Prologue



「恐れを知らず、果敢に突進し攻撃する様は、まさにトリステイン貴族の名に恥じぬものであった。今、トリステイン王国が存在するのも、彼らの犠牲の上にあることをトリステイン国民は忘れてはならない。国民そして、彼らのことを語り継がなければならない。そうでなければいよいよ、トリステイン王国の滅亡は現実のものになるであろう」


 ディーテリヒ・フォン・シェーンハイト(帝政ゲルマニア伯爵)




T 五月十八日 甘々紅茶




 ルイズは次なる大都市への中継地、新たな宿場の一室で軽く伸びをした。長いこと座りながら読書していたので、背筋が少し痛くなったのだ。
 日が陰っているわけではない。にも関わらずルイズが静かに部屋に(たたず)んでいるのは残念なことにこの地にサイトの手がかりとなるものがないからである。
 どうして、中継点を選ばなかったのかと疑問になろうものでもあるが、それはルイズの体力に関係していた。
 どうしても現役将校だった頃に比べれば体力や筋力は落ちていたし、長く馬車に乗っているのも体力を消耗するのだ。

 旅路ではどうしてもサイトらの率いた騎馬兵よりも移動距離が短くなってしまう。どうしても馬車では騎馬兵と同じ距離を進むことは無理だった。だからやむを得ず一日の移動距離を短縮することにしていたのだ。
 ルイズからしても、移動距離が短くなることは仕方ないことだと割りきっていた。だけれども、サイトの消息、その手がかりを知るには一刻も早くサイトが立ち寄った有力な都市へと急ぎたいとの気持ちはあった。
 彼女はいつも泰然(たいぜん)としているが、それも旅に出てよりシエスタ、ベアトリス両人がいたおかげであったし、一人になるとやはり、どうしてもサイトのことを探らなければならないとはやる気持ちを抑えるのが大変だった。

「……はぁ」

 心の均衡を保つ、と言った意味では読書で気を紛らわすことが一番だ。今しがた、ルイズが読んでいた本は『ガリア綺譚(きたん)』という娯楽本だった。たまたま、宿に置いてあったのをいいことに全部読んだのである。
 ただ、読み終えたあとのルイズのダルそうな顔を見れば、いかに内容が娯楽に特化していたかということがわかる。
 こればかりはルイズの悪い癖で、ルイズは本を読む際にいつも何か得られるものがないと探し、無いとなれば途端につまらない顔をする。
 シエスタが前々から、軽めの本を読んでいたから興味があったが、どうにもこればかりは彼女に良い報告はできなそうだ、とルイズは息をついた。
 ルイズがテーブルに本を置くのと同じくして、扉がノックされ彼女、シエスタがお茶とお菓子を載せたトレイを持って入ってきた。

「どうぞ、ルイズさん。これで読書も……って、読んでいませんね」
「一足、遅かったわ。でも丁度暇になったところよ」

 ルイズは両手を広げて見せた。

「それは幸いです」

 シエスタは頷き、すぐにお茶の用意に取り掛かった。その間にルイズはかけていた眼鏡を仕舞い、軽くさっき読んだ本の内容を思い返していた。

「どうぞ、ルイズさん」

 シエスタが用意を終えるほんの短い間であったが、それでもルイズはある程度、かの本への評価を苦言とともにひねり出す程度には噛み砕いていた。

「ありがとう。ほら、貴女も座って」
「はい、喜んで」

 シエスタは笑顔で空いている椅子に座った。それを合図に、ルイズは話題の口火を切った。

「今、私が読み終えた本があるでしょう? あれ、シエスタは読んだことがあったかしら」

 何気なくティー・カップを手にしてお茶の香りをルイズは楽しみつつも質問した。

「先程の、と言うのはこれですよね?」

 シエスタはルイズの質問の意図がわからなかった。彼女はルイズと同じく香りを楽しんでいたティー・カップを置き、同じテーブルにあった『ガリア綺譚』を手にとった。表紙を開き、パラパラとページをめくったあと、シエスタは頭を振った。

