第六章 神と主は閉じた世界でも福音を送る YHWH.


     1

 夜も更けてきて肌寒くなった頃合いの中、ある集団がローマ市内を歩いている。
 その集団とは、ビットリオ=カゼラと少女、上条当麻の三人と、左方のテッラとその部下達十数名である。
 ビットリオ=カゼラと左方のテッラの修道服や礼服はぼろぼろで、少女や上条当麻の服も汚れが多少なりとも付いている。
 左方のテッラの部下達はビットリオ=カゼラが今朝フィウミチーノ空港に行く際に出会い、ローマ市民を安心させる事に尽力してくれた修道士達だった。両者共に驚きを隠せない再開となったが、一旦それに関して触れない事にして集団はある場所に向かっている。
 徒歩で向かっている理由は単に上条当麻やビットリオ=カゼラが体力的に消耗しているためである。いかに術式で傷を回復したとはいえ、それで今日の二大事件で使った体力が取り戻されるわけではない。より多くの休息が必要という事である。
『うわっ!?』
 声の大きさとは裏腹に、派手でもなく上条当麻は転んだ。ビットリオ=カゼラが足元を見ていた限りでは、引っかかるようなところはどこにもない。
『大丈夫か?』
『フ、フフフ、上条さんなら大丈夫。この程度の不幸、論じる気にもならねえ。』
 若干の涙を目に溜めて、強がりを行う。実際、今通っている道で転ぶ事は四度目だった。そのためビットリオ=カゼラも少しだけ優しさが薄らいでいる部分はある。
『ふう、それにしても『左』っつーのがこういう事だったとはな。』
 かすかな悲しみの色を織り交ぜた幼児の上条当麻の呟きに、ビットリオ=カゼラも注目する。
『何かあったのか?』
 先程からの会話は少女の使える言語だった。上条当麻もビットリオ=カゼラも、なるべく少女にも状況が分かるように話す言葉を変えている。
 少女も上条当麻の言葉に関心を持ち、じっと上条当麻を見つめる。上条当麻の方が年齢分だけ少し背が高いため、少女は上顎をいくぶんか持ち上げるような格好である。
『いやさ、マラキアスの予言が記されたという書物があるだろ? それの応用で未来について書き記すようにした魔術道具を作ってみたんだけど。』
 そう言って上条当麻は周りにいる一般人に見えないよう黒い穴の空間を作り、比較的新しい茶色をした革張りの本を取り出す。子供の上条当麻には大きすぎて不似合である。
 上条当麻が腕を最大まで広げてビットリオ=カゼラと少女が覗くと、そこには大きな余白に一単語だけ『sinister』とインクが(にじ)んだ言葉が書かれている。それ以外には二つのページで全く書かれていない。一点のインク染みさえもなかった。
『なんか失敗しちゃっててさ、もう一回作っても同じ結果になったから、いろいろと原因究明に勤しんでたりするわけ。』
『つまり、失敗していても断片的に情報は伝わっていて、このsinisterが左方のテッラを表していたとようやく分かった、という事か。』
『ん、概ねその通り。』
 ビットリオ=カゼラには理解できたが、しかし少女には難解である。少女は臆さずにビットリオ=カゼラに質問する。
『ねえビットリオ、これはどういう事?』
『そうか、お前はラテン語が読めないのだったな。sinisterとはラテン語で左を意味する言葉だ。そしてテッラの名の前には左方と付く。おそらくこの不完全な未来予言の書は今回のでき事に関して左の文字しか表せなかった。』
『それを左方のテッラという脅威と戦い終えた後に気が付いた、って間抜けな話さ。』
 上条当麻が言葉を勝手に繋いで少女に説明し終える。少女の方もその説明で納得がいったように頷く。
 そんな子供同士のやり取りをして、上条当麻は目的地を口にする。
『そろそろリースから連絡があった病院だな。』
 依然としてローマ正教主席枢機卿を呼び捨てる上条当麻に対し、ビットリオ=カゼラは困り顔になる。上条当麻は子供ではあるが、同時に明晰な頭脳と卓越した技術を持つ魔術師でもある。普通の子供と同列に語って良いとも思えない。
 しかしビットリオ=カゼラは肩を貸している緑色の礼服の男に注目する。注目といっても横からちらりと見るだけだが、それでも注意深く観察している事は間違いない。
 左方のテッラは虚ろな目つきをして、ただビットリオ=カゼラの歩くままに足を動かしている状態である。左方のテッラは上条当麻に完全強制で主の血肉の象徴による回復をさせられたが、同時に何らかの術式阻害の仕組みを埋め込まれたようで、光の処刑を自由に使えない状態となっている。
 左方のテッラの部下も神妙な面持ちである事には変わりないが、虚ろという程ではない。もしかすると上条当麻の主の血肉を用いた回復の奇跡再現で精神的に参ってしまった、という可能性もあるが、ビットリオ=カゼラはそれよりも戦いで負けた事が影響しているように見受けられる。
(私はすぐにテッラを助けてやれる事もできないで、テッラを止めてしまったのか。愚かだな、全く。)
 ビットリオ=カゼラは止めたいと思いながらも止められない憤りの思案を頭の中で回らせつつ、街角を左に曲がってその病院を発見する。
 玄関口から明るい光が漏れ出る病院前にいる人達の中で、ビットリオ=カゼラの目に初めに映った者達はマタイ=リース主席枢機卿とお付きの武闘に長けた書記官だ。マタイ=リースは上条当麻の両親の付添いをしていた事で、お付きの書記官は勝手に行動したマタイ=リースを何としてでも護衛するために、それぞれ病院前に待機している。
 マタイ=リース達の横にいる、残る二人の東洋人こそがこの病院に来た建前上の、そして本命の目的である。
『お父さん、お母さん!』
 上条当麻が声変わりも前の純真さを感じさせる声で、病院前の両親に自身の存在を知らせる。
『当麻!』
『当麻さん!』
 上条当麻の両親は日本人らしい日本人である。父親の方は威厳があるというよりも親しみを持ちやすい雰囲気の人物で、母親の方はビットリオ=カゼラからしても美しいと思えるような風貌の女性である。
 三人は共に駆け寄り、それぞれ向かい合えるところで止まる。
 だが。
『馬鹿!』
 ぱしん、と音が鳴る。
 上条当麻の母親は馬鹿という一言の元、右手で平手打ちを上条当麻に入れる。その一瞬の光景にビットリオ=カゼラや少女、マタイ=リース、そして上条当麻の父親までもが衝撃を受ける。
『お母さん、どうして。』
 平手打ちで横を向いていた顔を正面に戻すも、呆然としたようすで上条当麻は問いかける。
『どうして私からはぐれたりしたの!?』
 上条当麻の母親から発せられた言葉は、上条当麻を鋭く射抜く。
『空港の中は混乱していた。不可抗力ではぐれてしまうのも仕方ない事かもしれないわ。
 でも、当麻さんは私の手を自分から離した。急に駄々をこねて、どこかへ行ってしまった。』
 道行く人々が興味深げな視線を投げかけてくるが、そこにいた当事者達は誰も気に留めない。
 上条当麻は顔を数秒間だけ下げたが、すぐにまた後悔の念を露わにした表情で母親と目線を合わせる。
『そのせいで私達に心配をかけさせるばかりか、警察や救助隊の人達、主席枢機卿のリースさんという偉い方にまで心配かけさせて! 今こうしてこの人達に連れてきて貰って!
