「ほらほら。リョーコ、はやくはやく!」
「あんだよ、別に急ぐ必要はねぇだろ? モニターでも見れるって、さっきの艦内放送でも言ってたしよぉ」
「もー、わかってないなぁ。こういうのは、生で見るから良いんじゃないの」
「そう……寿司ネタと一緒よ」
「スシ?」
「寿司のミル貝は生だから。生でミル(貝)。くっくっく……」
「「…………」」
局地的な寒風が吹きずさぶ。
「……おめぇの駄洒落はさみいんだよ」
「そう?」
「ごめん。イズミ、さっきのは私もちょっと……」
ぶちぶちと言いながらブリッジの扉をくぐったリョーコ達だったが、目の前のモニターの映像を見て口を噤んだ。
無限を思わせるほどに広大に広がる星の海。その中央に、青い星がぽつりと浮かんでいる。
「地球……」
母なる星。命のゆりかご。そして……人類発祥の地にして、今は自分たちの護るべき対象そのもの。
ようやく自分たちは地球へと戻ってきた。その想いは、誰しもが抱いている。
「もうすぐ、地球に帰れるんですね……」
そう呟くメグミの意識は、既に地球へと飛んでいるようにも見えた。
「正確には、地球の勢力圏内に入るまではあと1週間かかります」
「あ、そうなの? まだ結構かかるのねぇ……」
ルリの言葉に、ミナトもやや残念そうだ。プロスが後を継ぐ。
「それに、地球に降下する前にサツキミドリ2号に寄港しますので、皆さんが地球の土を踏むには、後10日間ほどかかりますかな」
「そうなんですか?」
「ええ。もうしばらくの辛抱です」
「でも、まだ気を抜くわけには行きませんよ。まだナデシコは木星蜥蜴の勢力圏内にいるわけですし」
「うん、そうだねジュン君」
ジュンの優等生的な意見にユリカが頷く。
「ですけど、レーダーの圏内にチューリップの影は映ってないんでしょう? 艦隊と行動を共にしていない機動兵器なら、そう大した事は無いんじゃない ですか?」
「そうかも知れないけど……用心するに越した事はないわよ、カイト」
「イツキ……それは分かるけど、必要以上に肩肘張る事はないって」
「いや、カザマ中尉の言う通りだ。最悪の事態を常に想定して備えるのが軍人の勤めだ」
「ミスターの言ってるコトは分かるけどさぁ……私たちって軍人じゃないのよねぇ」
「そうですよねぇ」
「い、いや、単に心構えの問題でだな……」
ミナトに突っ込まれて、しどろもどろになるゴートだった。
やはり皆、地球が間近に迫っている事で舞い上がっているのだろう。ブリッジには当直でないにもかかわらず、モニターに地球が映る時間になるとク ルー達が集まって来ていた。
その中には黒百合の姿もあった。腕を組んで壁にもたれ掛かり、その隣にはラピスを引き連れている。
「もうすぐ、この旅も終わりますね」
そんな黒百合にカリンが声を掛けてきた。
「……そうだな。だがまだ終わった訳でもない」
「ええ。でも何かあったとしても、黒百合さんが護って下さるのでしょう?」
からかうような視線を向けて、くすくすと笑う。黒百合は憮然として答えた。
「……出来うる範囲でな」
「頼りにしていますよ……本当に」
それだけ言って、カリンは離れていった。その背中に揺れるプラチナ・ブロンドの髪に、置き去りにしてしまったとある少女の事が思い出されて、黒百 合は視線を外した。
胸中に蟠る何かを持て余しながら、黒百合はモニターに映る青い宝石のような星を見つめ続けていた。
ぎゅ……と、ラピスが黒百合のマントの裾を握った。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第24話
「青い星に舞い戻り」
『とおぅりゃああああああっ!』
雄叫びを上げながら、ピンクのエステが敵軍を粉砕していく。イミディエット・ナイフを掲げてのフィールド・アタックは、黒百合の得意とする高速度 戦法を参考にしたものだ。シュミレーターではいの一番に突っ込んでいって散るばかりだとしても、ヤマダが一流の腕の持ち主なのは紛れもない事実である。