「あたしは読んだことがありません。同じようなものなら、読んだことありますけど」
「参考程度に聞きたいのだけれども、その本と言うのは?」
「特定するのは難しいですけど……たとえば『泉の妖精』とか『カピタイン・シャルル』です。どれもこの本と同じで、架空の人物を扱ったものですよ」

 シエスタは適当に今まで読んだことのある本をあげたが、いよいよルイズが何を聞きたいのかわからなくなった。
 彼女も長くルイズに仕えるようになり、こういう娯楽本は読まない(むしろ今回読んでいたことにすら驚いた!)ことを知っていただけに、どう反応すればいいのやら、というわけだ。

「成る程。やはりどこの国でも同じような本が流行するのね。だけどシエスタ、今貴女が手にしている本は何処か架空の人物だと思えないところがあるの。冒頭だけでいいから、読んでみて頂戴」
「え? ……はい、わかりました」

 言われた通り、シエスタは最初の数ページをめくった。およそ読んだとは言えない速度のようであったが、すぐにはっとした顔つきになってルイズを見た。

「こんなところまで、影響を及ぼしていたんですね。平民出身で叩き上げの軍人、黒髪に黒い出で立ちの主人公。古今東西の英雄を紐解いてみて、この条件ではサイトさん以外にいるわけがありません」

 ハルケギニアの歴史においてやはり英雄とは派手なものである。それは、今まで民衆から英雄が出たわけではなく、階級の上位のものだけが英雄という地位を独占してきたからである。
 だからこそ、衣装も紅白やら金糸を混ぜた華美豪華なものが相場である。言葉は過ぎるが、貧乏臭い奴が英雄になることはなかったのだから当然だ。
 対してサイトという男は全てにおいて今までの英雄像とは違った。地位や名誉などへったくれもない完全な平民(実際祖国でもそうであった)で、服装も見栄えのしない黒色の軍服だった。
 軍人としても下士官からのスタートで中将まで登りしめたのだから、生粋の叩き上げだと言える。

「まったく貴女の言うとおりね。どうして、小説のモチーフになるとは……いいえ、そこが問題ではないわ」
「と、言いますと?」
「羨ましいじゃない、サイトがここまで評価されているなんて」
「まあ」

 シエスタは驚き声をあげた。功名心というものがない彼女をして、サイトを羨むとは予想だにしなかった。

「意外かしら」

 微笑み、ルイズはシエスタに語りかけた。

「私は、あいつのかわりにトリステインの『英雄』にされた。それも政治的な側面が強い。あろうことか、使い魔の威光を主の私が継ぐなんて……ひいてはヴァリエール家の、いえ私の矜持(きょうじ)にかけて許されることではないのよ」

 悪く言っておきながら、それでいて表情は柔和(にゅうわ)。まさしくサイトのことを語る時のルイズは良い顔をしていると同時に、この顔を独占している自分が幸運であることをシエスタは噛み締めていた。
 正直、買い出しに行っていまだ帰ってこないベアトリスに申し訳ないと感じてすらいたほどだ。

「でも、考えてみたらあいつはいつも私よりも一歩先を行っていたのよね。それこそ在学中の時でもそうだった。戦術論では教官を論破したくらいだもの」
「そうなんですか、すごいですね。あたしも講義に出られたら良かったなぁ」
「あら、やっぱり貴女でもあいつのすごいところは見たかった?」

 ルイズは経験から、シエスタがサイトとは男に興味を持つことを素直に嬉しく思った、が。

「いえ、あたしが見たいのはそうやって得意げになったサイトさんを叱りつけるルイズさんです!」

 鼻息を荒くして、しかしてシエスタは清々しい顔であった。ルイズは椅子の肘掛けからガクッと肘を落とした。

「まったく、どうして貴女はそうなのかしら……そんなだからいつまでたっても結婚できないのよ」

 態勢を直しつつ、ルイズは愚痴をこぼした。目下ルイズの目的はサイトを探すことだが、その旅が終わり次第今度はシエスタの行く末の心配をしなければならないかもしれない、と嫌な未来図が頭によぎった。

