結局、ユートピア・コロニーからナデシコに乗り込んだ避難民は、十余人だけだった。確かにイネスの言う通り、彼らの中にはナデシコ――ひいては、 地球に対する不審が満ちているのだろう。
ナデシコに搭乗した者の内、イネス、ラピス、カイト以外の者は、そのほとんどがとある企業の従業員だった。
火星開発公社――その名の通り、火星民による火星の開発を目的として作られた民間企業である。その前身は、火星移民計画当初に地球連合政府の火星 支局内に置かれた火星開発庁であり、その事業を民営化させたのが現在の姿である。
しかし、それはあくまで過去の話となった。公社の手がける事業は火星全域に広がっており――その地域の広さ故に、公社の支局のほとんどが木星蜥蜴 の襲撃に遭遇した。コロニー開発に使われるエネルギーは、木星蜥蜴の無人兵器にとって格好の標的となったのだ。
その代表者が、艦長であるユリカに挨拶を申し出た。その人物を見て、ユリカは驚きの表情を浮かべた。何故なら、その人物は21歳の女性だったから だ。
「私は火星開発公社市街地開拓局局長、カリン・ユノと申します」
格納庫で火星住民を出迎えたユリカ達に、彼女はそう名乗った。
やや癖のあるプラチナ・ブロンドの髪はさながら銀糸で編まれた工芸細工を思わせる。まるで絵画から抜け出した幻想の美女のような、見目麗しい女性 なのだが、大きめの眼鏡が印象を柔らかくしている。
その場にいた男性クルーは、例外なく目尻を下げた。
「危険を冒してまでこの火星に赴いていただき、ネルガルの英断には感謝の言葉もありません。それに、ナデシコに乗っていらっしゃるクルーの方々の勇 気ある行動に、火星住民を代表してお礼を申し上げます」
カリンに習って、従業員の一同が一斉に頭を垂れた。
それは、ナデシコが火星の生存者たちを発見してから、初めて掛けられた感謝の言葉だった。
何と言って良いか分からずに言葉を捜しているユリカに、カリンがにこりと微笑みかける。
「本当は、ユートピア・コロニーに残っている皆さんも、ナデシコの方々には感謝しているのです。言葉には出しませんけれど。
ただ、それと同時に、地球連合に対する不審も根強く残っているのです。それに、火星出身の彼らには、故郷に対する思い入れもあります。皆さんには 不快な思いをさせてしまったかも知れませんが、彼らの心情も理解して頂きたいのです」
カリンの言葉と表情は、あくまで柔らかかった。やっとの事でユリカが声を返す。
「あ……その、そう言って頂けると嬉しいです。でも、皆さんを護れたのは、私の力じゃありません。黒百合さんが居なければ、今頃は……」
最後の方で俯いてしまうユリカ。
黒百合は、戦闘から戻ってそのまま自室へと直行してしまった。コミュニケも閉ざして、今はラピスだけが一緒にいるはずだ。
今回のことは、黒百合がいなければ最悪の結果を招いていただろう。事実、『前回』はそうなっていたのだが、その事をこの世界のユリカが知っている はずもない。
ユリカとしては、自分がいかに黒百合に頼っていたのかを、黒百合に一喝されて初めて気付かされたのだ。艦長としての資質と自覚が足りないと、非難 されても仕方のない事である。
表情を曇らせるユリカの肩に、カリンはそっと手を触れた。
「貴女が何を気に病んでいるのか、私には分かりません。ですが、少なくとも私たちがこうして火星を脱出する機会を得たのは、間違いなくあなた方のお かげなのです。私たちを助けるのが、あなた達には不満なのですか?」
「そんな事! そんな事……ないです」
「なら、私たちの感謝の気持ちを受け取って下さい」
柔らかい笑みを浮かべるカリン。彼女の顔を見返していたユリカの表情に、陽の明るさが取り戻されてゆく。晴れ晴れとした彼女らしい笑みを浮かべ て、ユリカは頷いた。
「はい!」
カリンも笑みを返して右手を差し出し、ユリカもそれに習って固く握手を交わす。