先陣を切るヤマダの後に、赤色とグレイのエステが続く。リョーコとカイト、ショート・レンジを得意とする二人は、手に持った得物を存分にふるっ て、ヤマダという楔の開けた敵のヒビを開きに掛かる。
その三色の猛攻から逃れたバッタは、紫色と黄色のエステによるミドル・レンジの射撃に晒されて爆散し、後方に控える緑色のエステのロング・レンジ からの狙撃が、緻密に正確に、一機一機バッタを撃ち落とす。
このフォーメーションは黒百合が考案したもので、それぞれのパイロットの長所が活かされた編成となっている。これにさらにナデシコからの援護を加 えれば、その威力は計り知れない。
だが、本来であれば切り込み役としてこの中にいるはずの、漆黒のエステの姿が今は無い。専用機を火星での戦闘で失った黒百合は、ブリッジにてエス テバリス隊の戦闘指揮を執っている。
結局、エステバリス隊の指揮隊長は黒百合に決定した。それまでは代行としてリョーコが隊長を務めていたのだ。
各々の力量を鑑みれば当然の人事ではあったのだが、少なくとも本人には不服だったらしい。だが、自機を失ったため戦闘中にする事がないのをプロス に突っ込まれ、首を縦に振らざるを得なかったというのが本当の所らしい。黒百合は何も語らず、無言のままモニターを睨み付けている。
「今回の戦闘は、大した事はなさそうだね」
ジュンの漏らした言葉が、戦闘の状況を如実に言い表していた。
約300機ほどのバッタの群がナデシコのレーダーに捕らえられたのは、今より10分ほど前の事である。
近くにチューリップの反応もなく、バッタ達の動きにも明確な行動目的はないように見えた。要するにまったくの遭遇戦である。
「うーん、本当は、無駄な戦闘は避けるにこした事は無かったんだけどなぁ……」
「しょうがないよ、ユリカ。木星蜥蜴もこちらを見つけたようだったし、あのバッタの群がコロニーを襲わないとも限らないだろ?」
ユリカが懸念しているのは、この戦闘が木星蜥蜴の本隊を呼び寄せはしないかという事だが、今のところその気配はなかった。木星蜥蜴の連絡系統がど うなっているのか、そもそも木星蜥蜴の間にコミュニケーションがあるのかどうかさえ判別していないが、少なくとも敵を過小評価する訳にはいかない。
『へっ、カイトとか言ったな。なかなかやるじゃねぇか』
『そりゃどーも。ヤマダもなかなかやるね。黒百合さんに吹き飛ばされてるのを見た時は、大丈夫かなと心配になったんだけど』
『俺の名前はダイゴウジ・ガイだっ! それと、その事は言うなと言ったろうが!』
『あ、そうだっけ。ご免』
『今更隠すような事でもねぇだろうが』
『そうそう。みんな知ってるよー?』
パイロット達はいつもながら緊張感の無い会話を交わしつつも、エステは的確に動いてバッタ達を屠っている。カイトはすっかりナデシコの雰囲気に馴 染んでいるようだ。
プロスはソロバンを弾いてほくほく顔だ。
「カイトさんもかなりの腕前のようですな。改装したとはいえ、プロトタイプのエステバリスでイツキさん達と同等の働きをしているとは。経済的で何よ りです」
「カイトさんって確か、イツキさんと訓練学校の同期生なんでしたっけ?」
「そう聞いたけど?」
「ふぅ〜ん……」
ミナトは獲物を見つけたチシャ猫のようににやりと笑った。
「なーにメグちゃん。もしかしてカイト君に……」
「や、やだなぁミナトさん。ちょっと良いかなーって思っただけです」
「そう?」
「そうですよ」
すましてメグミはそう言ったが、ミナトの追求を逃れるのは難しそうだ。
ルリはこっそり溜め息ひとつ。
「ばかばっか……」
『どりゃぁぁぁぁぁぁ!!』
ヤマダの雄叫びと共に、エステのパンチが最後のバッタを打ち砕いた。
◆
7日後、ナデシコは予定通りサツキミドリ2号に寄港した。ネルガル所有のこのコロニーは、『前回』とは違って木星蜥蜴の襲撃で壊滅する事なく、無 事な姿を虚ろの海に浮かべている。
「こちらネルガル所属、機動戦艦ナデシコ。サツキミドリ2号、応答願います」