 当麻さん、当麻さんの行動がどれだけの人に迷惑をかけたと思ってるの!?』
 上条当麻の母親を見て、ビットリオ=カゼラは本物を見た気がする。
(これは、叱りだ。子を想う親の気持ち、心配になりながらもあえて子供にきつくも愛情のある言葉で叱咤するこの行動、まさしく叱りなのだ。)
 ビットリオ=カゼラは納得するような感覚になる。マタイ=リースが語ってくれた事、その真の意味がここで見る事ができている、そう思える。ビットリオ=カゼラも少女や左方のテッラに精一杯(おこな)ったつもりだったが、思い上がりを打ち砕かれる。
『お母さん、お父さん、ごめんなさい。』
 弱弱しい、そして年相応な謝罪が聞こえた。すると上条当麻の母親は屈んで上条当麻を抱き寄せる。
『全く、心配したのよ……本当に、良かった。当麻さんが無事で良かった……!』
 そのまま上条当麻の母親はすすり泣く。叱る事の緊張の糸が切れて、素の上条当麻の母親本人に戻ったという事だ。
 後ろで見守っていた上条当麻の父親も二人の横に座り、二人を抱擁する。
『ああ、本当に無事で良かった。当麻、母さんの言った通り、これからは迷惑や心配をなるべくかけないようにしような。』
『うん。反省する。』
 上条当麻も声は小さかったが、芯の通ったはっきりとした返答をする。上条当麻の父親はそれで微笑んで、より二人を抱きしめる。
 まさしく家族のあり方として真っ当である。ビットリオ=カゼラも暖かな視線を送る。しかし隣にいる少女の事情を考えると複雑でもある事に気が付いて、少女を見る。
 少女の顔には妬みや羨ましいという感情が見当たらない。少女も宵闇の出口に連れ去られて親や友人と離れ離れである筈なのに、芯の強さがそこには表れている。
 と、上条一家の抱き合うところへマタイ=リースが優しく日本語で声をかける。
『息子さんが無事でいて何よりです。』
『はい、本当に。』
 上条当麻の父親も嬉しさを隠さず返し、立ち上がる。上条当麻の父親はビットリオ=カゼラの方に向き直り、イタリア標準語で尋ねる。
「上条当麻の父親の、上条刀夜です。こちらは家内の、いや妻の詩菜。当麻を見つけて連れて来て下さり、ありがとうございます。失礼ですが、お名前を窺っても宜しいでしょうか。」
 勿論それは現地に住むビットリオ=カゼラやマタイ=リースの言葉よりもたどたどしさや発音の若干のずれがあったが、決して間違っているわけではないイタリア標準語だった。ビットリオ=カゼラは上条父子の語学力に内心舌を巻きつつ日本語で答える。
『私はローマ正教の修道士のビットリオ=カゼラです。こちらの彼はテッラ、少し疲れているようです。
 ああ、私の名前の発音などはお気になさらず。日本語も分かりますから、伝えづらい言葉があった場合は遠慮なく日本語で話して頂いて結構です。』
『え? ああ、そうですか。ありがとうございます。』
 謙虚な態度で上条刀夜は日本語に改めて返礼する。ビットリオ=カゼラは肩を貸している左方のテッラが無反応である事を少しだけ気にしながら会話を続ける。
『決してカミジョウさんのイタリア語が不自然であったというわけではありません。むしろ堪能なイタリア語に関心させられた程です。やはりカミジョウ……トウマ君の父親で――』
 言葉を切った理由は、上条当麻がしきりに口を塞ぐ動作を見せてくるからである。何事かと思う前に、病院への道中上条当麻に言われた事を思い出す。


『いいか、俺の両親は俺が魔術師だって事を知らない。ローマ方言を現地の人でも違和感なく話せるとか、十字教に対する知識についても同様だ。だから俺の両親に会って会話しても、そこらへんは内緒にしれくれ。な?』
 旧約と新約を(また)ぐエジプトの伝承術式を解除して元の状態に戻した石部屋を出て、左方のテッラの部下である若き修道士達と出会って間もなくの事だった。
 懇願する上条当麻に、ビットリオ=カゼラは疑問符を浮かべざるを得ない。夜の寒さに震える少女を両手で抱きかかえつつ、ビットリオ=カゼラは疑問を口にする。
『理由が分からないな。まさか貴様の両親は既に魔術師として一線を退いているのか?』
『全然違うって! 俺の両親は元々魔術師でもないし、どこかの宗教に入信して奇跡を操ってるわけでもないっつーの!』
 上条当麻が大仰な素振りで否定したため、ビットリオ=カゼラは素っ頓狂な返しをしてしまう。
『何だと?』
『いや、『何だと?』じゃなくてだな。』
 上条当麻はため息を一つついて、頭をかく。
 ビットリオ=カゼラからすれば驚くしかない。上条当麻という魔術師がこれだけの力を得た背景には、両親もまた腕のある魔術師だろうと考えていたからである。数々の協力で希少な霊装もまた、両親から譲られた物品と勝手に解釈していた。
 だがそれは普通の事である。誰が若干五歳の少年が、たった一人独学で世界でも有数の魔術師になっていると思えるというのか。少なくともビットリオ=カゼラには無理だった。
『魔術師になったのは完全に俺の独断で、両親は魔術どころか科学にすら疎い面のある一般人だ。だからあんまり心配かけたくないんだよ。ただでさえ俺の酷い不幸に巻き込んでいて、今回のフィウミチーノ空港の件だって俺のせいで迷惑かけちまったし、二人とも自衛手段がないんだ。
 それに――』
『それに?』
 少女が上から声をかけて会話に参加してくる。上条当麻は少女に顔と口を向けて続きを話す。
『それにさ、俺の両親は俺やカゼラみたいに大勢の誰かを助けるだけの力がない。言っちゃ悪いんだけど、両親が俺の事、魔術師である事とたくさんの誰かを助けるために危ない事をしているって知った時、たぶん反対すると思うんだ。』
『それは、普通の事じゃないのか?』
『うん。当たり前の事で、正しい事だ。
 でも、それじゃ助けられない人がいる。ほんの少しだけかもしれないけど、俺が魔術師になった事で助けられた人だっている。そしてたぶん、両親が反対して俺が魔術師をやめてしまったら助けられない人がいる。
 俺はそんなの、許容できない。』
『確かに、受け入れられないよね。』
 それは子供の我が儘と切り捨てられるべき事だった。今回の事件では幸いオーレンツ=トライス以外の死者は出なかったものの、こんな事は奇跡に近い。神秘と魔術の歴史を紐解いても三回目に数えられる程犠牲者が出ていない。
 また左方のテッラの凶行も未然に防ぐ事ができた事も特筆すべきだろう。本来ならばビットリオ=カゼラ程度の宗教的身分では到底成し得なかった成果が得られた。おそらくはこの事を考慮に入れれば史上初の快挙にもなるかもしれない。
 しかしそんな事はそう何度も起こる事ではない。起こらないからこそ史上三度目や歴史的快挙といった表現ができるわけである。
 けれども、上条当麻はそんな非常に良い結果を何度も残している。あれだけの被害を単独で作り出せる実力を持ったオーレンツ=トライスと数回戦って救えた人がいるというし、左方のテッラ以外の神の右席と対峙した事もあるという。今回上条当麻がローマに来た理由にも、一端にはある魔術的事件の解決中にマタイ=リースと知り合い友人関係となったためという事もある。
 これら以外にも数々の業績を残している上条当麻の力は本物である。ゆえに上条当麻のその口惜しいという感情は否定できず、またビットリオ=カゼラも上条当麻は(ローマ正教に改宗してくれる事が一番だが)そのままでも世界にいて欲しい人間だと考えている。
 ビットリオ=カゼラも少女も、上条当麻という魔術師の存在を肯定こそするが否定はもっての外だと思っている。
 しかしビットリオ=カゼラはそれが自身の身勝手な考えだという事も理解できている。本来それを決めるべきはビットリオ=カゼラではなく、上条当麻とその両親だ。
『本当に、話さなくてもいいの? トウマさんのお父さんとお母さんだって、自分達が仲間外れになってたら悲しむよ。』
『話したいけど、話せば話すだけ面倒な事にしかならないよ。親の気持ちだって理解できるけど、そこから譲歩できるような事柄じゃないんだ。もう、そんなところまで足を踏み入れてしまってるから。』
 無理な笑いを浮かべる上条当麻の言い分を理解したビットリオ=カゼラは、沈痛な表情を一瞬だけ見せてしまって、それでもすぐに真剣な面持ちで頷く。
『分かった。貴様の両親にはその話をしないでおこう。』
『よろしく頼む。語学関係も魔術のために習得したところもあるからな、そっちも喋らないでくれ。君やテッラの部下達もそうしてくれ。』


(……そうだったな。では、打ち合わせ通りに話すか。)
『あの、何か私に聞きたい事でも?』
 途中で言葉を切った事で、上条刀夜は不思議そうに尋ねてくる。ビットリオ=カゼラは慌てる事なく(いな)む。
『そうではありません。保護していた時彼と話していたのですが、なかなかに利発なお子さんでした。こうしてカミジョウさんの博識ぶりを目の当たりにした事で合点がいったという事です。』
『いや、そんな褒められる事でもありませんよ。』
