつは一発ぶん殴ってやりたかったしな。」
 敵は一人、左方のテッラ。
 味方は一人、上条当麻。
 人質は一人、少女。
 それだけを頭の中で明確にして、ビットリオ=カゼラは自身のアロンダイトを構える。
 上条当麻もそれに続いてズボンのポケットから粘り気の強い聖水や白い羽を取り出す。
 対する左方のテッラは直立不動。
 そしてビットリオ=カゼラが助けるべき少女は床に転がされたまま三者を見つめている。
 緊張感は高まり、この部屋そのものが今か今かと開戦を待ちわびているようかのようである。冷たい空気を媒介として充満した敵意と殺意がぶつかり合い、せめぎ合う。
 それを一閃。
 上条当麻が七色に光る羽を左方のテッラに放つ。
 それが合図となる。

     2

 左方のテッラは首から下げている細い縄を大きく揺らしながら横へ()れる。少女から離れるように、右へ。光の羽はむなしくも左方のテッラの脇を通過してしまう。
(よし、作戦通りあの子からテッラを引き離せた。)
 しかしそうなるようにわざと上条当麻は甘く投げた。左方のテッラが足元の少女から離れるように、また攻撃を避けられるようにする事で、ビットリオ=カゼラが少女を奪還するための間を作り出したという事だった。
 ビットリオ=カゼラはその間に少女の元へ走る。高速移動術式を使わない理由はただ一つ。まだフィウミチーノ空港での疲労が完全に回復しきっていないためである。
(それにこんな場面で奇跡を再現させて頂いても意味はない。有意義にやらせて貰わねばな!)
 一方、七色に光る羽は左方のテッラの後ろにあった石壁に当たり爆発を起こす。無論左方のテッラとて戦いの一流には間違いなく、その程度の爆発音だけで隙を見せるわけではない。
 左方のテッラは変に油っぽい聖水片手に向かってくる上条当麻を迎撃するべく緑の礼服のポケットからある袋を取り出す。それは十字の刻まれた緑色の袋。左方のテッラは躊躇なく袋の口を開けて、中身の小麦粉を振り撒く。
「優先する。―――人体を下位に、刃の動きを上位に。」
 まとまりもなく浮遊していた小麦粉の粉が、一瞬にしてギロチンのような平らで白く鋭い刃に変わる。その白いギロチンは長方形のような形ではない。刃となっている一辺が斜めになっている、台形のような形である。
 左方のテッラは勝ちが確定しているような、焦りのない腕の動きでギロチンを動かす。腕を前に突き出し、突撃命令をギロチンに下したという事だった。白いギロチンはその小麦粉で軌道を描くように後ろに撒いている。今は一直線に敵である上条当麻を殺しにかかっている。
「へえ、実際に見るといろいろ興味が沸くな!」
 上条当麻もまた慌てずに土属性の象徴たる小さく黄色い円盤をポケットから取り出し、ちょうど左方のテッラが円盤の回転を見られるような向きで回す。手品のようでいて、その実手品より厄介なタネがある手品である。
 しかし、上条当麻はここで大きく顔中にしわを作る。一泊遅れて上条当麻の足元にある石床から分厚い石の壁がせり上がってくる。
 名工により鍛え上げられた剣よりも鋭い刃は急に進行方向に現れた石壁にぶつかり、小麦粉として四散する。
 その隙に上条当麻は逃げをとろうとする。彼の最優先目的は少女の救出である。無意味に争う必要はない。
 上条当麻は円盤を取って行こうとして、そして上を向かざるをえなくなる。
 そこに、白く鋭い刃のギロチンがあったから。
「ぐ、おおおっ!」
 上条当麻は肉体を大きく捻り回転して円盤を取りつつ、ぎりぎり刃の攻撃から身を守る。ただし守りきる事はできずに左肩に大きな切り傷をつけられた。
 傷をつけたギロチンは石床に当たりまた四散する。上条当麻は逃げを一旦捨てて素早く石壁に何かを書き込む。書き込むと言っても、片手に持っていたべとべととする聖水を黄色く変え、そこに指を浸けて筆代わりにして石壁に書いただけ。
 カバラの基本、形成の書に書かれた言葉を。
 敵対者である左方のテッラは石壁で上条当麻がどうなったのか完全に把握できないながらも、左手で下から上へと誘導するような動作を作る。
 そうして石壁の向こう側に再び形成されたギロチンと共に現れた物体は、石と泥でできた人型の何かである。
「何?」
 左方のテッラも知っている物である。十字教の前身とも表現できるような宗教、ユダヤ教のカバラにある知識から生み出された存在。人間が神を真似て土から作った人間もどき。
 ゴーレムである。
 等身大のゴーレムは目や口、耳といった人間の表面にあるべき器官がない。基礎に石でもって大体の形を作り、泥や土で肉付けしている。ゴーレムはゆったりのっそりと石壁から這い出てきて、冷たい空気の中にわずかな泥臭い匂いが混ざる。
 目がないゴーレムはそれにもかかわらず、左方のテッラを認識したならば脇目も振れず左方のテッラに突進する。
 重量を計測すれば、少なくとも真正面から当たってしまえば人間一人は確実に殺せるな速度で左方のテッラに向かっていくゴーレム。左方のテッラの鼻に土の匂いがより強く感じられていく。
「チッ。
 優先する。―――土くれを下位に、刃の動きを上位に。」
 緑一色の服から同じく緑一色の小麦粉の袋を取り出し、散布する。即座に鋭いギロチンができ上がり、常人には反応できない速さでゴーレムを難なく切り裂く。
 それはある意味では悪手であった。
「おや、彼らはどこへ?」
 いつの間にか上条当麻の影は左方のテッラの視界からなくなっている。視線の先を滑るように変えて補足する。
「はあ、どうにか、はあ、逃げおお、はあ、せたか。」
 上条当麻は既に左方のテッラ近くにはおらず、石部屋唯一の扉近くにいるからである。そして、もちろん施術鎧で身を包んでいるビットリオ=カゼラや縛られたまま担がれている少女も。
「はあ、はあ、ちくしょう。カバラやら小アルカナやら使っちまったじゃねえか。元からこの変化霊装使っているけど、やっぱり十字教縛りじゃ戦えない。流石に神の右席は一味も二味も違いやがりますよ。」
「十字教の術式縛りに意味はあるのか? ともかく、これで勝ちだ。」
 左方のテッラはビットリオ=カゼラの手に一枚のカードがある事を理解する。それは小アルカナの短剣が描かれた一のカード。魔術としての効果は魔術師をそのカードがある場所まで戻るというもの。
 上条当麻は左方のテッラにゴーレムをぶつけている間に早めに逃げおおせたという事だった。
「じゃあな、後でまた会いに来るから。まだぶん殴ってないし。」
 言って、上条当麻はあの術式を使う。そう、あくまで彼らの目的は少女の救出。敵前逃亡は恥じるどころか当然である。左方のテッラを殴り倒して驕りを正す事はまた後程やれば良い。
「俺達にヤハウェの奇跡を!」
 数秒後、音もなく彼ら三人は。
 消えない。何の変化もない。
 これもまた悪手であった。
 ビットリオ=カゼラや少女は不審に思って上条当麻を見る。
「これは……。」
 驚く上条当麻に、左方のテッラは再び余裕の笑みを浮かべる。
「あなたはただの馬鹿ですか? 空間と空間を繋ぐ魔術を使う異教徒に、妨害を仕掛けていないとでも?」
「妨害だと。ならなんで神の如き者(ミカエル)の図形を出した時には働かなかったんだ!? まさか十字教関連のみに対してのものなのか!?」
 上条当麻は必死に他の空間移動の術式を試してみるが、人間を通さない。焦る三人に対し悠然と左方のテッラは宣告する。
「答えませんよ、そんな事。あえて言うなら、敬愛する神は私に味方してくれているという事でしょう。」
 左方のテッラはゴーレムを切った分と上条当麻の作り出した石壁の向こうにある分に、もう一度指示する。
「優先する。―――人体を下位に、刃の動きを上位に。」
 一撃必殺の白く鋭い刃が彼らを狙う。
「くそ!」
 ビフロストでも空間移動できない事を確かめた上条当麻は、努めて冷静に短剣を投げつけて相殺を狙う。が、短剣はギロチンによってそれぞれ綺麗に真っ二つにされる。
 上条当麻は先程の聖水の瓶をビットリオ=カゼラに渡して、回避行動をとるべく二人は離れるように横に逸れるが、左方のテッラが両腕を開くような動作で指揮を出し、一枚ずつ二人のヒーローを襲う。
「ふんっ!」
 ビットリオ=カゼラは掛け声と共に力強さと速さを兼ね備えたアロンダイトの一振りを放った。
 しかし突然ギロチンが上方へ直角に曲がり、アロンダイトの攻撃は空しく空気を切るのみ。指揮棒を振るうかのように左方のテッラが白いギロチンを操り、その軌道を大きく変えたからである。
 術者である左方のテッラを直接叩けば小麦粉の刃の攻撃は止むが、狙う前にビットリオ=カゼラの方が倒される事は明白である。鋭いギロチンと踊りつつ、打開策を探るしか方法はない。
 そのギロチンはビットリオ=カゼラの側面に回り、かと思えば石床を滑るように彼の足元を滑る。蹴ろうとすれば少しだけ後退して避けて、それからまた彼を狙う。アロンダイトで防御を取ろうにも、そもそも懐に入って来てはなぜか攻撃せずに下がっていく。時折当たったと思っても、尾のように伸びているギロチンの延線でしかない。
(この、小回りが利くな!)
 ビットリオ=カゼラは苛立ちアロンダイトを振るう中で、冷静にギロチンの動きを分析する。
 アロンダイトを避ける時は上下どちらかに直角に曲がる。
 足での蹴りは七センチメートル程後退する。
 術式を組もうとすると即座に眼前に躍り出る。
 それらを理解して、ビットリオ=カゼラはまたギロチンを狙ってアロンダイトを横に一振りする。ギロチンをかすめる事もなく終わる。
「ふん!」
 冷静さを感じさせないやり方で、何度も何度も振るう。
 分析した通りにそれは当たらず、ギロチンは下へ直角に曲がって――突然、形状を壊させる。堅い壁に当たって砕けたように、ギロチンはまとまっていない元の小麦粉に戻ってしまった。驚く少女の視界で、ビットリオ=カゼラは言う。
「よし! これで大丈夫だ。」
 仕掛けた事は単純で、ギロチンの動きを計算して通り道に空気の壁を作っていただけである。ヨハネ黙示録に出てくる、四体の天使が四方の風を抑えるという伝承(といっても未来のできごととされている。)を空気の壁を作って止めたというふうに解釈して再現したものである。
(狙い通りに引っかかったな。)
 苛立っていた事自体は演技ではなかったが、腹芸ができないからこそあえて感情をアロンダイトに乗せた。彼は空気を圧縮し極薄の壁を作るためにアロンダイトを振って調節していただけ。それに気付かずギロチンを操っていた左方のテッラは一言も話さない。
 ビットリオ=カゼラはそれで一安心して、また不安が生まれる。
 刃たるギロチンが、瞬く間に集束し形状を再生して目の前に現れたからである。左方のテッラが使う正体不明の術式は破っていなかった。
 ビットリオ=カゼラは見ている物に戦慄を覚え、同時に抱えられていた少女がその身を震わす。
(――ならば!)
 彼は自身の至らなさを呪うよりも決死の覚悟を決めて女を赤いマントの後ろに隠し、自身を盾にする。
 死ぬ事は怖くない。結局死体は残るから、最後の審判で生き返り神聖の国へ行く事もできる。
 だが、上条当麻が左方のテッラを相手にして生きて帰れるのか、マタイ=リース主席枢機卿はどう思うだろうか、そして少女が悲しまないか、そういった事が頭に浮かんでしまう。
 たとえ鎧越しに目と鼻の先までギロチンが来ていたとしても、それは変わらない。
 少女が何かを訴えようとしても、それを無視して。
 ギロチンが、当たる。
 音らしい音もなくギロチンは砕ける。銀色の鎧に小麦粉がこびりつく事もない。
 はっとして少女の方を向くが、少女にも全く傷がない。少量の小麦粉に撫でられはしたが、それだけだった。
(どういう、事だ?)
