【Side:太老】
正木商会シトレイユ支部の敷地の地下には、百人くらいは楽に入れそうなほど大きな大浴場がある。
以前、ここに大商会があった時代からある物で、当時の商会の代表が自分のためだけに作らせた物らしい。
何とも勿体無い話だ。これだけ広いのだから、職員全員が利用したところで、全然余裕があるだろう。
金持ちというのは、没落したハヴォニワの公爵もそうだったが、権力や金の使いどころを間違えている連中が多い。
そうしたこともあって、現在はラシャラの案で、商会で働く職員一同、無料でここを利用できるようになっていた。
近所に住む人達も、決まった時間であれば、入浴料を支払うことで、この大浴場を好きに利用することが出来る。
料金自体も一般的な大衆浴場と比べても格安なので、結構な盛況で賑わっているという。
その費用を、ちゃっかりと商会の設備費に当てている辺り、ラシャラは確り者のようだ。
「ふう……ようやく一息入れられる」
その湯船に一人、俺は浸かっていた。
大勢で風呂に入るのも楽しいものだが、たまにはこうして、大きな風呂を独り占めするのも悪くない。
思わず泳ぎたくなるほど、ゆったりと足を伸ばしていた。
結局、送別会が終わったのは夜も更け、時計の針が日付が変わったことを知らせた頃のことだった。
最初は千人ほどと思っていた握手を求める列が、気付けば二千人、三千人と増え、延々と増え続ける希望者の数に、最後にはマリアとラシャラのストップが掛かるほどの事態になっていた。
まさに気分は、客寄せパンダ。あんなにも大変な思いをしたのは、これが初めてのことだ。
理由はどうあれ、売れっ子アイドルの大変さを、今になって体験することになろうとは考えもしなかった。
「これで、シトレイユも見納めか」
昼過ぎには、乗ってきた船でハヴォニワに帰国することになっていた。
色々と慌しい出張だったので、余り観光らしいことは出来なかったが、アクシデントには事欠かなかったので、退屈はしなかった。
それに、マリアの黒ぬこばかりか、ラシャラの白ぬこまで拝めたのは、シトレイユにきて一番の収穫だったと言ってもいいだろう。
ダグマイアのことや、シトレイユ皇のこと、それに最後の握手会など、大変なことは多々あったが、それなりに楽しい出張だった。
まだ、シトレイユ皇の問題が解決していないので、ハヴォニワに帰ったからといって安心など出来ないのだが、こうしてラシャラ達が気を利かせて風呂を貸しきりにしてくれたのだ。
今は、その厚意に甘えて、のんびりしようと思う。
――ガラッ
「……へ?」
「太老様、お背中を流しにきました」
脱衣所に通じる引き戸を開ける音がして、思わず間抜けな声を上げて振り返ってしまう。
そこにはタオル一枚で前を隠しただけの、全裸のエメラが立っていた。
俺は慌てて湯に体を隠し、エメラから逃げるように距離を取って遠ざかる。
「あの……太老様?」
「いや、大丈夫! 自分で洗えるから!」
美少女に背中を流してもらえるのが嬉しくない訳じゃない。
しかし、こんな状況をマリア達に見られたら、と思うと気が気ではなかった。
今までのことから、大抵こう言う時は、間の悪いことが起こる、というのは経験則で分かっていたからだ。
「……やはり、私ではご満足頂けない、ということでしょうか?」
「いや、満足頂けないも何も、俺達ってそういう関係じゃないでしょ!?」
俺が拒否したことで、泣き出しそうになるエメラを宥めながらも、そこだけはきちんと否定する。
だが、このまま拒否して追い返すような真似をすれば、エメラは本当に泣き出してしまいそうな雰囲気だった。
――本当にどうすれば?
