「君は……」
黒百合は目を見開いた。何故彼女が此処にいる? 彼女がナデシコに乗るのはもっと先の事のはずだ。
「私のこと、お忘れですか?」
いらえの無い黒百合に、彼女は不安げに眉をひそめた。その表情を見て、黒百合の緊張が緩む。ふっと苦笑を浮かべてしまった。
「覚えているさ。イツキ・カザマ軍曹だったな。いや、今は中尉か」
「はい、お恥ずかしながら……」
イツキは実際照れくさそうに頬を掻く。と、急に落ち込んだ顔を作った。
「……どうした?」
「今でこそ火星の英雄だとか言われていますが……あれはあの時、アキトさんが犠牲になって地上に残ったからこそ、私達は無事に脱出する事が出来たん です。私は何もできなかった……
私は、ずっとアキトさんに謝らなければならないと思っていたんです」
「謝る? 何をだ」
「私は軍人という立場にありながら、結局はアキトさんに頼る形になってしまいました。民間人を護るのが軍人の勤めなのに……
それに、最後には見捨てるような形になって……」
「あれは、俺の勝手で残ったんだ。君が気にする事でもあるまい」
「ですが……」
「それに、だ。君らが何もできなかったわけでもない。あの時、民間人を見捨てずに最後まで戦ったのは君たちだ。何の後ろめたさを感じる事がある。胸 を張れ」
「…………」
黒百合の言葉に、イツキの胸の中にあったつかえがすうっと消えていった。
あの時、何もできなかった自分。実際にはそんな事はないのだが、イツキはそう信じている。
彼女のこの一年は後悔に苛まれる毎日だった。
もっと自分に力があれば。そう考え、よりいっそうの訓練に励み、進んで前線に身を投じた。
数々の戦いの場を駆け抜けるイツキ。彼女はどんな戦いでも常にトップクラスの戦績を残したが、それすらも彼女の罪悪感を呼び返した。
自分はこんなにも戦えるというのに。どうしてあの時、自分はただシャトルの窓から地上を見つめているだけだったのだろうか。どうして彼と一緒に地 上に残り、戦わなかったのだろうか。
イツキは戦い続ける。その先には何も見えはしない。
いつしか《紫衣の聖女》と呼ばれ、人々の賞賛と羨望の視線を集めても、イツキの気は決して晴れなかった。
その彼女が抱え込んできたものが、黒百合の言葉で胸の裡から霧散していく。代わりに暖かいものがじんわりと広がっていく。
「私……私は……」
うまく言葉が出てこない。言いたい事はたくさんあったはずなのに。目頭が熱くなって、零れる涙を止めることが出来ない。
「……泣くな」
そっと流れる雫を拭う黒百合。イツキは誘い込まれるように彼の腕に寄りかかった。泣いている顔を見られたくない一心だった。
火星を脱出して以来、イツキは1年ぶりに涙を流した。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第10話
「花に集うW」
黒百合は何も言わずに腕を貸している。ドックにいる他の誰も気付いてはいない。周囲の喧噪も、彼女の耳には届いていなかった。ただ二人だけの時間 が過ぎる。
しばしして、黒百合の腕に顔を埋めていたイツキが面を上げた。瞼には泣きはらした跡がほんの僅かだけ残っている。バイザーの向こうにある黒百合の 瞳をじっと覗き込むような格好だ。
瞬きをふたつした後、
「あ……っ」
みるみるイツキの顔が紅く染まっていく。自分が何をしたのか今更気付いたように、ぱっと黒百合から離れた。
「す、すいません! みっともないところをお見せちゃって……」
あたふたとするイツキが妙に可笑しくて、黒百合は口元を緩めた。
「気にするな」
「すいません……本当に……」
「それより、中尉は何故ナデシコに?」
「あ、え、はい。私は、軍から派遣された戦闘オブザーバー兼パイロットとして、ナデシコに搭乗する事になりました」
「軍から?」
黒百合は問い返した。
イツキは若い身空ながらも《紫衣の聖女》のふたつ名を持つエース・パイロットである。軍部がそう易々と手放すはずがない。ましてや、彼女は『ス ノー・ドロップの奇跡』を演出した英雄である。
「ネルガルからオブザーバー派遣の要請があった時に、私から志願したんです。どちらかと言うと、プロスペクターさんにスカウトされたと言った方が正 しいかも知れませんが……」
「なるほど、ミスターの仕業か。なら、中尉はナデシコの目的地も知っているわけだ」
