リィンがオルキスタワーに宿泊した翌朝、珍しい人物の姿がオルキスタワーにあった。
愛用のバイオリンが入ったケースを携え、革のジャケットにベレー帽を被った若い男。
彼の名は、エリオット・クレイグ。帝都の音楽院に通う学生だ。そして最近少しばかり名の売れてきた若手の音楽家でもある。
その特徴的な赤みを帯びた髪やクレイグという家名からも察せられるように、彼は『紅毛のクレイグ』の異名を持つオーラフ・クレイグ中将の息子でもあった。
クレイグ中将と言えば、帝国正規軍にその人在りと恐れられる猛将だ。だが厳つい容姿をした父親と違い、エリオットはどちらかと言うと線の細い、それこそ女性のなかに交じっても違和感がないほどに中性的な顔立ちをしていた。だからと言う訳ではないのだが、二日後に予定されている教会でのコンサートで聖アストライア女学院と合奏をすることになり、クロスベルへと招かれたのだ。
「えっと……久し振り? なんだか疲れた顔をしているけど、もしかして寝不足とか?」
「ちょっと昨晩から、いろいろとあってな」
アルフィンとエリゼの質問攻めにあっただけでなく、ローゼリアから夜這い紛いの襲撃を受けたのだ。
得るものはあったとはいえ、リィンの受けた精神的な疲労は大きかった。
そのローゼリアはというと明け方近くまで話をしていたこともあり、まだ客室のベッドで眠っていた。
そうしたこともあって、少し早めの朝食を取りにオルキスタワーのなかに設けられたカフェに足を運んだところ、リィンはエリオットと再会したと言う訳だった。
「お前も、ここに泊まっているのか?」
「うん。二日後に教会でコンサートをすることになっててね」
「ああ、エリゼがそんなことを言ってたな。女学院の生徒と合奏する若手の演奏家って、お前のことだったのか」
「はは、まだデビューして間もないけどね。正直、この話をもらった時には驚いたよ」
アルフィンやオリヴァルトと顔見知りという点を考えれば、コネもあるのだろうが実力は確かだ。
それに軍人には向いていないが、意外と度胸も据わっている。
エリオットが見た目通りの優男ではないことをリィンも認めていた。
「よかったらリィンも聴きに来てよ」
「……気が向いたらな」
余り興味がないと言った素振りで曖昧な返事をするリィンを見て、エリオットは苦笑する。
リィンにも自分の演奏を聴いて欲しいという気持ちはあるが、エリオットは無理に誘うつもりはなかった。
意外と面倒見が良いことは知っているが、猟兵のリィンが教会で開かれる演奏会に足を運ぶとは思えなかったからだ。
(あ、でも……)
演奏会の下見で教会を訪れた際、偶然の再会を果たしたロジーヌの顔がエリオットの頭に過ぎる。
ロジーヌというのは、エリオットたちと同じトールズ士官学院に通っていた女生徒だ。清楚でお淑やか、学業の合間を縫って教会の手伝いをしたり、子供たちに勉強を教えたりと心優しい性格をしていて男子生徒からの人気も非常に高い女生徒だった。だからリィンとの関係は少し噂になっていたのだ。
実際には星杯騎士団に所属する従騎士で、トマスより〈暁の旅団〉の監視を命じられてリィンと接触していただけなのだが、そんな事情をエリオットたちが知る由もない。
「リィン。ロジーヌとは――」
あれからどうなのか、とエリオットが尋ねようとした、その直後。
「兄様!」
ロビーにエリゼの声が響くのだった。
◆
「リィン、素直に謝った方が……」
エリゼの剣幕に気圧されて、リィンに謝罪を促すエリオット。
そんなエリオットの視線の先には、半目でリィンを睨み付けるエリゼが座っていた。
そして、ちゃっかりとリィンの隣の席に腰掛け、たまごサンドを頬張る少女――ローゼリア。
皆で仲良く朝食と言った和やかな雰囲気とは程遠い状況にあった。
「兄様のベッドで寝ていたその子は、何者なのですか?」
