8月。

 テレビのニュースは連日列島の猛暑を告げているが、そんな事言われるまでもなく、外に出た瞬間に直射日光が肌を焼いてくる。その熱量たるや虫めがねでじっくり焦がされているかのようだ。ましてやそれが遮蔽物の無い、四方を自分の背より高い壁に囲われた場所なら尚更だ。

 ホントに、何で一人でプール掃除なんてやらなきゃいけないんだろう。

 

 

「しかも魔力使用禁止とかマジありえねー…。脚力強化ぐらいさせてよ…。」

 

 

 嘆いた所で助けの手が入る訳ではなく、太陽を恨んだ所で暑さが和らぐ訳でもなく、ひたすら25メートル×9レーンの端から端までモップをかけていく他無いのである。いたいけな中学2年の女子に何たる惨い仕打ちだろうか。

 

 

「あーダメ。一回休憩。水浴びしよ、水浴び。」

 

 

 モップを壁に立てかけ、飛び込み台の淵に手をかける。

 指先に力を込め、思いっきり跳躍。で一回転して、台の上に着地。体操選手ばりのポーズも忘れない。

 そして全身に恵みの水を浴びるべく、ホースの方を振り返ろうとした途端、プール掃除よりも遥かに面倒な物が目に映った。

 

 

「よぉ、夏休み真っ盛りに一人でプール掃除たぁ、随分とお利口さんじゃねぇか、えぇ?」

 

 

 いかにも頭悪そうな言葉を吐き散らしながら、いかにも頭悪そうな連中が、群れを為してプールサイドを歩いてきていた。

 

 

「…そっちこそ、こんなクソ暑い日にむさ苦しいヤツばっかり雁首揃えて。悪いけど合コンのお誘いなら乗らないわよ。女には男を選ぶ権利ってあるの。一生惨めったらしく這いつくばってなさいよ底辺。」

 

「ほざいてんじゃねえぞコラ…!誰がテメエと付き合いてえなんて思うか、このメスゴリ―――――」

 

 

 先手必勝。一気に懐まで潜り込み、先頭で喚く馬鹿を蹴り飛ばす。名もなき不良(バカ)Aはプールサイドをバウンドしながら、水無しプールに飛び込んでいった。

 

 

「ヒドイわねぇ、ゴリラだなんて。こんな可憐で可愛い少女に対して。悔しくって、ついつい足が出ちゃうってモンよ。」

 

 

 集った不良たちはそれ以上私の軽口には反応しなかったが、代わりに一斉に殺気立ち、襲いかかって来た。

 

 

 

 

「死ねや長谷川ぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」

 

 

 

 

 振り下ろされた釘バットを避け、お返しに思いっきり顎を蹴り上げてやりながら、私も叫び返す。

 

 

「テメエら如きにアタシが殺せるかぁ!!魔人の一人でも引っ張りだしてから出直してきやがれぇぇぇぇぇ!!」

 

 

 

 

 

 

Thousandrain The Horn-Freak 外伝 

 

私へ

 

 

 

 

 

「―――という訳で、突如乱入してきたバカの始末に追われて、プール掃除終われませんでした。スミマセン。」

 

「そういう事を言ってるんじゃない!謝るならプールを使い物にならなくした事を謝れ!」

 

 

 30分後。職員室で学年主任の新田先生に怒られる事になった。

 計12人の不良を叩きのめした直後、バックレる暇もなく新田先生が駆け付けてきた。どうやら不良(バカ)共の悲鳴が職員室まで届いたらしい。結果的に燦々と照る太陽の下から、一応冷房の効いている職員室に即刻呼び出しを喰らったのは、運が良いのか悪いのか。

 …にしても、いくら今日は一人で出勤してきているとはいえ、弱冷房を徹底している辺り、新田先生の生真面目さが伺える。環境問題の半分以上が魔法によって解消し始めている世界なのだから、もう少し地球に厳しく接しても良いのではなかろうか。

 

 

「そもそもだな、長谷川!お前、何で自分がプール掃除する事になったのか思い出してみろ!万引き犯蹴っ飛ばしてプールに叩きこんで、血の海にしたからだろうが!何度プールを血で染めたら気が済むんだお前は!?」

 

「向こうが抵抗してきたのが悪いんです!いきなり火の魔法とか使ってこられたら、水の中突っ込むしかないでしょ!?」

 

「程度を考えろと言っとるんだ!!内臓と鼻が潰れるぐらいの威力で蹴らんでも、プールに叩きこまんでもよかっただろうが!!」

 

 

 職員室に私と新田先生の言い争う声が響き渡る。

 とはいえ私も新田先生も、互いに嫌い合っている訳ではない。新田先生はあまり素行の良くない私に対して真摯に向き合ってくれる人間だし、私もそういう新田先生を尊敬している。それに、お母さんたちが世話になった人でもあるのだ。無碍に出来るはずもない。

 

 

「…とりあえず、この件に関してはお前の母親たちに連絡させてもらうからな。あの状態じゃプールは今夏一杯使えん。そこまで行くとさすがに擁護し切れん。」

 

「うぐっ…。」

 

 

 痛い所を突かれた。今日の不良共の件はともかく、万引き犯をプールに叩きこんだ事は秘密にしてあったのだ。やり過ぎだと怒られるのは目に見えてたし。

 

 

「…済まなかった。お前の親を説教の引き合いに出すのは、お前にとってあまり気分の良い事ではなかったな。軽率だった。」

 

「え?あ、いや、まぁ、私が悪いんですし、アハハハ…。」

 

 

 怒られる事を覚悟した私の神妙な表情を勘違いしたらしく、新田先生が申し訳なさそうな態度を取った。真実を言いだせず、視線を彷徨わせる私の目に飛び込んできたのは、15時10分前を知らせる時計の針だった。

 

 

「あ、スミマセン新田先生!ちょっと母さんの手伝いで保育園に顔出す約束になってますので!失礼します!」

 

「あ、コラちょっと待て長谷川!話はまだ済んでないぞ!!」

 

 

 新田先生が慌てて手を伸ばすが、すでに私は窓枠に足をかけ、飛びだした所だった。その瞬間、暴力的な夏の陽射しが私を焼く。冷房は恋しいが、今は娘として、この暑い最中にも頑張って子供たちの世話をしている母の元に急ぐべきだろう。

 

 

「よーっし、ちょうど身体もギア入ったまんまだし―――全速力ッ!」

 

 

 フライパンのようなアスファルトを踏みしめ、両脚に全身の血液を流し込むかのように魔力を注ぎ込む。一歩目を踏み切った瞬間、翼が生えたかのように体が軽くなり、視界に映る風景が激流に乗っているかのように流れ去っていく。

 

 私は走るのが好きだ。地面を踏みしめる感触も、全身に風を浴びる感触も、思いっきり跳び上がる感触も、全てが心地良い。

 ただ、最大の理由は、私が走る姿が好きだと、お母さんが言ってくれたからだろう。

 

