朝の日差しがカーテンの隙間から差し込み、チュンチュンと小鳥の囀る声が聞こえる。

「ううん……お兄ちゃん」
「ん……太老様……」

 左腕には、桜色のお気に入りのパジャマを着た桜花が――
 右腕には、ワイシャツにショーツ一枚の林檎が抱きついていた。

「う、動けない……」

 俺はと言うと、二人に身体全体を使ってフォールドされ、ピクリとも身動きが取れない状態だ。
 どういう訳か、目を覚ましたら、この状態で動けなくなっていた。

(拙い……この状況は非常に拙い)

 何故、ここに林檎がいるのか? など、気にしている場合ではない。何とかして脱出しなければ、非常に危険な状態だった。
 こんな美味しいシチュエーションにも拘わらず、脳内の危険信号はさっきからずっと鳴り響いていた。
 俺の経験が危険を告げている。そう、このパターンは間違いなく……『お約束』とも言える最悪の状況だったからだ。

「太老くん、起きてる? 兼光小父様が太老くんを訪ねて――」
「待って! 水穂さんっ!」

 俺の制止も虚しく、無情にも開け放たれる扉。
 扉の向こうには、エプロン姿の水穂が、そしてもう一人――

「太老くん……」
「な、なななな……」

 呆然とする水穂に、金魚のように口をパクパクと動かし、固まっている平田兼光。
 そして、タイミングを見計らったかのように桜花が目を覚ました。

「うにゅ……お兄ちゃん」

 寝ぼけ眼で、もぞもぞと動きだし、俺に覆い被さるように上に乗っかってくる桜花。
 次の瞬間――桜花は、場が凍りつくような危険な行為に出た。
 ――チュッ! 俺の唇に、優しく触れる口づけを交わしたのだ。

「えへへ……お目覚めのキスだよ」
「き、貴様――っ! よ、よくも、お、桜花の可憐な唇をっ!」

 間が悪かった、としか言いようがない。
 子供のした事だ。笑って許してくれると嬉しいのだが……血の涙を流し、鬼の形相を浮かべ、激昂する兼光。
 気持ちは分からなくないが、誤解がないように言っておくと、奪われたのは俺の方だ。
 とは言え、弁明など聞いてくれそうもなかった。





異世界の伝道師/鬼の寵児編 第20話『正木家の朝』
作者 193






「林檎ちゃん! どういうつもりなの!?」
「どうもこうも……私も今日からここに住む事になりましたので、よろしくお願いします」
「そんなの、聞いてないわよ!?」
「瀬戸様の許可も頂いています。それに、ここは『神木』の別宅ですよ?」
「うっ! で、でも……」
「私は言いましたよ? 『では後ほど』と」

 確かに聞いた……聞いたが、まさかこんなカタチで再会する事になるなんて、誰が思う?
 話の流れから、水穂も聞かされていなかったところを見ると、この状況を作り出した元凶≠ェ誰かなど想像に容易かった。
 次はどんな手を使ってくるかと思っていたら、よもやこんな直球ストレートで来るとは……俺も甘かったようだ。
 経理部総出ではなく、林檎一人と言うのが不幸中の幸いとも言えるが、問題はそれだけではなかった。

「お兄ちゃん、あ〜ん!」
「あ、あ〜ん……桜花ちゃん。兼光さんの事、本当にいいの?」
「お兄ちゃんに酷い事する人なんて、パパじゃないもん!」

 桜花から差し出された卵焼きを頬張りながら、ほんの半刻ほど前に起こった朝の事件を思い出す。
 あの後、光剣を抜き、俺に斬りかかってきた兼光を撃退したのは、窓を割って飛び込んできた夕咲だった。
 どこからともなく取り出した釘バットで、兼光の後頭部を殴打したかと思うと、そのまま気絶した兼光の襟首を掴み――

『オホホ、朝早くからお騒がせしました。どうぞ、ごゆっくり続きを』

 などと言って、兼光を連れ去ってしまった。
 さすがは桜花の母親、まるで台風だ。俺はというと、呆然と後ろ姿を見送る事しか出来なかった。
 もう一度、きちんと桜花に話を聞いてみれば、ここに暮らす事は、夕咲の許可は得ているが、兼光の許可は貰ってなかったらしい。
 確かに幼い娘が一人、親元を離れて暮らすという話になれば、父親として心配で仕方ないのは分かる。しかし、関係者の俺が言えた義理ではないが、やり方がまずかった。
 怒りに身を任せて暴走した挙げ句、娘の桜花には嫌われ、夕咲の折檻を受ける羽目に……何とも報われない話だ。

「そういや兼光さん、何でここに?」
「……瀬戸様に言われて、太老くんを迎えに来たらしいわ」
「……それって」
「間違いなく、分かっててやってるわね」

 こうなる事が分かっていて、兼光をここに寄越したと言う訳だ。やはり、瀬戸は愉快犯だと思った。
 一部から『クソババア』呼ばわりされる理由にも、納得が行く。ある意味で、鷲羽(マッド)よりも質が悪い。