「はい。ずっと、火星の様子が気になっていたんです。それに……」
「それに?」
「火星に行けば、もう一度アキトさんに会えると思っていましたから……」
「……そうか」
俯いてしまったイツキに言葉を掛ける黒百合だったが、頭の中ではまったく別の事を考えていた。
プロスペクターがイツキをスカウトした理由は幾つかあるだろう。
《紫衣の聖女》と呼ばれる彼女を迎える事による戦力の増強。軍人をオブザーバーに迎える事による軍部への協力のアピール。民間へのイメージ・アッ プ。などなど。
そして、黒百合へ探りを入れる事も重要なファクターのひとつだったはずだ。
プロスペクターは、自分が開戦時に火星にいたのではないかと疑っている。自分がボソンジャンプの鍵を握っていると考えているのだ。
そこで、自分とイツキを会わせる事で、その事実を確認しようとしているのだ。もしイツキが自分を見知っていれば、それがボソンジャンプの証拠とな る。
(相変わらず、抜け目がないな……)
「アキトさん?」
「いや、何でもない」
訝るイツキに声を返す。と、ふと気付いて、
「そう言えば中尉、俺の事は黒百合と呼んでくれ」
「え? 何故ですか?」
「もう以前の名前は捨てた。今は、そう名乗っている」
「…………そうですか、わかりました。黒百合さん、で宜しいんですね。
その代わりと言っては何ですが、私の事も名前で呼んで下さい。階級で呼ばれるのは、あまり好きじゃないんです」
「そうか……わかった」
「はい」
イツキはにこりと微笑んだ。今まで黒百合が出会った幾人もの女性とは違う、楚々とした微笑みだった。
「ところで黒百合さん、今時間はおありですか?」
「いや……特に急ぎの用事はないが」
「それでしたら、ちょっと宜しいですか? 会わせたい人が居るんです」
「会わせたい人?」
「はい」
頷いて、今度は何か悪戯を企んでいるような表情を見せるイツキだった。
◆
「おや、黒百合さんはまだこちらに来ておりませんか? それに、まだ艦長の姿も見えないようですが」
ブリッジに顔を出したプロスペクターは、ドアの脇に経っていたゴート・ホーリーに尋ねた。ゴートは相変わらずのむっつり顔で答える。
「ミスター、まだどちらも来ていない」
「はて、おかしいですな。黒百合さんは確かにこちらに向かったと思ったのですが」
「プロスさ〜ん、黒百合さんって、もしかして人の名前?」
耳さとく二人の話を聞いていた操舵士のハルカ・ミナトが、ブリッジの下から声を掛ける。
「はい、左様で。エステバリスのパイロットの方です」
「ふーん、そうなんだ。変わった名前ね」
「まあ、何か事情がおありなのでしょう。ニックネームのようなものと考えていただければ」
「プロスさんと同じですね」
通信士のメグミ・レイナードの言葉だ。ちなみに、女性二人の間の席にいるオペレーターのホシノ・ルリは、興味を示さずに黙々と作業に没頭してい る。
「それにしても、どんな人なんでしょうね、黒百合さんって。かっこいい人だったら良いんですけど」
「さ〜、名前だけじゃ何とも言えないわよね〜。それにメグちゃん、イイ男ってのは外見だけで判断できるものじゃないわよ〜」
「それにしたって、格好が良いに越した事は無いじゃないですか。結構期待してきたのに、ブリッジって女の人ばっかなんですもん」
「はっはっは、それは実際に会ってのお楽しみという事で」
「それにしてもミスター。黒百合はともかく、艦長が来なければ話にならん。何らかのトラブルに巻き込まれている可能性もある」
外見通り堅物なゴートのセリフである。砕けた感じのプロスとは対照的だ。
「そうですなぁ。一体どうしたのか……」
首を捻るプロス。そこに狙い澄ましたかの様にドアが開き、長髪の女性がブリッジに駆け込んできた。
「みなさ〜ん。わたくしが艦長のミスマル・ユリカで〜っす! ブイ!」
「「「「「ぶい〜っ!?」」」」」
胸を張って誇らしげにブイサインを掲げるユリカ。呆気にとられる一同。
「…………ばか?」
ブリッジの時間が固まった傍らで、一人冷静なルリがぼそっと呟いた。
黒百合がイツキに連れて行かれた先は医務室だった。
この場所は黒百合に深く係わったある女性を思い出させる。今、此処に彼女はいないはずだが。
イツキに続いて中に入ると、女性の声が出迎えた。
「どうしました? 何処か怪我でも……あら」
