わたくしは外側に目を遣ることをいたしません。
表通りを大柄にとつとつと歩く凡俗なもの共を忌諱いたします。
とるにたらぬ声をはつし、とるにたらぬ話をもつて、時にわたくしが目を覆つてしまうほどの大口を開いて、なんとも下品に笑うのです。もしなにか、そう例
えて申しますと控えめに声を嗄らすだけの小鳩でも外側におりまして、その声に誘われてかついうつかり外側のそのもの共に目を遣るなどしてしまいました場
合、わたくしは誰に強要されるわけでもなしに、さる薬ものを1錠だけ手に取りあなた様の御前で飲み込んでいたしませう。そしてわたくしは喀血するのでござ
います。
わたくしは凡俗を忌諱いたします。
寝る前のかちこちかちこちと音を立てる時計はとても煩わしい音を立てる。随分と高性能で、私は眠ることができない。
起きる時のじりりじりりと音を立てる時計は深いまどろみの向こうから聞こえてくる。随分と高性能で、私は起きることができない。
ただ今は午前5時30分。耳元、枕元に置かれた時計は明確に現在時刻を囁いてくれるのだが、むしろそれはやめて頂きたいものだ。時針分針が目に入り、回
らぬ頭が横着な計算を始める。出発は一時間後、歯磨き洗顔に10分、化粧に12分、髪に20分、朝食の用意に10分食べるのに7分。朝食をカットすると浮
いた時間は17分で、着ていく洋服は用意してあるから15分以上眠れるのでおやすみなさ
「起きろラピスー、約束の五時半だぞー」
「おはようアキト! 今日も良い朝だね」
もちろん上述した時間計算は頭がまるっきり起きている場合の計算だ。半分寝ている人間にこの時間を守れとおっしゃるのは酷というもの。ラピスは飛び起き
る。眠りの内の住人たる彼女がなぜ飛び起きたかと問うのであれば、ただアキトの声が聞こえたからだった。
外はそこそこに明るい。起きたばかりのラピスにとってカーテンの外の明るさは害悪であり、細い筋を伝って脳に繋がる眼球の奥が痛い痛いと泣き出すので、
彼女は目蓋をささと下ろす。けれどもぐるりと動き回る眼球の奥は何者かの何かによって潰されたかのように泣き止まないので、彼女はその痛む目を、彼女の頭
ごとアキトの胸に押し付ける。遮光する。痛みがやむ。
ラピスは安堵する。
「時間、早すぎたかな」
アキトは胸元で四方に跳ねる桃色の髪を撫で付けた。つい、ついと丁寧に手を動かす。けれどもその髪は今日も彼の言うことを聞いてくれず、手を離す度に
ひょいと跳ねてどこかへ向いてしまう。アキトは少しだけ、寂しそうに苦笑を洩らす。ああ、カーテンを閉めなくては。
胸元で動きをとめた少女に向けて、体を少し揺らして抗議する。目が慣れるまで待つのも悪くはないけれど、今朝はあまり時間がないはずだろ?
左右に首を控えめに振る微細な動き。密着しているアキトだから解る、首の揺れと髪のゆらぎ。彼と彼女は音声を介さずに一瞬で膨大な量の言葉を交換出来る
はずなのだけれど、お互いに小さな仕草のコミュニケーションが存外に気に入っている。
アキトはラピスをそのままに、窓際まで歩いてカーテンをしめた。
ラピスはアキトから力ずくで離されぬように、必死に両の指に力を籠めてずりずりと引き摺られた。
外はそこそこに明るい。柄にもなくやけに早起きしてしまったアキトはその明るさに痛みを感じることはないが、この彼の記憶そのままを踏襲する空に雄大さ
を感じてしまう。そういえば忘れもしないあの日の時も、今日のようなからりとした晴天だった。
アキトは安堵する。
ただ今は西暦2196年10月1日午前5時30分。ラピス・ラズリ専用のパイプベッドの耳元、枕元に置かれた時計は刻銘に現在時刻を囁いてくれる。
ベージュのジャケットに黒のスラックスを着て、つばの狭いハットを被る。二人の中に漠然としたイメージとして存在する好々爺を真似て、アキトはバイザー
を外した。見えない。
ラピスはバイザーをポケットに仕舞ったアキトの手を握ると、逆の手に白い杖を持たせる。
視覚障害を持ち、人当たりが良さそうで虫も殺せぬ好青年と、健気に青年の誘導役に勤める愛らしい少女の二人組みは何食わぬ顔で街に繰り出して行く。徒歩
何分かの場所に、現代のテンカワ・アキト青年が働く、そして今日追い出される食堂がある。
written by R2
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