誤魔化しや嘘は一切許さないと言った強い口調で、リィンに尋ねるエリゼ。
とはいえ、リィンはどう答えたものかと、ローゼリアを一瞥して逡巡する。
エマの祖母と説明するには、この見た目だ。信じてもらえるか怪しい。
だからと言って、魔女や地精のことをこんなところで話す訳にもいかないだろう。
どうやって、この場を乗りきったものかとリィンが悩んでいた、その時だった。
「妾の名はローゼリア・ミルスティンじゃ」
「ミルスティン? それって、エマさんと同じ……」
「ふむ。エマの知り合いかの? 確かに妾はエマの――」
祖母じゃ、と正体を明かそうとしたところで、昨日のリィンとのやり取りを思い出し、ローゼリアは言葉を呑み込む。
目の前にいる二人はリィンの知り合いだ。普通に明かしたところで、余り驚かれないような気がする。
それに自分の見た目がエマの祖母を名乗るには、余りに幼いことをローゼリアは自覚していた。
なら、他に何か適当な身分はないかと考え、
「妾は、そこにいるリィンとエマの娘じゃ」
冗談っぽくローゼリアが言葉を発した直後、場の空気が凍り付くのだった。
◆
「驚きました。エマさんの妹≠セったんですね」
「う、うむ……」
少し脅えた様子で、エリゼの問いに頷くローゼリア。
そんなローゼリアを見て、不用意な発言をするからだと、リィンは心の中で呟く。
しかし娘よりはマシとはいえ、咄嗟に吐いた嘘がエマの妹≠ネのだから、それもどうかと思う。
エマが聞いたら、どんな反応をすることか?
面倒なことになりそうだと、リィンは呆れた様子で溜め息を吐きながら話を補足する。
「エマを訪ねてきたらしいんだが、行き違いになったみたいでな」
「なるほど、そういうことですか……」
リィンの説明を聞き、きっと心細かったのだろうと解釈し、ローゼリアを心配するエリゼ。
本当は誤解なのだが誤解を解く気はないようで、蛇に睨まれた蛙のようにローゼリアは大人しくしていた。
怒らせた時のエマと同じものをエリゼから感じ取り、苦手意識を植え付けられたためだ。
「事情はわかりました。ですが、兄様。それならそうと事前に仰ってくだされば……」
「ああ、悪かった。寝てるのを起こすのも悪いと思ってな」
上手く話を合わせるリィンに、詐欺師でも見るような目をローゼリアは向ける。
一方でリィンは『こうなってるのは、お前の所為だろうが』と反論するかのように睨み返す。
「お二人は仲がよろしいんですね……」
一見すると仲の良い兄妹のようにも見えなくもない二人を、羨ましそうに眺めるエリゼ。
そんな微妙な空気が漂う中――
「僕、もう帰ってもいいかな?」
ひとり蚊帳の外に置かれたエリオットは、なんとも言えない顔でそう呟くのだった。
◆
「……また、幼女を拾ったのですか?」
「またって、なんだ。またって」
顔を見せるなり、こてんと首を傾げながら尋ねてくるアルティナに、リィンはいつものように反論する。
だが、アルティナの言っていることも傍から見れば、満更間違いとは言えないかった。
ベルにノルン。更には異世界からイオを連れて帰ってきて余り日が経っていないというのに、今度は金髪の少女だ。
誤解を招いても仕方のない状況だった。
「こいつは――」
「妾はエマの妹≠ナ、ローゼリア・ミルスティンじゃ」
「エマさんの妹ですか?」
その設定を通すのかと、リィンはローゼリアを見る。
エマが帰ってきた後のことを本当に考えているのか、不安になる大胆な行動だ。
しかし、自信満々に胸を張るローゼリアを見て、リィンは「もう好きにしろ」と投げ遣りに溜め息を吐いた。
「そうですか。エマさんを訪ねて……ということは、その件で私を?」
リィンから朝早くに『オルキスタワーまできてくれ』と連絡があってアルティナは呼び出されたのだ。
エマの不在をリィンに教えたのはアルティナだ。