 上条刀夜はなぜか目を下にしつつも照れ笑いをする。その横では上条当麻が親指を立てる手の動作をする。所謂(いわゆる)サムアップであり、ローマはその起源という事を知っていて上条当麻は行ったとビットリオ=カゼラは判断する。肯定的に受け止めてから、ビットリオ=カゼラは打ち合わせ通りを始める。
『トウマさんが発見されたのはローマ県ではなく、南に位置するラティーナ県のアプリーリアという都市でした。』
『アプリーリア? なぜ当麻がそんなところに。』
『それは分かりません。しかし我々はある一つの推測をしています。』
『推測、ですか。』
 上条詩菜も会話に参加してくる。ビットリオ=カゼラはマタイ=リースを一瞥(いちべつ)し、頷いた事で先を話す。
『実は先日、入信者に精神操作を行っている疑いのある宗教団体が、ローマ近くに秘密裏に入国したという情報が入りました。我々ローマ正教としてはローマという本拠地にそのような者達がいる事を看過できなかったため、警察組織とは別に独自で調べておりました。
 数日後、アプリーリアにその宗教団体が密入国していた事を知りましたが、根城にしていたと思われる建物には争ったような形跡以外には何も発見されませんでした。しかしその後、程近い場所でこの少女が見つかったのです。』
 袖のない特徴的な上着と、可愛らしい赤の子供用ドレスに身を包んだ少女はわずかに微笑みながら、その紹介を受ける。
『この子はどうやらその宗教団体に連れ去られてアプリーリアに来ていたと思われます。』
『え!? そ、それは本当の事なんですか!?』
 上条詩菜が狼狽しながら訪ねてきたため、ビットリオ=カゼラは右手で制する。夫である上条刀夜も上条詩菜を止めてくれて、話は紡がれる。
『はい、この子は――』
『待って、カゼラさん。そこからは僕が話すから。』
 と、上条当麻が珍しい事に日本語で話を遮った。
『当麻、私達は大事な話をカゼラさんに聞いているんだ。途中で止めたりせず、黙って聞く方がいい。』
『ううん、悪いけど僕にも関係ある事だから、口を挟まさせて貰うよ。』
 上条当麻の両親が驚くも、当の上条当麻はあまり気にするわけでもなくビットリオ=カゼラから話を引き継ぐ。
『この子は事件のショックからなのか、精神操作? からなのかよく分からないけど、一時的に話せなくなってしまったんだ。そこで今日の朝にカゼラさんとテッラさん、そしてここにいるローマ正教の人達はこの子と一緒に変なヤツらがいたっていう建物の近くに向かったんだって。』
 上条当麻の両親はビットリオ=カゼラの後ろにいた十数名の修道士達を見やり、またビットリオ=カゼラへ視線を集中する。
 無論先の上条当麻が言い放った話は虚言(きょげん)である。この世界にある不思議な事、つまり十字教的な奇跡や異教の魔術について詳しく説明しないためには嘘をつく他ない。
 だが、十字教は基本的に他者に嘘をつかない事を美徳とし、ビットリオ=カゼラも隣人に嘘をつく事が罪深い事だと知っている。
 ゆえに上条当麻は自分から真実でない話を引き受けたのである。ローマ正教徒に十戒を破らせないために、あえて嘘をつく事を選んだ。
『そうしたら、そこに僕がいた。僕もどうしてそこにいたのか分からないけど、変な、黒い、フード付きのあれ、何て言うんだっけ? それを着ていた男の人が近くにいた気がする。それで、僕はカゼラさん達に保護して貰った。その時にこの子も喋れるようになって、事件についていろいろと同じところが分かってきたんだ。』
 一通りの説明を終えて、上条当麻は話し疲れたとばかりに母親である上条詩菜の腕の中でもたれかかる。
『その後私達はマタイ=リース主席枢機卿に連絡を取り、ここまで来る道中に今朝のテロ事件の影響で渋滞に巻き込まれたため、徒歩で来たという事です。』
 ビットリオ=カゼラは最後に話を締めくくって説明を終える。渋滞に巻き込まれた事自体は偽りではない(まこと)の事であったため、ビットリオ=カゼラも話す事ができた。ただし、アプリーリアからではなくローマの名前で(くく)れる範囲の土地からの事だった。
『じゃあ、その宗教団体は空港のテロ事件の混乱を利用して当麻を攫ったっていうんですか?』
『カミジョウさん、これ以上は話せません。』
 後ろから口を挟んだ人物はマタイ=リース。豪奢でない服装だが、寒さは感じていないようにビットリオ=カゼラの目は見受けられる。
『この事は本来ならば秘匿(ひとく)されるべき事です。今回はご子息が事件に巻き込まれた可能性が高いためにわずかながら事情をお話ししましたが、これより先の話はあなた方の耳に入れる必要はありません。ここから先は、ローマ正教のこういった事件に専門的な部署やイタリア警察の方々に任せるべきです。』
『そう、ですか。』
『はい。事件も公表できると判断された場合には、公に情報が公開される前に事情をお話しする事も可能ですから、それで収めて頂きたい。
 また、すみませんがカミジョウトウマ君には今からこちらの病院の簡易な検診と警察の方の簡易な事情聴取を受けて貰いたいという事です。』
『それは、リースさんの?』
 上条当麻の頭を優しく撫でている上条詩菜が質問する。
『いえ、警察の方からです。その宗教団体が彼に何らかの危害、具体的には精神操作の類を受けた可能性も否定できません。明日、改めてより精密な検診と警察の方による詳細の聴取を受ける事になると思いますが、今この場で少しだけ行わせて頂きたいとの事です。
 トウマ君、だったね。すまないが、受けてくれないか?』
 まるで初対面の子供を相手にする態度を取るマタイ=リースに、上条当麻もまた初対面の大人を相手にする態度で応じる。
『眠いけど、お父さんとお母さんが病院に残ってくれるなら良いかな。』
『あらあら、当麻さんに当然付添うつもりよ。』
 上条刀夜は上条詩菜の言葉に頭を縦に振る事で同意する。しかしマタイ=リースは少しだけ意見する。
『おそらく、簡易なものでも時間がかかります。また警察の方もカミジョウトウマ君とは親の言葉にあまり左右されずに話を聞きたいと思うでしょう。』
『親の言葉? それってどういう事ですか?』
 利口そうな少年という印象を覆さず、上条当麻は疑問を口にする。ビットリオ=カゼラはそれを演技だと考えているが、一方でここまで腹芸ができる五歳という存在は想像に(かた)い。
『精神操作、という言葉を憶えているかい? つまり、君の心がその黒い服の男性に操られているかもしれない、という事だよ。もしも本当に君がそれを受けてしまったとしたら、専門の警察の人に任せるしかない。そしてそのためには君の親御さんと一緒ではなく、君が一人で警察の人に話をしないといけない。分かってくれるか?』
『……うん、分かった。』
『分かりました。』
 上条一家は各々了承し、マタイ=リースに導かれるように病院に入っていく。
 ビットリオ=カゼラは未だ目に明かりを灯さない左方のテッラを目に見えないところで気遣いながら、少女や青年修道士達と一緒に上条一家の後を追う。
 未だ何名かの観光客と警察官の数名がいる受付玄関、その窓口前でマタイ=リースとその書記官は止まり、窓口の事務員に話をしている。会話を終えたところで上条一家に振り返る。
『では、すみませんが私はこれで別れねばなりません。』
『あ、いえいえ! こちらこそどうもありがとうございます。ほら、当麻さんもありがとうを。』
『うん。マタイリースシュセキスウキキョウさん、ありがとう!』
 ビットリオ=カゼラは思わず吹き出しそうになる。ビットリオ=カゼラも子供である事を強調しての事だと判断しているが、マタイという名から枢機卿までを名前として解釈したように発音するとは想定できなかった。
 見れば少女や若干名の修道士達、日本語とイタリアの人名を知っているらしき院内の人々が声を殺して笑っている。
 一番受けた人物はマタイ=リース本人である。声を出して笑って、特に咎める事もない。
 反対に上条夫妻は困ったようすで上条当麻を叱っているが、何も分かっていないという演技をして白を切る。
(しかし、主席枢機卿まで長いのに憶えたという設定なのか? 考えるとおかしな事だな。)
 結局苦笑してビットリオ=カゼラはやって来た医師と共に、少女を連れて病院内の奥に入って行く。無論、左方のテッラやその部下達、事情聴取を行う警察官も一緒である。
「ああ、お手洗いはどこにあるか分かるか?」
 お付きの書記官にイタリア標準語でそう言って、マタイ=リースは病院のどこかへ行きビットリオ=カゼラ達と離れていく。
 上条当麻は最後に両親と話をしているところである。
『当麻さん、疲れているでしょうけれど、嘘をつかずに本当の事を警察の人に話しなさい。』
『母さんの言う通りだ。だが辛くなったら遠慮なく警察の人やお医者さんに言うんだぞ。』
『うん!』
 疲れを感じさせない明るい声で了解し、上条当麻はビットリオ=カゼラの元へ行く。
「息子を、当麻を頼みます。」
『よろしくお願いします。』
 イタリア標準語と日本語のそれぞれで上条夫妻がビットリオ=カゼラや医師、警察の人に挨拶する。
『安心してください。当麻君もすぐに戻る事になると思います。』
