「よう、ナデシコに先に乗ってたパイロット二人ってのは、あんたらかい?」
お立ち台による自己紹介を済ませたリョーコ達が、格納庫の片隅にいる黒百合達を見つけて、声を掛けてきた。
「あたしたちもパイロットなんだよ。よろしくね〜」
「よろしく……ふふ、ふふふふふ」
「イツキ・カザマです。よろしくお願いしますね」
怪しく笑うイズミは努めて無視して、イツキが挨拶を交わす。
「へえ、アンタが《紫衣の聖女》かい。噂には聞いてたけどよ」
「通り名だけが一人歩きしているみたいですけど」
無遠慮なリョーコの視線に、苦笑を返すイツキ。
「んじゃあ、そっちの黒いのは?」
「……パイロットの黒百合だ」
「はぁ?」
「もしかして……コスプレ? こんなところにも同志が?」
ヒカルがキラキラと目を輝かせる。それを聞いて、イツキが後ずさった。
「そ、そんな……黒百合さんは、コスチューム・プレイヤーだったんですか!?」
「何故信じる」
「なぁーんだ、違うのか」
「そうそうお前ぇと気の合う奴なんかいるかよ。オレはスバル・リョーコ、よろしくな!」
「アマノ・ヒカルでぇ〜っす!」
「マキ・イズミ……押せば笑いのイズミ湧く……ふふふふふふ」
「まあ、よろしくな」
ぶっきらぼうな黒百合の物言いだが、三人娘は気分を害した様子はなかった。
「あの黒いエステに乗ってたのはアンタか?」
「そうだ」
「そうか……凄ぇ腕だな。今度、シミュレーターで勝負してくれよ!」
「あ、あたしもあたしも〜」
「たわしも……いえ、わたしも……」
「ああ、構わんが……ナデシコが火星へ向かう間、いくらでも時間はあるからな」
「へっ、楽しみにしてるぜ」
犬歯を剥き出しにして、不敵な笑みを浮かべるリョーコだった。
◆
「ったく、どんな操縦をすりゃぁ此処まで酷くなるってんだ……?」
ウリバタケがスパナで首筋を掻きながら、左手に持った電子レポートの画面上に並ぶ項目の数に、思わず嘆息した。
目を通しているのは、黒百合の機乗したエステバリスの点検結果だ。モニターで見ていたが、かなり滅茶苦茶な機動をしていたため、ハンガーに着ける なり総ざらいのチェックを行ったのである。
その結果、かなりの箇所で問題が発生しているのが分かった。耐久限度を超えた負荷に耐えかねて、関節部にかなりのガタが来ている。まだ一度しか機 乗していないにも関わらず、だ。
それに、イメージ・フィードバック・システムの回路が焼き切れる寸前だった。戦闘補助を行うサポート・コンピューターも、計算の処理が追いつかず にフリーズ状態で固まっている。つまり黒百合は、コンピューターのサポートなしであれだけの戦果を上げたのだ。
「鈍いって言うだけの事ぁあらぁな……」
エステバリスに搭載されているコンピューターよりも、黒百合自身の演算処理の方が早かったという事実。
これは、黒百合がかなりのレベルのI.F.S.強化体質である事を示している。
機体の性能がパイロットに追いついていない。これは、改造屋を自認するウリバタケの改造意欲に火を注ぐものだった。
「ふっふっふ、見てろよ〜。この俺様が、とぉっておきの奴を作ってやるからなぁ〜」
マッドな笑みを浮かべるウリバタケ。これから待ち受けているであろうめくるめく機械いじりを想像して、まさに涎垂の思いである。しかし、不気味に 笑いながら格納庫を歩く姿は、何とも言えず不気味だ。笑いながらハッチの向こうに消える。
「お〜い、誰か居ないのかぁ〜。博士〜、縄を解いてくれぇ〜」
柱に括られたまま存在を忘れられたヤマダの声が、人気のない格納庫の中に響いた。
濃いキャラクターなのに、何故か影の薄いヤマダだった。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第15話