格納庫に歓声が響き渡った。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第21話
「そして僕らは火星を後にした」
活気を取り戻したナデシコが向かうのは、ネルガルの北極冠研究所である。此処はネルガルの研究所の中ではオリンポス研に次ぐ規模を誇っており、ス キャパレリ・プロジェクトの最重要目標の存在地点でもあった。もっともそれを知っているのは、プロスペクターただ一人である。
偵察から帰ってきたエステバリス隊のデータをモニターに写すと、プロスが呻き声を上げた。
「むう……」
プロスが唸るのも無理はない。研究所を取り囲むように、5つのチューリップが配置されている。ユートピア・コロニー跡では、様々な悪条件が重なっ たとはいえ、たったひとつのチューリップに敗北寸前まで追い込まれたのだ。
「チューリップが5つ……絶望的な戦力差ね」
「しかしですな、皆さんはネルガルの社員に当たります。言わば、皆さんにはあそこを取り戻す義務があるわけでして……」
「オレ達に死ねってのか?」
むすっとしてリョーコが誤解しようのない不満を露わにする。
勝ち目がないのは素人目にも明らかだ。事実、オモイカネによるシミュレートでも、93%の確率でナデシコの撃沈と出た。それも黒百合が戦力として 参戦した場合であって、彼の突撃戦フレームが使用不可の場合、勝率は万分の一もなかった。
そしてそれが、リョーコが不機嫌なもう一つの理由でもある。黒百合がいなければ、ナデシコの戦力は大幅にダウンするのだ。自分と黒百合との力量の 差は承知しているつもりだったが、こうして数字にはっきり差が表れると、面白いはずがない。
「黒百合は出れないのか?」
そんなパイロット達の心境を知ってか知らずか、ゴートの質問は無配慮だったと言わざるを得ない。だが、誰かが訊かなければならない事ではあった。
「黒百合さんのコミュニケは、先程から着信拒否となっています」
「所在地は? まだ自室にいるのか?」
「はい。今はラピスさんも一緒のようです」
あれから、すでに二日が経過していた。
ユリカやイツキなども一度ならず部屋を訪れているのだが、疲労を理由に追い返されてしまった。今のところ、黒百合の部屋に通されるのはラピスだけ である。
そのラピスだが、最初は黒百合の元から離れようとせず、かといって黒百合の部屋に泊まらせるわけにも行かず、イネスに説得されて渋々彼女の部屋に 同衾している。
火星からの搭乗組には、それぞれ個室が同じエリア内に割り振られている。とはいえ、宇宙戦艦内に人手を遊ばせておける余裕があるわけもなく、人手 として駆り出されていた。
イネスは医師資格を生かしてケイの手助けをするはずだったのだが、何故かいつもブリッジにいる。イネスの補助役だったはずのラピスは、誰にも何も 言われないのを良い事に黒百合の部屋へ通い詰めだ。カリンら火星開発公社の面々は、主計班の手伝い――平たく言えば、荷物運び――に奔走していた。
ルリの報告を聞いて、ゴートはむっつりと口を曲げる。
「問題なのではないか? 黒百合が疲労しているのは事実かもしれんが、ミーティングに参加できん程ではあるまい」
「でもあれ以来、ラピスさん以外に黒百合さんに直接会えた人はいませんし……」
表情に蔭を帯びたイツキが言う。彼女としては、その事実も重く心にのしかかっていた。ユートピア・コロニーの事では、すべてのクルーがショックを 受けたが、中でもとりわけ衝撃が大きかったのは彼女だったのかも知れない。
今まで、黒百合に一番近い位置にいるのは自分だと思っていた。だが今回の事で、自分が黒百合をまったく理解していなかった事を思い知らされた。そ して、黒百合に献身的なまでの信頼を寄せているラピスと自分を、どうしても比較してしまう……
ユートピア・コロニー跡でよぎった、黒百合への懐疑の想い。それがどうしても頭の中にちらついてしまう。彼を信じる事の出来ない自分には、黒百合 も信頼を寄せる事はないのではないか……