穏やかな女性の微笑みが、黒百合を見て驚きに変わる。
「貴女は……」
黒百合もまた戸惑いを浮かべていた。彼女とは顔見知りである。奇しくも先ほど思い出した女性の母親。
ケイ・フォーランド。彼女はすぐに表情を戻すと、ぺこりとお辞儀をした。
「お久しぶりです。アキトさん、でしたわね」
「ケイさん、アキトさんは今、黒百合さんと名乗っているそうです」
「あら、そうなんですか……変わったお名前ですわね」
ケイはそう言って頬に手を当てた。何故かほのぼのとした空気が辺りを漂う。
はっと我に返る黒百合。
「な、何故貴女がナデシコに乗っているんだ?」
「ふふ、おかしいですか? 理由はイツキさんと一緒ですよ」
「私がプロスペクターさんにスカウトされた時、一緒に誘ったんです。地球に辿り着いて以来、何度か連絡を取り合っていましたから」
イツキが説明する。
「幸い、私は医師免許を持っていましたから……」
「だが……ナデシコは曲がりなりにも戦艦だ。それを分かっているのか?」
「分かっています。もしかしたら、命を落とすかも知れないと言う事も」
「ならば、何故?」
「だって、アキトさん――黒百合さんは仰ったじゃないですか。アイは生きていると。なら、母親の私がアイを探しに行かないでどうするんですか?」
黒百合の問いに、ケイは穏やかな笑みを浮かべた。とても透き通った笑顔だった。黒百合が言葉を失う程の。
言うなれば、母親の笑顔。決して男にはこんな表情を浮かべる事は出来ないだろう。
黒百合は諦めたようにかぶりを振った。説得が無益だと悟ったのだろう。その様を見て、女性二人の穏やかな笑い声が響く。
「ふふふ……ありがとうございます。黒百合さんが私たちを心配してそんな事を仰っているのは、よく解っているんですよ」
「でも、もう決めた事ですから」
「……そうか」
二人の笑顔に一点の曇りもない事を見てとって、黒百合は息をついた。イツキが話題を変える。
「それにしても……黒百合さんはどうやって地球に? 確かにあの時、火星に残られたはずなのに……」
「あら、そう言えばそうですわね」
今気付いたかのようにケイが首を傾げる。
「それに、私がヨコスカ・ベイに下りた時、宇宙港でこちらを見ていたのは黒百合さんでしたよね?」
「……見間違いだろう。俺に似た人間なぞ、掃いて捨てるほどいるさ」
「いえ、黒百合さんほど怪しい格好をした人は他に居ません。絶対」
「そ、そうか」
きっぱり即答するイツキに汗を浮かべる黒百合だ。
「火星と地球を結ぶ経路は全て木星蜥蜴に押さえられています。黒百合さんは一体どうやって地球に辿り着いたんですか? しかも私達よりも早く」
イツキの紺色の瞳が、黒百合をじっと見つめる。その視線から逃れるように、黒百合は虚空を見上げた。
「……すまんが、その問いには答えられん」
「そう……ですか」
黒百合の答えを予想していたはずなのに、イツキは自分の胸がちくりと痛むのを感じた。
「……分かりました、今は聞きません。……いつか、話してくれますか……?」
「ああ、いずれ時が来れば……な」
「その時は、私も一緒にお願いしますね、黒百合さん」
「ああ」
「じゃあこの話はおしまい。せっかくですから、お茶でもどうですか?」
俄に重くなった空気を振り払うかのように、ケイがトレイを取り出す。イツキも彼女の心遣いを無下にするような真似はしなかった。
「そうですね。それにしても何でビーカーにお茶を注いでるんですか?」
「此処は医務室ですもの。水を入れるのはビーカーに決まっていますわ」
「そ、そういうものか?」
「それもそうですね」
「納得するのか!?」
黒百合が色々な意味で戦慄を覚えた時、室内にアラームの音が鳴り響いた。
「あら、なんでしょう?」
一般人であるケイが首を傾げる一方、軍人であるイツキは緊張して黒百合を仰いだ。
「黒百合さん、これは……」
「ああ、エマージェンシーだな。恐らくは蜥蜴の襲撃だろう。ケイさん、悪いがお茶は後だ」
「あら、そうですか、残念です。お二人とも、お気を付けて下さいね」
「有り難うございます。黒百合さん、急ぎましょう!」
ケイに見送られて二人は医務室を飛び出した。イツキが併走しながら、
「また御一緒出来て光栄です、黒百合さん。改めて、宜しくお願いしますね」
「そこまで畏まる事もないと思うがな……ま、よろしくな、イツキちゃん」
ぐきっ。べたん!