「太老様、ご飯のお代わりは如何ですか?」
「あ、じゃあ……貰おうかな?」
「ちょっと、林檎ちゃん!?」
「……白いフリルのエプロン、良く似合ってますよ? このために新調されたのですか?」
「うっ!? そんな事、あなたには関係ないでしょう!」
「なら、私が太老様のお世話をしても、水穂さんには関係ありませんね」

 まさに一触即発と言ったところ。この二人、こんなに相性が悪かったのか?
 ご飯の味がよく分からなくなるほど、食卓はピリピリとした重い空気に包まれていた。

「恩とか、そういう中途半端な気持ちで、太老くんを惑わさないで!」
「私達にとっては重要な問題です。それに、それを抜きにしても、私は太老様のお力になりたい、と考えています」
「彼はまだ未成年なのよ!? それに、あなたには西南くんが――あっ」

 水穂が『西南』の名前を口にした途端、林檎の身体から発せられる空気がガラリと変わった。
 水穂自身も、それが禁句だった事に気付いたらしく、慌てて両手で口を塞ぐ。
 一体、林檎の過去に何があったと言うのか?
 それは分からないが、一つだけはっきりした事がある。西南の話題は、林檎の前では禁句という事だ。

「ごめんなさい……少し、言い過ぎたわ」
「……いえ、私こそ大人気がありませんでした」

 何とか仲直りしてくれたようで、ほっと胸を撫で下ろす。正直、朝から心臓に悪いアクシデントばかりだ。
 この二人が本気で争ったら、この辺り一帯は更地になっても不思議ではない。鬼姫の副官で、それぞれに『瀬戸の盾』と『鬼姫の金庫番』と呼ばれる二人。人のカタチはしていても、中身は柾木家の面々と比べても遜色のない、とんでもない化け物だ。
 命拾いしたのは、俺の方かも知れない、と考えた。折角、水穂が用意してくれた朝食も、これでは緊張から味がよく分からない。
 しかし、さすがは理事長職の傍ら、定食屋『ナーシス』の非常勤料理長も兼任しているアイリの娘と言ったところか?
 昨晩も手料理を堪能させて貰ったが、水穂は本当に料理上手だった。十分に店をやっていけるほどの腕前だ。

「太老くん、味の方はどう?」
「美味しいですよ。これなら、良いお嫁さんになれますね」
「うっ……そ、そうかな?」
『…………』

 これは嘘偽りのない正直な感想だ。しかし、桜花と林檎は口に合わない様子で、何だか険しい表情を浮かべ、黙々と箸を進めていた。
 先程までの騒がしさと打って変わって、何とも言えない静けさが訪れる。

「何だか懐かしい味で、ほっとします」

 やはり、正木家の味によく似ているが、それもアイリが元という事なので、それもよく分かる味付けだった。
 砂沙美が作る料理も確かに美味しいが、こちらはほっと安心が出来るお袋の味≠ニいった感じだ。
 ちなみに、『ナーシス』というのは銀河アカデミーに居を構える定食屋の事だ。『鷲羽の毛穴』と呼ばれている観光名所の一角に店を構えていて、安さと味に定評のある知る人ぞ知る隠れた名店だった。
 尤も、アイリが料理長をしている、という時点で、俺はそんな危険な場所に自ら足を踏み入れたいとは思わないが……。

「地球の料理と大差ないし、てっきり宇宙的な食事を想像してたんで、良い意味で驚きました」
「お兄ちゃん、宇宙的な食事って?」
「色が黄色いのや紫のとか、後はストローでチューッと吸って食べるようなのかな?」
「……随分と偏った知識だね。何時の時代の宇宙食を想像してるのか、何となく分かった気がするけど……」

 桜花に呆れられてしまった。
 まあ、少し考えれば分かる事なのだが、アカデミーで食べた料理も普通だったし、砂沙美とノイケが普通に料理をしている時点でそれはありえない。ちょっとした冗談だ。
 とは言え、使われている食材に差は当然ある。好き嫌いはない方だが、『口に合わない物があったらどうしよう?』くらいには心配していた。
 しかし、食卓に並んでいる料理はどれも、日本の食卓に並んでいる物と大差なかった。
 使われている食材に至るまで、全く想像と違って慣れ親しんだ物ばかりだ。

「以前に船穂様のお野菜を頂いた事があるでしょう? 地球の作物は特に人気が高くてね。そうした事もあって、沢山栽培しているのよ」
「ああ、そう言えば……」

 確かにあの野菜は美味かった。船穂の惑星で栽培されていた地球の作物を、樹雷全域に広めたのは水穂だという話だ。
 樹雷の『裏の最高権力者』とも言われている『鬼姫』の活動には、主計費は疎か機密費名目ですら使用できない超極秘裏操作を必要とする物があるため、活動資金を得るのが大変だという。
 そのために、瀬戸の副官である水穂が多大な苦労を強いられている、という話は聞いていた。
 本人を見ていれば、どれだけ大変かは推して知るべしだが、そう言う意味では林檎達、経理部の大変さも伝わってくる。
 その事からも、この作物の栽培も、活動資金を得るための大切な資金源になっている、という事は簡単に想像がつく。
 まあ、水穂達からすれば、何よりも大変なのは瀬戸の相手なのだろうが……。

