荒野を埋め尽くすおびただしい数の軍勢。
白服を身に纏った益州の兵十五万が、劉備達の居る国境砦へと迫っていた。
「ふむ、明日にも総攻撃を仕掛けてくるのは確実か。軍師殿、この戦いどうみる?」
「……残念ですが、勝てる見込みはありません。本来であれば、砦を放棄し撤退すべきですね」
黄蓋の質問に、苦しげな表情で答える諸葛亮。しかし、それも当然。劉備軍は呉の援軍を併せても二万余り。十五万の兵が相手では勝ち目があるはずもなかった。
味方の援軍を待っている時間もない。だとすれば、撤退も止むを得ない選択の一つと言える。
だが、ここで兵を引けば、再び益州へ侵攻することは難しくなる。それに全軍を撤退をさせようにも街道は狭く、大軍での移動は難しい。諸葛亮が内部工作に拘り、最小限の兵で益州に攻め入ったのも、そうした地理的事情が大きかった。
益州を覆う自然は外から見れば強固な要塞であるが、内から見れば外部との繋がりを断つ檻と同じだ。外に逃げるのも一筋縄ではいかない。
大軍での動きが取り辛いのは相手も同じだが、二万もの兵を無事に安全なところまで撤退させるには時間も足りず、非常に困難と言わざるを得なった。
正面から戦えば勝てる見込みはない。砦に籠もっても、兵力にこれだけの差があれば撃退するのも困難だ。砦を放棄して逃げても、追撃の被害は免れない。最悪、半数近くの兵が脱落する可能性があった。
「ん〜、援軍が来るまで持ち堪えられればいいんですけどね〜」
声を発したのは、黄蓋の副官として益州解放軍の軍師に加わった陸遜だ。
小さな眼鏡に大きな胸。軍師と言えば胸が控え目な小柄な少女が多いなか、彼女は女性らしいふくよかな身体をしていた。
間延びした話し方、のほほんとした性格は彼女の個性だ。だが、彼女も周瑜と同じく呉を代表する文官の一人。ズバ抜けた記憶力を持ち、読書家で知られる彼女は、知識だけなら周瑜をも上回る博識家として知られていた。
「陸遜さん。呉から兵を送ってもらうことは?」
「一応、手配をしてますけど、やはり時間が足りません……。思った以上に、相手の動きが素早かったのが誤算でした」
こうなってしまったのは、予想以上に益州軍の動きが早かったからだ。
成都での戦いで劉備軍を撤退させたとは言っても、益州軍も全く被害がなかったわけではない。追撃をするにしても軍の編成には、それなりの時間が掛かるモノと諸葛亮達は予想していた。
意思の統一すらままならず、統率すら取れていなかった彼等のどこに、そんな余裕があったのかわからない。
諸葛亮達の内部工作も途中までは上手くいっていたのだ。それが失敗に終わった理由――彼女達の計算を狂わせた何かが、彼等にはあった。
「太平要術の書……」
ポツリと、その名を呟く諸葛亮。今のこの状況は、黄巾党の時によく似ている。
誰かが彼等の意思を奪い、操っていると考えれば、今のこの状況にも説明が付く。
成都に張譲が居る情報を得ていた諸葛亮は、その可能性は一番高いと考えた。
「だが、例え操られておるにしても、儂等が窮地に立たされていることに変わりは無い」
「はい。やはり危険を承知で撤退するのが最良かと。全員で撤退するのではなく、ある程度の兵を砦に残し、敵の攻撃に応戦。その隙に残りの兵を撤退させれば、撤退の時間も稼げると思います」
陸遜の案は、砦に残した兵を犠牲にして、他の兵を確実に撤退させるという案だ。
誰が残るかという問題はあるが、安全により多くの兵を撤退させるのであれば、これが一番確実な方法だった。
諸葛亮も同様の案を考えてはいたが、劉備のことを考えると仲間を犠牲にするという案は言葉にし辛いものがあった。
それを察して陸遜も自分から、そのような案を口にしたのだろう。
「ならば、その役目は儂が引き受けよう」
「祭様!?」
黄蓋の思わぬ立候補に驚いたのは陸遜だ。
