第五章 殺しなんか並べない Un_Eroe_ed_Un_Eroe.


     1

「おおおおお!!」
 石床と鎧の当たる音が響く中、それ以上の雄叫びでビットリオ=カゼラは左方のテッラに迫る。
 途端に左方のテッラに付いていた大量の小麦粉が激流をなしてビットリオ=カゼラに襲いかかるが、その程度ではその進撃を止められない。
「速度も重みもない攻撃が通じると思ったか!」
 ビットリオ=カゼラの(まと)う金属の皮膚が左方のテッラに肉薄する。
 だが、左方のテッラは自身を貫きたがっている筈のアロンダイトを前に口元を歪める。

「優先する。―――異教徒の生を下位に、死を上位に。」

「まさかっ!!」
 ビットリオ=カゼラの全身は言葉の衝撃にどうにか堪えて後ろを振り向く。ビットリオ=カゼラの脳内にあった事柄は二つ。
 一つはフィウミチーノ空港で眠らされた事。それは事実であり、ともすれば遠隔操作的に攻撃を行ってくる事は予想の範疇ではある。しかし、ここまで直接的に命を奪えるような術式だとは到底思えなかった。
 そしてもう一つは幻。少女の肉体が十字架にかけられて、衰弱しながら死んでいく姿。幻視ですらビットリオ=カゼラには耐えられない。奇しくも上条当麻が先程使った神の祝福(ゴッドブレス)の属性が幻視を行う天使であったためか、振り返ってしまった理由は彼にも分からない。
 しかし。
 視線の先には、死んだ人間などいない。
 少女は状況を把握できておらず疑問を処理できずに顔に表しており、同じく振り返っている上条当麻もしっかりと地に足をつけて術式の魔力を生成していた。
(まさか、ブラフ――!?)
 理解と共に、がしりと音がする。
「甘いんですがねえ!」
 言われる頃には銀色の鎧が中身ごと投げ飛ばされていた。放物線を描く事さえなく直線上で七メートルはある天井まで一気に飛ばされる。
「が、はっ!」
 全身が千切れるかと思われる程の衝撃がビットリオ=カゼラを伝わる。
 紅蓮のマントが重力に引っ張られていき、壊れた部屋の破片ともども床に落ちていく。鎧越しに少量の衝撃が加わりさらに目をつぶる。
 どうにか目を開けても体がまるで動かず、思考することすらままならない。
 それでも結果は少しだけ残せた。
「ほう、やってくれますか。」
 ゆっくりと歩みながら、左方のテッラは右頬にできた血の一線を手でなぞる。
「あの短時間で攻撃術式を使いましたねー? おそらくは剣を十字架と見立てて悪性の拒絶という性質を引き出したもの。しかし見当違いですねー、私は神の右席ゆえに十字教的な原罪や悪性が存在しませんから、そういった攻撃が効かないんですよ。」
 自身の血を見つつ、左方のテッラは言い放つ。ようやく思考するだけの余裕が出てきたビットリオ=カゼラも、ただ歯を食いしばる事しかできない。
(くそ、何だあの怪力は!? 施術鎧が破壊されるかと思ったぞ。
 おそらくは光の処刑をあの子の生死ではなく私に使ったな。私の重量を下位に、自分の腕力を上位に設定したと考えるのが妥当か。)
 例えばイギリスには生身の肉体が強すぎるがゆえに生半可な施術鎧だと壊れてしまうため、あえて施術鎧を装備しない騎士団がある。しかしビットリオ=カゼラは左方のテッラがそこまで鍛え上げられた肉体を持っているわけではない事を見て知っている。礼服の上からでも訓練を欠かさないビットリオ=カゼラには手に取るように分かった。
(だが、それでも。)
 それでも成果は成果である。先程までは左方のテッラに傷一つ負わせる事もできなかったわけだから、一歩だけでも前進したと言える。
「そんでもって、上条さんが出張ってさらに前進させてやるわけだ!」
 駆ける音なく、上条当麻は左方のテッラを強襲する。その手にはアリーウスの剣とオリーウスの剣という二振りが握られている。
 上条当麻は左に持つ剣で振り下ろしの斬撃を行い、これは左方のテッラに容易く避けられ空を斬るのみになる。続く右の魔剣の横線を描く一撃も、左方のテッラに身を屈められて回避される。
 しかし、上条当麻はそのまま二振りの剣の切っ先を合わせて引き、瞬時に身体を屈めている左方のテッラを突く形に持って行く。突き辛い格好の手首を器用かつ見事に使っている。
 左方のテッラはおぼろげな光を反射する魔剣の、三発目の攻撃に行動を起こさない。
 なぜならば。
 突如として上条当麻と左方のテッラの間に膨大な神の祝福(ゴッドブレス)が発生するからである。
「げ!」
 そんな些細な言葉が吹いて飛ばされる程に、不安定ゆえに膨張する神の祝福(ゴッドブレス)は上条当麻を容赦なく襲う。
 焦る顔つきとは裏腹に、上条当麻の手にある二本の魔剣は器用に動かされ足の動きで脅威を受け流し、後ろへ跳躍して攻撃される範囲から抜け出す。
 小さいが確実に歪んであるその神の祝福(ゴッドブレス)は、気味の悪い甲高い音を出して、その力を一気に辺りに押し広める。瞬時に空気に透明なようでいて、どこか黄色い印象を与える力が伝達される。いや、それは伝達などではなく、空気を破断させる破壊の光と表現した方が適切である。
 上条当麻は安全圏へと脱したはずが、負傷を免れなかったために、ところどころぼろぼろになっている。
 対して左方のテッラは無傷。圧倒的な差ではないが、左方のテッラの実力を今一度再認識するには充分すぎた。
 呼吸をするように上条当麻は独白する。
「土の属性を思いっきり強くした天使の力(テレズマ)か。だけど、なんつー純度だっての……。」
 周りにある不可視の神の祝福(ゴッドブレス)を操りながら余裕の笑みを作り、左方のテッラは呼応する。
「私は神の右席ゆえに一般的な術式を扱えません。しかし、私の光の処刑は元々が天使の力(テレズマ)神の薬(ラファエル)として用い、小麦粉や対象を流れて働きかける術式です。だから神の薬(ラファエル)に特化させた天使の力(テレズマ)を扱う分には問題がないんですねー。
 いえ、誇ってよい事ですよ? 本来ならばこの力を使わずに終わらせるつもりでしたからねー。ま、使ってしまったからにはしょうがない、これからもどんどん使わせてもらいますか。」
 そして、左方のテッラ自身が操り司る土に特化した神の祝福(ゴッドブレス)では負傷しない。二人のヒーローはその事を瞬時に理解する。
 上条当麻は優しい筈の目つきを一層鋭くして、前屈する。突っ込む体勢を整えているという事である。
「待て!」
 アロンダイトを構えたビットリオ=カゼラが制止する。上条当麻は数ミリメートルだけ顔をビットリオ=カゼラに向ける。
「お前はあの子を守ってくれ。」
「けどな、俺達の目の前にいるヤツは普通の敵じゃないんだ。ぼけっとしていたら駄目なんだぞ!」
 いつでも飛び出せるように、上条当麻は姿勢を崩さない。戦いの中でわずらわしさを感じさせる顔つきになった事は無理からぬ事である。
「分かっている、だからこそだ。私が戦う!」
 上条当麻の眉間に(しわ)が寄り、唇が噛み締められる。
 わずかな逡巡の後、上条当麻は後ろに下がる。ただ一言、こう言うに留める。
「なら、絶対に負けるなよ。」
 その直後に非常な白い小麦粉の刃が上条当麻に襲い掛かる。
 上条当麻は背中をビットリオ=カゼラに託し、反応するより早く少女の下へ駆ける。
 代わりにビットリオ=カゼラが白いギロチンの前に立つ。アロンダイトに神の祝福(ゴッドブレス)を伝わらせ、邪悪を屠る光を放たせる。
「ふん!」
 真一文字に斬撃が放たれ、ギロチンだった小麦粉が途端に石床に落ちる。
 ビットリオ=カゼラの視界の先に、左方のテッラが直立する。そこに向かって一際床を強く踏みしめ、ひた走る。
 左方のテッラは笑みを頬に刻み、滑るような手つきで神の祝福(ゴッドブレス)をこねる。通常ただ世界を満たしていただけの力が、極端な土の属性に変えられて、深海の水圧にも似た重圧がその場を埋め尽くす。あまりの純度に色さえ透明に見えてしまう程である。
 まるで世界は左方のテッラの意のままであるかのように、普通の人間では立ち向かえない光がビットリオ=カゼラに迫る。
 それと比べ、対抗するビットリオ=カゼラの武器はどうしても見劣りしてしまう。矮小な世界に生きる者の力はどうしても小さく、術式による輝きが唯一の救いである。それでも神の右席が作り出す土の神の祝福(ゴッドブレス)には程遠い。
 ビットリオ=カゼラは独りごちる。
「テッラ、貴様に聞きたい。」
 返答を聞かず、ビットリオ=カゼラは大きく踏み込んで土属性の神の祝福(ゴッドブレス)を切り裂く。塊としてあった神の祝福(ゴッドブレス)がその勢いを急速に失い、小さな余波が少女と上条当麻にも伝わる。
 少女はその力にすくみ上り、まともにその余波を受ける。目を瞑っても仕方ないのに、どうしても開く事ができない。
 しかし数秒経っても何も起こらない。そう、つまりそれは何ともない事であった。
 疑問を表情に浮かばせる少女に、先程から少女の隣にいる上条当麻は笑って一言。
『安心しろ。お前の大切な奴は、そこら辺もちゃんと考えてる。』
 少女はビットリオ=カゼラに顔を向ける。少女が認めている、少女自身のヒーローを、じっと見つめる。
 そんな見つめられているビットリオ=カゼラは自身の切り開いた道を直進し、狙いを定めている。
 そのビットリオ=カゼラの接近に、それでも左方のテッラは揺るがない。
「聞きたい事とは何でしょうかねー?」
 わずかに右足を後ろに置き、左方のテッラは行動を終える。迎撃可能と暗に言っている体勢である。
 疾風の如くビットリオ=カゼラは左方のテッラの前に進出し、アロンダイトによる左上段からの斬りつけと共に声を一気に張り上げる。
「なぜお前は神の右席となった!?」
 想いを乗せ、鋭さと輝きを増した神の如き者(ミカエル)が装備するが如きアロンダイトが左方のテッラを強襲する。
 だが。
「優先する。―――剣を下位に、人肌を上位に。」
 緑色の礼服の肩に当たっただけで、光る剣は容易く止められてしまう。
 驚愕を口にするよりも早くビットリオ=カゼラは左の腕をアロンダイトから離し、銀色の拳を貫かせようとする。
「おおっと、危ない危ない。」
 左方のテッラはほんの少し体の軸を動かして、ただそれだけで拳をかわす。格闘技能に長けた者の動きではない、しかし計算ずくの経験則からくる戦闘の方法である。
 そして、お返しとばかりに土に特化した神の祝福(ゴッドブレス)が辺りを覆う。極端に一属性だけを強められた神の祝福(ゴッドブレス)は不安定である。簡単にその体積のような物を膨張させたかと思えば、先程のより規模は縮小したが威力自体はまだ高い攻撃がビットリオ=カゼラを襲撃する。
 異様に甲高い音による攻撃が四方からなされる中、それでもビットリオ=カゼラは目に強く優しい光を灯している。
「なぜ私が神の右席になったのか、でしたか。」
 いつの間にか後退していた左方のテッラは、顎に右手を当てて優雅に振る舞う。瞳の中を目まぐるしく動かして、左方のテッラはもう一度ビットリオ=カゼラへ視線を放つ。
 施術鎧による防護の加護で攻撃を凌いだビットリオ=カゼラは距離と術式による攻撃の計算をしつつ答える。
「そうだ。先程の救いのその先という言葉も気になるが、まずはそちらだ。貴様のように実力がある者が神の右席に居る事、それ自体は不自然ではない。神の右席には達するべき目的があるようだし、表のローマ正教内で出世する気がなくなるのも分かる。
 だが、それでは説明がつかない。」
 どの言葉にも覇気はない。覇気はないが、心に直接会って入ってくる信念の力がそれにはある。
「貴様はローマ正教を愛している、敬虔な信者でもある筈だ。それが神の右席のような神に対して不遜な考えを最終目的とする組織にいる理由が分からない。」
 言って、紅蓮のマントを大きく広げ、輝くアロンダイトを両手に飛び込む。目指すは振り子のように揺れている左方のテッラのみ。