 昔からお前は走るのが速かったと、お母さんは私に言ってくれた。

 その時のお母さんの顔は―――――

 

 

「―――っと、もう保育園が見えてきちゃった。しまったな、速度緩め遅れちゃった…。」

 

 

 らしくない思考に没頭してしまったせいか、最高速度のまま保育園の柵を跳び越える事になってしまった。進路上に園児が居ない事を確認し、両脚でブレーキをかけ、砂場で停止した。

 視線を上げると、柵から砂場に至るまでのグラウンドには、車のホイールのようなブレーキ痕が深々と付いていた。思わずそのまま天を仰ぐ。

 

 

「やっちゃった…。」

 

「ええホントにね。柵を跳び越えるのは良いけど、子供たちが危ないから全力疾走して跳び込むなって、何度も言わなかったかしら?」

 

 

 真後ろから聞こえてきた仁王の如き声に、猛暑とは関係の無い汗が噴き出る。

 

 

「…え、エートデスネ、ナナミセンセイ?その、ちょっと考え事してまして…?」

 

「さっき新田先生からお電話があったわ。…用件は、言わなくても分かるわね?」

 

「…イエス、マム…。」

 

 

 真後ろからのプレッシャーに圧されていたせいで気付けないでいたが、そこかしこから子供の泣く声が聞こえる。間違いなく、暴走トラックと見紛うほどの勢いで突如乱入してきた私に怯えたが故の物だろう。

 そして、泣き声が大きくなればなるほど、背後からの圧力も増していく。もう振り向けない。振り向いたら多分私も泣く。

 

 

 

「さて―――お説教の時間よ、馬鹿娘。」

 

 

 

 きっと極上の笑みを浮かべているんだろうなぁ、と脳の片隅で考えつつ、私は何も言わず、熱砂の砂場の上に正座した。

 無抵抗こそ心の華。足が早かろうと喧嘩に強かろうと、一生勝てない相手は存在するのだ。

 

 

 

 

 

 

「…あ゛ー、疲れた…。お母さ―――那波先生、もう終わっていい?」

 

「ふふっ、お母さんで良いわよ。終わるならそのお布団畳んで運んだ後ね。」

 

 

 お母さんと一緒に、子供のお昼寝用の布団を畳んでいく。さすがにお母さんは手慣れており、あっという間に布団の山が積み上がっていく。私はほんの数枚畳んだだけで、メインの仕事は運搬だ。

 ちなみに今日の手伝いはお小遣いがもらえるはずだったのだが、先ほどの暴走トラック的乱入のため、無償奉仕が決定した。来週発売のCDは諦めざるを得ないようだ。

 

 

「―――ハイ、それじゃあこれだけ、2階の右側の教室に持って行ってね。運び終わったら帰っていいわよ。私はまだもう少し、事務仕事があるから。」

 

「え、他に手伝う事ないの?」

 

「大丈夫よ、ありがとう。…ふふっ、疲れてても、ちゃんと私を手伝ってくれるのよね。お母さん嬉しいわ。」

 

「…子供扱いしないでよ。私もう14なんだから。」

 

 

 自然と口走ってしまったため、今更取り繕えず、間違いなく赤く染まっているであろう自分の顔を見られないよう、そっぽを向くしか出来ない。しかしそんなことお構いなしにお母さんの手が伸び、私の頭を撫でてきた。

 

 

「うふふ、良い子良い子。」

 

「ちょっ…!止めてよお母さん恥ずかしい!も、もういいから!布団運んでそのまま帰るからねっ!」

 

 

 慌ててお母さんの手を振り払って、布団を担いで教室から駆け出していく。ちょっと勿体なかったかな、なんて考えてしまい、ますます頬が赤く染まっていくのを感じた。

 

 仕事を済ませ、園長にお礼とお詫びを告げ、保育園から駆け足で去っていく。すでに外は夕暮れ時で、西の空に沈み始めた太陽が、空を橙色に照らしていた。気温も昼間に比べれば大分マシになった。

 

 

「もうすぐ夏休みも折り返し地点かぁ。いい加減そろそろ自由研究始めないとなー。けど明日は明日で楓さんが特訓入れてくれるし、明後日は―――ん?」

 

 

 保育園から数百メートル離れた路地に差し掛かった所で、私の背後に男が二人居るのを感じた。それだけなら気にする必要も無いが、明らかに私を尾け狙っている。

 しかしプール掃除の時に現れたあの不良(バカ)共の関連では無さそうだ。私を尾ける動きが、明らかに磨かれている。しかしそうでないとなると、私が狙われる理由が見当たらなくなるのだが。

 

 

「――――まぁいいや。ぶっ飛ばしてから考えるっ!」

 

 

 前に一歩進むフリをしてバックステップ。私の察知と接近に気付いた男たちが杖を取出し、迎撃に移ろうとする。

 だがもう遅い。すでに私は二人を跳び越え、背後を取っている。

 右側の男の杖を持つ手を掴みあげ、がら空きになった鳩尾に遠慮なしの鉄拳を叩き込む。そしてその叩き込んだ腕を即座に後ろに伸ばし、もう一人の男の腕を掴んだ。そのまま思いっきり引っ張り、自分の腕の真下に引きずり込む。

 

 

「オラァッ!!」

 

「ぐふっ!?」

 

 

 首と背中の付け目に肘鉄が決まり、男たちが折り重なるように無様に倒れた。結局右腕一本だけで済んでしまった。消化不良、と口にしたら、お母さんに怒られるだろうけど。

 

 

「さて、何のつもりで私を尾けたのか、キリキリ吐いてもらッ―――――!?」

 

 

 男の着ている服がめくれ、背中の一部が露わになっている。そしてそこから、黒い焼印のような痕が覗いていた。

 次の瞬間私は男の服をめくり、その焼印の全貌を目に焼き付けていた。

 何か心当たりがあった訳じゃないし、それを見て何か悟った訳でもない。だが、それが何らかの術式印である事は理解出来た。

 

 そして、身体の内側からこみ上げる吐き気に、思わず膝を付いた。

 

 

「うぷっ…!うううぅ…!何、コレ…。何だってのよ…!」

 

 

 これまで経験した事のないほどの吐き気と、膝を付いた途端襲ってきた頭痛に、呂律も思考も回らず、動くこともままならない。もし今倒した男たちが気絶させていなければ、容易く頭を吹き飛ばされていただろう。

 

 

 

 ―――今、自分をめがけて飛んでくる火球がそうであるように。

 

 

 

「しまっ――――――!!」

 

 

 いつもなら難なく避けられる魔法の射手だが、半分思考停止していたため、新たな敵の接近にすら気付けなかった。

 鉛のように重い身体を無理やり動かし、ギリギリで頭部への直撃だけは避けれたものの、火球は私の脇腹に着弾する。

 私の苦悶の声が炸裂音と重なり、受け身を取れないまま地面を転がった。

 

 そんな無様な私の真横に着地し、見下ろす影があった。今撃ったヤツである事は間違いなく、反撃のため起き上がろうとしたが、その人物が誰であるのかを視界に捉えた瞬間、またしても驚愕で身体を硬直させることになってしまった。

 

 

「佐倉さん!?何で―――ッ!?」

 

 

 佐倉芽衣―――麻帆良魔法研究都市警備部第2班長、シャークティ理事長の部下だ。シャークティさんや春日さんとは懇意にしており、彼女や警備部長である高音さんとはそれなりに仲良くさせてもらっている。

 という事は、今倒したこの男たちも、麻帆良の人間である可能性が高い。てっきり外部の人間による侵攻かと思ったが、違うようだ。

 

 

(視線に生気が宿ってない…!操られてるのか、おそらくあの術印…で…!?)

