カレイジャス二番艦アウロラ――
船の食堂でノートを開いて勉強に励む二人の少女の姿があった。
レン・ブライトとキーア・バニングスの二人だ。
この世界には義務教育のようなものはないが、代わりに教会が主催する日曜学校で子供たちは勉強している。
日曜学校に通うのは十五歳以下の子供が主で、ここで子供たちは初等から中等教育までの基本的な知識を学ぶことになる。
そのため、レンは日曜学校には通っていないが、たまにこうしてキーアの勉強に付き合っていると言う訳だ。
「ねえ、レンは進学するの?」
日曜学校を卒業した子供の多くは就職することになるが、最近ではエプスタイン財団が行っている奨学金制度などもあって高等教育機関への進学を希望する子供も増加傾向にあった。
キーアが生まれたのは五百年前なのだが、ほとんど眠っていたこともあって肉体的な年齢はレンとそれほど変わりが無い。
実際、戸籍上の年齢はレンと同い年だ。そのため、来年の春から希望するのであれば高等学校への入学が可能であった。
その上、キーアの成績は日曜学校に通っている子供たちのなかでも群を抜いている。
そのため、シスターから進学を勧められたのだろうとレンはキーアの話から察する。
レンの元にも家族や友人から、その手の心配をする手紙が毎月のように送られてきているからだ。
先日もジェニス王立学園の入学案内が同梱された手紙がリベールから送られてきていた。
とはいえ、
(大学ならまだしも普通の学校で学ぶようなことなんて今更ないのよね)
学校で教えているような知識は既に学習済みのレンにとって、普通に進学するメリットは少ない。
それならティオのように財団や企業で研究に従事した方が、才能を生かすと言う意味ではレンにとって有意義な時間と言える。
とはいえ、エステルたちの言うことも理解は出来るのだ。
エステル自身が学校に通っていないので説得力は皆無と言えるが、学校で学ぶことは何も勉強だけではない。
友達を作る以外にも学園祭や体育祭と言った催しに参加したり、学校でしか体験できないことがたくさんある。
進学を勧めてくる家族や友人は、きっとレンにそういう体験をして欲しいのだろう。
「まだ迷っているわ。キーアはどうするか決めたの?」
そして、同じことはキーアにも言える。彼女も〝天才〟と呼ばれる側の人間に違いないからだ。
知識量ではレンに及ばないものの因果律を可視化できる能力もあって、限られた情報から結果を導き出す力についてはキーアの方が優秀であった。
普通の学校に通うよりは、キーアも研究機関で仕事をした方が才能を生かすと言う意味では適切だろう。
しかし、キーアはレンと違って学校に通うことそのものを目的として楽しんでいた。
日曜学校に通っているのも、どちらかと言えば友達と一緒に何かをするのが楽しいからだ。
「うん、進学しようかなって。大きな学校に通うのも楽しそうだしね」
それだけに、キーアの回答にレンは納得する。
とはいえ、進学を決めたからと言って、それで問題がすべて解決と言う訳ではなかった。
どこの学校に進学するかと言うのが、このクロスベルでは最大の問題となるからだ。
先進医療を学ぶのであれば聖ウルスラ医科大学が有名だが、実のところクロスベルには高等教育に相当する学校が少ない。
ゼロとは言わないがそのほとんどが軍や警察の訓練校で、希望者の多くが諸外国の学校へ進学しているのが現状であった。
それと言うのも長くの間、クロスベルは帝国や共和国の影響下に置かれていたと言うのが理由の一つにある。高等教育機関への進学を希望する子供の多くを自国の学校に通わせることで帰属意識を芽生えさえ、クロスベルでの帝国や共和国の影響力を高めると同時に優秀な人材を確保するという思惑があったからだ。
この問題はクロスベル政府も認識しており新たに学校を創設する動きもあるのだが、一朝一夕に叶うはずもなく準備に時間が掛かっていた。
となると、普通の学校に通いたいのであれば外国の学校に進学するしかない。
同盟関係にある国の中から選ぶのであれば、リベールのジェニス王立学園が最有力候補となるのだが――
「それで、シスターにいろいろと相談に乗ってもらったんだけど、こことかどうかなって……」
キーアが鞄から取り出したのは、カルバード共和国のアラミス高等学校のパンフレットだった。
共和国の首都イーディスにある百年の歴史を持つ名門校。中等部もあるのだが高校からは留学生の受け入れもしており、自由な気風が特色となっている学校だ。
実際ここクロスベルからの留学生も数多く受け入れており、実のところエリィも数ヶ月と短い期間ではあるがアラミスで学んだ経験があった。