 そこに覇気はいらない。
「それを聞いてどうするというのです。結局それを聞いたところで、我々のやる事に変わりはありませんがねー。」
「ああ、ないに決まってる。」
 高速で突き出されたアロンダイトの切っ先に、左方のテッラはいとも容易く手で応じる。その右手で簡単にアロンダイトを捉えたかと思えば、もう一方の腕でビットリオ=カゼラの鎧を掴もうとする。
 しかしビットリオ=カゼラの判断も早い。
 ビットリオ=カゼラは即座に光り輝く武器を両手から離し、逃がす事のないように右腕で左方のテッラの左腕を締め付ける。
 そのまま、重量の乗った施術鎧による拳が左方のテッラに引き込まれる――ところで。
 ビットリオ=カゼラに滑るような感覚をもたらし、左方のテッラの左腕は服の袖を残してするりと抜け出す。当然、銀色の手甲は空ぶってしまい、礼服の左袖も同時に抜けてしまう。
 直後に小麦粉が左袖から噴出される。
(なるほど、小麦粉を(あらかじ)め忍ばせておいたのか。拘束された場合小麦粉に神の祝福(ゴッドブレス)を流して摩擦を極限まで減らし、簡単に脱出できるようにしていた。全く、戦い辛い相手だ!)
 左方のテッラがビットリオ=カゼラの拘束を抜け出した方法がそれであると知って、ビットリオ=カゼラは後ろに跳ぶ。
「だが。」
 いつの間にか放り投げられていたアロンダイトをしっかりと掌握し、構えて対峙する。
「貴様を助けるためには聞いておかねばならない。」
 鎧を超えて、言葉を真っ直ぐ、強く。
「思えば、貴様はあの子を『まだ類人猿』と言い表していた。それは神聖の国に行けば人間として、ローマ正教徒として接するという事なのだろう。」
 左方のテッラは首の装飾にある数本の紐を大きく揺らし、出方をうかがっている。その目には先程までと同じ間違えた光があるのみ。
「その時から貴様の煉獄と神聖の国に対する考えを少しでも把握する事はできた筈だ。それをせず、貴様を助けるなどとほざいた私は愚かだった。」
 だからこそ。
「もう貴様の想いを知りもしないで助けられると自惚れるのはやめる。貴様の事をちゃんと知って、貴様の言う救いの先とやらが何なのかを理解して、その上で貴様を助ける。
 それこそ私が抱く想いだ!!」
 純真な想いが伝われば、覇気がなくともそれだけでいい。
 しばし、重苦しい空気に溶け込んだ沈黙が部屋を支配する。
 少女の心配そうな瞳、上条当麻の注意を怠らない視線に晒され、ビットリオ=カゼラはそのままの態勢で動かない。
 やがて、左方のテッラの口が開いた。
「ハハハハハハハッ!」
 沈黙を文字通り笑い飛ばして、やや目つきが緩和される。
 左方のテッラは左手で顔を覆うようにして、石で造られた天井を見上げる。
 そしてどこか気だるげに呟く。
「今この状況こそが、私が神の右席たる理由ですよ。」
「この状況こそが……?」
 眉間に皺を寄せて、ビットリオ=カゼラが反芻する。
 この状況とは、少女を奪い合う構図という事なのか、異教徒と戦うという事なのか、判断がつかない。
「ええ、その通りですとも。」
 三度、左方のテッラは物を教える態度になる。
「私達のローマ正教は十字教の最大宗派、世界最大の宗教ですねー。二〇億にも達する信徒を持ち、影響力は絶大なものです。
 しかし、それゆえに起こってしまうんですよ。派閥だとかその対立なんていうものが。」
 少しだけ間が作られ、警戒を解けないままの上条当麻が補足するように発した。
「対立というと、ローマ正教内部における対立だな。」
 言われ、ビットリオ=カゼラにも心当たりがある。
 例えばマタイ=リース。
 かの主席枢機卿は人望厚く、敬虔なローマ正教として尊敬に値する人物である。しかしそのために欲深い一部の信徒や司教、枢機卿に利用価値を見出されていたり、純粋な心で接してくる者でも信仰と尊敬とをはき違えて接する者も多い。
 それらは決してマタイ=リースにとって良い事ばかりではなかったし、現にビットリオ=カゼラと少女は(うれ)いを聞いていた。
 例えば少女を預かってくれた老司教達。
 老司教達は孤児を助けようとしていた。親もおらず、明日どころか今日さえ生き延びられるか分からない孤児達を集めて生活を支援しようと精力的に活動していた。にもかかわらず、反対する者達もいたためにその孤児達はローマ正教に実益をもたらす部隊として育てられる事が決まってしまい、また保護活動さしばらく先に引き伸ばされた。
 顔見知りでしかないビットリオ=カゼラでも、老司教達の悔しさややるせなさが痛い程に伝わってきた事があった。
 例えば今日老司教達と言い争っていた若い修道士達。
 すぐそばで怯え、震えている人々がいてもローマ教皇の安否を心配した者達。
 隣人に手を差し伸べるべきだとビットリオ=カゼラは主張したが、一方でローマ教皇の身を案じる気持ちには共感する部分もあった。
 ローマ正教は外側よりもその内側に敵や問題を抱えているとしばしば言われる。実際、矮小な世界しか知らないビットリオ=カゼラでさえこれだけの対立や問題を挙げられる。世界規模になると、最早星の数だけに膨れ上がるだろう。
 そんなビットリオ=カゼラを見て、隙になるだけだというのに、左方のテッラは饒舌に語る。
「そう、ローマ正教の中でさえ(いさか)いとは無縁ではいられない。
 しかも個人個人でさえも思いや考えは違ってきますねー。ある者は社会的地位の低い弱者こそ救われるべきだと思い活動を行い、ある者はローマ正教という組織を最優先として行動しています。そうそう、誰か適正な人物をローマ教皇に据える事で世界を正そうという者達もいましたねー。
 そして、何より困った事に各々は各々、敬虔なローマ正教徒として励んでいるのですよ。ローマ正教の教義を達して人々のためになるように!!」
 前触れなく、突風のように小麦粉のギロチンが尾をちらつかせつつ二枚放たれる。左方のテッラにより土の色合いが強くなった空気の中で、補正された精緻な狙撃が繰り出され、ビットリオ=カゼラを狙う。
 ビットリオ=カゼラは未だに肌で感じられる危険と恐怖を跳ね除け、剣の先端から光る羽を撃ち出す。かと思えば、速さと力強さを兼ね備えた一塊の鎧は手に握られている輝く剣で白い刃を叩き斬る。優先すると左方のテッラは言っていないが、それでも既に言葉にせずに優先順位を変えられる事は明白である。危険を除する事に躊躇はなかった。
 少女の目がただ圧倒され、声の出ない唇がぱくぱくと動かされる。
「カゼラ、あなたは知っていますか? ローマ正教全体でどれだけの派閥があり、どれだけのいがみ合いがあるのかを! そしてそれの根元が、共に救われるべき人々のために行動するその理念だという事を!!」
 接近するビットリオ=カゼラに、左方のテッラは神の薬(ラファエル)を極限まで高めた神の祝福(ゴッドブレス)で攻撃する。泡のような神の祝福(ゴッドブレス)が三次元的にいくつも展開、散乱されてビットリオ=カゼラの鎧に強い負荷を与え続ける。
 ビットリオ=カゼラは兜の下で苦しげな表情を作り、なおも前進する。
「それがローマ正教なのですよ! そしてそんな状態で神の救いが――最後の審判が下ってしまえばどうなるか!?」
 どうにか剣の範囲内にまで行き着いたビットリオ=カゼラだが、左方のテッラはビットリオ=カゼラに防がれた後方の小麦粉を引き寄せる。
 同時に肌に纏わりつかせてある小麦粉を瞬時に鋭いギロチンに変え、再び挟撃する。どちらのギロチンもこのままでは腹部に直撃する。
「ぐ、おおおおお!」
 ビットリオ=カゼラは屈んで二つのギロチンを避ける。剣の範囲にギロチンが入った時点で間髪入れずに二つを破壊する。
「神聖の国で、愚かな対立がそのまま持ち越されてしまうんですねー! しかも煉獄からは異教徒としての罪を洗い終えた者達までが神聖の国に来るのです!
 優先する。―――人体を下位に、腕力を上位に!」
 整えられた道を行くかのように、左方のテッラの細腕は正確にビットリオ=カゼラの兜に当たり、大きくひしゃげさせる。
 だがそれで(ひる)める程ビットリオ=カゼラの意志は柔ではない。
 左方のテッラの首辺りから水平になるように振られている紐を一本強引に掴むと、そのまま引き寄せて左拳を腹に叩きこむ。
「が、ごっ……。」
 血こそ吐かなかったが、意図せず空気を吐き出してしまう。
 それでも左方のテッラの攻撃は収まらない。
 余分な脂肪が全くついていない顔に気色悪い程の微笑みを浮かべ、左方のテッラはビットリオ=カゼラを先程受けた力よりも強引に床に叩きつける。
「ぐう!」
 神の祝福(ゴッドブレス)の通されている紅蓮のマントが敗れるかと思う程、その叩きつけはきつい。軽く石床が壊れるだけの叩きつけで危うく舌を噛みそうになり、ビットリオ=カゼラはどこか冷静な部分の心で冷や汗を垂らす。
「カゼラ!」
 上条当麻が遠方から心配の色を強くした大声を上げ、その足を一歩踏み出そうとする。
 ビットリオ=カゼラはそれが嬉しく、また苦い味も覚える。
 行動は早い。ビットリオ=カゼラは手放さずにいる右手の細身の剣で左方のテッラを斬りつける。
 即反応した左方のテッラは神の薬(ラファエル)の純度が極端に高い神の祝福(ゴッドブレス)を鎧周りに作り出して退く。
 不安定なそれらは連続的に爆発し、ビットリオ=カゼラに衝撃を与える。しかし何度も食らい慣れができつつあるビットリオ=カゼラは収まった途端に起き上り態勢を立て直す。
「カゼラ! やっぱり俺も――」
「貴様は来なくていい!」
 鋭い一言だった。
 未だ最初の一歩を踏み出そうか迷っている上条当麻に、ビットリオ=カゼラは振り向く事なく伝える。
「あれを行うぞ。」
 その一言で上条当麻は大きく(まぶた)を開ける。
 対して、左方のテッラは無言で白い刃を向けてくる。
 ビットリオ=カゼラは脇目も振らずにギロチンに突進し、光る剣で一振りして、さらに真っ直ぐ進む。
「作戦会議は終わりましたかねー?」
「ああ。それで、愚かな対立が持ち越されるという話の続きを聞きたいんだがな!」
 輝く細身の剣により一層の神の祝福(ゴッドブレス)を流し込み、左方のテッラの純粋すぎる神の祝福(ゴッドブレス)の爆弾をほんのわずか逸らさせる。爆発によるビットリオ=カゼラへの負荷が少々軽くなり、品の欠片もない金属と石のぶつかり合う足音が一瞬で駆け抜ける。
「いいでしょう。といっても後は簡単なんですがねー。私の考えなど所詮は神のなさる御業を疑っての事ですし。」
 緑をした礼服の右腕を落とすような動作と繋がって、白いギロチンはビットリオ=カゼラの頭上に落ちる。銀色の鎧を構成する右腕が旗を振り上げるように輝き、それによって照らされるアロンダイトでギロチンを跡形もなくして、次いで戦闘経験から基づいた緻密な角度からの剣をくり出す。
「神聖の国は幸福の約束された国。にもかかわらずローマ正教徒内部にある対立や問題が解決されずに神聖の国へ行ってしまえば、結局それは幸福な国なんかじゃありません。また神の御心や主の愛を知らなかった異教の者達もいずれは入ってくるわけですから、最悪、戦争すら起きるでしょう。それこそ、現世で言うところの世界規模の戦争、世界大戦ですらもねー。」
 言いながら左方のテッラは避けるというよりビットリオ=カゼラの懐に入り込む。
 左方のテッラが言った事は、ビットリオ=カゼラにとってみれば馬鹿げた事である。急接近してきた左方のテッラが使う光の術式による怪力を受け流すその時、ビットリオ=カゼラはむしろ冷静になる程である。
 全知全能である神がそれを考慮に入れずに神聖の国をお造りになり、最後の審判を下すわけがない。
「いくら神がお造りになられた完璧なシステムだとしても、人間が、ローマ正教の敬虔なる信者達が、そのローマ正教徒たるために破壊してしまう。全く、愚かな事を考えますよねー?」
