「はい、もういいわよ」
診察台に寝そべって、コードだらけになっているユリカに、イネスが言った。
「ふへ〜、やっと終わったんですか?」
「そんな情けない声出さないの。ミスマル提督に特に請われてやってるんですからね」
「お父様も心配性なんだから……別に、悪い処なんて無いんでしょ? イネスさん」
「ええ、まったく……2年近くコールド・スリープにかかったまま遺跡に融合されたっていうのに、呆れるくらいに健康ねぇ、貴方は」
「あ〜、イネスさんその言い方ひど〜い! まるでユリカが風邪引かないおバカさんみたいじゃないですか〜」
「誰もそんな事言ってやしないわよ……あら」
カルテに書き込んでいたイネスの手が止まった。
「どうしたんですか?」
「ミスマル・ユリカ、貴方……」
「な、何ですか?」
「貴方……1ヶ月前と比べて体重が2キロ増えてるわね」
ざくっ!
「それにウェストが2センチほど増えてるわ」
ぐさっ!
「う……そ、それは最近デスクワークばっかだったから……えへへ」
舌を出して頭を掻くユリカの姿は、2年前――火星の後継者に浚われる前とまったく変わった所はない様に見える。
イネスは盛大に溜め息をつくと、カルテを小脇に抱えた。
「ま、いいわ。貴方がどんなおデブさんになろうとも私には関わりない事だし」
「うう……イネスさんの意地悪……」
「泣き真似してもダメよ。自分の健康管理くらいは自分でしなさい。それはともかく、身体にはまったく悪い所は見られないから、次の検査は1ヶ月後で 良いわ」
「え〜、まだするんですか〜?」
不平を鳴らして頬を膨らませるユリカ。こうした仕草は非常に子供っぽい。
「文句言わないの。ただでさえ前例のない事なんだから……何があってもおかしくはないのよ」
「は〜い」
「それじゃ、今日はこれで終わり。何か身体に違和感があったらすぐに連絡するのよ」
「はい、ありがとーございました、イネスさん」
「別に……気にする事はないわ。貴方のためにやっている訳じゃないから……」
イネスの言葉が翳りを帯びる。だが、ユリカはそれに気付くそぶりすらなく、
「ちぇ〜、イネスさんはユリカが心配じゃないんですか〜?」
「……」
ますます膨れっ面になるユリカに、イネスは内心苛つきを感じていた。
ユリカは昔と変わらない。当然だ。彼女はこの2年間ずっと眠ったままだったのだから。
一人残されたルリが哀しみを乗り越えて歩みだした事も、アキトがユリカを救うため、文字通り命を削って戦っていた事も知らずに、のうのうと幸せな 夢を見ていたのだ。
もちろんユリカが悪いわけではない。悪いわけではないが、しかし……
「ねえ、ユリカさん」
「はい」
「貴方はどうして此処にいるの?」
「ほえ?」
ユリカがキョトンとした顔を向けてくる。
「えっと…………健康診断。イネスさんがわざわざ自分の研究所に来いって言ったんじゃないですかぁ」
「そいいう事を言ってるんじゃないわよ」
「え……じゃあ、お父様がどうしても検査を受けろって言うから……」
「違うわ。わざとらしくはぐらかすのはおやめなさい。私が何を言いたいのか、貴方には解っているはずよ」
「……何の事ですか?」
ユリカのおもてから笑みが消える。
「誤魔化しても無駄よ。貴方、どうして私にアキト君の事を訊かないの?」
「…………訊いたら教えてくれますか?」
「いいえ」
「それなら……」
「でも、それでも訊いてきたでしょうね。昔の貴方なら」
言いかけたユリカを遮って、イネスは続けた。
「私にアキト君の消息を尋ねないのは何故? アキト君が今まで何をしていたか、どんな状態だったか、訊いて来ないのは何故?」
「それは……」
「アキト君を捜そうとしないのは何故? いつもは感情一直線、思い立ったらすぐ行動の貴方がこの3ヶ月、言われるままにリハビリに励んで、身体が治 れば連合軍に復職して、デスクワークに勤しんで……ネット上でアキト君を捜す素振りすらないわ。何故?」
「それは……っ」
