『ラピス』。

 喉まで出かかったその名前は、すんでの所で飲み込まれた。

 呆然としていたのだろう。 空色の髪の少女は、黒百合の腕から逃れて物陰へと隠れてしまった。恐る恐る、といった感でこちらの様子を窺っている。

 黒百合は改めて少女を見た。

 空色の髪、それ以外の容姿はラピス・ラズリに似通っている。いや、似ているなどと言うレベルではない。双子と言っても誰も違和感を覚えはしないだ ろう。

 黒百合が一歩足を踏み出す。びくり、と少女は怯えたように首を竦めた。

「…………君は」

 黒百合が手を差し伸べる。少女はそれから逃れるように顔を背けた。その小さな身体は小刻みに震えている。だが、悲鳴も鳴き声も上げず、表情の変化 は乏しい。

 黒百合の手が少女に届く――寸前。

 空色の髪が跳ねて、少女が黒百合の二の腕に噛み付いた。その弱々しげな容姿からは予想もつかないような反撃。黒百合も虚を突かれて回避が遅れた。

 だがナノマシン組成の特殊スーツの上からでは、幼い少女の反撃などまさに歯も立たない。

 少女は眼をきっと結んで、ただ無心に噛み付いている。まるで追いつめられた仔犬の様に。

(…………そう、か……)

 黒百合は驚きと共に得心していた。

 自分が初めて逢った頃のラピスは、ただ無表情だった。怯えもせず、震えもせず、目の前で研究者達を虐殺した自分を無感情に見つめ返していた。

 だが、この少女は違う。

 怯えもする。震えもする。感情もあれば表情もある。

(違うんだな……)

 髪の色だけではない。この少女は、自分の知っているラピス・ラズリという少女とは違う。

 仮に同じ時間を生き、同じ経緯を辿って『ラピス・ラズリ』という名を名乗ったとしても、黒百合の知っているラピスとは別人なのだ。

 この少女は、『ラピス・ラズリ』ではない。

 黒百合は、腕に噛み付いている少女の髪をそっと撫でた。少女は驚きの色を瞳に湛え、こちらを見上げてくる。その琥珀色の輝きを見返しながら、黒百 合はそっと言葉を紡いだ。

「……君の、名は?」

 少女は答えた。

「S−2201」

 その答えは、かつて黒百合がラピスから聞いたのと同じ、ナンバーのみのもの。彼はかぶりを振って、

「そんなものは名前じゃない」

「……デモ、ミンナワタシノ事ハソウ呼ンデル」

「それでも、違う。それはただの数字だ。名前じゃない」

「ソウナノ……?」

「そうだ。名前はただの記号じゃない。意味があるんだ。世界中でたった一人のための、ただ一つの意味が」

「……ヨク、ワカラナイ」

「そうだな、今は分からないだろう。だが、君も名前で呼ばれる様になればすぐに分かる」

「ホント?」

「ああ、だから君に名前をあげる」

 黒百合はそっと少女を胸に抱いた。少女は特に抵抗もなくおさまった。その空色の御髪を、そっと梳いてやる。ラピスの好んだ温もりの触れ合い。無機 質なプロテクターを着ているのが疎ましい。ルナ・チタニウム製のガントレットからは何の感触も伝わってこない。

「セレスティン」

「セレスティン?」

「ああ。その空色の髪の色から取った。天青の宝石――セレスティン。それが君の、君だけの名前だ」

「セレス……ティン……ワタシ、セレスティン……」

 反芻するように呟く少女――セレスティン。その瞳の輝きが揺れる。

「ア……ワタ……シ……」

 黒百合を見返すセレスティンが戸惑いがちに口を開き――その言葉を遮って。

 パァン!

 銃声が鳴り響いた。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第9話

「花に集うV」



 

 半ば呆然としていた中で、咄嗟に動けたのは上出来だった。

 黒百合はセレスティンを守る様にマントを翻す。耐弾繊維で編み込まれたマントはその能力を遺憾なく発揮して銃弾を受け止めた。だが着弾の衝撃を完 全に逃がす事は叶わず、セレスティンの小さな身体が宙に浮く。

 その身を抱き留め、黒百合は銃を引き抜いた。即座に方向を察知して反撃。だが相手は素早く物陰に隠れ、ヒットはなし。

 黒百合は舌打ちすると、セレスティンをそっと床に横たわらせた。幸い外傷は無いようだが、痣くらいは残るだろう。ましてや、銃で撃たれたという事 実が、この幼い少女の心にどれだけの傷を負わせる事か。