 苛烈な戦いの中、他人事のように小さく呟く左方のテッラはどこかビットリオ=カゼラに響くものがあった。
 しかし、それで戦いをやめられる事はない。
「ですが、私はその不安を拭えなかった!!」
 突如として左方のテッラを起点として莫大な神の祝福(ゴッドブレス)が解放される。その色は今までの神の祝福(ゴッドブレス)による爆撃が霞んで見える程の高純度である。正しく四大天使の一体神の薬(ラファエル)と同質の神の祝福(ゴッドブレス)が、左方のテッラから放たれたのだ。
 ほんの一瞬だけ早くそれを察知したビットリオ=カゼラは紅蓮のマントを天使の翼の如く広げて斜め上後方に飛ぶ。
 その察知の最中で、もう一つの形を認識する。
界力(レイ)か!?)
 ここに来て、ビットリオ=カゼラはようやく理解する。
 左方のテッラは神の祝福(ゴッドブレス)だけで光の処刑を操っているわけではない。その力や左方のテッラが自身から生み出した魔力に紛れて、神の祝福(ゴッドブレス)を人間の扱いやすいように変換した界力(レイ)もまた光の処刑に使われていたという事である。
 それを、先程の左方のテッラを中心とした莫大な力の解放で知る事ができたのである。
(この部屋には神の祝福(ゴッドブレス)界力(レイ)に変換する神殿としての機能はない。だというのにそれを行えただと。しかも、私達との戦闘の中で常に行っていたというのか?
 まだ、これだけの力があるのか、神の右席は。いや、左方のテッラは……!!)
 細身であり光り輝くアロンダイトという名の剣を水平にして、どうにか神の祝福(ゴッドブレス)による攻撃を少しでも防ごうと足掻く。それは何万度もある焼け石に水をかける事にも等しい行為でしかない。
 受け止めきれず、まともに食らったビットリオ=カゼラは、それでもどうにか膝をつかずに着地する。それだけでも十分に奇跡的な事だ。
 その上で。
「優先する。―――距離を下位に、移動速度を上位に。」
 ビットリオ=カゼラがその言葉を認識するよりも遥かに速く、左方のテッラはその目の前に立つ。
 奇跡の代償として感覚が本調子でなく、ビットリオ=カゼラのアロンダイトは容易く土属性の神の祝福(ゴッドブレス)に阻まれる。
 左方のテッラはそれを見て真剣で強い意志を感じさせる表情で語る。
「救いが欲しい!」
 左方のテッラは光の処刑で肉体を強化していない。しかし、たった一つだけビットリオ=カゼラに勝る部分があるのだ。
 それは速度。移動速度を上位に設定しても、腕を振るだけの事でさえ腕が移動したためにその速度はどのような距離よりも上位に置かれる。
 左方のテッラの左腕はビットリオ=カゼラが武器を持っている右手首を正確に掴む。その速さはまさしく音速を超えるのではないかとその場の全員に錯覚させる程で、ビットリオ=カゼラは何が起こったのか把握できずに、またアロンダイトを動かせずにいる。
 左方のテッラは素早く連続で神の薬(ラファエル)が強化されすぎた神の祝福(ゴッドブレス)を浴びせ、叫ぶ。
「救いを与えたい!」
 ビットリオ=カゼラは呻き声さえ許されない極限の爆風に晒され続ける。いかにビットリオ=カゼラの着る施術鎧がローマ正教および十字教の誇る対魔術特化鎧と言えど、この戦いの中で確実に(ほころ)びが生じている。
 ヒーローを見守らざるをえない少女の視線に更なる心配の色が重ねられ、その小さな両手が不釣り合いな程に強く握られる。
 そして、そんな事はお構いなしに左方のテッラは話し続ける。
「本当に永遠の救いをローマ正教の信徒が得る事ができるのか、私は知りたいのですよ! 神の御意思と主の愛によって聖霊が我らをお導き下さったその先が、(まこと)に平和で幸福な国となり得るのかを!!」
 それは絶望よりも性質(たち)の悪い思想である。なぜならその不安は神により最後の審判が下されるその時まで解消されない類の懸念だからである。
 だんだんと鎧の銀色と剣の光が()せていく中で、ビットリオ=カゼラは耐える。表情を少女に見せる事がなくできているこの状態はある意味では本望だ。だが、その本望はあくまで劣勢の時の本望でしかない。
 本当ならば左方のテッラを圧倒するどころかその凶行を止めなければならないのに、少女にいらない心配をかけさせているかもしれない状況が、すでに間違っている。
「ゆえに私は神の右席の地位に()き、光の処刑を(たずさ)えた! 我々が、ローマ正教の信徒達が救われたその先の未来が輝かしいものであるかを知るために! そしてそうでないならば、それさえ解決するために!!」
 左方のテッラは再び後方にある小麦粉の袋から三つの鋭い刃を作り出し、少女と上条当麻に差し向ける。ビットリオ=カゼラが反応するよりも早く、上条当麻は雷の属性が強まった神の祝福(ゴッドブレス)の盾で一つ防ぐ。それ以外の二つには対処が間に合わず、少女の声なき悲鳴や再び服の中から出現させた小さな東洋の龍と共に回避行動に入る。
 ビットリオ=カゼラは強大な力の威力に悶え、そしてどうにか術式を組む。
 ビットリオ=カゼラはそれだけで一撃必殺の領域にあるやや弱く光るアロンダイトを左方のテッラに当てようとする。左方のテッラは自然な動きでビットリオ=カゼラの腕を止める、が。
 油を触っているかのように掴めず滑る。
「なっ!」
 その間にビットリオ=カゼラは下敷きになっている赤いマントを無理矢理広げ、翼の如く動かして仰向けの状態で左方のテッラから滑って離れる。
 ビットリオ=カゼラが行った事は何という事はない。単純に全身に油を塗って滑っただけである。
 オーレンツ=トライスに最初に突っ込んでいったとき、洗礼時の聖水を呼び起こし水の属性と対応させた。今度はその聖水と上条当麻から渡された油のような聖水とを対応させて鎧の全体に塗ったという事である。
 普通油と水は相容れない。しかし十字教において油はかなり重要な物の一つで、そこから宗教的(俗に表現するなら魔術的)に油と聖水とを組み合わせた。神の子の代名詞でもある、救世主という意味のキリストの語源は油を塗られた者という意味を持っている事からもそれが分かる。
 左方のテッラから離れたビットリオ=カゼラは俊足で左方のテッラにまた迫る。今度は神の如き者(ミカエル)神の祝福(ゴッドブレス)を再供給した形で、敵対している者よりもはるかに程度の低い天使化もどきを行っている。
 左方のテッラは急激に神の薬(ラファエル)を強くした神の祝福(ゴッドブレス)で対抗し、火と土の属性がぶつかり合う。
 天使に包まれたとも形容できそうな世界の中で、ビットリオ=カゼラは問う。
「なるほどな。貴様はそのローマ正教徒同士の理念による対立構造をどうにかするために神の右席となっている。そして、その解決すべき対立はこの状況も変わらない、という事か……っ!」
「全く、その通りですねー!」
 今、ビットリオ=カゼラと左方のテッラはそれぞれの理念に基づいて行動している。
 ビットリオ=カゼラはそのローマ正教徒としての矜持(きょうじ)から、左方のテッラに蛮行を行わせず、更正させる事が救いだと思いそのために左方のテッラと戦っている。
 左方のテッラは神聖の国という未来の救いを本当の救いにするために光の処刑を編み出し、少女を練習の標的として殺そうとしている。
 どちらも方法は違えどローマ正教の教義を自分なりに実践しようとしての行動なのだ。
「ふん!」
 ビットリオ=カゼラは重みと速さを同時に乗せた光り輝くアロンダイトで乱舞する。左方のテッラはどこ吹く風とばかりに余裕を崩さずその攻撃を避ける。
 ビットリオ=カゼラに上条当麻の方を振り返る余裕はない。白線を描きながら猛追してくるギロチンから少女と自信を防ぐ事に腐心するのみだろうと予測する。
「貴様の想いは理解した。貴様が今回の事件で何を思っていたのか、私なりに推し測れた。」
「ならばどうします!? ローマ正教一三騎士団のビットリオ=カゼラはどのような決断を下すのですかねー!?」
 問われて、ビットリオ=カゼラはもう一度自身の中で左方のテッラを再分析、いや再理解する。
 左方のテッラはローマ正教徒のために生きている。ビットリオ=カゼラが想うよりもずっと強く、大切に想っているのだ。
 それゆえに少女の行動は左方のテッラにとって到底認可できないものであったし、またビットリオ=カゼラが二度目の糾弾を行った時激昂した理由も、左方のテッラが信じるローマ正教の教義を、そしてそのために今までしてきた努力を否定されたようなものだったからだ。
 それを正しく認識して、ビットリオ=カゼラは言い放つ。
「貴様の想いは決して間違ってはいない。だが、そのための行動は確実に間違っている。それを止めるだけだ。」
 左方のテッラは、予想通りの答えに満面の笑みを浮かべる。
「良いですねー、その答え!
 それ程までにローマ正教徒全員が正しきを行おうとはしていないでしょうが、しかしそれでも! 私の信ずるローマ正教にはあなたのようにローマ正教の教義のために頑張れる人がいてくれる!!
 この上ない喜びです!」
 銀色の鎧と緑色の礼服、それぞれを着こんだ実力者達は部屋の中を踊るように攻防の応酬を繰り広げる。
 左方のテッラは神の祝福(ゴッドブレス)による爆破攻撃のみを使ってビットリオ=カゼラと戦っている。
 光の処刑の弱点には変えられる優先順位は一度に一つだけという部分がある。しかし左方のテッラはあえてそれを積極的に使わない事で、絶対の切り札をいつ使ってくるか分からないという不安やそれに対する警戒をさせ、ビットリオ=カゼラや上条当麻の精神に油断をさせない戦術を行使している。油断できないという事は精神をずっと張り詰めていなければならないという事だ。無論二人のヒーローはそんな簡単には精神的な疲労の影響を見せないだろうが、重圧としては十分である。
 またビットリオ=カゼラが強い事も左方のテッラに光の処刑を使わせない理由の一つだ。ビットリオ=カゼラの攻撃は結局のところ正確に相手を攻撃している。それゆえに傾向が分かりやすく、左方のテッラにとっては攻撃が読みやすい。左方のテッラは不安定すぎる土の神の祝福(ゴッドブレス)でアロンダイトの軌道を邪魔すれば良いわけである。
 加えてビットリオ=カゼラの攻撃は左方のテッラを殺さないようにしている事も関係している。容赦があって殺気のない攻撃はある程度注意する事はあっても左方のテッラの負担にはなりえない。
 だから、左方のテッラは気付かない。通常の魔術師相手ならば何人でも圧倒できる実力があるがゆえに気付けない。
「テッラよ、策に嵌まったな。」
 ビットリオ=カゼラが意味深げな言葉を発して、左方のテッラはようやく顔をはっとさせる。
「なぜ貴様にパンや葡萄酒を補給させたと思っている? 不利益しかもたらさない行動を、我々がとる必要はない。」
「ま、さか!!」
 左方のテッラがビットリオ=カゼラの後方を見やると、少女を後ろに庇いながら上条当麻が不格好な槍を投げようとしている。
「行くぞカゼラ!」
「おお!」
 今度はビットリオ=カゼラが木の板を何枚も重ねた十字架の一辺のような物を作り出している。エクス=ヴォトによる物だと左方のテッラが理解するよりも早く、二人は魔力と神の祝福(ゴッドブレス)を注入する。
「光の処刑を逆手に!? この短時間でそんな術式を組み上げたというのか!?」
 左方のテッラは予感する。光の処刑は神の子たる主が人間という下位に位置する筈の存在に殺された事を術式として応用、発展させた術式である。ゆえにもし上条当麻とビットリオ=カゼラが光の処刑を使う人間と主を対応させて槍による攻撃に転じれば、左方のテッラの敗北は確定である。
 左方のテッラが全身からべた付く汗を拭き出し、そして。