 左方のテッラが使う術式に何かある事は間違いない。しかしそれを推測するだけの材料が足らないように思えてしまい、思考がそこで停止してしまう。
 それこそが左方のテッラの狙い。
「ぐ、うっ……!」
 上条当麻の苦痛の声だった。同時に、大人一人が倒れるような音も聞こえた。
「カミジョウ!」
 ビットリオ=カゼラが振り向けば、すでに上条当麻は傷ついて転がっている。
 右頬が(えぐ)られ、左足首を切断が見え、わき腹に深い傷、右腕が半ばまで二つに裂かれている状態になっている。
 何より、ビットリオ=カゼラからはほんの少しだけしか見えない首筋の傷が危機感を(あお)る。
 小さい木の球や小アルカナのカード、小さな黄色い円盤、そして切り取られた小指と薬指が上条当麻の周りに散乱し、本人はその中でこけたように倒れている。石床には血が染み込まず、壊れた蛇口のように傷口からそれが流れて広がっていく。肉体はその節々に赤い線に見える大小さまざまな切り傷が付けられており、筋肉が切断され動けなくなっている部位も多い。まさしく息も絶え絶えの様態である。
 ビットリオ=カゼラは考える事をやめる。戦闘の相方となっている上条当麻は未だ空中で白い線を描いている複数の小さなギロチンに狙われているからである。無数の切り傷は、複数あるギロチンによるものだと理解する。
「ハハッ、要注意の異教徒もこんなものですか。他愛もない。」
 左方のテッラにはほんのわずかの間だけで事足りたという事である。ビットリオ=カゼラが上条当麻と離れ少しだけ注意を逸らせば、それだけで上条当麻を傷つける事が可能である。
 なぜなら、左方のテッラが用いる白く鋭い刃は小麦粉袋一つにつき一つしか作れないわけではないためだ。
「前提として小麦粉の体積や質量に縛られるわけではありませんからねー。それを見抜けなかったのがあなたの敗因でしょう。」
 そしてそれだけで左方のテッラは二人の敵を無力化できる。そびえ立つ左方のテッラはそっと腕を導くように操作し、左右から白いギロチンがビットリオ=カゼラを挟み込むようにして狙う。
 先程ビットリオ=カゼラを襲った大きなギロチンと、上条当麻を切り刻んだ複数の小さなギロチンが、獲物めがけて突進する。
「くっ!」
 標的にされたビットリオ=カゼラは鎧を光らせアロンダイトを光の輝きに染め上げる。これも神の祝福(ゴッドブレス)による神の如き者(ミカエル)の伝承の再現である。
 しかし。
「優先する。―――人体を下位に、(おり)堅牢(けんろう)さを上位に。」
 大小種類のギロチンはビットリオ=カゼラに当たる前にその形状を崩壊する。彼は黄金に輝く剣の使いどころがなくなり、またも次の反応が遅れる。
 反応できる頃には小麦粉が彼だけを閉じ込める白い檻に変化している。四方と上方を囲む、小麦粉の檻である。といっても、小麦粉の量からしてそこまで大きくはなく、身動きも取り辛い小さなものである。ビットリオ=カゼラはそれでも足りない部分を神の祝福(ゴッドブレス)で補っている事をすぐに感じ取って看破する。
 しかし、それを理解したところでどうにもできない。
「このっ!」
 この状況を打破しようとどうにか黄金に輝くアロンダイトで檻を叩くが、檻はびくともしない。何度叩いても小麦粉がわずかにこぼれ落ちるだけで、脱出できないという結果は同じである。
「さて、どうしましょうかねー。普通は不穏分子たる異教徒の排除ですが、料理の仕方というものを考えなくては。」
 嬉しそうでもなく、仕事をこなしているだけといった声色で左方のテッラは視線の先をビットリオ=カゼラに固定する。
 ビットリオ=カゼラは意味がないと分かっていて、なおも黄金のアロンダイトを振り続ける。
「やはりあなたから、でしょうかねー。そうやって術式を編まれても面倒です。」
 わずかに、ビットリオ=カゼラは動揺する。
「私は別にあなたの術式を見ていなかったわけではありませんよ。先程『光の処刑』をどうにかするためにその剣を振って術式を編んで、四苦八苦していたじゃありませんか。薄い空気の板のような物を形成する術式、『神の火(ウリエル)』か何かですかねー?
 さっき、ちょっとだけ刃からこぼれてしまった小麦粉がその板の上に付着していたんですよ。それに空気をそんなふうに圧縮させると光が不自然に屈折しますからねー。」
 ビットリオ=カゼラは自身のアロンダイトを振るう事でできていた空気の板を恨めしく思う。それ以外に対処法を考え付かなかったとはいえ、光の屈折という現象を考慮しなかった自分に自責の念が生まれる。
(いや、それよりもテッラが今言った言葉を考えろ。)
 光の処刑。それが左方のテッラの術式の名前。
 ビットリオ=カゼラはその名前に心当たりがまるでない。それを知っただけでも進展ではあるが、それが現状を好転させる要因になるわけでもない。
 ビットリオ=カゼラは先程の極薄の空気壁を作る術式をやめ、策を練る。
(く、速攻でこの場を決められるような遠方への攻撃術式は持ち合わせていない。ならば会話でテッラの注意を引き付けて、少しでもいいからカミジョウに回復のための余裕を――)
「何か(はかりごと)をしていそうですねー。そうだ、こうしましょう。」
 ビットリオ=カゼラの考えに気付いた左方のテッラは両手にある何かを凝縮させるように動かす。それもまた小麦粉への合図だ。ビットリオ=カゼラが身構える。
 (うごめ)くような音と共に白く頑強な檻は形を崩していく。
 ビットリオ=カゼラの鎧の隙間や兜のスリット、赤いマントの下から小麦粉が入っていく形で。
「なっ、これは!」
 身動きの取れない小さな檻の中であり、また鎧の中に入られれば打つ手がない。ビットリオ=カゼラの鎧の中に入った小麦粉は拘束具のように彼の体を締め上げていく。
 抵抗できず、(もだ)えつつも彼の体は十字に縛り上げられる。アロンダイトも石床に落ちて黄金色を失う。角度によって少女の悲痛な表情を見ないようになっている事はある意味では救いなのかもしれない。
「なかなか似合っていますよ。いやはや、応用力も高い事がまた確認できてよかった。やはり十字架の方が相性も良さそうですねー。単純に眠らせるよりもよほど楽です。」
「ぬう、何が応用力だ。主がゴルゴダの丘で全ての人間の原罪を背負い、一度地上から消えた時と同じようにされているだけではないか。似合うも何もあるわけないだろう!」
 ビットリオ=カゼラは鎧の中で十字架にかけられているような格好となる。しかもその十字架は十字教が神の子としている者の肉体であるパンの原材料、小麦粉である。十字架にかけられた者の肉体で作られた十字架に縛られる事は皮肉というより侮辱にもとれてしまいそうである。
 左方のテッラは会話の間に歩いて緑色の机のところまで行き、開けられていない葡萄酒の一本を手に持つ。
「そうでしょうかねー? 神の子の弟子達にも形や処刑法は違えども、十字架にかけられて死んでいった者はいます。そしてあなたは敬虔なるローマ正教徒。このまま処刑されれば、あなたという犠牲が現代において何らかの影響を及ぼすかもしれませんよ?
 まあ、する気もさせる気もさらさらありませんがねー。」
「な、に?」
 左方のテッラは開けていた葡萄酒の栓を開けて一気に飲み、それからビットリオ=カゼラの発言に興味を示す。
「おや、何かおかしなところがありましたか?」
 ビットリオ=カゼラには大いにある。彼は十字に拘束されている事をどうにかできないかと試しつつ、鎧の中から左方のテッラを睨み続ける。
「処刑をする気もさせる気もないとはどういう事だ。」
「ああ、それの事ですか。
 単純ですよ。ローマ正教徒は救われて(しか)るべきだからです。あなたもそれぐらい分かるでしょう、カゼラ。」
 確かに普通ではある。結局のところローマ正教という十字教の宗派は自分達こそが正しいと思っていて、だからこそローマ正教として他の十字教宗派と分かれているのだから。
 しかしその言い分は、ビットリオ=カゼラには左方のテッラが矛盾しているように感じられる。現に今、ビットリオ=カゼラと左方のテッラは敵対し戦闘している。処刑ではないが、私刑ではある。
「だから私はあなたに危害を加えていません。あなたは敬虔でローマ正教のために働いてくれているローマ正教徒ですからねー。実は私、あなたを前々から知っていましてねー、尊敬しているんですよ。」
 左方のテッラの葡萄酒をまた少し飲んでからの言葉で、ビットリオ=カゼラにはますます分からなくなる。その言動は左方のテッラはローマ正教徒を攻撃しないと言っているように聞こえる。ビットリオ=カゼラに傷がない事も事実である。
 だが一方で少女もまたローマ正教徒ではある。ビットリオ=カゼラが出会った際に聖書の中身を身振り手振りで理解させてやったり、洗礼させて貰えるように知り合いの司教に頼み込んだりした。
 ならば少女を誘拐した理由とは何だというのか。
「……確かに、私ではあの子をうまく改宗させてやれなかったのかもしれん。言葉も交わせないだけで、神の恩恵や主の愛を理解させてやれなかったのなら私の落ち度だ。
 だが、それがなぜあの子を攫う事に繋がる! 貴様の基準で何かあったとしても、それは私が罰を受けるべきだろうが!!」
 少女は目を丸くして、そしてもがく。ビットリオ=カゼラが罰を受けるというその言葉をかろうじて理解できた少女にとって、彼が罰され引き離される事はとてもではないが耐えられない。
 そう、それは全くの無意味な言葉だ。ビットリオ=カゼラが神の右席という怪物のところまで来た理由は少女を助け出す事である。それなのに、少女の心にひどく重い物だけを残して自身は消えるという提案は本末転倒でしかない。
 いつの間にか葡萄酒を飲みほし、ちぎりかけのパンを手にしている左方のテッラに向かって彼は吠える。稚雑で破綻した論を展開する、負け犬の遠吠えのように。
「本当は、あの子が邪魔なのではないか?」
「何ですって?」
 数マイクロメートル程度だけだが、左方のテッラのトカゲのような目が細まる。同時に、あの子、邪魔という言葉を理解した少女の目に怯えが出てきてしまう。
 ビットリオ=カゼラはそれに気づかず話を続ける。
「貴様が数日前イタリアのアプリーリアに来ていた魔術結社と取引をしていたとすれば辻褄が合う。」
 だんだんとその場の空気がビットリオ=カゼラの雰囲気に飲まれていく。
 ビットリオ=カゼラと上条当麻が敵地に乗り込む前に話し合っていた事の一つに、『なぜあの子が攫われたのか?』というものがあった。
 少女に何か特別な才能があるというわけでもなく、左方のテッラとの接点も見えなかったために理由を推察する事は困難だった。しかし辻褄(つじつま)の合う説明自体はできないわけではない。
「貴様は何らかの理由でその魔術結社、確か宵闇の出口だったな、そこと人身売買の取引をしようとした。その取引場所であるアプリーリアにいた売買の対象者があの子だった。」
 左方のテッラは沈黙している。不機嫌そうで愉快そうな何とも言えない顔をして黙って聞いていた。
 アプリーリアとはイタリアのラティーナ県にある都市の一つで、ローマ県の(さかい)近くに存在する都市である。
 少女も同様に、縛られて座り込んだままビットリオ=カゼラを見ている。
「しかし取引当日、イタリアに来ていた宵闇の出口は壊滅した。それはお前自身が元からそうするつもりでやったのか、何らかの不意な事故だったのかは分からない。だがそのどさくさであの子は脱走できた。」
 十字に締め上げられ、不格好な様を少女にさえ晒して、ビットリオ=カゼラは続ける。
「そしてあの子は脱走する際に貴様と貴様のこの術式、光の処刑を目撃していた。
 貴様はローマ正教の一番上にして最深部の暗部組織の者だからな、そんな現場を見られては一大事だ。だから口封じのためにあの子を攫ったんだ。」
 そうすればいろいろと説明がつく。
 少女とビットリオ=カゼラが出会った時の少女の身なりがひどかった理由は遠い異国の地まで運ばれ、また魔術結社がそこまで管理を徹底しなかったからであり、空腹も同じ理由だ。
 昨日少女がビットリオ=カゼラの元から脱走した理由は左方のテッラという脅威から彼を遠ざけるため。
 フィウミチーノ空港に来た理由も左方のテッラに追いかけられてビットリオ=カゼラを頼りたかったという事だろうと推察でき、空中に浮かぶ小麦粉を見て一際怯えていた事も合点がいく。
「貴様はローマ正教徒を助けるべきだと言った。だがそれが何だ! 一方ではあの子のような子供を手にかけようとするとは、自分の行動を正当化させるための言い訳にすらなっていない!