 ビットリオ=カゼラの言葉に上条夫妻はやや不安を残しているが安堵の色を表した顔つきになって、ビットリオ=カゼラ達を見送る。

     2

 一応、この集団もやるべき事は行っていく。ビットリオ=カゼラ、少女、上条当麻、左方のテッラの四人がそれぞれ()()()()()()()()()()()により素早く診察され、次いで簡潔にまとめた事件の顛末(てんまつ)()()()()()()()()()()()()に伝える。
 そして病院の座席が存在する比較的広い間にて待っていたマタイ=リースがそこで合流し、その中には当事者であるビットリオ=カゼラ、少女、上条当麻、左方のテッラやその部下の数名、マタイ=リースだけとなる。この時ばかりは護衛も兼ねている書記官も、マタイ=リースから部屋に入る事を許されなかった。
『まずは君達が無事だった事を喜ぼう。』
 高齢にもかかわらず椅子に座らず直立しているマタイ=リースがここで開口一番に告げた事はそれだった。少女の理解できる言語に合わせた発言に幼い上条当麻が反応し、首を振って伝える。
『いや、病院前でも喜んでいたじゃないか。どうでも良くないか? カゼラとテッラの服がボロッボロだった事を突っ込まれなくて済んだのは幸いだったけどな。少しは修繕しといて良かった。』
『カミジョウ! マタイ=リース主席枢機卿のご身分を考えろ! そういう口調は慎め。』
『ここは非公式の会談でしかないじゃねえか。なら、友達同士の会話ぐらい別にいいだろ。』
 上条当麻は落ち着いて私見を述べてマタイ=リースに目配(めくば)せする。マタイ=リースもそれに賛同する。
『堅苦しいと言うわけではないが、しかしあまり行儀を気にする場面でもあるまい。それに、そこの少女にもそれを求めるのは酷というものだろう。』
『ビットリオ、私に何をして欲しいの?』
『それは、そうじゃない。……リース! からかわないで下さい。』
 マタイ=リースの言動と少女の不思議そうな顔に困惑するビットリオ=カゼラ。和気藹々とした雰囲気が一度に作られる。病院内であるため騒ぐような事はなかったが、今日起こった壮絶な事件を思い起こす事のないだけ笑顔が溢れている。
 そこでマタイ=リースはビットリオ=カゼラを真っ直ぐに見つめて口に出す。
『カゼラ、そして君も、此度はすまなかった。私の頼んだ事が結果的にでも、君達が危険な目に遭ってしまった。ローマ正教式の人払いなど使用せずとも話してやれていれば、すぐに行動に移ってカゼラ達を助ける事もできた筈だ。』
『リ、リース、そのような事は……。』
 ビットリオ=カゼラの言葉はそこで切られる。マタイ=リースのあまりにも謝罪の念が強い目に、言葉を紡げなくなる。
『感謝と同じく、謝罪は行えるべきだ。私からの謝罪など気分悪く感じるかもしれないが、それでも謝らせて欲しい。』
 言葉の一つ一つに、真剣な想いが込められていた。
 だからこそだろう。
 少女はにっこりと笑う。
『大丈夫だよ、マタイさん。私はビットリオとトウマさんに守って貰えたし、二人とも今はこうしてここにいるから。』
 少女の言葉に、さしものマタイ=リースも面食らった表情にならざるを得ない。上条当麻も少女の言葉に続く。
『一応俺も同じ意見だ。カゼラがどう思っているかだけ、俺は知らないけどな。ていうかお前といいカゼラといい、生真面目すぎるって。その上お節介焼きたがるし、俺に送迎のシークレットサービスはいらないよ。』
『き、生真面目すぎる、のか。』
 上条当麻の口から放たれた内容にビットリオ=カゼラは衝撃を受ける。生来真面目な性分だと自負しているビットリオ=カゼラも、流石にすぎると言われて少しだけ歯切れが悪くなる思いになる。
 一方のマタイ=リースは、二人の子供の意見を聞いて穏やかに微笑む。
『そうか、ありがとう。私は良き隣人に、良き友に出会えたようだ。』
 感謝の意味を込めて、マタイ=リースは発した。四人の中にはわだかまりもなくなり、本当にただの私的な会談になりつつある。
 そこでマタイ=リースがある人物に目の焦点を合わせて、興味深げに語る。
『しかし、神の右席か。名は聞いた事が幾度かあるが、まさかこのような形で出会う事になろうとは。』
『リース主席枢機卿は神の右席を知っていたのですか?』
 ビットリオ=カゼラの不躾ともとれる質問にマタイ=リースは気分を害する事もなく答える。
『名前と目的の一端くらいは聞きかじった事がある。だが、こうして会うのは初めてでな。』
 言葉を切って、左方のテッラを見る。左方のテッラは変わらず無気力であり、部下達の手で椅子に座らされている状態である。
(テッラ、貴様は何を思っている?)
 ビットリオ=カゼラの思惟が深くなりかけていたところに、割り込みをかけてくる人物が現れる。
「どうか、どうか左方のテッラ様に寛大な措置(そち)を!」
 叫ぶわけではないものの、イタリア標準語で声を張り上げて懇願してきた。彼は今朝方、ビットリオ=カゼラと話し合い、ローマ市民の不安を和らげてくれていた者の一人である。
「私はどうなっても構いません。しかしテッラ様は今の世に、ローマ正教に必要な方なのです! どうか、寛大な措置をお願い申し上げます!!」
「私からもお願い申し上げます!」
「私も同じです!」
 マタイ=リースやビットリオ=カゼラに切迫して一気に空間のざわめきが強くなり、ビットリオ=カゼラは隣の席に座っている少女と目を合わせてしまう。
 今回彼らが集まった理由は、少女を誘拐した左方のテッラの処遇について事前に情報を共有し話し合うためである。その主目的として被害者ながら子供のため宗教裁判で発言ができない少女や異教徒の上条当麻の意見を聞く事がある。
 本来ならばローマ正教の中での奇跡の再現を行える(つまり魔術の絡んだ)問題のため宗教裁判にかけるべきだが、左方のテッラの場合は例外である。
 神の右席。その組織の一員であるという事実が阻んでいる。
 神の右席は公式にはローマ正教に存在しない。それもその筈、成立理由からしてローマ教皇を補佐する秘密に設けられた相談役が必要になったからというものである。立場が逆転した今でも、いや立派な異端の思想を目的に掲げている今だからこそ、公開されてはならないローマ正教の暗部なのである。
 しかし今回はまだ良い方の処遇決めの会談だ。まず当事者である少女、およびビットリオ=カゼラや上条当麻の意見を最優先する事や、地位的にもローマ教皇に次ぐ立場であり穏健な性格でもあるマタイ=リースがいる事といった、左方のテッラ側にしても僥倖と呼べる会談だからである。実際問題としては、後日ローマ教皇と主席枢機卿であるマタイ=リースが協議して処分を決定する形になると予想される。
「お前ら静かに!」
 上条当麻は容赦なく青年修道士達の言葉を打ち切った。異教徒という認識が根強い青年修道士達も、これには一時的に(ひる)む。
「まずはお前ら、その子と同じ言語で話せるか?」
「な、なぜそんな事を聞く?」
「決まってるだろ、その子だってこの件の当事者だからだよ。その当事者にも分かるように伝えてこそだろうが。」
 今度は呆れた物言いで返し、頭の後ろに腕を組む。
 上条当麻の言った事は最もである。勝者と敗者という関係も言い分の背景にある、しかしそれよりも上条当麻は当事者であり被害者である少女こそ尊重するべきだと言っている。少女が話しの流れをしっかりと理解する事が大切だというその主張には疑問に思うところが何もない。
「さあ、どうなんだ。俺が通訳した方が良いのか、それともいらないのかはっきりしろ。」
「……話せない。」
「はいはい、じゃあ俺が通訳する。あ、リースとカゼラはそのままその子の言語に合わせてやって。」
 割り切った調子の声で順調に話し合いのための準備を進めていく。場に静寂が戻った頃合いを見計らって、マタイ=リースは始める。
『では、今回の事件について概要を整理しておこう。今回のフィウミチーノ空港への襲撃と神の右席の一人、左方のテッラによる少女誘拐は全く異なる事件だという話だったが、間違いないな?』
『その通りです。フィウミチーノ空港の件ではオーレンツ=トライスという男性の魔術師が単独で起こしたもので、テッラに関しては神の右席の身分を用いての行動のようです。我々がフィウミチーノ空港で発見されなかったのも、左方のテッラに対抗するため体力を回復させていたためです。』
 弁じ終えてビットリオ=カゼラは上条当麻を一見する。上条当麻は青年修道士達へ今の会話を翻訳して告げている。五歳程の子供の日本人が、成人として扱われる年齢に達した青年達に北欧の言語をイタリア標準語に直して伝えている姿は、他に類を見ない。
 上条当麻は通訳を一度終了させると、全員に顔を見せられるようにして説明を始める。
『トライスに関しては俺が話そう。あいつは元々欧州系の魔術師で、東欧系は知らないけど、欧州にある神秘的、魔術的伝承を全般的に研究したり使用していた魔術師だった。
 でもってあいつは生きている人間を魔術研究の材料にしようと活動していた時、俺がそれを事前に察知して力ずくで止めたんだ。
 そしたら逆恨みされて、今回みたいに襲撃を受けてた、と。』
