「お母さん?……お母さん」
母の志乃と電話をしていた榊原志恵留(シエル)、ノイズで電話が途切れ途切れに聞こえてくる。
電波が悪い夜見山だが、この日だけはどうも調子が悪かった。
志恵留は何度も「お母さん」と呼ぶが、先ほどからずっとノイズ音しか聞こえない。
志乃は最後に沼田とどこで会った事があるかを言おうとしていた。
「そ……れで、あ……のが―――……」
言葉が聞き取れず志恵留は携帯電話を当てていない左耳を指で押さえて「何て?」と問いかけた。
すると、ガンと言う大きな音がすると電話は切れてしまった。
その音と言うのがどうも、何かが建物などにぶつかったような、そんな音だった。
志恵留は心配になったが、電話を切るとそのままモヤモヤしながらも教室に戻った。
志恵留が母、志乃の死を知ったのは、電話が切れてから三十分後の事だった―――……。
志乃の葬式は大勢の参列者が来てくれた。
父の榊原陽平はもちろん、父の兄の榊原陽介やいとこの榊原恒一などもわざわざ東京から来てくれた。
志恵留の母方の祖父母は志乃の死を知ると泣き崩れていた。
志恵留の学校からは、クラス委員長の牧野優奈や副委員長の増尾省吾と担任の見崎鳴が来てくれた。
牧野は今月の初めに母の由美を焼死で失い、家も全焼してしまって今は親戚の家に住まわせてもらっている。
それなのに牧野は落ち込んでいる志恵留に声をかけて「大丈夫?」や「元気出して」と励ましてくれた。
牧野は自分の方がもっと辛い思いをしているのに、志恵留に励ましの言葉をかけてくれた。
志恵留は申し訳なく思って「はい」としか返せなかった。
隣で見ていた増尾は気まずそうに目を逸らして黙り込んでいた。
志恵留は志乃の棺に近寄ると、手を滑らせるように棺を撫で始めた。
志乃はトラックとの衝突が原因で顔や胴体などが潰れてしまった。
棺の中を見ないようにと陽平から言われていたので棺の中を見ようとは思わなかった。
志恵留はせめてでもの思いで志乃本人を撫でるように棺を撫でていた。
志恵留の後ろでは親戚や志乃の友人たちが涙を流し、ハンカチを片手に「可哀想に」と口々に言っていた。
志恵留にはその言葉は聞こえていて、その言葉が自分に向かっているのに気付くと「私の事か」と思った。
どう可哀想なのかが分からず、ずっと棺を眺めていることしかできなかった。
世間は志恵留の事をどう思うかは志恵留にも分からなかった。
母を失って可哀想な人間か、それとも全く別の人間なのか……。
志恵留が棺をぼんやりと眺めていると「志恵留」と呼ぶ恒一の声が聞こえた。
恒一は黒いスーツを着て気まずそうな表情で志恵留を見ると「大変だったね」と言った。
志恵留は恒一に頷くと今まで堪えてきた感情が溢れだした。
最後に電話をしたあの時に事故で死んでしまって、しかもそれは三年三組の災厄≠セと思うと自分のせいだとせめてしまう。
自分が三組にならなければ志乃は死なずに済んだのかもしれない。
だとしたら、自分は一体どうすればよかったのかと思ってしまう。
志恵留はぼんやりと考えていると、頬に冷たい雫が流れる感触が分かった。
志恵留は自分が泣いているのだと分かると啜りあげて泣いていた。
恒一は志恵留の泣きじゃくる姿を黙って見ていることしかできなかった。
自宅のリビングの大きな窓に大粒の雨が降り注ぐのが見え、志恵留は窓のカーテンを閉めた。
志乃が死んでからもう一週間が過ぎようとしていた。
志恵留は志乃の死のショックから自宅に引きこもるようになってしまった。
学校には行っているのだが、たまに体調が悪いと嘘をついて休んでしまう。
今日だってそうだ、陽平に風邪をひいたと言うと陽平は「そうか」と言って学校を休ませてくれた。
陽平もそんな事は真っ赤な嘘だと分かっていたが、まだ十五歳の少女が突如母を失った悲しさを考えると休ませた方がいいと判断した。
陽平は志乃が死んだと言うのに、仏壇に手を合わせなければ前とは変らない生活を送っている。