「結婚! とんでもない! そんなことをしたらどうしてルイズさんのお世話役が出来なくなってしまうではないですか!」

 この手の話題はシエスタにとってよくないものだ。だからこその熱に浮かされたような酷い調子の拒絶になる。

「……はあ、これだから」

 シエスタに結婚だなんだと勧めてもにべもない。いつもかんな調子では、いよいよルイズも勝手に縁談を組む意外ないのではないかと本気で思った。

「まあ、この話は後でいいわ。いつも堂々巡りだものね」

 ルイズは軽く頭痛を覚えそうな頭を抑え、話題を切り替えることにした。

「えぇと……そうだ、まあ貴女が想像する講義風景は正解よ。いつも調子に乗るサイトを叱るのは私に役目だったわ」
「やっぱり、そうですか」

 さっきと打って変わってシエスタは温和な調子に戻り、また自分の想像が図に当たったことでニヤリと笑った。

「本当、恐れ入るわ。貴女の観察眼は本当に素晴らしいもの」
「いやいや、それほどでもありません」

 ルイズに褒められてシエスタははにかんだ。謙遜(けんそん)なのだろうが、ルイズは本当に正確な推察だと感心していた。

「賞賛は素直に受け取るべきよ、シエスタ」
「はい、では素直に喜ぼうと思います」

 シエスタは席を立つとルイズの横に来て、ガバっと抱きついた。

「……カップを持っていなくて正解だったわ。というか、どうして抱きしめるわけ?」
「だって、賞賛を素直に受け取れって言ったのはルイズさんですよ? 私における喜び、これはルイズと分かち合ってこそですから」
「貴女ねぇ……」

 ルイズはシエスタを押しのけた。シエスタはイタズラっぽい笑みで席に戻った。

「冗談ですよ」
「そうね、そうだと嬉しい」

 いきなり抱きついてくるシエスタが正常なのかどうか疑わしい。まあ、今はどうでもいいかとルイズはお茶を口にした。やけに苦味を感じるのが、また心憎いところである。温度が下がってしまったせいか、とルイズは思った。

「砂糖、いれますか?」
「ええ、そうね」

 ルイズはおとなしくカップを置き、シエスタに角砂糖をいくつか入れてもらった。ティースプーンでクルクルとかき混ぜると、小さな渦がカップの中に浮かぶ。

「うふふ、未だにルイズさんは苦めの紅茶はお嫌いのようで」
「別に、いいじゃないの。私は甘いほうが好きなの」

 ルイズが紅茶好きなのは公然のことだが、渋みや酸味が強いものなどには概して砂糖やミルクを入れて飲む。逆にシエスタは渋かろうが酸っぱかろうが何も入れないで飲むのだ。
 それが習慣の差といえばそうなのだが元来、砂糖やミルクは高価なものだ。庶子であったシエスタがお茶は飲めども、両方を手にすることは故郷でもそうそうなかった。

「お茶の本来の味でいえば、何も入れないほうが良いと思いますよ。その方その方によってお好みもありますから、無理にとは言いませんが。どうぞ」

 お茶を継ぎ足し、再度軽くかき混ぜれば砂糖を加えた紅茶の完成だ。ルイズは早速一口飲み、満足げに頷いた。

「うん、丁度いい。やっぱり私は砂糖があったほうが断然良い。貴女のいうことが一理あるけど、私は頑として砂糖を入れることを堅持しようと思うわ」

 シエスタの見事な塩梅による紅茶がルイズは誰が入れるよりも好きなのだ。それにシエスタが手を加えてくれることにも、重要な意味がある(と想っている)から、ただそのまま紅茶を出されてもルイズは面白くないのだ。

「お菓子もどうぞ。近くで美味しそうなマドレーヌがあったので買ってみました」

 ルイズはシエスタのすすめにならい、マドレーヌを手にとった。まだ買って来て間もないのか、ほのかな暖かみがある。おかげで良い香りがルイズの嗅覚を楽しませる。
 同時に、ルイズの心の奥底に去来するものがあった。ちょっとマドレーヌを口にした後、ルイズは口を開いた。

「そういえば、サイトはこういう時決まって珈琲(コーヒー)を飲んでいたのよね」
「珈琲……言われてみれば確かにそうでした。サイトさんたらいつも『珈琲でいい』と口にしていましたよね」
「そう。しかも総じて」
「なんにも珈琲に加えない!」