 

 

 佐倉さんが私を攻撃してくる理由について考えた途端、割れてしまいそうな程の頭痛が再発した。

 間違いない。私はあの術印を知っている。

 そして、私自身にあの模様に覚えが無いという事は、もう一人の自分(・・・・・・・)についての記憶であるという事だ。

 

 

「ふざけやがって…!!」

 

 

 続けざまに飛んできた火属性の魔法の射手を、地面を転がりながら避ける。

 とにかく不快だ。他人を駒のように扱っている事も、その他人が私の知り合いである事も、思い当たる節がある事も、何もかもが私の神経を逆撫でする。とにかく黒幕を見つけて、私の手で引導を渡してやらない事には気が済まない。

 佐倉さんには悪いが、ちょっと寝ててもらうしかない―――そう考えた時だった。

 

 

「チェストぉーーーっ!!」

 

 

 上空から拳大の石が高速で飛来し、佐倉さんの頭に見事命中した。佐倉さんはそのまま白目を剥いて昏倒する。この攻撃方法と、微妙に使い方を間違った掛け声には覚えがあった。

 

 

「相坂先生、救援ありがとうございます!」

 

 

 予想通り上空には、私の通う学校の国語教師にして母の親友の一人である相坂先生が、得意満面の笑顔で浮かんでいた。

 

 

「へへへ、間一髪だったね!にしてもらしくないなぁ。油断大敵、お母さんから学んだ事を疎かにしちゃダメよ!」

 

 

 先生がビシッと人差し指を突き付ける。まぁ、自分の思考に没頭してしまっていたのは事実なので、油断と言われてもしょうがない。

 というか、今のポルターガイスト石投げには正直戦慄した。いつもああいう勢いでチョーク投げ付けてくるんだなぁ、あの幽霊先生(ヒト)。今度から極力授業中に寝ないようにしよう。

 

 

「にしても、何で佐倉さんが?そんな恨み買ってたの?」

 

「違うよ。佐倉さんは操られてる。誰かが操ってる。その背中の呪印で。」

 

 

 立ち上がった途端、背中がズキリと痛んだ。何処か怪我してしまったらしく、血が滴る感触も感じる。

 だが、そんな事を気にしている場合ではない。唾を吐き捨て、校舎の屋上へ駆け上がった。

 

 

「ちょ、ちょっと何処に行くの!?」

 

「決まってんでしょ、こんなフザけた真似したヤツをぶん殴る!先生はお母さ―――宮崎理事たちに緊急事態だって知らせて!」

 

 

 先生の返事は聞かず、校舎の屋上から屋上へ飛び移り、駆けていく。身体が風を切る感触も、今は内側から私を蝕む不快感のせいで、全く気持ち良いと感じられない。

 

 

「どこに隠れてんのか知らないけど、この私から逃げ切れると思ってんじゃねえぞ…!」

 

 

 母親譲りの荒い口調が、ますます私の血を沸き立たせる。地面を蹴る足にますます力を込め、とにかくそれらしき人物を探す。

 

 そして5分程走りまわった所で、視界の端に気になる人影を見つけた。私を見た瞬間、一目散に逃げ出したのだ。しかも見た感じ年配の、見覚えの無い男だ。とりあえず追って損はあるまい。

 私がそちらに足を向けた途端、男の逃げ足が急加速した。麻帆良で主流の魔力による身体能力強化ではなく、気による強化だ。ますます怪しい。

 

 

「でも、私の方が断然早い―――!」

 

 

 狼が子山羊に追いつけない道理は無い。あっという間に距離を詰め、手を伸ばす。

 

 

 だが―――その肩を掴み、引き寄せた瞬間。

 

 男の背中が弾け、白い肋骨とのたうつ腸、そして金属製のワイヤーと棘が、私目掛けて迫って来た。

 

 

「なっ―――ぐぅっ!!?」

 

 

 血と内臓が私の視界を潰し、ワイヤーが私の手足に絡まり、伸びた肋骨が私の逃げ道を塞ぐ。そして真正面、男の背中からは、太い金属の棘が生えている。

 そして私の耳が捉えたのは、男の身体の内側から聞こえる滑車と歯車の音。同時に、手足に絡まるワイヤーが私を引っ張り始めた。当然その先にあるのは、金属製の棘だ。

 

 

「人体を使った、ネズミ捕り式アイアンメイデンって訳かよ…!」

 

 

 手足に力を込め、私を引っ張るワイヤーの動きに逆らう。

 だが今度は、私を包囲する肋骨が狭まって来ていた。よく見ると肋骨は鋭くささくれ立っている。かなり徹底した罠だ。

 

 

「畜生…!誰が…、喰われてやるかよっ!」

 

 

 なおも私を引っ張りこもうとするワイヤーを、力ずくで滑車ごと引き千切った。

 その引き寄せる腕が肋骨の棘を掠め、痺れるような痛みが走るが、それに怯んでいる暇は無い。

 すぐさま脚のワイヤーを、力ずくで男の肉体から引き剥がす。そして、残る肋骨を蹴り砕き、男の骸から離れた。人間としても罠としても完全に壊れた男の身体が、ジェンガのように原型を失い崩れ落ちた。

 

 

「…ゴメン、知らない人。後でちゃんと身元調べて埋葬するから。」

 

 

 おそらく黒幕に改造され、利用されたのだろう。怒りよりも申し訳なさとやり切れなさで胸が一杯になる。私は目を閉じ、胸の前で手を合わせた。

 

 ―――だが、故人の冥福を祈る暇さえ与えられなかった。

 背後から急接近してきた殺気に、思わず飛び退く。

 

 反射的に飛び退いた直後、私が居た地点と男性の骸を、紅蓮の炎の波が無慈悲に薙ぎ払っていった。

 

 

「―――フン。相変わらず鼠のようにすばしっこい。」

 

 