いきなり前のめりにずっこけたイツキ。したたかに顔面を打ち付けてしまった。額を押さえて身を起こす。
急停止した黒百合が心底不思議そうに尋ねた。
「何故何もないところで躓くんだ?」
「ちょ、ちょっと意外な呼ばれ方をしたので……わ、私の事は呼び捨てで構いませんから」
涙を浮かべた瞳で黒百合を見ると、彼はあらぬ方向を向いている。
「?」
黒百合に沿って視線を下げると、自分の足が目に入った。黒百合に向けて大股開き……
「きゃあっ!」
イツキは目にも止まらぬ早さで跳び起きた。スカートの裾を押さえて、頬を真っ赤に染めて黒百合に詰め寄る。
「み、見ました!? 見ましたよね!?」
「そ、そんな事より今は緊急事態だ。格納庫へ――」
「そんな事って何ですか、そんな事って!」
「と、ともかく行くぞ、イツキ!」
誤魔化す様に黒百合は通路を駆けて行く。それを追いかけるイツキは半泣きになっていた。
「あうう、見られちゃった、見られちゃったよう」
◆
その頃、ブリッジ。
下部に設置してある床面スクリーンに、サセボ付近の見取り図が表示されている。
味方を示す青の表示が次々と×で消されていく。律儀に状況を解説するゴート。
「敵の攻撃は2箇所、とりわけ弓張岳の山頂付近に集中している」
「敵はナデシコが地下にある事を知っているのか?」
「そうとわかれば反撃よ!」
退役後、ナデシコの提督として引っ張られたフクベ・ジン退役中将と、呼んでもいないのに勝手にやって来たムネタケ・サダアキ中佐。
訝しむフクベと、ヒステリックにつばを飛ばすムネタケ。両者の反応は対照的である。
叫ぶムネタケに水を差すのはゴートの役目だった。
「どうやって?」
「ナデシコの対空砲火を上に向けて、敵を下から焼き払うのよ!」
「上にいる軍人さんとか、一緒に吹き飛ばすわけ?」
ミナトの鋭いツッコミ。
「ど、どうせ全滅してるわ」
「それって非人道的って言いません?」
「きぃ〜っ! アンタ、中佐のアタシに口答えしていいと思ってんの!?」
「そんなこと言っても、私たち軍人さんじゃないものね〜」
「ですよねぇ」
「きぃぃぃ〜っ!!」
メグミ、ミナトに反撃を食らって切れる寸前のムネタケ。
「艦長は何か意見はあるかね?」
一方のフクベは落ち着き払った態度でユリカに意見を求めた。この辺り、年期の差が如実に現れている。あるいは品格の差か。
ユリカは今までのお茶らけた様子とはうって変わった毅然とした態度で答える。
「ドックに急ぎ注入します」
「ほう」
「海底ゲートを抜けて一旦海中へ。その後浮上して、敵を背面より殲滅します!」
「ふむふむ……」
ユリカの立て板に水の如き論述に、感心するフクベ。ミナトとメグミも、顔を見合わせた後、感嘆したように息を漏らした。プロスとゴートもしきりに 頷いている。
「ふむ、それしかありませんなぁ」
「現状で取りうる最上の方策だ」
一方、それが面白くないのは自分の意見を却下されたムネタケだ。
「で、でも海底ゲートと抜けるには、注入とエンジン始動であと10分はかかるわ! その間、敵の攻撃をどうやって防ぐの!?」
「そんなのは簡単さ!」
そう言い切ったのはパイロットのヤマダ・ジロウ――自称ダイゴウジ・ガイである。
「俺様のゲキガンガーが地上に出て囮になって敵を引きつける! その間にナデシコは発進! くぅ〜、燃えるシチュエーションだ〜っ!」
「おたく、骨折中だろ」
「しまったぁ〜っ!!」
醒めたウリバタケの呟きに、蒼白になるヤマダ・ジロウ。
