アルカディア・コロニーに落ち延びたコロニー避難民たちが見たのは、もぬけの殻になっている宇宙港だった。
正規に運用されていた輸送シャトルは、アルカディア・コロニーの住人達の脱出のためにとっくに使われており、一機たりとて残ってはいなかった。
自分たちを守るべき軍が真っ先に逃げ出したのだ。絶望に包まれる避難民たち。
そんな中で最後まで諦めなかったのは、陥落したコロニーから此処まで避難民達を護衛してきた、火星駐留軍の少年パイロットたちだった。
彼等の檄に促される形で宇宙港の洗い直しが行われ――結果、閉鎖された格納庫の奥深くに眠っていたシャトルを見つけられたのは、全くの僥倖と言っ て良いだろう。
絶望に打ちひしがれていた人々は、差し込んだ一縷の希望の光に沸き立った。
ドックでは、整備経験のある者がプロアマ問わずせわしなく駆けずり回り、このコロニーにただ一つ残ったシャトルの整備に当たっている。
その格納庫の一角で、改めて再会を喜び合うイツキたちの姿があった。
「そう……カイトはユートピア・コロニーに……」
「ああ、敵さんの空母が落下したって聞いて、静止を振り切って飛び出して行っちまったんだ」
「イツキの配備された所って、ユートピア・コロニーの近くだったもんね……」
「イツキはコロニーでカイトに会っていないのか?」
「ええ……私は他のコロニーの救援のために出動してて、その場にはいなかったの。私が駆け付けた頃にはユートピア・コロニーは完全に陥落していた わ……助ける事が出来たのは一人だけで……」
「そう……」
イツキは急ごしらえの看護ベッドを見やった。くすんだブロンドの妙齢の女性は、安らかな寝息を立てている。
「アキトさんとはユートピア・コロニーの地下シェルターで会ったの。彼女を助ける手助けもして貰ったわ」
「そうか……」
「そういやァ、あの黒ずくめのあんちゃんはドコ行ったんだ?」
カズマサが辺りをきょろきょろと見回す。彼には昔からオーバーアクション気味な所があった。
「あ、カレならなんか調べ物があるとかで、中央管制塔に行ったよ?」
「ふーん……っておい、いいのかよ?」
「良いんじゃないか? 確かに格好は滅茶苦茶怪しいけれど、助けて貰った事でもあるし……」
「そうそう、カズマサよりはよっぽど頼りになるんじゃない?」
「チェッ……み〜んなお気楽だよなァ」
「カズマサがそんなコト言う?」
「どーゆー意味だよ?」
「そ〜ゆ〜意味だよ?」
険悪な表情を作るカズマサと、笑顔でそれを受け流すジェシカ。思わずイツキは吹き出してしまう。
「ふふっ、二人とも相変わらずね」
「まったくだ。少しは進歩して欲しいよ」
クロウがやれやれと肩を竦める。
この一時だけは、状況を忘れて穏やかな時間が流れていた。
◆
中央管制室に、無機質な電子音が間断なく響いている。
アキトが手に持った携帯端末を操るたびに、凄まじい速度でデータが読み込まれていく。
その様を驚きの表情で眺めている管制官達。
「終わりだ」
やがてアキトがそう告げると、手に持った端末を閉じる。管理コンピューターに直接繋いでいた有線端子を引き抜くと、シュルルル……という音を立て てコードが携帯端末へと収納された。
「……凄いですね。本業のオペレーターより早いんじゃないですか?」
作業が終わったのを見てとって、管制官の一人がアキトに声を掛ける。
「……ほんの余芸だ。本業には敵わん」
無愛想な返事が返ってきた。
アキトにしてみれば、それこそ有史上最も優秀なオペレーターと言っていい人物を二人知っている。彼女たちに比べれば、自分のオペレートなどほんの 子供騙しに過ぎない。