 貴様の言葉はただの偽りだ!!」
 縛りつけられた敬虔な修道士の騎士は言い切った。ビットリオ=カゼラはこの状況でも目が全く死んでおらず、強い光を保っている。少女を助けたいという願いとしての集約の光である。
 言い切られた左方のテッラとは対照的だ。それは光がないという事ではない。光に囚われている、と表現した方が良い。まるで自分の論こそが絶対であると信じすぎて、その光だけしか受け入れられないような、そんな目をしている。
「ふぅむ、やはりあなたは何か勘違いをしているようですねー。視野が狭いというか、何というか。」
 と、左方のテッラは困った顔をしながら話し出した。
「まずはそうですねー、なぜそれを手に入れようとしたのか、そこからお話ししましょうか。」
 パンを一つ食べ終え、食後の軽い会話であるかのように語る。
「装飾を省いて端的に言えば、的が必要だったんですよ。しかも的は人間であった方がずっと良かったわけです。
 でも的として適切な人間なんていませんよねー。ローマ正教徒を傷つけて良い理由は存在しません。
 そう、だから仕方なく人間に近いモノで代用する事にしたんですよ。」
 神の恩恵や主の愛を完全には知らない者達の質問にに対するような、優しい教えの念から来た口調だった。
(人間に、近いモノ……?)
 ビットリオ=カゼラの耳にもそう聞こえた。
 彼が最初に思い至る事は天使である。左方のテッラも人間から天使化しようとしているように、天使と人間は全く別の存在である。だが天使は何度も人間と出会い、対話や神の啓示を教えたりといった事をしている。ゆえに思考は人間にある程度近しい存在であると考えられている。しかし少女が天使であるとは到底考えられない。
 次に思い至る事が特質な物を持つ人間である。十字教でいえば『聖人(せいじん)』とか、中国でいえば『仙人』のような者達。身体的な特徴から特別な才能を持ち合わせる者達の事を彼は思い返して、そして違うと決める。少女にそんな才能がない事はビットリオ=カゼラや他のローマ正教徒達も確認している。
 彼は他にも吸血鬼だのアルファルだのといった者達を思い浮かべて、それらも違うようにしか思えない。
「何か分からない事がありましたか? 変ですねー、ユダヤの秘術カバラの隠された真実、みたいな話はしていないのですが。」
 優美(ゆうび)な手つきで葡萄酒を飲む事をやめて、左方のテッラが心配そうに声をかけてきた。ビットリオ=カゼラはそれに優しさを感じてしまうが、一旦聞きたい事を聞く事にする。
「人間に近しい者とはいったい何だ?」
 左方のテッラは、少しだけトカゲのような目をきょとんとさせてから、含み笑いをして解答を出す。
「そこに座っているそれはローマ正教徒ではありません。そういう事ですよ、カゼラ。」
「だから、改宗させてやれなかったのは私の落ち度だ!」
「そんな事は関係ありませんよ。もう一度、あれの服装をよーく見て御覧なさい。」
 左方のテッラの手によって、ビットリオ=カゼラの頭が少女の方を強制的に向けさせられる。
 抵抗も出来ないビットリオ=カゼラは、改めて少女の服装を見る。
 少女の服装は今朝と全く変わっていない。赤を基調として白いフリルがところどころに取り入れられている少女用のドレスに、出会った時からいつも着ている、十字架の下げられているブローチ付きの上着。
 ビットリオ=カゼラは今朝方その服装に気恥ずかしさからどうにも褒められなかった。しかしそんな事が関わってくるわけでもない。
「ああ、そういう事でしたか。異教の魔術はある程度知っていても文化までは理解しきっていないと。私をからかっての質問かと思ってしまいましたよ。」
 左方のテッラの顔が、困惑から笑いへと変わる。
「では教えて差し上げましょう。北欧神話圏では、二つのブローチで前を留めた袖のない上着という服が伝統的だそうです。そのブローチに鍵やら何やらと装飾品をぶら下げるのも含めて。
 ……つまりそれはローマ正教徒ではなく、北欧神話という邪教を信じる異教徒なのですよ。」
 机に置いてあったもう一つのブローチを見せびらかすようにして左方のテッラは言った。もう一方の手では、飲みかけだった葡萄酒の酒瓶が握られている。
 ビットリオ=カゼラは戸惑う事しかできない。
 少女が北欧神話圏の人間だという話は理解できる。少女の特徴的な上着にブローチが一つ足りなかった事も、左方のテッラが持っていたからだと分かる。少女がローマ正教徒としていろいろと教わったにも関わらず、その上着を着ているという事はある意味では裏切りなのかもしれない。
 では、それで。
 どうしたというのか。
 ビットリオ=カゼラにとって服装はどうでもいい物である。信仰心や道徳を備えていればそれでいいと思っている。
 そして少女はその上着以外に北欧神話的な何かを行ったのかと問われれば、違うと答えられるように生活している。一緒に生活しているビットリオ=カゼラがその証人である。朝早く起きて、食事前の祈りも捧げている。片付けも着付けもしっかりとでき、悪戯をするような性分ではない。
 少女は悪人では決してないのだ。
 少女が北欧神話圏の伝統的な衣服を身に纏っているからといって、それで異教徒と断じるわけにはいかない。少女自身は宗教的な意味合いのある物だとさえ認識していない可能性が高い。異教徒と断定する事もし難い。
 何より、それらを踏まえようが踏まえまいが少女が人間ではない近しい何かである理由にはならない。
 しかし左方のテッラは満足げに言う。
「もうお分かりでしょう。私の言った事がねー。」
「分かるものか! ローマ正教徒でない、それがどうした!?」
 ビットリオ=カゼラは咆哮した。話が見えてこないからだ。何かしら重要な部分が共有されていないから、どうしても食い違っているような感じである。
 そしてそれは左方のテッラも同じである。今度こそ、本気で困惑した顔を作っている。
 次に口から出てきた言葉は、その感情を表している。
「まさかあなた、ローマ正教徒以外も人間だと思っているんですか?」

     3

 陳腐な表現かもしれないが、ビットリオ=カゼラは人生の中で一番驚かされた。
 ビットリオ=カゼラは今日一日だけで数多くの驚くべき事と遭遇した。
 マタイ=リースから打ち明けられた心境。オーレンツ=トライスによるフィウミチーノ空港破壊。上条当麻との出会い。上条当麻が聖母マリアに関連した術式を高度に使えると言われた事。悪竜の召喚。予期せぬ少女のフィウミチーノ空港来訪。二人の魔術師が瞬時に殺害された場面。上条当麻が子供だと知らされた時。上条当麻の決意の固さ。神の右席の存在。神話の時代に出てきそうな程の代物である解析霊装。上条当麻に神の如き者(ミカエル)の図解を見せられた衝撃。先程の左方のテッラがその図解は上条当麻を殺してから奪うと言い放った言動。
 それらを思い浮かべてみても、左方のテッラが今言った事よりはるかに軽い衝撃でしかなかったと思えてしまう。
「よしてくださいよ。そんな邪教にどっぷりと()まった馬鹿な奴らが、人間の筈がありません。まだ、せいぜいが類人猿です。異教徒が人間とは、失笑を禁じえませんねー。」
 本当に、左方のテッラは噛み殺せなかったといったようすで笑いを漏らす。ビットリオ=カゼラには信じられない事である。人間として普通の、当たり前の感覚だと思われていた事が容易く否定されたために、兜の下の顔は口を間抜けに開けている。
 だが左方のテッラは認識している。
 異教徒は人間ではない、と。
「あなたの戸惑いの原因がそれとは、おかしな事もあるものですねー。……いや、あなたをそう思わせてきた元凶がいましたか。」
 すう、と。
 左方のテッラの目が変わる。異教徒は人間ではないという言葉は左方のテッラにとって当たり前の感覚である。そんな事よりも変化を表させる何かが、左方のテッラに訴えかけている。
 緑色の男の目に、あの光が現れる。自身以外の意見を聞きもしない独善的な光が。
 そしてその光で射抜く先は一つ。ビットリオ=カゼラが助けるべき少女である。
「私もまだ甘かったようですねー。それの狡猾さを過小評価していたようです。
 そう、そこの人間もどきの異教徒はあなたを裏切り続けてきたんですよ。」
「裏切り、だと?」
 左方のテッラはビットリオ=カゼラの疑問に即座に回答を出す。
「そう、裏切りです。自分の元々いた場所での風習に(のっと)って、ローマ正教式の神聖なる十字架をその小汚しいブローチから下げて!」
 ようやく、その目から感情が現れる。
 その感情は今朝にもビットリオ=カゼラも感じたものだった。
 怒りだ。
「北欧神話圏の異教徒は上着のブローチにさまざまな物を下げ、過剰な装飾を好むと聞きます。
 そう、それは十字架、いやローマ正教をそういうふうに(おとし)(けが)している、邪悪な異教徒で! あなたやリースの恩情を(あざけ)り、北欧神話にローマ正教を取り込もうとする異教のクソ猿だという事が!
 あなたにも分かる筈です、カゼラ!!」
 そのいきなりの変貌はビットリオ=カゼラと少女を困惑の色で染める。
 熱狂しているように見えて、しかし左方のテッラの目はそんなところを向いていない。
 左方のテッラはただただ純粋に語っている。
「ええ認めましょう、私は最初からそれの行いを知っていたわけではありません。それがそんなふうにローマ正教を侮辱したのは、カゼラ、あなたがそれを保護してからの事です。元来フィウミチーノ空港でそれをあなたから奪ったのも意義は全く違うところにありますし、この怒りにいかほどの正当性もない事は分かり切っていますよ。しかし、こうは思いませんか?」
 ローマ正教徒でなければ人間ですらない。
 そう言い切った左方のテッラの、その怒りの終着点が見える。
「神の子の教えを守っていると見せかけていて、その実ローマ正教徒を(かた)り、あなたやリースを(だま)(はずかし)めていたとすれば!」
 それは。

「絶対に許せない!!」

 左の人差し指で少女を指差し、その怒りを隠しもしない。トカゲが持てるような光ではない、人間としての強い怒りの光がその目に宿っている。
 ビットリオ=カゼラの視線は少女に向けられたままのため、少女の動向が見える。
 少女は震えている。子供のために悪意をすぐに感じ取ったからだ。ましてや左方のテッラは少女を誘拐し、少女のヒーローであるビットリオ=カゼラを蹂躙(じゅうりん)している。怖がらないわけがない。
 しかし、それを理解した筈なのに。
(そうか。
 テッラは純粋に、ローマ正教を愛しているのか。)
 ビットリオ=カゼラは共感を覚えた。
 ビットリオ=カゼラがフィウミチーノ空港に向かっていたあの時と同じだった。
 あの空港を襲った敵に抱いた感情。ローマの地を踏みにじられたと思い、(サン)ピエトロの想いが(けな)されたと感じたあの怒り。それと左方のテッラが思っている怒りは、根本は一緒である。
 ローマ正教を本当に信じて、愛しているから。普通ならどうでもいいように思えてしまう事まで、宗教的侵略に思える程に大事に想っているから。
 許せない。
 そして、それが分かったがゆえに。
「やはり貴様は、間違っている。」
 ビットリオ=カゼラは左方のテッラに叱りたいと思う。
 左方のテッラは無言でビットリオ=カゼラの首をそちらに向ける。
「これ程言っても分からない、と? ……いえ、そうですよねー。私は今憤怒に囚われている。そんな者の言葉を信用できないというのも無理からぬ事。謝罪させてください。」
「そうじゃない。貴様のローマ正教に対する真摯(しんし)な想いは私にだって届いたさ。」
 ビットリオ=カゼラはどこまで行っても、結局はローマ正教徒としてのビットリオ=カゼラに行き着くような男である。たとえそれがどんなにおかしな話であっても、ローマ正教を本当に大事に想っているという事は心に響いてくる。
「なあテッラ、これはリース主席枢機卿からの受け売りでしかないが、聞いてくれないか。
 怒りと叱りは、違う。」
 それは昨夜マタイ=リースに教えられた事。
 心に響いてきた想いに対する、彼なりの共振。
「叱りは、相手を想いやって強い口調で諌める事だ。決して、苛立ちを相手にぶつけるような事であってはならない。」
 それらを知った時は昨日。ビットリオ=カゼラは信仰深いが、だからといってそんな昨日今日知りえた程度の言葉をすぐに感心して心を改めようとは思えない。
「主もまた怒りをあらわにした事もあるという。しかし、それは愛だ。貴様や私がローマ正教を愛するように、主は人々を愛した。ローマ正教を信じていない者達も含めてだ。
 主は怒ったのではない。その愛でもって過ちを犯してしまいそうになっていた者達を叱りつけた、それだけだ。」
 それらはビットリオ=カゼラの言葉ではなかった。自身で考えてそこに至ったわけでもなく、説得力は皆無だと思われても仕方ない。そんな言葉を彼なりの返答として出した事も彼自身が一番おかしく思う。何より、ビットリオ=カゼラ自身が異教徒に対して何らかの関心を上手く持てなかったような愚か者である。自身ができもしない事を、押し付けているだけにすぎない。
 それでもビットリオ=カゼラは言わなければならないと感じている。左方のテッラが自身の考えを話してくれたから、それに対する返答として。
 と、眉をひそめ続けていた左方のテッラが口を挟む。
「それが、何だというのです? 私もあなた程ではないとはいえ、神を信じ神の子の教えを守る者の一人。それぐらいは知っています。」
「分かっているなら、簡単じゃないか。」
 ビットリオ=カゼラは答える。
 とても簡単な結論の解を、はっきりと。

「貴様はあの子に叱りつけてやれば良かった。」

 左方のテッラの表情に疑惑と驚愕が走る。自身の思いもよらないところからの意見に反応できない、そんな顔だ。
 少女もまた面食らったような顔をしている。こちらの場合は自身を呼ばれて、また叱るという言葉が一緒に出てきたがためである。
 一方でビットリオ=カゼラは冷静である。空気は相変わらず冷たく、鎧を通し彼を冷やして冷静にさせているからだ。無駄な熱を省いて、彼はその受け売りでしかない言葉を続ける。
「『それはローマ正教を少し馬鹿にするかもしれないからやめなさい。』、そう言ってやって、叱って注意してやれていればそれだけで良い。そうやって、愛を通じて人々の過ちを正そうとしてやれば、貴様はこんな間違いを犯さずに済んだ。」
 現実に相手を叱る事は難しい事ではある。ともすれば簡単に怒るだけになり、相手への愛が見えなくなってしまう。語っているビットリオ=カゼラもマタイ=リースに教えられる直前にはただの怒りにばかりかまけていた。
 ゆえに叱る事に意義はある。本当にその相手に愛を持っているならば、喚き散らすような怒りではなく諌めるための叱りになる筈なのだから。かつて主が仰ったとマタイの福音書に書かれている、「わたしが来た理由は、義人のためではなく、罪人のためである。」という言葉を実践している事になる筈なのだから。
「テッラ、今ならまだその間違いは間違いで終わる事ができる。あの子に精一杯の謝罪をして、頭を下げて。ローマ正教の審問(しんもん)審判(しんぱん)を待って、神の裁きを()して待て。
 そうすれば、貴様は決定的な過ちを犯さずに済む! 煉獄を経由する事になっても、貴様が神聖の国へ行く事もできるはずだ!!」
 そしてこれこそが、ビットリオ=カゼラが左方のテッラにできる叱りだった。罪人に対してできる、主には到底及ばないが、ビットリオ=カゼラなりの行動だった。
 左方のテッラはその身体を動かさないでいる。緑色の小さな机に置いてある葡萄酒やパンにも全く手をつけない。
 上条当麻は、静止したままの全身から血を流し続けている。
(頼む、これで戦いが終わるならそれに越した事はない。テッラ、争いをやめてくれ!)