 四つん這いの格好で着地した私に、唐突な侮蔑が投げかけられる。

 視線に殺意を込めてそちらを向くと、そこに居たのは見知らぬ老人だった。手には符を持っており、今の炎を放ったのが自分であると明らかに主張していた。

 そして同時に、その老人を見た瞬間、言い様の無い怒りが、不快感が、今すぐアイツの皺だらけの喉を噛み千切ってやりたい、という衝動が、全身を奔り抜けた。

 

 

「…変な模様刻んで麻帆良(ウチ)の警備員操ったり、そこに居た男の人を使ったのはテメエか、ジジイ?」

 

 

 すでに灰すらなく、黒焦げた痕だけが残った地面を指差す。

 本当は聞く必要なんてない。私の勘が、コイツが黒幕だと叫んでいる。もし否定したとしても、今遺体を焼き滅ぼした罪状でタコ殴りにしてやるだけだ。

 

 だが―――老人は、突然けらけらと笑い始めた。

 聞いてて酷く不愉快な、明らかに嘲笑と分かる笑い声だった。

 

 

 

「クハハハハハハハハハハ!!笑わせてくれる!!よもや貴様が、まともに人の言葉を話すとはなぁ!!儂の知っておる貴様は、ただの飢えた獣(・・・・・・・)であったというのに!!これはこれで興味深い、作り直され(・・・・・)再教育された(・・・・・・)結果がこれか!!」

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、一気に私の感情が、溜め込んでいた不快感が、弾けるように沸騰する。

 

 

「テメエまさかっ…!」

 

 

 一目見た瞬間から、荒れ狂う竜巻のように胸の内に渦巻いていた、正体不明の強い敵意と殺意が、明確な(かたち)を為して目の前の男に向ける。

 男はそんな私を、ますます嘲けるように、そしてどこか懐かしむように、侮蔑的な口調でこう告げた。

 

 

 

 

「―――――その通り。久しいな“月詠”。このような所で人間の真似事とは嗤わせる。かつて貴様に食い扶持をくれてやった主人に対して、非礼が過ぎるのではないか?」

 

 

 

 

「ぶっ――――――――――殺す!!」

 

 

 言い切るよりも速くスタートを切った。これまでの人生でもトップ5に入るであろう、最高かつ最速のスタートダッシュだ。それこそ正しく、獲物を見つけた獰猛な肉食獣か人喰い鬼のように。

 しかし、男が袖口から取り出した符を展開する方が早い。

 

 

「式符『怨印・落武者狩』!」

 

 

 十数枚の紙切れが持ち主の手を離れると同時に、人の姿を為した。

 しかしそれは明らかに人ではない。鎧兜を纏った白骨死体、あるいは腐乱死体だ。刀や槍を手に、屍とは思えない機敏さで一斉に襲いかかって来た。

 

 

「しゃらくせえっ!!」

 

 

 しかし、確かに少し驚きはするものの、冷静に見てみれば何も怖い所は無い。多少機敏とはいっても、私に比べれば止まっているも同然だ。

 先頭の一体を掌低で吹っ飛ばす。その後方には2体の槍持ちが居たが、あえなく巻き添えを喰らっていた。

 両脇から振るわれる刀を躱し、素早く倒れた連中に接近。なるべく皮膚に触れないように掴み上げて、右横からの斬撃の盾にする。

 同時に、槍を奪う。長物は性に合わないのだが、我が儘は言っていられない。

 

 

「どっせぇぇぇい!!」

 

 

 女の子にあるまじき叫び声を挙げながら、刀か金属バットと同じ要領で槍を振るった。槍の柄に吹っ飛ばされた5体が、その勢いのまま横の校舎の壁に叩きつけられ、潰れる。

 そして、背後からの一刀を槍で防ぎながら一歩下がり、思いっきり槍を投げる。弾丸と化した槍が、刀を振るった一体を貫き、そのまま真後ろの一体にも突き刺さる。槍はそのまま煙になって消えた。

 

 

(後5体―――!)

 

 

 所詮はゾンビ、知能は低いようで、武器を振るっての突撃しかしてこない。接近戦は私の十八番。迎え撃つのみだ。

 

 先頭の一体の首に回し蹴りをぶち込む。1体目。

 頭上からの飛びかかりを避け、背中を見せた所で踵落としを決める。2体目。

 そのまま足を地面に付けて踏ん張って、左横の一体の鳩尾に拳をめり込ませる。3体目。

 そして腕を引く流れで、後ろから飛びかかって来た一体を裏拳で張り倒す。4体目。

 

 そして最後。

 唸り声のような気味悪い声を挙げながら向かってくる一体の顔面を真正面から掴んで動きを封じ、膝蹴りを入れてトドメを刺した。

 

 

「ハッ、この程度の木偶の坊で、私を止められるとでも―――――!?」

 

 

 残る主犯の方に振り向いた瞬間、全身に異常な重力が圧し掛かる。まるで地面に引っ張られるかのように、私はあえなくアスファルトの上に転がった。

 

 

「人が一番油断するのは、勝利を確信した瞬間―――実力の高さは認めるが、まだまだ三流よな、野獣。」

 

 

 男の見下す視線と言動が癪に障るが、悔しい事にヤツの言う通りでもあるので、何も言い返せない。

 にしても、まるで銅像そのものになってしまったかのように重い。全力で抵抗し、立ち上がろうとするが、身体はピクリとも持ち上がらない。

 

 

「無駄だ。“拘束術式・斉天封戯”―――力ずくでその術を解こうとするなら、山一つ持ち上げる腕力が無くては話にならん。尤も、まさか貴様相手にこれを使う事になるとは思いも寄らなんだが。本来これは、対サウザンドレイン用に拵えた秘術の一つだったというのに。余計な手間をかけさせる所は、生まれ変わっても直らんか。」

 

 

 どうやらこのジジイは、人の神経を逆撫でする台詞しか吐けないらしい。

 術式なんてどうでもいい。私を馬鹿にする事も構わない。過去の“月詠(わたし)”を蔑むのも、コイツが麻帆良魔法革命以前の関西の人間だというなら、まぁ納得は出来る。

 だが今コイツは何と言った?サウザンドレインを、私の母親(・・・・)をどうするって?