「貴様にパンと葡萄酒を補給させた意味? ――気まぐれ、だろうな。」

 銀色の拳が左方のテッラに炸裂する。
 一瞬どころでないその隙を、ビットリオ=カゼラは上方に飛ぶだけで費やす。
 よろけた左方のテッラが次に見た物は雷光である。上条当麻がいた方面から放たれたそれは、左方のテッラ程ではないが雷の属性を強くした神の祝福(ゴッドブレス)による一撃だ。
「……この程度で、神の右席を超えられると思うなよ、異教のクソ猿め!」
 左方のテッラは礼服の右腕から大量の小麦粉を勢いよく溢れ出させる。ビットリオ=カゼラに左腕を掴まれた時のように、右腕にも隠していた予備である。
「優先する。―――雷を下位に、小麦粉を上位に!」
 何の変哲もなさそうな小麦粉は部分的に球面を展開し、雷鳴を轟かせる神の祝福(ゴッドブレス)を容易く防ぐ。
 そのまま左方のテッラが上方にいるビットリオ=カゼラを見やる、前に。
 小麦粉と雷の間から一瞬だけ、弓が垣間見える。


 上条当麻は弓に矢を(つが)えている。
「天弓は虹の象徴。よって虹の弓と対応付ける。」
 ローマ方言の元、その弓はアフリカ系の魔術の色を帯びる。
 その弓はビットリオ=カゼラが所属する一三騎士団の物で、本来神のによる物とされる天弓の模造品である。ビットリオ=カゼラが天弓を持っていなかった理由がこれである。
 すなわち、上条当麻に貸す形で天弓を持って来ていたという事だ。
 少女を片足の後ろに隠し、そしてその小さな両腕で掴まれながら、上条当麻は次の魔術を行う。
「その矢は雷と同義。よってインドラの矢と対応付ける。」
 途端に、矢にインド系の魔術の効果が付与される。
 矢は先程左方のテッラが驚愕した槍のような物である。実際には槍ではなく矢だったという事であり、それ自体は魔術的な物品でもない。潰され殺傷能力をなくした矢の先端からは少しだけ金属とは違う光り方が見える。
 上条当麻は目を動かさない。決してその一点から目を逸らす事はなく、一心に魔術を繰る。
「そして人と象と雷の伝承より、人が持つ毒の矢は雷を殺せると解釈。対応付ける。」
 再び、そして今度は矢にアフリカ系の魔術の匂いが付けられる。
 幾重にも異なる文化の魔術を重ねられたその弓矢は、しかし不自然なまでに安定している。
 青白い光とごく普通な筈の小麦粉とがせめぎ合う真正面に向かって、上条当麻は宣告する。
「――穿(うが)て!!」
 その言葉と同時に、閃光が放たれた。
 天上の存在が如き(神鳴り)の矢は光の処刑で防がれ続けていた神の祝福(ゴッドブレス)に直撃し、食い破る。
 しかし。
 食い破ったところで、雷ならば光の処刑を突破する事は不可能。
 その光景を見て、左方のテッラは小さく笑う。
「何をするかと思えば、その程度では私の光の処刑は――」
 言葉が途切れた。
 一直線に撃たれた多数の文化の魔術を内包する矢は、確かに雷の属性を持ち雷に対応させている。
 だが、それは本当の雷ではない。
 たとえどれだけ小麦粉が雷を除去しても、本体となる矢だけは変えられない。
 それは雷でも魔術でもない、ただの先の潰された矢なのだから。
 本当に、拍子抜けする程簡単に矢だけは小麦粉の壁を通過する。
 左方のテッラは破られた小麦粉を見るまでは理解ができずに、呆然としている。
 そこから正気に戻った時には既に遅い。
 回避行動をとるよりも、神の祝福(ゴッドブレス)を不安定化させて防ぐよりも。
 矢は左方のテッラの喉を(えぐ)るように突き刺さる。左方のテッラの口から音にも満たない呻きが現れ、肉体が後方に吹っ飛ぶ。
 が。
 それでも――それでも左方のテッラは踏み止まる。
 それは世界中の何物でも追いつけない執念。
 左方のテッラの目に宿るどこか人を怖がらせる光だった。
 異教徒の上条当麻では決して消す事のできない、(まばゆ)く拒絶の光。
 だから、そこで。
 もう一人のヒーローが動く。
 紅蓮のマントを天使の翼のように広げ、神の如き者(ミカエル)神の祝福(ゴッドブレス)を細身のアロンダイトに纏った、銀色の騎士が。
「お、――おおおおおおお!!」
 ビットリオ=カゼラは左方のテッラの上で雄叫びを上げた。
 狙いは上条当麻の残した雷。神の祝福(ゴッドブレス)による雷のそれを、強引に細身の剣に付与する。そのまま助けるべき相手に向かって滑空する。
 対して左方のテッラの目は、やはり全く死んでいない。濁ったようでいて、純粋でひたむきな光を目に浮かべ、左方のテッラは両腕を上げる。
 それだけで、左方のテッラの行動は、終わる。
 魔力の流れも、土属性の神の祝福(ゴッドブレス)も、界力(レイ)でさえ、左方のテッラは生み出せない。
 そしてビットリオ=カゼラも、その隙を見過ごせる程愚かではない。
「吹っ飛べ!!」
 ビットリオ=カゼラの剣から火と雷の属性が混じった神の祝福(ゴッドブレス)がギロチンのような形の斬撃として発射される。
 左方のテッラは腕を下げる事さえせずにまともにそれを受ける。大量の力が左方のテッラに当たって破裂し、左方のテッラは今度こそ吹き飛ぶ。
 その後ろには左方のテッラが用意していた緑色の机と椅子、そして大量のワイン瓶と小麦粉の袋がある。
 低空飛行するように飛んだ左方のテッラの肉体は最前列にあった緑色の小麦粉の袋に当たった事で石床を滑る。中身の小麦粉を被りながらも衝撃は殺せず、黒に近い褐色の瓶に当たっては壊れて、中身の葡萄酒が左方のテッラや小麦粉の入っていない袋を汚す。首のところにあった大きな襟を不自然な方向に曲げつつ、当然葡萄酒の瓶の砕けた破片が左方のテッラの全身に傷を作り、二つの液体の赤と赤が混じり合う。
 最後列にあった葡萄酒の瓶を赤く塗らされた緑髪で小突いてようやく止まり、瓶を後ろに倒す。
 後には小麦粉と葡萄酒に汚れ、身体と礼服の節々を瓶の破片で切り裂かれ、仰向けに転がっている左方のテッラが残るのみとなる。

     2

「はあ、はあ……!」
 ビットリオ=カゼラは着地した途端にその場に両膝を突いてへたり込む。大きく金属の当たる音が部屋に響き渡り、少女と上条当麻は急いでビットリオ=カゼラの元へ向かう。
 まず少女がビットリオ=カゼラに抱きつく。鎧越しに少女と抱き合って、ビットリオ=カゼラは改めて少女の存在を確認する。
(ああ、この子は、こんなにも小さくて、頼もしい存在だったのだな。)
 無骨どころかみっともないような鋼の手で、ビットリオ=カゼラは少女の頭を撫でる。
 そこでもう一人の貢献者である上条当麻は一歩引いたところで右腕を振り上げて祝う。
「よくやった、っていうのは高圧的か?」
 笑いながら話しかけてくる上条当麻に対し、兜を上条当麻の方へ向けて応対する。
「何を言っているんだ、貴様がいなければどうしようもなかった場面ばかりではないか。感謝している、ありがとう。」
「おっと、ちゃんと礼を言い合うのは後だ。まずはテッラを診てやらないと。予想外に傷を負わせちまったからな。」
 上条当麻はビットリオ=カゼラと少女よりも前へ進み出て、小さな緑色の机にあったブローチをビットリオ=カゼラに投げる。そしてぼろぼろになっている左方のテッラのところまで行く。床一面に赤い葡萄酒の中身が敷かれ上条当麻の運動靴を汚すが、上条当麻は特に気にする事もなく近づいていく。
 戦いに敗れた左方のテッラは先程からほとんど動いていない。胸がやや上下に動いている事から呼吸はしていると分かるが、それ以外の容体(ようだい)はビットリオ=カゼラには推し測れない。
「毒というのは、何だったんだ?」
(しびれ)れ薬だよ。多分に魔術的な物だから、肌に触れただけで即効いちゃって全身が痺れる感じの凄い薬。まあ死なない程度だし大丈夫だろう。」
 上条当麻は直前の戦いを感じさせない呑気さを醸し出している。それはある意味では上条当麻という一人の人間が不幸に抗い続けるための処世術でもある。
 ビットリオ=カゼラと少女が見守る中、上条当麻は左手を左方のテッラにかざそうとして。

