出会いがあれば、いずれ別れの時は訪れる。
ナデシコがヨコスカ・ベイに入港したその翌日、カリンがアメリカ・カリフォルニアにある火星開発公社の本部に出向するため、ナデシコを降りる旨を ユリカ達へと伝えた。
火星を脱出して3ヶ月余、同じ船の中で苦楽を共にし、仲間意識を抱くまでに至った者たちとの別れ。普段は騒がしいナデシコのクルー達も、この時ば かりはしんみりとしている。
ウリバタケが酒を酌み交わした渋めの中年社員と握手を交わし、ヒカルは趣味のアニメ関係で仲良くなった女性社員にしきりに手を振っている。イズミ はぽろろんとウクレレを掻き鳴らし、年若い男性社員に賞賛されて驚きに目を丸くしていた。
別れを惜しんでいるクルー達の中でも、とりわけ哀しんでいるのは艦長であるユリカだった。別れの挨拶に訪れたカリンを、潤んだ瞳で見つめ返す。
「カリンさん……」
名前を呟く。クルー以外の者で、はじめて自分を認めてくれたカリン。感謝とねぎらいの言葉を掛けてくれたカリン。艦長としての自信を失い掛けてい た時に、慰め、励ましてくれたカリン……
悲しい想いを胸の中から振り払うように、ユリカはぱっと笑った。
「えへへ、ずっとお世話になっちゃいましたね。ご迷惑掛けちゃって、ご免なさい、カリンさん」
「ふふ……そんな事はありませんよ。私も、何だかお姉さんになったみたいで楽しかったですから」
「そう、ですか? 私も、カリンさんがお姉さんだったらいいなぁって思いました。私、一人っ子だったから」
「私は、もう船を下りてしまいますけど……ユリカさんはこれからもナデシコに乗るのでしょう? 決して挫けないで、ずっと笑顔で頑張って下さいね」
「はい! ユリカはきっと、立派な艦長さんになって見せますから!」
意気込むユリカに、カリンはそっと笑みを浮かべて、
「気付いてないのですか? ユリカさんは、とっくに立派な艦長さんですよ」
「え……」
「地球に着くまでの間に、色々と悩んでいたのでしょう? 自分が艦長に相応しいのか。艦長としてどうあるべきなのか。
その気持ちをこれからも忘れなければ、大丈夫。ユリカさんは、何処に出しても恥ずかしくない、立派で素敵な艦長です」
「カリンさん……」
堪らず、ユリカはぶわっと涙をこぼした。こんなに優しい言葉を掛けられたのは、ナデシコに乗ってから初めてだった。
カリンの言う通り、火星から地球に帰ってくるまでの間、ユリカはずっと不安を抱えていたのだ。
自分は、本当にナデシコの艦長をやっていていいのだろうか? いつか、また致命的なミスを犯し、クルーの命を危険にさらしてしまうのではないだろ うか?
火星のユートピア・コロニー跡の時は、黒百合のおかげで助かった。だが、次も助かるとは限らない。
初めてユリカが手に入れた、自分が自分でいられる『居場所』を、決して失いたくはない。
父コウイチロウが言っていた、『艦長たる者、決して艦を見捨ててはならない』、その言葉の意味が、ようやく理解できたような気がする。
「私、私……」
「泣かないで。笑って下さい。ユリカさんは笑顔が一番似合うのですから」
「カリンさん……はい!」
ユリカは涙を拭う。
「本当に……色々有り難うございました。また……会えますよね?」
「ええ……きっと。きっと、会えますよ」
カリンは慈しむような笑顔を向ける。
「それでは、私たちはこれで失礼します。皆さんのご無事を祈っていますよ」
「カリンさんもお元気で!」
丁寧に一礼して、カリンは迎えに来ていたエレ・カーに乗り込んだ。手を振るユリカに窓越しに応えていたが、やがてカリンの乗る車も走り出した。
火星開発公社の面々を乗せた車が遠ざかり、その姿が見えなくなっても、ユリカはいつまでも手を降り続けていた。
「ありがとう、さようなら…………カリンさん」
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第25話
「モラトリアムT」
カリン達を除いて、ナデシコを降りた者はいなかった。最初からナデシコに乗っていた、200名あまりのクルーは誰一人欠ける事なく、ヨコスカに到 着してから4日目の朝を迎えていた。
ただの一人の脱落者も発生しなかった事については、クルー達にとってこのナデシコという空間が、非常に居心地の良いものだったということが言える だろう。まるで、学生の頃の教室の休み時間の雰囲気のような。