 意思疎通が思いの外うまくいき、お互いに笑った。シエスタは笑いすぎて手にしたカップを落としそうになった。

「思い出せば出すほど、サイトさんは珈琲を飲んでいる印象しかないですよね。誰が言ったのかは忘れてしまいましたけど、いつかサイトさんが飲んでいる珈琲を指して『まるでコールタールだ』なんて言われた時はすごく怒っていました」
「そんなこともあったわね。でもシエスタ知っている、その後の話?」
「え? この話って続きがあったんですか?」

 驚いた表情のシエスタに、ルイズは小笑いした。

「ええ。聞くも笑い話よ。あいつは――そう、オリヴィエ(オリヴィエ・ド・クラジエ大尉。大侵攻作戦のおり、殿軍(でんぐん)を務め戦死)に言われたのよ、コールタールのようだって。その日の就寝前ね、サイトが神妙な面持ちで私に聞いてきたの。『私の味覚は、やはりおかしいのでしょうか?』って」

 当時のことがまざまざと思い出され、ルイズは思わず破顔した。シエスタもそんなルイズを見て笑顔になる。

「いかにもサイトさんらしいですね」
「まったくそうね。あいつ、言われた時は全く気にする風でもなかったのに、いざ周りに人がいなくなると私に聞いてくるのだから」
「それだけルイズさんが信用されているってことですよ」
「まあ、そう捉えてもらえると嬉しいわ」

 ルイズはもう一口、マドレーヌを味わった。紅茶との相性も良く、まさにシエスタのセンスには脱帽である。シエスタも自身の選択が間違いでなかったことを確信する表情でマドレーヌを食し、紅茶を飲んだ。

「そうだ、紅茶と言えばルイズさんは良くティーパーティーをしていましたよね? 皆さんは割合飲酒なさっていらしたのに、ルイズさんだけはお飲みになっているところを見ていません」

 カップを置き、ふと思い出したようにシエスタが言った。ルイズはちょっと困ったような顔をした。というのも、飲酒をしなかったことに関してはルイズにも恥ずかしい過去があったからだ。

「もしかして、ルイズさんってお酒に弱いんですか? それとも、酒癖が悪いとか」
「酒癖は悪くないわ、少なくとも貴女より。特段、お酒に弱いわけでもない」
「ちょっと、それじゃああたしがいかにも酒癖が悪いみたいじゃないですか!」

 シエスタは不満を口にした。

「……貴女、自分の胸に手を当ててよく考えて御覧なさいな。思い当たることはないの?」

 ルイズの小さな、それでいてはっきりと聞こえる声にシエスタは夏の入りであるにも関わらず吹雪が起こることを錯覚した。それほどまでに、ルイズの言いぶりは冷たかったのだ。

「そ、それはあの時のことは悪かったと思っていますよ? でも、ちゃんとあたし、謝ったし、ルイズさんだって許してくれたじゃないですか!」
「それとこれとは別にきまっているわ、貴女。またあんなことをしてみなさい、即解雇(かいこ)するから」

 二の句を継げさせる気のない、断固たる決意が現れる言葉だった。しかし、それでいてシエスタがへこたれるわけでもない。ちょうど、シエスタに天が味方したのである。

「お姉様、何をそんなに怒っていらっしゃるのですか?」

 丁度、買い物から帰ってきたベアトリスがたくさんの物をいれた袋を抱えて部屋に入ってきたのだ。

「……別に、ただの冗談よ」

 さすが妹の手前、シエスタに強く当たるところを見られて罰が悪いのかルイズは目を逸らしていた。
 ベアトリスは嘆息(たんそく)しつつも、袋を適当な床に置くと、シエスタとルイズの真ん中の席に座った。

「即解雇などと悪い冗談をおっしゃるなんて。シエスタさんに失礼ではないですか。お姉様の生活はシエスタさん居なくして成り立たないわけですし」
「ほめられるとなにか照れますね」