その想像は、コロニーを出てからもずっと消える事なく、イツキの心を寒からしめていた。
「まあ、今は黒百合さんがどうのより、これからどうするかを決めた方がいいんじゃないですか?」
突き離すようにそう言ったのはカイトである。彼はどうも、黒百合が関わると若干物言いが冷たくなるようだ。イネスがその後の語を継ぐ。
「そうね。あくまで北極冠遺跡を奪還するために、勝ち目のない戦いに身を投じるか。機を待って火星に身を潜めるか。それとも、勝機無しと見て火星を 脱出するか……」
第1案は黒百合の機体が無い今、不可能と言っていい。第2案は木星蜥蜴のテリトリーとなっている火星内で、長い間潜伏など出来るわけがない。まし てや、ナデシコに備蓄されている食料には限りがあり、しかも待ち続けていても機が訪れるとは限らないのだ。
そして第3案は、その実行が困難である。地球より重力が弱いとはいえ、火星の重力圏を脱出するためにはかなりの推力が必要となる。その速度に達す るまでの、いわば助走の間に、木星蜥蜴に発見される確率はかなり高い。
それらの事を懇切丁寧に説明した後、イネスが結論付けた。
「私としては第3案――火星から脱出を試みるしかないと思うけど。確率はそう高くないけれど、ほかの案よりはまだ望みがあるわ」
イネスの言葉に、クルー達は腕を組んで考え込んだ。
イネスの言っていることが正しい事は、皆が理解していた。黒百合がいなければ、ナデシコの戦力は大幅に低下する。精神論や根性論など入る余地はな い。紛れもない、それは事実だった。
「それに何か……ナデシコが加速を得るための方法でもあれば、確率はぐっと上がるんだけど……」
イネスが漏らした呟きに、はっと反応した者がいた。
「あります! ナデシコが加速を得るための方法!」
声を上げた者に、その場にいる全員の視線が集中する。複数の感情が入り混ざった眼差しを受け止めて、イツキはおもてを引き締めこくりと頷いた。
◆
「じゃあ、カリンさん達は、火星出身って訳じゃなかったんですか?」
ナデシコ食堂にて、アキトがキョトンとした声を上げていた。
昼食を摂りに来たカリン達に、アキトが何気なく話しかけたのが会話の始まりだった。話題が火星関連の事へと移っていったのは、むしろ自然な成り行 きだったろう。
「ええ、そうです。私たちは地球の本社から派遣されたものですから」
「へえ……」
「と言っても、火星暮らしが長いのは確かです。公社の人員の内、7割が火星出身者で占められています。ただ、彼らはナデシコに乗るのは拒否しました が……」
「そうなんですか……」
「そういえば、貴方も火星出身……しかも、ユートピア・コロニーの出身だと聞いたのですが、よくナデシコに乗る気になりましたね? ここにはフクベ 提督も乗っておられるというのに」
素朴な疑問だというように、カリンは首を傾げる。その拍子に眼鏡がかくんとずれた。
「え? どういう意味です?」
「知らないのですか? フクベ提督は――」
カリンの話が進むうち、アキトの表情は険しいものへと変わって行く。その様を、サユリは厨房から不安げに見守っていた。
「また、此処に来れるなんて、思ってもいませんでした……」
モニターに映る眼下のコロニーを見て、イツキが感慨深げに呟きを漏らす。
火星脱出に際して、ナデシコを加速させるためのリニア・カタパルトを求めてやってきたのが、このアルカディア・コロニーだった。
「ここって、スノー・ドロップ号が打ち上げられたコロニーなのね……」
「ええ、そうです。私たちが火星を脱出した後、コロニーがどうなったかは定かではありませんでしたが、基本的に木星蜥蜴は施設類には被害を与えませ んでした。これでカタパルトが生きていれば……」
ナデシコを加速し、一気に火星圏を抜ける事が出来る。
「コロニー内は私が案内します。ほかに誰か……」
「こういう場合は、ウリピーの出番よね」