「そんな、謙遜ってもんですよ。自分たちが四人掛かりで半日はかかる航行プログラムのセッティングを、たった一人でほんの1時間ほどで終わらせてし まったんですよ?」
「別に謙遜などしているつもりはない。……発進準備が整うまであとどれくらい掛かる?」
「そうですね……あとは細かい微調整だけですから、あと半日と言うところです」
「そうか……後は頼む」
「はい、任せて下さい」
人の良い管制官の声を聞きながらアキトは中央管制室を出た。腰に差した携帯端末にそっと手を添える。
アキトが中央管制室に来たのは、シャトルの航行コンピューターのプログラミングの事もあるが、火星の現状を知るために、中枢ネットワークにアクセ スするのが目的だった。
プログラミングをする傍ら、火星全域の地表データは端末にダウンロードしてある。この携帯端末はアキトが身につけていた物で、6年後のテクノロ ジーで作られているのだ。
端末のコンソールに触れる事で、アキトはデータを直接『視る』。
火星の後継者たちによって注入されたナノマシンによって、アキトはパイロットとしてだけではなく、オペレーターとしての能力も得ている。アキトの 右手の甲にある紋様を見れば、パイロットやオペレーターのそれとは違う形をしている事が見て取れただろう。
「どうやら、やらなければならない事が増えたようだな……」
独りごち、アキトはその場から姿を消した。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第6話
「雪の雫の花びらよ」
アキトがドックに帰ってきた時、其処は物騒な喧噪に満ちていた。イツキの知り合いであるらしいエステバリスのパイロット達と、民間人とが睨み合っ ている。
その民間人の集団には、アキト達が助けた女性――アイの母親の姿も見て取れた。
ふたつの集団は何やら口論をしているらしい。アキトが入ってきたのにも気付いた様子はない。
一人その輪から外れ、戸惑いの表情を浮かべているイツキを見つけて、アキトは声を掛けた。
「どうした?」
「あ、アキトさん……何処に行ってらしたんですか?」
「少しな……それより、これは一体何の騒ぎだ?」
「それが……避難してきた民間人の一部の方たちが、シャトルには乗らないと言い出しまして……」
「………ほう?」
改めてそちらを見やる。アキト達が話している間にも、論争は次第に熱を帯びてきていた。
「だからっ! 理由を言えってんだよ! こちとら命がけで機械昆虫からあんた達を守ってきたんだ。此処に残りますって言われて、はいそーですかって 納得できるか!」
「理由をあんた達に話したところで判るはず無いだろう! 儂らは儂らの判断で残ると言っとるんだ、それ以上ガタガタ抜かす事なんぞあるか!」
「あなた達が何を望んでそう言っているのかは判りかねますが、火星に残って無事に生き延びられる保障は全くと言っていいほどありまえんよ?」
「そんなこたぁわかっとる! あんたらに言われるまでもない。何しろ儂らを真っ先に見捨てたのは、軍の連中なんだからな」
「あたし達が信用できないって言うの?」
「あんた達には感謝しとるさ。だが、それとこれとは話が別だ」
「だから何でだよ! 全っ然わかんねェよ!」
カズマサが頭を掻きむしる。程度の差こそあれ、他のメンバーも似たり寄ったりの表情を浮かべている。
イツキも同様だ。問い掛けるともなく呟きを漏らす。
「どうして、彼等はあんな事を言い出したんでしょうか……」