クルー達は皆、腕が一流であっても人格にひと癖ふた癖あるが故に、以前の職場ではなじめなかった者たちである。同類相哀れむ、という訳ではないだ ろうが、似たもの同士気が楽なのは確かだった。
その日の朝、いつも賑わっているナデシコ食堂は、いつにも増して賑わっていた。朝食を摂りに来たクルーはもちろん、食事を終えた者たちも食堂を去 ろうとはせずにその場に居残っている。そのため、ナデシコ食堂はやや定員をオーバーしてパンク気味だ。
最初にそれに気付いたのはアキトだった。
「……何だろ? なんか今日はヤケに騒がしいけど……」
「そう言われれば……」
言われてホウメイ・ガールズの面々も辺りを見回した。いつもよりも人口密度が高めの食堂――だが、とりわけ厨房が忙しいわけでもない。つまり、原 因は食事以外にあるという事だ。
見れば、ほとんどのクルーは、食事を止めてある方向を見つめていた。アキト達もつられて視線を向ける。
その原因の中心、周囲の人々の視線が集まるその先に、黒ずくめの青年と薄桃色の髪の少女が、六人掛けのテーブルを二人で占拠していた。どうやら、 向かい合って食事を摂っているようなのだが……
「あ、黒百合さんがいる!」
ミカコが驚きの声を上げるのも無理もない。
黒百合が食堂に姿を現したのは、今までにたったの2度――1度目はナデシコが連合軍の兵士に一時的に占拠された際に、軟禁されたのが此処だった。 2度目はその3ヶ月半後の火星で、イネスとの密談(ルリによって、会話の内容はブリッジにだだ漏れだったが)の為だった。
今まで誰も黒百合が食事をしている所を見た事がないため、クルー達の間で「黒百合は実は充電式バッテリーで活動しているため、食事の摂取も排泄す る必要もない」だとか、「半永久機関を内蔵しているサイボーグで、バイザーを取るとその下には眼の替わりにカメラが仕込んである」だとか、やや暴走気味な 噂がまことしやかに囁かれていた。
その黒百合が、食堂で食事をしている! それだけでも好奇の的であるのに、彼はラピスも同伴していた。
彼女は常に黒百合の後を付いているため、クルー達との関わりが極端に薄い。それはルリにも言える事なのだが、ラピスときたらルリよりも口数が少な く、人見知りが激しいのだ。
それでもまだ付き合いのあるブリッジ・クルーやパイロット達はともかく、一般のクルー達にとっては、ラピスは謎の少女のままだった。
周囲の視線にはまったく頓着せず、黙々と食事を続ける二人は、明らかに周囲から浮いていた。
何となく遠巻きから見守っているクルー達だったが、その中からようやく黒百合に声を掛ける強者が現れた。
「ハァイ、黒百合さん。隣、いいかしら?」
呼びかけられて、黒百合は顔を上げた。そこには朝餉を乗せたトレイを手に持って、ミナトが笑みを浮かべていた。その背後にはメグミの姿もある。
ミナトは返事も待たずに黒百合の横に腰掛けた。メグミは遠慮がちに、ミナトの対面へと座る。
頂きます、と手を合わせるミナトに、黒百合はぼそっと覇気のない声を出した。
「いいかと尋ねるからには、こちらの返事を待つべきじゃないのか?」
「あら、そう? ご免なさい。ほかに空いてなかったから」
ミナトの言葉に嘘はなく、食堂のテーブルはすべて埋まっている。ただし、食事を摂っている者は少ないが。
「黒百合さん、どうしたの? 何だか……元気がないみたいに見えるケド」
ほかほかと湯気を上げる白米をほおばりながらのミナトの問いに、黒百合は力無くかぶりを振り、
「いや……」
「すいません、隣、空いてますか?」
続けようとしたところで横合いから声を掛けられた。テーブルに付いている三人が揃って見上げる。ラピスだけは黙々とサラダをつついていた。
声を掛けてきたのはイツキだった。その後ろにはカイトも連れ立っている。彼の表情はほんの少しだけ曇りがかっていたのだが、誰も気には留めなかっ た。
「……空いているぞ」
「じゃあ、失礼しますね」
ミナトと違って、イツキはきちんと断ってから、当然のように黒百合の横の席に着いた。朝食の乗ったトレイを置く。トーストとサラダ、スクランブ ル・エッグと、ほぼ標準的なブレックファーストだ。