「そう言えば、兼光さんが俺を迎えに来たのって?」
「太老くんの場合は特殊だからね。こちらの生活に慣れてもらう意味でも、まずは見学をしてもらおうと思って」
「見学ですか?」
「本来なら訓練生から始めて、研修を受けて実戦に、と言うのが普通なのだけど……」
「太老様の相手が務まる訓練生なんているはずもないですし、教官クラスにだっているかどうか」
「彼女の言うとおり……だから、まずは見学という話になって。兼光小父様なら、太老くんの訓練の相手も務まるかも、って期待してたんだけどね」

 兼光は夕咲に拉致されたので、ここにはいない。それ以前に、無事かどうかも怪しい……。
 俺に対する水穂と林檎の評価は、過大評価も良いところだが……面倒臭い訓練を受けなくていいなら、それに越した事はない。
 訓練や鍛錬などというモノから、やっと解放されたばかりだ。軍隊である以上、避けられるとは思っていないが、自分から進んで参加したいとは思わなかった。
 そういった事は、ここに来るまでに十分過ぎるほど堪能した。
 あれは訓練というより、毎日が死と隣り合わせの地獄≠ニ一緒だったが……。

「それじゃあ、桜花が案内してあげる」
「……でも、さすがにそれは」
「軍施設なら昔から出入りしてるし、お兄ちゃんより詳しいもん。それに水穂お姉ちゃんと林檎お姉ちゃんは仕事があるでしょ?」

 水穂は、桜花の申し出に難色を示すが、俺は桜花の言い分にも一理ある、と思った。
 桜花には昨日に引き続き世話を掛ける事になるが、水穂は『情報部副官』としての仕事が、林檎にも『経理部主任』という大役がある。
 こうして、家事まで水穂に任せきりだというのに、その上、二人の仕事の邪魔をするのは悪い気がする。

「俺なら大丈夫ですから、そうしてください。昨日も、桜花ちゃんに案内してもらいましたし」
「……太老くんが、そう言うなら」
「……分かりました」

 どこか不安そうな表情を浮かべながらも、水穂と林檎は納得した様子で首を縦に振った。
 案内役の桜花が子供というのも不安材料にあるのだろうが、俺も二人から見れば子供だ。
 頼りなく見えるのは同じなのかも知れない、と考えると少し悲しかった。


   ◆


 桜花の案内で、神木家が所有する天樹の一角、聖衛艦隊の駐屯地を訪れていた。
 聖衛艦隊と言うのは、正式名称を『神木家聖衛艦隊』といい、その名の通り神木家が保有する艦隊戦力だ。
 神木家は四大皇家の中でも特に大きな勢力を持ち、瀬戸の影響力もあって他の三家と比べても強い発言力と権威を誇っていた。
 その力の象徴として畏怖されていたのが、鬼姫に仕える『盾』と『剣』であり、この聖衛艦隊の存在だ。
 聖衛艦隊は一から十三の艦隊から成り立っており、水穂は第三聖衛艦隊の司令官を、平田兼光も『屈強』で名高い第七聖衛艦隊の司令官を務めていた。
 そして――この聖衛艦隊こそ、俺の勤め先になる予定だ。まだ配属先は決まっていないが……。

「桜花様、おはようございます。今日は夕咲様が御一緒ではないのですか?」
「うん、今日はお兄ちゃんの案内で来たの」
「お兄ちゃん……?」

 桜花の話を聞いた受付の女性が、訝しい視線を俺へと向ける。
 まあ、幼女に『お兄ちゃん』などと呼ばれている時点で、胡散臭い事は自覚しているが……。
 軍施設に入るには、例外なく通行許可が必要との事で、入国管理局でID登録をした時と同じように生体認証を受ける事になった。
 これだけで、本人確認が取れるというのだから便利な物だ。宇宙に来たのだと、実感させられる瞬間でもあった。

「――正木太老様!?」

 俺の個人データを確認して、何やら驚いた様子で声を上げる受付の女性。
 何か問題でもあったのだろうか? と少し不安になる。
 そう言えば、管理局にID申請をしに行った時も、職員が俺の名前を口にして、随分と驚いている様子だった。

「大変失礼を致しました! どうぞ、お通りください」

 女性の一声でゲートが開き、その奥へと通された。俺の個人データを確認するなり、態度が豹変した女性。何やら緊張しているような、おかしな様子だった。
 水鏡のブリッジでも思った事だが、どうにも避けられているというか、意図的に距離を置かれているように感じてならない。
 まず、間違いなく瀬戸の影響力が原因だと考える。樹雷の鬼姫が、どれだけ恐れられているかを思い知った気がした。
 そして、ここまで怖がられるという事は、俺も鬼姫の関係者と思われている、という事だ。

(何というか……最初から前途多難だな)

 瀬戸の関係者というのは、否定が出来ないだけに弁明も出来ない。
 これからの事を考えると、溜め息しか出て来なかった。





 ……TO BE CONTINUED



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