未整備のエステを乗り回したあげく転倒、足を折って医務室に担架で運ばれる途中にアラームを聞いてブリッジに直行したヤマダである。左足には応急 処置の添え木と包帯が巻かれているだけだ。
「ちょっと、他にパイロットはいないの!? アタシはこんな所で死ぬなんてイヤよ!」
「囮なら出てます」
「「「「「え?」」」」」
今まで一言もしゃべらなかったルリがぼそっと呟く。オペレーター席を振り返る一同。
「いま、エレベーターにエステバリスが乗りました」
◆
「何っ!?」
格納庫に駆け付けた黒百合が見たものは、エレベーターに乗って今まさに外に出ようとしている、ピンク色のエステバリスの姿だった。
近くにいる整備員をひっつかまえて問い質す。
「おい、何故あのエステが動いている!?」
「ひえっ!? わ、わかんないっすよ。勝手に動き出して、外に出せって……」
「何だと……」
そうしている間にもエレベーターは上昇していく。もう既にエステの姿は見えない。遅れてイツキが駆け付けてきた。
「黒百合さん!」
「イツキ、すぐに出る! 一般人がエステに乗って飛び出した!」
「ええっ!? わ、わかりました!」
「あ、ちょっと! その黒いエステは専用機だって班長が……」
背後からの整備員の声に、黒百合は振り返らずに応えた。
「問題ない。俺がその専属パイロットだ」
◆
「もう、閉じ込められるのは御免だ!」
ピンクのエステのコクピットで、恐怖で顔を引きつらせている少年。
「俺はコックになるんだ! 戦いで死ぬなんて御免だ……」
『誰だ、君は!?』
「ひぇっ!?」
いきなり目の前にフクベのコミュニケが開く。
『パイロットか?』
「あ、いや……」
『あーっ! アイツ俺のゲキガンガーを!!』
『所属と氏名を述べたまえ』
「テンカワ・アキト。コックっす」
『なにぃ〜っ!? 何でコックがI.F.S.持ってんだ!?』
『彼は火星出身の方でしてね。先ほどコックに採用したのですが……』
『だから何でコックがエステバリスを――』
非常に煩くなるブリッジ。ジュンが傍らにいるユリカに囁く。
「ユリカ、あの人さっきの……」
「うん、テンカワ……アキト…………アキト?」
ユリカの脳裏に忘れ去っていた情景が甦る。
「あ……アキト! アキトだぁ〜っ!!」
『へ?』
いきなり叫ばれてぎょっとするアキト。だが、ユリカはそんな彼に構わず、
「なっつかし〜、アキトったら何でさっき言ってくれなかったの? そっか〜、相変わらず照れ屋さんだね!」
『ちょ……ちょっと待てよ! なんだよ、お前はそこで何してんだよ!』
「彼女はこのナデシコの艦長さんです」
『ええぇ〜っ!?』
「そーだよ、ユリカはナデシコの艦長さんなんだよ、えっへん!」
誇らしげに胸を張るユリカに、状況に付いていけなかったジュンがようやっと復活した。
「ちょ、ちょっとユリカ。アイツは誰なの?」
「アキトはねぇ、ユリカの王子様なんだよ! ユリカのピンチにいつも駆け付けてくれるの!」
『ちょっと待ておい! 誰が王子様だ誰が!』
「でもでも、アキトを囮になんて出来ないよ。危険すぎる……」
『おい、何だ囮って……』
「わかってるわ。アキトの熱い決意を、女のユリカがどうこう言う事なんて出来ないよね!」
『人の話を聞け〜っ!!』
「私、何だかあの人が気の毒になってきました」
「う〜ん、でもカレが出ないとあたし達死んじゃうんだし……頑張って貰うしか無いんじゃない?」
同情するメグミと、お気楽なミナトの言葉だ。
『わかったわアキト。ナデシコと私達の命、貴方に預けます。必ず生きて……還って来てね』