 そこで話を区切り、上条当麻は再び今の事をイタリア標準語で繰り返す。それを終えてから確実に暗めになった調子で続ける。
『全く、俺はどうしようもない大馬鹿者だな。トライスがこういう行動に出るかもしれないって予想ができた筈なのに、いろんな人に被害を与えてしまって。クソ!』
 行き場をあえて作らせていないその怒りが、上条当麻の拳を強力に握り締める。分別があり、その拳を病院の壁や床に打ちつける事もないため、より感じられる。
「大馬鹿者、ですか。」
 そこに、ある男の言葉が響いた。
 そのイタリア標準語の声は特段変わり映えのないものだったが、その存在感は格別だった。
「それこそ、私の方が大馬鹿者ではありませんかねー? こうして敗者の無様な姿を、殺そうとした異教徒に見せているのだから。」
「テッラ!?」
 声を発した者、左方のテッラは座っていた椅子から立ち上がって少女を見下ろす。先程までのような虚ろな目ではないが、一方で戦いの中で見せた強烈な光を称えているわけでもない。ごく普通の人間の目をしている。
 ビットリオ=カゼラは自然と少女を庇うように動き、マタイ=リースや上条当麻も身構える格好となる。左方のテッラの部下である黒い修道服の若者達は、逆に左方のテッラを守るかのように周りに集まる。
 唯一少女だけが変わらず、無遠慮な視線に対し無邪気な視線を送っている。
「私はフィウミチーノ空港の事件による混乱を利用し、それを追いかけました。それがフィウミチーノ空港に行き着いた時、隙を見つけ異教の魔術師二人を殺害しそれを奪取しました。極東の異教徒は殺し損ねたみたいですがねー。」
 自らを(ののし)(あざけ)るように左方のテッラは渇いた笑みを浮かべる。だが、左方のテッラは一瞬で笑い顔を消しビットリオ=カゼラを鋭い眼光で射抜く。
「そして何時間か経過してからあの場所で私とカゼラ、異教徒は戦闘に入り、カゼラの一撃で負けたわけですがねー。分からない事があるんですよ。」
『何が分からないと?』
「あなたがなぜ私の光の処刑を打ち破り、私に傷を負わせる事ができたのか。それを知りたいというだけです。」
 ビットリオ=カゼラの催促に手早く答え、左方のテッラは見つめる。上条当麻が早口にならないよう絶妙な早さで少女に左方のテッラが言った事の翻訳を伝え、その間にマタイ=リースが問いかける。
『左方のテッラよ。初めましてと挨拶できる場面でもないが、私の事は知っているのか?』
「あなた程の敬虔なローマ正教徒を知らない? そんな事はありませんよ、存じ上げていますとも。次期ローマ教皇に最も近いとされている主席枢機卿、マタイ=リース。このような状況でもお会いできて嬉しい限りです。」
『そうか。話を戻すが、本当にカゼラに光の処刑を破られた理由が理解できないのか? 見当ならば付いているのでは?』
「ええ、確かに見当ならあります。その見当が当たっているかどうかが知りたいというわけです。」
 マタイ=リースから視線を外し、左方のテッラは再びビットリオ=カゼラを見て指さす。
「あなたは敬虔なローマ正教徒です。ゆえに、神や媒介者たる天使から特別な加護が与えられる事もあるでしょう。
 あなたが光の処刑を打ち破れた理由、それはあなたが神の恩恵を格別に受け取り、歴史上の聖人達と同等の奇跡を起こしたからでしょう? 光の処刑は未だ不完全な術式ですからねー、本当に聖人となったならばどうとでもなるでしょう。」
 左方のテッラの静かな推理による、重い沈黙が広い間にのしかかる。発言の内容はそれだけ衝撃的だった。白い病院内の中で、黒い染みが一滴分だけあるような、違和感ともとれるもの。
『……ふ、ふふふふふ。くっはははははははははは!! だ、駄目だ、我慢でき……あははははは!!』
「な、何がおかしい!?」
 左方のテッラは困惑と少々の憤怒を交えて感情を露骨に表す。男の子の上条当麻は一しきり笑った後、妊婦を思わせる呼吸の整え方で話せるようにする。
『だ、だってお前、カゼラがお前らの親父さんから力を貰って聖人になったって、見当違いも(はなは)だしい感じの憶測を、くぷぷ、鬼の首取ったように語るもんだから。……ひ、ひーひっひはははははは!』
『カミジョウ、そう大きな声で笑うな。入院している他の患者に迷惑になるとは考えられないわけでもないだろう。』
 マタイ=リースがたしなめるものの、上条当麻の言った内容はまさしくその通りである。
 ビットリオ=カゼラはあらゆる意味で聖人ではない。列聖された事もなければ歴史上の優れた十字教的奇跡と同等の奇跡を起こせるわけでも、また主に身体的特徴が似通った聖人でもない。
 そんな真実とは程遠い推測を真面目に語る左方のテッラの姿がどうしようもなくおかしみに溢れていたという事である。
『どんだけカゼラを信頼してんだよ、ぷくふふふ……。』
 上条当麻の止まらない笑いを横目で見た後逸らし、ビットリオ=カゼラは優しい声色を発する。
『テッラ、あの時私が光の処刑を破れたのは十字教の範囲で説明できると思う。』
「十字教の……?」
『ああ。おそらくは三位一体だ。』
 三位一体と聞いて少女が一つ一つ確認する。
『神様と、主と、聖霊様の三つが一緒になっているって事だったよね、カゼラ。』
『ああ、よく憶えていたな。偉いぞ。』
 少女の頭を優しく撫でてやり、ビットリオ=カゼラは笑みを浮かべる。撫でられている少女も嬉しそうに破顔している。
 三位一体とは神と主と聖霊がそれら三つの異なる位格のものによって一つであるとする考えの事だ。多くはそれぞれが同等であるとする説の立場に立つが、それよりも三つはそれぞれ一つの存在の一側面であると表現しても決して間違いではない。この三つはそれぞれが密接に関連し、ある一つの働きを成すという。
 三位一体の微細なところまでをきちんと説明する事は人間では不可能な部分があり、おおむねが合っていれば許容される。
 左方のテッラも三位一体を当然知っており、(いぶか)しいと思うよりも納得が見て取れる顔になる。
『実のところ十字教は三つある事に三位一体を応用した意味を見出す事が多い。あとは四もそういった十字教的な意味を抽出し解釈されたりする。
 だからあの時、俺達は三つの要素で左方のテッラに決戦を挑んだ。』
 続けて上条当麻は年相応の小さな指を一本立てる。
『最初にカゼラの意志があった。神の右席、左方のテッラという強者に、それでもその子を守りたいと立ち向かう意志が。』
 その場にいる全員の視線を集めた少女は恥ずかしそうに俯き、顔を少しばかり赤く染める。
 もう一人の視線を集めた人であるビットリオ=カゼラもこそばゆい感覚になり、思わず心の中で愚痴を言う。
(そういう事を言われるとかなり照れくさいのだが、分かって言っているように思えるぞ。いや、分かってて行っているな、貴様ならば。)
 視線を集めているビットリオ=カゼラは、そのまま三位一体の解説を上条当麻から奪い取る。
『次にカミジョウの術式の事がある。テッラ、最後に貴様の小麦粉と葡萄酒の壁を切り裂いた時に私の剣は黄金に輝いていたか?』
「……輝いていませんでしたねー。なるほど、異教徒に術式を付与して貰っていたわけですか。」
 忌々しいという思いを隠さずに左方のテッラは上条当麻を睨みつける。
『そう睨むなよ。カゼラはお前との戦闘では神の如き者(ミカエル)が持っているらしい金色に輝く剣を模した術式で得物の剣を強化していた。それだと光の処刑で効力を失われる可能性があったから、俺の魔術で十字教以外の加護を被せたんだ。
 このピョン子で、ってそうだった。ごめん、これ返すの忘れてた。』
 上条当麻が空間に黒い穴を開け取り出した物は少女が大事そうに持っていたあのカエルの人形である。上条当麻は少女に寄って丁寧に渡す。
『トウマさん、ありがとう!』
『いやいや、礼を言われる程じゃない。そのピョン子があの場にあったからカゼラの剣に加護を付与する事ができたんだから、むしろこっちがありがとうを言うべきだよ。』
 笑顔で返答して上条当麻は話を戻す。
『俺はマヤ神話系の魔術も扱う。そのためマヤ神話において人々から敬われる存在に仕える官吏(かんり)になる資格があるんだ。あくまでも資格があるってだけで、マヤで敬われる存在に仕える官吏ってわけじゃない。
 フィウミチーノ空港でトライスのマヤ世界観の疑似再現魔術を壊した時にきつい一撃を食らってしまったのも、そうしたマヤ系魔術師の側面を持っていたからなんだ。』
「まさか、このローマの地でマヤの魔術を行使し、カゼラの剣に異教の加護を付与したという事ですか? それが可能とは、本当に厄介な魔術師だ。」
 苦い物を噛み締めるような苛立ちを見せて左方のテッラは吐き捨てる。それでも上条当麻は変わらない口調で説明する。
『マヤ神話で敬われている存在には、チャクっていう雨を司る存在もいる。その御使いこそ、なんとカエルなんだ。
 それで俺はこのピョン子、いやカエルの人形を媒介にチャクの加護をカゼラの剣に与えたわけ。チャクの力を上塗りする感じでやったから、小麦粉と葡萄酒に真っ先に当たったのは剣の刃じゃなく、上塗りされたチャクの力だった。ゆえにあの壁を斬る事ができた。』