煩悩と理性との狭間に揺れ、頭を悩ませていた時だった。
また、ガラガラ、と引き戸を開ける音がして、今度は複数の女性の声が浴場に響き渡る。
「お兄様、お背中をお流ししますわ」
「太老、疲れておるであろう? 我が背中を流してやるぞ」
「太老様、お風呂の湯加減は如何ですか?」
「太老、頭を洗うのなら私に任せて」
「やっぱり、ここの風呂は大きくていいよな――って、太老なんでアンタがここに!?」
マリア、ラシャラ、マリエル、ユキネ、そしてランの順番で次々に浴場に入ってきた。
勿論、水着など野暮な物は身に着けていない。一糸纏わぬ姿で、だ。
この中で、ランの反応が一番まともだったことが、ある意味で新鮮だった。
【Side out】
異世界の伝道師 第95話『混浴』
作者 193
【Side:エメラ】
太老様から、ダグマイア様のことを今一度よく考えるように、と忠告を受け、私は今日一日そのことばかりを考えていた。
これまでのことを振り返り、色々と思い悩んだが、結局、明確な答えを一つも出すことが出来なかった。
太老様が帰国されるのは明日。それまでに、何らかの答えを出して、返答をしたいと考えていたのだが、それも叶いそうにない。
――だから、少し大胆な行動を取った
今、自分が何をしたいのか、何を考えているのか、を今一度見詰め直したかった。
太老様に会えば、ずっと靄がかかって出せずにいる答えに、一つの結論が導き出せそうな気がしたからだ。
ダグマイア様のことが大切だという想いに、今も嘘はない。あの方への忠誠心を忘れてなどいない。
あの方のしたいこと、思い描いている理想のためであれば、私はどんなことでも協力し、その糧になるつもりでいた。
この想いが受け入れられずとも、ダグマイア様のお役に立てることが、私の至上の喜びであり、ダグマイア様のためになるのだと本気で考えていたからだ。
しかし、太老様は、そんな私の心を見透かすかのように、その考えを正面から否定された。
今となっては、何が正しいのかが私には分からない。太老様の言葉にも、真実があるように思えてならなかったからだ。
「御主にしては大胆な行動を取ったの。まさか、マリアではなく御主に出し抜かれるとは思ってもせなんだぞ」
「……ラシャラ様」
湯船に浸かり、私にそう笑いながら語りかけてくるラシャラ様。
言葉とは裏腹に、怒っている様子は見受けられない。
太老様のことを話されている時のラシャラ様は、本当に穏やかな表情をされていた。
「ダグマイアのこと、いや、太老のことで思い悩んでおるのか?」
「……正直に申し上げれば、両方です」
こうしてラシャラ様と直接話をする機会など、今までになかったことだ。
ダグマイア様の言っておられたように、父親の権力を嵩にきた我が侭娘=Aとは程遠い印象を受ける御方だった。
私が抱いた印象は、ダグマイア様の仰るものとは随分と違う。十一とは思えぬほどに聡明な方だという印象を、私はラシャラ様に抱いていた。
幼いながらも、確りとした自分の意志を持ち、自らの運命を切り拓いていけるだけの知略と度量を兼ね備えている。
シトレイユ皇が、明主と呼ばれるほど賢明な方だったので、どうしても歳若いラシャラ様は比べられてしまうが、父親に負けないほどの才覚を持ち合わせた将来有望な方だ、と私は感じていた。
この方なら、立派に皇の責務を果たし、シトレイユを良い国に導いてくださることだろう。
ダグマイア様が心配されているようなことには決してならない。それだけは、断言できた。
「太老様に、ダグマイア様を甘やかすのは止めた方がいい、と忠告されました」
「フフ、甘やかすな、か。なるほど、実に太老らしい忠告じゃな」
太老様の話を、自分のことのように楽しそうに話されるラシャラ様。
太老様なら、そう言うだろう、ということが分かっておられたのだろう。満足気な様子で頷いておられる。
「心配せずとも、そう重い罪には問われぬじゃろう。被害者の御主や、太老が何も言うておらぬのじゃからな」
「あの決闘騒ぎの方は……」
「何もなし、じゃ。太老はアレを、ただの指導じゃと言うておったよ」
「そう、ですか……」
最初から、無用な心配だったようだ。
太老様は、ダグマイア様をどうにかするつもりなど、最初からなかった。
いや、あの方のことだ。駄々を捏ねる子供を諌め、躾けるような感覚と同じだったのかもしれない。
言葉通り、あの方にとって、あれは指導≠ノ過ぎなかったということに他ならない。
ハヴォニワとの国際問題に発展しかねないほどの大きな問題も、太老様にとっては大事には至らなかったということだ。
その器の大きさを、私は今頃になってヒシヒシと感じていた。
ラシャラ様のことを『素晴らしい皇になる』と先程言ったが、太老様はそのラシャラ様と比較しても器の大きさが全く違う。
あの方にとっては大国の姫ですら、ただの少女に過ぎず、そうかと思えば、下々の者にまで身分の差を感じさせない、気安さと温かさがある。
ラシャラ様やマリア様が、決して他人には見せない、少女らしい素直な笑顔を向けられる相手。
それは、正木太老様をおいて他には居なかった。
「どうしたいかは、御主が決めることじゃ。我は、何も指図するつもりはない。
聖地に戻るのも、このままダグマイアの従者として生きるのも、全ては御主の人生、御主の選択じゃ」
「本当に、それでよろしいのですか?」
「良いも何も、決めるのは御主の外におらぬじゃろう? 太老も、そう言いたかったのではないのか?