 頬をちょっと(あけ)にしつつ、シエスタはベアトリスのぶんのカップに紅茶を注いだ。さりげなくベアトリスが砂糖だけいれることを把握しているからこそ、シュガーポットをカップの隣に置く。ベアトリスは角砂糖を二つほど入れた。これで程よい甘さになる。

「貴女はシエスタの酒癖の悪さを知らないから、そう言えるのよ」

 ベアトリスが良しとした紅茶の甘さとは別、ルイズは素で飲んだ時の苦味を思わせる口調だった。

「そう、言われましても……そんなにシエスタさんはお酒に弱いのですか?」

 シエスタを見やれると、口を硬く結んで何も話そうとはしなかった。

「いいえ。シエスタは酒豪と称して差し支えないわ。ただ一口でも飲もうものなら、面倒この上ない存在になるのよ。そして、悲劇は繰り返されてきたわけ」

 昔日のシエスタ、彼女の酒癖の悪さの犠牲になった者は少なくない。ルイズの自称保護者の一人であり酒にかなり強いキュルケ(キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アルハルツ・ツェルプストー帝政ゲルマニア一等外交官)でさえ、シエスタを誘って飲んだことだけはかなり後悔していた。
 他に、シエスタに対して恋慕(れんぼ)の感情を抱いていた男子学生なども果敢に酒を飲ませ、あわよくばとの思いがあったが、誰しもシエスタには敵わなかった(某金髪の浮気症の彼は彼女に負けて二日酔いの中、更にクスリを盛られて苦しみに耐え切れず(もだ)え苦しんだ)。

「私も例外なく、その被害者の一人よ」

 ルイズははっきりと、自分が害を被ったと明言した。

「そんな。あんまりな言い草ですよ、お姉様。一体、シエスタさんが酩酊(めいてい)した際に何があったと言うです?」

 ベアトリスはシエスタが酔ったところを見たことがない。つまり、いつもの有能な彼女を見ているわけだ。それだからこそ、彼女が酷いことをするとは思えず、ついルイズの発言に重ねる形になった。

「……シエスタはあの日、勢い余って私の部屋に押しかけてきたの。私は勿論(もちろん)寝ていたわ、サイトが部屋にいるからと、安心していたし」

 当時から、二人がやましいことをしたことはない。念の為に更に言うなれば、隣部屋同士の壁がそこまであつくないから良からぬ物音が聞こえようものなら、両隣どころかほぼ同階の者達が即座に聞き耳を立てていたことだろう。
 閑話休題(それはともかく)、実際サイトはルイズの部屋で就寝していた。屋内の通路に出る側の扉のすぐ横に簡易ベッドを作っていつも何かあった際に備えていた。これは、ルイズ、シエスタに限らずベアトリスも知っていたことだ。しかし、問題はそこではない。

「サイト兄様がいるなら、仮に酔われたシエスタさんが入ってきたところで追い返されたのでは?」

 ベアトリスには酔に酔ったシエスタをあくまで紳士的になだめ、部屋に帰さんとするサイトの姿が容易に想像できた。当然、そうなのだろうと投げかけたのだが、ルイズから返ってきた答えは違った。

「サイトの悪いところはね、私に限らず女に甘いことなのよ。それこそベアトリス、貴女が知るサイトは紳士だと思う。だけど、それがあの時は(あだ)になった」
「仇って、酷い言われようです……」

 シエスタはひたすらシュンとしていた。さすがにずっと落ち込まれては、ベアトリスも心苦しくなってきた。

「ま、まあお姉様。シエスタさんもこのとおりですし、もうやめにいたしましょう?」

 興味はあれども、誰だって恥ずかしい過去は持っている。それをして無理やり聞き出そうという気は、さらさらベアトリスにはない。

「ベアトリスさんはお優しい方ですね。それに比べて、どうしてあたしのご主人さまは厳しくなさるのでしょう!」

 シエスタはベアトリスの手を握って何度となくゆすった。しかし、その態度こそが仇になる。

「……ベアトリスは甘いのよ。そうよ、ベアトリスに限らず皆、シエスタに甘すぎる。どうして私の貞操(ていそう)の危機だったと言うのに」
「て、貞操の危機!?」

 あまりに穏やかではない言葉、よもやルイズから発せられることがベアトリスには信じられなかった。思わずバッとシエスタが握る手を振りほどこうとさえしたが、それはやりすぎだと自重した。
 視線を移しシエスタの顔を覗けば「またやってしまった」と書いてあった。まるで成長のない娘である。