 土の匂いが鼻につく中で、ビットリオ=カゼラは必死で祈る。
 それが左方のテッラに届いたのか。
「……では、そろそろ終わらせましょうかねー。」
 どちらにせよ、左方のテッラは自身の行いを最後まで遂行する気でいる。
「テッラ!」
「おっと、別にあなたの意見を一考もしなかったわけではありません。ただ、そうですねー。あなたの言葉を借りるなら、間違いは間違い、なのですよ。どこまでいっても罪は消えません。それが神の子の愛を知らなかったという無知による物でもです。神や神の子が赦したならば話も変わってくるんでしょうが、今はそうではありませんねー。
 そして罪を裁くのに必要な権限は、私も持っています。といっても、結局は煉獄へ送られる事を確定させる程度しかできませんがねー。微々たる力です。」
 どこか自嘲気味に、左方のテッラは続ける。
「しかし、私は選ばれた者の集団、神の右席の一人、左方のテッラなのですよ。相応の罰を与えるための下拵(したごしら)えをさせて頂きますとも。神の御意思のままに、とまでは行きませんがねー。」
 左方のテッラは、やはりどこまで行っても左方のテッラでしかない。
 ビットリオ=カゼラはもがこうとして、もがけさえしない事実に打ちのめされる。施術鎧はかたりとも音を出さず、小麦粉による強固な十字の拘束は続いている。
 少女もまた動けない。その縄による縛りは強力で、少女の非力な腕力ではどうしようもない。
 その間にも左方のテッラは光の処刑を使う準備を整えていく。
「まあ、的は後でいくらでも取り寄せる事ができますからねー。いささか私の趣向に沿いませんが、ここらで景気良く潰した方が良いでしょう。」
 左方のテッラは鋭い小麦粉の刃を新たに作り、声なき号令をかける。
 それはすなわち、少女の抹殺命令。
「やめろ、やめるんだ! 最後の一線を越えるな、テッラ!」
 ビットリオ=カゼラは目を向けられないという事が、とても辛く感じられる。
 白く鋭いギロチンは、その全てが少女の真上に止まる。少女は足掻くが、やはりどうしようもない。ぱらぱらと少女の顔面に落ちる小麦粉は決して天からの恵みでもなく、祝福も与えてくれない。
 絶望がその場を支配する。
 支配者たる左方のテッラは厳かに、しかし楽しそうに判決を下す。
「優先する。―――人体を下位に、刃の動きを上位に。」
「やめろおおおおおぉぉぉ!!」
 ビットリオ=カゼラの叫びは空しく。
 少女の体に吸い込まれるように、狂気が襲う。
「おいおい、この子が待ち望んでいるのはお前なんだぜ? そんなみっともない声を上げるなって。」
 唐突に、本当に唐突に聞こえた。
 最後の最後で力を振り絞ってビットリオ=カゼラは首を少女に向けていた。だがどうした事か、少女は上条当麻の左腕に抱きかかえられている。二本の指を(くわ)え、右肩に上手く切り取られた左足首を置いている上条当麻も異なる地点に立っていて、ビットリオ=カゼラは首を回さなければ二人を把握できなかった。
「ば、馬鹿な……。」
 左方のテッラはよろける。まるで左方のテッラの精神そのものが揺さぶられているかのように、後ずさりさえしてしまう。
「確かに私はあなたの首を切り裂いた! フィウミチーノ空港での傷では殺せないようだったから、確実に殺そうとして! 今だってあなたのそこかしこに傷が残っている! なのに、なぜ異教のクソ猿が生きているんだ!?」
「答えねえぞー、それには。あえて言うなら、神様って数奇者(すきもの)は俺に味方してくれているっつー事だろ。」
 少し前のやり取りを真似られて、今日初めて左方のテッラに焦りが現れる。
 ビットリオ=カゼラも左方のテッラの驚きには多少なりとも同意である。最初の頃は上条当麻の再起のために時間を稼ごうと思って左方のテッラと会話していたが、そもそも上条当麻の復活ができる理由にはあまり納得がいっていない。
「傷についてはこういうふうにするし。」
 軽い口調で上条当麻は言った。上条当麻は少女を降ろして、ズボンのポケットからを取り出す。
 そこからの早業はビットリオ=カゼラも見えない。
 切り裂かれた脇腹を()い、半ばまで真っ二つにされた右腕を縫い、分割された左足首をくっつけるように縫い、なくなっていた二本の指を左手に縫い、首の切り傷を縫う。たったそれだけの作業が、ビットリオ=カゼラも含めた三人には目で追えない。
「じゃあ仕上げだ。
 眼有る肉よ、その身を盛り上げて不足を補え。」
 それで文字通り盛り上がった肉は左頬だけ。
 他の傷は全て綺麗になくなっていく。黄金の針に縫われるまでもなかったらしき小さな傷も含めて全てが治っていく。
 最終的には、服装以外はこの部屋に来る前と変わらない上条当麻が立っている状態となる。こんなふうに立ち上がってしまえる事を見せつけられる、それこそがビットリオ=カゼラに納得をさせない理由である。
「お、のれえええ!」
 左方のテッラは獣のように吠えて命令を下す。途端に石床に散っているだけだった小麦粉が複数の白い刃を形作る。
 ギロチンは左方のテッラの意のままに上条当麻と少女に向かって刃を(とが)らせる。
 上条当麻の対応は極めて通常通りである。近くの空間に黒い穴を開け、そこに黄金の針を入れてから代わりに短剣を取る。
「ついでにこっちも発動。
 救いのしるべを知る龍よ、その道を俺達に示せ。」
 上条当麻の朗々とした詠唱によって上条当麻の服から赤い十字架をぶら下げた青く小さな龍が浮き出て、実体化する。その青く小さな龍は何をするでもなく上条当麻の周りを回っている。それだけである。
 そして時を待たずに迫ってくるギロチンの群れに対し、上条当麻は踊る。短剣で切りつけるように、しかし絶対にギロチンと接触しないように振るう。
 何度か短剣が振るわれた直後、左方のテッラに空気の弾丸が向かっていく。外れたものの上条当麻のその動きは、左方のテッラに隙を作らせるためだとビットリオ=カゼラは判断する。上条当麻は短剣という風の象徴武器(シンボリックウェポン)を用いて空気を圧縮した弾丸を打っている。
 青く小さな龍もまた舞踏するように動き回る。しかしその動きは妙な符号がある。例えば龍が上条当麻の足元を滑る。上条当麻もその軌道を足でなぞる。すると上条当麻の足を傷つける筈だった白いギロチンは何もない場所に鋭利な刃を振るうだけで、被害を全く出さない。
 それを見て左方のテッラは顔を苦くさせる。自身の術式がこうも簡単にあしらわれては無理もない。
 上条当麻は短剣をいじりつつ、知り合いに話しかける程度の気楽さで講釈する。
龍工(りゅうこう)って中国起源の霊装だよ。服の中に龍を宿し、服を着ている奴が危機に陥った時に龍が飛び出てきてくれる。そこから危機から脱する道を案内してくれる、っていうな。トライスは迎撃用にあんな西洋の竜を作り出す応用を利かせてたけれど、本来はこっちの方が正しい使い方ってわけ。」
 ついでに上条当麻が左方のテッラに向けて発射した空気の弾丸は、左方のテッラには届かずに終わる。
 青く小さな龍は上条当麻の危険を知らせるために踊っている。今もまた上条当麻の頭上を右から左へ移動する。それにより上条当麻の頭の右半分を切断しようとしていたギロチンを上条当麻自身が回避する。危機を回避するための魔術がこれ程にも有効だという事は、奇跡の再現で身を守るようなローマ正教徒からすれば普通に分かっている事だが、左方のテッラはずっと焦っている。
 そんな状況を見てビットリオ=カゼラはあの嫌に現実味のあった悪竜を思い出す。そして同時に、あの時上条当麻のために足掻いた気持ちも。
 今回は助けるべき人が二倍に増えている。ビットリオ=カゼラが十字に縛られ続ける理由はない。
(私も何かしなければ!)
 衝動と共に、ビットリオ=カゼラは動き出す。
(うん?)
 そう、動き出せた。左方のテッラが用いる特殊な術式である光の処刑。それで変えられた筈の優先順位が消えたと考える他ない現象である。
 ビットリオ=カゼラは自身の手から落ちてしまっていたアロンダイトを取り、ギロチンの渦の中へ飛び込む。
(今は考える時ではない、助ける時だ!)