 なんて事だ。自分の致命的なミスだ。状況を忘れ、周囲に気が行き届いていなかった。

「出てこい! そこにいるのは分かっているんだ!」

 血で赤く染め上げられた地下研究室に、男の声が響く。物陰から伺うと、白衣を着た中年の男が拳銃をこちらに向けて怒鳴っていた。

 男の顔には見覚えがある。確か、この研究所の所長だった男だ。自宅謹慎中であるはずなのに、どうやらそれを無視して研究に勤しんでいたらしい。何 とも研究熱心な男だ。研究者の鑑とでも言うべきだろう。

「出てこい! さもなければ……」

 その研究者の鑑が更に言葉を続ける。

「このサンプル達の命はないぞ!」

 男が手に持った銃を突き付けた先には――二人の少女がいた。

 

 

 一人はショートの黒髪。もう一人は鮮やかなロングの紅髪。共に、琥珀色の瞳の持ち主だった。

 その二人の少女を、何処に隠れていたのか生き残りの研究者達が拘束している。黒髪の少女のこめかみに、所長の拳銃が押し当てられる。琥珀の瞳に恐 怖の感情が揺れた。

「お前の狙いは分かっているんだ。我々の研究の成果であるこのサンプルが目的だろう! サンプルの命が惜しければ銃を捨てて出てこい!」

 所長が言葉を言い終えると、しん……と辺りが静まり返る。緊張感に、所長の拳銃を握る手に汗が篭もった。

 待っている時間がやけに長く感じられる。実際には10秒と経っていなかっただろう。所長の呼びかけに答えるように、黒い人影が照明の下に照らされ た。

「出たな……銃を捨てろ!」

 拳銃を突き付けて、所長が唾を飛ばす。黒百合は押し黙ったまま拳銃を放り投げた。

 黒百合が大人しく従った事で余裕を取り戻したのか、所長は途端に尊大な態度をとった。

「よくもやってくれたなものだな……だが、詰めが甘かったな。真っ先にサンプルを確保しなかったのが君の敗因だよ」

 黒百合は身じろぎすらせずに所長を睨み据えている。

「今時こんな手荒な手段を執る連中がいるとは思わなかった。君の黒幕は何だ。クリムゾンか? それとも、明日香・インダストリー辺り……」

「サンプル、と言ったな」

 黒百合が、唐突に言った。言葉を遮られた所長は一瞬不快な顔をしたが、有利な状況にあるという思いが心の余裕を生んでいた。黒百合の言葉に答えて やる。

「そう、サンプルだよ。人間の限界を超えるための、な。

 そもそも人間は、持って生まれた肉体のポテンシャルのほんの3割しか使っていない。脳にしてもそうだ、半分も使っていない。もったいないだろう?  まさに宝の持ち腐れだ。

 だから私は、そのリミッターを取り外した。遺伝子操作、ナノマシンの投与、これらによって細胞は活性化される。まさに有機体と無機体の融合だよ。 新たなる人類の誕生だ!

 その研究も、もうすぐ完成する。今開発している新型ナノマシンが完成すれば、全ての人類は新たなる世界へと飛翔する事が出来るのだ!」

 所長の言っている事は――有り体に言って、酷い妄想だった。まったく現実味がない。仮に実現したとして、それに何の意味があるというのか?

