東京の榊原恒一の自宅アパートにつく頃には、雨は強くなり風も吹き始めている。
見崎鳴は恒一の自宅の八畳の和室に招かれた。
鳴は少し周りを見渡すと、部屋の中央にあるちゃぶ台の前に座った。
恒一はキッチンの方から紅茶を用意していた。
その頃、鳴は座ったまま窓の外を気にしていた。
横殴りに降る雨がどうも嫌な予感を企てる気がしていた。
恒一は紅茶を持ってくると、テレビを付けて夕方のニュースを見た。
ニュースには「大雨・台風」と警報が出されていた。
二人は黙ったままニュースをジッと見ていると、恒一のズボンのポケットの携帯電話が鳴った。
恒一は和室から出ると、携帯電話の通話ボタンを押して「もしもし」と言った。
電話の相手は、中学の友人で夜見山に滞在している勅使河原直哉だった。
「おっ榊原?こっちヤベェんだよっ」
「ヤバイって?」
「台風だよ!もう、道路は通行止めだし、俺今……会社にいるんだけど……よ」
台風と電波の悪いせいか、次第にノイズが流れ始めた電話。
恒一はこの後、大変な事になってしまうと冷や汗をかきながら勅使河原の話を聞いていた。
「実は……さっき、会社……え、の木が、倒れ……」
恒一は眉間にしわを寄せて「何?」と言うと電話が切れてしまった。
勅使河原との電話の途中、誰かの悲鳴や風や何かが揺れる音がしていた。
恒一はすぐに和室に戻ると、ちゃぶ台の前に座っている鳴に勅使河原との電話を報告した。
鳴は特に動揺もせずに「そう」と言うとスッと立ちあがって窓のそばに立った。
窓ガラスに反射して、鳴の唇を噛みしめる表情が恒一に見えた。
窓が風で激しく揺れてガタガタといつ割れてしまうか分からない状態だった。
恒一は鳴に「窓われるかもしれないよ」と鳴に近寄って言った。
鳴は振り向く事も言葉を発する事もなく、ただコクッと頷いただけだった。
恒一は右手を強く握りしめると俯いて唇を噛みしめた。
鳴はまだ窓の外を見つめながら、揺れる窓に手をついて。
「今日はもう帰れないね……」
「えっあ、うん、そうだね……」
「向こうの皆……大丈夫かな……」
鳴は特に恒一に顔を見せた訳でもないのに、恒一には鳴が泣きそうな表情をしているように見えた。
鳴はしばらく窓から外を眺めると、静かにカーテンを閉めて恒一のほうに振り返った。
「榊原君、迷惑かけてゴメン」
「え……いいよ、そうだ!もう、夕食にしようっごちそう作ってあげるから!」
恒一は鳴の悲しさをかき消すかのようにパッと笑ってキッチンに向かった。
鳴にはそれが自分のために無理をしているのだと分かっていた。
それでも自分には何もできないと思うと恒一に向かって「ありがとう」と呟いた。
恒一にはその言葉が聞こえていたが「んん?」と聞こえないふりをした。
鳴は恒一に対して「何でもない」と横に首を振った。
恒一は冷蔵庫から食材を取りだすと、早速調理をし始めた。
鳴は料理がほとんど出来ないので、邪魔にならないようにと和室で静かに待っていた。
恒一は手際よく、調理をしていると「見崎は大丈夫かな」と和室の方が気になってしまう。
それでも手を止めることなく、調理を終えると久々に二つの皿に手作りのカレーを入れた。
カレーを和室に持って行くと鳴は「美味しそうだね」と微かに呟いてくれた。
鳴はスプーンでカレーを掬うと口に運んで美味しそうに口を緩ませた。
恒一はその姿が何だか嬉しくて頬を赤らめて食べていたカレーを喉に詰まらせて噎せた。
そんな恒一を見て鳴は「大丈夫?」と言うと恒一はまだ噎せながら「だ、大丈夫」と言った。
鳴はこんな風に食事をする事があまりなかったので心の底では本当に嬉しかった。
このまま平和な日常≠ェ続けばいいと、思っていた。
夜見山の望月優矢と腹違いの姉の知美が働く、小さな喫茶店で霧果(本名:ユキヨ)は双子の姉妹のミツヨ夫婦を待っていた。
待ち合わせから、もう二十分も立つと言うのに一向に二人は来ない。
鳴を返してほしいと言うミツヨ夫婦との話し合いだと言うのに腹が立つ霧果。
コーヒーを三杯ほど飲んでしまっていた苛立ちながらテーブルの脇にあるメニュー表を見ていた。
テーブルの下では霧果が貧乏揺すりをして、床がガタガタと揺れていた。
カウンターでは知美と望月がヒソヒソと霧果を横目で見ながら話していた。
「あれって中学の同級生だった見崎さんのお母さんだ」
「へぇ、ずっと店にいるけど……こんな台風の日に何しに来たんだろう?」
「誰かと待ち合わせかな?ずっと時計を気にしてるし……」
望月が食器を洗っていると霧果が突然テーブルをバンと叩くと椅子から立ち上がった。
望月と知美はビクッと身震いをすると歩いてくる霧果と目を合わせないように俯いた。
霧果は「もう帰ります」と言ってカウンターにコーヒー代を置くと、とっとと店を出てしまった。
店に残った望月と知美はホッとしたのかため息をつくと知美はコーヒー代を手に取った。
霧果が帰ると、誰も他に客がいないので知美は「もう閉めようか」と言うと望月は「はい」と言った。
横殴りの雨の中をヅカヅカと怒ったように歩いて行く霧果。
