『二〇十一年六月十日』
見崎鳴は五月の終わり頃に恒一から「東京で美術館巡りしよう」と言う約束で、今から榊原恒一の車で東京へ向かうつもりだ。
鳴は人形ギャラリーの三階にある自宅の自室で鏡に向かって自分の着ている洋服を見ていた。
いつもは素っ気無い感じの鳴でも、きちんとした女性なので見た目には気を付けている。
鏡に映っているのは、薄ピンクの小花柄のワンピースだった。
鳴は深く考えるとクローゼットから白い肌が毛糸の隙間から見えるニットカーデガンを着た。
もう一度、鏡を見ると鳴は少し満足げに口元を緩ませるとベッドの上に置いていたバッグを手に取った。
鳴は髪型もシャギーの入ったセミロングヘアーを耳の後ろでハーフアップに結んだ。
鳴は他人とどこか遠くへ行くのはこれが初めての事だ。
鳴は容姿が美しいので男性からもモテるのだが、食事に誘われても断ってしまう。
どこかの物好きなら、そう言う素っ気無いところにもっと惹かれる事もある。
鳴は部屋のドアの上にある時計を見ると、午前9時48分で待ち合わせは午前10時だった。
もう少し時間があるかと思うと、鳴はベッドに腰を下ろした。
静かな鳴の部屋では、窓から小鳥の囀りが聞こえるだけで他には何も聞こえない。
腰を下ろしたベッドには、フカフカとした羽毛布団が座り心地が良かった。
特に何かをしようと言う気のない鳴はチラチラと時計を見ていた。
何度も見るのだが、まだ5分も立たない。
あまりにも時間が長く感じられるので、鳴は立ちあがると部屋を出た。
鳴は三階から地下へと下りると、奥にある鳴に似た人形のある棺へと近寄った。
棺の中には十三年前と変わらない霧果が死産をした娘を思って作った人形。
けれども、霧果は鳴に似せて人形を作った。
霧果は双子の姉妹のミツヨから鳴を養子に引き取って自分の子として育てている。
鳴はその事を知った時は当然ながらショックを受けた。
それから霧果とは何だか他人行儀というのだろうか、敬語を使うようになってしまった。
霧果は鳴の事を心の底から可愛がっているのだが、鳴にしてみれば死産をした我が子の代用品だと思っている。
鳴は自分とそっくりの人形の髪を優しく撫でると左目の眼帯を外した。
十三年前の合宿で義眼が割れてしまい死の色≠ェ見えなくなってしまった。
それでも鳴は新しい義眼を霧果に作ってもらって鳴は少しだけ死の色≠ェまた見えてしまうんじゃないかと怖かった。
今の状況的には死の色≠ェ見える方がもう一人≠見つけやすいのだがこう言う時に限って見えない。
四月に重盛良太と五月に牧野優奈の母の由美の葬式で遺体を見た時も眼帯を外したのだが見えなかった。
鳴はこうやって毎日この人形に念じて、今年の三組に紛れたもう一人≠見分けられるようにしてほしいと願った。
それでもやはり効果はなく、未だにこうやって念じている。
鳴が眼帯を外して念じていると、霧果が鳴の元に寄って来た。
霧果は「鳴?」と言うと鳴は黙って俯いてしまった。
「……どこか行くの?」
「はい、中学時代の友達と……東京まで美術館に」
「そう、友達って三年生の時に紹介してくれた、榊原……」
「あの、もう時間なので……」
鳴はそう言うと霧果を避けるようにして地下から離れた。
霧果は自分から離れていく鳴の後ろ姿を悲しそうに眺めていた。
鳴がギャラリーを出ると、恒一の車はもう前に停まっていた。
予定していた時間より、少し早いが鳴は助手席の窓を軽く二回ノックすると助手席に乗り込んだ。
恒一は鳴のノックする音に驚いて体をビクッとさせると鳴を見てホッとしたような様子だった。
恒一は鳴に向かって「もう出発する?」とエンジンをかけながら言うと鳴は「うん」と小さく答えた。
恒一はハンドルを握ってアクセルを踏むと、車を走らせた。
夜見山にいる間は恒一はずっと強張った表情で運転をしていた。
鳴も三年三組の担任なので六月の死者≠ノなってしまうかもしれない。
道路を走っている途中に信号で前の車が止まると恒一は慌てた様子でブレーキを踏んだ。
鳴は隣でそんな恒一の様子を横目で見ていた。
恒一は運転中ずっと冷や汗をかきっぱなしなので、ズボンのポケットに入っていたハンカチで首筋の汗を拭いた。