「その想い、胸に抱き」
サツキミドリ2号での補給を終え、ナデシコは一路火星へと船首を向けた。
コロニーでの戦闘以来、木星蜥蜴の襲撃も影を潜め、せいぜい散発的に長距離射撃をしてくる程度。もちろんそんなものがディストーション・フィール ドに通用するはずもなく、順調な航海が続いている。
逆に言えば、何も変化のない単調な日々が続いているとも言える。火星到着に要する時間は約3ヶ月半。その4分の1ほどを消化したところで、既にナ デシコ内の風紀はだれきっていた。
その中で最初に根を上げたのが、誰あろうミスマル・ユリカその人である。
「暇だね〜」
艦長席に座ったユリカが、ぼけら〜っと口を開いたまま、誰にともなく呟いた。
オモイカネによる全自動航行を行えるナデシコの艦橋には、緊急時に備えても必要なのはせいぜいオペレーターのみ。
そのルリはウィンドウを開いてひたすら無表情にゲームに勤しんでいる。通信士のメグミはファッション誌に目を通し、操舵士のミナトに至っては朝寝 坊でブリッジに顔を出してすらいない。
と、ルリの目の前に表示されているウィンドウの脇に、小さなウィンドウが開いた。
『第四級警戒態勢』
「木星蜥蜴の砲撃、来ます」
ゲーム画面から目を離さず、ルリが報告する。
超長距離から発射された重力波レーザーがナデシコのディストーション・フィールドを捕らえ、入射角と正反対の角度に跳ね返って虚空へと消えていっ た。
「ディストーション・フィールド、順調に稼働中。敵影は確認されず」
「敵さんも暇だね〜」
緊張感のかけらもない物言いをするユリカに、ルリがちらりと視線を向けた。いつの間にやら下部ブリッジまで降りてきて、オペレーター席のコンソー ルの脇に腰掛けている。
「ルリちゃん、さっきからそのゲームやってるけど、楽しい?」
「いえ、別に。ただの暇つぶしですし」
そう言いながらもコントローラーを操作するルリの手は止まらない。
「ふーん……」
「艦長、そこに座られると邪魔です」
「あ、うん、ごめん」
ユリカはややつまらなそうにしながらも素直に腰を上げる。メグミの方に視線を向けるが、彼女はファッション誌の方に夢中で、こちらを構ってくれそ うにはない。
ユリカは少し考えるように人差し指をおとがいに当てて、
「ん〜……うん、アキトのところ行こっと♪」
言うが早いか、跳ねるようにブリッジを出ていった。
それと入れ違いに、眠そうなミナトが欠伸しながら顔を出す。
「ふぁ〜あ……アラ、艦長は何処行ったの?」
「いつものトコみたいですよ」
「あらまあ……あのコも大変ねぇ……」
口調がちっとも大変そうでないミナト。
だれきった会話を横で聞いていたルリが、誰にも聞こえない声でぼそっと呟いた。
「……バカばっか」
◆
「♪〜」
ナデシコ食堂の厨房で、歌など口ずさみながら楽しげに炊事をこなしていたテラサキ・サユリは、妙な光景を目にして手を止めた。
艦長であるところのミスマル・ユリカが、四つん這いになってこそこそと厨房に入ってきたのだ。その何とも子供っぽい仕草は彼女に似合いすぎていた が、年齢と立場を考えるとかなり問題があるようにサユリには思えた。
目が合うと、ユリカは人差し指を唇に当てて『し〜っ』というジェスチャーをする。どう対処して良いか戸惑うサユリをよそに、そっとキッチンに立っ ている人物の背後に回り込んだ。
その人物とはナデシコ食堂唯一の男手、テンカワ・アキトである。彼は包丁片手にひたすらキャベツと格闘していて、背後の怪しい気配に気付く様子は ない。
どうやら、ユリカはアキトを驚かそうとしているらしいと理解して、サユリはほっと息をついた。息をついた後、慌ててユリカを止めに入った。何し ろ、アキトは刃物を扱っているのだ。
「ちょっ――」
「あーきーとっ!」
がばちょっ!