『はいはいこちらサツキミドリ2号。お嬢さん可愛い声だねぇ』
「ふふ、ありがとうございます。でも、前も同じ事言ってましたよ?」
『あれ、そうだっけ?』
「そうですよ。データ送信します。車庫入れはそちらで宜しくお願いしますね」
『りょーかい。任せといてって。所でお嬢さん、このあと暇?』
「えー? どうしよっかなー?」
結構まんざらでもないメグミだったりした。
ナデシコがサツキミドリ2号に寄るのは、もちろん物資の補給の意味合いもあるが、地球圏の情報を収集するためでもある。何しろナデシコは4ヶ月前 に地球連合に逆らって、力ずくでビック・バリアを突き抜けて火星へと旅立ったのだ。最悪、未だに連合軍にナデシコ拿捕・撃沈命令が発せられている可能性も ある。
「とは言え、連合軍にそれほどの余裕があるとは思えんが」
「そうですなぁ。それに、ネルガルの方でも和解を進めているはずです。連合軍はネルガルにとってもお得意さまですから。上が上手くやってくれている 事を願いましょう」
プロスは素知らぬ顔でこう言っているが、実際の所、スキャパレリ・プロジェクトにおいて連合軍との和解は予定通りの事だった。
サツキミドリ2号のドックに収容されたナデシコは、24時間後にヨコスカ・ドックに向けて出航する予定である。それまでの間、クルー達には12時 間の自由時間が与えられた。
とは言え、サツキミドリ2号に観光するような場所があるはずもない。むしろナデシコ艦内の方が福利厚生施設が整っているほどである。自然、クルー 達は自室で、あるいは食堂で、束の間の休息を楽しんだ。
「もうすぐ地球かぁ……」
「そう言えば、ウツホちゃんは地球に行くのは初めてなんだっけ?」
「うん! 地球には海っていうのがあるんでしょ? 火星のコロニーにはプールしかなかったし、写真でしか見た事無かったから、だから楽しみなん だぁ」
「そっか……そういや俺も、サセボで初めて海を見たときは驚いたっけ」
「あ、アキトも火星出身だっけ。でも、何で地球に?」
「う……ん、俺もよく分からないんだけど。第一次火星会戦の時は、俺も火星に……ユートピア・コロニーにいたんだけどね。地下シェルターでバッタ達 に囲まれて、気を失っちゃってさ。それで次に気が付いたらサセボの公園に転がってたんだ」
「へぇ、そうなんだぁ」
あっけらかんと笑うウツホに、かえってアキトが面食らった。
「そうなんだぁ……って、信じるの、こんな話?」
「え? でも、アキト嘘ついてないでしょ? わかるもん。私、信じるよ」
「そ、そう。はは、ありがと、ウツホちゃん」
彼女につられるように、アキトも柔らかい笑みを浮かべた。と、その背後に能面のような表情のサユリが現れ、重くドスの利いた声を出した。
「……アキトさん、さっきから喋ってばかりで、手元がお留守ですよ」
「サ、サユリちゃん」
「チキンライス、まだですか。さっきからルリちゃんが待ちくたびれてますよ」
「も、もう出来るよ。ルリちゃん、ご免ね、お待たせしちゃって」
「いえ、私は別に……」
ルリはサユリに何か言いたげな視線を向けたが、サユリはすっと視線を逸らした。
アキトがチキンライスの皿を持って、ルリの座っているテーブルへと向かう。その背中を見つめながら、サユリは溜め息を吐いた。
「溜め息ばっかりついてると、幸せが逃げちゃいますよぉ」
「……ほっといて。そんな事より、ウツホちゃんも最近遅刻が多いわよ。しっかりして貰わないと」
「う、ご免なさぁい。食堂に着くまでに、どうしても一回は迷っちゃうんですよぅ。ほら、船の廊下って、何処も同じところに見えるから」
「それにしたって、もう慣れても良いと思うけど……」
「私、子供の頃から極度の方向音痴だったから……この前なんか、道を間違えて男子トイレに入っちゃったんですよぉ」
「そ、それは方向音痴がどうとか言う問題じゃないんじゃないかしら。ともかく、それならそれで、もうちょっと早く出るとか……」
「はぁい。気を付けまーす!」
(ホントに分かってるのかしら……?)