鳴は「そんなに緊張して運転しなくても大丈夫だよ」と言うと恒一は「うっ」と唸って肩をすぼめた。
高速道路を走っているとスピードは出るので普通の道路よりも事故の確率は高い。
恒一はハンドルを握りしめていると前にトラックが入りこんできた。
恒一はトラックで前が見えず、少しだけ苛立ったような様子でカーブを曲がった。
少しすると右側に「夜見山」という看板が見えて恒一はホッとため息をついた。
夜見山を出てしまえば死に引き込まれる事はないと聞いていたので夜見山という看板から遠ざかれば一安心である。
恒一は大丈夫だと思うと邪魔なトラックを追い越して前へ前へと入りこんで行った。
「榊原君って運転すると人が変わるタイプ?」
「そ、そうかも……誰か車に乗せるとよく言われる……」
「だろうね、さっきとは全然運転の仕方が違うし……」
恒一は「そうかな」と照れくさそうにうなじを右手で摩ると、どんどん前へと車を追い越して行った。
鳴は車内を見渡すと足元にCDボックスがあるのを見つけた。
鳴はCDボックスを膝に乗っけると恒一に「中、見ていい?」と問いかけてみた。
恒一は横目で鳴の膝の上のCDボックスを見ると「勝手に好きなのかけていいよ」と言った。
鳴はCDボックスを開けると中には有名な歌手やバンドのCDが何枚か入っていた。
鳴は何枚か手に取ると、いきものかがりのアルバムCDを見つけてケースを開いた。
CDをかけると「SAKURA」が流れ始めた。
恒一は運転をしながら「好きなの?」と言って見た。
鳴は少し黙って恒一の方を見て「うん、好き」と言った。
恒一は自分が好きだと言われている訳じゃないのに何だが照れて頬を赤らめてしまった。
それから鳴は静かに曲を聴いていた。
恒一も邪魔をしないようにと、黙って運転に集中していた。
高速を下りてよくやく東京に入ると夜見山とは違った都会の雰囲気が漂う感じがした。
人も多くて車の数も夜見山の何倍もあり、すぐに渋滞してしまいそうなほどだった。
街に入るとCDは曲が全て終わって、鳴はCDをケースに戻すとCDボックスに入れて足元に置いた。
恒一はハンドルを切ると「ほら、あそこが美術館」と運転をしながら右手で大きなビルのような建物を指差した。
鳴も前へ乗り出して恒一の指差す先を見ると少しだけ胸が高鳴った。
夜見山では見ないようなビルで、あそこに美術品が置かれてあると思うと嬉しかった。
恒一は美術館の駐車場に車を停めると、シートベルトを取って車から降りた。
鳴も同じように車から降りると大きな美術館を見上げた。
そして恒一と共に美術館に入ると、館内には壁に無数の有名な絵画が飾られていた。
「モナ=リザ」や「ムンクの叫び」という有名な絵画には鳴はくぎ付けになった。
恒一も鳴と同じように観ていると、鳴に話しかけようとしても何だか違う世界にいるようで話しかけづらい。
それでも喜んでくれているようで恒一は嬉しかった。
「ムンクの叫びって望月君が見たら喜びそうだよね……」
「えっ……ああ、そうだね、本人も「好き」って言ってたしね」
そう話しあっていると、もう何枚もの絵画を観ていた。
一階から二階へ三階へと館内を観ていると、鳴と恒一が一番魅せられたのがピカソの「ゲルニカ」だった。
第二次世界大戦のゲルニカを思って描いた絵はとても神秘的だった。
我が子を失って悲しみ母親や戦争で命を落とした兵士などが描かれている。
本当のゲルニカもこんな風に悲惨な物だったと思い知らされるような絵だった。
恒一は言葉を失うと鳴は絵を眺めながら恒一に向かって呟いた。
「ピカソの絵ってね、単純そうで単純じゃないんだよね」
「うん、僕も小学生の頃は誰でも描けるような絵だと思ってたけど、実際にはどんな絵よりも難しい……」
「だから、ピカソは有名なの……」
二人はそう話すとそれっきり、何も言わずに「ゲルニカ」と眺めていた。
たった五分ほどしか観ていないのに、もう何日もここで「ゲルニカ」を眺めているように思えた。
絵の中に引き込まれそうになりながらも、ずっと観ていられる。
二人が美術館を出る頃にはもうお昼を過ぎている頃だった。
美術館にいる間は感じなかったのだが、二人とも腹がすいたと思った。
恒一はどこかで食べて行こうと提案すると鳴もそれにのってくれた。
