すべての迷宮には、その異界の主とも呼ぶべき怪異が存在する。
 迷宮を生み出し、異界より人々の精神に干渉する力を持った『エルダーグリード』と呼ばれる怪異。
 更には、街そのものを異界へ取り込みほどの力を有した『グリムグリード』と呼ばれる強力な怪異も存在する。
 だが、グリムグリードまでであれば、容易い敵ではないが〈結社〉の執行者――レイラでも対処が出来ない訳ではなかった。
 この異変を引き起こしている元凶がその程度≠フ怪異なら、リィンたちの力を借りることもなかっただろう。
 しかし――

「もうこれは迷宮≠ネんて呼べる代物じゃないわね……」

 緋色の空を見上げながら、溜め息を溢すレイラ。
 徘徊する怪異の強さに差はあれど、基本的に迷宮と言えばゲームなどに登場する石造りのダンジョンや洞窟と言ったものがほとんどだ。
 だがこの迷宮は、これまでにレイラが目にしたことのある他の迷宮と一線を画していた。
 壁や天井が存在しない。地平の果てまで無限に広がる世界に、無数の小島が浮かぶ緋色の世界。
 迷宮と言うよりは、もはやこれは一つの世界と認識した方が正しいだろう。
 ――神話級グリムグリード。神の如き力を有した災厄の化身。
 もはや、それは怪異と呼ぶよりも神そのものだ。
 異界の神が内包する世界。それが、この迷宮の正体なのだとレイラは考える。

「……どうかしたの?」

 急に足を止めたリィンを訝しみ、理由を尋ねるレイラ。
 じっと上空に浮かぶ小島を見詰めながら、リィンはレイラの問いに答える。

「どうやら先を越されたみたいだ」
「え……」

 誰のことかはすぐに察するが、まさかと言った表情で驚くレイラ。
 リィンとレイラは結界を破壊し、迷宮の上空から扉をこじ開けて侵入したのだ。
 実際、かなりのショートカットをしたはずだ。それだけに、とっくにシャーリィを追い抜いたと思っていたのだろう。

「それって大丈夫なの? まさか、一人で戦いを挑んだりは……」
「逆に聞くが、シャーリィだぞ? 俺たちが追い付くのを大人しく待ってると思うか?」
「うっ……」

 リィンの話す光景が容易に想像できたのだろう。レイラは何も言い返せずに唸る。
 まだ短い付き合いではあるが、それでも武器を交えた相手だからよく分かる。
 間違いなくシャーリィなら敵を前にして躊躇したりはしないと――

「まあ、本気で敵いそうにない相手なら別だがな」

 シャーリィは勘が鋭い。それだけに相手の力を見抜くことに長けている。
 確かに戦闘狂ではあるが、勝負にならないと分かっている相手に挑むほど蛮勇ではないと言うことだ。
 なら少なくとも、この先にいる存在はシャーリィから見ても勝算のない相手ではないのだろう。

(神話級グリムグリードか。魔王と、どっちが厄介なんだろうな?)

 紅き終焉の魔王。その力は実際に対峙したリィンだから分かるが、高位の幻獣をも凌ぐほどだった。
 一方でこの世界の怪異と呼ばれる存在は、街を一つ滅ぼしたことがあると言われているグリムグリードですら中位から高位の幻獣に手が届くかと言った程度の脅威でしかなかった。
 普通の人間にとっては脅威かもしれないが、二つ名持ちの猟兵や遊撃士であれば十分に対処が可能な敵だ。
 それだけにリィンは『神話級』と恐れられる怪異の力を量りかねていた。
 普通に考えれば、少なく見積もっても高位の幻獣クラス。或いはツァイトと同じ聖獣クラスの可能性も考えられる。

「レイラ、お前は神話級グリムグリードを実際に見たことがあるのか?」
「ある訳がないでしょ……グリムグリードですら相当に珍しい存在なのよ?」
「だが、そんな存在が認識されてるってことは、過去に出現したことがあるんだろ?」

 神話級などと大層な名前をつけて、通常のグリムグリードと呼び分けているくらいだ。
 となれば、過去にそうした怪異が出現したことがあるのは間違いないだろう。
 その時はどうしたのかと、リィンが疑問を持つのは当然であった。

