アドリア海に浮かぶ鋼鉄の船――守蛇怪・零式。
 イタリア海軍を壊滅に追い込んだこの船は、『賢人議会』や『七姉妹』と言った名だたる魔術結社の働きかけにより、正式に正木太老――魔王(カンピオーネ)の持ち物だと世界に認知され、治外法権とも言える事実上の独立権を取得していた。
 魔王に国際ルールを説いたところで、それは人間の作り出した秩序に過ぎない。魔王からすれば国境などあってないも同然。下手に魔王の機嫌を損ねれば、どうなるかということは彼等――人間達が一番よくわかっていた。
 触らぬ神に祟りなし。それが世界の出した結論だ。

「リリィ。そこのクーラーボックスから飲み物とってくれない?」
「クッ! そのくらい自分でやったらどうだ! お前の下僕になった覚えはないぞ、エリカ」

 燦々と輝く太陽の下、デッキチェアに寝そべりながら、リリアナに飲み物を取るように指示を出すエリカ。
 リリアナが太老のメイドになって一週間。
 リリアナにとってこの一週間は、自身の中にある価値観や常識と向き合う毎日だったとも言える。

「あら? 太老のメイドなら、私のメイドも同じでしょ」
「どういう理屈だ!」

 紺のエプロンドレスに身を包み、ゴシゴシと船の甲板をデッキブラシで擦りながら、エリカの傍若無人な命令に反発するリリアナ。死すら覚悟して、どんな要求にでも応じる覚悟で太老と対峙したリリアナだったが、それがまさか――こうして彼の『メイド』をやることになるとは思ってもいなかった。
 現在この船には三人のメイドがいる。
 赤銅黒十字からの出向で、エリカの世話係でもあるアリアンナ・ハヤマ・アリアルディ――愛称『アンナ』
 それに――

「リリアナ様。そんな風に力任せに擦ってもダメですよ。エリカ様、オレンジジュースでいいですか? ご希望があれば、カクテルをお作りしますが?」

 そう言って、シチリア名産の赤オレンジを絞って作った缶ジュースをクーラーボックスから取り出す――リリアナと同じメイド服に身を包んだ小柄な少女。
 カレン・ヤンクロフスキ。
 リリアナの侍女で『青銅黒十字』に所属する魔女見習い。アリアンナの親友にしてエリカとも交友があり、リリアナが太老のメイドになることが決まった後、自発的に太老のメイドに名乗り出た少女だ。
 実のところ彼女は結社から密命を受けて、ここにいた。
 その目的とは、リリアナの動向を監視することだ。

 青銅黒十字とてバカではない。リリアナの犠牲は周囲を納得させるために必要なこととはいえ、彼女がクラニチャール老と通じている可能性は当然視野に入れていた。
 万が一、リリアナが太老を裏切るようなことがあれば、現在でも微妙な立場にある『青銅黒十字』は今度こそ終わる。そのため、リリアナの監視を目的として、リリアナが一番信頼を寄せるカレンを送り込んだのだ。
 エリカもその辺りの事情は理解していたので、カレンを仲間に迎え入れることには賛成だった。

 それに『青銅黒十字』はカレンをリリアナの鈴とするつもりなのだろうが、そう上手く行くとエリカは思っていない。
 カレンは頭が良い。飛び級を繰り返し、十四歳にして高等課程を終了させるほどの頭脳を持つだけでなく、エリカを相手に交渉を持ち掛けるほどの強かさを兼ね備えている。
 魔王の怒りを買い衰退の一途を辿る組織と、今や東欧を支配下に置く若手最強の魔王。
 どちらについた方が得か、子供でもわかることだ。
 恐らく、結社にリリアナの監視を申し出たのはカレンの方からだろう。
 そうすることで『青銅黒十字』から距離を取ることを、彼女は考えたのだとエリカは察した。

「さすがはカレン。どこかの誰かさんと違って気が利くわね。それじゃあ、お願いしようかしら」
「ぐうっ! カレン、そんな女に――」
「リリアナ様。言葉を慎んでください。エリカ様は、ご主人様の騎士にして愛人。そして私どもはただのメイド≠ノ過ぎません。どちらが立場として上か、それがわからないリリアナ様ではないと思いますが?」
「いや、しかしだな……」
「しかしも何もありません。私達が無能のレッテルを貼られれば、恥を掻くのはご主人様です。そのことを理解していますか? もっと、ご主人様のメイドであることを自覚なさってください」

