黒百合がブリッジに足を踏み入れると、其処にいた一同が揃って一歩後ずさった。例外は予め黒百合を知っていたプロスとゴートだけである。
しかしさすがナデシコクルーと言うべきか、今は興味津々と言った表情でこちらを窺っている。
ちなみにヤマダは医務室に運ばれ、ウリバタケはエステのメンテのために格納庫へ戻った。ユリカは『アキトアキト〜っ!』と叫びながら格納庫向けて まっしぐら。先ほど黒百合達と廊下ですれ違ったところである。
「それでは、改めて自己紹介をしていただきましょうか」
プロスペクターに促されて、先に口を開いたのはイツキだった。
「パイロット兼オブザーバーを勤めさせていただきます、イツキ・カザマと申します。皆さん、宜しくお願いしますね」
「……黒百合。エステバリス・パイロットだ」
渋々、と言った感じの無愛想な黒百合の挨拶である。
「え〜、それだけですかな?」
「他に何か言う事があるか?」
「それでは、何方か質問のある方は……」
「しつも〜ん」
「はい、操舵士のミナトさん」
びしっ! と手を挙げるミナトに、教鞭らしき物を向けるプロス。まるで転校生を紹介する学校の教師のようで、意外と様になっている。
「何でバイザーなんか掛けてるの? それにその怪しい格好」
(そんなに怪しいか?)
内心首を捻る黒百合。彼の感性は3年にわたる荒んだ日常の中でだいぶズレてきているようだ。
「習慣だ」
「……それだけ?」
一言だけで答えた黒百合に物足りなさげな顔を見せるミナト。と他一同(イツキ含む)。
「強いて言うなら、この格好が一番着慣れていて動き易いからだ」
「でもぉ、そんな格好されてると、とっても気になるんだけど」
うんうん、と頷く一同(イツキ含む)。
「気にするな」
「気にするなって言われても……」
困り顔をするミナトに代わって、今度はメグミが手を挙げた。
「しつもーん!」
「はい、通信士のメグミさん」
「あの〜、イツキさんって、もしかして《紫衣の聖女》のイツキさんですか? 『スノー・ドロップの奇跡』の?」
この質問に、今度はイツキが困ったような苦笑を浮かべた。彼女の心情を察したのか、プロスが代わって答える。
「はい。実はそうなのですよ。彼女は宇宙軍からの派遣という形で、ナデシコに搭乗して戴く事になります」
「へぇ……」
感嘆の声を漏らしたのはメグミだけではない。イツキの名前は、軍部の過剰な宣伝により、今や世界中に知らぬ者はいないまでに広まっている。
第一次火星会戦の大敗を隠すために、連合軍は多数の英雄を生み出した。火星を脱出してきたイツキ然り、開戦時にチューリップを撃沈したフクベ然 り。
作られた英雄。彼女のふたつ名は、イツキの心をきつく締め上げる。
俯いてしまったイツキの肩に、ぽんと黒百合の手が置かれた。見返す彼女に頷きを返して、黒百合が前に出る。
「ミスター、もういいだろう」
「あっと、そうですな。それではお部屋にご案内いたしましょうか」
「あ、いえ、私が案内します。さっきもその途中だったんですよ」
「おや、そうでしたか。それでは申し訳ありませんが、お願いして宜しいですかな」
「はい、行きましょう黒百合さん」
イツキに案内されてブリッジを出る黒百合。
「さて、私もちょっと艦長を連れ戻しに行って来ますので、ゴートさん、後の事は宜しくお願いします」
「了解した、ミスター」
プロスペクターも去ると、後に残ったのはむっつりゴートと軍人二人、そしてブリッジクルーのみになった。
「まぐれよ……まぐれに決まってるわ……」
「…………」
未だに現実を受け入れられないムネタケと、無言で佇むフクベ。
「何だか随分と雰囲気のある人だったわねぇ」
「でも、ちょっと怖そうでしたね」
お気楽に好き勝手なことを言っているミナトとメグミ。
一人コンソールに向かって黙々と作業を続けているルリ。そして。
「ユリカぁ〜……」
想い人に取り残され、独り涙するジュンだった。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第11話
「目指す地は火星」
日付が変わってナデシコの艦内では、コックの後ろについて回る艦長の姿を見る事が出来た。
「アキトー、アキトってばー」
「…………」
無言で廊下を歩くアキト。ユリカはしきりにアキトの名を呼んで、何とか気を引こうとしている。
「アキトぉー、アキトーぉ?」
「…………」
「アキトっ、アーキトっ」
「…………」
「う〜、アキトアキトアキトってば!」
ごん、がん、げん!