「国が一つ地図から消えたそうよ。多大な犠牲を払って、どうにか異界に封印することは成功したらしいけどね……」

 故に、災厄の象徴。
 人の身では決して抗えない存在として、いまも伝えられているのだとレイラは答えるのだった。


  ◆


「こんなところで何をしているのですか?」

 緋色に染まった空の下、東亰タワーの方角を眺める子供に警戒を滲ませながら、険しい表情で声を掛けるエマの姿があった。
 両親とはぐれたのではないかと普通は心配するところだが、その子供は明らかに普通≠ナはなかったからだ。
 布きれのような外套を羽織っているだけで、それ以外は靴すら身に付けていない。
 青みがかった髪に、紫紺の瞳。まるで生気を感じさせない人形のように白い肌。
 それだけでも、その少年――いや、少女が特別な存在であることは窺えるが、何より彼女は宙に浮いていたのだ。

(この雰囲気……)

 キーアに似ていると少女を見て、エマは思う。
 勿論、人間だった頃のキーアではなく、並行世界の――零の巫女として覚醒したキーアの方だ。

「お姉さんは……なるほど、彼――黒の王≠フ仲間だね」
「黒の王? もしかして、それはリィンさんのことですか?」

 エマの質問に、首を縦に振ることで肯定する少女。
 そのやり取りから、恐らくリィンが逃げられたと言っていたのは、目の前の彼女のことだろうとエマは察する。
 一瞬エマの頭を過ったのは、目の前の少女も怪異≠ネのだろうかと言った疑問だった。
 しかし、これまでにエマが目にした怪異は、何れも姿からして人と懸け離れていた。
 人のカタチはしていても、すぐに人間ではないと分かる特徴を有している化け物ばかりだったのだ。
 だが、目の前の少女は違う。見た目だけであれば、人間の子供と大差はなかった。

「私はエマ。エマ・ミルスティンです。よろしければ、あなたの名前を聞かせて頂けますか?」

 少なくとも相手に戦闘の意思はないと悟り、エマは自己紹介から入る。
 正直に答えてくれるとは思えないが、まずは警戒を解くために名前からと考えたのだろう。

「僕の名はレム。『異界の子』なんて呼ぶ人間≠スちもいるけどね」

 エマの予想に反して、あっさりと答える少女――レム。
 余りにもあっさりと情報を引き出せたことで虚偽の可能性を訝しむが、それはないかとエマは頭を振る。
 そもそも互いに相手の名前すら知らなかったのだ。仮に偽りの名であったとしても、それを確かめる術はない。
 それよりもエマには気になることが一つあった。
 レムは敢えて説明の中で『人間たち』と言ったのだ。
 だとすれば――彼女は人≠ナはないと解釈することも出来る。

「そういう言い方をすると言うことは、あなたは人ではないのですか?」
「狭間を歩く者。それが、僕だよ」

 敢えて否定も肯定もせず、自身のことを『狭間を歩く者』だと説明するレム。
 狭間――それを知り得る情報の中で考察するなら、恐らく次元の狭間のことだとエマは解釈する。
 だとするなら、やはり彼女はキーアに近い存在と考えて間違いないのだろう。

虚なる神(デミウルゴス)

 何気なくエマが口にした言葉に、先程までとは違った反応を見せるレム。
 驚いているような困惑しているかのような――それはレムにとっても想定外のことだったのだろう。
 だからこそ、

「僕をそう呼ぶってことは、僕と同じような存在にお姉さんたちは会ったことがあると考えていいのかな?」

 今度は自分の番だとばかりにレムはエマに質問を返す。
 そんなレムの反応から、やはり彼女はキーアに近い存在なのだとエマは確信する。
 なら、レムもキーアと同じように人間離れした高い感応力を有していると言うことだ。

「はい。確かに私たちは、あなたと同じような力を持った少女のことを知っています」

 だとしたら嘘や誤魔化は通用しないと考え、エマはレムの問いを肯定する。
 それにこう答えれば、レムはどう答えるのか?
 その反応が気になったのだろう。

「なるほど、お姉さんたちは外≠ゥらきた人間なのか」

 そのやり取りから、エマたちがこの世界の外――異世界からやってきた存在だと確信した反応を見せるレム。
 彼女自身『挾間を歩く者』だと自己紹介をしたように、世界と世界の境界を渡り歩く存在だ。
 そして、そんな存在と面識があると言うことは、エマたちも外の世界≠ゥらやってきた人間だと察したのだろう。
 リィンがどうしてあんな力≠持っているのか疑問だったが、それなら納得できるとレムは一人納得した様子で頷く。