しかし、いまのクロスベルと共和国の関係は微妙だ。敵対していると言う訳ではないが、過去の諍いから完全に和解したとは言えない状態にある。ましてやキーアはバニングスの名からも察せられるように、特務支援課との繋がりが深い。戸籍を用意する時にエリィが自分と同じ『マクダエル』で申請しようとしたことがあるのだが、キーアが『ロイドと一緒がいい』と口にしたことから『バニングス』を名乗ることになったのだ。
マクダエル家の名前は有名過ぎるのでそれでよかったとも言えるのだが、さすがに共和国がキーアの情報を掴んでいないと言うことはないだろう。
エリィとの関係や〈暁の旅団〉の船へ頻繁に出入りしていること。
そして、先の『碧の大樹』の事件や『零の巫女』についても、ある程度は情報を掴まれていると思っていい。
そんな状況のなかで共和国の学校に通うと言うのは、リスクが大きいように思える。
しかし、キーアは賢い子だ。そのことに気付いていないとは、レンには思えなかった。
だとすれば――
「もしかして〝何か〟が見えたの?」
「やっぱり、レンには分かっちゃうか。うん……」
キーアは時々〝予知夢〟のような夢を見ることがある。
ただの夢と片付けることが出来ればいいのだが、キーアの場合は至宝の力を失ったとはいえ、因果律の可視化という特異な能力を持っている。
そしてノルンと力の一部を共有しており、現実と見紛うレベルの幻を生み出すことが出来るのだ。
それでも満足することなく力を使いこなすために、キーアが努力を重ねていることをレンは知っていた。
だからこそ、キーアの見た夢をただの夢と片付けることは出来ない。
とはいえ、
「尚更そんな話を聞いたら反対されると思うわよ」
そのことを知っているエリィが、共和国への留学を許可するとは思えない。
危険なことが起きると分かっている場所に、子供を向かわせる親などいないからだ。
ロイドがいない間はエリィがキーアの保護者となっているので間違いなく反対されるだろう。
仮にロイドであっても、事情を知れば反対するのは目に見えていた。
「だから、あのね……」
キーアが何を言わんとしているのかをレンは察する。
進学の話を振ってきた時から、レンにだけは打ち明けるつもりでいたのだろう。
「はあ……仕方がないわね。一緒に共和国の学校に通って欲しいって、そういうことでしょ?」
「うん。レンの都合も考えずに勝手なことだとは分かってるけど……」
「そこは別にいいわ。ただ夢の内容については詳しく話してもらうわよ」
「うん」
キーアの性格を考えれば、他人を巻き込むことをよしとするはずがない。本来なら自分の力でまずはどうにかしようと動くはずだ。
なのに行動を起こす前に相談をしてきたということは、自分の力だけではどうにもならない状況だと理解しているのだろう。
それにキーアの口振りから、自分たちに共通する関係者に危険が迫っているとレンは察していた。
恐らくは特務支援課の誰か、もしくは――
「あ、でもレンと学校に通いたいっていうのは本当だよ!」
屈託のない笑顔でそう話すキーアを見て、こういう子だったとレンは苦笑する。
嘘偽りのない本心からの言葉。夢の件を抜きにしても、純粋にレンと学校に通えることが嬉しいのだろう。
今更、普通の学校に通う意味などレンにはない。
それでもキーアの笑顔を見ていると、少しだけ楽しみにしている自分がいることにレンは気付かされるのであった。
◆
エルム湖を挟んでクロスベル市の対岸にある保養地――ミシュラム。
有名なテーマパークやショッピングモールの他、貴族や資産家の別荘が建ち並ぶ一角に一際豪華な屋敷があった。
嘗てはクロスベル市議会の議長を務めたことがある帝国出身の政治家が所有していた邸宅。
いまは迎賓館として使われている屋敷の一室に、共和国の要人と思しき女性の姿があった。
腰元まで届く艶やかな黒髪に白を基調したスーツに身を包んだ女性の名は、キリカ・ロウラン。
リィンがカエラに協力の見返りとして会談を要求していた共和国の要人――ロックスミス機関の室長だ。
「あなたも座ったら?」
国の機関で警察の上位組織とも言えるCIAと、大統領直属の組織であるロックスミス機関では同じ情報を扱う組織と言えど立場が異なる。しかし、ロックスミス機関が設立から三年の間培ってきたノウハウはCIAにも継承されており、実質的にキリカが共和国の諜報員たちを仕切っていると言っても過言ではない立場にあった。
直属の上司ではないが、CIA所属のカエラからしてもキリカは敬意を払うべき相手と言うことだ。
「いえ、お気遣いなく。これも職務ですから」
だからと言うのもあるのだろう。
緊張した面持ちで、どこかカエラの態度が硬く感じるのは――
しかし、それだけがカエラの表情が厳しい理由ではないとキリカは察していた。
(彼女がこれほど緊張するなんて噂以上の人物のようね)