「いてっ、いてっ、いてっ!」
涙目になって空きカンを投げつけるユリカに、遂にアキトもしびれを切らした。
「だ〜っ! 何すんだお前はっ!」
「だってだって、アキトってばユリカを無視するんだもん! ねぇ、一体どうしたの!?」
「ったく……分かったよ、話してやるよ。
……でもな、その前にひとつだけ言っておきたい事がある!」
「……うん!」
真剣な顔で頷くユリカ。いつの間にか集まったギャラリー(野次馬)も、固唾を呑んで見守っている。
「空きカンはっ!」
「クズカゴにねっ!」
……ナデシコ食堂の中に、皆のずっこける音が盛大に響いた。
◆
その後、ショーケースに手をつきながら訥々と語るアキトの話に、ユリカは息を呑むばかりだった。
火星で自分と別れた後、宇宙港のテロに巻き込まれて両親が死んだ事。その後は孤児として施設を転々としていた事。
開戦時、火星にいて、気が付いたら地球にいた事。
そして、あの時路上で自分を思い出し、自分ならば両親の死の真相を知っているだろうと追いかけて来た事。
このくだりで、『きゃっ、アキトったらユリカを追いかけて来ただなんて大胆(はーと)』などと思っているあたり、誠にユリカらしいと言えよう。
『俺は真実が知りたいんだ。事の次第によっては、俺はお前だって殺す。……殺すかも知れない』
思い詰めた表情でそう言いきったアキトに少なからぬショックを受けるユリカ。もっとも、その後トリップしてしまったのは頂けないが。
ともかく、両親を失った事によるアキトの傷は深い。それだけは理解できた。
自分は早くに母親を亡くしたとはいえ、まだ父親がいた。自分が此処まで然したる苦労もせず無事に育ったのも、偏に父親が惜しみない愛情を注いでく れたればこそだ。
一度にふた親を失い、天涯孤独の身となったアキトの苦労は、自分には想像も付かない。
(アキト……今まで寂しかったのね……)
「え〜、ネルガルは木星蜥蜴と一戦交えるために戦艦を拵えたわけではありません。今まで妨害者の存在を恐れて公言しては来ませんでしたが……」
「妨害者なんていたんですか?」
(でも大丈夫! これからはずっとユリカが一緒だよ! 二人でいれば、寂しくなんかないもん!)
「はっはっは、これでも色々ありましてな」
「で、結局何処に行くの?」
「……火星、ですね」
(今まで離れていた分を取り戻すの! そうだ、今度お父様に紹介しなくちゃ。アキトがユリカの王子様だって)
「何故火星なんかに!? これだけの戦力をむざむざ……」
「連合軍は第一次火星会戦の敗退後、早々に火星を見捨てて防衛線を地球に引きました。それ以後、火星が敵の手に落ちて1年余り……火星に残された方 たちは、一体どうして……」
(そして一緒にバージン・ロードを歩くの! やだやだ、アキトったら気が早いよ。エッチなんだからぁん……でも、アキトなら……でへへ)
「一体、どうし、どう…………あの〜艦長、話を聞いておられますかな?」
「子供は三人、最初は女の子がいいなぁ……って、あれ? プロスさん?」
コミュニケで呼び出されブリッジに入って以来、妄想の泉にどっぷり浸かっていたユリカが漸く還ってきた。
「……艦長、話を聞いておられましたかな?」
にっこりと笑顔を浮かべるプロス。そのこめかみにはきっちりと青筋が浮かび上がっていたりする。
「え、え〜っと……あははははははは」
「はっはっはっはっ」
「あははははははは…………何でしたっけ?」
「かぁんちょう。ちゃんと話を聞いて貰わなければ困ります」
「……ゴメンナサイ」
「つまり、ナデシコは地球軌道上での防衛戦には加わらず、火星へと向かいます」
「何でですか?」
「火星に残された方たちの救出、ですな。火星にはネルガルの研究所が多数残っています。その研究所に生き残りがいる可能性は、実はかなり高いのです よ」
「で、火星で研究していたデータをネルガルが持ち帰る、というわけだ」
ネルガルの思惑をズバリ言い当てたのは、今まで口を閉ざしていた黒百合である。