「それは?」
「私は……私はアキトから帰ってくるのを信じて……」
「嘘ね。貴方本当はアキト君を捜すつもりなんて無いんでしょう?」
イネスは冷酷に切り捨てた。激しく反論するユリカ。
「そんな事ありません! アキトはユリカの王子様です! それは今も変わりません!」
「王子様……ね。あなたはいつも言っていたわね……ナデシコに乗っていた頃から……」
そっとおもてを和らげるイネス。いっそ優しげと言っていい眼差しでユリカを見やる。が。
「その貴方の思い込みが、どれほどアキト君を縛り付けていたか、解る?」
紡がれた言葉は氷のナイフのようにユリカに突き刺さる。
「……え」
「アキト君が戻って来ないのは何故だと思うの? 貴方のその思いを裏切らないために決まっているでしょう! そんな事も解らないの!?……いいえ、 解っていたらこんな処にいる訳無いわよね……」
目を瞑って悲しげにかぶりを振る。
こんなのは自分らしくない。イネスは冷静な部分でそう思いながらも、言い募るのをやめようとは思わなかった。
「人を愛する事がどれほどに辛い事なのか……当たり前の様に他人からの好意を受けてきた貴方には解らないのね……」
アキトはいつも他人に怯えていた。幼い頃に両親と死に別れた故に、失う事を恐れて他人を遠ざけた。それでいて狂おしいほどに家族の温かみを求めて いた。
いつも微笑んでいたアキト。それは他人に嫌われたくなかったからだ。
感情を露わにして怒っていたアキト。彼はいつも他人のために怒っていた。それは他人の痛みが解るからだ。
いつも迷い、悩み、傷付き、それでも前に進んでいたアキト。目の前の事を放り出すほど無責任にもなれず、成り行きに全てを任せるほど馬鹿にもなれ ず、見て見ぬ振りが出来るほど器用にもなれず……
そんなアキトがユリカを選んだ時、イネスは心から祝福した。
自分ではもう彼の隣には立てない、それは解っていた。彼が自分を選んだとしても、決して彼は幸せにはなれなかっただろう。自分を見るたびに、彼は 自身を責め立てる。そんなアキトなど見たくはない。
かつての初恋のお兄ちゃんは、今や自分よりも年下になってしまった。その再会は遅すぎた。ならば、彼の幸せのために自分が出来る事は何でもしてや ろう、そう思っていた。
時々悪戯でもして彼を困らせて……それでも彼は笑って「仕方ないなぁ……」と言いながら許してくれる、そんな生活。
隣で彼の姿を見れないまでも、傍で彼の微笑みを受ける事が出来ないまでも、せめて遠目に彼の幸せな姿を見れれば、それでいい。
アキトとユリカの結婚が決まり、ルリが沈み込んだ顔をしていた事を知っていながらも、イネスはそう思っていた。なのに。
「私は……貴方ならアキト君を幸せに出来ると思っていたわ。でも、見込み違いだったようね……」
「そんな事ありません! アキトは……アキトは……」
長髪を揺らし、子供のように嫌々をするユリカ。
『二人とも子供なのよね……』
かつてエリナが、アキトとユリカを称してそう言ったのをイネスは知っている。
だが時が経ち、物事の裏を知ったアキトはもはや子供のままではいられなかった。その時、未だ子供の心を持ったユリカとの間に、溝が出来るのは当然 の事なのかも知れない。
闇を背負うものは光に憧れる。しかし、闇の深淵を覗いた者にとっては、その光は眩しすぎる。
光であるユリカには、決して解らない。
「貴方がどう思っていようと……私は私の思っている侭を言っただけ。貴方が本気でそう信じているのなら、私には何も言う事はないわ。好きな様にしな さい……ホシノ・ルリもそうしている事だしね……」
イネスはそう言い残して、診察室を去った。胸中に何とも言えぬ後味の悪さが残る。
ユリカは人に愛される事は知っていても、人を愛する事を知らなかった。そういう事なのだろう。
それを認めるのは、あまりにも哀しい事なのだとしても。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERア
ナザ・クロニクルCRONICLE
第3話
「プロローグV」
「アキトさん……」
開いたウィンドウの中にアキトの姿を認めたルリは、目頭が熱くなるのを感じていた。
前回逢ったのは2年振り。今回は3ヶ月。だと言うのに、今アキトの無事な姿を見ただけで、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
しかし、ウィンドウ越しに放たれたアキトの言葉は冷徹だった。
『……何の用だ』
まるで初対面の相手に話しかけるような口調に、ルリは僅かにたじろいだ。
言いたい事は沢山あったはずだ。だが、自分らしくもなく言葉がまとまらない。
「……アキトさん……もう復讐は終わったはずです。もう、アキトさんが戦う理由はないはずです」
『……』
「ユリカさんも私も、アキトさんが帰るのを待っています。また三人で一緒に暮らしましょう」
切々と思いを込めて語りかけるルリ。ナデシコCのクルーは、今初めて感情を露わにした彼女の姿を見たことになる。
そんなルリをウィンドウ越しに見つめるアキト。その表情はバイザーに隠され動かない。
『……俺の帰る場所は、もはや君の傍らには存在してはいない』
「そんな事はありません!」
『何もかも終わった事だ。もうこれ以上俺に関わるな』
「嫌です!」
『……ならば、力ずくで解らせるまでだ』
「私も……力ずくでアキトさんを連れ戻して見せます……!」
『……好きにしろ』
ウィンドウが途切れる。その刹那にアキトが苦笑を浮かべていたのが見えた様な気がして、ルリはアキトが昔から何も変わっていない事を知った。
アキトは昔からそうだ。何を言っても無反応な自分に何くれとなく構い続け、まるで見守るような視線を向けていた。あの頃のアキトにとって、自分は 妹のような存在だったのだろう。
アキトが、第一次火星大戦の時にアイ=イネスを護れなかった事に罪悪感を覚えていた事は知っている。当時の自分が幼い頃のアキトと同じく、他人を 寄せ付けないための殻を被っていたが故に、アキトが放っておけなかったのだという事も解っている。そして、それがただの同情などではない事も、今ではルリ は知っていた。
アキトの微笑みは何時しか凍てついていた自分の心を解かし、家族という温かさを教えてくれた。マシン・チャイルドであった人形に、ホシノ・ルリと いう人間の命をくれたのだ。
今こそ、その恩を返さなければならない。
「全艦、第1級戦闘配備。サブロウタさんはアルストロメリアで出撃、アキトさんの足止めをお願いします。ハーリー君はナデシコCの掌握及び防空管制 を執って下さい。目標戦艦へのハッキングは私が担当します」
ルリは矢継ぎ早に指示を下す。
何としてでもアキトに帰って来て貰い、2年前の幸せな生活を取り戻すのだ。
ユリカのために。自分のために。そして何よりも、アキト自身のために。
◆
「本気だな……ルリちゃん」
コクピットの中で一人呟くアキト。
かつての義妹の性格は、本人以上に解っている。彼女が何よりも自分の身を案じていてくれているのは承知していた。だが、その厚意に甘える訳にはい かないのだ。
自分はもはや不幸を呼ぶだけの存在だ。ルリには自分などに構わず幸せになって欲しいと思う。何よりも大事な家族なのだから。
瑠璃の翼の天使が漆黒の宇宙空間を翔る。飛び交うミサイルを紙一重の見切りで躱し、ただ一直線に突き進む。
ナデシコCの備えるディストーション・フィールドに、生半可な攻撃は通用しない。アナガリスは機動兵器としては破格の火力を誇っているが、それと て遠距離からでは弾き返されるのみだ。
ただ沈めるだけならボソンジャンプからの奇襲で終わりだが、そんな事が出来る訳がない。ここは機関部を狙って、戦闘力を奪っておくべきだろう。ア ナガリスのスピードならば機動兵器が出撃する前にケリが付く。
(クラッキングの体制が整う前に一撃で決める!)