志恵留にとって陽平は前々からだが、父親として夫としてどうなのかと思う。
志乃が死んでも悲しまずに過ごしている姿を見ると志恵留は憎たらしく思ってしまう。
実の父なのだが、父親だと思いたくはないと思っていた。
志恵留はリビングのソファに横たわると目の前のテレビを眺めていた。
昼間はこれといって面白い番組はないが、静かなよりはマシだと思った。
志恵留はテレビをつけっぱなしにテーブルに置いていた携帯電話を何気なく開いていた。
新着メールには恒一と陽平のメールが来ていた。
陽平のメールには「明日から学校に行きなさい」という冷たい文で志恵留は即座にメールを削除した。
恒一のメールを見ると「あれから大丈夫だった?」という優しい文章が目に入って来た。
志恵留は恒一に「大丈夫だよ」という送信メールを打った。
この差は何だと考えながらも志恵留は八畳の和室にある仏壇に志乃が好きだったショートケーキを備えると線香を上げて手を合わせた。
手を合わせている途中、志恵留は「お母さん、私もうどうしたらいいの?」と胸の中で問いかけていた。
仏壇から離れると志恵留は昼食にしようとキッチンの冷蔵庫を開いていた。
中には陽平が用意したのか、ラップで包まれていた茄子(ナス)の漬物があった。
志恵留は陽平が自分が茄子が嫌いだという事を分かっていなかった事をガッカリに思った。
冷蔵庫の中を見渡すと、林檎が二個と卵が五つ他には醤油やマヨネーズという調味料しかなかった。
キッチンの棚にはカップ麺が山積みにパンがあるだけだった。
陽平はろくに料理もせねば食材の買い物だってしない。
志恵留はため息をつくと、リビングへと戻って来た。
昼食はどうしようと考えていると家のインターホンが鳴った。
志恵留は「はーい」と言うと玄関に向かって急いで歩いてくるとドアをゆっくり開けた。
玄関の前に立っていたのはクラスメイトの沼田郁夫だった。
沼田は私服で手元には紙袋をぶら下げていた。
志恵留は驚いてドアを勢いよく開けると沼田は微笑んでいた。
「ど、どうしてっ沼田君、学校は?」
「今日は病院に行ってて、今、病院の帰りに寄ったんだ」
志恵留は「ああ、そうか」と納得すると沼田が持っている紙袋に目が止まった。
沼田は突然思い出したように紙袋を両手で抱えると「これ、差し入れ」と志恵留に差し出した。
志恵留は差し出された紙袋と沼田の顔を交互に見ると首を傾げて「え?」と言ってしまった。
沼田は紙袋から二つのパックを取りだすと「肉じゃが」と肉じゃがの入ったパックを見せた。
志恵留はようやく状況を理解すると紙袋とパックを受け取り「ありがとう」と言った。
「大変でしょ?美味しいか分からないけど、夜なべして作ったんだ」
「えっこれって沼田君が作ったの?」
「うん、ウチは母子家庭で母さんも、去年病気で亡くなって今は叔母さんと二人暮らし何だ」
志恵留は沼田から初めてそんな事を聞くと「入って」と自宅に招き入れた。
志恵留は沼田をリビングに招くとキッチンで冷たいお茶を二つのグラスに注いだ。
トレーにグラスを並べてリビングに戻ってくると沼田はテレビの前にあるソファに礼儀正しく座っていた。
志恵留はグラスを沼田の前に置くと自分も沼田と向き合うようにソファに座った。
志恵留は沼田の顔を見ると、すぐに目をそらしてしまった。
「こんなことしてくれなくても良かったのに、私だって料理くらいできるよっ」
「でもさ、ずっと榊原さんが家事してるんでしょ?だったら、たまには手伝ってあげよっかなって……」
「……そ、っか、ありがとう」
志恵留は頬を赤らめながら、周りをキョロキョロと見渡すと「今から一緒に食べよう」と言った。
沼田は志恵留に笑顔で「いいよ」と返した。
志恵留はすぐにキッチンに置いてきた肉じゃがをパックのままレンジで温めると皿に入れた。
肉じゃがからはジャガイモと肉の匂いが湯気と共に香る。
肉じゃが入りの皿をリビングに持ってくるとテーブルに並べた。