ヒカルの言葉に、多人数が同意した。ともかく、カタパルトが使用できるかどうかが全ての鍵を握っているのだ。
万が一、コロニー内に木星蜥蜴が残っていた場合の事も考えて、ゴートとリョーコ、さらには志願したカイトが同行する事となった。
今回はユートピア・コロニーでの経験を生かして、ナデシコは上空に待機したままだ。五人がヒナギクで降下したのを確認すると、ユリカはほっと息を ついた。
「イツキさん達から連絡があるまで、ナデシコは第2級警戒態勢のまま待機します。ルリちゃん、周囲の状況は?」
「ナデシコの半径100q圏内に、木星蜥蜴の反応はありません」
「取り敢えずは一安心か……」
ジュンが流れてもいない汗を拭う。皆、不安を抱えているのだ。ユートピア・コロニーでのあの絶望感が、今も頭の中にこびりついて離れない。
ブリッジは柄にもなく緊迫した空気に包まれている。
その空気に変化の風を持ち込まれたのは、ヒナギクが降下してから10分ほど経過した頃だった。ただしその風は、必ずしも歓迎されるべき類の物では なかった。
ブリッジのハッチが開いて、険しい顔をしたアキトが入ってくる。はしゃいで駆け寄ってくるユリカを無視して、アキトはフクベの目の前まで歩み寄っ てきた。
「フクベ提督。貴方が第一次火星会戦の時、艦隊の指揮を執っていたっていうのは本当ですか」
「ほえ? 何言ってるのアキト。提督が、第一次火星会戦で唯一チューリップを落とした英雄だっていうのは、みんな知ってる事でしょ?」
「地球では、だろ。あの時、戦艦がぶつかった衝撃でチューリップの落下軌道が逸れて……ひとつのコロニーが消えた」
「ユートピア・コロニー……」
イネスの呟きに、皆がはっとする。そのコロニーは、今こぶしを握って震えている少年の生まれ育った故郷だった。アキトは、押し殺した声でフクベを せかす。
「どうなんですか、提督」
「………………そうだ。あの時、落下するチューリップに戦艦をぶつけ、ユートピア・コロニーを壊滅させたのは、この私だ」
フクベの返答が耳に入った瞬間、アキトは目を見開いた。
「あ、あんたが……」
鮮明に覚えている光景がある。大気の摩擦熱で真っ赤に燃えて落ちてくるチューリップ。壊滅したコロニー。僅かに生き残った者たちは、木星蜥蜴に怯 えて震えていた。
その地下シェルターの生活の中で、ほんの僅かな安らぎを与えてくれた少女。
バッタの襲撃。燃え上がる炎。血を流して倒れている人々。自分を見つめる無人兵器の冷たい目、目、目……
「……あんたが……あんたが……あんたがぁぁぁぁぁぁあっ!!」
ばきぃっ!
振り上げられたアキトの拳を、フクベは避けようともしなかった。70を越えた地球連合軍の宿将は、もんどり打って床に倒れる。
「ああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
もはや何を叫んでいるのか、彼自身にも分かってはいなかっただろう。アキトはフクベに馬乗りになると、さらに拳を 振り上げる。
しかし、その拳が振り下ろされる事はなかった。アキトの腕を、別の腕が掴んでいる。
「その程度にしておけ」
黒百合だった。その場にいた誰もが気付かぬ間に、この黒ずくめの青年はブリッジに入り込んでいたのだ。
しかし、黒百合の言葉も正気を失ったアキトには届いていない。彼はわめき声を上げて、腕を振り解こうとあがいた。
「離せ! 離せよぉっ! こいつに思い知らせてやるんだ! こいつがどんな事をしたか! 俺達が、俺達がどんな思い をしたか!
離せ! 離せ! 離せよぉぉぉぉぉっ!!」
アキトは酷い興奮状態にあった。説得が無益なのを悟ると、黒百合は舌打ちをして、
「甘ったれるな」
掴んでいるアキトの腕を、その身体ごと引き上げる。どれほどの膂力か、フクベに馬乗りになっていたアキトの身体が 一瞬、床を離れる。その瞬間、身体の中心に黒百合の掌打が突き刺さった。
ずどん!