ナデシコCの艦体がモニターにぐんぐんと迫る。アサルト・カノンを構えるアナガリス。その銃口から最大出力で放たれる荷電ボース粒子の弾丸は、強 力なディストーション・フィールドを突き破り、機関部に適度な損傷を与える――はずだった。
「何!?」
アナガリスの行く手に光芒が煌めき、純白の機体が姿を現した。単独ボソンジャンプを備えたB級ジャンパー専用機動兵器、アルストロメリア。間髪入 れず、両手に構えた長大なレール・カノンが火を噴く。
スラスターを稼働させてその火線を躱すアナガリス。
「アルストロメリアか……」
思わず呟くアキトだ。アルストロメリアは、アキトの乗機であったブラックサレナのデータを元に作られた機体である。正反対の色を纏ったこの機体が 自分の行く手を阻むとは、皮肉以外の何ものでもあるまい。
アナガリスのコクピットにウィンドウが開く。
『ウチの艦長、悲しませてんじゃねーぞ!』
サブロウタが猛る。彼の乗るアルストロメリアは背中にスラスターを装備し、チューン・ナップしたカスタム機である。
立て続けにレール・カノンを放つアルストロメリア。だが、アナガリスはウィング・バインダーを羽ばたかせ、その悉くを避ける。
『ちぃっ! なんて機動力だ!』
思わず毒づくサブロウタ。レール・カノンの残弾も残り少ない。
「邪魔だ! どけ!」
『どかないね! 艦長にはあんたが必要なんだ。何でそれが解らねぇ!』
「俺が傍にいても不幸を呼ぶだけだというのが何故解らん!」
アサルト・カノンを連射しつつ間合いを詰めるアナガリス。アルストロメリアはそれを躱しながらも後退を図るが、やはりスピードの違いはいかんとも しがたい。
ガシュ!
2機の機動兵器が交差して火花が飛び散る。アナガリスのインストールド・ブレードがアルストロメリアのレール・カノンを捕らえた。銃身が紙切れの 様に斬り裂かれる。
「こっちだって大幅に機動力がアップしてるってぇのに……」
銃身を失い、用を成さなくなったレール・カノンをうち捨てるアルストロメリア。
(勝てないまでも、負けるわけにゃあいかねぇんだ)
サブロウタはどうしても退く訳にはいかなかった。
サブロウタにとってルリは単なる上司ではなく、一個人として敬愛に値する人物であり、命を賭して守るべき少女だった。
それが恋愛感情などでない事は、『電子の妖精』親衛隊隊長のアララギ大佐に釘を刺されるまでもない。
初めて会った時のルリの儚げな姿は今でも覚えている。まるで存在そのものが希薄になってしまったかの様な、打ちひしがれた姿。予め秋山から聞かさ れてはいたが、宇宙最高のI.F.S.能力の所持者とは思えないほどだった。
何とかして彼女に本当の笑顔を取り戻して貰いたい。
その一心でサブロウタは陰ひなた無くルリを守り続けた。誰かが彼女の凍てついた微笑みを解かしてくれる時を待ち侘びて。
そして現れたのは、漆黒を纏った王子様。
『……あんたには艦長の傍にいてもらわなきゃぁ困るんだよ!』
サブロウタの駆るアルストロメリアは両腕のクローを引き出し、猛然とアナガリスに挑み掛かった。
◆
一方、ハーリーことマキビ・ハリにとっては事情が異なる。
彼にとってアキトは純粋な敵であり、憧れの艦長を惑わす極悪人であり、無意識下における恋敵である。手心を加える理由など何処にもありはしない。
アキトが死ねばルリは悲しむかも知れないが、それも一時の気の迷いに過ぎない。すぐに彼の知る艦長としての凛とした姿を取り戻し、アキトの事など 忘却の彼方へと追いやってしまうだろう。そして何時かは自分の想いに応えてくれるはずだ。
……ハーリーはまだ子供だった。想いで全てが叶うと信じている。
ルリやラピスと同じくマシン・チャイルドとして生を受けながらも、里親に恵まれ愛情を注がれて育った彼には、現実というものの残酷さが理解出来て はいなかった。
ハーリーは防空管制を執りながらも、ルリのハッキングの手助けをするべく意識を割く。ルリもそれには気付いていたが、敢えて口を出すような事はし なかった。
実際の話、ラピスの仕掛けたプロテクトは堅牢で、流石の彼女も手を焼きそうだったからだ。ルリにとっては決して破れぬものではないが、サブロウタ もそう長い時間保つとは思えない。今は時間が惜しかった。
幾重にも張られたプロテクトを破り、ダミーを避け、ルリはユーチャリスの中枢――ラピスの自意識と対峙した。
《ラピスさん……邪魔をしないで下さい》
《イヤ!》
《貴女はこのままで良いんですか? このままではアキトさんは本当に帰る場所が無くなってしまいます。ネルガルも何時までもアキトさんを隠し通せる 訳では無いんですよ?》
《ワタシには難しいコトはよく解らない……ワタシはただアキトと一緒にいたいだけ》
《ラピスさん……》
《ルリはアキトを取りに来たんでしょ……? ワタシはそんなのイヤ!》
《違います! 私はアキトさんのためを思って……》
《アキトはワタシと一緒にいてくれるって言った……ワタシはアキトのオヨメサン》
《お……お嫁さん……!?》
《ワタシはアキトとずっと一緒!》
《ちょ、ちょっと待って下さい。それって一体どういう事ですか!?》
「?」
ブリッジのI.F.S.シートに座り、オペレーションに集中するルリの眉間に皺が寄るのを、通信席のサクラ准尉は不思議そうに眺めていた。
◆
ガキィン!