 カレンの言っていることは何一つ間違っていない。
 ここまで理路整然と正論を説かれては、リリアナも反論を挟む余地がなかった。
 相手が宿敵と認めるエリカだけに、感情的になっていることは自分でも理解していたからだ。
 そしてカレンは、そんなリリアナの反応を窺いながら、にこやかな笑みを浮かべる。

「容赦がないわね……」
「いえ、これもリリアナ様のことを思ってこそですから」

 現在、リリアナの立場は微妙だ。非常に厳しい立ち位置にいると言って良いだろう。リリアナが身を投げだし太老の庇護下にいるからこそ、青銅黒十字は結社の存続を許され、クラニチャール家はそれ以上の責任を追及されずに済んでいる。
 それだけにリリアナには一日も早く、ここでの生活に慣れてもらわなくてはならない。カレンが心を鬼にしてリリアナに接するのも、そのためだ。もっとも、毒舌と批判は彼女が持つ悪癖の一つなので、すべてリリアナのためとも言い難いところではあるのだが……。

(少し気の毒だけど、これもリリィのためよね)

 床に突っ伏すリリアナを見て、これ以上追い打ちを掛けるような真似は、さすがのエリカも出来なかった。





異世界の伝道師外伝/新約・異界の魔王 第12話『幼女の捜し物』
作者 193






 桜花に誘われ、太老は街に買い物に訪れていた。
 イギリス行きを三日後に控え、旅に必要な物を買い揃えにきたのだ。
 もっとも、それは建て前。本来こうした買い物はメイドの仕事なので、桜花と太老がする必要はまったくない。実際、必要な物は既にカレンとアリアンナの二人が手配を済ませており、買うものといえば下着や、ちょっとした小物と言ったくらいだった。
 それでも桜花は、太老と二人で出掛ける機会を出来るだけ大切にしたかった。
 ただでさえ、太老の唐変木には苦労をさせられているというのに、ライバルは増えるばかりだ。ここらで、少しでもポイントを稼いでおきたい。桜花がそう考えるのは自然な流れだ。

「お待たせ」

 そんな桜花の心を知ってか知らずか、海岸のベンチで座って待つ彼女の前に現れた太老の両手にはジェラートが握られていた。
 ここから見える海沿いの屋台で買ってきたのだろう。
 今日は日差しが強く、朝から買い物で歩き回っていたこともあり、冷たい物を身体が欲していた。
 いつもは鈍感な癖に妙なところで気が回るのが、この男の困ったところだ。
 頬を紅く染め「ありがとう」と礼を言い、太老から受け取ったジェラートを舐める桜花。
 もう片方のジェラートは、桜花の隣でベンチに腰掛けている銀髪の少女へと手渡された。

「……これは?」
「今、この界隈で人気のジェラートだって。冷たくて美味しいよ」

 少し困惑の表情を浮かべながらも、太老に促され恐る恐るジェラートに口を付ける少女。
 感情を表に出さない彫刻のように整った顔が、微かに驚きの表情で歪む。

「……美味いな。これは食べたことのない味だ」

 そうして垣間見せた少女の笑みは、同じ女性の桜花から見てもドキッとするくらい綺麗なものだった。
 肩口まで伸びた銀の髪が、さらさらと潮風に揺れる。青いニット帽に薄手のセーターとミニスカート。黒いニーソックスを着込んだ少女と太老達が出会ったのは偶然――いや、必然と言えるものだった。
 声を掛けてきたのは少女の方からだ。

 ――あなたは神殺しか?