「……サイトはね、ベアトリスの言うとおりシエスタにお引き取り願うつもりだったそうよ。当然、話せばわかる相手だと思っていたから。だけどあの日のシエスタはシエスタであって、シエスタではなかった。無言でいきなりあいつの肩を掴んで、部屋の外に追い出した挙句、部屋の鍵を即座に締めた。それからおもむろに私の眠るベッドに忍び寄って……」

 ルイズは自分で話をしながら、身震いをした。

「朝、目が覚めたら隣にシエスタがいたのよ。半裸の状態で……私は最初、何が起きたのか分からなかった。それから、自分の衣服が乱れていることに気がついて、ああ……!」

 ついには頭を抱えて、ルイズは珍しく大きな声を出した。

「ね、姉様! それほどまでにお辛いのでしたら、無理にお話なさらないでください!」

 今度こそ手を離して、ベアトリスは姉をなだめようとした。シエスタはといえば、ものすごくいたたまれない表情をしている。

「大丈夫よ……ええ、大丈夫。少なからず、私の身は奇跡的に被害が無かったから」

 自分を落ち着かせるためにもルイズは紅茶を飲んだ。

「そうですか……それならば、いいのですけれど」

 ベアトリスは素直にルイズの言を信じたが、実際にはシエスタの闖入(ちんにゅう)により、ルイズが何もされなかったわけではない。わけではないのだが、(うつむ)き加減のシエスタからは反省をしていると見えるし、これ以上彼女の株を落とすこともないと判断して語らなかった。

「ですが、よくそれほどのことが(おおやけ)にでませんでしたね? 教官に知られたりしたら、お姉様もシエスタさんも処罰は免れなかったでしょうに」
「それは、そうね……まあ、全て仲間のおかげよ」

 ルイズを含む軍学校の同期生はとかく仲が良かった。それに加えて当時は給仕のシエスタがいて……いつも悪さを見逃してくれたアニエス教官のおかげもあり、ことは明るみに出ることはなかった。
 余談になるが、当時これで「サイトがルイズに見捨てられた!」と本気になって、サイトに熱い眼差しを向けた女学生がいた、らしい。加えて、シエスタは前々からそう思われていたからいいとして、ルイズも数日の間ずっとこの件で冷やかされたことは、彼女にとって割合思い出したくない部類の記憶だったりする。

「……今は反省して、自分を見失うほど飲むことはありません」

 シエスタの苦し紛れの言葉であるが、嘘偽りではなかった。あの日以来、シエスタは酒の力を借りずにルイズへとアタックするようになった。それはそれでどうなのだ、ということはさておき、である。

「そもそも、どうしてシエスタさんの酒癖云々(うんぬん)の話になったのですか?」

 ベアトリスは小首を(かし)げた。

「それは、私がどうして昔から飲酒をしないのか、と言う話からずれたのよ」
「え? お姉様、昔は結構、お酒を楽しんでいませんでしたか?」

 ベアトリスの印象、と言ってもサイトと会う前のルイズだが、彼女は社交界でもそれなりに酒を飲んでいたと記憶していたし、それは正解だった。ルイズは、サイトに会うより前は酒を(たしな)んでいた。

「そうですよ、そもそも私だって、それが聞きたかっただけです」

 シエスタもベアトリスに便乗した。ルイズには、これまた酒をやめた理由を言うのを躊躇(ためら)わせるものがあった。しかし、シエスタが気落ちさせてしまったことへの謝罪も含め、話すことにした。

「私に飲酒をやめるよう言ったのは、サイトよ。あいつの知識によれば、身体が成長しきっていないのに飲酒することは良くないということで、執拗にやめるように言ってきたわ」

 サイトが元々いた世界では常識だったこと、それが未成年の飲酒は禁止されていることだったわけだが、ハルケギニア大陸によるこの世界では未成年の飲酒も別段禁止されているわけではなかった。