「どうする?この近くの美味しいそば屋とか魚料理店なら知ってるけど」
「そうね、じゃあ、おそば屋さんにする?丁度食べたかったし」
「うん、じゃあ行こうか」
駐車場に止めていた車に乗り込むと、恒一は美術館から少し離れた場所にあるそば屋に向かって走らせた。
そば屋は美味いと評判の店でしかも丁度お昼なので店は客でいっぱいだった。
恒一は「ちょっと時間かかるかも」とため息をついて言うと「別にいいよ」と鳴は返した。
店内で順番を待っていると、店員が忙しそうに少し早口で「どうぞ」と席まで案内してくれた。
席に座ると、二人は同じメニューを頼んだ。
料理が届くまで二人は何となく会話をしていた。
木製の黒いテーブルの隅にはエコを気にしているのか、使い回しの箸があった。
料理が届くと二人は箸を取って麺つゆにそばをつけてそばをすすった。
そばは評判通りの美味しさで、鳴も気にいったようにそばをすすった。
「そういや、鳴は何で美術教師になろうって思ったの?」
「何となく、絵を描くのは好きだし、誰かの絵を見たり教えたりしたかったからかな……」
「ふぅん、そっか」
そばをすすりながら会話を続ける二人はそばを食べ終えると少しの間席に座ったままでいた。
恒一は満足げに笑顔でズボンのポケットから財布を取り出すと鳴もバッグから財布を取り出した。
恒一は鳴が財布を取り出して慌てて「見崎はいいよ」と言った。
鳴はきょとんと首をかしげて「どうして?」と言った。
恒一は「自分の奢り」と言うと椅子から立ち上がってレジへと向かった。
鳴はゆっくり椅子から立ち上がると、レジで煙たそうな顔で財布からお金を出す恒一の姿を見ていた。
鳴は「無理しなくていいのに」と心の中で恒一に呟いていた。
そば屋を出ると二人は車に乗り込んでエンジンをかけずにいた。
「これからどうする?」
「そうね、このまま帰ってもあれだし、もうちょっとブラブラする?」
「うん、分かった」
恒一がエンジンをかけようとすると鳴はワンピースの裾を握りしめた。
恒一はそれに気づいてエンジンをかけようとする右手をピタッと止めた。
鳴は何も言わずにただずっとワンピースの裾を握りしめていた。
それが何を意味しているのかは分からないが、恒一はエンジンをかけられない。
「どうしたの?」
「……何かね、今さらだけど、実際言うとちょっと怖いんだ……今年の災厄≠ナ死ぬって思うと……」
「……」
「だからね、もうちょっとブラブラしたいって言うか……あんまり夜見山に帰りたくない……」
鳴が弱音を吐く姿を初めて見た恒一は何もかけてやる言葉がなかった。
ただ、鳴は鳴で死ぬのが怖いのだと分かった。
恒一はエンジンをかける手をゆっくり下ろすと黙ってそのまま車の中にいた。
恒一は何を言ったらいいのか分からず、鳴の怯えたような横顔を見てこう切り出した。
「今日は僕の家に泊まっていいよ、明日もどうせ休みでしょ?」
恒一がそう言うと鳴は思いっきり息を吸い込んで深く頷いた。
鳴は本当は誰か、信頼できる人と一緒にいたかったのかもしれない。
誰か自分の気持ちを理解してくれるような人と一緒にいたいと思っていた。
それから窓ガラスにポツリと大粒の雨が降って来た。
そして次第に雨が強くなり始めた。
鳴はきっと、私の事を毛嫌いしているんだと思うんです。
本当の両親に会わせてやれなくて、自分が養子だと言う事を自分の口から言わなかったから……。
私と双子の姉妹のミツヨは二卵性の双子で、顔はあんまり似ていなかったんです。
何て言うか、普通にちょっと年の離れた兄弟みたいな感じの見た目で……。
どちらかと言うとミツヨの方が、私よりも可愛くて男の子からも人気でした。
頭も良くて、優しくて天使見たいな子で、周りにはいつも人がいました。
それに引きかえ、私は見た目もさえないし、ミツヨに比べたら頭も良くないんです。
私の両親は、比較しないようにと同じような環境で同じように育ててくれました。
でも……それって結局は私が「ダメな方」だからだったのかもしれません。
私は、はっきり言うとミツヨの事をあんまり好いてなかったんです……。
いや、嫌いとかじゃないんですよ!何て言うか、嫉妬?みたいな感じだったんです。
大人になってから、私とミツヨは同じような時に結婚をしたんです。
