「くそッ! なんだって、僕がこんなことを……」
デッキブラシを手に食堂の床磨きをするギルバートの姿があった。
小声で文句を垂れながらも逃げ出したりしないのは、どこにも逃げ道などないと理解しているからだ。
窓の外には、朝焼けに染まった茜色の雲が一面に広がっている。彼は今、教会が所有する飛行船のなかにいた。
守護騎士に与えられているという専用の船――メルカバ。
その二号機。星杯騎士団・副長、トマス・ライサンダーの船だ。
「ねえ、咽が渇いたんだけど」
「はい! ただいま用意します!」
それに逃げたりしたら、今度こそ殺されるかもしれない。いや、絶対に殺られる。
カンパネルラがシャーリィに防戦一方でやられるところを目にしているのだ。逆らう気など一欠片も起きるはずがなかった。
機敏な動きで台所へと向かうと果物を搾って作った特製ジュースを用意し、恭しく頭を下げながらシャーリィに差し出すギルバート。
その間、僅か三十秒。まさにパシリの鏡だ。
「あ、リィンおはよー」
「おはよう。相変わらず早起きだな」
「げっ……」
食堂に顔を見せたリィンに目を瞠り、思わず本音まじりの声が漏れるギルバート。
しかし、すぐに営業スマイルを浮かべ、揉み手をしながらリィンに挨拶をする。
「団長、おはようございます。何か、お作りしましょうか?」
「……お前、さっき俺の顔を見て『げ』とか言ってなかったか?」
「め、滅相もない! このギルバート! 団長に命を救われた恩を忘れていませんから!」
身を粉にして働かせて頂きます、と心にもないことを口にするギルバートを見て、リィンは呆れる。
ここまで突き抜けていると清々しいというか、怒る気すら失せてくるのだから、ある意味で才能と言えるだろう。
「いや、朝食はいい。毒≠ナも盛られたら、かなわないからな」
「そんなことは……」
「冗談だ。まあ、実際にやったら魔獣の餌にするだけの話だが」
最後のぼそりと呟いた方の言葉は冗談に聞こえず、ギルバートは頬をひくつかせる。
自分の知っているありとあらゆる情報を提供して、その上で床に額を擦りつけて命乞いしたのが昨晩のことだ。
なんでもするから命だけは助けて欲しいと願った結果、こうしてパシリもとい下働きとして扱き使われているのが現状だった。
しかし、それに不満を言おうものなら今度こそ用済みとばかりに殺されるだけだ。
そうと分かっているだけに、本人の前で文句を言えるような度胸を彼は持ち合わせていなかった。
「あ、リィンさん! おはようございます」
「ああ、おはよう。お前一人か? クルトはまだ寝てるのか?」
「甲板で、剣を振ってます」
「朝の鍛練か。こんな時まで真面目な奴だな」
レイフォンに挨拶を返しながら、冷蔵庫から取り出した缶ジュースを口にするリィン。
人質事件が解決したのが昨日の夕方のこと。そして、メルカバがリーヴスを発ったのは昨晩遅くのことだ。
ロジーヌに任せた事後処理に時間を食われたことが、少しばかり出発が遅くなった理由だった。
とはいえ、通常のルートでオルディスへ向かうなら列車でも丸一日は掛かる。それなら、まだ誤差の範囲だと考えたのだ。
どのみちリィンたちだけでは、オルディスの領主館に向かったところで通しては貰えないだろう。先にミュゼたちと合流をする必要がある。そのミュゼが落ち合う場所に指定したのは、オルディスから東へ車で三時間ほどの距離にある歓楽都市――ラクウェルだった。
約束の時間は今日の昼過ぎなので、メルカバなら十分に間に合う距離だ。
「でも、凄い船ですよね。こんな船を教会が所有していたなんて……」
しみじみと感想を漏らすレイフォン。確かに初めて見れば、驚くのも当然だ。
星杯騎士団の存在自体はそこそこ知られてはいるが、実際に守護騎士と会ったことがある人間などそうはいない。
ましてや、メルカバは存在自体が秘匿されている教会の機密の一つだ。
公にはされていないだけに、レイフォンが知らないのも無理はなかった。
「確か、メルカバと言ったか? 霊子エンジンを積んでるって話だが……」
「余り、そういうことを他の人に話すのはやめて欲しいのですが……」
溜め息を交えながら、リィンとレイフォンの会話にロジーヌが割って入る。
どこでそのことを知ったのかと今更問い質すつもりはないが、一応は教会の機密だけに誰彼と話されても困る。
ロジーヌから非難めいた視線を浴びせられるも、特に悪びれる様子もなくリィンは答える。
「話されて困るのは、教会に後ろめたいことがあるからだろ? 例えば、アーティファクトの件とか」
「それは……」
メルカバの動力には『天の車』と呼ばれるアーティファクトが使用されている。
各国には厳重に使用を禁止しているのに、自分たちはアーティファクトを兵器に利用しているのだから隠したくもなるだろう。