カイトは唯一空いているイツキとの対面に座る。黒百合はミナトとイツキに挟まれるような形になった。
「今日は、何だか随分と混んでいますね、食堂」
「そうか」
「ええ」
会話を交わしながら、何となく目線が黒百合の手元に向かう。トレイの上に乗っているのは、オート・ミールとカロリー・ビスケットのみ。この上なく 味気ない朝食である。
イツキ達はその理由を知っている――少なくとも察する事は出来る。黒百合は、味覚を失っているというのだから。
気遣わしげな視線を向けるイツキだったが、カイトがあっさりと暗黙のタブーを突き破ってしまった。
「……黒百合さん、いつもそんな朝食を摂ってるんですか?」
「「「――!」」」
その場にいる半数が息を呑んだ。緊張する周囲とは裏腹に、本人は至って平然としている。
「いや――いつもは、カロリー・ビスケットで済ませている。食堂で食事をするのはこれが初めてだ」
「え、そうなんですか!? そう言えば、食堂で姿を見かけた事は無かったけど……でも、何でまた?」
「カ、カイト!」
「え、何? イツキ」
「え、えっと……」
堪らず、イツキが声を上げるが――彼女とて、イネスとの会話をコミュニケで盗み聞きしていて知った事である。そんな事を本人の前で言える訳がな かった。
だが、カイトもまたその場にいて事情は知っているはずである。イツキは彼の考えが読めなかった。……案外、すっかり忘れているだけかも知れない が。
「? どうしたのさイツキ」
「な、何でもないわ。ご免なさい」
「……? まあ、いいけど。えーと、何の話だったっけ」
首を傾げるカイトに、女性三人は内心で喝采を上げたに違いない。だが、その期待はあっさりと破られた。
「あ、そうだ。それで、何だって黒百合さんはここで食事してなかったんです?」
(((あああ〜……)))
頭を抱える三人。
「…………俺は、味覚を失っているんでな」
「え、そうなんですか。それで……でも、それなら何で今日は食堂に?」
「ラピスがな……」
黒百合が僅かに表情を歪める。
「俺と一緒にいると、同じものを食べたがるんでな。ラピスはまだ成長期だ。こんなものを食べさせる訳にもいかんだろう」
もう一つ付け加えるなら、自分から離れようとしないラピスの情操教育の為でもあった。
特殊な環境で育ったせいか――その中には、イネスと共にオリンポス研で過ごした4年間も含まれている――、ラピスの精神年齢は見た目よりもかなり 幼い。ルリの方が幾分大人びているくらいだ。
「それで、ラピスちゃんの食事に付き合ってあげてる訳ですか」
「そういう事だ」
肩を竦める黒百合に、イツキが問い掛ける。
「じゃあ、黒百合さんはこれからはここでお食事を?」
「そうなるな」
「そう、ですか……」
「ふーん、そうなんだぁ……」
二人揃って、考え込むような仕草をするイツキとミナト。真面目そうに思案するイツキと、どこか愉しげな笑みを浮かべるミナトとは、対称的ではあっ たが。
何とも形容しがたい、微妙な空気が漂い出した。イツキとミナトは黒百合のちらちらと様子を窺い、カイトは様々な感情がブレンドされた視線をイツキ へと向け、メグミはそんなカイトの横顔を上目遣いに見つめている。ラピスだけは、我関せずとばかりにサラダの中からセロリを選り分けていた。
「……ラピス、ちゃんとセロリも食べるんだ」
「コレ、苦い。好きじゃない」
「好き嫌いをしていると、大きくなれんぞ」
「……アキトは、ワタシが大きくなったらウレシイ?」
フォークを口にくわえて、ラピスが首を傾げて訊いてくる。
「?……ああ。嬉しいぞ」
「なら、食べる」
あっさりと前言を翻したラピスだった。
それらのやりとりを見て、ミナトが呆れたように呟く。
「……なんて言うか、歳の離れた兄妹か、歳の近い親子の会話みたいねぇ」
「……そうか?」
「そうよ」「そうですよ」「そうですね」「そう思います」
まるで図ったかのように四人揃っての返答に、黒百合は僅かにたじろいだ。
「………………そうかも知れんな」
『そんな楽しいお食事中に申し訳ないのですが……』
唐突に、コミュニケが開いてプロスペクターが顔を出した。
『カザマさん、少し宜しいでしょうか?』
「はい? 私ですか?」
『ええ。今し方、カザマさんに面会を希望される方が管理局に訪れまして……』