 少女はそう太老に尋ねた。
 そこに深い意図はない。不思議な気配を感じ取り、気になって太老に声を掛けただけのことだ。
 まつろわぬ神や、神殺しは互いに相手の存在を感じ取ることが出来る。
 太老が正式な神殺しであれば、少女は太老を仇敵として警戒しただろう。しかし、太老からは神の気配の残滓や強い力は感じ取れるものの、神殺しと断定できるものは何一つ掴むことが出来なかった。

「アテナ。それでさっきの話の続きなんだけど」

 アテナ。それが少女の名前。
 ギリシャ神話にその名を馳せる戦いの女神。当然この名を聞いた時、太老と桜花は彼女の正体に気付いた。
 ――まつろわぬ神。そう呼ばれ、人々に恐れられる神。それが彼女の正体だ。

 とはいえ、見た感じ十三、四歳の年端のいかない少女に、まつろわぬ神だからと言って理由もなく戦いを仕掛ける気にはならない。誰かに迷惑を掛けたと言う訳でもなく、ただ街で偶然出会ったと言うだけで争うつもりは太老にはなかった。
 しかしアテナからすれば、それもまた不思議な話だった。
 アテナの「あなたは神殺しか?」という問いに、太老は「世間では、そう呼ばれている」と答えたのだ。
 本当に太老が神殺しなら、それだけで戦う理由としては十分だ。闘争を宿命付けられた仇敵が目の前にいる。少なくとも他の神殺しやまつろわぬ神であれば、それだけで殺し合いに発展しておかしくない。
 なのに、太老からはまったくと言っていいほど敵意が感じられない。アテナからすれば、それは不思議でならなかった。

「あなたは本当に神殺しなのか?」
「世間の認識ではね。お兄ちゃんが神を殺したのは本当のことだし」
「あれは事故みたいなもんだがな……」

 少なくとも桜花が言うように、太老から人間とは思えない何かを感じるのは確かだ。それは桜花も同じこと。
 アテナの本能が目の前の得体の知れない二人に対し、罠にも似た危険を感じ取っていた。
 相手がただの人間なら負けるはずがない。いや、相手が同胞や神殺しであっても倒されるつもりなど彼女には毛頭ない。しかし、太老や桜花と戦えば確実に手痛い反撃を食らうと、彼女をアテナたらしめる機知がそう告げていた。
 神殺しと馴れ合うつもりはない。しかし、他の神殺しと相対した時のような殺意や敵意と言った感情は不思議と込み上げて来ない。
 ならば危険を冒してまで、無理に目の前の二人と敵対する必要はない。少なくとも今は――
 そうアテナは自分に言い聞かせ、先程の太老の問いに答える。

「『蛇』だ。妾は失った『蛇』を捜している」

 蛇? と首を傾げる太老と桜花。
 山にでも行けば、蛇の一匹や二匹はいるかもしれないが、言葉通りの意味ではないだろう。

「ようするに落とし物を捜してるってことだよな? でも、それだけじゃなあ……。何処で落としたかとか、どんなカタチをしてるかとかわからない?」
「蛇は妾が失った半身。それがなければ、妾は完全な神とは言えぬ」
「えっと……ようするに?」

 首を左右に振るアテナ。なんともお粗末な話だった。
 ようするにアテナにも『蛇』がどういったものか、わかっていないということだ。
 半身と言うからには、形のある物ですらないのかもしれないと太老は思考を巡らせる。

「ある日を境に『蛇』の気配を辿れなくなった」
「それが、この場所ってことか?」
「うむ……しかし、何処にも手掛かりは見つからなかった」

 この落ち込む方から察するに、その『蛇』はアテナにとって、とても大切な物なのだろう。
 太老としても期待には応えてやりたいところだが、これだけの情報では難しい。

「いっそ、エリカに相談して『赤銅黒十字』に協力を依頼してみるか?」
「お兄ちゃん……それはやめた方がいいと思うよ」
「え? なんで?」
「エリカお姉ちゃんに相談するのは別として、魔術師達が素直に協力してくれると思う?」
「あ〜、やっぱりダメかな?」

 言ってみれば、アテナを強くするのに協力するようなものだ。
 太老が魔王の強権を使えば、確かに魔術師達は望まぬことでも命令に従うだろう。
 しかし、ただでさえ冷酷無比な魔王と恐れられているというのに、そんな命令をすれば自分で噂を肯定するようなものだ。

「でも、可哀想だろ?」
「お兄ちゃんらしいと言えば、らしいけどね。でも、それじゃあ、具体的にどうするの?」

 話を聞く限り、アテナはここにきて完全に手掛かりを失っている。
 神とはいえ、何の手掛かりもなく闇雲に捜したところで見つかるとは到底思えない。

(どうするかなんて、わかりきってるけどね)