「その為に、遺伝子操作された子供たちをモルモットにしてきたのか」

「モルモット? 物言いには気を付け給え。彼女たちは、新人類誕生のための献体だ。尊い殉教者達だよ。

 まあ……確かに不幸にも犠牲者は出た。だが、人類の発展のためには多少の犠牲は付き物だ。

 彼等もきっと喜んでいる。あの世というものがあればの話だが」

 そこまで言って、所長は口を噤んだ。黒百合が嗤っている。声も上げず、ただ口元だけで嘲りの笑みを浮かべていた。

「……何が可笑しい」

「これが笑わずにいられるか。貴様のやっている事はまったくの無意味だ」

「……口には気を付けろと言ったはずだがね」

「人間の限界を超える? 新人類の誕生? そんなものに何の意味がある。ナノマシンはナノマシンだ。ただの機械にすぎん。そんなもので人間は変わら ない」

「凡人に天才の発想は理解出来ないものだよ」

 うって変わって険悪な表情を浮かべる所長を、黒百合は静かに嘲る。

「お前は凡人でも天才でもない。ただの愚者だ」

「……私は、君と議論を交わすつもりはない。質問に答える気がないのなら、その耳障りな口を黙らせてやろう」

 所長が引き金を引いた。乾いた破裂音。

 だが、銃弾は黒百合の身体を捕らえる事無く背後の計器板に穴を穿った。

「な……っ!?」

 所長が呻き声を上げる。

 今度は両手で拳銃を構えもう一度。これも外れた。更にもう一発。当たらない。

 いや、違う。狙いが外れているのではない。黒百合が避けているのだ。トリガーを引く瞬間、黒百合の上半身が僅かに動き、その横を弾丸が通り過ぎ る。

 黒百合が一歩、足を進めた。

「ばっ、馬鹿な!」

 狼狽えた所長が引き金を引くが、それが黒百合の歩を止める事はなかった。銃弾を避け、躱し、背後のセレスティンに当たりそうになった弾丸はガント レットで弾き返し、所長との間を詰める。

 迫る黒百合に押されるように、所長は一歩後じさった。その背中が、拘束されている少女に当たる。

 混乱しかかった所長の脳裏に、天啓が下る。そうだ、まだこちらには人質がいるのだ。このサンプルがいる限り、相手はこちらに手を出せない。所長は 喜び勇んで銃口を怯えている少女に向けた。

「う、動くな!このサンプルの――」

 バン!

 一際大きな破裂音。いや、炸裂音と言った方が正しいか。所長は右腕に痛みを覚えた。

 目をやって、愕然とした。銃を持った右手首から下が吹き飛んで、何もなくなっていた。傷口から鮮血が吹き出す。

「ひ――ひぃぃぃぃぃぃっ!?」

 黒百合の右手に握られた大口径リボルバーの銃口から、硝煙が立ち上っている。何時引き抜いたのかさえ見えなかった。

 黒百合が無感動に言い放つ。

「持っている武器がひとつだけだと思ったのがお前の敗因だな」

「ひっ――」

 少女を拘束していた研究員達に動揺が走る。その狼狽えた顔めがけて2連射。50口径の軟頭弾が眉間から差し込まれ、後頭部が破裂して脳漿をぶちま ける。鼻から上を喪失し、仰向けになって痙攣する死体を目の当たりにして、麻痺していた所長の恐怖心が甦った。

「ひわあああああああっ!」

 恥も外聞もなく逃げだそうとした所長に黒百合が発砲する。右足に着弾。体重を支えきれず、備品を撒き散らして無様にひっくり返った。

 起きあがろうとしても上手く出来ない。動かない右足と喪った右手がもどかしい。今は痛みすら感じず、恐怖心だけが所長の身体を突き動かしている。

 生きている左の手足で何とか身を起こした所長の目の前に――黒百合の顔があった。

「ひぃっ!」

「……」

 黒百合は無言でこちらを見据えている。その様が更に所長の恐怖を煽る。

「ま、待ってくれ。私は上に言われてやっていただけだ。ネルガルに従っていただけなんだ!」

「それでも、お前のやっていた事には変わりあるまい」

「ナ、ナノマシンの開発にはどうしても必要な事だったんだ!

 見ろ! 今や私の開発したナノマシンが連合軍の標準タイプに採用されているんだ。言ってみれば人類のためにやった事なんだ! 決して私心があった わけではない! 助けてくれ!」

「そうか……」

 命乞いする所長に見せつけるように、黒百合は懐からあるものを取り出す。それは、先ほど黒百合が拾った無針注射器だった。

「これが何か答えて見ろ」

「そ、それは……」

「貴様らが子供達に投与しようとしていた、テストタイプのナノマシンだ。違うか?」

「そ、それをどうする気だ!?」

「怯える事はない。貴様らが開発したナノマシンだ。その成果を身をもって体験できるんだ。嬉しいだろう?」

「待ってくれ! それはまだ開発段階のナノマシンで、調整すら済んでいないんだ! そんなものを打たれたら、人体にどんな影響があるか……」

「遠慮するな」

「ま、待って……ひぐっ!」

 プシュ!