 鎧の中に残っている小麦粉も気にせず、彼は標的を定める。
「ぬ、おおおおお!」
 上条当麻の死角から少女を狙っていたギロチンを両断し、紅蓮のマントを翻す。上条当麻は一瞬にして現れた騎士に笑う。
「拘束は解けたか。」
「ああ。カミジョウ、ありがとう。それとその子に短剣を当たらせないようにな。」
「こっちこそ感謝だよ。この子も無事だし、短剣はペーパーナイフにもならない玩具だから大丈夫。」
 会話しつつ、上条当麻は身をかわしてビットリオ=カゼラはアロンダイトを放ちギロチンを破壊する。
 そうやって二人は舞っている。相手が小麦粉というのも変な話だが、主の肉体を象徴するパンの原材料と考えるとビットリオ=カゼラには恐れ多い事にも思える。
 二人の対処法は簡単である。基本的に上条当麻が避けつつ短剣を振って、ビットリオ=カゼラが時々マントやアロンダイトで補助に入る事で対処している。龍工の魔術もあってギロチンはことごとく外れ、三人は無傷である。
 そして、それを快く思わない者が一人いる。
「異教のクソ猿め……その身にある肉の一片、血の一滴に至るまで穢れを残さずに消し去ってやる!」
 上条当麻が放ってきたであろう空気の弾丸をかわした左方のテッラはこの顔を歪める。業を煮やした左方のテッラは、その背後にある大量の小麦粉の袋から神の祝福(ゴッドブレス)を通して中身を出す。両腕を天に高く上げ、同様に大量の小麦粉が二人のヒーローに対抗するように宙を舞う。
 天から祝福されるが如く小麦粉を全身に浴びて、命ずる。
「優先する。―――人体を下位に、刃の動きを上位に!」
 無数の白く鋭い刃が射出される。ちょうど三人の背後を取っており、仮に三人が気付けたとしても追加分以外のギロチンが三人を襲う仕様にしている。また挟み撃ちを行うという事である。
 しかし。
 ビットリオ=カゼラ達三人に当たり切り裂く筈の白いギロチンは、手前で全て瓦解する。
「何だと!?」
 左方のテッラが思考の停止を声に出して教えてしまう。教える対象はもちろん敵対している三人に、である。
 その間に上条当麻は魔力を練り上げ、得意の空間移動魔術を使用する。
「じゃ、ビフロストっと。」
 黒い穴の空間を作り出し、まとまりのない小麦粉に戻ったそれらを消す。
 そしてビットリオ=カゼラ達を襲えず白い軌道も描いていない元からの分のギロチンの上からそれらを被せる。
 一度に大量の小麦粉が上から落とされて煙のように小麦粉の粉塵が現れる。しかしその粉塵はまるで見えない壁に四方と上方を囲まれているようにある境目からは出てこず、ビットリオ=カゼラ達のところまでは届かない。
「見えない壁、という事は、まさか!」
「答えてやるよ、そういう事だ! カゼラ!」
 声に出さずにビットリオ=カゼラは呼応する。
 そのアロンダイトの切っ先から強い赤色光とかすかな黄色の光を放出する羽を射出する。発射先は小麦粉が充満し舞に舞っている空間の中。ほぼ赤い羽は見えない境目を通って小麦粉の白に消える。
 即座に上条当麻が黒い穴から赤い杖を召喚し、短剣と共に小麦粉目がけて神の祝福(ゴッドブレス)と魔力の混成成分を流し込む。
 その次の瞬間。
 山姥も鬼子母神も裸足で逃げ出す程の大爆発が四人を襲う。

     4

「ふん、耳が痛いな。」
 かなり疲労の色が浮き出ている声音でビットリオ=カゼラは言った。実はビットリオ=カゼラが共闘者である上条当麻が短剣を振っていた理由を完全に理解できた時は苗字を呼びかけられた直後だった。そのために爆発する羽の術式(上条当麻も七色にして使っていた。)を編んで使う事に結構な集中力を持っていかれ、少しだけ精神的に疲れが出てきている。
 爆発のためなのかどうかは判断できないが、土の匂いもすっかり消えた。そしてビットリオ=カゼラはふと自身の脚部分に溜まっていた小麦粉が綺麗になくなっている事を知る。
(カミジョウが空間移動の魔術で除けてくれたか。)
 ビットリオ=カゼラはそう結論付け、わずかに紅蓮のマントに付着していた小麦粉を払う。
 そこに、爆発の音から立ち直った左方のテッラが吐き捨てるように言う。
「粉塵爆発、というやつですか。これはかなりの小麦粉を無駄にしてしまいましたねかー。」
「そう言うなって。カゼラがフィウミチーノ空港でちょっと知識を間違えたからな、実演してやっただけだ。」
 カゼラは少しだけ鎧の中の羞恥心を突かれた思いになる。
 粉塵爆発を起こす粉は燃焼できる物質でなければならない。ゆえにコンクリートを砕いた粉やセメントの粉では起こらない。
 対して小麦粉は石炭の粉末と共に粉塵爆発という言葉と連想しやすいくらいには起こしやすい粉粒である。密閉された空間の中で粉塵爆発を起こす事は普通の事だった。
「まず俺達は空気に干渉した。」
 上条当麻は胸を張って声を出す。少女は威張る上条当麻を物珍しそうに見ている。左方のテッラは左方のテッラですぐに再開しようと思わなかったのか、忌々しそうに上条当麻と少女を視線で射抜くだけである。
「俺達はまず空気の壁を少しずつ作り上げていった。密閉した空間を作って粉塵爆発でお前の得物を一気に燃焼させるためにな。」
 上条当麻は緑色の石が柄の先端にはめ込まれている短剣を軽く振って二つの物を作り出す。一つは左方のテッラを攻撃していた小さな圧縮空気の弾丸。そしてもう一つは圧縮された小さな空気の板である。
「空気の弾丸は光の屈折が起きている事を紛らわすための物。光が変に屈折して見える光景っておかしさがあるだろ、それの理由付けをしてやったって事。」
「チッ。どうりで狙いが甘いと思ったら、そういう事でしたか。」
 上条当麻が理由付けとは言ったが、その実左方のテッラを(あざむ)くための巧妙な仕掛けであった。
 空気は時として濃度が局所的に変わり光の直進を歪ませる。とても蒸し暑い日に、景色が少し歪んで見える事がそれの一例である。左方のテッラがビットリオ=カゼラの空気の板に気付いた時もこの不自然な光の屈折によるものだったために、上条当麻はこんな策を実行した。
 上条当麻は短剣を指で回し、もう一方の空気素材でできた板に話を移す。
「空気の板は何枚か張り合わせて空気の壁にして、小部屋を作っていった。作る手順はカゼラとは違うけど、着想は同じだ。」
 ヨハネ黙示録由来の極薄の空気圧縮板。上条当麻は疑似的にそれを短剣という風の象徴武器(シンボリックウェポン)を使い作ったというわけだ。
「それで私もすぐに手伝えたというわけか。」
 ビットリオ=カゼラが聞くと上条当麻は頷いて肯定する。
「うん。カゼラも参加してくれたんで、空気の壁で六方を囲んだ部屋の中に小麦粉を誘導するのは簡単だったよ。」
 しかしそれは並大抵の空間把握能力では実行できない事である。白いギロチンによる攻撃を避けつつ空気の板を何枚も作り、しかも左方のテッラに知られてはならないため途中でギロチンが空気の板に当たってもいけない。
 まさしく至難の業を、上条当麻はビットリオ=カゼラという協力者に手伝って貰いながら達成した。
「ならばなぜ、カゼラの羽ですぐに爆発が起きなかったんですかねー?」
 戦闘の手を一時的にやめて、左方のテッラはそう質問する。ビットリオ=カゼラもある程度の予測は立てているが、魔術的な処理でそういうふうにしていた可能性もある。
 が、上条当麻の解答はまさしく同じ事。
「酸素がなけりゃ物は燃焼しないってのが普通だ。だから俺は空気の壁で覆われた全体から酸素分子をすべて排除した。作成していた壁からもだ。排除した酸素は、テッラ、お前にに撃っていって無駄なくご利用していたってわけ。ただの攪乱目的だけれどな。」
 何ともつまらない解だった。ビットリオ=カゼラも左方のテッラも変に不意を突かれた気分になって、上条当麻を見る。唯一少女だけは何の事なのか分からないために三人を不思議そうに見つめているだけである。
「もちろん真空状態じゃ小麦粉自体が空気中に浮かばないから、あくまで酸素だけを抜いている空気って感じだな。で、そんなふうにした理由はというと、爆発を強めにしてお前の小麦粉全部燃やしたかったからだ。」
 周りが酸素のない状態になった燃えやすい物質は、一たび空気に触れただけで燃焼する事が多い。つまりそんな燃えやすい物質の酸素がない状態に対し、一気に酸素を流し込む事でも爆発は起きるという事である。
 ビットリオ=カゼラはそんな内容の説明を聞きつつも、気になる事があった。
「カミジョウ、それは科学の領分ではないのか?」
 そう、彼は科学とオカルトの境界線に触れてしまわないかと気にしている。だが上条当麻の口調はあっけらかんとしたものである。
「昔っからよくあるでき事だから大丈夫。第一そんな事言い出したら、火をつけるのだって科学的に理論付けて説明はできる。そこまで厳密に領分を分ける事はしない方がいい。」
 原理を説明すれば確かに科学的だが、粉塵爆発は昔から炭鉱を初めとして人類の営みの中でよくあった現象でもある。ビットリオ=カゼラの懸念(けねん)杞憂(きゆう)であると上条当麻は語っていた。
「それと後は床だな。小麦粉をある程度均等に充満させるために、床の方にも空気の壁を敷いていたんだ。テッラの追加小麦粉をビフロストの応用で小麦粉部屋にどばっと入れた時に、下の空気壁をはじけさせて小麦粉を部屋内部に充満させた、という過程を取っていたわけだ。」
 杖を持っていた腕から少女を降ろして、上条当麻は空気の壁を解いて終わらせる。
 代わりに、ビットリオ=カゼラがその後を引き継ぐ。
「その後は知っての通りだ。私が羽を赤と黄にした理由は分かるな? 黄色は風を象徴するため、空気の壁をすり抜けるという特質の付与。赤色は火を表し、こちらは爆発のための火種だ。」
 ビットリオ=カゼラは上条当麻の言葉を継いで解説する。そしてまた上条当麻が口から息を吸う。
「それで、俺の杖と短剣も似たような物だった。短剣は酸素を送り込むのと酸素が空気の壁を通り抜けるために、杖は着火用に魔力や天使の力(テレズマ)を操って火の属性にして使った。」
 二つの象徴武器(シンボリックウェポン)をだらりと腕から下げて上条当麻は解説を終える。少女はずっと武器の存在に怯える事なくじっとしている。
 他方、理解しつつも納得はしていない左方のテッラがその服にあるポケットに手を突っ込む。左方のテッラは絞り出すように問う。
「まだ分からない事が残っています。私がカゼラ達に追加の小麦粉で攻撃した際、まるで何か透明な壁に阻まれましたねー。あれが空気でできた壁だとして、なぜあそこに作ったというのです? まさか私が光の処刑で一斉に攻撃する事まで計算づくだったとでも?」
「ある意味ではそうだ。だが、あれを張ってくれたのは俺じゃない。」
 言われ、左方のテッラはビットリオ=カゼラの方に目を向ける。
「あなたが?」
 ひどく驚いた声色だった。少しだけ心外だという気持ちになってビットリオ=カゼラは話す。
「私が小麦粉の牢に囚われた際、貴様が見抜いたあれだ。」
 直接見えはしなかったが、ビットリオ=カゼラはあの時にも薄い空気の板を作っていた。左方のテッラの攻撃は空気の板で防げると踏んだビットリオ=カゼラが作っていた物である。
「薄い空気の板だが、神への奉納物として使用する事でより大きな効果をもたらす術式がある。貴様は知らないか?」
「……エクス=ヴォト、ですか。」
 エクス=ヴォトはビットリオ=カゼラがフィウミチーノ空港でも使っていた術式である。十字教的な奇跡再現を行うために、第三者を介して何かを奉納し、奇跡を起こしやすくするものである。
 今回はビットリオ=カゼラが用意していた薄い空気の板を追加分のギロチン側に張り付けて奉納し、薄い空気の板から厚い空気の壁を作るという方法で打って出た。
 結果白い刃は見えない壁に当たり、元の小麦粉に戻った。その隙を突いて上条当麻はビフロストの応用魔術を発動、空気の壁で仕切られた小部屋に転送して、先程の手順で爆発的に燃焼させた、というわけである。
 左方のテッラは説明を聞いた後、やや機嫌を落ち着かせた声で語る。
「なるほど、確かにしてやられました。しかし、これだけで私の術式、光の処刑を攻略したとは思わない事ですねー。
 優先す――」
「はい待った。テッラ、その前に話しておきたい事がある。」
 上条当麻は光の処刑を言葉だけで打ち破る。テッラの目に敵意がより一層見えるようになり、自然とビットリオ=カゼラも手に持つアロンダイトを構える。
 上条当麻は声を張り上げて言う。
「だーかーら、一旦待てって! 全員に大事なお話をしてやるっつってんだよ。」
「カミジョウ、私達にはともかくテッラに話してやる事などあるのか? ……と、大丈夫だったか。今(ほど)く。」
 少女が無言で見つめてきているために、ビットリオ=カゼラはアロンダイトを下ろす。説得が無駄に終わってしまったために、疑問の念が強く言葉に出ていた。