しかし制止の声は間に合わず、ユリカはアキトに抱きついて目的を達成した。背中から抱きつかれたアキトは、成す術なく体勢を崩す。
「痛ぇっ!」
包丁が添えていた手の指先を切った。痛みにアキトが飛び上がる。
「テンカワさん!」
慌てて駆けつけたサユリがアキトの左手を取った。結構深く切ったのか、傷口からは赤い血がどくどくと流れている。
「た、大変! 早く止血しないと!」
「っつぅ〜……何すんだユリカ!」
「ほえ?」
怒りも露わにアキトが未だに抱きついているユリカを振り解く。キョトンとした顔を向ける彼女に、アキトはケガをしている方の指を突きつけた。
「お前なあっ! 人が刃物扱ってる時に、いきなり抱きついたりするなよっ! 危ないだろ――って、あれ?」
尻つぼみに言葉が途切れる。
突きつけた指からは未だに血がどくどくと溢れている。その指に焦点を合わせていたユリカの顔が真っ青になり、そのまま後ろにひっくり返ったのだ。
「お、おい、ユリカ?」
「何だい何だい、どうしたんだい?」
騒ぎを聞きつけたチーフ・コックのホウメイが駆けつけてきた。状況をざらりと一望してから、倒れているユリカの顔を覗き込む。目の前でぱたぱたと 手を振っても、何の反応も返さない。完全に気絶しているようだ。
「こりゃあ、貧血だね」
どうやらユリカは、アキトの血を見て貧血を起こしたらしい。自分が起こしたトラブルが原因で気絶するとは、何ともはた迷惑な限りである。
「こ、こいつは……」
「それよりテンカワさん、早く止血しないと」
サユリが持ってきたタオルを傷口に当てる。
「あ、うん。ありがと」
「テンカワ、早いトコ医務室に行って来な。昼まではまだ時間があるからさ」
「はい、分かりました」
ひらひらと手を振るホウメイに返事をして、アキトは厨房を後にする。それを追って、サユリも飛び出した。
「ホウメイさん、私も付き添います!」
「あ、ちょっとサユリ! もう、アンタまで抜けてどうするんだい、まったく……」
ホウメイはため息をついた後、
「ほらあんた達、艦長を運ぶんだよ」
「はーい」
「うーんうーん、艦長、重いー」
「きっと胸が大きいからこんなに重いのね」
「ホントにおっきいわねぇー」
「うわー、やーらかーい」
「うーん、うーん」
ホウメイ・ガールズのオモチャになっているユリカは、なにやら悪夢でも見ているのか、青い顔のまましきりに魘されていた。
◆
「テラサキさん、別に付き添ってくれなくても良かったのに」
「駄目ですよ。傷口からバイ菌が入ったら大変な事になるんですから!」
「うん、そりゃ分かってるけどさ……っと、ここか」
医務室のプレートが飾られたドアの前で足を止める。医務室のハッチは他と違ってセンサー感知式ではなくボタン操作式である。ノックをしてから、ボ タンを押してハッチを開けた。
「あらあら、どうしました?」
白衣を着たケイが、椅子をくるりと回転させてこちらを振り向く。くすんだブロンドの髪がふわりと浮いて、キラキラと光沢を放った。
「すいません、ちょっと怪我しちゃって……」
「あら大変、すぐ見せて下さる?」
ケイはサユリの手を取ると、対面の椅子に座らせた。
「で、何処を怪我したの? 女の子なんだから、お肌に傷を付けちゃ駄目よ。気を付けないと」
「いえ、私ではなくてですね」
「あらそうなの?」
「はい、後ろにいる……」
「後ろにいる彼氏が怪我したの?」
「か、彼氏なんかじゃありません! もう、テンカワさん……テンカワさん?」
頬を赤くして後ろを振り仰いだサユリは、呆然と立ちすくんでいるアキトを見て怪訝な表情を浮かべた。
アキトは指の痛みも気にならないのか、目を見開いてこちらを見ている。その視線はサユリを通り越して、椅子に座っているケイへと向けられていた。
当のケイも、アキトの面差しを見て、そっと首を傾げた。
「あら、貴方は……」
「あ……アイちゃんのお母さん!?」
驚愕の声を上げるアキトに、ケイは微笑みを返す。
アキトは食堂勤務でケイと顔を合わせる機会はあったはずだが、仕事に忙殺されて気付く余裕がなかったのだろう。きちんと彼女と面と向かって話すの はこれが初めてだった。
「はい。お久しぶりですね。あの時はミカン、有り難う御座いました」
「か、火星で助かってたんですね! よかった……本当に良かった……ユートピア・コロニーで、助かった人はもう誰もいないかと……」
「あらあら、男の子が彼女の前で泣いちゃ駄目ですよ」
立ちすくんだまま感極まって涙ぐむアキト。懐から取り出したハンカチでその涙ををっと拭うケイ。
「わたしもね、危ないところだったんですよ。それを、イツキさんと黒百合さんに助けられて……」
「……黒百合さん? イツキさんはともかく……」