「……あなたは違うのですか?」
「僕は……いや、やめておこう。その質問がでてくると言うことは、まだお姉さんたちは世界の真実≠ノ至っていないのだろうしね」
「何を言って……」

 思わせぶりなことを言うレムに、エマは困惑の表情を見せる。
 その口振りからもレムが何かを知っていることは間違いない。
 しかし尋ねたところで、先程までのように素直に答えてはくれないだろうとエマは思う。
 レムからは『これ以上話すことはない』と言った明確な拒絶の意思が感じ取れたからだ。

「それよりもいいのかい? こんなところにいて」

 だからと言って、はいそうですかと逃がす訳にもいかない。
 どうしたものかと様子を窺うエマに、レムは尋ねる。

「……なんのことですか?」
「気付いているはずだよ。この先にいるのは、ただの怪異じゃないと――」

 リィンの手助けに行かなくていいのかと、そう尋ねられているのだとエマは感じる。
 レムの言うように東亰タワーの方角からは、紅き終焉の魔王にも匹敵する強大な霊気を感じる。
 リィンであっても、易々と倒せる存在ではないだろう。
 しかしリィンは既に一度、その魔王を討滅している。いざとなれば、騎神という切り札もある。
 苦戦をすることはあっても、リィンの勝利をエマは微塵も疑っていなかった。

「問題ありません。仮に神や魔王が相手でもリィンさんなら……」
「勝てるだろうね。でも、彼以外の人間。あそこに集まっている人たちは、どうかな?」
「何を……まさか!?」

 レムが何を伝えようとしているのかを察して、エマの脳裏に最悪の可能性が過る。
 ――塩の杭。嘗て、ノーザンブリアの人々を襲った史上最悪の事件。
 突如現れた〈杭〉の浸食によって、国土の大半が塩と化すまで誰にも止めることが出来なかったと伝えられている災厄。
 それと同じようなことが起きれば東亰は――いや、それどころか、この国は無事では済まないだろう。

「早く行ってあげた方がいい。お姉さんたちなら、もしかしたら――」

 最悪の未来を回避できるかもしれない。
 そう言い残すと、動揺したエマが僅かに注意を逸らした隙を狙い、レムは霧と共に姿を消すのだった。


  ◆


「アンタが黒幕=H」

 緋色の空を見上げながら佇む黒髪の男に、そう声を掛けるシャーリィ。

「驚かないんだな」
「姿を真似てもリィン≠カゃないって分かるからね」

 リィンそっくりの男。
 いや、見た目だけであれば、リィンそのものと言っても良いだろう。
 しかし、目の前の存在がリィンでないことをシャーリィは一目で見抜く。
 姿は真似られても中身≠ワでは真似られないと分かっているからだ。

「どうして、リィンの姿をしてるのか分からないけど――」

 相手がどんな姿をしていても、やることに変わりは無いとシャーリィは殺気を纏い、愛用の武器を構える。
 幾ら偽物だと分かっていても、普通であれば見知った顔の相手を前にすれば、少しは躊躇するところだ。
 しかしシャーリィからは、そうした遠慮や油断が一切感じ取れない。
 いや、違う。仮に本物≠ナあったとしても、シャーリィにとって変わりないのだろう。
 それも当然だ。リィン・クラウゼルはシャーリィ・オルランドにとって気になる異性であると同時に、目標とする猟兵でもある。
 本物ならリィンが負けるはずがないし、偽物なら殺せば良いだけの話だ。
 相手がリィンだからと言って遠慮をする理由など、シャーリィにあるはずもなかった。
 それに、いつかは再びリィンに挑むつもりでいるのだ。なら――

「リィンの真似をするなら、ガッカリさせないでよね?」

 これが前哨戦とばかりに、シャーリィは獰猛な笑みを浮かべるのだった。



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