その件で呼び出されたのかとアルティナは考えたのだが、
「いや、これから依頼人と会う約束があるんだが、そこに同席してもらおうと思ってな」
「私がですか? ヴァルカンさんではなく?」
リィンが依頼人と会う約束があると言うからには、猟兵の仕事に関することだろうとアルティナは察しを付け、疑問を返す。
普通なら副団長のヴァルカンを呼ぶのが適任だと思ったからだ。
アルティナも今や〈暁の旅団〉のメンバーの一人とはいえ、猟兵の仕事については余り詳しくない。
どうして自分なのか、とアルティナが疑問を挟むのも当然だった。
「お前に無関係な話ではないからな。それに聞きたいことも少しある」
「無関係ではない? もしかして……」
何かに気付いた様子を見せるアルティナに、リィンは頷きながら答える。
「そうだ。今回の仕事、お前の古巣≠ェ関係している可能性が高い」
予想していたとはいえ、緊張から息を呑むアルティナ。
アルティナにとって〈黒の工房〉とは、自分たちを造りだした組織だ。複雑な心境を抱えていることは、リィンも承知していた。
その上で、今回の仕事からアルティナを遠ざけるのではなく、最初から関わらせるべきだとリィンは決めたのだ。
しかし、
「どうする? どうしても嫌だと言うなら、今度の仕事からお前たち≠外してもいい」
リィンはアルティナの意志を確認する。
リィン自身は、今回の仕事はアルティナや姉妹たちにとって必要なことだと思っている。
他の誰かに任せるのではなく、謂わばこれは彼女たち自身が決着を付けなければならない因縁≠セ。
本当の意味で〈黒の工房〉の呪縛から解放されたいのであれば、当事者であるべきだとリィンは考えていた。
だが、結局のところ決めるのは彼女たち自身だ。
本人たちが望まない仕事を無理矢理させるつもりは、リィンにはなかった。
命令すれば、彼女たちは黙々と任務を遂行するだろうが、それでは人形≠セった頃と同じだ。
人形に命を預けるつもりはない。それがリィンの考えでもあった。
だから、まずは姉妹を代表して、アルティナの意志を確認しようと思ったのだ。
(私は……)
どうしたらいいのだろう?
いや、どうしたいのだろうかと、アルティナは自身に問う。
ここで嫌だと言っても、リィンはきっと怒らないだろう。そして一人でも、どうにかしてしまうに違いない。
リィンの強さと優しさは、ずっと傍で見続けてきたから知っている。
でも、その優しさに甘え、リィンに守られて生きていくことが、本当に自分のしたかったことなのだろうかとアルティナは考える。
(違う。私は……)
――人形のままでいるか、人として生きるかを選べ。
それは以前、リィンに尋ねられたことだ。
あの時は意味が分からなかった。
でも今は、
「私は、もう人形≠ノ戻りたくはありません」
あの時の答えを、はっきりとアルティナは口にする。
正直に言うと、怖い。〈黒の工房〉の名前を聞くと、どうしたらいいのか分からなくなる。
でも、二度とあそこに戻りたくない。あの頃の自分に戻りたくないと、いまなら言える。
「……一緒に戦ってくれますか?」
勇気をくれた人が目の前にいるから――
彼と、皆と一緒なら怖くても戦える。それが、アルティナのだした答えだった。
そんな人間≠轤オい複雑な表情を浮かべるアルティナを見て、
「当たり前だ。俺たちは家族≠セろ?」
リィンはニヤリと笑いながら、泣きそうな子供をあやすように頭を撫でるのだった。
◆
余談ではあるが――
「妾にはしてくれぬのか?」
からかうような声音でローゼリアに頭を撫でるように強請られ、
「お前は少し空気を読め」
イオがもう一人増えたみたいだと、溜め息を溢すリィンの姿があった。
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