「なら、それが私の光の処刑を突破した一番の要因じゃありませんか! 三位一体は全く関係ない!」
 横暴な左方のテッラの態度に青年修道士達は気が気でない。左方のテッラの処遇に関して少しでも罰を減らして欲しいからこそこの場にいる者達だが、戸惑いしか出せずに立っているままである。
『北欧神話圏には多少知識があるテッラでも、流石にマヤ神話のそういった部分までは理解できないだろうと思ってな。三位一体のうちの一つに使ったんだ。そして仕上げとなる最後の三つ目、それはこの子のカゼラへの想いだ。』
『……え?』
 何の事か分かっていない少女が小さく疑問の声を上げる。上条当麻は言葉もなくビットリオ=カゼラに語りかけてくる。
 その声なき声の意味を理解して、ビットリオ=カゼラは屈んで少女の目線まで腰を落とす。
『カミジョウの言う通りだ。お前がいてくれたから私は最後まで戦えた。そして、お前の想いが私に届いたからこそ、私はテッラに勝てた。』
「何を、何を言っている!? 異教徒の想いだと!? そんなもので、何ができるというのです!!」
 狼狽え反響する言葉に、ビットリオ=カゼラはたった一言。
『貴様は愛を否定するのか?』
 左方のテッラはその一言に凍りつく。構わず続ける。
『主は多くの人々を愛した、想いやった。だからこそ主は誰にもできぬ奇跡を行えた。
 貴様も同じ筈だ。ローマ正教を強く、深く愛し、想ったからこそ光の処刑を編み出し神の右席にもなれた。
 この子もそれを行ったのだ。私を想いやってくれたから、この子が力を授けてくれたから、私は貴様に勝てた。』
 ビットリオ=カゼラの言葉は決して鋭くはなかったが、しかし左方のテッラの心に深々と染み込む。ビットリオ=カゼラの左方のテッラを見る目は優しい光に満ちている。左方のテッラは忌々しいと表現したいのに、そんな目をされている事でうまく感情を表せない。
 そのまま苦悩し沈黙を続ける左方のテッラに、導かれるかのように少女が歩み寄る。
『え、おい待って!?』
 上条当麻の静止にも耳を貸さず、少女は左方のテッラの前で立ち止まる。周りにいる黒い修道士達も気にせず、左方のテッラの顔を覗き込む。
「……何用ですかねー。普通、私を怖がって近づかないと思うんですが。」
 そんな左方のテッラの言葉を無視して、少女は語りかける。
『テッラさん、あなたは私を助けようとしてくれてたんでしょ? その、私にはよく分からない方法みたいだったけど。』
 左方のテッラは少女の言語を理解していないわけではない。顔をしかめている理由も、少女の言葉を聞いているからだ。
 少女は左方のテッラが話を聞いてくれている事に安心して、話を続行する。
『ここにいる皆はあなたに罰を与えるかどうかで話し合っているみたいで、イタリアの言葉じゃなく話してくれているのも、私があなたに傷つけられそうになったからなんだって分かってる。
 だから私は、ちゃんと言います。テッラさんを、今は許しています。』
 左方のテッラの顔が呆ける。マタイ=リース、上条当麻、そしてビットリオ=カゼラでさえも。例外として若い修道士達は言語を理解できていないために首をかしげている。
 その告げられた内容に反応もできず動けない。
『私も昨日ビットリオに叱られたばっかりなの。それって、私が嫌いだからじゃなくて好きだから叱ってくれたんでしょう? そう、間違えちゃっても許してくれるのが当たり前だからなんだって、私には思えた。愛してくれているからなんだって、そう考えた。それは私が子供だからかもしれないけど、でも私はテッラさんを許したい。
 テッラさんに初めて会った時や連れ去られた時は怖かったし、今も怒っているし、でも私は今、テッラさんを許したいと思っている。嘘なんかじゃない、本当の気持ちで。あ、勿論こんな事はもうしないって約束してくれないと駄目だよ。
 でもテッラさんが本当に反省できているなら、私はテッラさんを許します。』
 ビットリオ=カゼラは、今日一番の衝撃に本当の意味で出会えたと感じる。上条当麻よりも幼く、あの戦いの中でも敵意を向けてきた筈の左方のテッラに、少女は惜しげもない想いやりを与えている。
 それは甘すぎる決定にしか思われない。ビットリオ=カゼラもそう思っている。その場にいる少女と左方のテッラの部下以外が共有している思いだ。実際には左方のテッラに重い刑罰が科せられる事になると予想され、その場合(つぐな)いにはかなりの時間を要する。少女の許したいという想いは絵空事に等しい。
 だが。
 それゆえにビットリオ=カゼラは少女の隣に立ち、左方のテッラと対峙する。
『テッラよ、私はすぐに貴様を赦すような考えにはなれない。この子が語った本心によって、ある程度の酌量の余地を勘考(かんこう)すべきだとは思ってもだ。
 だが私は罰を受け贖罪(しょくざい)を果たした貴様を赦したいと思う。悔い改めた貴様を、そして悔い改めようとする貴様を、私は受け入れたい。
 十字教は赦し赦される事を肯定している。我々は主自らが処刑された事によって原罪を赦された。主は罪人のためにおられるのだから。
 甘いと思うならば笑ってくれて構わない。それでも私は貴様を赦そうと思えるのだ。』
 頭を殴られたような衝撃が、またも左方のテッラを襲う。確かにビットリオ=カゼラは左方のテッラを助けたい、止めたいと何度も言っていた。しかしそれは戦いの中であった事、またビットリオ=カゼラの目には闘志も存在していた。
 今は違う。優しい光だけを浮かべて、心底想っている事を伝えた。それが左方のテッラには読み取れて、反応を返せない。
 そしてもう一人。
 左方のテッラの部下達に訳を伝え終えた上条当麻が、ビットリオ=カゼラの反対側となる少女の隣に来て、左方のテッラに語る。
『俺はローマ正教どころか十字教の信徒ですらない。そんなヤツの助言だけど、聞いてくれないか。
 対十字教黒魔術(アンチゴッドブラックアート)とかいう長ったらしい名前の、十字教からすれば決して相容れない分類に生きる人種がいる。あいつらは聖書の中身を一語一句まで吟味して、抜け道を見つけて良いように解釈する魔術師だって言われてる。』
「それが、何か?」
『俺は何で聖書にはそんな理屈の穴があるんだろうな、と考えた時、こう思ったんだ。
 誰かを助けるために、あえて抜け道を用意したんじゃないか、って。それなら後は簡単だ。』
 子供の肺活量の限界まで空気を吸い込んでから、伝える。
『テッラ、異教徒を誰も殺さなくて済むような理屈を聖書の中から見つけるんだ。もう一度端から端までひっくり返すくらいに。そして異教徒でも排除する必要なんかないって、全員救っちまえば良いんだって、そういうふうに自分の中で都合良く解釈してしまえ。
 そうしたらローマ正教徒も他の十字教派閥の信徒も異教徒も、関係なく救える道が見えてくる筈だ。』
 大胆な発想と提案だった。言葉を理解できた者ならば迷わず相手の思考回路を疑う程に、それは従来の考えから逸脱している。
 それでいて決して否定ばかりがされるようなものでもない。誰もが助かる事を最優先とするならば推奨されるかもしれない理屈である。
 そして、左方のテッラはそんな誰もが救われる世界を望んでいる男だ。
 その左方のテッラは、三度の強い衝撃にたがが外れる。
「ハハッははははは! 何ですかその答え、考えは!? 殺そうとした私に赦しを与え、贖罪の先に歩むべき道を提示する? これは何とも、何とも……っ!!」
 思いを露呈する中で、非力に戻った左方のテッラは泣き崩れる。初めは小さく、そして次第に大声で。
「何と……ありがたき事か……っ!!」
 涙でトカゲのような顔を酷い有様にして、左方のテッラは顔を下に向ける。
『テッラ、顔を上げろよ。見っともない姿はまだまだこれからも見せなきゃならないんだから。』
『うむ、こんなところで立ち止まっているわけにもいくまい。さ、テッラ。』
 ただの病院の蛍光灯に照らされているだけの筈の左方のテッラは、二つの暖かな手が差し伸べられている光景を見て、その手の持ち主を両の眼で見つめる。
 二人のヒーローは一人の少女の満面の笑顔と共に、もう一人の間違えてしまったヒーローに、言葉をかける。
『さあ、一緒に歩もう。』
 こうして、左方のテッラの顔に真の晴れ間が現れた。
 その晴れ間は一瞬で、すぐに涙の雨が再度降る事になるが、確実にそれは見えた。
 左方のテッラが、矮小だが優しい世界がローマ正教の外にもあると受け入れた瞬間だった。
『あーおい、だから泣き止めって。それから言語もこの子に合わせてやりなよ。お前はできる奴なんだから。そうだ、リンゴでも後で食べようぜ。栄養ばっちりなリンゴをさ。』
 子供だからこそ左方のテッラという異色の大人に寄り添って励ます姿が様になる。青年の修道士達も雰囲気で悟ったその結果にある者は涙し、ある者は微笑んでいる。
 と、マタイ=リースがビットリオ=カゼラの後ろに来ている事に気が付く。
『どうやら、会談はおしまいにして良さそうだな。』