それから、しばらくすると、ミツヨの方にまず子供が生まれたんです。
ほら、双子の人は双子を産む事があるって言う都市伝説的な事があるじゃないですかっ。
ミツヨはそれの通りに双子の女の子を産んだんです。
私は、夫に進められるがままにミツヨが入院している病院にお見舞いに行ったんです。
その時に生まれた双子を見せてもらったんです。
どっちも本当に可愛くて、ミツヨに似ている顔立ちが特徴的でした。
それでミツヨは笑顔で「片方をミサキって名前にしようと思ってるの」と言いだしたんです。
私の夫の名前は見崎って言うんですけど、多分、そこから取ったんだと思います。
それで、もう片方を「鳴」って名付けたんです。
何か、本当に幸せな家族って感じで……私も子供を産めばいいんじゃないかと思ったんです。
一足遅れて私は妊娠をしました。
その時は夫もミツヨも喜んでくれたんです……。
でも……私から生まれた子は、もうすでに死んじゃってて……。
それが原因で私は子供が産めない体になったんです。
本当に悲しかったんです、何か……そう、自分が生きている感覚がないって感じで……。
私が病院で入院をしている時に、ミツヨ夫婦がお見舞いに来てくれたんです。
それで、ミツヨはこんな事を言い出しだんです。
「ユキヨ(霧果)……うちの子供、一人養子にしてくれない?」
私は「はぁ?」と言いました。
ミツヨの家は経済的に不安定で、子供を二人も育てられないとミツヨは言ってました。
それで、ミサキ・ミサキってならないように「未咲」という子じゃなくて「鳴」に養子に来てもらいました。
鳴は多分、その時の事はもう憶えていないと思います。
鳴を全力で、私の愛情全てを鳴にあげたんです。
それでも……やっぱり、死産をしてしまったあの子と重ねてしまうんですよね……。
鳴には失礼かもしれませんが、本当、実を言うとあの子として育てたのかもしれません。
鳴が四歳の時、鳴は左目に腫瘍を患って、手術を受けたんです。
その時、医者から「一度死にかけた」と言われて、血の気が引きました……。
でも、生きているならいいと思って、なくなった左目の代わりに義眼を作ってあげました。
鳴が小学五年生になると、私の母がつい口を滑らせて、鳴が養子だと言ったんです。
鳴に「本当なの?」と聞かれた時は、もう終わったなと思いました……。
それからでしょうか?鳴が他人行儀と言うか、私に対して敬語を使うようになったのは……。
実際、鳴がどこかへ行ってしまうと思うと悲しくて人形を作っている間も泣きそうなんです。
鳴が小学生の頃、一度だけ、泣いた事があるんです。
誰もいない密室の部屋で……失った我が子と、鳴に辛い思いをさせたと思って……泣いたんです。
それでも、もう死んだ子の事は忘れようと思っています。
確か、十三年前でしたっけ?……藤岡未咲ちゃんが亡くなったのは……。
たぶん、鳴は未咲ちゃんと会ってたんだと思うんです。
それでも、ちょっとくらいなら……と思って黙ってたんです。
でも、ミツヨと旦那さんには会わせられませんでした。
何か、ミツヨに哀れに思われるような、鳴を取られてしまう気がしたんです。
未咲ちゃんが亡くなって、数日がたった頃でした。
ミツヨが私に「鳴を返してほしい」と言われたんです。
私は恐ろしかったですね……私は私なりに頑張って来たんです。
それを、ミツヨに奪われてしまうのは嫌で……断りました。
鳴にしてみれば、ミツヨとのほうがいいかもしれませんが、私は絶対に嫌です……。
未咲ちゃんが亡くなって、今度は鳴のクラスの担任の先生だと言う久保寺って人が来ました。
久保寺先生は「見崎さんは元気ですか?」と聞いてきました。
私は「はい」と言いましたよ?
あの子……学校の事は言わないから、先生の事は全然知らなかったんです。
久保寺先生も、その後くらいに自殺したとか聞いて……。
今でもそうです、鳴が担任を務めてるクラスで生徒や親が次々死んじゃって……。
気持ち悪いですよね?そう思いませんか?
私は今からミツヨに会うつもりです。
ミツヨは未だに「鳴を返せ」って言ってくるんです……。
その話し合いで会うんですけど、私は絶対に、何を言われようと鳴を渡しません。
絶対に……鳴を手放しません……。