勝手に盛り上がり、あまつさえ健気な泣き笑いさえ浮かべてユリカの通信は切れた。
「おい、待てこら!!」
『エレベーター、地上に出ます』
「え、ちょっと!?」
『なんかあたし達の命が危ないみたいなんで、頑張ってね〜』
『気を付けて下さい』
「え!?」
『俺のゲキガンガー返せよ!』
「うるせ……え?」
ガコン、とエレベーターが停止する。町並みは瓦礫に変わっている。黒煙が燻り、周囲には見渡す限りの黄色いバッタの群。
『作戦時間は10分間。ともかく敵を引きつけろ。健闘を祈る』
「あ……あ…………」
だが、ゴートの声は聞こえていなかった。恐怖に引きつるアキト。あの火星での悪夢が甦る。手が震え、膝が笑い、身体がまったく動かない。
「あ……ああ……あああ…………」
喉元まで叫び声が出かかったとき、アキトの脳裏に先ほどのユリカの笑顔がよぎった。
『ナデシコと私達の命――
貴方に――
預けます――!』
「!!」
次の瞬間、アキトの駆るエステバリスは宙を飛んだ。
◆
「こらーっ! 逃げずに戦えーっ! それが漢のする事かーっ!!」
まるで蜂の大群に追われているかのようなアキトのエステに、ヤマダが叫んでいる。
「ほれ、パンチやキックのひとつでも食らわせてやらんかい!」
「無理よ! コックに囮役なんて出来る訳無いわ! 今すぐ対空砲火よ!」
「しかし、彼は良くやっています」
「立派な囮振りだ」
「アキト、貴方を死なせはしないわ……」
ユリカは祈るように手を組んで、じっとモニターを凝視している。そこに、コミュニケの通信が入った。
『こちら格納庫、ブリッジ、聞こえますか?』
「あ、はい、どなたですか?」
受け答えたのはメグミである。他の連中はモニターに釘付けだ。
『パイロット兼オブザーバーのイツキ・カザマです。状況を教えて下さい』
「あ、はい。今囮のロボットが……」
『構わん、出るぞ』
コミュニケの向こうから聞こえてきたダークトーンの声がメグミの言葉を遮る。
『あ、黒百合さん! すいません、データをこちらに!』
「了解、データ送ります。注水、八割方完了。ゲート開きます」
「エンジン、いいわよん」
ウィンクしてミナトが言う。ユリカがモニターから目を外し、正面を向いて告げた。
「機動戦艦ナデシコ……発進です!」
◆
「ちくしょーっ、ちくしょちくしょちくしょ、ちくしょぉーっ!! いい加減に……しろぉぉぉぉぉっ!!」
追いかけ回されるストレスにアキトが切れた。叫び声と共にエステバリスの腕が跳び、先頭のバッタを吹き飛ばす。
「あ、あれ? 何だ……強いじゃん、俺……
この力が……この力が火星の時にあれば……アイちゃん……」
唇を噛むアキト。何時しか悔し涙が零れてきた。
「ちくしょ〜、ちくしょ〜……っ。
あれ? そういや俺、何であいつらの事怖くないんだろ……」
はたと気付いて周囲を見渡すアキト。取り囲むバッタの一機と目があった……様な気がした。
「ひっ!?」
アキトの全身が硬直する。
「あ……しまった……、余計なこと思い出すんじゃなかった……」
エステバリスの目の輝きが消える。
エステバリスはI.F.S.を搭載している。これによってパイロットの思うがままの操縦が可能になったわけだが、その反面パイロットのコンディ ションがエステの機動に顕著に反映される形となった。
力失ったエステバリスはそのままの姿勢で落下する。動かなくなった獲物に群がろうとしたバッタ達に、無数の火線が飛来した。
「えっ!?」
ババババババババッ!!