「その、兄様がおっしゃっていた悪い影響とは?」
「曰く、当時の私くらいの年頃から酒を常飲していたら、遠くない未来に貴女は死よりも苦しい人生を歩むとか、何とか。人を指さして『成長も止まり、ろくなことはありません』なんてことも言っていたわね。その時は教育してやったけど」

 サイトが諫言(かんげん)したこと事態は、彼がハルケギニアには無い知識を有していることから寛容に受け入れることができたルイズであったが、指をさしたのが悪かった。更に言えば、指さした場所が胸元であったのがいけなかった。当時の彼女のコンプレックスであっただけに。
 だが、その日以来、ルイズは飲酒を控えるようになった。すると身体の調子は飲酒していた頃に比べて快調になったうえに(実際にはあまり因果関係はないが)彼女のコンプレックスも解消されるに至ったわけである。

「成る程……そう言われてみれば、私も兄様にはお酒を控えるように注意されたことがあったような」

 ベアトリスの中ではあいまいであったが、サイトはさりげなく彼女にも飲酒は駄目だと言っていたし、彼女もまた無意識に酒は飲まないようにしていた。
 例外はシエスタだけだ。彼女はサイトが注意しても酒癖の悪さは治らず、ルイズにやらかして初めて控えることに成功した。それはそれで、恐るべき胆力であるが。

「本当に堅物(かたぶつ)な奴よ。まあ、あいつ自身は一切酒を口にすることがなかったけどね」

 ルイズでも呆れるほどの堅物、それがサイトである。しかし、だ。

「ただ、かわりに珈琲をやたらに飲んでいたのよね。あれこそ、私でも心配になるくらい飲んでいたのだけど」
「サイトさんの珈琲好きは厨房のほうでも有名でしたよ。何せ珈琲豆を注文していたのはサイトさんだけでしたから。だからこそ余計にでしょうね、マルトーさん(元トリステイン軍学校料理長)も他の方も、サイトさんのあの珈琲の趣向だけは理解できないって口にしていました」

 シエスタがそう言うが、他にも給仕の間でも、サイトの珈琲好きは認知されていた。まったくもって、誰も飲みもしない無糖珈琲なるものを愛飲していたサイトだけは理解できない、ということで。

「私も兄様のあの珈琲だけは、無理でした……一度だけ勧められて飲んだことがありますけど、およそ人間の飲むものじゃなかったです」

 ベアトリスは当時の苦味が自分の舌に(よみがえ)ったような気がして、そく紅茶を飲んだ。

「勇気があるわね、貴女。私も勧められたけど、絶対に飲みはしなかったわ」
「だって……兄様は珈琲を飲んでいる時も相好(そうごう)を崩して楽しそうにしていたじゃないですか。それで、つい……」

 サイトが笑うこと事態が珍しい、と表現してはばかりないベアトリスの言葉だ。もっとも概してサイトが笑うのはルイズと一緒にいる時がほとんどで、ベアトリスが良く見た笑顔は他に恐ろしい珈琲を飲んでいる時だった。
 ベアトリスも昔は背伸びしていたところがあって、サイトと一緒に笑顔を共有することは姉であるルイズと同じことだと錯覚していたのだ。魔が差して、勧められた珈琲を飲んで、後悔したというわけである。

「サイトさんの味覚がわからないでもないんですけどね、あたしの場合。でも珈琲は贅沢(ぜいたく)だって言われてもミルクと砂糖をいっぱい入れて飲みたいです」

 紅茶はそのまま飲むシエスタでも、サイトが飲む珈琲は駄目だった。もちろん、他の者たちだって、どうしてもサイトのいれた珈琲だけは飲もうとしなかった。

「兄様は普段から常識人だと周りから思われていましたし、私も同じ気持ちでした。それだけにたまに垣間見る、変わった『趣向』には驚きでした。珈琲もしかりです」
「珈琲に限らず、サイトさんっていつも黒色のものを好んでいたような」