サブロウタの裂帛の気合いも虚しく、アルストロメリアのクローはアナガリスのインストールド・ブレードによって受け止められた。
「ここまでだ!」
アキトの咆哮。アナガリスがアルストロメリアを蹴り飛ばし、追って放たれたアサルト・カノンの閃光がその左腕を吹き飛ばす。
『くっ! まだだ!』
なおも追い縋るサブロウタ。だが。
「ここまでと言った!」
ザシュ!
アナガリスのディストーション・ソードを振るう。歪曲場で形成された無形の刃が、アルストロメリアの四肢を薙ぎ払った。
もはや戦闘能力を失ったアルストロメリアを打ち捨て、アキトはアナガリスをナデシコCへと向ける。
『チクショウ!』
ガン!
サブロウタは悔しさを込めてコンソールを殴りつけた。
此処にもまた、想い叶わず現実に背かれた者が一人。
◆
『敵機動兵器急速接近!』
オモイカネが危機を告げる。我に返るルリ。
「ハーリー君、対空防御!」
「はい!」
ハーリーのI.F.S.コネクタが光を帯びる。
ナデシコCから放たれる無数のミサイルとプラズマ・ショック・カノンの火線が、アナガリスへと襲いかかる。
アキトはコンソールを握る手に力を込めた。通常ならば命の危険を感じるほどの密度を持った弾幕に、臆する事無くアナガリスを突き進める。
「う……おおおおおおおおっ!!」
アキトの口から叫びが漏れる。
剣を構えたアナガリスは、己そのものを矢と化してナデシコCのディストーション・フィールドを突き破った。
懐に入り込まれた戦艦に為す術はない。
この瞬間、勝敗は決した。
「第1相転移エンジン大破! 第2、第3相転移エンジン損傷!」
「ミサイル発射口沈黙!」
「エネルギー低下、ショック・カノン使用不能!」
「ディストーション・フィールド発生ブレード破損! ディストーション・フィールド使用不可能です!」
通信士のサクラ准尉とハーリーががひっきりなしに悲鳴を上げている。
だが、ルリはそれらには一切反応を示さなかった。彼女の意識は、目の前に佇んでいる瑠璃の翼を持つ機動兵器にのみ注がれていた。
ピッ。
緊急を告げるウィンドウが次々に展開する中で、それを押しやって現れたアキトのウィンドウ。
『ここまでだな』
「テンカワ・アキト! 貴様!」
屈辱感からアキトに噛み付くハーリー。しかしルリはそんな彼を静かに押し止める。
「ハーリー君、やめて」
「でも艦長!」
「静かにしていて下さい」
「……!」
ルリの声音は決して大きくなかったが、幼いハーリーの激情の火を消し去るだけの何かを秘めていた。何も言えず、押し黙るハーリー。
「アキトさん……」
ルリは震える声で呟く。
どれほどに待ち侘びたことだろう。
どれほどに想い焦がれたことだろう。
しかし、漸く再会した待ち人は、彼女の想いとは裏腹に別れの言葉を告げる。
『さよならだ、ルリちゃん』
「アキトさん! どうしてですか! やっと……やっと逢えたのに……」
『俺は2年前に既に死んだ人間だ。死人が生者の傍らにいる事は出来ない』
「そんな事ありません! アキトさんはこうして生きているじゃないですか……今、私の目の前にいる貴方は誰だと言うんですか……?」
『未練だよ、ルリちゃん』
潤んだ瞳で切々と訴えるルリに、アキトはかぶりを振って応えた。
『もうあの頃には戻れない。君には新しい居場所があるはずだ。俺の事など忘れて幸せになってくれ』
「私の幸せはアキトさんと一緒にいる事です! 私は……私はアキトさんが……」
ルリが自分の本当の想いを吐露する。
ユリカとアキトが笑い合っていた時、落ち込んでいる自分がいた。
ユリカとアキトの結婚が決まった時、胸を痛めている自分がいた。
ユリカとアキトのためを思って、ひた隠しにしていたルリの本心。たった一つの真実の想い。