「分からんか?」
「え? アキトさんには分かるんですか?」
こちらを見上げるイツキには答えず、アキトは民間人の集団に視線を向ける。
見れば、彼等の過半数は老境に達した者ばかり。あとはアイの母親と同年代かそれより少し上の世代の男女が占めている。
火星に人の手が伸びてから一世紀。本格的な入植が始まってから四半世紀。現在、火星には三百万を超える人々が日々の糧を得て暮らしていた。
この地で永く暮らした者達にとっては、火星こそが本当の故郷なのだ。死すべきは火星の大地で、と心に決めた者もいるだろう。老い先短い者達にとっ て、余生を他の地で過ごし、其処に骨を埋める気にはなれないのだ。
そして、アイの母親と同じ境遇の者達。この戦闘の混乱の中で、我が子と、姉弟と、肉親と引き離されてしまった者達。彼等の気持ちはアキトには痛い 程良く分かる。
だが、だからといって彼等をこのまま残して行く訳にはいかない。
「少し落ち着いたらどうだ」
アキトが声を掛けると、双方から鋭い視線が返ってきた。その視線に微塵も怯む事なく、先を続ける。
「あんた達は火星を離れたくないと言っているんだな?」
「そ、そうだ」
民間人の集団はアキトの怪しい格好に怯みながら、ぎこちなく頷いた。
「なら話は早い。あんた達は希望通り火星に残ればいい。こっちはこっちで脱出させて貰う」
「ア、アキトさん!」
イツキが慌てて割り込んでくる。残留希望者達もこれほどあっさり許されるとは思っていなかったのか、戸惑いを浮かべている。
「嫌と言っている者を無理矢理連れて行く事はない。下手をすれば無用のトラブルの原因にもなりかねん。災いの芽は、早めに刈り取っておくべきだろ う」
「だ、だからって――」
「だからと言って」
カズマサが上げた声を遮ってアキトは言う。
「一時の感情に流されて判断を誤る事はない。肉親や親しい者達が本当に望んでいる事は何なのか、限られた時間だが、充分に考えるべきだろう。
その上で出した結果だというのなら、俺達にそれを止める理由も権利もない。自分のしたいようにすればいい。
少なくともシャトルが発射するまでは、俺達が責任を持って守り抜こう。そうだな?」
「あ、ああ」
最後の問い掛けはカズマサ達に向けたものだ。ぎこちない返事に頷きを返して、アキトはマントを翻した。
「搭乗する時間は限られている。最後に決めるのは自分自身だ。後悔する事が無いように……な」
去っていく黒い背中に、その場に残された者達は互いの顔を見合わせた。
アキトの言葉に、それぞれが違う意味で考えさせられた。
一抹の理を認めた者もいれば、反感を覚えた者もいるだろう。特に反発を示したのはカズマサだった。
「何だよアイツは! 何だってこのまま居残れば良いみたいな事を言いやがったんだ!?」
「でも、彼の言う事にも一理ある。残留希望者達を強制的に乗せても問題が起こるだけだ。場合によっては強硬手段に訴えられて、俺達全員火星の土に還 る羽目になるかもしれない」
「だからって、納得できるかよ!」
「もちろん納得は出来ないさ。でも、長く此処で暮らしていた人たちにとっては、火星はかけがえのない故郷なんだ。俺達には計り知れない程の思い入れ があるのかも知れない。それを無視してまで俺達が介入する事は出来ないだろう?」
「分かってる! 分かってるけどよ……」
「やっぱり納得は出来ない、よな……」
シンヤの呟きに全員が俯いてしまう。そんな暗い雰囲気に、話題を変えるジェシカ。
「あれ? そう言えばイツキはドコ行っちゃったの?」