ロジーヌもリィンの言わんとしていることを察して、微妙に反論し辛い表情を見せる。
そんなロジーヌを見て、さすがに虐めすぎたかと苦笑を漏らしながらリィンは話題を変える。
「で? 俺に何か用があったんじゃないのか?」
そう尋ねられ、リィンには敵わないと言った顔で溜め息を吐くロジーヌ。
トマスだけでなく、あの総長までもが一目を置くだけのことはあると考えながら、
「彼女が目を覚ました」
リィンの質問に答えるのだった。
◆
扉をノックすると部屋の中から「どうぞ」とエマの声が返ってきて、リィンはドアノブに手を掛ける。
二段ベッドの置かれたメルカバの小さな船室にはエマとローゼリアの他、ベッドに腰掛けるヴァレリーの姿があった。
「もう、起きても大丈夫なのか?」
「はい、お陰様で。ご迷惑をお掛けしました」
そう言って頭を下げるヴァレリーに、リィンは「そうか」と一言返す。
「知っていると思うが、改めて名乗って置こう。リィン・クラウゼルだ」
「ヴァレリーと言います」
敢えて姓を名乗らないヴァレリーに対して、リィンは事情を察しながら少し突っ込んだことを尋ねる。
「バルムント大公の血縁者というのは、事実か?」
リィンの質問に対して、何かに耐えるようにギュッと握り拳に力を込めるヴァレリー。
そんなヴァレリーの反応に、エマとローゼリアから非難めいた視線がリィンに向けられる。
病み上がりの少女に対する質問としては、些か配慮に欠けると感じたのだろう。
少しは言葉を選べと言った二人の厳しい視線を無視して、リィンは話を続ける。
「話したくないならいい。だが、その場合はこれっきりだ。助ける義理もないしな。船を降りてもらう」
「さすがにそれは薄情すぎやせぬか?」
「何を勘違いしているのか知らないが、俺は猟兵≠セ。人助けが希望なら遊撃士を当たれ」
そう言われると何も言い返せず、ローゼリアは若干不満そうな表情を見せながらも引き下がる。
薄情なように思えるが、言っていることは筋が通っているからだ。
民間人の安全と保護を謳っている遊撃士であれば、事情を話さずとも取り敢えず保護してくれるだろうが、猟兵は違う。
一銭の得にもならない人助けなど話を聞く以前の話で、条件に折り合いがつかなければ相手が誰であっても依頼を受けることはない。それが猟兵だ。
アルフィンが相手でさえ、しっかりと報酬は受け取っているのだ。
相手が女子供であったとしても、その点だけは一歩も譲るつもりはなかった。
「話して頂けますか?」
そんなリィンの考えを察した様子で、エマはヴァレリーに尋ねる。
この点に関して、リィンが折れることはないと理解しているからだ。
とはいえ、リィンがこういう聞き方をするということは、まったく脈がないと言う訳ではない。条件次第では味方になってくれる可能性があると言うことだ。
それが分かっているだけに、エマはヴァレリーに辛くとも正直に事情を話して欲しいと考えていた。
そんなエマの思いが通じたのか?
「……はい。私は確かに悪魔の一族≠フ出身です。大公家の遠い親戚になります」
ヴァレリーはキュッと唇を引き締めながら、そう答えるのだった。
◆
――悪魔の一族。
それは、ノーザンブリアを捨てて国外へと逃げたバルムント大公。
その血に連なる一族に対して、ノーザンブリアに残された人々が付けた忌名だ。
「ノーザンブリアのことは噂には聞いていましたが、そんなことって……」
ヴァレリーから悪魔の一族≠ェノーザンブリアの人々にどう思われ、どのように扱われているのかを聞かされ、エマは悲壮な表情を滲ませる。
しかも両親を政府に拘束され、逃がしてくれた大人たちも追ってきた猟兵たちに殺されたと聞かされれば、尚更だ。
そんな話を聞かされれば、普通は心を痛めないはずがなかった。
「ふむ……なかなか過酷な人生を歩んでおるようじゃの」
ローゼリアもヴァレリーの境遇を聞き、同情めいた感想を漏らす。
何か事情があるとは思っていたが、まさかこれほどに重い話を聞かされるとは思っていなかったのだろう。
ノーザンブリアのことは噂で耳にすることはあっても、なかなか内情については詳しく外の人間が知る機会はないからだ。
しかし、
「やっぱり、そういうことか」
リィンは特に驚いた様子もなく、淡々とヴァレリーの話を受け入れていた。
最初から『悪魔の一族』については、よく知っていたからだ。
一般人には余り耳に馴染みのない話でも、裏の仕事を長く続けていれば一度は耳にしたことのある話だ。
ましてや、嘗て〈北の猟兵〉を率いていたバレスタイン大佐には、団の起ち上げなどで〈西風の旅団〉は世話になった恩がある。
その当時の話はリィンもルトガーやゼノたちから、いろいろと話を聞かされていたのだ。