 上条当麻はテッラを見据えてビットリオ=カゼラに答える。
「ああ。テッラにもだ。」
 左方のテッラのトカゲのような目は警戒を解かない。
 ビットリオ=カゼラの方も上条当麻の話がどう転ぶかを一旦置いて少女の縄を解きつつも、臨戦態勢をすぐに作れるようにしている。テッラは今現在どう考えても間違った信仰心から暴走している。ビットリオ=カゼラはそんなテッラをどうにかしたいと思っていても、説得が失敗した今では事件の終末を経ない限りは止められないと思ってもいる。あの奇妙な術式を使う仕草をしようものならば、警戒する事は当たり前の事である。
「ふう、では異教徒の話ですが聞いてあげましょうかねー。」
 拍子抜け。ビットリオ=カゼラはそんな言葉を覚える。
 代わりに上条当麻は予想通りの返答を受けて満足げである。
「うんうん、話の間にめいっぱいパンや葡萄酒を腹の中に押し込んでおけよ。」
「チッ。それに気づいていましたか。」
 より顔を怒りに歪ませる事こそないが、左方のテッラは不機嫌になっている。しかもまた驚くべき事に左方のテッラは緑色の小さな椅子に座り、その影響で少しだけ小麦粉を落としつつ、葡萄酒を一本開け飲み始める。
 ビットリオ=カゼラは左方のテッラの反応から、縄より解放された少女と共に大人しく清聴する事にする。
「そうそう、それでよろしい。実のところさっきの仕掛けの解説は確認のためでもあった。そして確信したよ。お前にとっては口車でも乗っておかなきゃならない状況ってやつになったんだな。」
 少しだけ思考をめぐり合わせて、ビットリオ=カゼラにもある程度合点がいく。
「やはりミサか何かの応用で、そのためには主の血と肉の象徴であるパンと葡萄酒が必要というわけか。」
 それはビットリオ=カゼラが十字に縛られている時に薄々感じていた事だった。左方のテッラが戦闘中に葡萄酒を飲んでいた事は疑惑の目でしか見る事ができなかったという事である。
 いかに実力差があると慢心していたところで、酔うかもしれない葡萄酒を戦いの最中で飲むという行為は明らかにおかしい。ビットリオ=カゼラはパンを食べる行動も含め、そこに光の処刑の何か重要な部分になっていると睨んでいた。
 それを上条当麻が指摘した形としてビットリオ=カゼラには認識された。ビットリオ=カゼラは立ち上がって確認の言葉を待つ。
「おそらくは。光の処刑っていう術式は、術者の体内にある葡萄酒やパンの成分を消費するような物なんじゃないかと思う。それによって十字教的にも特殊な力を作っているのか、所謂(いわゆる)魔力を天使の力(テレズマ)に対応付けて直接操るために消費しているのかは分からないけど。」
 食事には魔術的な意味合いが強く込められている場合が多い。日本でも「いただきます。」と食前に言う言葉には元来、汎霊説(はんれいせつ)――アニミズム的、オカルティックな要素を多分に含んでいる。左方のテッラの術式はそうした食事という儀式としての行為による術式という事である。
 上条当麻は言葉を繋げつつ悪戯好きな子供のように微笑する。
「ただ、こんだけ凄い術式だから燃費は悪いんだろうなー。そんでこまめに補給しないと発動できないと。この子に対してすぐに何かしたりせずにここで飲み食いしまくっていたっぽいのも、実は使えるだけのイエスの血肉の象徴が体内になかったからだろ。」
 上条当麻は左方のテッラを見ながら言った。左方のテッラは無反応に、黙々とパンを食べ葡萄酒を飲んでいる。小麦粉を光の処刑で操って全身から取らない理由も、葡萄酒とパンを消費しすぎたからだと、ビットリオ=カゼラは判断する。
「それと同時に分かったよ。左方のテッラがこの子をすぐに追わなかったわけがな。」
「すぐに追わなかったわけ?」
 上条当麻はビットリオ=カゼラに頷く。
「燃費が悪いって事は、一度に何度も光の処刑を使ってしまうと術式が使えなくなってしまうって事だ。そんなふうに強みが一時的にでも使えなくなった魔術師や奇跡を再現できる奴らはどうするよ? すぐに目撃者を追いかけられるか?」
「できないだろうな。
 ふん、そうか。テッラがこの子を今日まで誘拐できなかったのはそのためだったのか。」
 数日前、左方のテッラは宵闇の出口を襲撃して異教徒である少女を誘拐しようとした。だが、宵闇の出口を壊滅させるために光の処刑を使い過ぎたため、隙を見て逃げられた少女を追う事ができなかった。
 そして左方のテッラには都合が悪い事になる。少女がビットリオ=カゼラに保護されたためである。再び術式を扱えるようになるまでいくばくか待っていたであろう左方のテッラは、敬虔なローマ正教徒が異教徒を改宗させるために頑張っている姿を邪魔できなかった。
(大方、そういったところだな。)
 結論を思考の中で出して、ビットリオ=カゼラは感想を漏らす。
「何というか、間抜けだな。」
「憶測で物を言わないで下さい。ローマ正教徒が嘘をついてはなりません。」
 少女の必死な同意もあってか、左方のテッラは食事の手を止めてまで否定した。
「それに私が宵闇の出口だかを襲撃したというのが本当であるという証拠がありませんねー。提示できますか?」
 左方のテッラの問いに、しかし上条当麻は即答する。
「できるぞ。」
 真顔である。上条当麻はそのまま黒い穴の空間、ビフロストを作って短剣と杖を押し込み、腕をその穴に入れる。
「えーっとな、お前がここにいる事を特定した霊装は使い勝手が良くって。うまーく調節してやりゃ、場所と時間を指定した上で誰がそこにいたのかが分かるんだ。今、ビフロストで出してやるから待っててくれ。」
「……全く、やりづらい。そこの魔術師の異教徒、もうやめなさい。」
 左方のテッラが負けを認めた瞬間である。
 しかし上条当麻は驚き口にする。
「え? 待てよこれから舌戦という推理合戦が始まって、華麗に上条さんがお前を論破する展開じゃないのかよ!? 俺はテキトーにカマかけただけなんだぜ!?」
 上条当麻は腕を黒い穴に突っ込みつつ誰も思っていないような突っ込みをする。当然他の三人は反応も返してやらない。
 その程度で上条当麻はやや大げさに項垂(うなだ)れる。
「何か、何ですか、俺はろくに感謝もされずに冷たい床にへばりついて解析魔術使ってたのかよ。結構痛み自体は辛かったんだぞ、あれ。それで活躍の場はなしとか、不幸だ……。」
「それには感謝する。で、この部屋にかかっている術式の解析はできたのか?」
 ビットリオ=カゼラの質問に答えるべく上条当麻は顔を上げる。
 上条当麻は黒い穴の空間に入れていない方の腕で、へばり付いていた場所に落ちてある黄色い円盤を手繰り寄せる。同時に下げに下げていた両肩を戻す。
「ああ。こいつと石壁を作った時の違和感を使って調べ終えた。」
 そう言って、上条当麻は黄色い円盤をビフロストの応用魔術である黒い穴に投げ込む。その後、手早く穴を閉める。
「術式がかかっているのはこの部屋そのもの。そして俺の空間移動術式が人間を通さずに物だけを通した理由、それはこの部屋が創世記の最後から出エジプト記の最初までのエジプトと対応させられているからだ。」
 言われた直後からビットリオ=カゼラの脳内に創世記の最後と出エジプト記の最初、それぞれ数章ずつを一節一節浮かび上げていく。
 内容はこうだ。
 創世記ではヨセフという人物が兄弟によって殺されそうになり、試練の運命に耐えてエジプトの王の顧問となる。その後食糧難でエジプトを頼ってきたかつての家族を迎え入れる、というもの。対し出エジプト記は辛い奴隷の時代をエジプトで過ごしていたイスラエルの民をモーセという人物が神に命じられた者として救済し、エジプトを脱させてやるというもの。
 どちらも共通する部分はエジプトという土地である。
「なるほど。私達が奴隷となり苦しい時代を生き続けてきたイスラエルの民に、この部屋がイスラエルの民を囲い込み苦しめていたエジプトという国そのものに、それぞれ対応しているというわけか。」
「その通り、この術式は人間だけを閉じ込めるものなんだ。古代エジプトでも外部との物流はあった筈だから、神の如き者(ミカエル)の肉体構成の詳細図を出した時や魔術道具を出す時には働かない。だけれど人間が出ようとすれば、奴隷としてここに居ざるを得なくするって事だ。モーセの例もあるからエジプトから絶対に出られなかったわけじゃない、でもそこら辺は上手く調節しているんだろう。それで人間は何があっても脱出できないように工夫されているってわけ。」
「テッラめ、自身が術者だからとやってくれる。」
 ビットリオ=カゼラは少女に腕を貸しつつ、また左方のテッラをねめつける。
 しかし上条当麻は頭を左右に振る動作を視界の端で認める。
「いや、テッラは術者じゃない。元からここにはそういう術式がかかっていたんだと思う。」
「元からかかっていた? ならばなぜテッラもここにいる。」
 いつの間にか左方のテッラも上条当麻の口の動きを注視している。最も、左方のテッラの場合は周りにある葡萄酒やパンを体に入れる作業で忙しく、完全に集中しているわけではない。
「テッラが術者でないならば、テッラ自身もこの部屋から抜け出せないではないか。」
「おいおい、テッラの身体構造はただの人間か? 結構違うぞ。」
 はっとして、ビットリオ=カゼラは上条当麻に見せられた解析霊装の結果を思い返す。あの隠れ部屋で見せられた景色、そこに出てきた言葉は簡素に物語っていた。
「『極めて十字教の天使に近い人間』……。」
「そういうこった。」
 そう、左方のテッラは例外。ビットリオ=カゼラのような、ただのローマ正教徒ではない。神の右席という暗部組織に属する、天使化を試みている程の存在なのだ。人間を閉じ込めるための術式であっても、容易に抜け出せる。
「光の処刑だったか? これだけ御大層な術式なんて、普通の人間には扱えない。そして俺の見立てではこのユダヤ虜囚的な術式は天使化までしなくても良いと思う。ま、必要悪の教会(ネセサリウス)には関連施設へのパス代わりになるっつー何かがあるらしいけど、そういう施設に侵入や脱出防止用の魔術かけて、パス持ってる奴だけが出入り自由みたいな事じゃないだろう。」
 それこそ上条当麻がこの脱出できなくさせる術式を左方のテッラが使えないと言った理由。
 左方のテッラはつまらないといった顔で答えを返す。
「ええ、確かに私はそんな術式使えません。ここには元々そういう術式があったそうでしてねー、利用価値があると踏んだんですよ。」
 大きめに千切られたパンを葡萄酒で流し込み、左方のテッラは次のパンに小麦粉で汚れた手をつける。その目はしかし、ビットリオ=カゼラ達を狙うような視線で彼らの方を向いている。
「でも、それが分かったところであなたが生きて出られる筈がありませんよねー?」
「出られるさ。お前の光の処刑は不完全で簡単に攻略できるからな。」
 左方のテッラが今までで一番その顔を醜く歪ませる。言外に心外であると語っていると、そう理解するには分かりやす過ぎる程である。
 上条当麻は指を一本立てて注目させる。
「まず一つ、俺が短剣を二本投げた時、小麦粉の刃はそれを切断した。にもかかわらずカゼラやその子は刃の攻撃を受けても傷一つつかなかった事だ。普通に考えておかしいだろ? テッラは『人体を下位にした』んであって、『短剣を下位にした』わけじゃないんだから。」
 あの時、上条当麻は短剣を二本投げてそれぞれギロチンに当たった。しかしそれらは綺麗に分断されギロチンを止める事ができなかった。
 一方でビットリオ=カゼラはギロチンを受けても蚊に刺された程度の痛みも感じなかった。
 この二つのできごとは左方のテッラが放った言葉と矛盾していた。
「それはテッラの言葉通りに力を発揮するわけじゃないからだ。人体っていうのは俺しか指していないんだろ? たぶん言葉よりも自分が頭の中で思い描く物を対象にしてるんだ。」
 上条当麻は左方のテッラにそう投げかけた。投げかけられた左方のテッラは不機嫌に葡萄酒を飲むだけで、なんの反応も示さない。
 代わりにビットリオ=カゼラが質問する。
「ならばなぜ、お前の短剣がいとも容易く切られた? あれはお前を対象としていたもかもしれないが、短剣は対象外のはずだ。」
「例外ってのがあるんじゃないかと思う。例えば、俺を切り裂きたいのに俺の服が切れなくて駄目でした、なんて事だとお話にもならないだろ。」
 上条当麻は先程まで切り裂かれていた右腕の袖を見せてビットリオ=カゼラに説明する。ビットリオ=カゼラもそれで納得がいく。上条当麻が切断された二回も、またオーレンツ=トライスが殺害された時も、どちらもギロチンで服ごとやられていた。すなわちそれは対象者の持ち物は対象者の一部として設定できるという事だ。
「だから指定した対象物の持ち物は切れると考えられるわけだ。」
 上条当麻はまた指を二本立てて回答を再開する。