『…………』
アキトはルリの涙ながらの告白を沈黙を以て受け止めた。
ルリがアキトに対して好意を抱いていたのは知っていた。しかし、その想いは精々兄に対するものだと思っていた。アキトにとってもルリは大切な 『妹』だったから。
いや、もしかしたらそう思い込む事で事実から目を背けていただけかも知れない。
アキトはルリの境遇に幼い自分を重ねていた。だからこそルリが自分に対して恋愛感情を抱く事に対して、抵抗していたのかもしれない。
アキトは怖かったのだ。また、大切なものを失ってしまう事が。だからこそ、ルリを選ぶ事が出来なかった……
今、冷静に考えてみれば、そう思う。
2年前なら違う道が選べたのかも知れない。だが、もう遅い。いっそ、時を巻き戻して全てをやり直す事が出来たのなら……
(未練、だな……)
アキトはそっとバイザーを外した。視界が闇に歪む。それに構わず、アキトは微笑んだ。
かつての様に笑えているかは解らない。だが、ルリの真心には、本当の自分の心で応えてやりたかった。
『済まない、ルリちゃん。そして、ありがとう。こんな俺の事を想ってくれて、とても嬉しい。
だが、だからこそ俺はルリちゃんの傍にはいられない。これ以上君を傷付けたくはないんだ』
「アキトさん!」
『さよなら……ルリちゃん』
「待って……待って下さい! アキトさん!」
アナガリスは翼を広げたままゆっくりとナデシコCのブリッジから遠ざかる。縋るようなルリの声に、アキトは穏やかな笑みを浮かべる。
これでいい。自分が消えればルリも諦めがつくだろう。そして何時かは自分の事を忘れ、幸せを手に入れてくれるはずだ。
《ラピス……ジャンプ》
背後に迫るユーチャリスがジャンプ・フィールドを形成する。そのフィールドに触れて、アキトはイメージを形成する。遠くへ。ルリが追って来られな い程の遠くへ……
運命に翻弄された二人の男女は、今ここに別れを迎えようとしている。
しかし、運命の女神は更に残酷だった。
損傷していたナデシコCの第2相転移エンジンが、突如として火花を吹いた。臨界を突破し、暴走する相転移炉。
オモイカネは緊急処置として相転移エンジンをパージ。宙を漂うナデシコCの機関部……そして爆発。
莫大なエネルギーが荒れ狂い、ユーチャリスの形成していたジャンプ・フィールドに歪みが生じる。
更に不運は重なる。
ルリとラピスのクラッキング合戦の合間に、こっそりとユーチャリス中枢に侵入していたハーリーが、機関部のプログラムを掻き回していたのだ。その 結果……
『ジャンプ・システムに異常発生! ボソンジャンプ緊急停止!』
「何!?」
オモイカネダッシュのウィンドウが事態を告げる。
砕けるジャンプ・フィールド。イメージが掌からこぼれる雫の様に霧散してゆく。
しかし、アキトを包むボソンの光は止まらない。ナノマシンが活性化し、アキトの肌が発光する。
「いかん! ラピス、離れろ! ランダム・ジャンプに巻き込まれるぞ!」
《イヤ!》
ラピスは、ユーチャリスのディストーション・フィールドでアナガリスを包み込む。
「くっ……! すまん、ラピス……!」
もはやアキトの意思ではジャンプは止まらない。これが最後と、アキトはルリに向き直った。
「ルリちゃん……やはりこれでお別れだ」
『アキトさん!』
「俺が言えた事じゃないが、ユリカを頼む。そしてルリちゃんも幸せになってくれ。これは俺の本心だ。ルリちゃんは俺にとって大切な――」
光が弾ける。
想いの欠片を言葉に残して、アキトはユーチャリス共々閃光の中に消えた。
『アキトさん! アキトさん! アキトさぁーーんっ!!』
ルリの悲痛な叫びが木霊する。
それ以後、瑠璃色の翼を持った機動兵器の姿をルリが見る事はなかった。
もう、二度と。