ある程度ではあるが、ノーザンブリアの内情にも詳しい。
「……驚いたりしないのですね」
「別段、驚くほどの話でもないからな。それとも同情して欲しいのか?」
「いえ」
きっぱりと否定するヴァレリーに、それはそうだろうなとリィンは苦笑を漏らす。
リィンも自分の生まれが不幸などとは思っていない。それは、きっとエマも同じだろう。
だから人に同情されるのをよしとしないことは、ヴァレリーの目を見れば分かる。
「それで、お前はどうしたいんだ? いや、俺に何をして欲しいんだ?」
気を失う前にヴァレリーが漏らした言葉を思い出しながら、リィンは尋ねる。
同情を誘い、助けを乞うつもりなら放り出すつもりだった。
しかし猟兵に頼みごとをするのであれば、どうするべきかをヴァレリーは心得ているように見える。
だから話くらいは聞いて見る気になったのだ。
「お願いします。私に出来ることなら、どんなことでもします。だから、あの人を止めてください」
バレスタイン大佐を――と、ヴァレリーは深々とリィンに頭を下げるのだった。
◆
「申し訳ありません」
そう言って深々と頭を下げながら謝罪するアイネスに続き、エンネアも膝をつき、頭を垂れる。
「ですが、エンネアに非はありません。責任は、すべて私にあります」
「アイネス! 何を言うの!?」
「事実だ。不意を突かれたとはいえ、敵の前で気を失うという醜態を晒したのだからな」
それは違うと口を挟もうとするエンネアに対して、悔しさを表情に滲ませながらアイネスはそう答える。
リィンに不意を突かれたのだから仕方がない、などと言い訳をするつもりはなかった。
言い訳をしたところで敵の前で気を失い、エンネアの足を引っ張った事実は消えない。
その責任はすべて自分にあるとアイネスが考えるのも無理からぬことだった。
しかし、そんなアイネスの考えなどお見通しと言った様子で、二人の主≠ヘ答える。
「今回のことで責を問うつもりはありません。彼の者が出て来たのであれば、私がその場にいたとしても結果は変わらなかったでしょう」
「そんなことは……!」
ないと口にしようとしたところで、アイネスの脳裏にリィンから受けた一撃が過ぎる。
一撃で昏倒させられたとはいえ、リィンが本気でなかったことは攻撃を受けたアイネスが一番よく理解している。
リィンが本気であったのなら、鎧ごと身体を真っ二つに斬り裂かれていても不思議ではないと分かっているからだ。
だが正直に言って、ここまで圧倒的な差があるとはアイネスも思っていなかった。
そのため、ひょっとしたらマスターよりも……と言った考えが頭を過ぎったのだ。
「エンネア。あなたの目から見て、リィン・クラウゼルはどうでしたか?」
「……以前よりも更に強くなっているように感じました。彼を敵に回すのは危険かと思います」
エンネアの答えを聞き、二人の主――アリアンロードは「そうですか」と笑みを溢す。
どこか嬉しそうなアリアンロードを訝しむも、これからどうすべきをエンネアとアイネスは尋ねる。
すると、
「あの娘のことなら放って置いて構いません」
「ですが……」
「彼の者の傍に居るのでれば、悪いようにはならないでしょう」
まだ完全に納得した訳では無いが、それでもマスターがそう言うのであればと二人は大人しく引き下がる。
元よりアリアンロードがヴァレリーの境遇を哀れみ、彼女の保護≠引き受けたことに二人は気付いていた。
確かにリィンの傍に居るのであれば、結社とておいそれと手をだすことは出来ない。
カンパネルラとて、文句は言えまい。
彼も逃げ帰ることしか出来なかったのだから――
「それに急がずとも、いずれ時は来ます」
そう言ってアリアンロードが崖の上から見下ろす先には、デュバリィを相手に一心不乱に剣を振る一人の男の姿があった。
男のことを知る者が見れば、その光景に自分の目を疑うことだろう。
その男とは〈劫炎〉の異名を持つ執行者最強の男、マクバーンだ。
こんなところで彼が何をしているかと言うと――
「首を洗って待っていやがれ……リィン・クラウゼル!」
リィンに雪辱を果たすため、アリアンロードのもとで剣術の修行に励んでいた。
既にマクバーンが修行を初めて三ヶ月余り。
アリアンロードすら目を剥くほどの成長速度を彼は見せていた。
しかし――
「炎を使うのは禁止だと何度言ったら分かりますの!? わたくしを殺す気ですか!?」
「うるせえな……気合い入れると、漏れちまうんだよ。このくらいで死にはしねえよ」
「死にますから! 普通は死にますから!」
そんな二人のやり取りを眺めながら、まだもう少し時間が掛かりそうだとアリアンロードは溜め息を漏らすのだった。
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