 

 

「…サウザンドレインだぁ?何企んでやがんだ陰険ジジイ。テメエ如きがあの人を相手取って、何が出来るってんだ?」

 

「…ほう?貴様のその口ぶり…。ふむ、数年前の例の培養工場を潰したのは、『完全なる世界』の連中だと聞いていたが…。サウザンドレインも噛んでいたか。察するに、貴様の育ての親か?」

 

 

 あっさりと見抜かれた。口先だけじゃなく頭も少しは回るらしい。そして、感情を隠すのが下手な私の表情は、目の前のジジイに成否を教えているも同然だった。

 

 

「なるほど、最凶の殺人鬼の教育を受けた、最狂の食人鬼か。考え得る限り最悪の組み合わせだな。儂の『落武者狩』を容易く退けたのも頷ける。―――ふむ。」

 

 

 ふとジジイが思案にふけるような表情になり、沈黙した。

 その間に何とか脱出しようと試みるも、やはり単純な筋力でどうにかなる代物では無さそうだ。となれば、術式そのものを解析し、内部に私の魔力を浸透させて少しずつ崩していくしか無さそうだが、それまでにトドメを刺されかねない。

 何とか迅速に、と焦る気持ちを抑えつつ、術式の全貌を解析しようとしたが、ジジイが再度口を開く方が速かった。

 

 

「どうだ月詠、もう一度儂等の元に戻って来る気はないか?」

 

 

 あまりの荒唐無稽さに、逆に言い返す言葉を失ってしまった。その感情も面に出ていただろうが、ジジイは構わず続ける。

 

 

「貴様は強い。天性の力量と最凶の殺人鬼による指導、後は経験さえ積めば、間違いなく全世界でも最上位級の戦闘者となれるだろう。故に、惜しい。貴様をこのまま麻帆良に置いておくのはな。この地で貴様が碌な戦闘経験を積む事が出来るとは到底思えん。」

 

 

 私は静かに、術式を解析するのも止めて、じっとジジイの話に耳を傾けた。顔は地面に向けて俯いたまま、見えないようにする。

 

 

「貴様の生まれには聞き及びがある。昔の貴様についても、今の貴様についてもな。それをお前自身が詳しく知っているかどうかは分からんが…。一つ確実なのは、貴様の殺人衝動は天然純正な代物であるということ。いずれ遠からず貴様の心を蚕食し、あらゆる人間を喰い殺さずにはいられぬ怪物に成り果てるだろう。」

 

 

 背中に圧し掛かる重量が増していく。おそらくこれは保険だ。私がこの提案を断ったら、容赦なく潰すために。

 

 

「だが、儂ならば―――お主を制御していた術式をよく知る儂ならば、お前を蝕むであろう殺人衝動を抑える術を、必ず見つけられる。少なくとも、この地に留まり続けるよりは確実に素早く。」

 

 

 背中から伝わる重量に、骨と内臓が悲鳴を挙げ始める。額から脂汗が滴り始め、息も苦しくなってきた。

 

 

「それに、小耳に挟んだ事がある。以前の貴様を殺したのは、今の貴様の育ての親―――サウザンドレインだと。もしや貴様の育ての親は、貴様を自分の駒として育てているのではないかな?いつでも忠実に命令を聞く、死すら厭わず始末もし易い、手頃な捨て駒として、だ。関西での貴様の働きぶりを目に留めての事と考えれば、ある意味当然の帰結とも言えような。」

 

 

 

 

 ―――――それが、私の我慢の限界だった。

 

 

 

 

「―――いい加減黙れ。テメエ如きが、サウザンドレインを―――長谷川千雨を、語るな。」

 

 

 顔は俯いたままなので、奴の顔は見えない。だが沈黙と雰囲気だけで、奴が虚を突かれた事だけは認識出来る。

 

 

「…ハセガワチサメ、か。それがサウザンドレインの本当の名か?」

 

「ああそうだ。そして、私の母親の名でもある。」

 

 

 きっとお母さんは、今の私の醜態を見てさぞかし呆れる事だろう。拳骨をもらう事は確実だ。そう思うと、不思議と負けん気に似たやる気が湧いてくる。

 

 

「そして、長谷川千雨だけじゃねえ。宮崎のどか、那波千鶴、ザジ・レイニーデイ。皆私の最愛の母親だ。皆が私を育ててくれた。テメエの言う通り、人を喰い殺すだけの獣だった、私を、ここまで育て上げてくれた。」

 

 

 今度はジジイが驚く気配が伝わって来た。どうやらヤツは、お母さんたちが私に事情を話していない物と思い込んでいたらしい。馬鹿め、そんな話は小学校卒業と同時に終わっている。

 

 

「確かに私の中には、人を殺したいっていう欲望がある。それは今の私が作られた(・・・・)時にインプットされた物だ。私が生きている限り、どうこう出来る代物じゃあない。一生この衝動と付き合っていかなきゃいけない。そんなモン持ってるヤツが、到底人間なんて呼べるはずも無いよな。」

 

 

 語りながら、全身に力を込める。当然、背中の上の重みは微塵も揺らがない。

 だが、身体の内側から、これまで感じた事が無い程の力の昂りが湧き上がって来ていた。

 

 

「けど、母さんたちは、そんな私を育ててくれた。人としてとか、人間としてとかじゃない、実の娘としてだ。人間としても“月詠”としても紛い物のこの私を、ここまで育て上げてくれた。

 ―――――そして私に名前をくれた。『長谷川月詠』っていう名前を。」

 

 

 千鶴お母さんは私の育児に専念してくれた。

 レインお母さんはいつも美味しいご飯を作ってくれた。

 のどかお母さんは戸籍を用意し、自分の権力で私を守り続けてくれた。

 千雨お母さんは時に厳しく時に優しく、いつも私の傍に居てくれた。

 

 そこには確かに、厳しいけれど温かい、本物の愛情があった。

 

 

 

「この名前は、あの人たちのくれた愛情の結晶だ…!だったら、この名前に恥じない生き方を貫く以外に、あの人たちに報いる術なんて、有る訳ねえだろうが!!」

 

 

 

 少なくともそれは、目の前のジジイに屈服する事ではない。

 何も知らないくせに、母さんたちの愛情を貶した奴に謙るなんて、死んでも許される事じゃない。

 

 私はもう、飢え渇き彷徨い殺す鬼なんかじゃない。

 愛を知り、温もりを感じ、安らぎを得た、れっきとした人間だ。

 

 

「なっ…!?」

 

 

 俯いていた顔を上げながら、湧き上がる力を背筋に注ぎ込んだ。

 ジジイが息を呑む。私の気迫、そして私の振り絞る力が、絶対の自信を持っていた術式に拮抗し始めた事実に、怯み、たじろいでいる。

 その動揺を見逃すことなく、さらに言葉を叩き込んだ。

 

 

「―――それにさ。テメエが何企んでここに侵入したのかは知らねえけど、いざサウザンドレインが出張ってきたら、一目散に逃げ出すつもりだっただろ?この術式が良い証拠だ。物理的魔力的重量で動きを封じている間に、さっさとずらかろうって寸法だ。さっきみてえな小手先の召喚魔法じゃ、どうにもならねえ相手だって事は知ってるはずだしな。

 ―――そんな臆病者に使われるのなんざ、真っ平御免だね。案外お前が関西の大虐殺逃れたのも、直前になって怖くなって逃げ出しただけじゃねえの?」

 

 

 母さんたちから聞いていた話が確かなら、関西呪術協会転覆騒動の時に、主犯格であった過激派の幹部は、昔の私と千雨お母さんの手で一掃されたはずだ。コイツがその生き残りだというなら、私の推論はあながち的外れではないはずだった。