 空気の抜ける音と共に、無針注射が撃ち込まれる。所長の身体を駆けめぐる凄まじい異物感。喩えるなら、体中を毛虫が這いずり回るような、そんな感 覚だ。

「ああああ……おがあああああっ!」

 苦しみ悶え、のたうち回る。棚が倒され、試験管が割れて床に撒き散らされる。

「あああぁぁぁ……ぅうあぁぁぁう……」

 永遠とも思える時間が過ぎて、所長は動きを止めた。実際には30秒と経っていなかっただろう。憔悴し、ひゅーっ、ひゅーっ、とか細い息を吐く喉笛 に、黒百合の手が掛かる。

「た……助けて……」

 苦しげに呻く所長の声に、冷え切った声を返す。

「貴様は、そうやって命乞いする者を助けた事があるか? 貴様らが嬉々として殺したモルモットが、どんな思いを抱いていたか、一度でも想像した事が あるか……?」

 黒百合が思い浮かべるのは、火星の後継者たちの施した人体実験だ。

 泣いて許しを請う火星出身者達を、無理矢理引きずって実験を行った研究者達。人の死んで行く過程を、喜悦の眼で眺めやっていた。

「貴様らのような連中が……」

 首を絞める腕に力が篭もり、所長は口を金魚のようにぱくぱくさせて喘いだ。

 激する感情により活発化したナノマシンが黒百合の顔面に浮かび上がり、まるで血管のように筋を走らせている。

 黒いバイザーの向こうに浮かび上がる、肉食獣を彷彿させる鋭い双眸。修羅の如き凄惨な形相。

「貴様らのために、どれだけの人が苦しんだか! 俺がどれだけの物を失ったか……! 貴様らにわかるか!!」

 ゴキュ!

 鈍い音がして、首があらぬ方向へと折れ曲がる。びくん!、と痙攣したきり動かなくなった所長から手を放し、黒百合は力無くうなだれた。

「貴様らに……わかるか……」

 その声は、これだけの惨劇を作り出した者とは思えないほどに弱々しいものだった。

 いつもそうだ。復讐の狂宴が去った後には、空虚感しか残らない。いつまで続ければ解放される? どれだけ殺せば楽になれるのだろう。この復讐に、 何時か終わりが来るのだろうか……?

 黒百合のマントが引っ張られる。振り向くと、先ほどの二人の少女が裾を握っていた。

 少女達は何も言わない。ただ、黒百合に縋るような視線を向けているだけだ。彼女たちは、自分の意志で行動するという事を知らないのだろう。当然 だ。それを教える者は誰一人いなかったのだから。

 まだ、やらなければならない事がある。

 その想いが、黒百合を突き動かす。

 

 

 その日、諏訪人類遺伝子研究所はこの地上から物理的に消滅した。

 


 

 エリナが報告を受けたのは、事件の翌日の昼を過ぎての事だった。彼女の脳裏に真っ先に浮かんだのは、彼女の知る限り最も得体の知れない男の姿だっ た。

 会長に報告する手間ももどかしく、すぐさま足を確保して黒百合の元へと向かう。

 荒々しくドアを開け放ったエリナを、黒百合は平然とした態度で迎えた。

「エリナか。どうした」

 エリナは問いには答えず、ハンド・バックから小口径のピストルを引き抜くと、黒百合へと突き付けた。

「……何のつもりだ?」

 この期に及んで、黒百合は平然としている。その態度がささくれ立ったエリナのかんに障った。

「答えなさい。貴方は昨日、一体何処で何をしていたの!?」

 声も鋭く問い詰める。

「何処も何も、昨日はずっと部屋にいたが?」

「嘘を仰い!」

「監視カメラの映像が残っているだろう」

「それもでたらめよ。貴方が細工したフェイクね。貴方は昨日、スワ・シティの人類遺伝子研究所にいた。そして研究員を虐殺し、地下にいた三人のマシ ンチャイルドを誘拐した。違う!?」

「何故、そう思う?」

「何故!? ふざけるんじゃないわよ。あれだけ派手な騒ぎを起こして気付かれないとでも思ってるの!? 目撃証言も山ほどあるわ。言い逃れなんかき かないわよ!」

「それで、わざわざ問い詰めるために一人でやって来たというわけか。護衛も伴わずに」

「動かないで!」

 拳銃を握る手に力が篭もる。それでも、黒百合の纏う鎧を突き崩す事は出来ない。

「安全装置」

「……え?」

「安全装置のレバーが上がっている。それでは初弾を装填する事が出来ない」

 エリナの注意が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ黒百合から離れる。その刹那の瞬間に、黒百合の手が動いた。

「あっ!?」

 目にも止まらぬ早さでエリナの手から拳銃を取り上げる。端で見ていた彼女でさえ、その動きを目で追う事が出来なかった。

 黒百合は流れるような動作で安全装置を解除。スライドを引いて弾丸をリリース。銃口をエリナへと向ける。

 瞬きするほどの時間で攻守が完全に逆転した。黒光りする銃口を向けられたエリナは顔面を蒼白にさせたが、気丈にも怯えはしなかった。

「……貴方の目的は一体何!? 何のためにネルガルに近づいたの!?」

「質問が多いな。よほど勉強熱心らしい」

「ふざけるんじゃないわよ!」

「この世の中、答えのある質問ばかりだとは思わない方がいい。その考えは何時か足下をすくわれる。丁度、今みたいにな」

 タン!