銃弾に貫かれ、爆散するバッタの群。
アキトが振り向くと、そこには黒と紫、2機のエステバリス・陸戦フレーム。黒のエステはブレードの二刀流、紫のエステはラピッド・ライフルを両手 で構えている。先の射撃は紫のエステのものだ。
『間に合った! 大丈夫ですか!?』
アキトの目の前に通信が開く。そこに映っているのは、肢体をパイロット・スーツに包んだイツキの姿。
「あ、あんたは!?」
『話は後です! 援護しますから離脱して下さい!』
「は、はいっ!」
考えるより先に身体が動いた。アキトのエステが飛び退いた先に、イツキのラピッド・ライフルが撃ち込まれる。その火線を回り込んでアキトに襲いか かろうとしたバッタは、黒のエステに真っ二つにされた。
黒のエステはそのまま滑るように回転しながらアキトのエステの周囲を薙ぎ払う。連続して爆音が轟く。
『さっさと行け』
サウンド・オンリーのコミュニケからの素っ気ない声。
イツキが呆然として動かないアキトをせかす。
『さあ、早く!』
「で、でも一人だけじゃ……」
『大丈夫です』
「へ?」
あまりにも穏やかな笑みを浮かべるイツキに、アキトは一瞬呆気にとられた。
『ふふ、大丈夫ですよ、あの人なら……』
◆
「すごーい……」
思わず漏らしたメグミの呟きが、ブリッジ一同の心境を代弁していた。
黒の陸戦フレームはまさに流れるような動きでバッタの群を蹂躙していた。地を蹴り、宙を舞い、二本のブレードが振るわれる度に確実にバッタの数は 減少していく。時には一振りで複数のバッタを切り裂くなどという真似までしてのけた。
「な……何なのよあのパイロットは……」
「彼は我々ネルガルのパイロットでして……それにしても見事な動きですな。想像以上です」
モニターの中では、紫とピンクのエステバリスは先行してポイントに向かっている。
「ナデシコ浮上まで後3分」
カウントを読み上げる、ルリの冷静な声。
『黒百合さん、どうしますか?』
「そうだな……このまま全滅させる事もできるが、今回はサポートに徹しよう。このままクロス・ポイントにバッタを誘導する。イツキはそいつの保護を 優先してくれ」
『わかりました』
バッタの攻撃を避けながら、黒百合のエステは海岸線沿いに疾走する。もう反撃は行わず、回避のみに専念している。
やがて道は途切れ、、海底ゲート真上の岬へと辿り着いた。カウントしていたタイムは丁度ゼロの表示を示したところだ。
「時間だ」
黒百合は迷い無く地を蹴った。重力を受けて下降するエステバリス。その先の海面が盛り上がり、白い艦体が姿を現す。
機動戦艦ナデシコ。そのブリッジの上に降り立つ黒百合。
タイミングを同じくして、イツキたちもナデシコに飛び乗った。
「敵残存兵器、全て有効範囲内」
「グラビティ・ブラスト、チャージ完了♪」
「目標、敵まとめてぜーんぶ! ってーーーーーっ!!」
ユリカの号令一下、ナデシコの主砲グラビティ・ブラストが火を噴く。重力波がバッタ達をまとめて薙ぎ払い、黒い奔流が過ぎ去った後には何も残って いなかった。
「バッタ、ジョロとも残数ゼロ。地上軍の被害は甚大、だけど何故か死者はゼロ」
「そんな……偶然よ! 偶然に決まってるわ!」
「認めざるを得まい。良くやった艦長」
「まさに逸材!」
「やった〜っ! アキトすごいすごーい!!」
「か、勘違いすんなよ! 俺はお前を助けようとかじゃなくてだなぁ……」
「うん! わかってるよアキトの気持ちはぜーんぶ!」
「何が全部だ! だからいーかぁ、俺はお前を――」
「好きなんでしょ?」
「ちがーう!」
「何だか先行き不安ですぅ」
「え〜、でも結構面白そーじゃない」
「バカばっか……」
「人の話を聞け! 俺はお前を」
「大好き!」
「違うっつてんだろ!」
「大大大好き!」
「人の話を聞けーっ!!」
ブリッジの喧噪は、当然コミュニケを通じてエステのコクピットにも届いている。
『ふふ、何だか随分と賑やかな艦ですね』
「そうだな……」
目の前で繰り広げられている光景を眩しそうに見つめている黒百合。イツキはそれに気付かなかった。
これが全ての始まりなのだと、知っているのはただ一人だけだった。