「まあ、それもあります。ネルガルは営利企業ですからな。ですが戦争よりはよいかと」
しれっと受け流すプロスも相当なものだ。
「そうねぇ、戦争よりは……」
「ああっ! プロスさん!」
全体の雰囲気が納得の方向に流れかけた時、突然ユリカが大声を上げた。
「な、何ですかな艦長」
「今気付いたんですけど、こんな所にとっても怪しい恰好をした人が忍び込んでます!!」
びしぃっ! と指差した先には、黒ずくめにバイザーを掛けた怪しい恰好をした人物が立っていた。
「「「「「「「「…………(汗)」」」」」」」」
気まずい沈黙が下りる。否定しようにも、確かに黒百合の恰好は怪しかった。黒百合も何と言っていいか分からない様子だ。
その沈黙をうち破ったのは、一際暑苦しい声だった。
「そうか! さっきから怪しいたぁ思ってたが、さてはてめぇ木星蜥蜴のスパイだな!」
びしぃっ! と指差した先には、黒ずくめにバイザーを掛けた怪しい恰好をした人物が立っていた。
「「「「「「「「…………(汗)」」」」」」」」
更に気まずい沈黙が下りる。
プロスはズレ落ちた眼鏡を直しながら、流れてもいない汗をハンカチで拭った。
「そう言えば、まだ艦長とヤマダさ「ダイゴウジ・ガイ!」……ダイゴ ウジさんには紹介していませんでしたな」
「にしたってフツー、今まで気付かない?」
ミナトがもっともな疑問を口にするが、この二人にはあらゆる意味で常識など通用しない。
「……パイロットの、黒百合だ」
疲れたような声音の黒百合だった。
「え〜、話を元に戻して宜しいですかな」
黒百合に平謝りするユリカに、プロスが声を掛けた。
「えーと、何でしたっけ?」
「艦長……」
押し上げたプロスの眼鏡がきらりと光る!
「あははははは、じょ、冗談です〜。ナデシコは火星に向かうんでしたよね!」
「物分かりがよい艦長ですと助かりますな」
「ちょ、ちょっと待って下さい。ホントに火星に向かうんですか!?」
慌てた口調で割って入ってきたのは、副長のアオイ・ジュンである。決して今まで存在を忘れ去られていたわけではな い。ないったらない。
「左様です」
「そんな……地球の現状をほっぽり出して行くつもりですか!?」
「なればこそ、です。現在、地球と木星蜥蜴の間では技術の差が大きすぎるのです。それを埋めるためにも、最先端の研 究が行われていた火星へ行く必要があるのですよ」
「で、でもこのナデシコがあれば、地球の防衛にどれだけ役立つか……数多くの犠牲者を救えるかも知れないんです よ!?」
「……でも、それは火星も同じです」
静かな声を響かせたのはイツキである。
「カザマ中尉まで……」
「私はあの時、火星地表で戦っていました。宇宙軍が火星撤退を決定した時、まだ火星には多数の一般人が取り残された ままでした。
私がアルカディア・コロニーから脱出した際にも、200人近い方たちが火星に残りました。彼等は、自分の意志で火 星に残留したんです」
「…………」
皆が、イツキの語る言葉に聞き入っている。
「幸い、私達は無事地球に辿り着く事が出来ました。でも、火星に残留した彼等が一体どうしているか……考えない日は ありません。
私は……彼等が今も生き延びていると信じています。だから、彼等を助けに行くんです。これも、軍人の勤めだと思い ますけれど?」
穏やかな笑顔を向けられて言葉を失うジュン。だがそれでも、彼は抗するのをやめなかった。
「で……でも! 生きているかも判らないたった200人と地球の全市民、秤にかけてまで確かめる意味が……」
『ないわね』
唐突にコミュニケが開いてムネタケの顔が現れる。同時にブリッジのドアが開いて、銃を持った連合軍の兵士達が押し 入ってきた。
「悪いけど、この船はアタシが戴くわ」
最後に入ってきたムネタケがいやらしく笑う。
「困りますなぁ福提督。軍との間ではもう話がついているのですが」
「そんなのアタシの知ったこっちゃ無いわ」
「血迷ったか、ムネタケ!」
「その人数で何が出来る」
「あーら、そうかしら」