およそ、人間と人間がぶつかった際には生じそうもない音が、ブリッジ内に木霊した。アキトの身体は宙を飛び、床に 触れる事なく壁へと叩き付けられる。
ぐったりとして動かなくなるアキトを見て、ヤマダが半ば呆然とした意識の中で呟いた。
「……ありゃあ、痛ぇだろうなぁ……」
黒百合との組み手を経験しているヤマダだからこその、実感のこもった感想である。
自称恋人をのされたユリカが、ワンテンポ遅れて悲鳴を上げた。
「きゃあっ! アキトっ!」
その声に我を取り戻し、数人がアキトへと駆け寄る。彼らの背中へと向けて、黒百合の声が掛けられた。
「心配ない。気を失わせただけだ」
「そ、それだけにしては随分凄まじかったように見えたけど……」
冷や汗混じりのミナトの言葉は、皆の気持ちを代弁したものだったろう。黒百合はさらりと無視した。
「一応、医務室に運んでやれ。此処で気が付かれても煩いだけだ」
「は、はあ……」
曖昧に返事をしたジュンが、アキトを担いでブリッジを出ていく。それを心配そうに見守っていたユリカは、アキトの 姿がハッチに遮断されると同時に黒百合へと向き直った。
「黒百合さん! 酷いですぅ! アキトになんてコトするんですかぁっ! ユリカぷんぷんです!」
「騒ぐな。少し撫でてやっただけだ」
とても撫でるなどと言う表現で形容できるような事ではなかったのだが、それを指摘する勇気のある者はいなかった。
いつものようにユリカが騒いでいるので皆は気付いていなかったが、クルーが感じていた黒百合に対する後ろめたさ は、この時どこかへ吹き飛んでいた。
「アルカディア・コロニーか……結局、火星を脱出する事に決めたわけだな?」
「え? あ、はい。そうですけど……」
キョトンとするユリカだったが、すぐにあっと気付いたような声を上げた。
「……黒百合さん、もしかして、今まで部屋に閉じこもってたのは、ナデシコをこれからどうするか、私が決定するのを 待っていたんですか?」
えっ?、と何名かが疑問符を掲げた。視線で問い掛けられた黒百合は、だが何も答えずにモニターに視線を移してい る。その沈黙は肯定を示しているのか。少なくともクルー達はそう受け取った。
言われてみれば、今までの黒百合の言動は、あくまで助言にとどまっていたように思える。最終的な判断は自分たちの 手に委ねられていたのだ。
だが、自分たちはそこに含まれているメッセージに気付かずに、黒百合に依存してしまった。安易な方向へと流されて しまったのだ。そうと気付いたとき、黒百合はそれを叱咤した。言葉と、それに続く行動で。
ブリッジ・クルーの中の何名かが、感動を込めた眼差しで黒百合を見つめる。
ユリカがなおも口を開きかけたとき、コミュニケが開いて、ウリバタケが顔を出した。
『おーい。ブリッジ。聞こえるかぁー?』
「あ、ウリバタケさん」
『おう、艦長。こっちはカタパルトの管制室に着いたぞ。で、ちょっくら見てみたんだが……』
「どうでした?」
『リニア・カタパルト自体は問題ねぇ。損壊しているところも無いみてぇだしな。ただ、電力は死んじまってるから、そ こらへんを復旧させなきゃならねぇ』
「そうですか……カタパルトの使用は問題ないんですね?」
『ああ、そいつは俺が保証するぜ。そうだな……3時間も貰えりゃぁ、きっちりナデシコを飛ばしてみせるぜ』
「分かりました。ウリバタケさんは、整備班の人とカタパルトの整備をお願いします。ミナトさん、ナデシコをカタパル トの射線上に移動させて下さい。ただし、エンジンは切らずに」
「りょうかーい」
「ルリちゃんは周囲の警戒をお願い。センサーを高索敵モードに変換。木星蜥蜴が近付いてきたらすぐに知らせて」
「了解しました」
「これでいいですよね、黒百合さん?」
ユリカは黒百合を視界の正面に捕らえて、にっこりと笑いかける。そこに、先日まで漂っていたある種の悲壮感は存在 していなかった。
(どうやら、吹っ切れたようだな……)