 桜花も何も言わず、太老の言葉を待つ。どうせ、結論は出ているのだ。
 神とはいえ、太老が困っている女の子を見捨てられるはずもない。

「アテナ。しばらく俺達と一緒に行動しないか? 取り敢えず『蛇』が見つかるまで」
「よいのか? 今なら、妾を簡単に倒せるというのに?」

 今の自分の力では太老に勝てないであろうことは、アテナも理解していた。太老に声を掛けた時点で、戦闘になることも覚悟していた。ましてや『蛇』のことを話したところで、協力をしてもらえるなどと思ってはいなかった。
 突然失った『蛇』の気配。手掛かりをなくしたアテナは、少し自暴自棄になりかけていた。
 どうせ『蛇』を取り戻せないのであれば、他に目的もない。仇敵たる魔王と戦い、その結果敗れたとしても悔いはないとさえ考えていたのだ。

 ――どういうつもりなのか?

 と、アテナは太老の考えを図りかねる。
 全力のアテナと戦いたいというのであれば、わからないでもない。
 カンピオーネとは闘争の申し子だ。そう太老が望めば、アテナは全力で太老の望みに応えるだろう。
 しかし、ここまでの態度から、そんなことを望む人物には到底見えない。

 ――ならば、太老がアテナに望む対価とは何か?

 闘争を宿命付けられた魔王とまつろわぬ神の間に、慈悲や施しはない。
 どんな取り引きにでも代償は付き物だ。それが神であるなら尚更だ。
 ましてや、取り引きの材料が『蛇』であるなら、想像も付かないような対価が必要となる。

「そうまでして、あなたは妾に何を望む?」

 だからこそ、不気味だった。太老が何を考えているのかわからない。
 それだけに、これだけはハッキリさせておかなくてはならない。ここで交渉が決裂し、太老や桜花の二人と戦うことになっても、アテナは自らの矜持に掛け、納得の行かない交渉には応じるつもりはなかった。

「桜花ちゃんの友達になってくれ」
「……は?」
「最近、少し寂しそうだからさ。出来るだけ一緒にいてやりたいとも思うけど、なかなかそう言う訳にもいかないし……こうして買い物に付き合うくらいしか、俺が桜花ちゃんにしてやれることってないから」
「お兄ちゃん……嬉しいんだけど、何か違う……」

 桜花の様子がおかしいのは、家族と離れてホームシックにかかっていると太老は思っていたのだろう。道理で素直に買い物に付き合ってくれるはずだと、桜花は嬉しさ半分、呆れ半分と言った様子でため息を漏らす。
 アテナはそんな太老の提案に言葉を失った様子で、目を丸くして驚いていた。

「……妾に子守りをしろと?」
「子守り言うな! 私とたいして胸も身長も変わらない癖に!」
「ぬっ! 妾をそなたと一緒にするな。『蛇』を取り戻しさえすれば、真の姿に――」
「どうだか。成長したって、今とたいして変わらないかもしれないじゃない」

 桜花は子供扱いされることを何より嫌う。ましてや相手が自分と同じような見た目『幼女』であれば尚更だ。
 中身のことを言うなら、桜花もそれなりに長く生きている。エリカの叔父、パオロよりも実年齢は上だ。
 肉体年齢に引き摺られるように子供ぽいところはあるが、それでも立派な淑女。子守りを必要とする年齢ではない。『太老の女』を自称する桜花にとって、アテナの言葉は聞き捨てならないものだった。
 しかし、それはアテナも同じだ。
 成長しても今とたいして変わらないなどと言われては、引き下がれるはずもない。
 見た目は小さくとも、彼女は女神なのだ。

「だが、妾の方がほんの少し胸が大きい。女神が、人間の娘に負けるはずがない」
「女神が何よ! こっちは武神の娘よ! いいわ。そこまで言うなら、私も捜し物に協力してあげる。まあ、あなたが真の姿を取り戻したところで、私が『参った』って言うことはないと思うけど」
「むむ……ならば、妾の成長した姿を見て後悔するがいい!」

 まさに、売り言葉に買い言葉。
 望んで今の姿でいるわけではないだけに、桜花の言葉は女神の矜持を傷つけた。
 胸の大きさがすべてとは言わない。しかし、アテナにも女のプライドがある。

「すっかり仲良しだな。二人とも」

 優しげな笑みで、言い争う二人を太老は見守っていた。





 ……TO BE CONTINUDE



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