目を擦ってアキトがおもてを上げる。
第1次火星会戦でのイツキの活躍は広く世間に知れ渡っている。そのビジュアルと相まって、知名度ではフクベを凌いでいるだろう。
「ええ、黒百合さんもあの時、ユートピア・コロニーにいらしたんですよ」
「そう……だったんですか。じゃ、じゃあ、アイちゃんも助かってたんですか!?」
それこそがアキトにとって最も気掛かりな事だった。
訳も分からず地球に流れ着いたアキトが、木星蜥蜴の襲撃の度に怯えていたのも、アイを救えなかったというトラウマから来ているものだったからだ。
アキトの問いに、ケイはそっと視線を外した。
「アイは……行方不明なんです。イツキさんと一緒に乗り込んだシャトルの中には、アイは乗っては居ませんでした」
「そ、そんな……」
顔面を蒼白にしたアキトに、しかしケイは微笑みを返した。
「でも……でもね、。アイは生きていると思うんですよ。わたしが助かったんですもの。アイもきっと……
だから、わたしはこの船に乗ったんです。アイを探すために、もう一度火星に行きたいって……」
そう語るケイの表情に悲壮感は浮かんでいない。あるのは我が娘を想う母親の慈愛の心と、けして揺るがない決意。
アキトは心打たれた。実の母親が此処まで娘のことを信じているのに、自分は一体何をやってきたのだろう。
ただただ後悔を引きずるばかりで、何も前に進んではいなかった。
ナデシコに乗ったのも成り行きだ。もう懲罰としてのパイロット訓練も受けておらず、専念したはずのコック業は未だに中途半端。ホウメイに叱られ、 ユリカに振り回される毎日だ。
後悔の沼から抜け出して、前に進まなければならない。アキトは目の前の靄が開け、まぶしい日差しが差し込むのを感じた。
「……そう、そうですよね! アイちゃんもきっと……」
「ええ。その時は、約束を守ってちゃんとアイとデートをしてやって下さいね?」
「はははっ。はい、その時は喜んで」
ケイは笑った。アキトも笑った。これからは、心の底から笑えるような気がした。
「あの〜、お二人とも、お知り合いなんですか?」
一人取り残されていたサユリがおずおずと手を挙げる。二人の会話を聞いていれば重要な事だとは想像が付くが、何となく置いてきぼりを食らったよう で面白くない。
「あら、ごめんなさい。それで、何処を怪我したんでしたっけ?」
「いえ、だから私じゃなくて……」
「ああっ、そう言えば俺、怪我を治してもらいに来たんだっけ!」
「忘れないで下さい、そんな大事な事」
「あらあら、もうすっかり血も固まっちゃって……」
途端に慌ただしくなる医務室に、明るい声が響いていた。
◆
「「すいません、遅くなりました!」」
アキトとサユリは慌ただしく厨房へ駆け込んできた。もう時刻は11時を回っている。仕込みの一番忙しい時期を、医務室で過ごしてしまった事にな る。
待ちかまえていたホウメイは、手を腰に当てて項垂れる二人を叱りつけた。
「遅いよ、あんた達! 医務室へ行くのに一体どれだけかかってるんだい!?」
「すいません、ホウメイさん……」
「ほら、仕込みはまだ残ってるんだ。すまないと思うんなら、早く皆を手伝いに行くんだよ!」
「はいっ!」
気合いの入った返事をして、アキトはキッチンへ飛んでいった。それまでキッチンに立っていたジュンコと代わり、早速仕込みにかかる。
それを見ていたホウメイが、首を傾げてサユリに問いかけた。
「サユリ、テンカワの奴、どうかしたのかい? やけに張り切ってるけど」
「えっ? さあ、私もよく分からないんですけど……医務室のドクターと知り合いだったらしくて」
「そうなのかい?」
「ええ。詳しくは教えてくれなかったんですけど」
「そうかい……まあ、テンカワの奴も色々あるんだろうさ。サユリもあんまり気にしない方がいいよ」
「私……別に気にしてなんかいません」
「そうかい? その割には何だか不機嫌なように見えるよ」
「わ、私は別に何にも……」
「まあいいけどね。料理をしている間は、他の事に気を取られているんじゃないよ」
ホウメイはそれだけ言うと、キッチンの方へ歩いていった。アキトの頭を背後からお玉で一発小突き、叱咤混じりの指導をしている。
端から見れば出来の悪い弟子を怒っているように見えるが、サユリにはホウメイが楽しげにしているように思えた。そして、指導を受けているアキト も。
胸の奥に、何となくもやもやしたものが広がってくる。理解不能な感覚に、サユリは苛立った。
「別に……気にしてなんかいません」
小さく呟き、ついと顔を背ける。
ともかく、今はホウメイに言われた通り、余計な事を考えるのはやめよう。サユリは手近にあった鍋に手を掛け――
ばしゃぁん!