黒百合は密かに安堵を漏らした。彼が部屋に篭もっている間も、ラピスからオモイカネを通じてブリッジの様子はモニ ターしていたのだ。
その事には、ルリですら気付いていない。彼女は、まさかオモイカネが自分に隠し事をしているなどとは思っていない だろう。
意気消沈しているクルー達は、黒百合の知るナデシコ・クルーらしくはなかった。だが、考えてみれば、黒百合の認識 はあくまで『前回』での事なのだ。蜥蜴戦争を経て、様々な試練を克服して錬磨されたのが、黒百合の知るライト・スタッフのナデシコ・クルーなのだ。『現 在』のクルーとは、また事情が異なる。
だから、黒百合は敢えて口出しどころか顔出しするのも憚って、部屋から出ようとはしなかった。ここでクルー達の依 存心を吹き払っておかなければ、自分がいなくなった時、ナデシコは試練に打ち勝つ強さを失ってしまう。
温室で育てられた草花は美しいかも知れないが、その生命力は雨風に打たれた雑草には及ばない。近い将来、ナデシ コ・クルーに必要になるのは、雑草の強さだった。
「……ああ。以前も言っただろう。ナデシコの指揮権は艦長にある。俺が口を出す事ではない、と」
「はい!」
「いい返事だ」
「それじゃ私は、アキトを見舞ってきますので」
「「「「「それは駄目」」」」」
「あうぅ〜(涙)」
その場にいる、フクベを除く全員(ルリを含む)に揃って否定され、ユリカは涙目になって嘆いた。
「う……」
照明の白い光が、闇に慣れた目に突き刺さる。半瞬のまどろみを経て急速に意識が覚醒し、気を失う直前にあった光景が実像を結んだ。
「――はっ!」
アキトは医務室のベットの上で飛び起きる。
「ここは……痛っ!?」
途端に胸部に鈍痛が走り、胸を押さえてうずくまった。
「ここは…………医務室?」
「あら、アキト君、目が覚めました?」
声を掛けてきたのはケイである。彼女は椅子を立つと、歩み寄ってアキトの肩を押さえた。
「ケイさん……?」
「アキト君、まだ寝ていないと駄目ですよ。胸部が随分痛んでますから、今日一日は安静にしていないと」
「はあ……」
ケイのされるがままに、アキトはベットに横になる。
「あ……そっか、俺……」
アキトは事の次第を思い出した。カリンからフクベの事を聞いて、怒りにまかせて問い詰めに行った事。フクベの返答に逆上して殴りかかり、黒百合に 止められた事……
黒百合に腕を取られてから先の事は覚えていないが、胸部の痛みから判断するに、黒百合に気絶させられたのだろう。
「ちくしょう……」
悔しさに、涙腺から熱い物がこみ上げてくるのをかろうじてアキトは抑え込んだ。
フクベを責めたところで、死者が蘇る訳ではない事くらいはアキトもわかっている。だが、感情が納得しない。
フクベが悔恨を示して謝罪したのなら、アキトの激情に別の捌け口を作ることも出来たろう。だが、フクベは己の罪を泰然として受け入れた。そうなれ ば、アキトに残された道は、フクベを憎む以外にはない……
だが、それも黒百合に阻止された。自分は無様に気を失い、医務室の世話になっている。
「ちくしょう……」
両手で顔を覆い、肩を震わせるアキトに、ケイは慰めの言葉を掛けようとはしなかった。何も言わず、何も語らずに、ただアキトの肩に手を添えてい る。
やがてアキトが落ち着くと、ケイは何もなかったようにそっと離れた。
「す、すいません……」
アキトは気恥ずかしさから頬を赤らめている。ケイは微笑して、
「ふふ、いいんですよ。クルーのメンタル・ケアも、わたしのお仕事ですから」
「ど、どうも……」
何となく気まずくなって、アキトはケイから視線を逸らせた。そしてハタと気付いた。
この微笑の似合う美人女医もまた、アキトと同じく火星出身者である。ましてや、彼女は一人娘がユートピア・コロニーで行方不明になっている。
彼女は、フクベが第一次火星会戦においてユートピア・コロニーにチューリップを落とした張本人だという事を知っているのだろうか……?