「次に二つ、テッラ、お前が優先順位を変えるのはいつも一つずつに限定されている事。これだっておかしいじゃねえか。一度に複数の対象の順位を変えちまえば手間も省ける筈だからな。」
 爆発の余熱も空気に伝わらなくなり、その場の者達は全員冷たさを肌で感じている。それでもなお、上条当麻の言葉に耳を傾けている。
 その一人であるビットリオ=カゼラも、上条当麻の言葉に思い至る事がある。光の処刑により十字に縛りつけられ、少女と上条当麻が攻撃された時、理由は分からなかったが動く事ができた。そのため、今こうして自由になっている。
「つまりこっちはそもそもできない事なんだ。一度に優先順位を変えられるのは一つの関係のみで、それ以外に対してはまた設定を変えなきゃならない。しかもそれを行う時には直前までの順位変更は無効化される。そんなとこかな。」
 ビットリオ=カゼラには左方のテッラがより苛立っている事が手に取るように分かっていく。ローマ正教徒として食事中の規則があるわけではないものの、そのパンを口に運ぶ時のがさつさが何よりも左方のテッラの考えを表している。
「続いて三つ、刃の強度だ。お前の刃は石の壁や空気の板に当たって砕けている。普通なら魔力や天使の力(テレズマ)を通した魔術、術式はそんな程度ですぐ壊れない。それが形を整えるだけであったとしてもだ。」
 三本の指を立てて上条当麻が言った。
「しかも、刃は何にも当たっていない時からぼろぼろと小麦粉をこぼしてたよな。あの尾ひれみたいにくっついてた白い軌跡やカゼラの空気の板に乗っていた小麦粉もそういう零れていた小麦粉なんだろ。」
 空になった葡萄酒の瓶が乱暴に机下に置かれる。
 少女は敏感に受け取るものの、意に介さない上条当麻は続ける。
「じゃ、それらはなぜこぼれ落ちていったのか。簡単だ。地上にある物は普通、空気にある気体分子や気体原子には常時当たっている。それに当たりまくった部分が欠落したのがそれだ。」
「空気だと?」
 思わずビットリオ=カゼラは声に出した。
「空気だよ。テッラの術式はなんともお粗末な事に、空気中の分子に当たるだけでもこぼれ落ちてたんだよ。」
 それは術式として欠陥どころではない。術式とさえ呼べないような物である。例えばビットリオ=カゼラや上条当麻のこれまで使ってきた術式、魔術、霊装というものは強度があった。
 ビットリオ=カゼラの鎧はオーレンツ=トライスの炎で焼かれ溶けたが、上条当麻の変化霊装は全く変化がなかった。逆にビットリオ=カゼラは天使の力(テレズマ)をわずかながらも伝える事で、アロンダイトは細身の剣であるにもかかわらずオーレンツ=トライスの魔剣に耐えた。
 だが、そのどれもが空気に当たるだけで分解するようなできのものはなかった。
 ゆえに光の処刑は致命的な欠点を持っている術式である。
 しかし、左方のテッラはそんな杜撰(ずさん)な術式を用いてフィウミチーノ空港で三人を圧倒し、少女を奪った。
「ある意味、才能だろうな。使えないなら、使えるように操る自分が頑張ったって事。
 そう考えると俺は学園都市なんかよりもテッラのやり方が好ましいと思えるぜ。」
「……まだあるんですかねー? 私とて自身の術式をこうも馬鹿にされると気分を害される事もあるわけです。手短に済ませなさい。」
 左方のテッラはパンを食い千切って命じた。
 上条当麻はおどけたように返す
「はいはい、分かりましたよ。四つには術式の発動に間がある事だ。最初はともかくとして、優先順位を変えてまた別の優先順位を変えたい時、数秒かもしれないが時間がかかってる気がする。これは間違いじゃないよな?」
 質問し返された左方のテッラは黙ったまま、それでいて大きな音を立てて葡萄酒を開ける。
「短い間で何度も使っていくと連続で変える事ができなくなっていくんだろ。できていたら応用力ってやつはもっと上がっている。」
「そのためにテッラは今もこうして話を聞かざるを得ない、という事か。」
「そういう事。それでもって葡萄酒やパンの補給もしないといけないし、燃費も悪い。光の処刑は未完成の未熟な術式なのさ。
 だから、的を欲した。」
 最後の声音に軽薄な色が消えた。元々その場を支配していたのは上条当麻であったが、その支配の性質が大きく変わったのだ。
「それだけ制約がある術式だ、練習をするのは普通の事。だがテメェの術式、光の処刑は極めて特殊な術式だった。例えば、訓練するための的として人間を使わないといけない程に。」
 放たれた言葉はビットリオ=カゼラの耳に届けられ、ビットリオ=カゼラの頭の中で意味を咀嚼(そしゃく)する。
 理解が、追い着く。
(訓練のための的として、人間でなければいけない?)
 頭は冷静でその意味を理解したというのに、心も魂もその解答を拒絶する。フィウミチーノ空港で爆発が起きた時に感じた感情がどれ程自分にとって楽な感情だったのか、それを思い知りながら。
 左方のテッラが何をするために少女を連れ去ったのか。その解答は、既に示されていた。
 人間に近いモノで代用する事にしたと、左方のテッラ自身が言っていたのだから。
「まさか……まさかまさか!? テッラ、貴様はこの子をそんな事のために――」
「ええ、殺します。」
 左方のテッラは即答した。無表情を作ったのではなく、その事に何の感情や躊躇いも見せず、自然な無表情である。
 小刻みながら、ビットリオ=カゼラの鎧は振動する。少女を気遣って殺すという表現を避けたが、そんな配慮は無駄だった。
 左方のテッラはローマ正教徒しか人間と見ていないのだから。
 だが。
 しかし。
 それでも。
 ビットリオ=カゼラは信じたくない。
 今、左方のテッラの顔に浮かぶ若干の不快の主張は少女の殺害とは関係ない。ビットリオ=カゼラにもそれは理解できる。
 分かった上で、ビットリオ=カゼラは左方のテッラの正しさを信じる。
 ただ、そんな思いが彼の呟くように出るだけ。
「なあ、テッラ。本当にお前はこの子を天へ召そうとするつもりだったのか?」
「はい。といっても、その異教徒が即座に天に召される筈がありません。煉獄に行かなくてはねー。」
 聞きたくはなかった言葉を、当然そうに口に出され、なおビットリオ=カゼラはやめない。
「オーレンツ=トライスはフィウミチーノ空港を襲ったんだ。ローマ正教の信者が傷ついてもおかしくはなかった。
 カミジョウは元々魔術師で、十字教全体がその存在を認めていないところにある。
 この子だって、お前から見れば宗教的侵略をした。三人を消そうとしたのには共感はできないが、理解はできた。」
「それで、だからどうしたというのですかねー。」
 奥歯を強く噛み締めて、ビットリオ=カゼラは叫んだ。
「でもこの子をただ殺す事に何の感情も沸かないのはおかしいだろうが!! 私と出会う前に、この子はローマ正教にも十字教にも何の悪さもしていない! そんな人々を、ただローマ正教徒でないからといって殺して良い筈がないんだ!」
 空気が振るえて、広い部屋の中でこだまする。
 理解できていた事である。左方のテッラは人を殺す事に踏み止まったりしない。それがローマ正教徒であるならばそもそも殺すという選択肢を光の処刑で叩き潰してでも選ばないが、ローマ正教徒以外の者には一切の容赦も加減もしない。
 少女に対する憤怒はビットリオ=カゼラが少女を保護し、十字架を北欧神話圏の文化ふうに下げた事にある。それは左方のテッラの中で確かな殺したいだけの理由になっている。
「お前の術式が、どれだけ立派な物であったとしても! そんなふうに誰かを殺すための道具にしてはいけない! まして主の肉をそんなふうに使う事などローマ正教自体が許さない!
 違うのか、テッラ!?」
 想いを吐露させたビットリオ=カゼラを見て、三人はそれぞれ感じた。
 少女はビットリオ=カゼラの普段到底見られないその気迫に圧倒されながらも、なぜかそれを恐れる事はなかった。
 上条当麻はビットリオ=カゼラの言葉を聞いて、ただ心の中で響かせた。
 左方のテッラは答えるのみ。

「……思い違いも(はなは)だしい。いい加減にしなさい!!」

 押し潰される。文字通りビットリオ=カゼラの方が言葉の迫力で負けた。(サン)ジョルジョが倒したとされる悪竜でさえ怖気づかせてしまいそうな程、威圧感がある。それは珍しく上条当麻でさえ後ずさっている事からも察する事ができる。
「私とて無慈悲ではありません。神や神の子の(いつく)しみの心には到底及ばないながらも持っています。だからこそ、異教徒は早くに殺してしまわねばならない!」
「だからこそ、だと?」
 これもまた珍しく、上条当麻が聞いていた。それは上条当麻自身の平常心を取り戻すための行為だった。
 左方のテッラは真剣かつ睨むような顔つきで()く。
「神聖の国、神がお造りなさって、死後我々ローマ正教徒に住まわせて下さるという絶対にして永遠の王国。そこに辿り着けるのはどういった人物か、お前程度でも分かるでしょうねー。」
「神聖の国に行ける者の条件、か。敬虔な十字教徒である事、愛を持っている事、金銭的な欲求を捨てて人のために金を使う事、道徳や人道を守る事……。いくらでも出てくるじゃないか。」
「そういった事も重要ですが、それ以外でもあるでしょう。お前の挙げた条件を満たさないで、なおかつ神聖の国へ行ける者達がねー。」
 その言葉からは喉奥に何かが引っかかったような苛立ちが少しだけ見える。
 ビットリオ=カゼラは旧約聖書、新約聖書、ヨハネ黙示録の内容を思い出す。しかし、そんな人物が神聖の国へ行けると明記されている場所はどこにもない。正典から外された書物を思い出しても同様である。
 上条当麻も同じく記述を発見できない。どれだけ聖書の中身を思い出そうとしても全く出てこない。
(待てよ。十字教においてミサを行う習慣は宗派を問わず多くの場所で存在するが、一方でそれは正典の中にも偽典の中にも書かれていない習慣だ。
 そして、テッラたびたび口にしていた十字教に本来ないはずの概念といえば……。)
「――煉獄。それが貴様の言いたかった事、か。」
 左方のテッラはようやく威圧感を解いて笑顔を浮かべる。葡萄酒とパンから手を離し、小麦粉が零れる事に構わず席を立つ。
 上条当麻も煉獄という言葉を聞いて全てを理解した表情だ。
「やはりあなたは優秀ですねー、カゼラ。いや、そもそも邪教の徒二人とあなたを比べるのもおこがましいのですが。」
「む……。」
 ビットリオ=カゼラはいくばくかの平静さを取り戻している。鎧の中から明瞭に聞こえる言を少しだけ濁らせた。未だ左方のテッラの威圧から完全に解放されたわけでもない。
 しかし、あえて口にする。
 聖書や偽典の中では明言された事のない、十字教が文化である事を表すものを。
「マタイの福音の書、コリントの信徒への手紙、マカベア記の第二書。これらの十字教にとってその善悪はどうあれど重要な書物中には、はっきりと明確にこそされていないが煉獄の概念を思わせる記述がある。次の世に言及する部分があったり、罪人のために祈る事などだ。」
 そう、煉獄とはあくまでも人々が勝手に想像し作り出した考えにすぎない。
 それはとても簡単な成立背景を持つ。
 人間、誰しもが幸せになりたいという欲求を持っている。逆に苦しみたくないという怯えも持ち合わせている。その上で、善人ならば神聖の国へ行って死後も幸せになれるが、悪人ならば地獄へ行き永遠に苦しみを味わわなければならないと言われたならば、その人に不安が襲ってくるものである。自分は本当に善人なのか、悪人だったならばどうにか地獄を回避できないだろうか、そう考える。
 だが、もしも地獄の苦しみが永遠でなくなるとしたら、ある一定期間の間だけ苦しみを味わうが、それが終われば神聖の国へと行けるとしたら。
 それは人々を魅了する考えとなる。
 そうして編み出された概念、それこそが煉獄である。地獄よりも苦しくないが、苦しみ自体は経験する。その中で十分に自身の罪を(そそ)ぎきったならば、晴れて神聖の国へ行き、幸福を享受する事ができるのだ。
「煉獄に行く者はどういう者達なのかは分かりますねー? 神聖の国へ行く資格を有してはいないが、かといって地獄に落ちる程でもない罪人というわけです。」
 左方のテッラは先程よりか破顔したとも言えそうな表情で、滑らかな耳触りで得々と説いていく。
「さて、煉獄に行けばいずれは誰でも神聖の国へと行けると言われています。結論を言ってしまえば、それは救いとなる筈ですよねー。」
 救い。そんな言葉を口にする人間に悪い者はいないと、ビットリオ=カゼラは漠然と思っていた。ビットリオ=カゼラが信仰するローマ正教そのものがそういった救いを掲げているし、実際に多くの人々を肉体的にも精神的にも救っている。
 今は違う。目の前にいる左方のテッラは、神を信じ主を敬愛して、その上で人を殺そうとする。
「貴様はそのためにあの子を強制的に天に召そうとしていたのか。救いを掲げて、あの子を……。」