自分がその役目を担おうと考えていただけに、彼女は驚きを隠せなかった。
「穏、御主のことだ。言いだした責任を取って、自分が残るつもりだったのだろうが、ここは儂に任せよ」
「ですが――っ!」
「御主はまだ若い。これからの呉に必要な人材だ」
「それは、祭様だって! 呉にはなくてはならない御方です!」
三代に渡って孫家に仕え、呉を支えてきた忠臣。あの周瑜や孫策ですら、時と場合によっては彼女に頭が上がらない。王族だけでなく民や臣からの信頼も厚く、呉にとってなくてはならない存在――それが黄蓋だった。
故に、陸遜にとっても黄蓋を犠牲にするというのは、考えられない選択だ。だが――
「何、儂はそう簡単に死なぬよ。それに御主に任せるのは、ちと不安だしの。戦いには全く向いておらぬし、その大きな胸が邪魔で武器も満足に扱えぬ御主が残ったところで邪魔になるだけだ」
「うっ……」
こうと決めたら、黄蓋は何があっても譲らない。そのことは陸遜が一番よくわかっていた。
言葉で茶化していても、その実は誰よりも国の未来を憂いているのだ。
諦めたように、ため息を漏らす陸遜。
――それでも生きて帰って欲しい。
その言葉だけは譲ることが出来なかった。
「ならば、酒と肉を用意して待っておれ」
「とびっきりのを用意してお待ちしてます。でも、ほどほどにしてくださいよー」
「それは、御主次第だの」
その想いに応えるように微笑む黄蓋。陸遜はそれ以上、何も言わなかった。
「劉備殿」
軍議のなか言葉一つ発せず、あれ以来ずっと塞ぎ込んだままの劉備に黄蓋は声を掛けた。
「仲間を救いたいのなら、強くなることだ」
「強く……」
「想いだけでは誰も救えぬ。しかし、その想いなくして人は付いて来ぬ」
黄蓋の言葉の意図が掴めず、困惑の表情を浮かべる劉備。
「心を強く持て。そうすれば、自ずと答えは見えてくる。御主は蓮華様とは違った意味で不器用そうだからの」
異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第136話『追う者、追われる者』
作者 193
「……行ったか。すまぬの、付き合わせてしまって」
「いえ、我々も覚悟は出来ています。あちらも無事に逃げ切れるといいのですが……」
「大丈夫だろう。張飛もついておるしな。なりは小さいが、あれはかなりの使い手だ」
黄蓋の部隊五千を砦に残し、劉備達は益州からの撤退を開始していた。
大軍で追撃をかけるには、この砦を抜ける必要がある。追撃の手は免れないだろうが、将や兵の質で勝っている以上、生半可な数では返り討ちにあうだけだ。黄蓋の役目は少しでも長く、敵の本隊をここに足止めすることだった。
「ふむ、きたようだの」
白い山。そうとしか例えようの無い荒野を埋め尽くす人影。
真っ白な装束を身に纏った異様な兵達が砦に迫っていた。
報告では十五万という話だったが、実際に目にした数はそれ以上にも見える。
「見よ。なかなか壮観ではないか」
とてもではないが勝ち目のある戦いではない。逃げ出したところで誰も咎めないだろう。
しかし黄蓋はそれでも尚、余裕の態度を崩すことはなかった。
勝ち目のない戦いであることは最初からわかっている。だからと言って、戦う前から負けを認める理由にはならなかった。
それに、ここに残ったのは劉備のためだけでない。周瑜の頼みがあったからだけではない。
一人の武人として、呉の女としての意地もあった。
「少しは借りを返しておかんと、呉の人間は受けた恩を返せぬ恩知らずと思われるのも困るしの」
太老に受けた恩。それを忘れたことは一度もない。それは黄蓋も、そしてここに残った兵達も同じだ。
呉の人々にとって、天の御遣いは飢えや苦しみから救ってくれた恩人だ。国の再興にも尽力してくれた彼に、これですべてを返しきれるとまでは思っていないが、受けた恩を少しでも返せればという思いがあった。