 しかしどうやら的外れどころか、ど真ん中を射抜いてしまったらしい。

 ジジイの顔が一瞬青く染まり、それから見る見るうちに赤黒く変色していった。

 

 ヤバい、と思った瞬間、ジジイが年甲斐もなく激昂した。

 

 

「黙れこの―――――小娘がぁっ!!」

 

 

 頭上に幾百もの火炎弾が煌めく。周囲一帯ごと、骨も残さず焼き尽くすつもりなのだろう。普段なら楽々避けられる弾幕だが、動けないのではどうしようも無い。

 けれど―――あのジジイは、大切な事を見逃している。

 

 

「死ねぇぇぇぇっっっ!!」

 

 

 当初の尊大な態度は何処へやら。所詮は小物という事だ。

 火炎弾は重力に引かれた隕石のように、私目掛けて一斉に降り注ぎ―――――

 

 瞬く間に、疾風のような蹴りと突風のような衝撃波で次々と掻き消されていった。

 

 

「何が『名前に恥じない生き方』よ。そういうのはこの程度の術式軽く抜け出してから言いなさい。」

 

「レインの言う通りだな。ちょっと油断し過ぎだ。けど、まぁ、さっきの言葉は嬉しかった。一生記憶に留めておく。」

 

 

 同時に、私に圧し掛かっていた重量が突然跡形も無く消え去った。全身に込めていた力を抜いて一旦地面に倒れ、そのまま仰向けに転がると、予想通りの声の主がそこに居た。

 

 

 長谷川千雨。

 強くて怖いけど、実は誰よりも優しくて頼りがいのある、私のお母さん。

 

 ザジ・レイニーデイ。

 我が家の家事を一手に担う、無表情だが義理堅く情に篤い、私のお母さん。

 

 

「反省してまーす。…ってか、結局何なのこのジジイ?何か聞いてる?」

 

「ああ、天ヶ崎からのどか経由で情報が入ってきた。洗脳術式の実地試験だとさ。お前も見たんだろ?あの刺青。この爺さん、魔法界の方で改造術式の違法取引に勤しんでる武器商人らしくてな。けど最近売り上げあんまり良くないらしくて、性能試験のついでに名のある人間一人くらい殺って、商品に箔を付けようとしたらしいぜ?天ヶ崎のヤツ、せせら笑ってたとさ。」

 

「うわ、ダサ。あ、それとこのジジイ、昔の私の飼い主の一人だったらしいよ?」

 

「ああ、さっき言ってたな。その分も含めてオシオキしてやらねえと。」

 

 

 あ、完全にスイッチ入ってる。きっと今頃のどかお母さんの指示で、周辺数百メートル圏内の一般人が迅速に退避させられている事だろう。

 と、諸悪の根源たるジジイが、小さな悲鳴を上げて腰が砕けたように尻もちを付いた。心底無様で良い気味だと思う。

 

 

「ひっ…!音界の覇者(サウザンドレイン)魔人の忠臣(レイニーデビル)だと…!?馬鹿な、何故ここに居る!?足止めは―――」

 

「足止め?店にトラック突っ込ませようとしたアレか?やっぱ自分の聴力(ぶき)はとことん秘密にしておくのが吉だな。向こうから勝手に喋ってくれるんだもん。」

 

 

 ジジイが訳が分からないといった表情で、陸に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を動かしている。どうやら声も出ないらしい。

 というか、改めて思うが、相当小物だったんだなぁこのジジイ。弱きを見下し、強きに遜る、やる事なす事全部自分の保身のクソ野郎だ。さぞかつての関西でも疎ましく思われてた事だろうが、何よりイラつくのは、そんな超絶小物に私は見下された、という事実である。

 

 

「あ、忘れる所だった。レイン。」

 

「ん、そうだね。月詠、ハイこれ。持ってきたわよ。」

 

 

 レインお母さんがパチンと指を弾くと、その頭上の空間が小さく波打つように歪んだ。お母さんはその波紋の真ん中に手を突っ込むと、その異空間の中から何かを引っ張りだしてきた。

 いや、何かと称するには語弊がある。それは間違いなく、私の愛用の武器。

 

 まるでそのまま削り出して作られたかのような、柄も鍔も無い、無骨な二振りの剣だ。

 

 

「ほら、研ぎ出し終わってるぜ。新品同様だ。試し切りにはもってこいだろ?」

 

 

 レインお母さんが取り出し、放り投げた剣をキャッチし、振り回しながら構える。千雨お母さんの言う通り、軽くてしなやかで、空を切る感覚も鋭い。ますます全身の血が沸き立ってきた。

 

 

「…レインお母さん、ここは私と千雨お母さんに任せてくれるかな?」

 

「言うと思った。まぁ大丈夫でしょう。先に家帰って待ってるからね。晩御飯、オムライスだから。」

 

 

 まるで犬の散歩でも頼むかのような気軽さで、レインお母さんは私たちにその場を任せてさっさと帰ってしまった。普通は有り得ない行動かもしれないが、生憎私たちは、常識の埒外に生きる怪物母娘だ。

 

 

「じゃあお母さん、私のサポートよろしく。」

 

「ああ?何言ってんだ、お前が私のサポートしてくれるんじゃないのか?」

 

「そっちこそ何言ってるのよ、お母さんの演奏は本来支援向けでしょうが。だったらここは可愛い娘に華を譲るべきじゃない?」

 

「馬鹿言え。こんな雑魚に後れを取ってたくせに。そういうのは華じゃなくて単なる憂さ晴らしって言うんだ。」

 

「む、じゃあ私は格好悪いまますごすごと引き下がれっていうの?ヤダよそんなの、私にもプライドってモンがあるんだから。」

 

「さっきの台詞も充分格好良かったと思うけど…。まぁいいや。だったら二人で潰すか。」

 

「異議なし。」

 

 

 私が剣を持った両手を後頭部で交差させながら背中に持って行く。

 お母さんがサックスのマウスピースを唇の端に持って行きながら構える。

 

 二人並ぶと、いつも同じ笑顔をしてると、皆から言われる。きっと今もそうなのだろう。

 

 

「な…何なんだ貴様等は!?」

 

 

 完全に恐慌状態に陥ったジジイが、半分裏返った声で無様に叫ぶ。

 お母さんと同時に顔を見合わせ、同時に大笑いし始める。ちなみに、二人の笑い声が重なるとすごく怖い、地獄の底から響いてくるみたい、と皆から言われる。酷い言われ様だ。

 

 ―――とはいえ、あながち間違ってはいない訳だが。

 

 

 

 

「「―――――親子だよ。元殺人鬼と、元食人鬼の、な。」」

 

 

 

 

 そして後はいつものように。

 お母さんの奏でる衝撃波(メロディ)に乗って、縦横無尽に駆け回る。

 

 ああ、やっぱり。走るのは大好きだ。

 お母さんと一緒の時は、尚更。

 