ダグマイアのことを考え、思い悩むのは御主の自由じゃが、そこに本当に御主の幸せや意志はあるのか?」
「それは……」
直ぐに『ある』と答えられればよかったが、今の私には即答することが出来なかった。
何も知らなかった、いや敢えて見ない振りをしていた、という点では、私もダグマイア様と大差はない。
ダグマイア様を信じたいがために、現実から目を背けていたのだ。
しかし、太老様や、ラシャラ様、この国を影で支える大勢の人々の姿に振れ、私の意志は揺らぎ始めていた。
例え従者に戻ったとしても、今の私では、以前のように盲目的にダグマイア様の言葉に付き従うことは出来ないだろう。
「お兄様、じっとしていてください! マリエル、ユキネ! 確りと抑えておいて」
「ごめん、太老。マリア様の命令だから」
「太老様、男らしく覚悟を決められた方がよろしいかと」
「理不尽だ! ってか、マリア! お姫様なら、もうちょっと恥じらいを持って、前くらい隠せ!」
「大丈夫です。お兄様になら見られても、私は問題ありませんから」
「俺が大丈夫じゃないっ!」
本当に楽しそうだった。太老様の周りには、こうして笑顔が絶えない。
「エメラ……御主」
「いえ、これは……おかしいですね。嬉しいはずなのに、涙が出てくるなんて」
ここは私にとって、涙が零れるほどに居心地のよい、温かな空気に包まれていた。
【Side out】
【Side:太老】
酷い目に遭った。いや、これは美味しい目に遭った、と喜ぶべきなのか?
男としては嬉しいのだが、俺個人としては微妙なところだ。
「ああいうのって、男なら誰でも嬉しいものじゃないのかい?」
「嬉しいというより……疲れた」
ランの言うとおり嫌じゃないんだが、親しい女性に囲まれ、あれだけ寄って集って好きなように体を弄くられたら、嬉しいを通り越して恥ずかしい気持ちで一杯になる。
正直な話、楽しんでいる余裕すらなかった。少し、天地や西南の苦労が分かった気がする。
どうにか、下半身だけは死守したが、そこまでマリア達に洗われていたら、俺は暫く立ち直れなかったと思う。
「どうだい? 結構、自信あるんだけど」
「……微妙」
「ええ……アンタの舌がおかしいんじゃないのかい?」
「失礼な。そう思うなら、自分で飲んでみろ」
風呂を上がって客室で寛いでいた俺は、ランの淹れた紅茶の味見役をしていた。
マリアに出された課題の試験が、ハヴォニワに帰ったらあるらしく、この紅茶の淹れ方も試験に入っているらしい。
普段から、マリエルやマリア、それにユキネの淹れた紅茶を飲みなれている所為か、紅茶の味の違いが分かる程度には、俺の舌も肥えている。
香の立ち方からして、あの三人の、特にマリエルの入れた紅茶とは、全然違っていた。
あそこまで美味しい紅茶を淹れろ、とは無茶を言われないだろうが、少なくともこれではマリアは合格を出さないだろう。
時間も余り残されていないし、余程頑張らなければランの追試は免れない、と俺は思った。
「くっ! こうなったら、意地でも美味しい紅茶を淹れられるようになってやる!」
「まあ、頑張ってくれ……俺は寝るから」
「何言ってんだよ!? ほら、茶葉ならこんなに一杯用意してあるからさ!
もう時間がないんだよ! 付き合ってくれるだろ? なっ?」
「お前、どれだけ俺に飲ませる気だ……」
既に三杯も飲まされて、ただでさえ眠気など吹き飛びかけているというのに、ランが俺の前に提示して見せたのはハヴォニワの有名な商会のロゴが入った紅茶缶二缶だ。
ここの紅茶は、ハヴォニワの紅茶党の間でも定評があり、皇室の御用達にもなっていてマリアもよく口にしていた。
しかし、幾ら美味しい紅茶だからといって、そんなに飲めるはずもない。
ましてや、ランの腕では、マリアの納得が行く紅茶を淹れられるようになるまで、一体何度失敗を繰り返すことか。
かと言って、俺もランに教えられるほど詳しい訳ではない。普段、完全に人任せなのだから。
――コンコン
そんな時だった。部屋をノックする音が聞こえて返事を返す。
「失礼しま……太老様、どうかされましたか?」
「天の助け! エメラ、頼みがあるんだけど」
「はい?」
この時ばかりは、エメラが救いの女神のように見えていた。
【Side out】
……TO BE CONTINUED
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