会談の話を持ってきたのはカエラだが、キリカ自身もリィンとは一度会って話をしてみたいと思っていた。
ロックスミス機関のトップとしてリィンが共和国にとってどれほどの脅威になるのかを見極めたいという思惑もあるが、帝国の皇女だけでなくエリィやアリサほどの女性を魅了し、その一方で英雄とも魔王とも噂される彼に一人の人間として興味を抱かずにいられなかったためだ。
戦争である以上、味方からは英雄ともてはやされ、敵からは魔王や悪魔と恐れられるのはよくある話だ。
善人だとは思わないが恐れられる一方で、これだけ多くの人々に慕われていると言うことは悪人でもないのだろう。
しかし目的のためであれば、十万もの人間を殺すことができる冷淡さを備えていることは先の戦争からも明らかだ。
幾ら彼が猟兵だと言ってもそれだけの命を奪って正気を保っていられることには、キリカでさえ警戒を覚えずにいられなかった。
カエラが弟のことでリィンに感謝している一方で、どこか恐怖を押し隠すかのような態度を見せているのも、それが理由の一つにあるのだろう。
「そろそろ約束の時間ね」
壁に備えられた時計をチラリと確認すると、時計の針は正午を少し回ったところで止まっていた。
約束の時間まで、あと一時間ほど。
指定された場所に向かうため、キリカは席を立つ。
「あなたは残ってもいいのよ?」
「いえ、大丈夫です。会談に同席できなくても同行させてください」
キリカが自分のことを気遣ってくれていると察しながらも、カエラは職務だからと同行を願いでる。
責任感の強い彼女のことだから、そう答えるだろうと言うことはキリカも予想していた。
とはいえ、やはり彼女はリィンとの会談に同席させない方がいいだろうと考えるのであった。
◆
「はじめまして、キリカ・ロウランです」
「リィン・クラウゼルだ」
握手を交わし、互いにテーブルを挟んで向かい合うようなカタチで席に着くリィンとキリカ。
会談の場所はミシュラムのショッピンモールの一角にあるリゾートホテル。
非公式な会談と言うことで、ホテルの一室をエリィが用意したのだ。
「お噂はかねがね……お会い出来て光栄です」
「俺もアンタの話はいろいろと聞いている。泰斗流の達人だって噂もな――飛燕紅児」
最近は余り耳にすることのなくなった二つ名で呼ばれ、やはり自分の過去をリィンは知っているだとキリカは察する。
誰から聞いたのか? どこまでは知っているのかまでは分からない。
しかし、こうして会談を希望したと言うことは、既に下調べは済んでいるものと仮定してキリカは話を進める。
「随分とお詳しいのですね」
「ああ、アンタも調べはついてるんだろ? うちには〝訳あり〟の奴が多いからな」
訳ありと言うのが帝国解放戦線を名乗っていた元テロリストたちだけでなく、結社の人間も含んでいるのだとキリカは察する。
元執行者のシャロンが〈暁の旅団〉に加わったという話や、レンが〈暁の旅団〉に協力しているという情報は共和国も既に掴んでいるからだ。
他にも東方人街で百年に渡って恐れられる凶手――〈銀〉が〈暁の旅団〉に身を置いているという情報もキリカの耳に入っていた。
だとすれば、自分のことだけでなく共和国の情報についても、ある程度は把握されていると考える方が自然だと考える。
(情報の重要性を理解し、交渉における強かさも持ち合わせている)
強いだけでなく厄介な相手だと、キリカはリィンに対する評価を上方修正する。
もっともリィンがキリカのことをよく知っているのは、シャロンやレンからの情報ではなく前世の記憶によるところが大きかった。
共和国に身を寄せてからの彼女のことは知らないが、リベールで起きた事件のあらましは把握しているからだ。
だからこそカエラに協力する見返りとして、この会談を希望したとも言える。
「お互い忙しい身だ。挨拶はこの辺で良いだろう」
「では、聞かせてもらえるかしら? あなたの〝目的〟は何?」
幾ら考えてもリィンがこの会談を希望した目的がキリカには分からなかった。
自分とリィンには接点がなく、過去の出来事を知られていることも今日知ったくらいだからだ。
そもそもロックスミス機関の存在自体が極秘で、キリカが室長をしていることも対外的には知られていない。
クロスベル政府にも、大統領から交渉を任された外交官の一人であると説明しているのだ。
だと言うのに、リィンはキリカがロックスミス機関の室長だと分かっていて協力の見返りに面会を求めてきた。
これで警戒するなと言う方が無理がある。そんな風に警戒を滲ませるキリカに――
「キリカ・ロウラン。俺と手を組まないか?」
彼女の想定を上回る交渉を、リィンは持ち掛けるのだった。
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