サユリの性格は険悪などという表現からはほど遠いものだったが、この時ばかりは脳天気なウツホの返事にそんな事を考えてしまった。
そして、そんな自分にまた自己嫌悪の溜め息をついてしまう。
「……はあ、これから気を付けてね」
「うん! それにしても、サユリさんももっと素直になればいいのに」
「……は?」
項垂れかけた頭を起こして、サユリはキョトンとした顔をウツホへと向けた。
「さっきのだって、私がアキトとお話ししてたのが羨ましかったんでしょ?」
「な、何を……」
「えー? だって、エリちゃん達が言ってたよ。サユリさんはアキトの事が好「きゃーきゃーきゃー!」
サユリは真っ赤になってウツホの口を塞いだ。
「な、なんて事言うのよ!」
「もがもが。でも、そうなんでしょ?」
「そ、それは……」
「あ、言い難いんだったら、私からアキトに言って上げましょうかぁ?」
「お願いだからそれだけはやめてっ!」
堪らずサユリが大声を上げる。
「あんた達、さっきから煩いよ!」
ホウメイの叱咤の声が響き渡った。
ホウメイに叱られているサユリを傍観しているアキト。
「……? どうしたんだろ、サユリちゃん」
「さあ。私、少女ですから」
◆
管制官の名残惜しそうな声をバックにサツキミドリ2号を出立したナデシコは、その2日後には地球の衛星軌道上に到達していた。目的地であるヨコス カ・ベイに向けて、大気圏への降下を開始する。ナデシコの大気圏突入は、火星への降下に続いてこれが2度目だ。
明らかに流体力学を無視した形状をしたナデシコが大気圏突入の摩擦熱に耐えられるのも、ひとえにディストーション・フィールドの賜である。船体を 球状に包む歪曲場が、地球の空気と擦れて赤く燃え上がり、本来不可視であるはずの姿を衆目に晒している。船体にまとわりついていた宇宙塵が、キラキラと光 を発して舞い上がった。
「進入角、安定しています」
「進路クリアー、問題なーし。ってね♪」
地球の重力は火星のそれに比べて大きい。その分、降下の際の艦体制御も熟練を要するのだが、このクルー達にそんな心配は無用だった。
何の問題もなく、海抜300メートルの高度に艦を静止させる。太平洋上、ヨコスカより100海里の沖合である。
核パルス・エンジンの通常航行で約2時間かけてヨコスカに入港したナデシコを待っていたのは、ベージュのビジネス・スーツを見事に着こなした、や や感じのキツ目の二十歳の女性である。
エリナ・キンジョウ・ウォン。ネルガル会長秘書、直々のお出ましだった。
「……と言うわけで、ナデシコはこれ以降、地球連合軍極東方面司令部に編入されます」
手元のバインダーをぱたんと閉じて、麗しの会長秘書はクルー達に向き直った。その視線を受け止める者の表情は人それぞれだが、ある共通した感情が 含まれていた。それは、
「それって、私たちに軍人になれって事?」
「いえいえ、そのような事はございません。一時的な共同戦線のようなものと考えていただければ……その証拠に、皆さんの身分は軍属と言うことになり ますが、実質はネルガルの協力による派遣社員という形となります。艦長には、もちろん十分な理由がある場合に於いてですが、命令に対する拒否権もございま す」
「つまり、今までと立場は変われど実は変わらず、と言うことです。難しく考えないで。
もちろん、それが不服だというなら強制はしません。その場合は、当社との契約を破棄して、ナデシコを退艦して貰うことになりますが」
プロスの横でエリナがやんわりとフォローする。その台詞を聞いて、プロスは「おや?」と思ったが、表情には出さなかった。