 後ろへ振り向きざまにその右手を盾のように突き出して、逆に紅色の槍が幾本も突き刺さる。

「しま、ったな……。」
 唐突だった。
 そして三人は対応できなかった。
 上条当麻は全身を槍で貫かれている。先程の右腕も、手の平から肩までを串刺しにしている。顔は右目と左頬、眉間を貫く形で口の動きが見えなくなっている。
 その槍の正体は、葡萄酒。石床を濡らす赤い液体が、鋭く上条当麻に伸びてその全てを穿っている。だというのに、上条当麻の顔には失策をしたという苛立ちはあるが、槍による苦痛の色はない。
 そこへ部屋全体を再び支配するようにつんざく声。
「なるほどねー、そういう事でしたか。」
「テッラ、貴様っ……!」
 脚から膝下、膝下から腰、腰から胴、という過程を、腕を使わずに経て、左方のテッラは立ち上がる。左方のテッラの象徴色である緑という色は葡萄酒とところどころから滴る血によって大きく損なわれている。まるで生まれ落ちたばかりの赤子のように、しかし赤子よりもはるかに老成した男が、再びその力を振るう。
 葡萄酒による複数の紅色の槍が振るわれ、その力で上条当麻の肉体を切り刻みながら遠くに放り投げる。
 すると。
 上条当麻の肉体が切り裂かれ、中から同じく東洋人の幼い少年が現れる。
 五歳程の少年――上条当麻は切り裂かれた大人の状態の肉体と共にビットリオ=カゼラと少女の方へと落ちる。幸いその大人の状態の肉体、いやそういうふうに見せていた変化霊装の残骸は柔らかかったため、上条当麻にそれ程の痛みは走らない。
 だが上条当麻自身にも負傷はある。その小さな身体には無数の赤い傷がつけられており、年齢も相まって痛ましい。
「異教の変装魔術というわけですか。全く、私もまだまだ未熟者ですねー、そんな事も見抜けず苦戦するとは。しかも、その正体は子供ですか。道理で本体に攻撃がいかないわけです。私は何とも無様な醜態を晒していたものなんですねー。」
 ギロリと淀んだような澄んだような目で左方のテッラは上条当麻を射抜く。
 あどけなさが残っているべき上条当麻の顔には、しかし大人よりも真剣な表情を浮かべている。上条当麻も左方のテッラを睨み返し、右腕に変化霊装の切れ端を持ちながら歯軋りの代わりに話す。
「葡萄酒でも、光の処刑の道具として使えたのか。くそ、だけど痺れ薬はどうしたってんだ!」
「痺れ薬、ねー。忘れたのですか? カゼラが私の正体を言ってくれたというのに、もう忘れたと?」
 赤く染め上った顔をつまらなそうにして、左方のテッラは顔に付着している小麦粉と葡萄酒の混ざった物を取っていく。
 ビットリオ=カゼラは精神的な負担で疲れが出始めている少女を背に隠し、アロンダイトを両手でしっかりと持つ。左方のテッラを注視し、答えるように呟く。
「極めて十字教の天使に近い人間……天使には効かない類の薬だったというわけか。だが、それ程までに強いのか、その肉体は。」
「ご名答です。」
 左方のテッラはそう告げるだけで、少しも笑わない。
 それまでとは雰囲気が全く違っている。
 この戦いの中で、左方のテッラにはどこか余裕があった。例えばビットリオ=カゼラが左方のテッラの質問に答えれば親愛の情がわずかに読み取れる笑みを浮かべていた。
 だが、今はそれがない。
 正義も邪悪も理念も矛盾も、ビットリオ=カゼラには感じ取れない。
 左方のテッラはまるで実体のないアストラル体の如くその左腕を前に突き出し、吠える。
「優先する。―――人体を下位に、刃の動きを上位に!」
 槍を形成していた生々しい赤は左方のテッラの意のままに平べったく鋭いギロチンを新しく作り、ビットリオ=カゼラ達三人を襲う。
 動ける人間はビットリオ=カゼラのみ。瞬時にそれを理解してビットリオ=カゼラは俊敏に動く。
「カミジョウ、こっちへ!」
 何度目になるかも忘れ、ビットリオ=カゼラはアロンダイトを後ろへ勢い良く放ってから少女を左腕にかかえ、次いで変化霊装の切れ端を右手に持った上条当麻を右腕に抱き、迷わず逃げる。
 銀色の甲冑で二人が見えなくなるように包み隠し、仕上げに紅蓮のマントで全身を覆って、転がるように真後ろへ。
 無様であろうと構わない。ビットリオ=カゼラは二人の幼い人間の命を優先する選択を採択できるがゆえに、それを迷わない。
 紅色の尻尾を持った刃は最初ビットリオ=カゼラ達がいた場所を通り過ぎると、旋回して左方のテッラの方へ戻っていく。それから再びビットリオ=カゼラを追い出す。
 ビットリオ=カゼラは二人の守護対象を抱えてついには扉の前まで来てしまう。結局転がって後方に逃げはしたものの、ギロチンを形作っている材料は葡萄酒である。わずかな隙間から少女と上条当麻を狙う事も可能だ。
(ならば、やるべき事は決まっている。)
 ビットリオ=カゼラはギロチンを見据えてマントと腕から二人を離し、鎧の下で特殊な力を練り上げる。少女はどうして良いのか分からずおろおろとして、上条当麻はすぐに表情を神妙な面持ちに変えてビットリオ=カゼラを見る。
 そうしている間にも、紅色の鋭い刃飛んできている。
 ギロチンが当たる、その直前。
 鋭いギロチンはまとまりがばらけ、三人の前で葡萄酒として踊る。蛇が空中で舞うような光景に少女は幾分か精神の疲労を忘れ、上条当麻はビットリオ=カゼラを向く。
 振り向いたその時。
 すぐさまビットリオ=カゼラの全身から血が湧き出る。
「ぐ、あ、ぬう。」
「カゼラ、お前何やってんだ! 魔力と天使の力(テレズマ)を対応付けしやがって!」
 ビットリオ=カゼラはその心配の色を隠しもしない言葉に兜のスリットの奥で笑い、癒される。不思議な事ではない、誰かに想って貰えるありがたみが、全身に溢れている血よりも深く感じられるだけ。
 ただ、少女の戸惑いが辛い事も確かである。ビットリオ=カゼラにとって大事な事は少女を助け守り抜く事にある。それなのにまたもや少女の顔に笑顔以外の表情を作らせてしまっているために、どうしようもないくらいの自身への嘲りもまた心中に大きく膨らむ。
 そして左方のテッラは興味のあるなしでは測れないような平坦さを理解させる口調で喋る。
「私の真似事でしょうかねー。確かに私は魔力と天使の力(テレズマ)、そして界力(レイ)の三つをそれぞれ対応させる事で光の処刑を行使していますが、かなり根気と才覚、資質を必要とする方法です。それを行うだけの技量を普段から訓練していればともかく、ぶっつけ本番ではお勧めできるような手段じゃありませんねー。今みたいに全身に魔力の生成と綿密な操作による負荷が莫大(ばくだい)にかかって、肉体がぼろぼろになりますよ。」
 語ると同時、前に突き出していた左の腕を曲げて自身の方へ持って行く左方のテッラ。その動作で踊っていた葡萄酒は全て左方のテッラの場所へ舞い戻っていく。
 左方のテッラの言う通り、ビットリオ=カゼラは無理をした。
 左方のテッラが用いる光の処刑は左方のテッラが精製した魔力と神の祝福(ゴッドブレス)界力(レイ)をそれぞれ直接的に関係付けて扱い、小麦粉や葡萄酒などに流し込んでそれを使役するものである。優先順位を変える場合はその対象となる存在にある程度の力を注ぎこまなければならない。
 要はそこに割り込みをかけたという事である。テッラの魔力と対応付けられている二つの特殊な力に、ビットリオ=カゼラの生成した力、つまり魔力を強引に関係付けてその操作に割り込んだのだ。
「……はぁー。貴様の攻撃から逃れるためにはどうしても必要だった。干渉する事自体は術式の未完成ゆえにさほど難しくはない。」
 肩で息をしつつそうは言うものの、ビットリオ=カゼラ自身は肉体的にひどい損傷を受けている。それは表皮に見られるような傷ばかりではない。むしろ肉体の中の方が傷ついている。血管がどのように破れているのか分からない程に、全身に痛みが駆け巡る。
 しかしビットリオ=カゼラは立っている。少女と上条当麻の両名も命に別状はない。一つの事をやり遂げたのだ。
「それに、傷についてはこういうふうにすればいい。」
 言って今日二度目となるエクス=ヴォトによる飼葉桶を作り、神の力(ガブリエル)を用いて回復する。全快とまではいかないが、それだけで十分だと判断する。
「そうですか。では、こちらもやらせていただきましょう。
 優先する。―――燃えた状態を下位に、燃えていない状態を上位に。」
 たった一言で。
 部屋の石床の上で黒く変色していた小麦粉の残滓が、元の小麦粉に戻る。ビットリオ=カゼラと上条当麻があれ程努力して粉塵爆発で消した筈の小麦粉は、録画した映像に巻き戻しの操作をするように、あっさりとその姿を取り戻した。
 白くなり再び中に浮く小麦粉を見て、左方のテッラ以外の三人は絶句する。まさしく悪夢という名の正夢である。
 小麦粉が魔力と神の祝福(ゴッドブレス)界力(レイ)で赤を上塗りされところどころ切り裂かれた緑色の礼服の男に帰っていく。
「科学の言葉で言うなら燃焼とか酸化とかいろいろとあるんでしょうけれどもねー。私もまた科学の仕組みには(うと)い方でして。使い慣れていない言葉で指定するよりも分かりやすいでしょう?」
 それぞれ大量の葡萄酒と小麦粉を自身のところまで持ってきた左方のテッラは、抑揚のあまりない声でそうのたまう。
 が。
 唐突に、左方のテッラ自身予期していなかったようすで片膝をつく。倒れ込んだ左方のテッラは、今度は苛立ちに近い何かを言葉に混ぜる。
「天使に近いとはいえ、やはり人間でもあるために痺れ薬とやらの影響を完全に遮断できませんか。全く、面倒な。これでは直接的に生と死の優先順位変更ができませんねー。」
 左方のテッラは立ち上がり、ところどころ空気に当たっては落ちていく小麦粉と葡萄酒を(もてあそ)ぶ。
 絶対などこの世にない筈なのに、ビットリオ=カゼラは圧倒的な絶対を感じさせられる。同じくそれを受けた少女がビットリオ=カゼラに張り付く中、上条当麻は小声で話しかける。
「……ここまで来たらしょうがない。こっちも最終手段に打って出るしかねえ。」
「ふん、そうか。」
 ビットリオ=カゼラは振り返らず、あえて事実を認識した事だけ伝える。それはビットリオ=カゼラの方から言うべき事である筈が、上条当麻は先手を打ってきたという事である。
(子供に決断させてしまった、か。だがそれでも。)
 少女を守りたいならば、戦うしかない。
 左方のテッラという、おそらくビットリオ=カゼラの知る中で最も手強(てごわ)い男に。
 そして、その左方のテッラを助けるという最大にして絶対の試練に。
 と、上条当麻がアロンダイトを渡してくる。通常よりも細い剣の筈が、五歳児程度の手にはとても余る代物である。自身の得物を手渡され、ビットリオ=カゼラは鋭く突き放すように言う。
「俺の切り札は込めた。後はやるだけだ。」
「そうだな。だがカミジョウ、貴様は待っていろ。」
「……何を、言ってやがる。テッラは強敵だし、お前だってさっきの傷がちゃんと癒えてはいないんだろ? ここは二人で戦うべきだろ。」
「では、なぜ回復の術式を構築しない?」
 指摘され、上条当麻の口がつぐまれる。
 上条当麻の小さな肉体にはおびただしい数の傷がつけられている。先程の左方のテッラによる攻撃のためだった。
 これだけの数の傷を上条当麻が癒さない理由は特にない筈である。それぞれが小さな物と言えど、それが大量にあれば体力にどれだけの影響をもたらすかは明白だ。戦いの中で致命的な間違いを犯さないためにも早急な回復が必要である。
 だが、上条当麻はそれをしていない。
「切り札を使う前に回復するべきだったのにそれをしない。つまり、貴様には回復術式の魔力を練るだけの力がもう残っていないのではないか?」
 またも、上条当麻は無言になる。ビットリオ=カゼラは振り返りもせずに上条当麻がしている表情が分かる。上条当麻にさせてしまっている表情を心苦しく思い、なお続ける。
「考えてみれば貴様はオーレンツ=トライスとの戦い、テッラと戦うための準備、そして今と、ずっと魔術を使い続けていた。魔力は体力の消耗と引き換えに生成する物だ、なくなってきていても不思議ではない。」
 むしろ今まで持っていた事の方が驚異的である。その事を言外に伝えてもいる。
 ビットリオ=カゼラは作り出した飼葉桶を上条当麻の方へ置いて、アロンダイトを握る手に力を込める。
 伝えられた上条当麻は、しかし沈黙を破る。
「でも、まだ少しだけならどうにか――」
「カミジョウ。」
 ビットリオ=カゼラはただ名前を口にする。九〇度だけ反転させた兜のスリット越しに幼い状態の上条当麻を見据えて、痛ましいと思う気持ちをどうにか押さえながら。
 そして、たった一つの動作を行う。
 ビットリオ=カゼラの右腕にくっついている少女を、振り返らぬまま右腕で上条当麻の方へと押す。
 少女の声よりも響いてくる悲しそうな表情という訴えを、それでもその想いに応えずに。
「この子を頼む。」
 真面目で不器用なビットリオ=カゼラは左方のテッラと対峙する。
 紅蓮のマントを身に付けた銀色の鎧のローマ正教徒と赤で大きく損なわれた緑色の礼服のローマ正教徒は、それぞれ無言で(たたず)む。最早それぞれの主張を言葉でぶつける時ではないからだ。
 そして。
「主よ、あなたの奇跡を、わずかばかり私にお与えください。あなたを信じる力なき人々のために、瞬く間を超える奇跡を!」
「優先する。―――人体を下位に、刃の動きを上位に!」
 術式の詠唱と詠唱が重なり、くすんだ銀色の脚と赤くなった緑色の腕が前に出る。

     3

 幾重にも縦と横に並べられ、面攻撃として繰り出された赤と白のギロチンを見て、ビットリオ=カゼラは即座に自身の中に特殊な力を生成して無理にでも結びつける。
 途端に最前列から数列の面にあった複数のギロチンが形を崩し、続いてビットリオ=カゼラの高速移動の術式もまとまりを得なくなる。
 ビットリオ=カゼラは全身の神経という神経が全て逆撫(さかな)でされたかのような鋭すぎる痛みを意志でねじ伏せ、術式が解けていてもまた駆け出す。
 駆けた先には何枚ものギロチン。最初に二十枚以上を強引に消したとはいえ、その数は一向に減る気配がない。
 強引な割り込みは何度もできるものではない。ビットリオ=カゼラは冷静に自身の状態を分析して、最良の一手に賭ける。
 かなり雑に作り出した光の羽を何枚か射出すると共に、瞬発力が衰えていないアロンダイトの攻撃を一撃、二打、五合、十回とやや乱暴に与えていく。瞬間的に赤い葡萄酒がその場に舞っては落ち、左方のテッラもそれらをギロチンに戻したりはしない。
 だが結局のところ鋭い赤と白のギロチンの標的はビットリオ=カゼラではない。左方のテッラの目標はあくまでも異教徒である少女と上条当麻である。一枚でも二人の方へ進行を許してしまえばそれだけでビットリオ=カゼラは負ける。
 周りにほぼ小麦粉のギロチンしかなくなったとき、たった一枚がビットリオ=カゼラを横切る。
「ふん!」
 しかしビットリオ=カゼラも侮りがたく、振り返るのではなく純粋に腕を後ろへ回すだけでギロチンにアロンダイトの攻撃を加える。
 残りの紅白の刃は、まさにその隙を突く。
 面で展開されていた鋭い刃が突如として隊を崩し、その全てが白い線を引きながらビットリオ=カゼラの鎧をかすめる事もなく通り過ぎる。
 ビットリオ=カゼラの向く方向にいる左方のテッラが、勝ち誇る事もなく二人の子供に特殊な力を注ぐ、筈が。
 突拍子もなく、ビットリオ=カゼラの周りが大きく爆発する。
 赤い爆発、というよりは粉塵が舞うような色のない光景となる。
 そう、粉塵。
 左方のテッラの目の前で、水の神の祝福(ゴッドブレス)が爆発の中心地から膨張を引き起こし、爆発を塗り替える。
 灰色の粉末を強制的に冷たい石床に落として消火活動を終えたそこから、俊足でもって左方のテッラに辿り着かんとする銀色の騎士が現れる。
「ふん。粉塵爆発というのは、要は酸素があれば良いのだろう。ならばテッラ、貴様が小麦粉を元に戻す時に切り離したのであろう酸素をもう一度再利用するとは考えなかったか。」
 ビットリオ=カゼラは爆風と灰を纏いながら走る。
 ビットリオ=カゼラはこのために葡萄酒でできたギロチンのみを叩いていたという事である。左方のテッラが灰色となっていた小麦粉を元に戻す際、酸素を光の処刑で強引に切り離していた。そのときの酸素はその場に大量に溜まってしまっていた。滞留していた酸素は、やはり燃える物さえあれば容易に燃焼する。
 後は簡単である。風を用いる術式、今回はまたヨハネ黙示録の四体の天使が四方の風を抑えるという伝承に基づき、天使は風を制御して防いでいたと解釈して酸素を大量に含んだ空気を操り、ビットリオ=カゼラ自身の周りまで誘導して爆発させたわけである。
 行ったビットリオ=カゼラの眼前には残っていた葡萄酒と小麦粉の刃の群れ。ビットリオ=カゼラは神の力(ガブリエル)神の祝福(ゴッドブレス)を解除して、光の羽とアロンダイトによる攻撃を連続で放ち、放ち、放つ。
 小麦粉と葡萄酒が何度も舞う。
 が。
 左方のテッラはむしろそれを見て余裕を取り戻す。そしてどこか言葉に殺気を含んだ声で、命ずる。
「優先する。―――ビットリオ=カゼラを下位に、刃の動きを上位に。」
 それこそ、少女や上条当麻よりもビットリオ=カゼラが一番驚く場面となる。左方のテッラは今まで一度たりとも明確にビットリオ=カゼラを殺すように光の処刑を用いる事はなかった。たとえ腕力と人体の優先順位を変更し純粋すぎる土の神の祝福(ゴッドブレス)で攻撃しても、殺害に結びつくような攻撃はしてこなかった。
 その理由はビットリオ=カゼラがローマ正教徒であるからに他ならない。仮に少女や上条当麻が完全にローマ正教徒に改宗していれば、犯罪者だろうが神の右席の理想を理解しない者だろうが関係なく殺す事はせず、むしろ優しさを向ける対象にさえなる。
 しかし左方のテッラは光の処刑で選択した。
 これまでビットリオ=カゼラと上条当麻が左方のテッラとの戦いで少女を守りながらも平衡(へいこう)だった事の要因であるビットリオ=カゼラを殺害する選択をとらないという前提が、ここにきて崩れたのだ。
「くっ!」
 自身を狙う二種類のギロチンにアロンダイトを振り上げ、ビットリオ=カゼラは声を漏らす。後ろから来る二枚を弾くように破壊、続いて鉛直に刃を向けてくるギロチンを見る事もなく振り上げで潰し、向いた正面からきたギロチンを複数一度に両断する。
 だが。
 突如として一枚の白い刃が出現し、ゼリーを切るかのように容易く兜を切り裂く。
 そして遠くから見守る事しかできない少女の目から希望が消えそうになり、中から現れたものは。
 血をどくどくと流している、黒髪でつんつんの、東洋人の青年の顔。
「ほうら、中身が出てきましたよ。」
 左方のテッラは単に冷徹にその事実を受け止める。腕が振るわれ続けざまに放たれた紅白の刃に、東洋系の顔立ちをした青年はアロンダイトで迎え撃つが、しかし残った鎧を全て切断される。
 全容もほぼ同じだ。服装も変わらず黒いパーカーと青いズボンだが赤い血がこびりつくように現れて、その目は鋭く左方のテッラを睨みつけている。その姿はどう見ても上条当麻のそれである。
「やはりいつの間にか中身が入れ替わっていたようですねー。剣の振るい方がカゼラのそれでなかったから何事かと思いましたが。異教の魔術というのは全く、邪魔で邪魔で仕方ない。ですよねー、偽物のあなた。」
 左方のテッラはつまらなさそうな声音さえ出さず、少しだけ少女の隣にいる少年の上条当麻を(うかが)う。少年の上条当麻は既に傷を癒しており、ただ無言で自身の大人の姿と瓜二つの青年を注視している。
 施術鎧はビットリオ=カゼラの所有物であるために光の処刑によって切り裂かれる。しかし上条当麻という一個人は斬殺される事はなかったというわけである。
「うおおおっ!」
 つんつん頭の青年はそれでもなお、アロンダイトを片手に走る。それはとても危険な戦いだ。
 左方のテッラは既に上条当麻の変装魔術を破る方法を知っている。それは本体である子供の上条当麻が位置する場所への攻撃だ。今まではたとえ三枚の肉片に裂かれようが首を切られようが単に霊装が傷つき本体傷つき辛いところだったため、上条当麻はすぐに戦線復帰できる状態にあった。しかし今回は左方のテッラに攻略法を見つけられている。少しでも間違った選択を行えばその先にあるものは、死。
 だがその東洋人の顔立ちをした戦士は進む。血みどろになったアロンダイトの柄を握り、欠片も騎士らしさのない形で操り、光の処刑でできた特殊な刃を次々と破壊していく。
「優先する。―――人体を下位に、刃の動きを上位に。」
 無慈悲な言葉と共に、ギロチンが処刑する。
 それは何の策もない技だ。単純に全方位から攻撃する。それだけの攻撃だが、確実につんつん頭の青年の肉体を刻んで見るも無残な生の人肉ができ上がる。
 今まではビットリオ=カゼラが相手だと左方のテッラが思い込んでいたからこそ避けられていた攻撃方法である。
 血だらけの黒髪つんつん頭は、それでも前を駆ける。ギロチンに自ら向かうように。
「は、愚かな邪教の徒がようやく一人始末できましたねー。」
 左方のテッラの確信の後、吸い込まれるように全ての鋭利な刃が東洋系の青年を斬る。
 今度こそ黄色の肌から鮮血が舞い、左方のテッラの表情が薄く笑む。