そのことで呉王に恥をかかせるわけにはいかない。だからこそ、彼等はここに残った。
すべては、呉のためだ。
「聞け、皆の者! 腐った大樹は枯れ落ちた。大陸に新しい息吹が訪れようとしている。にも拘らず、私欲に塗れ、過去に固執し、権力に縋り、民を蔑ろにしてきた愚か者どもの末路があれじゃ」
黄蓋の言葉に沸き立つ兵達。
勝ち目のない戦いに赴くというのに、そこには絶望の色はない。
彼等は夢見ていた。彼等は信じていた。過去から繋がっていく、この国の未来を――。
「証明せよ、我等が誇りを! その目に刻み込め、この国の未来を!」
ここに戦いの号令が発せられた。
【Side:桃香】
「今のは――」
足を止め、私は後を振り返った。声が聞こえたからだ。
たくさんの人が戦っている。黄蓋さん達が私達を逃がすために、あそこで戦っていた。
本当は引き留めたかった。皆で逃げようって言いたかった。でも、それが無理なことはわかっていた。
――想いだけでは誰も救えない。
その通りだと思う。少しは変わったと思っていた。成長したと思っていた。
でも、私は何も変わっていなかった。
皆を助けたい――笑顔で一杯にしたい。口にすることは簡単だ。
でも、私にはそのための力が足りない。ご主人様や華琳さん、皆のようにはなれなかった。
「ごめんね、朱里ちゃん。ごめんね、鈴々ちゃん。黄蓋さん、みんな、ごめん……」
もっと真面目に勉強していれば、もっと真剣に鍛錬に取り組んでいれば、もっと皆の言うことをちゃんと聞いていれば――こんな結果にならなかったかもしれない。
そう考えると、涙がこぼれ落ちるほど、自分の不甲斐なさが情けなかった。
「お姉ちゃんが、謝る必要なんてどこにもないのだ!」
「……鈴々ちゃん?」
「鈴々は好きでやっているのだ。みんなみんな、お姉ちゃんのことが好きで、ここにいるのだ」
鈴々ちゃんの言葉に、私は顔を上げる。こんな鈴々ちゃんを見るのは初めてだった。
悲しいけど強い……とても固い意志の籠もった目をしていた。
「お姉ちゃんを泣かせる奴は鈴々がぶっ飛ばしてやるのだ。だから……泣かないで欲しいのだ」
悲しそうに、そう呟く鈴々ちゃんを見て、私は気付く。
悩んでいるのは、悲しいのは私だけじゃない。鈴々ちゃんも同じなのだと。
皆、思い悩んでいる。愛紗ちゃんの件も、黄蓋さんの件も、言葉にしないだけで悲しくないわけじゃない。
――耐えているんだ。
どうしようもないことがわかっているから、誰もが悲しいことを知っているから口にださない。
知らない間に私はまた、鈴々ちゃんや朱里ちゃんに心配を掛けていたのだと気付かされた。
なのに、私は――
「て、敵襲!」
その時だ。隊の後方から悲鳴が上がった。
何かが近付いてくる。すぐにそれが敵の攻撃だと私達は気付いた。
でも、どこから?
黄蓋さん達は今もあそこで足止めしてくれているはず。追撃が掛かるにしても早すぎる。
だとしたら、敵は少数? なら、敵の狙いは? 私達の足止め?
様々な考えが、頭の中を渦巻く。
「敵の数は!?」
「それは――ガハッ!」
報告にきた兵士が、私達の前で悲鳴を上げ崩れ落ちた。
すぐに周りの兵が反応して敵に襲いかかるが、あっと言う間に斬り伏せられる。
「お姉ちゃんは鈴々が守るのだ! 朱里、お姉ちゃんと後に――」
武器を構え、私達を庇うように前に出る鈴々ちゃん。
でも敵の顔を見て、鈴々ちゃんの動きが止まった。それもそのはず――
「あい……しゃ?」
鈴々ちゃんの口から、信じたくない言葉が漏れる。
青龍偃月刀を携え、真っ赤な返り血を浴びた愛紗ちゃんが、私達の目の前に立っていた。
【Side out】
……TO BE CONTINUED
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