「バドの整備に行くって言ってたよ……『私に他に出来る事はないから……』って」
「そっか……イツキらしいね……」
「俺達も、落ち込んでいても始まらない。今は出来る事をしよう」
「そうだな……」
頷き合って、彼等は立ち上がった。
◆
シャトルの発射準備は着々と進んでいる。
残留を希望している極少数の者を除いて、搭乗は既に終えており、物資や食料の運搬も済みつつあった。
アキトの言葉によって翻意した者達も、シャトル搭乗の準備を進めている。残留を決意した者、未だ迷っている者は格納庫の一角でその様子を見守って いた。ある者は不安げに、ある者はシャトル発射の無事を願って。
その中に、アイの母親――ケイ・フォーランドの姿もあった。
彼女は生死不明の娘を捜すために、火星残留を決意していた。生存が絶望的なのは分かっていた。だがそれでも、アイを見捨てる事は出来ない。そう思 う。
悲壮な覚悟を胸に、膝を抱えて座るケイの肩に、そっと手が掛けられた。
「……少し、良いか?」
顔を上げると、そこには先ほどの黒ずくめの青年の姿があった。
「有り難うございました。イツキさんに聞きましたわ、わたしを助けて戴いたそうで……」
「別に……気にする事はない」
ケイの感謝の言葉にも、黒ずくめの青年は無愛想な返答を寄越すだけだった。
格納庫を少し奥に入った、人気のない通路。少し話があると言う彼の後に付いて、やって来たのが此処だった。
「あの、それで、お話というのは……?」
「ああ……」
青年は逡巡するように間を空けたが、やがて顔を上げるとケイの眼をまっすぐに見つめた。
「これから俺の言う事には何の根拠もないかもしれん。理由も言う事は出来ないし、何故俺が知っているかも語る事は出来ない。
それをわきまえた上で……しっかり気を持って聞いてくれ。
貴女の娘さんは……生きている」
「え……?」
ケイは呆然とした面もちで青年を見返した。一瞬、何を言っているのか理解できなかった。霞が掛かったようにぼやけた頭にその言葉の意味が浸透する に従って、ケイは劇的に表情を変えた。
「ど、どういう事ですか!?」
「落ち着いてくれ」
「アイの居場所を知っているんですか!? アイは無事なんですか!? アイは、アイは何処に――」
「落ち着けと言っている!」
アキトの一括に身を竦めるケイ。組んだ手を胸に押し当てて、まるで痛みに耐えるかのように俯き瞳を瞑る。やがて絞り出すような声音が彼女の唇から 漏れた。
「どうして……貴女にはアイが生きていると解るんです……? そんな、安っぽい気休めなんか……止して下さい……」
「貴女は……娘さんが死んだと諦めているのか?」
「そんな事ありません! 生きて……生きていて欲しい……あの娘はまだ、たったの7歳ですもの……
でも……状況は聞いています。わたしの他に……助かった者はいなかったと…………」
両の瞳から涙が零れ出す。嗚咽を漏らすケイに、アキトは静かに問いかける。
「なら、何故貴女は此処に残ろうとしたんだ……?」
「アイを……一人には……しておけなかったから…………」
「そうか……
だが、その必要はない。貴女の娘は、生きている」
「ほん、とに……?」
涙に潤んだ瞳が縋るようにアキトを見つめている。アキトはゆっくりと頷いた。
「さっきも言った通り、事情を説明する事は出来ない。どれだけ説得力に乏しいかも解っているつもりだ。
だが、それでも敢えて言う。貴女の娘――アイちゃんは生きている。
信じろ。生きてさえいれば、必ず逢える! たとえ姿が変わろうと、どれだけ時が離れようと、貴女の娘である事には変わりはない!