 

 

 

 

 

 

 

『えっと、それじゃあ月詠は大丈夫なのね?』

 

「もちろん。ていうかゴメンネのどかお母さん。いつも尻拭いばっかり任せちゃって。私も千雨お母さんも、あんまりやり過ぎるつもりは無いんだけど…。」

 

『分かってるから大丈夫よ、月詠。それが私の仕事なんだから、万事お母さんに任せておきなさい。心配してくれてありがとう。』

 

「…ん、分かった。いつもありがとね、お母さん。」

 

『うんうん、それで良いのよ。千雨さんもレインさんも千鶴さんも私も、月詠(むすめ)に頼られてお礼を言われるのが何より嬉しいんだから。これからも存分に私たちに頼りなさい。それじゃまた、家でね。』

 

 

 じゃあねー、と返して電話を切る。事後処理はどうしてものどかお母さんの力を借りる他無い。毎度毎度の事なので千雨お母さん共々心苦しい思いをしているが、その度に今電話口で囁かれたような内容で諭されるのだった。

 レインお母さんと千鶴お母さん曰く、『のどかは頼られるのが嬉しいんだから』との事だそうだ。

 

 

「月詠。電話終わったなら、そろそろ警察来るからずらかるぞ。魔力の痕跡は残すなよ?」

 

「分かってるよー。んじゃ、帰ろうか。」

 

 

 最近の警察の捜査力の発達は目を見張る物がある。テレビで密着ドキュメントを見ていて、お母さんたちが戦々恐々としていたのはつい最近の事だ。最悪返り討ちにすればいいんじゃないか、と考えてしまう私はまだまだ子供なのだろう。

 

 

「―――お、今日は三日月か。」

 

 

 千雨お母さんが空を見上げながら呟いた。私もつられて空を見ると、夜闇の幕が降り始めた空に、座り心地の良い椅子のような孤を描く三日月が浮かんでいた。

 

 

「…ねえお母さん。何で私の名前って、“月詠”なのかな。」

 

 

 以前からふとした瞬間に胸の内に湧き上がって来ていた疑問が、お母さんと一緒に居る今この時に限って、口を衝いて出た。お母さんが怪訝そうな顔をしたのも一瞬のこと、少し考えるような素振りになった。

 

 

「私も詳しい事は知らないんだけどな?けれど、月詠って名前を付けたのは、昔のお前を飼ってた関西の幹部共が付けた名前らしい。だから、そのほとんどが死んだ今、確かな由来はよく分からない、ってのが真実だ。

 けど、刹那の見立てだと、“月詠”と“黄泉”を掛けて、死の使いって意味で名付けたらしい。もしくは日本神話の月の神の名を授けて、呪術的意味合いを持たせようとしたか、だとさ。」

 

 

 お母さんはそこで言葉を切って、私がどういう反応をしているか窺った。

 その、僅かに陰の差したお母さんの表情を捉えてしまい、そしてその理由を察してしまい、思わず慌てふためいてしまった。

 

 

「あ、別に『月詠』が個体名(・・・)だから気に入らないって言うんじゃないよ!?ただ純粋に気になってたんだって!」

 

「え、あ、そ、そうか!?それなら良かった…。急に何を言い出すのかと…。」

 

 

 お母さんも一気に顔に安堵を浮かべ、ほっと胸を撫で下ろした。もしこの場に残る3人のお母さんたちが居たら、間違いなく千雨お母さんと同じ反応をしていた事だろう。改めて、自分の失言を悔んだ。

 

 

 

 ―――私は真っ当な人間じゃない。

 かつて長谷川千雨と戦い、敗死した少女―――月詠のDNAを用いて作られたクローン個体だ。

 

 

 

 8年前、千雨お母さんが月詠の墓代わりとして立てた剣―――立派な墓を作った後も、その墓前に突き立てられ続けていた月詠自身の愛剣と、彼女に関する資料の一部が盗まれた。

 盗んだのは魔法科学の研究者だった。『死体から生きた人間を作り出す』という研究を進めていたらしく、その過程で“何処からか“月詠”という存在を耳にしたらしく、素体の一つとして選ばれたそうだ。

 “月詠”の身体能力は非常に高い。それは、今生きている私が誰よりも実感している。当然研究者たちも、月詠(わたし)の潜在能力の高さに目を見張り、彼らなりに“活用”し始めた。私のように人型を留めていた月詠(もの)なんて、全体の3割にも満たなかった。

 研究者たちはこれを、『汎用人間兵器計画(ツクヨミプロジェクト)』なんて名付けていたが、そのせいで『完全なる世界』の耳に入ってしまい、お母さんたちの逆鱗に触れる事になった。

 魔法界に在った研究所は、千雨お母さんやレインお母さんを始めとして、楓姐さんや茶々丸さん、エヴァさん、『完全なる世界』の面々という錚々たる顔ぶれによって半刻も経たず壊滅させられた。

 

 その結果、作り出された月詠(へいき)たちはプロジェクトごと殲滅させられる事になったが、その時何の偶然か、私一体が生き残ったのである。

 

 千雨お母さんは私を見つけた途端、その場で泣き崩れたという。

 そしてその場で、私を育てる事を決めたという。

 

 とはいえ、私はあくまで“月詠”のDNAから作られた“人型兵器”でしかなく、会話する程度の知能はあっても、常識や倫理観についてはかなり欠落していた。お母さんたちに引き取られた当初は毎日のように加減知らずの大暴れをして、お母さんたちを傷つけた。特に主力であった千鶴お母さんの場合は酷く、本当に生死の境を彷徨わせてしまった事さえあった。

 

 けれど、お母さん達は決して私を見捨てる事はしなかった。

 千雨お母さんは叱ったり褒めたりしてくれたし、レインお母さんはご飯を作ってくれたし、のどかお母さんは庇ってくれたし、千鶴お母さんは甘えさせてくれた。

 

 

 

 本当に私を―――娘として見て、育ててくれた。

 

 

 

「―――――安心していいよ、お母さん。」

 

 

 多分お母さんより速く平静を取り戻す事の出来た私は、ウサギのように一歩前へ跳ね出て、三日月を背にお母さんの方にくるっと振り向いた。

 

 

 

 

「私は一生、大好きだから。この名前も、この身体も、私自身も、お母さんたちも。みーんなみーんな、大好きだから!」

 

 

 

 

 お母さんが私に事情を打ち明けてくれた日の事は、今でも鮮明に覚えている。

 お母さんたちの闘いにも似た育児の甲斐あって、2年後には小学校に通い始める事が出来た。騒動こそ頻繁に起こしたものの、それまでの日々と比べれば可愛い物だった、とは千雨お母さんの談だ。当然私に非がある時は、とんでもなく怒られたけれど。