『はい。テッラとの出会いは最悪の形になってしまいましたが、こうして和解できた今となっては良い巡り合いだと思えてなりません。』
 それはビットリオ=カゼラの正直な感想だった。左方のテッラというローマ正教徒に出会えた事で、ビットリオ=カゼラ自身も強くなれた上に、左方のテッラも心が救われた。それを喜びこそすれど悪しく思う事は絶対にない。
 そして、そのためにある事を思う。上条当麻の喜びようを見ての事である。何も異教徒である上条当麻が本気で嬉々とした表情を出している事に驚いているわけではない。
(カミジョウ、貴様はあの時、本当の意味でトライスの死を嘆き、悲しんでいたのか……。)
 これもまたビットリオ=カゼラが素直に感じた事だったが、フィウミチーノ空港でオーレンツ=トライスが小麦粉のギロチンで切断された時、襲撃に対する警戒はしたがそこにオーレンツ=トライスが死んだ事による悲嘆はなかった。上条当麻が必死の形相でオーレンツ=トライスに駆け寄った姿も、オーレンツ=トライスに操られているという人々の解放が極めて困難になったからだと勝手に考えていた。
(だが、それは思い違いだった。カミジョウは嘘偽りなく、オーレンツ=トライスという一人の人間の死を悲しんでいた。
 全く、まだ子供だというのにどこまでも私よりも先にいる。本当、私は未熟者なのだな。テッラに負けぬよう精進せねば。)
 密かに新たなる決心をしたビットリオ=カゼラは、少女を抱きかかえて上条当麻に声をかけようとする。

「おいおい、まさかここまでお涙頂戴な形で解決してしまうのか。見ているこっちが寒気を覚えるぞ。」

 突如――謎の音声がその場に響いた。
 そのイタリア標準語の言葉が聞こえた方向、病院の奥へと続く廊下へ全員の目線が一斉に注がれる。
 その人物はここにいる左方のテッラの部下である青年達と同年代の青年である。自然に見下している状態の目とまつ毛がはっきりとした美青年で、印象は赤。理由はかの人物の服装や髪色にある。
 その首あたりで切り揃えられた髪も、何本かの細い線が縦に入っている薄手の服も、その全てが赤い。燃えるような赤の体現者である。ローマ正教どころか十字教の範囲にいる人間なのかすら判断がつかない。
 そして、そんな人物をビットリオ=カゼラはもう一人知っている。緑色の髪に緑色の礼服を着た男、左の方向と神の薬(ラファエル)を司る男、すなわちこの場で泣いていた左方のテッラの事である。
「存外に初めましての顔が多いな。自己紹介もしないといけないか。」
 その赤い男は歩きながら面倒である事を隠さずに態度で表している。
 ふと、赤い男がビットリオ=カゼラの目と視線を合わせてくる。
 比喩表現でも何でもなく、脂ぎった気持ち悪い汗が体中から噴き出される。オーレンツ=トライスや左方のテッラの時の比ではない、桁違いの威圧感がビットリオ=カゼラを襲っている。少女を抱きかかえる腕がわずかに力む。
 赤い男は数秒だけビットリオ=カゼラに視線を合わせた後、興味を失ってすぐに外す。それだけでビットリオ=カゼラの全筋肉が弛緩する。
「右方のフィアンマだ。神の右席の一人、右と火と神の如き者(ミカエル)を扱う者と言った方がより親切かな?」
 目の笑っていない笑顔を向けて、赤い男――右方のフィアンマは挨拶した。

     3

 泣いていた左方のテッラは慎重な声音で同僚とも言うべき男に問う。
『あなたが何の用ですか? 今はあなたの出る幕ではない筈。ローマ正教の最奥で準備をしている時では?』
「お前に指図されなきゃ俺様は出歩けもしないのか? ちゃんと用向きがあってここにいるんだよ。その一つはお前だがな。」
 あくまでも軽薄な口調を変えず右方のフィアンマは左方のテッラの隣でその肩に手を当てている小さな魔術師を見る。
『変に成長してるみたいだけど、久しぶりになるかな。今度の狙いは聖書の原典か、天使の涙か、ネフィリム関連か?』
「どれもお前に潰された計画ばかりだな。久しいよ、上条当麻。」
 どちらも旧友に出会った時の挨拶を交わしているようだった。かろうじて右方のフィアンマの重圧に耐えているマタイ=リースが上条当麻に尋ねる。
『この男と知り合いなのか?』
『うん。かつて俺はテッラ以外に神の右席と戦った事が二度ぐらいあった。その時苦戦させられてどうにか引き分けたのがこいつ、右方のフィアンマさ。』
 ビットリオ=カゼラは思い出す。フィウミチーノ空港でのオーレンツ=トライスとの戦いの後、左方のテッラを知らされた時に上条当麻が言った事だ。胸のあたりにいる少女の手がビットリオ=カゼラの腕を握り締めてくるために、少女を強く抱き寄せる。
「引き分けではないだろう。二回ともお前の勝ちだ。」
『ええっと、それで良いのか?』
「計画は頓挫(とんざ)した。その時点で敗北だったという事だ。」
 警戒心のない会話だった。
 上条当麻と右方のフィアンマ。ビットリオ=カゼラには右方のフィアンマの実力を知る術がないため正確には測れないが、それでも神の右席という立場から左方のテッラと同等、あるいはそれよりも高い次元に存在する事は容易に推し量れる。
 まさしく人外と人外の会話だった。
 そこへ、人外の領域に半身を()けている左方のテッラが口を挟む。
『フィアンマ、そろそろ私に関する用事というのを聞きたいのですが。』
「何だよ、せっかちだな。早くあのぬるま湯のようなお前に優しい状況に戻りたいのか。」
 罵倒してから、右方のフィアンマは告げる。
「左方のテッラに休職処分だ。」
 たった一言でその場の会談理由を満たしてしまった。その言葉は神の右席という組織に似合わないものの、右方のフィアンマが言う事で奇妙な発言力があった。
「流石に上条と同時に相手取らなければならなかった状況にあったとはいえ、そこのローマ正教内部の魔術師に負けるとは思っていなかったからな、妥当な処分だろう。いや、もっと甘い判断かもしれん。
 しかし俺様程ではないものの、稀有な性質と才能の持ち主だ、解雇まではしない。だがしばらくの間は神の右席として行動する事を禁じる。これは通告だから、抗議しても覆らんぞ。」
 一方的な言葉だった。話し合うという事を完璧なまでに無視して、右方のフィアンマという男は話し合いの場を支配している。
 そこに異議を挟める人間が、一人いる。
『なあ、別にカゼラは魔術師じゃないだろ。ローマ正教の信じる奇跡を再現できる者の一人ってだけじゃないか。』
「十字教、というよりローマ正教以外からの評価はそんなものだ。奇跡とやらの仕組み自体は薄汚いと罵っている異教の魔術と同じでしかない。」
 それでも上条当麻は納得いかないという顔をしている。上条当麻と右方のフィアンマ、二人のそれぞれの意見は平行線を描いている。上条当麻はその苛立ちを隠さないながらも少女に話の内容を翻訳する事だけはやめない。
 左方のテッラは右方のフィアンマからの休職処分に堪えたようすもない。涙で少々の見苦しさが残っているが、その顔にはビットリオ=カゼラが魔術師呼ばわりされた事に対する心配がある。
『私は別に構わない。』
 ビットリオ=カゼラは左方のテッラに向かって呟いた。
『たとえ魔術師と言われようとも、私は私なりのやり方でローマ正教を愛し、守り、教義を全うするだけだ。』
「なら全うしてみせろ、負け犬。」
 ビットリオ=カゼラの覚悟は、しかし右方のフィアンマには届かない。おざなりで無関心な対応で右方のフィアンマは上条当麻に顔を向ける。
「本命の目的も果たそう。上条、これを受け取れ。」
 それは病院という無風状態の中で上条当麻に一直線に飛んでいく。上条当麻は難なくそれを掴み、疑問符を後ろに付ける。
『紙飛行機?』
 それは白い紙でできた折り紙という物である。ビットリオ=カゼラも詳しくは知らないが、日本の文化に紙を折って遊ぶ習慣があるという。上条当麻が持っている物はまさしくその折り紙だ。
「初めて挑戦したにしてはうまくできたと思っているが、それに書かれてある場所と時刻に来い。それだけを伝えに来た。」
 綺麗な紙飛行機という名前の折り紙を渡すためだけ。そのために右方のフィアンマはここに来た。ビットリオ=カゼラには上手く理解ができないが、しかし右方のフィアンマを知っている上条当麻と左方のテッラは当然だと雰囲気で語っている。
『用件は分かった。で、お前はこれからどうするんだ?』
「指定した時刻までは適当にさせて貰おう。用も済んだし、もう帰るか。」
 右方のフィアンマは言うだけを言って、来た廊下に振り向く。が、左方のテッラに少しだけ顔を傾ける。
「休職中は何をしようが勝手だ。そこの俺様さえ凌駕する魔術師にくっ付いて力を得るのも一興かもしれん。」
 言い終わると今度こそ右方のフィアンマは一歩だけ踏み出して――消える。
『な、いない!?』
 ビットリオ=カゼラが驚愕の声を上げるも、既に右方のフィアンマはいない。それはビットリオ=カゼラの感じていた圧覚がなくなっていた事からも察している。
 奇妙な来訪者がその場から消えた事で、重苦しい空気が窓を開けて換気したかのようように解けた。上条当麻や左方のテッラ以外の全員が安堵のため息をつく。