皿と一緒に持ってきた箸で肉じゃがを一口食べるとふっくらとしたジャガイモと肉汁が口に広がる。
志恵留は思わず「美味しい」と大きな声で言ってしまった。
志恵留は後から恥ずかしそうに肩をすぼめると、沼田はほのかに笑うと「ありがとう」と言った。
久しぶりに誰かの手料理を食べた志恵留は満足げに食べ終えた皿を流し台に持って行った。
すると沼田はキッチンに入ってきて志恵留に「志乃さんにお線香上げさせて」と言った。
志恵留は「うん」と答えると、リビングの隣にある和室に案内した。
和室の隅に置かれてある仏壇の前の座布団に正座をして線香に火を付ける沼田。
線香を上げると静かに手を合わせていた。
座布団からゆっくりと立ち上がった沼田は「もうそろそろ失礼するよ」と言った。
志恵留は「えっ」と言うと「分かった」と言って沼田が玄関に向かうのを眺めていた。
志恵留は沼田が玄関で靴を穿くと振り返って「じゃあ学校で」と言ってドアを開けて志恵留の自宅を出た。
志恵留は玄関から出て沼田が見えなくなるまで手を振っていた。
沼田が見えなくなると、志恵留は自宅に戻った。
沼田が帰った後のリビングは何だか祭りの後のように静まり返っていた。
ろくに話もせずにただ、一緒に肉じゃがを食べて志乃の仏壇に線香を上げただけなのに志恵留にとってはとても楽しかった。
誰かが家にいてくれる事がこれほど嬉しい事とは思わなかった。
志恵留はパックに残った肉じゃがを皿に入れると仏壇にショートケーキと入れ替えに供えた。
志乃が亡くなったバス停ではまだ、あの事故の時の志乃の血痕の残る場所に花束が供えられていた。
他にも缶コーヒーや志乃が愛用していた茶色の皮のバッグが供えられていた。
ついこの間まで、テレビのワイドショーやニュースで流れていた「夜見南バス停事故」も今となっては、静岡であったバスジャックの方が有名だ。
そのバス停の周りには役所や薬局などが立ち並んでいる。
そんなバス停に花束を持って現れたのは、見崎鳴だった。
教え子の母親が事故で亡くなったと聞いて悲しまずにはいられなかった鳴。
花束を供えると三年三組の災厄≠ノついて手を合わせて心の中で志乃に教えた。
そして最後に「ゴメンなさい」と言うとゆっくりと立ち上がった。
すると後ろから歩いてくる靴の音がした。
鳴は振り返ると、花束を持った榊原恒一と目が合った。
恒一は鳴を見ると目を丸くして「見崎」と呟いた。
鳴は恒一が抱えている花束に視線を落とすと「お供え物?」と聞いた。
恒一は鳴の視線の先にある手元の花束を見ると「うん」と答えた。
恒一は花束を供えると鳴に「君も?」と尋ね、鳴は「そう」と答えた。
「まさか、自分の身内の母親が五月の死者≠ノなるとは……」
「思ってなかった?……まあ、そうよね……たぶん彼女が一番びっくりしただろうね」
彼女と言うのが志恵留だとすぐに恒一は分かった。
あれから志恵留とはメールのやり取りだけの恒一は内心、心配だった。
もしものことを考えると、とても恐ろしかった。
鳴は供えた花束に目をやると「今年の災厄≠ヘいつ終わるんだろうね」と言いだした。
恒一は鳴の言葉にどう声をかければいいのかが分からなかった。
恒一にとっては自分とはほとんど無関係な話である。
誰がもう一人≠ナどうやって見分けるのかを恒一はどう突き止めればいいのかが分からなかった。
鳴は恒一が黙り込んでいるのを見ると、何も言わずに歩きだした。
恒一は黙って鳴が歩いているのを見ると、突然「見崎」と叫んだ。
鳴は何も言わずにピタリと足を止めると振り返らずにいた。
「こんな時にどうかと思うけど、十三年前の約束……」
「約束?」
「東京で美術館巡りしようって……あれ、今度の休みにしよう!ダメかな?」
不安そうに鳴の背中を見つめる恒一。
鳴は黙ってゆっくりと振り返ると恒一の目を見て「いいよ」と呟いた。
恒一は鳴の言葉に安心をして、笑顔で「ありがとう」と言った。