傘を差すと壊れてしまうので、手元にあるビニール傘を右手で持つと走って帰った。
人形ギャラリーにつくと霧果の伯母の天根がカウンターに座っていた。
霧果は天根を見るとため息をついて階段の方へと歩いた。
その時、天根は「ミツヨとの話し合いは終わったのかい?」と正面を向いたまま言った。
霧果は足を止めると面倒臭そうに「ミツヨに約束すっぽかされた」と頭をかいて言った。
天根は顔を少し俯かせると「そうかい」と言うとそれ以上は何も言わなかった。
霧果も天根が黙ったと思うと再び歩き始めた。
そして三階の自室に入るとドアを思いっきりバンと閉めて部屋の中央にあるテーブルの椅子にため息をついて座った。
そしてテーブルに肘をついて髪をかきあげると、部屋の壁際にある棚の写真立てを見た。
そこには鳴の小学校の入学式に撮った霧果と鳴と夫の見崎コウタロウが笑顔で写っていた。
その頃は本当に幸せだったのに今となっては家族が全然繋がっていない。
コウタロウも今頃はドイツで仕事をしているだろう。
鳴も十三年前に自宅に連れてきた恒一と一緒に出掛けていると思った。
何だか一人だけ取り残されたような、孤独と疎外感で押しつぶされそうになった。
霧果は自分の携帯電話の電話帳を見ると鳴の携帯電話にかけようとしたが変えてミツヨにした。
ミツヨの携帯電話に電話をかけると留守番電話となった。
そして「メッセージをどうぞ」と言われるとため息をついた。
「ミツヨ!?アンタ何やってんの!ずっと待ってたのにっもういい!私、もう自分の家に帰ってるからっじゃあね」
そう言い終えると、乱暴に携帯電話を閉じてテーブルに投げ捨てるように置いた。
しばらく頭を抱えると、椅子から立ち上がり部屋の隅にある人形の手足の部品を見た。
他人が見れば気味悪がるが、霧果にとっては自分の作る人形が何よりの心の癒しだった。
この日はこれを見るとどうしても泣かないといられなかった。
すすりあげて泣きだす霧果はその場に蹲って声を上げて泣きだした。
死産をした自分の子よりも今は鳴の事で泣いてしまう。
鳴がいなくなってしまったら、自分はどうなってしまうのだろうと考えるだけでもおぞましい。
ミツヨは確かに鳴を産んだ母親だが、ミツヨは鳴の育ての親ではない。
鳴をここまで……二歳からずっと苦労をして育ててきたのは霧果、自分だと主張したかった。
「鳴……どこにも行かないで、鳴……」
霧果と待ち合わせの夜見山の喫茶店に夫の車で向かうミツヨ。
家を出る直前、ミツヨは自分の子の未咲の仏壇の前で手を合わせていた。
鳴を産んだのは自分だと、自分が本当の母親≠セと霧果に言ってやろうと決心をした。
自分達には金がなくて鳴を養子に出したのに、残った実の子の未咲が死んで霧果が妬ましく思えてきた。
自分が霧果のために、鳴を手放したのになぜ産んだ自分がこんな思いをするのかと思った。
ミツヨは十三年前、未咲が死んでから泣いてばかりだった。
夫からは「泣いても未咲は帰ってこない」と怒鳴られたが泣きやまなかった。
未咲は帰ってこないが、顔の良く似た実の子の鳴なら帰ってくると思ったのはミツヨ本人だった。
十三年間、ずっとあの人形ギャラリーに訪問して霧果にお願いするのだが許してくれない。
「鳴をここまで育ててきたのは私よ!私こそが鳴の母親よ!」
と言われて閉めだされてしまう始末だった。
霧果には内緒だが、ミツヨは何度か人形ギャラリーに入って行く鳴の姿を見ていた。
死んだ未咲に似ていて未咲がいるのだと思ったことだってあるくらいだった。
ミツヨは仏壇から離れると夫に「早くしろ」と怒鳴られた。
ミツヨは夫に向かって「はぁーい」と言うと玄関に向かった。
玄関で自分の靴を穿くと夫の藤岡と急いで自宅前の駐車場にある車に乗り込んだ。
車で山の道路を走っている途中、急に雨が降り始めた。
ミツヨは助手席の窓から外を眺めていると、雨が降り始めて次第に強くなっていくことが分かった。
ミツヨは運転席の藤岡に心配そうに左腕のシャツの裾を引っ張った。
「ねぇ、何か危なくない?山崩れでもしそう……」
「んん?大丈夫だろう、すぐに止むさ」
藤岡は大丈夫だと言ったがミツヨは不穏な空気が流れ、気味が悪くなった。
雨はどんどん強くなり、風まで吹き始めて雨は横殴りになった。
ミツヨは本当に嫌な予感がして藤岡の腕にしがみついた。
「ねぇ、本当に危ないって!今日はもうやめよう!」
「今さら何言ってんだよ!無理だって!」
「で、でも……本当っやめたほうがいいよ!」
しがみつくミツヨを振り払うと藤岡は思いっきりスピードを出した。
ミツヨはハラハラしながらじっとしていられずに窓の外をキョロキョロ見ていた。
すると山の方から何かが崩れてくる音がした。
ミツヨは恐る恐る山の方を見ると山が崩れて土砂が流れてくるのが見えた。
ミツヨは「きゃあ」と叫ぶとそれに気づいた藤岡がハンドルを切った。
すると切ったハンドルが丁度カーブのところで、車がカードレールを突き破って車は崖を真っ逆さまに落ちた。
それから数時間後、崖の下から大破した車と二人の男女の遺体が見つかった。
霧果がその事を知ったのは翌日の事だった―――……。