「さてはてめぇ、木星蜥蜴のスパイだな!」
勢い勇んで指差したヤマダだったが、拳銃を突き付けられて慌てて両手を挙げた。
「勘違いしないで。ほら、来たわよ」
ムネタケが振り返った先のモニターの向こうで、海中から艦影が浮かび上がる。
「あれは……トビウメ」
「はて、トビウメと言えば……」
ブリッジ正面に特大のウィンドウが開く。そこに映し出される、とんがり頭の将官。この場にアニメおたくのアマノ・ ヒカルがいたらこう呟いただろう。サリーちゃんのパパ、と。もちろん彼女以外の誰にも意味不明であるが。
『連合宇宙軍第三艦隊提督のミスマル・コウイチロウである。機動戦艦ナデシコ、貴艦を徴発する』
「お父様」
「お、おと!?」
ユリカの呟きに、事情を知らないブリッジクルーが驚きの表情を浮かべた。ユリカとコウイチロウを見比べて、意味も なく指をさしているミナト。
ユリカを見たコウイチロウの強面が、一転してふにゃりと緩んだ。
『ユぅリカぁ〜、元気だったかぁ〜?』
「お父様、これは一体どういう事です?」
『すまんユリカ。これも仕事なんだ。パパも辛いんだよ〜』
滂沱の涙を流すコウイチロウ。ウィンドウ一杯に広がった顔がヤマダとは違う意味で暑苦しい。
「ミスマル提督……ナデシコはネルガルが私的に運用すると、軍とは既に話がついているはずですが」
「そうですミスマル提督。だからこそ、私の派遣も許可が下りたのではなかったのですか?」
『カザマ中尉か……現在の連合軍にこれだけの戦力を遊ばせている余裕はない。これは連合本部の決定である。君も命令 に従い給え』
「そんな……それが軍の決定ですか!?」
『そうだ。我々も手段を選んでいる余裕はないのだよ』
重々しくそう言うコウイチロウに、唇を噛んでうなだれるイツキ。
「はっはっは、流石ミスマル提督、お話が早い。どうでしょう、それでは交渉という事で、宜しければそちらに伺いますが」
『うむ……だが艦長の身柄とマスター・キーはこちらで預からせて貰う』
「それは承服できんな」
プロスが言葉を挟む前にそう言ったのは黒百合である。お手並み拝見、とばかりにプロスは一歩後ろに引いた。イツキもおもてを上げて黒百合を見や る。
『む……? 君は誰かね? 随分と怪しい格好をしているが』
「…………。パイロットの黒百合だ。
艦長はともかく、マスターキーを抜かれればナデシコは完全な無防備になる。仮に敵襲があった場合、自衛行為すら取れなくなってしまう。
戦時下にある現状に於いて、そんな致命的な隙を作る訳にはいかんな」
『ふむ……その場合は我等連合艦隊が護衛するが?』
「この一年間木星蜥蜴に惨敗続きで、民間の戦艦を徴発してまで対抗しようとしている軍隊に、そんな芸当が出来るとは思えんな」
『……耳の痛い話ではあるな。よかろう。ただし諸君らの身柄は一時拘束させて貰う。ブリッジ・クルーもだ』
黒百合はプロスペクターを仰ぐ。頷いて、プロスは眼鏡をくいっと持ち上げた。
「承知いたしました。それでは我々はこれからそちらへ向かいます」
ユリカとプロス、そして何故かジュンがトビウメへと向かい、クルー達はナデシコ食堂に監禁される事となった。
「あ〜あ、自由の身もたった一日でおじゃんか……」
「はっはっは〜っ、なんだ、暗いな〜博士」
「誰が博士だ、こら」
「悪の軍隊に囚われになるクルー達! そしてそれを命を懸けて救い出す正義の味方! くぅ〜、燃えるシチュエーションだ〜っ!!」
「人の話を聞けよ、おい」
(相変わらずだな……)
ヤマダとウリバタケの漫才を聞き流しながら、黒百合は一人ナデシコ食堂の片隅で物思いに耽っていた。
(ユリカ……)
ミスマル・ユリカ。かつて愛した女性。何物に変えても取り戻そうとした存在。
その想いは、時を隔てた今も変わらない。
だが、今この時間にいるユリカは、ラピス――セレスティンのように、自分の知っているユリカではない。
彼女に対して、自分はどんな態度をとればいいのか分からない。
自分は一体どうしたいのか。自分の気持ちすら、黒百合には掴めてはいなかった。