 ――鮮血の舞から、化けの皮を()がされたビットリオ=カゼラが飛び出されるまでは。

「な、あ!?」
 左方のテッラは少しだけ口を開けてそのまま塞がない。いや塞げない。異教徒(上条当麻)だと思っていたその人物が、実はビットリオ=カゼラであるという衝撃が、光の処刑で使役されるギロチンの形さえ整える神経を途切れさせてしまっている。
 ビットリオ=カゼラは切り裂かれた変化霊装の切れ端を振り落としながら、全く死んでいない光を目と胸に輝かせて、べっとりとした血で滑る足元を力ずくで踏みしめ疾走する。また、今度こそ混じり気のないビットリオ=カゼラの剣技で、(なまくら)のような小麦粉と葡萄酒のギロチンを破壊する。既に左方のテッラとの距離はかなり縮まっている。
 血飛沫を汗のように飛ばすビットリオ=カゼラを見て顔色が優れなくなっている少女の隣で、本物の上条当麻はわざと大きな声で話す。
「準備は万全にしておくものだろ。でも予備の変化霊装まで修繕しなきゃならないとなると、ちょっとばかり嘆きたくなるけれど。」
 それはほんの少しだけ、しかし清々しさを嫌でも伝える表情だった。


 少女はビットリオ=カゼラの姿を喜んで見る事ができない。
『ふん!』
 男性用のローマ正教式修道服を血だらけにしつつも、ビットリオ=カゼラは衰えのない剣の技でもってアロンダイトを操る。たちまち複数の刃が壊され、ビットリオ=カゼラは(すみ)やかに左方のテッラに近づく。
 左方のテッラは慌て、とても高い純粋さを持つ神の祝福(ゴッドブレス)をビットリオ=カゼラの前に作り出して、不意にそれを打ち消す。
 左方のテッラの顔は恐怖が浮かんでいる。その怖さはビットリオ=カゼラのそのあくまでも止めるという姿勢に対するものではない。ビットリオ=カゼラを傷つけ、もしかすると殺してしまうかもしれないという事に対する恐怖だ。
 少女は左方のテッラのそんな思いを読み取り、なおもビットリオ=カゼラを心配する。
 そう、少女は心配する事しかできない。魔術という恐ろしい力の前では、いやただの大人同士の対立でさえ少女はあまりにも力がない。あんなふうに体中から赤い血を流している姿は、少女のようなか弱い精神ではとてもではないが見る事ができない。
 そんな少女の横にいる、少女を助けてくれたもう一人の者、名前は上条当麻が力を抜かしたようにため息をつく。
「はあぁ。えーとさ、君、でいいかな? もう喋れないか?」
 そんなふうに少女にはっきりと分かる言葉で話しかけてきた。少女には質問の意味が分からない。少女はもう話せない筈なのだから。
 だから訪ねてしまう。
「何を……言っているの? 私はもう喋れない――あれ?」
 子供の高い音階の言葉を発した少女自身が一番驚いている。自身の使える唯一の言葉を出せた事に戸惑い、喉を押さえる少女を見てつんつん頭の上条当麻は少しだけ微笑む。
「ローマ正教式の紐や縄を使った捕縛術式の応用だな。元々宵闇の出口に杜撰(ずさん)な口封じの魔術を使われていたところを、その状態を維持するためにテッラの協力者かなんかに捕縛術式を使われていたんだよ。君が縛られていた縄がそれだ。」
 少女には分かりづらい言葉が並んでいたその台詞だが、少女はどうにか魔術という不思議な力で話せなくなっていた事と、上条当麻がそれを解いてくれたらしい事を理解する。
「いいか、よく聞いてくれ。カゼラは強い、俺も強いけど、あいつには俺を超える強さがある。
 君を守り抜くという信念の強さが俺なんかよりはるかに強いんだ。」
 ビットリオ=カゼラが守ってくれる事。それは少女にとっての希望であり喜ばしい事ではあるが、しかし同時にあの痛ましくて見ていられない姿は少女を強く追い込んでいる。
 上条当麻はより少女の目を見つめて、説得するように話す。
「でも左方のテッラもまた強い。もしかするとカゼラでも勝てないかもしれない。」
「そんな、そんな事、嫌!」
 少女もまたその頭の中で想像してしまう。ビットリオ=カゼラが負ける――それは、今よりももっと多くの血を流して冷たい石床に転がり、その目は二度と光を宿さなくなる。
 そんな二度と想像したくなかった事を再度考えてしまって少女は首を振る。
 上条当麻も同意し、大きく頷く。
「だから君の力を貸してくれ。君のビットリオ=カゼラへの想いを、言葉にしてあいつに届けて欲しい。祈りが必ずカゼラ達の親父さんに届くように、君の願いも、想いも、言葉にすればカゼラに届く。」
 その言葉で、少女はもう一度ビットリオ=カゼラを見る。銀色の鎧を失い、修道服を血で汚しているヒーローを。
「君の想いを、カゼラに!」
 張り詰めた空気の中で、少女はその袖のない特徴的な上着の、一つしか付いていないブローチを、震える手で掴む。
 怖い。嫌だ。逃げたい。そんな思いも当然のようにある。
 でも。
 少女はそんなどうでもいい事よりもずっと大切な事を叫ぶ。
「ビットリオ! ――負けないで!!」
 子供の声とは思えない程に大きな音で、そして子供らしい純真さのある声。
 ビットリオ=カゼラも左方のテッラも、視線を相対するそれぞれから外さなかったが、わずかな驚きが理解できる。
 少女が話している事それ自体に対する驚きと、この状況下で叫んだ中身に対する驚きだった。
「私、ビットリオに生きて欲しい。またビットリオにどこかに連れてって欲しいし、ビットリオと遊びたいし、また食事を一緒にしたい。ベッドの上で一緒に寝て、またビットリオにおはようって声をかけて貰いたい!
 だから、だから――」
 その時、世界は少女のために無音を奏でた。

「無事に戻ってきて、ビットリオ!!」


「……ああ、必ず約束する!!」
 ビットリオ=カゼラは目に見えて速くなる。魔術は全く使っていないが、それでも。
 左方のテッラはそのビットリオ=カゼラの速度でようやく止まっていた光の処刑の安定を再開させる。
「優先す――」
「させるとでも思うか!」
 ビットリオ=カゼラの赤くなっている右手から一つの粒が投げられる。左方のテッラはこの戦いの中で判断力が下がっていたために粒に目を奪われる。粒は左方のテッラではなくビットリオ=カゼラの左斜めに向かって投げられた。
 左方のテッラは目を開き、その先にある物を一瞬で当てる。
 しかし、理解するより早くそれは左方のテッラの右頬を強烈に撃つ。
「ぐ、あぁ……っ!」
 当たり所はビットリオ=カゼラにつけられた頬の傷である。左方のテッラは痛みに耐えつつも、付着した左方のテッラの血で一部分を赤くした粒の正体を見破る。
 それは少女が来ている上着の前止めの片割れであるブローチだ。左方のテッラが所有して、ビットリオ=カゼラが先程手に取っていた物である。
 そして左方のテッラは自身に当たった仕掛けを見る。
 それは石壁。緒戦で上条当麻が光の処刑を防ぐために作り、またゴーレムを作って迎撃を行ったあの石壁へと投げられたブローチは、光の反射のように運動方向を左方のテッラへ向けて攻撃した。
小癪(こしゃく)な真似を!」
 左足で強く床を踏んでそう吐き捨てた時。
「主よ、あなたの奇跡を、わずかばかり私にお与えください。あなたを信じる力なき人々のために、瞬く間を超える奇跡を!!」
 ビットリオ=カゼラは満身創痍になりながらも高速移動術式を詠唱した。左方のテッラは思わずビットリオ=カゼラに目の焦点を当ててしまい、光の処刑を意識できない。意識していれば対処の仕方はいくらでもあるというのに。
 そして。
 赤く上塗りされた黒い修道服のヒーローは、左方のテッラをあと少しで捕えられる場所まで迫る。血反吐を吐くよりも前に、ビットリオ=カゼラの口は動く。
「これで終わりだ、テッラ!!」