 黒百合がトリガーを引く。エリナはぎゅっと目を瞑った。

 タンタタタン!

 連続する銃声。しかし銃弾が彼女の身体を捕らえる事はなかった。弾は全て背後の壁に突き刺さっている。

「これを教訓としたのなら、もう俺には近づかない事だ」

 全弾打ち尽くした拳銃を投げ捨て、黒百合はエリナの脇を通り過ぎた。身を固くしていたエリナが振り返る。

「ま、待ちなさい!」

「俺には……かつて大切な者達がいた。夢があった。平穏な日々があった。だがそれを、奴らが引き裂いた。奴らは俺から夢を、希望を、全てを奪った」

 突然の黒百合の告白。エリナは息を呑んでその話に聞き入っていた。

「だから、俺は奴らを憎む。人の身体を掻き回し、理屈で固めて人体実験を正当化する奴らを憎む。殺す。それが、俺の存在意義だ」

 

 

「俺は……復讐者だ」

 

 

「貴方は……」

 エリナは何も言えなくなった。黒百合の見せた闇の一片は、それだけで彼女を圧倒した。

「……あの娘達を頼む」

 それだけ言い残して、黒百合は去っていった。

 エリナはただ立ちつくし、黒百合の消えた扉を見つめていた。

 

          ◆

 

 スワ・シティを太平洋側に下った海岸沿いの街、ヤイヅ・シティ。そこにネルガルの経営する孤児院が存在する。

 要は公共への利益還元をアピールする、企業のイメージ・アップ活動の一環ではあるが――それで救われる者がいる以上、一概に偽善と言い切れるもの ではないだろう。

 ある日の夕暮れ時、その孤児院に奇妙な客が訪れた。全身黒ずくめにバイザーを掛けた怪しい男で、ネルガル重工会長秘書であるエリナ・キンジョウ・ ウォンからの紹介で預けたい子供がいると言う。

 黒ずくめの男は子供達を置いて、名前も名乗らずに去ってしまった。子供達を頼む、と言い残して。

 こんな末端の孤児院で、会長秘書の名前を出されても困惑するだけだったが、ともかく確認を取ってみると、確かにそういった要請がきている事が判っ た。正式な書類も揃っている。

 戸惑いながらも、孤児院の保母たちはその子供達を受け入れた。その印として、保母の一人が空色の髪の少女に尋ねた。

「貴女のお名前は?」

「…………セレスティン」

「そう、良い名前ね」

「……ウン」

 セレスティンと言う名の少女は、この瞬間からこの世に生を受けた。

 


 

 そして時は流れる。

 半月後。西暦2196年10月1日。運命の日。

 

 

 黒百合が見上げる先に、特徴的なフォルムをした戦艦がある。

 ND−001 機動戦艦ナデシコ。

 地球側で初めて相転移機関を搭載した戦艦。主砲として、相転移エンジンから副次的に発生する重力波を利用したグラビティ・ブラスト。空間を歪曲さ せて攻撃を防ぐ、時空歪曲場――スペース・タイム・ディストーション・フィールド。

 唯一、木星蜥蜴と対抗しうる武装を持ちながら、民間企業によって運営させるという異色の戦艦。

 ここが、黒百合の懐かしい『家』だった。

(また、これに乗る事になるとはな……)

 過ぎ去った過去の象徴。それが今、目の前にある。

 懐かしき日々。輝かしきひとつの『時代』。それを護るために自分は戻ってきた。

 あの、忌まわしい未来を繰り返さないために……その為にいま、此処にいる。

「護ってみせるさ……必ず……」

 呟いてから苦笑した。感傷的になっているのが自分でも判る。そんな黒百合の背中から、澄んだ声が掛けられた。

「どうかしたんですか?」

「ああ、いや……」

 『何でもない』と言おうとして振り返った黒百合は、驚きに言葉を飲み込んだ。

 そこには、黒百合の知った顔が懐かしそうに微笑んでいた。

「お久しぶりです、アキトさん」




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