イカロスの翼



砂煙が瀑布の如く迫上がり。

狂濤(きょうとう)は明るみ始めた空をこえて仄かに優しい双子月に至らんと濛々と立ちこめ。

馬の嘶き、蹄の叫び。未だ馬具の擦れあう軽音や人熱(ひといきれ)を感ぜず、しかし戦の気配は遠く離れたこの丘をも満たし。
その風疾る(はしる)小丘に黒髪の少年は一振りの剣を突き刺し、膝をつく。
孤独の丘に飄々暁迫る夜風が通り過ぎる。

「何で俺、あんなのに突っ込まなくちゃならねえんだろ」

少年は静かに呟いた。呟きは風に乗って虚空に消えた。
既にして狂瀾(きょうらん)を既倒に廻らすを得ず。大波は地表をさらい、唯一人風の丘で俯く少年を押し流すだろう。
濁流は猛り狂い阻むものを渦巻き飲み込み押し潰し、破砕して進むだろう。

「分かってて聞くかね。味方が船で撤退しようとしてるからだろが。どうしても時間を稼がなきゃならねえからだろ?」

少年の呟きに応えるものがあった。少年の手にある大剣であった。
鍔をかちかち鳴らして、知能ある剣は軽口にも似た口調で少年に答えた。

欲しい答えはそんなものではなかった。
少年は、生きていたかったのだから。
望むべくは仲間じゃない、いやいや愛する人とか、そういう分からないものでもない。
いつだって、望むのは、自分のこと。だけどそれはきっと、大切なことと結びついて、自分のためだけじゃ、なくなっている。

「この前来た時はギーシュのもぐらに救われたけど、今度は逃げられねえよな」
「無理だねえ。とにかく足止めしねえとならねえからなあ」
「参っちまうよな」

風が丘をさらって行った。丈の短い草草はそよそよと揺れた。少年は地にささる剣を両手で握っていた。
背後には曙光がある。遥か向こうには軍馬の嘶き、干戈(かんか)のざわめきがある。どちらに向かうべきかなど分かりきっていたはずだった。
死地に背を向けろ。鉄具のざわめき、戦杖の煌きなど思慮の外に捨て置いて、太陽に向けて逃げ出せばよかった。
少年は死にたくなどなかったのだから。

「なあデルフ」

少年は、その銘をデルフリンガーという知能ある大剣に語りかけた。

「小さいころの話していいか?」
「いいぜ」
「駅でさ、お婆さんが不良に絡まれてた。しょうもない理由でさ、力があればいいと思ったよ。
俺に力があったら、お婆さん、助けられるだろ?でも、さ、同時にほっとしたんだ。
力があったら俺助けに行かなきゃいけないじゃん。強くたって、勝てるとは限らねえもんなあ」
「そうだねえ」
「そう。強くなっちまった。あの時は俺、弱いからって言い訳できた。でも力を手に入れちまった。
もう言い訳できない、今俺は強いからな。なんたって、ほら、伝説のガンダールヴだからな」

デルフリンガーには駅が分からない。でもこの相棒が何か大切なことを言い残そうとしていることは分かった。
相棒の心は既に決まっているのかもしれなかった。
デルフリンガーはこの相棒が好きだった。妙に真っ直ぐな気質が好きだった。
そしてそれゆえに彼は死地へと疾るのだろう。歯がゆいと同時に悲しく、誇らしく思えた。

「でも、強さって言ったって外面だけだ。中身は俺全然強くない、ちっとも変わってないよ。
ガンダールヴとか、伝説の使い魔とかいきなりだもんよ。覚悟なんて、できちゃいないよ。
皆の盾になるとかさ、ほんとはすっごく嫌なんだ、生きたいよ。死にたくないよ、ちくしょう。ほら、怖くて震えるんだ」
「相棒はてんで義理堅えや」

勇気はどこにあるのだろう。
死に至るのは、勇気なのだろうか。名誉だとか、利益だとか、そんなことのために駆けるのは勇気なのだろうか。
死を恐れ震える一人の少年、煌々と照らす月悄然(しょうぜん)、敵兵昂然と至る草原。
誰に理解されることなく儚く消え行く朝露のような命、死にたくない、と願う心、それでも前に進む心に勇気があるのだろうか。

遥か遠くに土煙が見える。鬨の声が聞こえる。攻め入らんとする熱気がある。さっきより、少しだけ近づいている。
……もうすぐここまで来る。
風疾る丘から眼下を見渡せば遠く沸き立つ土煙。縦長の軍勢は教えられた数ほど多くは見えない、七万。しかし七万。
メイジや亜人、砲兵や騎兵、歩兵に弓兵、おまけ使い魔、七万の軍勢。衆寡敵せず、格言通り、単騎にて軍勢はとめられぬ。