「そうですとも。今殺せば煉獄送りで済むかもしれませんからねー。」
「煉獄送りで済む? まるでテメェが殺してなきゃもっと悪くなっているみたいな喋り方だな。」
「事実そうなのですから仕方ありません。」
 話の噛み合いはおかしくないようでいて、その実、真におかしかった。
「私は魂の穢れきった異教徒など大嫌いです。ぶっちゃけた話、光の処刑の調整という名目だけでも殺すでしょうねー。
 しかし神は慈悲深い。そのお心によってお造りになられたシステムは絶対です。
 そう、邪悪な異教徒でもいずれは許され救われるかもしれないという可能性。素晴らしいとは思いませんか?」
 一時的に食事の手が遅くなる。光源の分からない明かりが左方のテッラを照らす。
 食事の手の代わりに饒舌さを増して、左方のテッラはまるで悪酔いしたように語り続ける。
「思うのですよ。神や神の子がその御意思によって聖霊を介しなせられる救いを肯定しないで、どうしてローマ正教徒足り得るか、とねー。
 そんな、邪教の徒でさえもお救いになろうとするのが神の御意思だというなら、受け入れましょうとも。そして受け入れた先に私ができる救いへの手助けがあるんですよ。
 その事の一つとは、異教徒を早めに殺してそれ以上の罪を現世で作らせないようにする事ですねー。」
 ぞくりと、ビットリオ=カゼラの鎧の中で全細胞が戦慄する。
 左方のテッラは返答して緑色の机に置いてあったパンを一つまみして、自身の口へ運ぶ。
「そうする事で悪しき異教徒が地獄ではなく煉獄に送られる確率は格段に上がります! そして魂の浄化を()し、異教徒でさえも神聖の国で恩恵を(たまわ)るのです! というか、そうでもしないと異教徒はケダモノから人に至れませんからねー!」
 左方のテッラは純粋にそう言った。正しい事を正しいと言っているだけのように、語っているだけでも嬉しそうに、幸福そうに。
 神を称えるその言葉は、しかししっかりと二人のヒーローに異端と認識される。
 (うめ)き声のように、上条当麻は確認する。
「トライスを、オーレンツ=トライスをただ斬っただけで済まして燃やさなかったのも、そのためだっていうのか? 肉体があれば最後にお前らの親父さんが下す審判を受けられるから、肉体をある程度の期間保存させられるように、あえて燃やさなかったと?」
「その通り。魔女狩りが横行した時代はすでに過去です。やらなくていいんですよ、そんな事。まあ、あなた方が私の部下達が到着するよりも早くにフィウミチーノ空港を脱してしまって、穢れた魔術師の死体に防腐処理や終油(しゅうゆ)の準備ができなかったのは残念ですがねー。」
 今度はさざ波よりも平坦な調子だった。そんなふうに語られる言葉は、ビットリオ=カゼラを呆然とさせ、そして恐怖を今一度覚えさせる。
 なぜなら、左方のテッラの考えはビットリオ=カゼラのそれと同じだからである。
(私は、慈悲深い神や主が十字教徒でなければ救わない、などという規律を定めていると思わない、そういう想いでテッラに言葉をぶつけた。
 だというのに、何だ? 私とテッラに差なんてない。奴も私も、いやむしろテッラの方が、多くの人々は助かるものだと信じている。ローマ正教徒以外がどうなろうとまるで興味も示さなかった未熟な私と違い、神や主の慈悲深きを信じて、全てが助かると。)
 たとえそれが凶行、蛮行だとしても、左方のテッラは多くの人々を救おうと努力している。ただ一心に神や主を信じて、その救いを受け止めている。左方のテッラが少女を攫った理由を聞かれた際に異教徒である事を最初に口に出したわけも同じだった。ビットリオ=カゼラはそれを理解し、思わず音にする。
「私は、貴様がそんなふうに追い込まれてしまうまで、放っておいてしまったのか……。」
「え?」
 この状況に似つかわしくない、素っ頓狂な声を上条当麻が上げる。
 そうなのだ。左方のテッラの言葉を聞いても、ビットリオ=カゼラの心の中にはその一点しかない。
(なんと、愚かな。私はテッラを助けると言っておきながら、そんな事情さえ知ろうともせずにのうのうと生きてきたのか。異教徒に関心がない? ローマ正教の、同じローマに住む者さえ私は見ていなかったではないか!
 テッラの言う通り、私は度し難い未熟者だ!)
 愚かかもしれないが、それがビットリオ=カゼラに渦巻く念の全てである。ビットリオ=カゼラは現在バチカン市国に住んでいる人間であり、ともすれば左方のテッラに出会っていたかもしれない。後は簡単である。
 会う事ができていれば、左方のテッラを救う事だってできた。
 左方のテッラを救う事ができていれば、こんな過ちは未然になる前にそもそも犯させずにいさせてやれたに違いないという、傲慢な考えがそこにはある。
 ビットリオ=カゼラ自身気付いていない程の傲慢にして、責任を感じてしまう未熟な生真面目さである。
「く……すまない、テッラ。」
 小声で(うめ)いた後、打ちひしがれて事の重圧に項垂(うなだ)れそうになる。
 しかし、ぴたりと少女がくっついてきて、助けてくれる。
「あ……。」
 少女はその小さく愛らしい目を貯め込んだ水を介して歪んで見せている。
 かろうじて少女が支えてくれたからどうにかなったが、ビットリオ=カゼラは今すぐに戦い動けるだけの力が残っていない。
 一方で少女の小さな体は、冷たい鎧にしっかりと抱きついている。瞳孔は小さくすぼまって、ビットリオ=カゼラを見つめている。
 手甲越しに、その壊れてしまいそうなくらいか弱い小さな頭を撫でる。
「ありがとう。」
 少女ははにかむ。この状況では精一杯の笑顔を、ビットリオ=カゼラに向けているのだ。
 それを見せられて、ビットリオ=カゼラは人として自身を奮い立たせる。
(私は未熟者だ。テッラをそんなふうに考えさせ、凶行に走らせてしまった。同じローマの土地に住んでいながら、テッラの存在さえ知らずに。
 そしてこの子にもこんな負担をかけさせてしまった。今すぐにでも逃げ出したいであろうこの状況で、この子は私に微笑んでさえくれた。)
 残された力で、心の中で拳を握る。自責の念を力に変える。
 銀色の鎧の中でビットリオ=カゼラは立つ。よろけてなどいない、しっかりとした姿で。
(それでも、助けよう。厚顔無恥でもいい。絶対に、この子も、テッラも助けるのだ。)
 ビットリオ=カゼラの心が、魂が、再び叫んだ。
(テッラと同じなのではない。私にそんな決断はできないし、そんな思考や方法ではだめだ。私が、私として、私なりにこの子を助ける。他者からの受け売りでも良い、何としてでもやり抜く。そうしてテッラも助けてみせる。)
 左方のテッラとも、マタイ=リースとも、上条当麻とも違う、ビットリオ=カゼラとしての言葉。ローマ正教徒である前に、人間であるビットリオ=カゼラの想い。
 自然と出た一言は、少女に届く。
「そして安心しろ。私は必ず、お前を守る。」
 ビットリオ=カゼラの想いは、簡単に少女に伝わる。少女の顔から恐怖が跳ね除けられる。
「あーあ、上条さんの助言は必要なさそうだ。こんだけあれば、不幸でもないかな。」
 横目でその二人の姿を見ていた上条当麻が言う。
 今度は反対に、テッラに対して唾棄(だき)するような動きを見せる。
「にしてもテッラ、テメェのそれは万人救済論みたいなもんだな。十字教が旧教(カトリック)新教(プロテスタント)に分かれてしまった原因の一つが、その煉獄なんていうお前らの親父さんやイエスが明示しなかった救いを掲げていたからだろ?」
「へえ、あなたのような邪教の徒、(よこしま)な魔術師が何を言うかと思えば。あなた自身は新教(プロテスタント)寄りなんですか?」
「いーや。俺はむしろ煉獄でも何でも、多くの人を助ける概念は大好きだよ。」
 上条当麻はほんの一瞬、その眼に影を落とす。その一瞬だけの事を、ビットリオ=カゼラは鎧越しに察する。
 それを経て、上条当麻ははっきりとした輝きを目に宿す。
「でも、それで人を殺していい理由にはなんねえよ。」
 真理でも事実でもない、当たり前の事。そして実践が難しい事。
 上条当麻はそんな強すぎる言葉をあえて口にした。
「テメェはただただローマ正教の思想に染まっているだけで、異教徒の事なんかこれっぽっちも考えてない。そうだろ?」
「それが本来なら普通なんですがねー。まあ、ちゃんと罪を浄化したならば過去に異教徒であったとしても受け入れますよ。」
「なら、なおさら駄目だ。それを受け入れられる度量があるのに、そんな曖昧な概念で人殺しをしちゃいけない。人としての格を持ち合わせていたイエスだって、死ぬ時はその恐れを吐露したって聖書の中で書かれている。
 それに、そんな事例がなくったって異教徒の俺でも分かるよ。今のテメェに正しさなんてねえ。」
 それは上条当麻の信念。ビットリオ=カゼラに言った、誰かを助ける事は当たり前というその意味通りに、上条当麻は自身の想いを声で(つづ)った。
 上条当麻も気圧されていた。それでも伝えたいものが、曲げたくないものがある。上条当麻という人間はそのために突き進む事ができる。ビットリオ=カゼラは同意を求めるような上条当麻の横目に同意として頷く。
 だが、意思を曲げない立場は左方のテッラも同じである。異教徒を殺す事も左方のテッラにとっては間違いのない純粋な信仰の表れ。それを止める事は至難の事である。
「……フフ、ハハハ。」
 だというのに、左方のテッラは笑う。本当に薄く、笑う。皮肉を言われて素直に肯定するような、渇いた笑いだった。
「曖昧、ですか。確かにそうかもしれません。だからこそ私は、手段でしかありませんが神の右席をしているんですがねー。」
 最早パンも葡萄酒も、机には残っていない。ある物は空の瓶と少女の上着から取れたブローチだけである。
 机上の空論を破られた理論家のごとく、やつれた声で呟く。
「ゆえにこそ、私は知りたいのですよ。神の御意思と聖霊の働きによってなされる救いのその先をねー……。」
「その、先?」
 ビットリオ=カゼラの呟きが耳に入った左方のテッラは、これまた薄く笑って次の語りに入る。
「そろそろ戻りましょう。私とあなた方は楽しく会談をするためにここにいるのではありませんから。それと、カゼラ。」
「何だ。聞きたい事でもあるのか?」
 必要以上の慎重さを含まずにビットリオ=カゼラは応じ、左方のテッラはさらに返答する。
「いえ、これ以上私の邪魔をするなら、あなたであってもけがをするかもしれません。それでも戦いたいというのならご自由に。そういう展開も、個人的には好みですからねー。」
 左方のテッラは目を閉じる。左方のテッラ以外の三人もまたその動作を見れば分かる者達ばかりである。
「天に召します我らが父よ。此度の食事に祝福を下さりありがとうございます。あなたの御慈悲を賜り、私が今日という一日を健やかでいられるように――そして、願わくばあなたの敵たる邪悪を討てるように、見守っていて下さい。父と子と聖霊の御名において。アーメン。」
 綺麗な音色とも取れそうな程、その言葉は澄んでいた。それでいて、少女や上条当麻への敵意がむき出しとなった恐ろしい言葉でもあった。
 左方のテッラは目を開けたならば席を立ち、素早く小麦粉の袋を取り出して口を開け、言い放つ。礼服のポケットに手をつけた時点でそれは戦闘再開の合図となる。
「優先する。―――人体を下位に、小麦粉を上位に。」
 破壊の刃が発射される。
 瞬間、ビットリオ=カゼラは眼前に天使の力(テレズマ)が集束していく事を感じ取る。
 属性は(かみなり)。盾のように出現したそれは白く鋭いギロチンと激突して、青白い光を散らす。
 音が鳴り止んだ時、そこに小麦粉はなかった。
「言っただろ、お前の術式は簡単に攻略できるって。」
 涼しい顔である。若干視線を鋭くする左方のテッラの前で、上条当麻は神の祝福(ゴッドブレス)を操る。
「雷を司り、人に導きの幻視を見せる第三の目を持つ者。時にその権能から悪魔とさえ認識されてしまう天使。今のはその属性を強くした天使の力(テレズマ)の盾だ。」
 話が終わった直後、左方のテッラはその左腕を振り上げて、そして振り下ろす。小麦粉の出所はやはり左方のテッラの後ろにある小麦粉の袋からである。左方のテッラは慎重かつ狡猾にも後ろの小麦粉の袋を完全には消費していなかったのだ。
 相変わらず白い軌道の線を描いて向かってくる平べったいギロチンは真っ直ぐに上条当麻の元へ向かう。
 そこに、ただ無音が現れ。
 瞬く間の後、全てが両断された姿を見せる。
 そこには自らの出した風圧と風速で紅蓮のマントを揺らす、銀色の騎士が立っている。
「決着を付けよう。あの子も、カミジョウも、貴様も、皆助ける。」
 迷いはとうに振り切っていた。



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