だから……貴女は火星を脱出するんだ。こんな所で死んでは駄目だ。生きて、またアイちゃんをその両手で抱いてやってくれ……」
バイザー越しにまっすぐケイの瞳を見つめるアキト。その優しさと哀しみの入り交ざった双眸は、彼女の知っている少年の面影と重なって見えた。
「貴方、は……」
「さあ、行くんだ。まだ間に合う」
「あ……」
ケイの身体を押し出すアキト。彼女の視線は未だにアキトに捕らえられていたが、ぺこりとお辞儀をすると身を翻して駆け出していった。
その背中を眩しそうに眼を細めて見つめるアキト。ケイの姿が見えなくなり、静かに息を吐くと、
「で、いつまで隠れて入るつもりだ?」
「――っ!」
がしゃん! がらがらがら……
ものすごい物音がして、通路の物陰から金物のバケツが転がってきた。
「…………」
「…………」
痛いほどの沈黙が落ちる。
アキトが何も言わずにいると、やがて根負けしたか、イツキが申し訳なさそうな顔をして出てきた。
「気付いてたんですね……」
「まあ、な。立ち聞きとは、あまり良い趣味とは言えんな」
「すいません。お二人がこっちに来るのが見えたものですから、つい……」
「まあいいさ」
アキトはさして気にした風もなかった。一言で片づけると、その場を後にしようとする。その背中に、イツキが声を掛けた。
「あの……!」
「何だ、覗き屋」
「あうっ」
イツキは精神的に仰け反ったが、何とか踏み堪えて、
「あ、あの……どうしてあんな事を?」
「……何の事だ?」
「ケイさんのご息女の事です。あの状況で、他に生き残りがいるはず無い。どうしてあんな嘘を……」
「嘘じゃないさ。彼女が信じれば、それは真実になる。それに、俺は気休めを入ったつもりはない。それが事実だからだ」
「そんな……? なら、貴方はどうしてそれを……?」
「……それは――」
……ズゥゥ……ゥゥンン……
アキトの言葉を遮るように、地響きが辺りを揺るがした。続いて、エマージェンシーを告げるサイレンが響き渡る。
「……敵が此処を嗅ぎ付けたようだな」
「その様ですね……お話は、また後でお伺いします。今は――」
「ああ、生き延びる事が先決だ」
駆け出し、それぞれのバドに向かう二人。
だが、話の続きがかなり先になる事に、イツキは気付いてはいなかった。
『ちくしょうっ! なんてェ数だよ!』
雲霞の如きバッタ達の大群に、カズマサが毒ずく。倒せど倒せどキリがない。
既に戦闘が始まって2時間が経過している。後ろに控えるシャトルから、発進準備完了の報せはまだ来ない。
『もう限界だよ〜っ!』
『くっ、このままじゃ……』
ジェシカやクロウまでもが弱音を吐いている。
(限界だな……)
アキトは冷静にそう判断した。アキトがいくら強かろうと、千を超えるバッタの群からシャトルを守りきる事など不可能だ。そういう意味では、クロウ 達は良くやっていると言えた。
機体の損傷度も酷くなっている。活動限界も近い。
(まだか……?)
焦燥を押さえ、プロト・エステを駆るアキト。マシンライフルの銃弾は凄まじい精度でバッタに穴を穿ち、繰り出す手刀は確実にバッタを引き裂く。
しかし、無限に湧き出るバッタの前には、一騎当千の活躍も焼け石に水だった。
それは、絶望的な抵抗に見える。
それでも希望の光は確実に存在する。彼等はその光を目指し、ただ前だけを見て突き進んでいるのだ。
そして――彼らは賭けに勝った。
『こちらシャトル『スノー・ドロップ』。発進準備は完了した。これより離陸に入る!』
『やった!』
シャトルから、待ちに待った報せが届く。沸き立つクロウ達。
「喜ぶのはまだ早い! シャトルの守りを固めろ!」
『そうよ! みんな生き延びなきゃ、成功なんて言えない!』
イツキがアキトの言葉に続く。
格納庫がふたつに開いて、シャトルが姿を現す。
その機体は古ぼけて、とても純白には見えない。しかしアキトはスノー・ドロップの花言葉の一つが、『希望』である事を知っている。
希望に向けて飛び立つ純白の花。それを、守るのだ。