「もう少しだけ、話していいか?」
「いいぜ」

時間を、稼ぎたかった。死を少しでも、引き伸ばしたかった。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない……。でも、――は、死よりも辛い、と思う。

「俺さ、小学生のときに『勇気一つを友にして』っていう童謡歌ったんだ。この歌の主人公がイカロスってやつでさ、太陽目指して飛んでいくんだ。
鳥の羽を蝋(ろう)で固めて、精一杯羽ばたいて……。

それでさ、

赤く燃えたつ太陽に
蝋でかためた鳥の羽根
みるみるとけて舞い散った
翼奪われイカロスは
墜ちて生命を失った

てな、死んじまうんだ。子供心に理不尽だと思った。なんで頑張った奴が死ななきゃいけないんだと思った」
「………」
「頑張って頑張って、さ。太陽が見えたら、その熱を求めたら、駄目だったのかな。頑張っても太陽にその手は届かなかったのにな」
「………」
「なあデルフ、俺、死ぬのかな」
「たぶん」

愚かだ、と、笑い飛ばすこともできたろう。蝋で固めた翼で太陽を目指すなど土台不可能、よしできたとして死ぬことなどわかりきっている。
それで何が起きると言うのか?何を成し遂げると言うのか?ただの自己満足、それは死に値するのか?
嘲笑が場を占めるだろう、今、この草原の丘、風駆ける緑地、剣を握る少年に。

この少年は死ぬだろう。孤独の戦場で敵に囲まれて。

――何のために?

味方を逃がすためじゃない、いや、逃がしたいのは本当だ。だけど一番成し遂げたいことはそれじゃない。
死んでも成し遂げたいことは、死んでも守りたいものはそんなことじゃない。
死んでも守りたいのは、それは――。

「ちくしょう、死にたくねえ。ああ、くそ、死にたくねえ。
頑張れば報われてえよなあ。頑張ったら頑張った分、認めて欲しいよ。ああ、ルイズお前はいつもこんな風に思ってたのかな。
だったらまだ謝ってねえよなあ、俺」

後悔ばかりだ。これから死んでいくのに、心残りが多すぎる。準備なんて、ちょっともしてなかったから。

「死にたく、ない……嫌だ、死にたくない…」

少年はぼやく優しい月の丘。もうすぐ鮮血に染まる曙光の中。そこにあるのは勇気の欠片か。
呻く相棒は余りに哀れだった。子供のように泣きじゃくろうとしていた。知らず、言葉はデルフリンガーから流れ出た。

「なあ相棒、もういいじゃねえか。お前さんはよくやったよ。ここで逃げても誰も責めやしねえ。な、逃げちまおうぜ。
そしたらあの貴族の娘っ子の使い魔なんかやめちまってよ、ガンダールヴの力があれば傭兵でも十分喰っていけるって。
俺もまだ暴れたりねえよ、な、そうしようぜ
生きることが出来るのにわざわざ死ぬ奴は馬鹿だぜ。敵さんもラ・ローシェに間に合うかわかんねえしさ、間に合ったとしても、
あの貴族の嬢ちゃんやマセガキ共が死ぬって決まったわけじゃあねえ。おめえさんが死ぬようなことじゃあねえよ」

少年は答えない。何かに耐えるように口元を引き結んだ。デルフリンガーは義務があると思った。
この気のいい少年を生きながらえさせることが出来るのならば、何だってしてやろう。
神を笑ってやるし悪魔を笑ってやる。諦観と共に思う。ああ、でもこの少年は死に行く。
死にたくないんだろ?と剣は思う。剣は剣だ。もう6000年も生きて死が分からない。でもたくさんの人間の死を見てきた。
笑って死ぬやつもいた。けれどそんなのは殆どいない。苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで、そして戦場で死んでいった人間たち。
名誉とか、そんなのはわからない。どうでもいい。そんなの大切なことじゃないだろ?おまえが言ってたことだろ。剣は思う。

でもこの人間は、ああ、こいつ人間だ。人間なんだ。この人間は、名誉のために死ぬんじゃない。
よく分からないけれど、こいつはもっと大きなもののために駆けるのだ。

短い間だけれど、見てきたこの少年は馬鹿だった。助べえでお調子者で、でも真っ直ぐだった。
けれど、それゆえに進むだろう、草原の丘、敵軍の旗下、死中のただ中。
だとすれば堪らない。いい奴から早死にするのは堪らない。今このときを最後に相棒と話をする機会はなくなるのだろう。
死体は喋らない、相棒が自分と同じ鋼鉄の体であったならどれだけよかったことだろうか。