「この船大丈夫かなぁ。ネルガルのヒゲ眼鏡の人とか、あまり頼りになりそうにないし」
「人は結構見かけによらないものよ、メグちゃん。だいじょーぶ。きっと上手く行くって」
「だといいんですけど。あーあ、何だかガッカリです。戦艦に乗ればかっこいい人とかいると思ったのに」
「あら、だったらあの黒百合って人はどう? 結構雰囲気出てると思うケド」
「え〜、でも何だか怖そうじゃないですか。あんな格好してるし」
「まあ、確かにねぇ……」
メグミの言葉に苦笑を浮かべながら、ミナトは何とはなしにあの怪しい格好をした男を捜した。見渡すだけですぐに見つかる。
「あら、あんな所に」
「あ、ホントだ。腕なんか組んじゃって、何だかカッコつけって感じですね」
「メグちゃんったら……ちょっとお話でも誘ってみる? 案外いい人かも知れないわよ?」
「え〜、でも」
「いいじゃない。面白そうだし。ルリちゃんも一緒するわよね?」
「はあ。いえ、せっかくですけど遠慮しておきます」
話を振られたルリの返事である。言葉ほど申し訳なさそうにはしてはいないが、ミナトは気にもせず笑い掛けた。
「そう? じゃ、ちょっと行って来るわね〜♪ あ、コレルリちゃんにあげるから♪」
手など振りながらミナト達は席を立った。その後ろ姿を見送って、ルリは目の前に置かれたジュースに口を付ける。
「……甘い」
ちなみにオレンジ・スカッシュだった。コップを脇にどけて、両手で頬杖をつく。
何やら騒いでいる者、陰鬱そうな顔をしている者。様々いるが、誰も明るい顔はしていない。悲壮感は漂ってこないが、囚われの身を憂えている、と見 えなくもない。
(結局、何も変わらないのよね)
ルリにしてみれば、自分の身の上が何か変わったわけでもなく、状況の変化に一喜一憂する気にはなれなかった。
受精卵の状態で遺伝子操作を加えられ、生まれてきたのは試験管の中。物心付く前から英才教育を受け、実験体として監理された日々を送る。ナデシコ に乗ったのも、ただ単にネルガルに買われたからに過ぎない。管理者が研究所からネルガルに変わっただけで、何ら変わったところはなかった。
そんな人生を送ってきたせいか、自分でも可愛げのない性格をしていると思う。操舵士のミナトが何くれとなく世話を焼いてくれるが、どうしてもそれ を素直に受け取る気にはなれなかった。
(何か変わる訳無いのに)
そう、変わるはずがない。自分も、自分の境遇も、他人も、何もかも。
ぐぅ……きゅるるるるる……
そんな事を考えていたせいか、お腹まですいてきた。そう言えば、今日は朝から何も食べていない事に気付く。
I.F.S.強化体質であるルリは体内ナノマシンの量が多く、その維持のために当然食事の摂取量も多い。ちなみに 好物はハッパセンベイで、一日にかなりの量を消費していたりする。
反面、ご飯や麺類といった主食系は好きではなく、いつも食事は自販機のハンバーガーで済ませている。ミナトから誘 われた事もあったが、何かと理由を付けて断っていた。
この食堂の中には、当然だが自販機はない。後で買って来よう。でも、ここから出られるようになるまでだいぶ掛かる かも知れない。とすると、食事を摂るのはかなり先の事になるわけで……
「お腹空いたの?」
憂鬱な気分に浸っていたところに唐突に背後から声をかけられて、ルリの心臓がどきりと跳ね上がった。
(聞かれた!?)
彼女にも羞恥心はある。お腹の虫の音を聞かれて恥ずかしくない訳はない。
だからといって、それを指摘されて頬を赤らめたりするなど、自分のキャラではない。焦る気持ちを抑えて、少女は無 愛想の仮面を被る。11年の人生の中で身につけた、自分を守るための仮面だ。
それでも、完全には押さえ切れてはいなかった。僅かな驚きを含んだ表情で振り向くルリ。
彼女が見たのは、にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべる、ぼさぼさ頭の少年だった。