エリナの言葉を聞いたクルー達は、考え込むように互いの顔を見合わせた。
「ねーアキト、一緒にやろうよ。ねっ!」
「だぁっ! ユリカ、引っ付くな!」
「ミナトさんはどうします?」
「うーん、今までと変わらないんなら別にいいかなぁ〜って」
「ホウメイさんは残るんですよね。なら、私たちも一緒しようかな〜。ね、サユリさん」
「そうね。それに、アキトさんが残るんなら、私も……」
「え? 何か言いましたかぁ? サユリさん」
「な、何でもない」
其処此処で似たような会話が交わされている。プロスはこほんと咳をついてから、
「えー、もし退艦を希望される方がいらっしゃるようであれば、後ほど私の所へ申し出て下さい。3日以内に申告が無いようであれば、承認して頂いたと 見なして、更新した社員証をお配りします。宜しいですか?」
「「「「はーい」」」」
「それでは、これからのナデシコの方針なのですが……艦長」
「あ、はーい」
呼ばれて、ユリカが前に出る。解放されたアキトがほっと息をついた。
「皆さん! 火星への単独遠征、お疲れさまでした。皆さんのお力を持ちまして、こうして無事に帰ることが出来ました。途中で病に倒れられたフクベ提 督の事は非常に残念でしたが、此処にいる皆さんが無事に地球の土を踏めたことを喜ばしく思います――」
「ユリカのヤツも、ああしてればちゃんとした艦長なんだけどなぁ……」
問題は、平時はアキト以外が目に入らないことだろう。アキトのぼやきを聞きつけて、サユリが小声でツッコミを入れた。
「そんな事言って、本当は嬉しいんじゃないですか?」
「そんな事無いって……」
「えー、でも、アキトって艦長さんと一緒にいる時って、嬉しそうな顔してるよぉ?」
げんなりしているアキトに、ウツホが無邪気に追い打ちを掛ける。
「気のせいだって。俺はホントに迷惑してるんだから……」
「ホントにホント?」
「ホントだってば」
「ふぅ〜ん。そうなんだ」
何故かほっとしたようなサユリに、アキトは首を捻った。
そんな事を話している間にユリカの話は終わり、続いてプロスが眼鏡を押し上げながら前に出た。
「えー、ナデシコはこれより、ヨコスカ・ドックにて船体の改修作業に入ります。航行中に得たデータを元に、大幅な設計の見直しを行う予定でして…… それに伴って、武装の強化なども行っていきます。
その作業は本社の技術者によって行われるわけですが、その間、ナデシコは此処を移動することは出来ません。そこで、ネルガルから皆さんへの特別 ボーナスと致しまして、1週間の有給休暇を差し上げたいと思います」
『有給休暇ぁ?』
その場にいた皆の言葉が重なった。
「はい。皆さんのおかげを持ちまして、スキャパレリ・プロジェクトも、フレサンジュ博士やユノ女史らを救出でき、成功を収める事ができました。これ はそのご褒美という事で……
現在、ヨコスカが木星蜥蜴の襲撃を受ける可能性は低いという事でしたので、パイロットの方たちにも休暇を取っていただこうかと思います。その間、 帰省なさるなり、遊楽に出かけるなり、ご本人の裁量にお任せします」
「ただ、緊急時の際には、連絡が取れるようにしておいて貰います。各自、コミュニケの携帯を忘れないようにして下さい。詳しくは、この――」
と、エリナが小冊子を手に取る。
「この、休暇のしおりを参照して下さい。後ほど配布しますので」
どうやらエリナ御謹製の品らしい。仕切り屋の血が騒ぐのだろう。学生の頃は、さぞ立派な学級委員長だったに違いない。