「なあ、デルフ」
「なんだい、相棒」
「俺はさ、ルイズの道具なんだ。お前は俺の道具じゃねえ、相棒だ。だけど、俺はルイズの道具なんだ。
あいつは俺を道具じゃないっていってくれた。けどさ、使い魔って家族だっていうけど、俺はルイズの家族にはなれない。
しょうがないじゃん、あいつは大貴族の娘だし、俺は、なんだ、平民だ。家族なんかじゃないよ、でも好きだっていっちまった。
好きだっていっちまった。二回しか笑ったことないような無愛想で可愛げのないご主人様をだぜ。
しょうがないじゃん、だったら道具でもいいじゃん。道具じゃなきゃ、ルイズを守れないだろ。何せ俺はあれだ、神の盾ガンダールヴらしいからな。
俺は道具なんだ、だから証明してやるんだ、あいつの初めて成功した魔法は、ほんとのほんとに成功だって。
努力して努力して、ずっと努力してきたルイズの魔法は最高の道具を召還したって、認めさせてやるんだ、世界中に。
ずっとずっと認められたがっているあいつを、ゼロのルイズは偉大なメイジだって俺がさ」
「……だから行くのかい?」
「好きだって、いっちまったからな。若いとか、馬鹿だとかいうなよな。ほんと、死にたくないよ。だけど、もっと怖いものがあるんだ。
ここで逃げてもきっとルイズは許してくれると思う。ギーシュや、学園の皆も。だけど、俺だけは絶対俺を許さないと思う。
いくら理由をつけて納得したつもりでも、これって裏切りだからな。自分を裏切って、どうやってこれから生きていくんだ。
ちくしょう、怖い、怖いよ。死にたくないよ。だけど、好きだっていった気持ちが嘘になるのは、もっと耐えられない」
「なら守ってやんな。今からでも間に合うだろ。お前さんは最速だ。全てを追い越せる。馬よりも竜よりも速いんだぜ。本国に向かう船に乗りなよ、な。
したらおめえ、謝ることもできるしお前さんの価値を認めさせることも出来るんだぜ」
「……それは、できない。フラれちまったしな、聞き分けのない道具は、少しでもカッコよくご主人様を守るだけだよ」
「……馬鹿だよ、相棒」

迫る暁、照らす双月(ふたつき)、寂しげに言葉を発する剣を担ぎ、天を仰ぐ少年は静かに泣き。
怒涛烈波の荒波を見据え、言葉を紡いでみせる。

「……もう一つだけ、いいかな」
「いいぜ、お前さんは俺の相棒だかんな」
「高校生になってさ、走れメロスって小説読んだんだ。しらねえよなあ。メロスって奴がさ、妹の結婚式のために市場に行くんだけど、王様の悪行を聞いてさ、
悪い王様を倒そうとして逆に捕まっちまってさ。
メロスが妹の結婚式のために3日後の夕暮れまで処刑の猶予を求めるんだ。代わりに親友を王様に差し出してさ。
メロスは盗賊に襲われたり、氾濫する河を越えたり、死ぬために走り続けるんだ。わからねえよなぁ。死ぬために走り続ける気持ちなんてさ。
でさ、血を吐きながら走るメロスに、置いてきた親友の弟子が併走していうんだ。止まれ、もう間に合わない、お前の命まで失くす事はない、止まってくれってな。
それにメロスはさ、こう答えたんだ……」

少年は言葉を切った。デルフリンガーは待った。風は飄々と吹いて草を揺らした。双月は優しく地をぬらした。遠く土煙は濛々とたなびいた。
少年はデルフリンガーの柄を握り締めた。その左手から青白い光が鮮烈に輝きだした。
分からないな、死ぬためにはしり続ける気持ちなんて。なぜならデルフリンガーに脚はないから。


だけど、お前さんなら分かるんだろう?


脚をもって走りぬくのは何時だって人間だ。
剣を握り締め、心を奮わせるただの人間だ。使い魔だとか、そんなのじゃない。


人間だから、なけなしの勇気を振り絞って駆けるんだろ?


「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬの問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだかもっと怖ろしく大きいもののために走っているのだ。
ついて来い……」

少年は剣を抜いた。

「ついてこい、『デルフリンガー』!」
「……しょうがねえなあ。でもいいよ、お前さんは俺の相棒だかんね!」


地を蹴る。擦り切れたスニーカーはそれでも草を超えて土を抉り、少年の体は重さを忘れた。
音を置き去りにして――――少年は暁の草原を駆け出した。



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