 それでも最初に言葉を発する人物は上条当麻である。
『フィアンマにいろいろ言われたけど、お前はどうする。言っとくけど俺も今回の件で至らないところを確認したから、そこを直していく形になると思う。』
『あなたの至らないところ?』
 床に泣き崩れた時の姿勢のままの左方のテッラは不思議そうにする。
『まるで全くないと思ってた、みたいな反応はよせ。トライスがフィウミチーノ空港ぶっ壊してくれた事だよ。フィウミチーノ空港の修復とか、仕事や旅行の予定が狂った人への補償とか、あるいは精神的に傷を負った人の治癒だとか、たくさんある。実際けが人も二人出してしまったんだ、全部やらないと。』
 一瞬だけ、上条当麻の言葉にその場で少女の言語が分かる者全員が心の中で絶句する。
 改めて、ビットリオ=カゼラは思い知らされる。確かに上条当麻の言う事には正当性が存在する。上条当麻がオーレンツ=トライスを今日よりも前に暴走を抑えていれば未然に被害を防げた、それを怠って被害を出させてしまった原因は自身にあるため補償も全て行う、という事だった。
 しかし上条当麻も被害者である。原因となるオーレンツ=トライスに狙われた理由も過去に人殺しを見過ごせなかったからだった。
 それでも上条当麻は迷惑をかけた全ての人々や会社にその分だけの慰謝(いしゃ)を行うという。
『それを、行うと?』
『当たり前だろ。俺に責任があるんだから。トライスを改心させてやれなかったり、事前に襲撃対策を練らなかったり、あるいは……トライスを殺していなかったり。』
 子供が作るべきではない面持ちの上条当麻に対し、その発言を責められる人間はこの場に存在しない。
 簡単に事件を解決する方法は、上条当麻には多くある。ビットリオ=カゼラでは比べ物にならない、あの多大で押し潰されそうな雰囲気を纏っていた右方のフィアンマでさえも、上条当麻には敵わないと言っていた。そんな上条当麻にとってすれば、殺害という手段は極めて簡単な事件の解決方法である。
(だが、カミジョウはそれをしなかった。邪悪で神に仇なす敵ならば殺してもよいと思っていた私よりも、ローマ正教徒以外を見捨てそうになった私よりも、カミジョウは助けたいと思っていた。)
 安易な手段を選ばず、苦難の道を進んでいる。それで被害が出てしまってもその道を曲げず、左方のテッラを殺さないように止めた。
 当然、その行動に賛否は共にある筈だ。中には上条当麻の行動全てを軽率だとして上条当麻を抹殺すべきという極端すぎる意見が出る可能性もある。また、その意見が正しい可能性も、勿論存在する。
 だからこそ、ビットリオ=カゼラは上条当麻の味方になれる。実際、少女や左方のテッラはこうして生きていて、また改心している。上条当麻の行いが絶対に不利益を生み出すわけでもない、その事をはっきりと知っている。
『それに、お前だって罪は償わなくちゃならない筈だろ、テッラ。』
『……え、待って、どうして。』
 少女の戸惑いの言葉によって、上条当麻はビットリオ=カゼラの腕の中にいる少女に視線を移す。
『君に赦された事は間違いない。でもテッラが社会的に許されたわけじゃない。確実な犯罪者を無罪放免したら、それこそその社会は崩壊していく。犯罪ってのは社会全体に不利益をもたらすものだからな。事例がちょっと特殊だけど、今回の失踪事件で俺の両親やリースには心配かけさせてしまった筈だしな。当然、君の誘拐による失踪に関しても探すための人員は割かれたわけだし。』
『つまり、罪は赦されるが、しかし罰を受け償いも行うべきという事だ。』
 ビットリオ=カゼラが補足して、少女は顔に暗い影を一つだけ落とす。どこまでも少女の感性は純真である。
 それに左方のテッラが、優しく声をかける。
『私に関してそこまで落ち込む必要はありません。ほら、(おもて)を上げて。』
 立ち上がった左方のテッラに、少女の視線も自然と持ち上がる。そこには暗い顔がない。
『テッラさん……。』
『罰と言っても、結局は公にならずローマ正教内部で片づけられるでしょうしねー。先程のフィアンマの決定を聞いたでしょう、あれで一つのカタがついたんですよ。あそこまであっさりとしたものにはならないでしょうが、随分と軽い罰になると思います。』
 かすかな笑みを浮かべて、左方のテッラは続ける。
『あなたに危害を加えようとして本当にすみませんでした。そして、そんな私を赦して下さって、ありがとうございます。』
 今できる最大限の礼を尽くして、左方のテッラは謝り、感謝した。
 それが今回の事件で得られた、一人のヒーローの想いだった。


『それではカミジョウ、どうするかな? 私はもうこの非公式会談を終えても良いと思うのだが。』
 マタイ=リースの提案は最もである。左方のテッラの処遇決めのために集まっているわけだが、一番の目的は被害者である少女やビットリオ=カゼラ、上条当麻の意見を聞き調節する事にあった。それが出揃った上に右方のフィアンマという神の右席の構成員による神の右席としての処分の言い渡しがあった事で、事実上目的は果たされたと表現して差し支えない。
『まあ確かに。これ以上誰か言いたい事がなければ、これでお開きにしても良いけど。
 さてさて、その前に腹が少しだけ減ってきてないか? 上条さん印のリンゴとか食べたくなってこないか?』
 軽妙な言葉の元、上条当麻はビフロストの応用魔術で空間に穴を作り、そこから丸く赤いリンゴをいくつか取り出す。
『ほい、カゼラとその子の分。リースとお付きの人の分。テッラの分。テッラの部下達の分、全員分渡すぞ。』
 素早くリンゴを渡して回り、上条当麻自身も一つだけ手に取って配り終える。
『病院内だし、帰ってから食えよ。絶対上手いから!』
 上条当麻は比較的大声でそう言って親指を立てる。戦った左方のテッラを殺していない事やローマの土地であるため、逆に何らかの隠れた意味を疑いたくなる。
 しかしビットリオ=カゼラはそれをしない。上条当麻が少なからず遊び心を持つ人間であると知っているからだ。
(ま、年相応のところがあるという事だ。あんなふうに傷ついて、悪意のある大人に出会っても、あいつは子供の部分を失っていない。素晴らしい事じゃないか。)
 ビットリオ=カゼラが上条当麻について考えていると、当の上条当麻は慌てている。
『あ、やばい、催してきた。リース、化粧室の場所教えて。』
『ああ、ならば私も行こう。年を取ると化粧室が近くなって仕方ない。』
『おし、じゃあ早く行くか。あー、お前の護衛の人も捕まえないとな。というわけで皆!』
 にわかにざわつき始めた最中、上条当麻が注目を集めるように声を出した。
『そんなわけで今回の非公式相談会は終わる。テッラの光の処刑封じているものはあと一時間もしないで解けると思う。
 それじゃあ解散! テッラ達ばいばい! カゼラ達も気を付けてな。』
『はい、リースに主の御加護があらん事を。カミジョウには……私の祈りを。』
『うむ。カゼラ達、テッラ達、また明日会って食事でも一緒にしよう。』
 マタイ=リースが口を閉じた後、上条当麻はマタイ=リースに指さして貰った化粧室の場所へ行き始める。左方のテッラやその部下の修道士達も他の修道士達が待つところへ行こうとしている。会談は閉会した。
 なのに。
 ビットリオ=カゼラは全身に鳥肌が立つような感覚に襲われる。何か堪らなく嫌な予感が、ビットリオ=カゼラの全てで警鐘を鳴らしている。あの右方のフィアンマという男が上条当麻に渡した折り紙がどうにも危険に思えて仕方がない。
 迷う事なく、言葉が先に出る。
『カミジョウ!』
 大きな声だった。深夜ではないがすでに少女もカゼラも就寝している時間であり、病院にいる患者に迷惑をかけてしまったかもしれない。
 それだけではビットリオ=カゼラの不安を抑える事ができなかった。
 上条当麻とマタイ=リースは不思議そうな顔でビットリオ=カゼラを振り向く。
『どうした? まだ何か言いたい事あったのか?』
『いや、そうじゃない。何というか……その、また会えるよな?』
『はい?』
『あ、ええと、明日も会えると思ってはいるんだが……。』
 しどろもどろになるビットリオ=カゼラを、これもまた不思議そうに少女が上から見つめる。
 そんなビットリオ=カゼラを見て上条当麻は少しだけ近寄って、顔に向けて左手を突き出す。
『安心しろ、俺とお前はまた会える。』
 静かに微笑んで上条当麻はビットリオ=カゼラの目を見つめる。その目には優しい光がある。友人に対する、暖かで対等な者を見る目。
 ビットリオ=カゼラは少女を右腕に抱えるようにし、屈んで左手を出す。
『……ああ。明日、()()とまた会おう。』
『おう。』
 二人のヒーローの手と手が力強く繋がり、交差する。
 そして。
『じゃ、また明日。君もまた会おうぜ。』
『うん、トウマさんもまたね。』
『お前も今日は休めよ。』
『分かってるって。』
 そんな和やかな会話を楽しんで、二人のヒーローは別れた。



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