「休暇とは言え、完全にナデシコを空にする訳にも行きませんので、交代で休暇を取って貰うようになります。そのスケジュールに関しては追ってこちら から連絡を致します。取り敢えずは3日後、艦内放送を流したいと思いますので、皆さんそれまでに日程を考慮して置いて下さい」
プロスはそう締めくくった。
解散が告げられても、しばらくはクルー達はその場を離れようとはしなかった。めいめいが今告げられたことの内容に関して、連れあいの話を聞いてい る。
「ふぅん、ボーナス休暇かぁ。悪くないわねぇ」
「そうですよねぇ。もう5ヶ月近くナデシコの中に閉じこもりになっていた訳ですし……私は久しぶりにショッピングにでも繰り出そうかな。ミナトさん はどうします?」
「そうねぇ。それもいいかしら。ルリルリも一緒する?」
「私は別に……」
オペレーター三人娘がそんな会話を交わす傍らで、カイトがイツキに誘いをかける。
「イツキはどうする? どこかに出かけるかい?」
「私は、そんな遠くに行くつもりはないけれど……そう言うカイトはどうするの? 連合軍本部への報告もあるでしょう?」
「そうなんだよね……僕は別にネルガルの社員って訳じゃないから関係ないんだけどさ。その内、総司令部から呼び出しがあると思うし、それまでは此処 でのんびりしても罰は当たらないかなって」
「カイトってば相変わらずね」
「そう? いつでも軽快に明るく、が僕のモットーだから」
「ふふ……そう」
(そう言えば、黒百合さんはどうするのかしら……?)
カイトと会話をしながらも、イツキの目線は黒百合を捜していた。
のんびりと休息する姿がナデシコ・クルーの中で一番似合いそうもない男は、人波をかいくぐってエリナの傍らに近付いていた。彼女もそれは予測して いたらしく、黒百合の姿を認めると、すっと人混みの薄い物陰へと移った。
先に口を開いたのはエリナだった。
「ご苦労様、と言った方がいいかしら? プロスからの報告は聞いているわ。貴方のおかげで、ナデシコは壊滅の危機を免れたんですってね」
「別に、俺は俺自身のためにやっただけの話だ」
「ま、貴方はそうでしょうけどね」
肩を竦めるエリナ。
「それにしても、ネルガルは随分と気前がいいな。スキャパレリ・プロジェクトも成功したわけでもないのに、クルー達に特別休暇を与えるとはな」
スキャパレリ・プロジェクトの本当の目的は、火星北極冠研究所にある『遺跡』の回収だった。だが、木星蜥蜴の戦力が予想外に大きく、ナデシコはあ えなく退却を余儀なくされた。そういう意味では、スキャパレリ・プロジェクトは失敗に終わっているとも言えるのだ。
だが、クルー達に説明していた表向きの目的が、火星住民の生き残りの救出である以上、プロジェクトが失敗であったなどと言える訳がなかった。
「別に、すべてが失敗だった訳ではないわ」
エリナの言葉は、別に負け惜しみの言い訳ではなかった。イネス・フレサンジュという、ボソンジャンプ研究の第一人者を救出する事が出来たのは、ネ ルガルにとっては大きな成果である。プロジェクトを推し進めたエリナやプロス、そしてそもそもの発案者であるネルガル会長の面目も立った。
「ま、俺はネルガルのシェア争いには興味はない。その後、クリムゾンの動向に変わりはあるか?」
「そんな事、こんな所で話せる訳ないでしょう。……でも、今のところ変化はないわよ。詳細はまた場所を変えて、ね」
「……そうだな。それで、わざわざネルガル会長秘書がこんなむさ苦しい所にまかり越した理由は何だ?」
「私の手がけたプロジェクトだもの。成果は気になるわよ」
「それだけとも思えんが」
探るような視線を向ける黒百合に、エリナはふっと笑った。以前と違い、余裕の窺える仕草だった。
(この4ヶ月の間に、何かあったか?)