アキト達の護衛を受け、スノー・ドロップがリニア・カタパルトへと進む。電磁の力でシャトルを第一宇宙速度まで加速する、全長2キロのカタパルト だ。それ自体は停止状態にあったため、バッタの攻撃目標には入っていなかったのだ。
これで、全ての準備が整った。
『あんた達も、早く乗ってくれ!』
管制官の焦った声。戦場に身を晒した事のない彼等にしてみれば、冷や汗ものの体験をしているわけだ。
「先に行け!」
『アキトさん!? ですが……』
「四の五の抜かすな! この中では俺が一番腕が立つ! さっさと行け!」
『……わ、分かりました……』
アキトに言われても、イツキはなかなか動こうとしない。
損傷の激しかったジェシカの機体が、真っ先にシャトルに収容される。
『イツキ、早く!』
『え、ええ……』
ジェシカに促されて、ようやっとイツキのバドも動き出した。彼女が逡巡している間にも、クロウ達はシャトルへと既に入っており、外の守りはアキト のみだ。
『アキトさんも早く!』
「……ああ、今行く」
開口しているスノー・ドロップのハッチから、イツキのバドが身を乗り出している。マシンライフルでバッタを蹴散らしながら、シャトルへ向かう漆黒 のプロト・エステ。襲撃の波の間断を縫って、シャトルへと乗り込み……ハッチに足をかけたところで、エステの動きが止まった。
『アキトさん! 早く……』
イツキが焦燥に駆られた声で呼びかける。
「ああ、分かっている……」
応えたのは、アキトの声だけではなかった。漆黒のプロト・エステの右腕に握られたマシンライフルが、イツキのバドへと向けられる。
状況を理解する間もなかった。
躊躇いもなく引き金を引くアキト。放たれた弾丸はイツキのバドの四肢を打ち抜く。火花を上げる紫のバド。それを確認する事無く、アキトのエステは 身を翻し、ハッチから躍り出た。
『アキトさん!?』
悲鳴にも似たイツキの声に、アキトはモニターの中で済まなそうに眉をひそめた。
「悪いな。こうでもしないと、君は俺を追ってきそうだったんでな」
『どういう事ですか、アキトさん!?』
「俺まで乗ったら、離陸するまでシャトルが完全に無防備になる。俺は……始めから残るつもりだったんだよ」
『そんな!? どうしてですか!!』
「言ったろう。此処には……大切な忘れ物があるんでな……」
『そんな……』
「悲しむな。生きてさえいればまた会う事もあるだろう。それまで……まあ、元気でな」
『アキトさ――!』
アキトはイツキの回線を切ると、シャトルの管制室へと繋げる。
「さあ、行け!」
『あんた、ホントに良いのか……』
「俺は俺の意志で残る。あんた達は生き残る事だけを考えろ」
『……すまん。俺達は……あんたの行動に心から感謝する』
「……気にするな」
アキトは口元だけで笑みを浮かべた。
スノー・ドロップのノズルが炎を噴き出す。カタパルトのレールに光が点り、シャトルを軌道に乗せる。
その様を、祈るような心境で見守る残留希望者達。彼等にはこれからこの火星で、過酷な生活が待っている。しかし今はそんな事よりも、飛び立つ者達 が無事に去りゆく事の方が遥かに大事だった。
「さあ行け! 雪の雫の花びらよ! 俺にとっての慰めと……人々にとっての希望と共に!」
加速を始めるシャトル。電磁を利用した大型の軌道カタパルトは、瞬く間にシャトルを大空へと打ち放つ。
火の帯を掲げて天空へと掛けてゆくスノー・ドロップを、人々は何時までも見つめていた。
◆
「アキトさん……」
シャトルの小さな窓に身を張り付かせて、イツキは涙を流していた。
最後に見えたのは、バッタの群に覆われゆく漆黒のプロト・エステの姿。もう地上の様子を見る事は出来ない。
クロウ達も一様に押し黙って、胸にわだかまる想いを持て余していた。
結局、自分たちはあの黒ずくめの青年の事を見誤っていたのだ。後悔と、羞恥の念が募る。
静かに嗚咽を漏らしていたイツキだったが、やがて涙を拭うと、うって変わって晴朗な面もちで、窓の向こうに広がる星の海を見つめやった。
「アキトさん……信じましたからね……また、逢えるって……」
地球標準時で約4ヶ月後、彼等は一人の欠員も出す事無く地球へと到着した。