     4

 『左方のテッラ』になる前の彼は、いや今でも彼は敬虔なローマ正教徒である。
 彼は戒律をきちんと守り、人々を助ける努力を惜しまない人物である。その根底には当然にローマ正教への信仰が存在する。
 その信仰を支えるものは彼自身が持つ倫理や道徳もあるが、何よりもローマ正教の信徒達の存在が大きい。
 人々を助けんがために異教の魔術を書にまとめ対抗策を記す者や、逆に邪悪な魔術を記した魔道書に立ち向かう者、どんな些細な事でも人を助けようとする者。ローマ正教にはそんな素晴らしい人々が数多くいる。
 何よりも彼の周りという矮小な範囲にそういった人物達がいたために、彼の目にはローマ正教がとても素晴らしいものとしてしか映らなかった事も当然だった。
 彼はまた神聖の国の概念を知っていた。神への正しき信仰を重ねた者のみが最後の審判の後に行けるという完璧で永遠である幸せの王国。
 彼は自身もまたそこに行きたいと強く望んでいて、かつ彼の周りにいる人々や同じローマ正教の信徒達を神聖の国へ渡らせてあげたいと考えていた。
 同時に彼は異教や科学を疎ましく思っていた。人間はすでに地球の姿を知り、どこへでも行ける。それはローマ正教の広がりも同様だが、未だ世界中の人々は異端や異教に染められた者達や、無神論を唱える学園都市の科学に傾倒する者達が多く存在する。
 ローマ正教という福音を知っているにもかかわらずそんな愚かな選択をする者達を、彼はとても強く嫌っていた。
 嫌っているからこそ、愛するため好きになるため努力したいと望んでいた。神の子にはなれないけれども、ローマ正教を信じぬ罪人のために生きて、相互に良き隣人になりたいと願っていた。
 そのために彼が好ましいと思えた考えの一つが煉獄という概念だった。そこに行けば異教徒も神の存在を信じない科学者もその罪を償える。魂の(みそぎ)が終われば敬虔なローマ正教徒と同じく、神聖の国で永遠の幸せを共に(たまわ)る事が可能になる。
 その素晴らしき概念で、彼は何となくでも異教にまみれた者や無神論を語る科学者を好きになって愛する事ができるようになれると思えた。
 彼は敬虔なローマ正教徒であり、ローマ正教を心から信じている人間であった。
 だが、そんな彼でもローマ正教の中で生きていると、どうしようもないくらい問題を意識せざるを得ない時が来た。
 ローマ正教における派閥やその対立と、人一人の力の限界。それらはどこにいても彼を悩ませる要因となった。
 ローマ正教内部には細かく分類すれば大小合わせて六桁にすら到達すると言われる程の派閥が存在する。教皇、枢機卿、司教といった立場による派閥、国や言語の違いによる派閥、他宗教への見解や他派閥に対する姿勢による派閥、民族や性別、年齢の違いによる派閥、果ては個人個人の心情による派閥。
 挙げればきりがない程のこれらの派閥は、ローマ正教内部で混沌とした様相を現在でも呈している。
 そしてそれら派閥間による対立の影響がだんだんと世界中に波及していき、複数の大陸や国家をも巻き込む大きな事件になっていった。
 始めはどうという事のないすれ違いが、そこまでの規模の事件を生み出している。
 こんな現実を前に、それでも人々を助けようとして、多くのローマ正教徒が何度も挫折した。己の非力を、改めて何度も味わい続けた。
 ローマ正教という巨大な組織によってその想いが果たされない事も往々にしてある事であり、助けるために差し伸べたその手が、逆に人々を大きく傷つける結果になる事もたびたびあった。
 彼と同胞であるローマ正教の信徒達は悲しみと嘆きと苦しみを味わっていた。
 なぜ、そんな事が起こってしまうのか。神は絶対であり、神の子の愛はこのような事で霞む筈もなく、聖霊はずっと人間に働きかけてくれているというのに、なぜローマ正教徒同士でさえ衝突し、傷つけ合うのか。
 彼はその答えを探し出そうとして、見つけた時には一時的に諦観が支配した。
 ローマ正教徒は皆が皆、各々の仕方でローマ正教の教えを実践しているに過ぎない。そこに良し悪しはない。あるのはただローマ正教への貢献方法の違いだけだ。
 そんな一所懸命なローマ正教徒らを神や神の子は認めたと彼は解釈した。その努力に誤りはなく、あるのは迷える子羊たる人間の能力不足という要因だと。
 だから、彼はそれでローマ正教を見捨てたり失望したりする事は皆無だった。不安は日々募っていったが、それでも絶対に最後には人々が笑顔で幸せになれると信じていた。
 神聖の国、誰もが幸せになれる争いのないその国でならば、派閥間の問題や衝突もなくなり人々は救われると心の底から信じ切っていた。煉獄という場所で魂の穢れを払拭できたならば、異端のイギリス清教徒やロシア成教徒、十字教ではない邪教、科学という世界の一側面に囚われて神の存在を否定してしまっている人々でも救われるとして疑わなかった。
 だからこそ、あるいくつかの疑念が沸いた時に彼の思考は蝕まれた。
 仮にローマ正教徒のみが選ばれ神聖の国に行った場合、内部派閥の対立や衝突がある中で本当に問題はなくなるのか。
 煉獄から神聖の国に異教徒が流れ込んできた場合、本当に神聖の国では混乱のない幸せな国であるのか。
 そもそもローマ正教徒ならば本当に神聖の国へ行けるのか。
 神と神の子が導いて下さるというその計画に、人間が必要な能力を持っているのか。
 素晴らしき神聖の国は人間の間で醜く分裂し、神の計画を破綻させてしまわないか。
 ――彼は知りたいと望んだ。
 その疑問は愚かな思い込みだった。神の考えや神の子の愛、聖霊の働きを疑うような思考は十分に異端である。何よりも、彼が愛して信じている筈のローマ正教徒達を侮辱するにも等しい疑いだった。
 だがその疑念に憑りつかれた彼は何度も自身の中で否定し続けたが、一向に収まる事はなかった。どころか、日に日に疑問の声は大きくなっていった。
 彼は解決法を求めて必死になって聖書を読み返した。新旧それぞれの聖書の他にも、外典だろうが偽典だろうが関係なく、何度も、何度も、読み返した。読み返して、いくつかは研究の段階まで(おこな)った。
 その中で、彼を強烈に惹きつける話があった。
 神の子が十字架に(はりつけ)にされ処刑されるという、あまりにも有名な話。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四人の福音書の中に必ず関連した話は存在する。
 神の子は聖霊の働きを格別に与えられた存在である。人間の格を持ちながらにして神格を備えた存在であり、生命の樹(セフィロト)において書く事のできる範囲からも外れた神聖なる場所にいる者。
 そんな神の子が、全人類の原罪を背負い消すためにただの人間に殺されるという、格の違いを考えれば矛盾でしかない話。そこに何らかの光明が見えるかもしれないという願望の元、彼は神の子の処刑を徹底的に研究した。
 現状をどうする事もできない無力な自分への救いが欲しかった。
 派閥の間で衝突するローマ正教徒の人々に救いを与えたかった。
 研究で得られた(むせ)び泣かざるを得ない苦しみに代価(だいか)としてそれを願い、止まる事なく進めていった。
 そしてその成果が光の処刑という特殊な術式だ。神の子がただの人間に殺されたという本来あるべき優先順位の変更が行われた最も有名な伝承から、彼はこの術式を編み出した。
 そしてまた彼は神の右席の一員となり『左方のテッラ』となった。原罪を限りなく薄める事で天使に近い肉体を得て、光の処刑を使えるようになった。光の処刑以外の術式は使えなくなったが、頓着しなかった。
 また彼は神の右の居場所を最終目的とする事自体には抵抗がなかったが、同時にあまり興味もなかった。
 理由はある。それまでの研究の中で、いや今でもあの疑念を拭う事は叶っていないが、光の処刑と神の右席という地位は彼にある一つの解決方法を提示していたからだ。
 もしも神聖の国で、ローマ正教徒が現世での対立を持ち込み、諍いが起きたならば。
 もしも神聖の国で、煉獄から来たかつての異教徒との間に争いが起こったならば。

 彼が光の処刑で、『神聖の国にある問題』を下位に、そして『人々の幸せ』を上位に順位変更してしまえば、誰もが救われる。

 神の子でさえ抗い難い光の処刑で、強制的に神聖の国を絶対的な幸せが約束された真に平和な永遠の王国として確立させる。
 そうする事ができれば、救われる。ローマ正教徒も、かつての異教徒も、彼自身も。あるいは、神や神の子、聖霊でさえ。
 また彼は異教徒を救う事にも執着した。煉獄という場所があっても異教徒が愚かな罪を重ね続け地獄行きが決定するところまでいってしまえば、異教徒を真実ではない偽の教えから脱却させて幸せにさせる事はできない。
 ローマ正教徒だけの幸せを真に望んでいて、本当に異教徒の事をどうでもいいと切り捨てるならば、それでもよかった。
 だが彼は、そんなふうに切り捨てる事は神や神の子、ローマ正教の教えに反するとしか思えなかった。罪人のためにできる何かがあるかもしれないという可能性を、否定できなかった。
 だから彼は異教徒をこれ以上の罪を重ねる前に殺す事で、最後の審判の時にせめて煉獄域になるように活動を開始した。
 勿論彼は異教徒を強く嫌悪していたし、ローマ正教徒として生きる日々の中でローマ正教の福音を理解しない異教、異端、無神論、科学のそれぞれの者達に恨みや憎しみさえ抱いている。ビットリオ=カゼラやマタイ=リースというローマ正教徒でもかなり信仰の研磨を行っている者達に教えられてもなお、邪教の徒たらんとする少女に対する嫌悪の感情は計り知れない。
 それでも彼は彼なりの救いを異教徒に与えようと思い至った。神の意向に沿うためでもあり、神の子がかつて語った、我々は罪人のためにあるという言葉への彼の見解でもある。
 良き隣人を求めるならば、自身から良き隣人となる。その手段が光の処刑の調節に使う事、および現世から早くいなくさせる事で、地獄送りを一人でも多く回避させる事だった。
 そしてそれが彼の嫌悪する相手に対する最大限の歩み寄りであり、執念にさえなった彼なりの愛情である。
 なぜ、彼はそこまで神聖の国での幸せに拘るのか。天使に限りなく近づくという、人間の道さえ踏み外すような事まで行ってきたのか。
 その理由は結局のところ、ビットリオ=カゼラが感じた通りでしかない。
 必死で記した魔術への対抗策が自身の理想とは違った使い方をされ、しかし諦めず書を記し続ける者が、
 邪悪な魔術を記した魔道書に立ち向かった事が原因で傷つき、なお魔道書に立ち向かえる者が、
 助けようとした結果が人を傷つけてしまい、それでもまた人を助けるためにその手を差し伸べられる者が、
 社会的弱者を助ける事を信条にあらゆる困難に出会いながらも打破して立ち向かってゆく者が、
 ローマ正教という巨大な組織のために上層部に要求を蹴られても(おく)さず、少しでも貢献しようと頑張れる者が、
 ビットリオ=カゼラやマタイ=リースといったローマ正教の教義を果たさんとする敬虔な者達が、
 彼のような下らない疑問に憑りつかれる程度の愚かな人間にもローマ正教という福音と出会わせてくれた世界が、
 そんな矮小だが優しい世界が大好きで、途方もなく愛しているから。


「オ、」
 始めに呟きがあった。
「オオ、」
 それは前振りだった。
「オオオオオオオオおおおおおぉぉぉぉッ!!」
 左方のテッラは――対峙する二人のヒーローとはまた違ったあり方のヒーローは、愛ゆえに咆哮(ほうこう)した。
 彼にとってこの戦いは負けられない。今ここで少女と上条当麻という異教徒を殺さなければ、もしかすると二人は地獄に落ちてしまうかもしれない。神聖の国へ行き、幸せを享受するという事ができなくなってしまうかもしれない。
(そんな可能性など、私が絶対に潰してみせる! 私は左方のテッラ、このローマ正教を舵取る神の右席の一人にして、ローマ正教徒なのですから!)
 血みどろになった緑色の礼服を破く勢いで、眼前に躍り出ようとするビットリオ=カゼラを睨む。
 全ての光の処刑による刃を破壊し尽くしたビットリオ=カゼラは何かを察知したようすでそのアロンダイトを血塗られた黒い修道服の前に腹の部分全体を突き出し、詠唱する。
(サン)ピエトロは皇帝と魔術師の魔手をかいくぐる!」
 杭のような閃光が彼に向けて放たれる。と、同じくしてビットリオ=カゼラはアロンダイトを突き付ける形に持って行き赤く光る羽を撃ち出す。早業は彼の目をもってしても捉えられなかった。
 だが。
 迫る光の攻撃にも彼は目の中の輝きを一層強くさせ、絞り出すように吠える。
「優先する! ―――魔術を下位に、小麦粉と葡萄酒を上位に!」
 彼以外の三人がまた一様に驚く。それは彼にとっても驚くべき事である。
 なぜなら、その光の処刑による複数順位の変更は賭けでしかない。上条当麻の言う通り複数一度に変更はできないし、今だからできるという確信はない。この極限状態の中で自身の頭がおかしくなり、口走ったままの優先順位変更を行ってしまったと解釈しても構わない。
 しかし彼は同時に確信めいた何かを感じ取っている。確信はない。だが、確信めいたものならある。それはただの直感である。それが直感でしかない事も理解している。
 それでも彼は直感に賭けた。天からの贈り物のように思えたそれを、彼は信じ切る。
 魔力、天使の力(テレズマ)界力(レイ)を混ぜ合わせた力を小麦粉と葡萄酒に流し、次いでビットリオ=カゼラの放った攻撃に注入する。途端に小麦粉と葡萄酒が床から立ち伸びて、杭の如き光と神の如き者(ミカエル)の力を象徴した光の羽を阻む。
 十字教の術式同士がぶつかり合い、そしてそのまま、二つの光は止められる。
 彼は賭けに勝ったのだ。
「なっ!?」
 驚愕するビットリオ=カゼラに、上条当麻も続く。
「まさか、この土壇場で術式の精度を上げたっていうのか!? しかも、格段に……!」
 そんな驚愕の声が聞こえてきて、彼は自然に天使の力(テレズマ)の土の純度を上げ過ぎたものを作り出そうと肉体の中で魔力を練り上げる。
 その時、突如として痛みが全身を駆け抜ける。
「う、ぐはっ。」
 その場に両腕と両膝をついた彼は、少量ながら吐血した。
(異教徒の毒め、ここまで私の肉体に負荷をかけているのか。光の処刑が使えるのは、後三回程度ですかねー……。)
 全身に原初の人間を(たぶら)かした蛇がくまなくうねっているような激痛を感じて、彼は平然と自身の精神で乗り越える。この程度の事は、神の右席に入った頃より覚悟は済んでいた事である。
『ビットリオ!』
 綺麗で可愛らしい、しかし悲痛さを感じさせる少女の声が部屋に響いた。彼は疑問符と共に床を向いていた顔を上げる。
 そこには彼と同じように身体を朱に染め、倒れてなおも立ち上がろうとするビットリオ=カゼラの姿がある。アロンダイトを右手に持ち、彼を見やるその目には煌々(こうこう)と光が放たれている。
 ビットリオ=カゼラの肉体にも無理が蓄積されている。先程の光の処刑で、ビットリオ=カゼラの足元にある小麦粉や葡萄酒が高速移動術式を阻害した事も膝をついている原因だった。
 左方のテッラとビットリオ=カゼラ、二人のヒーローは同じだ。どちらも自身の血で全身を汚しながら、それでも信じる事、守りたい者のために抗おうと努力している。
 彼はそれを理解し、喜びに沸いて笑みをこぼしそうになる。しかしそれは今の場に相応しくない。ビットリオ=カゼラの目は、そんな喜びを含んでいないから。
 何よりも成し遂げたい事のために、二人のヒーローは立ち上がり、同時に喚叫(かんきょう)する。
『ウオオオオオオオおおおぉぉぉぉ!!』
 獣のように、俗人(ぞくじん)のように、聖人のように。
 まず彼が小麦粉と葡萄酒で抑えていた光に対し腕を降ろす動作で硬い石の床に叩きつけ、破壊する。ビットリオ=カゼラはそれを見た直後、アロンダイトの先から(まばゆ)い光の羽を撃ち出す。不意を打ったその攻撃に、彼は即座に対応する。
「優先する。―――魔術を下位に、空気を上位に。」
 はじき出された光の羽は、空中で微動だにせず止まる。そんな事は織り込み済みであり、彼もビットリオ=カゼラも次の行動に移っている。
 彼は光の処刑によってビットリオ=カゼラに斬られた小麦粉と葡萄酒を、空中の光の羽を潰させてから冷たい石床を這わせるようにして彼の周りに集めていく。
 が。
 身体の毛穴という毛穴から噴き出されたように、彼の至る所から赤くどろりとした液体が噴出する。
 彼の決して甘い事のみではない人生経験でも例えようのない激痛に、それでも彼は顔を上げたままビットリオ=カゼラを迎え撃つ。
 風を貫くようなアロンダイトの突撃を純度が高すぎて爆発してしまう程にさせた神の薬(ラファエル)天使の力(テレズマ)で妨害し、ビットリオ=カゼラを伸び退かせる。同時に部屋中から集めきった小麦粉と葡萄酒を赤く濁った緑色の彼を覆うように展開する。それはもう空気中の分子が衝突した程度では壊れない。
 ビットリオ=カゼラも訓練で得た筋力は飾りではなく、一跳びで彼を得物である細いアロンダイトの間合いに入らせる。
「ふん!」
 全力で振り下ろされるアロンダイトを、彼は冷静に見つめる。
 そのまま呟く。
「優先する。―――剣を下位に、小麦粉と葡萄酒を上位に。」
 瞬間、小麦粉と葡萄酒はちょうどアロンダイトが入ってくる角度に合わせて、薄い一枚の壁を作る。
 それはあまりにも頼りない守りに見える。しかし光の処刑という術式を通した素材で作られた壁は核シェルターよりも堅い堅固(けんご)な守りとなる。
 彼はすくい上げられるだけ手のひらに溜まった血を捨て、小麦粉と葡萄酒による白と赤の鋭い刃を左手に形成する。
(ここでカゼラの攻撃を止め、私の光の処刑による刃物で異教徒共を討つ! これできっかり三回、そして異教徒共さえ殺せば私の勝ちだ!)
 薄い壁の下の、さらに心中で歓喜の感情を振るわせて、彼は笑う。ローマ正教が、いやそれ以外の人間もどきの異教徒でさえも救われる、第一歩が踏み出される。それだけで彼の目にある光は七色の彩を放つ。
 そして、アロンダイトが、白と赤の壁を。
(これで――!)