再びアキトはケイへと視線を投げかける。彼女は机に戻ってなにやらカルテに書き込んでいるようだ。
「あの――」
「アオイさんから聞いたんですけど……」
「はっ?」
声を掛けようとして機先を制され、アキトは面食らった。ケイはこちらを振り向かないまま言葉を続ける。
「アキト君、フクベ提督に殴りかかろうとして、黒百合さんに気絶させられたそうですね?」
「あ、ええ……そうみたいっスけど」
「どうしてそんな事をしようとしたんです?」
「どうしてって……」
あえぐアキト。
「あいつが……あいつが許せなかったからです! ケイさんは、あいつが火星で何をやったか、知らないんですか!?」
「知っていますよ」
「あいつは、第一次火星会戦で、チューリップを…………え?」
ケイの言葉を2秒遅れで理解して、アキトはぽかんと口を開けた。
「…………知っていますよ」
ケイは、椅子を回転させて振り返り、何事もないように答えた。
「え、なん……?」
「ナデシコが火星に付く前に、フクベさんが医務室を尋ねて来られて……ご本人の口から聞いたんです」
「知って……たんですか? なら、どうして! あいつは、ユートピア・コロニーの人たちを……」
「その事はフクベさんご自身が一番悔やんでらっしゃるんです。でなければ、わざわざご自分からその事をわたしに知らせには来ませんもの」
フクベは、ケイが火星出身である事を知って、自ら医務室の戸を叩いた。そして彼女と向き合い、自分がコロニーを壊滅させた事を伝えたのだ。
悪意のある見方をすれば、フクベのこの行動ですら一種の自己弁護として映るだろう。己の行動を正当化させるための欺瞞だと。
偽りの英雄の座に祭り上げられる事に疲れたフクベは、誰かに断罪されたがっていた。責められる事で、フクベは楽になれたのだ。
だが、ケイは彼を責めなかった。
「どうして……ですか?」
「だって……わたしがフクベさんを責めても、何にもならないでしょう?」
死者が蘇るわけでもない。コロニーが元に戻るわけでもない。木星蜥蜴が襲撃してくる以前に、時間が遡行するわけでもない。
だから……ケイはフクベを赦した。その上で、ケイはフクベに贖罪を求めた。
「贖罪?」
「ええ……生きて、罪を償い続けること。さしあたっては、火星にもし生き残りの方がいれば、一人でも多く助けて欲しい……って」
「そんな……?」
「ふふ、フクベさんも驚いてらしたけれど、最後にはわかってくださいましたよ?」
「…………」
断罪される事によって、罪を償うのは難しい事ではない。しかし、罪を償い続ける事は、相応の覚悟が必要なのだ。
「納得できませんか? でも……いつか、アキト君にもわかりますよ」
「…………何で……そう思うんですか?」
伏し目がちにアキトは問い掛ける。もうその表情には、先程の怒気の名残は残っていなかった。
ケイは、穏やかな微笑みをそのおもてに浮かべた。
「だって……アキト君は優しい方ですもの」
「お、俺は……俺は……」
「無理に納得しようとしなくてもいいんです。アキト君にはアキト君の価値観があるんですから。でも、ほかの人たちにも、違う考え方があるという事は 理解してあげて下さい。
フクベさんは……ユートピア・コロニーの事をずっと悔やんでらしたんです」
「…………ずるいですよ」
アキトは泣き笑いのような表情を浮かべる。
「……ケイさんにそんな事言われたら……あいつが悪いなんて、言えないじゃないですか……」
確かにフクベを憎む気持ちはある。だが、何よりも許せないのは自分だ。何もできなかった自分自身だ。
あの時、自分に何かできる事があった訳ではない。だが、それでも自分が許せない。せめて、黒百合のように力があれば、アイだけでも助けられたかも しれないのに……
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……ぅうう……」
シーツを掴んで嗚咽を漏らすキトを、ケイは黙って優しく撫でつけていた。
まるで、母親が我が子をあやすかのように。
◆
「あれ、黒百合さん、どこ行ってたんですか?」
「いや、少しな……」
ユリカの問いに適当に答えながら、黒百合は自分のシートに腰を下ろした。
黒百合は、医務室の中で交わされたケイとアキトの会話を、外からすべて聞いていた。
本当は、アキトに何らかの言葉を掛けるために足を運んだのだが、その必要はなかったようだ。『前回』はナデシコにいなかったケイの存在は、アキト にとって大きな支えとなっているようだ。
歴史は、ほんの些細な事だが、少しづつ良い方向へと変わっている。
(俺がナデシコに乗るのも、そう長い事ではなさそうだな……)
カタパルトの整備も完了し、ブリッジの中には、緊張と、そして精気が漂っている。
「ルリちゃん、センサーは?」
「周囲150qに、木星蜥蜴の動きは見られません」
「ウリバタケさん、カタパルトはどうですか?」
『おーう! 正常に作動してるぞ! 遠隔管制も問題なし!』
「ミナトさん、ナデシコの舵、宜しくお願いします」
「まーかせて♪」
「それでは……ナデシコ、発進です!」
ユリカの号令と共に、アルカディア・コロニーのリニア・カタパルトに火が灯った……
時に西暦2197年2月18日。こうして、様々な想いをその地に残し、ナデシコは火星を後にした。
戦闘による死傷者はゼロ。火星から救出できた人員は16名。火星に留まっていた時間は3日と7時間。
火星の空を駆け上がるナデシコを、地表から冷ややかな目で見つめていた者がいる事を、このとき知る者は本人達以外に存在していなかった。