 シエスタが指摘するまでもない、誰もがサイトのことを思い出すにあの印象的な黎髪(くろかみ)、黎い双眸(そうぼう)、そして黎軍服の出で立ちを思い出す。
 特に一度、彼に見据えられたら絶対に忘れることはない双眸は、どこか悲しみを(たた)えつつも、その奥底に相手を包み込む暖かさがあることをルイズは知っていた。

「そう、ね」

 ルイズはあえてサイトが黎を好んでいたことを知った風でもなく、素っ気ない口調で言った。
 シエスタが言ったことがルイズの胸にサイトとの思い出を去来させたのだ。彼の瞳は一体、何を見つめていたのか。
 それは論ずるまでもない。ルイズのことを見ていたに決まっている。ルイズは今、ここでそう口出すことはないが、仮に「私だけを見ていたのではないかしら?」と自意識過剰に笑みを浮かべて言ってみて、「そうですね」と肯定されることは容易にわかることであった。
 黎はサイトにとってかつての自分を忘れまいとして身につけていたのだろう。ルイズには至極簡単にそれがわかった。彩りを一度は失った彼に、再び与えたのはルイズなのだから。

 そういえば、とルイズは彩りのことでふと意識が過去へと飛んだ。かつて、サイトが好きだと言った自分の髪の色は、サイト自身が大好きだった桜木と同じ色なのだと。大好きな花木を散らせるなどともっての他ですよ、と屈託(くったく)なく笑う彼はルイズにとって、とても輝いて見えたものだった。
 だが今も、それだけではないだろうと思えるルイズこそ、サイトが敬愛してやまなかった主、ルイズ・フランソワーズだ。
 サイトはルイズを守ると誓った。それは、何もルイズだけではない。ルイズと、ルイズを支える人々、ルイズの住む国を守ることまで彼は勝手ながらに誓っていたのだから。そして少なくとも、彼は約束のほとんどを果たしたのだ。

「……一番、大事なことを」

 果たせなかったくせに。無意識にルイズは、口惜しさをにじませた。シエスタとベアトリスは驚いてお互いを見合わせ、またルイズを見た。そこでルイズは二人の視線に気づいた。

「どうかしたの?」
「いえ、どうかしてしまったのはルイズさんのほうじゃ……いきなり、独り言を口にするなんて」
「あ……」

 言われてようやく、ルイズは自分の失態に気づいた。おもいきり、彼女の根っこの部分の心情を吐露(とろ)していたとは、淑女(レィディ)としてあるまじきことだ。

「ごめんなさい、変なことを言ってしまって」
「謝ることなんて。ルイズさんが思慮深い人だってことはあたしもベアトリスさんも知っていることです。それに、ルイズさんが焦りを感じていることも」

 シエスタは笑ってみせた。ベアトリスも同じように笑顔になる。

「ば、馬鹿ね……おだてても何もでないわよ」

 やはり二人には敵わない。ルイズは心の奥でそう思いながらも、あえて反骨(はんこつ)した。ちょっとばかり、心のなかを見透かされたことが恥ずかしかったのだ。
 二人には隠し事は通用しない。それは別に悪いことじゃなくて、ルイズはできるかぎり彼女たちと自分の想いを共有してほしかった。
 もしかしたら少しの足踏みに自分はどこか苛立(いらだ)ちを感じていたのかもしれない。ルイズは自分の弱さを、再確認した。
 焦ることが、何も悪いことではない。しかし、焦っても良い結果が訪れるわけでもない。今できることを、やっていくことが重要である。

 ルイズは外をチラリと見やった。まだ明るい時間帯だ。これから二人と一緒に散歩でもして、気を落ち着かせよう。そしたら何かこの地の名産でも食べてみようと算段を開始した。
 思い巡らすルイズの顔に焦燥(しょうそう)は消え、目の前のことを楽しむだけの余裕がどこかにじみ出てきた。
 シエスタとベアトリスはルイズが普段の姿になったことを喜び、お互いに手を合わせて喜んだ。




あとがき
このお話で、前半は終了と言ったところでしょうか。中篇構成ですから、あまり前作にくらべ長くなることはありませんので……どうか皆さん、最後までルイズさん御一行の旅を暖かく見守ってあげてください。



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