 そして、何も知らなかった私に全てを話してくれたのは、小学校を卒業したその日の事。あの時感じた感情の波濤と、お母さんと共に一晩中泣き晴らした記憶と、尽きる事なき謝罪と感謝の念は、私の中に永遠に残り続けるだろう。

 

 

 

 私がお母さんたちに返せる恩は、私らしく生きる事。

 私自身を恥じる事なく、日々を楽しく笑って生きていく事だ。

 

 

 

 だから私が、月詠という自分の名前を嫌うなんて事は、天地が引っくり返っても有り得ない話なのだ。

 要するに、私がマザコンである事の証明でしかないのだけれど。

 

 

「そうか…そうか。」

 

 

 お母さんの表情には色濃い安堵が浮かんでいたが、その瞼に薄らと涙が浮かんでいるのを私は見逃さなかった。

 指摘しようかどうしようか悩んでいる内に、お母さんはつかつかと私の目の前まで歩み寄って来て、少し乱暴な手つきで私の頭を撫で始めた。

 

 

「わっ…!ちょ、ちょっとお母さん…!う、嬉しくないわけじゃ、無いんだけど、もうちょい優しく!」

 

 

 しかしお母さんは何も返さず、手を緩める事もしなかった。

 それで分かった。今お母さんはきっと、泣くのを堪えているのだ。嗚咽が漏れぬよう、涙声にならないよう、必死で誤魔化しているのだ。

 何となくそれが嬉しかったので、私もそれ以上何も言わず、されるがままに撫でられ続けた。

 そして大体一分程、お母さんの手の温もりを堪能してから、未だ撫で続けるお母さんの手首を掴み、降ろした。

 

 

 

「―――帰ろう、私たちの喫茶店(いえ)に。」

 

「―――ああ、帰ろう。一緒に。」

 

 

 

 そして私たちは手を繋ぎ、並んで家路を歩き始めた。

 

 

「そういや月詠、お前今日学校のプールで乱闘起こして、一面血塗れにしたって?新田先生と千鶴から聞いたぞ。その不良って、例のアイツらか?」

 

「そ。前ウチの喫茶店でひたすら迷惑かけてきたヤツら。私にボッコボコにされた事、未だに逆恨みしてるのよ。バッカみたい。」

 

「しゃーねぇな。ソイツら今度ウチに招待しろ。私が直々にもてなしてやる。」

 

「うわー、自業自得とはいえご愁傷様。ていうか最初の時点でお母さんが相手してあげれば良かったじゃん。」

 

「真っ先にアイツら蹴飛ばしたお前が言うのか。後、プール血の海にした件についても、家帰ったら説教するからな。のどかと一緒に。」

 

「ええええ!?今怒らない流れだったし、もう千鶴お母さんに怒られてるよ!?」

 

「そりゃまぁ、お前の母親は一人じゃないからな。千鶴は千鶴で怒るし、私は私で怒る。とりあえず明日の特訓は私とレインと楓の3人掛かりで行くからな。」

 

「てことは、のどかお母さんの分もあるのか…。ううう、こんなことならプール掃除しっかりやってればよかった…。」

 

「万引き犯の件、都合の良い事しか報告しなかったのが悪い。ま、晩飯前には済むだろ。のどかも事後処理で忙しいだろうし。ほら、しょげてないで帰るぞ。皆待ってる。」

 

「…ん。そうだね!ウジウジ考えててもしょうがないし、らしくないもんね!過去は悔まない、省みない!」

 

「反省はしろバカ。」

 

「あ痛ッ!?」

 

 

 

 

 8月の真夏の星空と月が、私たちを優しく照らし出す。

 

 かつての月詠(わたし)、見てますか。

 今月詠は、お母さんと幸せに暮らしています――――――

 

 

 

 

 

 


(後書き)

 月詠は現在中学生、当然セーラー服を着てる、つまり、セーラーム(以下略)回。タキシード仮面って今考えたら恥ずかしい名前だよなぁ。

 

 今回は連載中から考えていた外伝、月詠黄泉返りの巻でした。前回千雨が千鶴に仄めかしていた、千雨自身が行って片付けなければならない事は、月詠の人間兵器の素材化の阻止と撲滅のためでした。そしてその際に唯一の生き残りを引き取り、今話に至る、という訳です。

 

 月詠は製作時点である程度の知能をインプットされているため、3~4歳児程度の肉体と知能を持って培養液内から誕生、その後同時にインプットされた殺戮本能と、親からの命令を受信するアンテナで、恐怖の人間兵器が誕生する、といった具合です。ただし月詠はあくまで“素材”なので、元の月詠に似た姿でなくとも、男であろうが腕が4本あろうが半人半馬であろうが構わないのです。

 なので、今話の月詠も、元の月詠とは然程似てなかったりします。面影はあるけど。

 

 そして同じく前話で触れた、千鶴の力が必要になる場面とは、月詠の子育て(リーダー)でした。千鶴が居なかったら間違いなく月詠を育てる事は出来ませんでした。月詠があんなに良い子に育ったのも、半分は千鶴のおかげと考えて間違いありません。というか、当の月詠と千雨たちがそう断言します(笑)

 ただ、のどか以上に戦闘能力の無い千鶴にとっては、本当にキツイ子育てであった事も間違いありません。月詠の力に千鶴が敵う訳ないですし。宥めようとして千鶴の首に咬みついたり、なんて事はザラだったりします。基本は千鶴は月詠につきっきりで、千雨も常に二人と一緒に居ましたが、それでも怪我は避けて通れませんでした。ですがそのためか、幼き月詠が真っ先に母親だと認識したのは、千雨と千鶴でした。

 ともあれこれで千鶴も千雨パーティの仲間入り。ようこそ人外魔境へ。

 

 前回のサブタイは紹介するまでも無かったと思いますが、今回のサブタイもsupercellです。アルバム「Today Is A Beautiful Day」より、「私へ」です。アルバムのラストの、僅か2分程の曲ですが、「君の知らない物語」のその後を描いた、切なさの余韻の残る曲です。「君の知らない物語」といえば、PVが何故か心抉られる事で有名ですが、ついでにこの曲のPVも作ってくれないかなぁ。

 ところでツイッターでもつぶやきましたが、supercellの新曲、刀語のOPでもある「拍手喝采歌合」、超好みです。和ロック大好きなので。久しぶりにCD買おうか。

 

 次回はようやくリクエスト外伝、千雨とエヴァの対談です。無記名様、本当に長らくお待たせいたしました。5月中には完成させて投稿いたしますので、もうしばらくのご辛抱を。そしてその外伝で、この「Thousandrain The Horn-Freak」にも本当の意味で終止符が打たれます。皆様、重ね重ねご声援ありがとうございました。

 

 …あ、それと最後に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今話で千雨が何歳になったのかは考えないように。そしてそれを感想欄やWeb欄で呟いたりしないように。衝撃波が飛んできますよ?

 

 

 

 

 

 

 それでは、これを言うのも最後になりますが、また次回!

 

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