彼女の放っている雰囲気は、むしろ黒百合が復讐に取り憑かれていた頃に、傍らにいてくれた彼女の持つそれに近いような気がする。
「……そうね。他にも用件はあるわ」
「ほう?」
「貴方、これからどうする気?」
「どうする、とは?」
「ナデシコが地球に帰還した事で、スキャパレリ・プロジェクトは一応一段落ついたわ。それによって貴方とネルガルの契約も切れる事になる。
どうするの? これからもナデシコに乗る? 別のプロジェクトに移る? それとも……」
エリナは語を濁したが、黒百合には他の選択肢がある事は承知していた。黒百合の目的が、彼自身の言うとおりクリムゾンへの復讐だとすれば、黒百合 がこれからナデシコに乗り続けるメリットはない。そもそも、黒百合のスキャパレリ・プロジェクトの参加はこちらからの条件であって、黒百合はそれと引き替 えにネルガルの協力を得るのだ。
スキャパレリ・プロジェクトは、プランBに移行して未だ継続中なのだ。そのためにはナデシコの存在は、欠かすことの出来ないファクターなのであ る。
いまや、黒百合はナデシコの最重要戦力である。引き抜いたあとの穴を埋めるのは、容易なことではない。それに……
(それに、まだボソンジャンプとの関わりを解き明かしていないしね……)
エリナはボソンジャンプこそがこの戦争の鍵を握るものだと思っている。ナデシコの中ならば、他の企業の目も届かない。戦時中と言うことで、特殊な 実験を行ったとしても名目は立つのだ。
そんなエリナの思惑を余所に、黒百合はあっさりと答えた。
「俺はまだナデシコに乗り続けるつもりだ」
「……そう」
「不服か?」
「別に……そんな事はないわ。ちょっと意外だっただけ」
エリナの言葉に嘘はない。実のところ、黒百合はナデシコを降りるだろうと思っていたのだ。どう言いくるめてナデシコに止めようかと、頭を悩ませて いたのである。彼女としては肩すかしを食らったような感じがした。
「まだ、やり残した事があるんでな」
「やり残した事?」
「…………」
エリナの疑問には答えずに、黒百合は踵を返した。彼の後ろで、先程から影のように佇んでいるラピスを連れて、その場をあとにする。
先程から黒百合を捜していたイツキが彼を見つけて、不機嫌そうなカイトに気付かずに声を掛けたりしていたのだが、エリナの視界には映っていなかっ た。呆然としたように呟く。
「………………誰?」
今初めてラピスの存在に気付いたエリナだった。
『ふぅん。じゃ、彼はナデシコに乗るのを承知してくれたわけだ』
「ええ。思惑は知れませんが……取り敢えずは、こちらの予定通りに」
『そう、良かったじゃないのエリナ君。君が入れ込んでいる彼氏に振られなくってさ』
「そんなんじゃありません!」
『ははは、僕も彼に会うのが楽しみだよ』
「その件ですけど……本当にこちらに来るつもりですか?」
『そのつもりだよ? それは前から言っておいたじゃないの。今更反対するなんて無しだよ』
「私は、ずっと反対していました!」
『はっはっは、気にしない気にしない。我が社自慢の最新鋭の戦艦じゃないか。そのために1ヶ月もかけて改造するんだろ?
それに、スキャパレリ・プロジェクトが成功した事で、社長派の動向も怪しくなってきているからね。連中も焦ってるんだろう。いっそのこと戦艦の中 にいた方が安全ってもんさ』
「はあ……分かりました」
『ん! それじゃ、そっちの方の準備はヨロシク〜』
ノリの軽い挨拶を最後に、極秘回線の通信が途切れた。ネルガル会長室直通の、シークレット・ラインである。
「まったくもう……あの極楽トンボは!」
エリナは忌々しげにヒールを踏みならした。ひとしきり罵ったあと、息を落ち着かせて、思考を切り替える。
「ま、いいわ。予定通りの事ではあるし……それに、あの唐変木の鼻をあかす、とっておきの楽しみもあるしね……」
その時の情景を思い描いて、プロスが彼女を捜しに来るまで、狭苦しい通信室の中でエリナは独り含み笑いを漏らしていた。