「きゃああああああっ!」
「ああっ、サユリさんが熱湯こぼしたぁ〜!」
「さ、サユリちゃん、大丈夫!?」
「怪我はない!?」
「大丈夫なのかぁ!?」
厨房にいる全員……どころか、早めの昼食を摂りに来ていたクルーまでもが駆け寄ってくる。
「やれやれ……サユリまでどうしたって言うんだい、一体」
ホウメイはコック帽を取って天を仰いだ。
軽度の火傷を負ったサユリはアキトの付き添いで再び医務室に舞い戻り、結局この二人はその日の昼時は仕事にならず、ホウメイに大目玉を食らった。
アキト達が去った後の医務室で、ケイは一人机に向かっていた。
火星を脱出して地球に着いて以来、ケイは一日も欠かす事なく日記を書くようになっていた。その日あった事、思った事を取り留めもなく書き綴る。い つか、アイと再会した時に、それまでの出来事を語れるように……
日記を書いている時だけ、ケイは娘のアイと会話をしているような気分になれるのだ。アイがいればどんな事を言っただろう、どんな反応をしただろう と、想像しながら筆を進める。
この日は、アキトと再会した事を書く。あの、優しい笑顔をした少年。アイが居れば喜んだだろう。きっと彼の手を握って、デートをせがんだに違いな い。
「ふふ……」
その場面を想像してしまって、ケイは笑い声を零してしまった。いつか、そんな想像が、現実になる日が来るだろうか。
アキトにはああ言ったものの、ケイの胸中には確かに不安もある。
もう、娘には逢えないのではないか、そんな考えに囚われ、ベットの上でシーツにくるまって震えた夜もあった。
しかしその度に思い出すのは、火星での黒百合の言葉だ。
ほかの人は笑うだろう。しかし、ケイには黒百合がその場しのぎの嘘を言っているとは思えなかった。訳を話せないのも理由があるのだろう。
黒百合、あの不思議な青年。どこか哀しい蔭を纏っている。そして今日、改めて気付いた。
「黒百合さんは……アキト君に似ている……」
火星で、感じた既視感。黒百合とアキトの面影が重なって見えたあの時。
黒百合が以前名乗っていた名前もアキトだった。二人には、何か関わりがあるのだろうか。
少なくともアキトの方には身に覚えはないようだ。だとすれば黒百合の方だろうか。あんな黒ずくめの格好をしている事と、関係があるのかも知れな い。
疑問は尽きない。しかし、黒百合の言葉を疑う気にはならなかった。彼の正体が何であれ関係ない。
「アイ……早く帰ってらっしゃい。アキト君もアイに逢いたがっていたわ……
アイはまだ会ってないけど、黒百合さんやイツキさんや……優しい人がいっぱい居るわ。うんと優しくしてもらえるわよ?
アイはまだ甘えん坊なところがあるから……ふふ、そんな事言ったら、アイは否定するでしょうけどね……
きっと、この船を気に入るわ。素敵な、素敵な場所だもの……早く、自慢の娘をみんなにお披露目したいわ。
だから……早く帰ってらっしゃい……」
机の上に立てかけてあるポートレート。唯一残っている、アイと、亡くなった夫と、三人で撮った写真。
その写真を愛おしげに撫でながら、ケイは娘に語りかける。
あの日以来、幾度も幾度も繰り返してきた事だ。早くアイに逢いたい。その想いだけを胸に抱き、今という刻を生きている。
こんこん。
医務室のドアが控えめにノックされる。ケイは筆を置き、日記をぱたんと閉じた。
「はい、開いていますよ」
返事をして、時計を見る。午後8時半。いつの間にか夜も更けていたようだ。もちろん、ナデシコ艦内で設定された標準時刻に沿っての事だが。
エアーが抜けて、扉が開く。そこに立っていたのは、連合軍の士官服に身を包んだ人物。
「あら、フクベ提督。どうなさったんですか?」
さして驚きもせずケイは受け答えた。フクベはよく医務室に顔を出して、ケイの淹れたお茶を酌み交わしている。
「また、お茶でも飲んで行かれますか?」
「いや……今日は、お茶を馳走になりに来たわけではないのだよ」
普段の好々爺的な物腰は形を潜め、真剣な面もちでフクベは切り出した。
「フォーランド君……プロス君に聞いたのだが、君は火星のユートピア・コロニー出身なのだそうだね」
「はい。……それが何か?」
「少し、話をしたい事があるのだよ。ナデシコ提督ではなく、連合宇宙軍・第一主力艦隊司令、フクベ・ジン中将として」
「……分かりました」
少しの沈黙の後、頷いてケイはフクベを医務室へ招き入れた。
また、日記に書く事が増えそうだった。