 壁を、切り裂く。

(これで――!?)
 理解が及ばない。彼の光の処刑は絶対の防御を作り出せる術式である。いかにビットリオ=カゼラが鍛錬を怠らぬ誠実さを持ち、ローマ正教一三騎士団に任命されるだけの実力を持っているとしても、神の右席である彼の、左方のテッラの力を打ち破れる筈がない。
 だというのに。
 ビットリオ=カゼラは、切り裂かれていく壁の裂け目から、強い視線を彼に向けている。
 傷だらけになりながらも剣を振るう聖人の如きビットリオ=カゼラは、傷だらけになりながらも救いを求め与えようとした聖人の如き彼に一言、告げる。

「これで、貴様を止める!!」

 放たれた言葉と共に、アロンダイトが彼の礼服と体を斜めに斬り、斬られたところから間欠泉のように血が噴き出される。
 首から下がる白い筈の紐が、一本自身の血の赤で染まる場面を遠巻きで見ているような感覚になりながら、彼は後ろに倒れ込む。
(ああ……私の、負け……か。)
 自然と透明な液体を目からあふれ出しながら、彼はビットリオ=カゼラを仰ぎ見るような体勢で石床に倒れた。
 左手にあった筈の刃物が形を崩していく事を理解しながら、彼は祈る。
(慈悲、深き……神よ、我らを……愛して、下さる主、よ……カゼラに……世界に、救いを……お与え……下さ、い。)
 彼はそこで意識を手放す。
 ヒーローであり続けようとした彼は、負けた。


「ぐ、うう。」
 施術鎧を着ていないにもかかわらず、ビットリオ=カゼラは大きく音を立てて両膝を突く。もはや体力も魔力も底をつき、神の祝福(ゴッドブレス)も満足に扱うだけ集中力がない正真正銘の満身創痍である。
(だが、どうにかあの子を守り抜く事ができた。)
 アロンダイトからも手を離し、安堵の表情で後方に目を向ける。
 と、なぜか子供の上条当麻がすぐ目の前にいる。
 エクス=ヴォトで作った、湯気を出している飼葉桶を持って。
「お、おいカミジョウ?」
「食らえ!」
 熱湯が容赦なくかけられる。
「あ、熱い、熱い!」
「ふっふーん、フィウミチーノ空港でのお返しだ!」
 飼葉桶を両手で上に持ち上げた上条当麻はそう言って明るく笑う。その笑顔を見てビットリオ=カゼラもどうにも怒る気が失せてしまって、感情を抑える。
 そうしている間に、ビットリオ=カゼラの体は奇跡の再現で傷が癒えていく。ある程度血も体や黒い修道服から流れて、ようやく一区切りがついたと実感できる。
 そんな実感を味わっていると今度は少女がビットリオ=カゼラの前に現れる。けがもなく無事である。ビットリオ=カゼラがその事を言う前に、少女が小さな口を開く。
『全く、ビットリオったら約束破ってるよ。』
「え?」
 ビットリオ=カゼラには心当たりがない。確かに今こうして無事に生きている。言葉も話せれば四肢に異常もない。やや服装の乱れや汚れがある事を除けば健全そのものだ。
 困惑顔を作るビットリオ=カゼラに、少女は面白くないようすになる。
『ビットリオってば、戦ってくれている間はあんなに血だらけだったでしょう? あんなんで無事とは言わないって、分からない?』
「いや、待て。私は約束通り――」
『カゼラ、言葉を彼女に合わせてやれって。』
 上条当麻のローマ方言ではない横槍でビットリオ=カゼラはこれもまたようやく、少女が話せている事とその言語がイタリアの言葉ではない事を理解する。とはいえビットリオ=カゼラも少女の言葉が扱えないわけではない。遮られた事で落ち着きを取り戻し、少女の言語で会話を再開する。
『私はこうして生きている。傷だってもう癒えた。約束を(たが)えていないだろう。』
 真っ直ぐに少女を見つめ、ビットリオ=カゼラは嘘偽りなしに答えた。
 しかし少女はため息を一つつき、元気の有り余る息子を見るような目でじっとりとした雰囲気を醸し出す。
『ビットリオ、トウマにあの不思議なお湯を作って貰ってたよね。でもトウマがさっき休んでたのはあの不思議なお湯とか、空飛ぶちっちゃな蛇さんを出したりできなくなるくらいに疲れていたからだよね。
 ……そんな人に無理をさせて傷を治して貰ったからって、私のところに無事に戻りました、にはならないんじゃない?』
 ビットリオ=カゼラは何も言えない。先程の左方のテッラとの決戦で上条当麻を下がらせていた理由はまさしく魔術を使えない程に上条当麻が疲弊していたためである。しかし現在ビットリオ=カゼラがこうして無傷でいられるわけには上条当麻の助けがあってこそ。
 ビットリオ=カゼラは沈んだ面持ちになる。
『そうだな、お前の言う通りだ。約束を破ってしまってすまなかった。』
 目と目を合わせ、二人は見つめ合う。少女はだんだんと嗚咽する。
『……生きていてくれて、良かった。』
 その一言の後、少女はビットリオ=カゼラの懐に飛び込んで号泣する。冷たかった石部屋に、少女の涙と言葉にならない想いが満たされていく。
『わたし、ひぐ、怖かったんだから。うぐ……ビットリオが、いなくなって、ひぐ……私の前から、いなくなって……。』
『すまなかった。お前にも心配をかけてしまった。』
『本当だよぉ……!』
 ビットリオ=カゼラはあやすように少女を抱き()めて、矮小で優しい世界を守れたという事実を改めて感じる事ができる。
『おおー、絵になってる。さっきもその子を抱きかかえていたのに。』
 そこに上条当麻が声をかけてきた。その両手にまだ壊れていない左方のテッラの葡萄酒を一本抱え、重たそうにしている。その上条当麻の言葉に対し少女は反論する。
『感動なんて……うぐ、いらないよ。ビットリオが生きているんだもの。』
 そろそろ泣き止むような少女の話は、上条当麻を笑顔にさせる。
『そうだな。俺も君もカゼラもテッラも、全員生きている。まずはそれを喜ぼう。』
 ビットリオ=カゼラも少女も、その隣にいる切り裂かれた左方のテッラを見る。緑色の特注品らしき礼服はぼろぼろで全身に傷があり、特にビットリオ=カゼラが放った最後の一撃による負傷はかなりの血を体外に出させている。出血多量でまだ死んでいない事が不思議な程で、今すぐに処置を施さなければならない。
『安心しなさい。この魔術師としても最高峰な上条さんがテッラをちゃちゃっと治しますから。』
『貴様の腕を疑う気はないが、魔力はあるのか?』
『ちょっとした裏技があってな、体力を少しだけなら回復できる。』
『大丈夫、なのか?』
 兜もなくなり、不安げな目つきを隠せなくなったビットリオ=カゼラは、それでも上条当麻に心配の目線を送る。
『勿論不利益はあるけど、今回の場合なら釣りがくるさ。お前も疲れているだろうし、後は俺に任せてくれ。』
 上条当麻は子供どころではない高速振りで葡萄酒の瓶の中身を撹拌(かくはん)させていく。そこには明確に恨みの念がこもっている。
『カ、カミジョウ?』
『ふっふっふ。イエスの飼葉桶にお湯張って治癒できるんだから、イエスの血肉の象徴ともなる材料の小麦粉と葡萄酒を使った術式でも回復する筈。つまり!』
 上条当麻は目を一際大きく開き、周りに撒かれている小麦粉と葡萄酒を魔力で操り、同時に抱えている葡萄酒の栓を開ける。
 そして、それらが向かう先は。
『腹いせにテッラの口にぶち撒ける!!』
「ゴプガッ!?」
 沈殿していた濁りもろとも、大量の主の血肉が左方のテッラの口腔に注ぎ、詰め込まれていく。当然左方のテッラは突然の事に覚醒して苦しみ悶えるが、上条当麻は一向に気にする気配がない。
 唖然とするビットリオ=カゼラと少女を差し置き、五歳児程の上条当麻は悪戯好きな子供のように笑う。
『言っただろ、安心しろって。ちゃんとこっちで気管に入ったり息できなくなったりしないように制御しているから。そら、もっと飲め!』
『ゴポ、ゴプポゲパァッ!?』
 上条当麻は幼く小さな手によるものとは思えない手際の良さで新たに濁りを混ぜ込んだ葡萄酒の瓶を開け、左方のテッラに強制的に飲ませる。一応奇跡の再現としての効力はしっかりと作用していて、目覚ましい癒しの効果が表れて左方のテッラの肉体の負傷を消していく。行われている方の左方のテッラは苦しみのため、大よそ神の右席の一人である左方のテッラらしくもない音の羅列を繰り返し続ける。
(瓶の底に沈殿していた酒の濁りをあえて葡萄酒中に混ぜる事で、魔術的に何か意味合いを持たせている……わけではなく、単に葡萄酒をまずくさせているだけの嫌がらせか。)
 ビットリオ=カゼラは上条当麻の考えを看破しつつ、ふと腕の中の少女が震えている事に気が付く。
『……ぷっ、くふふふ……。あはははははは!!』
 少女は転げてしまうかと思われる程に大きな笑い声を上げた。その後も笑って上条当麻と左方のテッラのやり取りを見ている。先程の泣き顔が嘘のようだった。
 確かに左方のテッラの反応は滑稽で、ビットリオ=カゼラも少女の笑い声を聞いていたら笑いが込み上げてくる。
「ふふっ……ははははは!」
 上条当麻は左方のテッラへの強制的な詰め込みの手を休める事なく破顔する二人を見て、また感化されたように笑う。
『ふ、ふふ。あっはははははは!』
 こうして、三人の笑う明るい声が部屋に響き渡る。
 相変わらず左方のテッラだけは人語ではない悶え声を口にしながら。



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