「面会……ですか?」
『ええ。お食事が終わった後、こちらの方に足を運んで頂けないでしょうか?』
「あ、はい。それは構いませんが……」
『申し訳ありませんなぁ。通常ですと前もって予定を入れて置いて貰わなければ、管理局の方でも面会は受け入れないのですが、今回は少々特殊な方でし て……』
「特殊……ですか?」
やや口を濁すプロスの物言いに、イツキは訝しげに首を傾けた。
『ええ、まあ……お会いになれば分かります。お親しい方ですし』
「はあ、分かりました」
『それでは後ほど……』
そう言って、プロスはコミュニケを閉ざした。何となく得心いかない様子のイツキに、カイトが問い掛ける。
「面会って……イツキ、この辺りに知り合いがいたっけ?」
「さあ……心当たりがないんだけど……」
イツキはしきりに首を捻っている。
「家族の人じゃないの?」
「いえ、私の実家はアオモリの方なので、こんな所にはよっぽどの用でもない限りは……」
「あ、イツキちゃんの実家って東北の方なんだ」
「ええ」
「この休暇の間には帰らないの?」
「いえ、別にそのつもりは……今の時期に帰っても、畑の手伝いをさせられるだけですし」
「そうなんだ、大変ねぇ。私はここからならそんなに遠くないから、ちょっと帰ろうかなとは思ってるんだけど。メグちゃんは?」
「わ、私もちょっと帰らないです……」
「メグミちゃんのクニって何処だっけ?」
「え、えーと……あはは、何処だっていいじゃないですかぁ」
何故か汗を垂らして口ごもるメグミ。
「まあ、いいけど……イツキ、食べ終わったらすぐに管理局の方に行くの?」
「そのつもりだけど……あまり待たせるのも悪いし」
「それじゃ、一緒に行こうか。僕もちょっと管理局に用があるから」
カイトがイツキに話しかけている一方で、話から外れたメグミはそっと安堵の息をついた。
(私って、声優やってた頃のプロフィールだと、トーキョー出身になってるからなぁ……本当はニイガタ出身で両親は農家やってて、今の時期に帰ると田 植えの手伝いをさせられるから帰らないなんて言えないわよね〜……)
どうやら、そういう理由があったらしい。
先程から、周囲には無関心のままセロリの切れ端を少しづつ囓っていたラピスだったが、イツキ達の話を聞くとも無しに聞いていたのか、唐突にぽつり と呟いた。
「……アキト、ジッカってナニ?」
小鳥のようにか細い声でラピスが尋ねると、そこでぶつりとイツキ達の会話が途切れた。
カイトが「しまった」というような顔をしている。つい話に集中してしまい、ラピスに気を遣うのを忘れていた。彼女に身寄りがいない事は、ユートピ ア・コロニーのシェルターで避難生活を共にしていたカイトは知っていたというのに。
のろのろとしたペースでオート・ミールを啜っていた黒百合は、スプーンを皿に置くとラピスの無垢な琥珀色の瞳を見返した。
「……実家というのは、その人の生まれた場所……故郷の事だ」
「フルサト?」
「そうだ。それに、その人の帰る場所でもある。待っている人がいるのなら、な」
「……ワタシのフルサトはドコにあるの?」
うっ、と息を詰まらせたのは、黒百合ではかった。その場にいる四人の男女が僅かに身じろぎする。
その質問がどれほどの重みを持っているのか、余人には計り知れないだろう。
当のラピスの表情はあくまで動かない……しかし、その瞳に微かに動揺の色が浮かんでいる事を黒百合は見逃さなかった。
いつも身に付けている孤高の雰囲気をぬぐい去り、黒百合は柔和な笑みをラピスへと向けた。今までクルー達の誰も聞いた事のない、優しげな口調で告 げる。
「ラピスの故郷は、今はまだ無い。だがそれは、ラピスがまだ故郷となる場所を見つけていないからだ」
「見つける? フルサトはアトから見つけるものなの?」
「そうだ。ラピスが帰りたいと思う場所……そう願う場所が、ラピスにとっての故郷になる。ラピスはまだ其処を見つけていない……それだけの事だ」
「……アキトのフルサトはドコにあるの?」
今度は四人がぐっと息を呑んだ。あまりにも核心をついた問いに、周囲の方がハラハラする。
だが、当人である黒百合は、あくまで優しく、まるで子供を寝かしつけるかのような穏やかな声音で、
「俺の故郷は、もう何処にも存在しない。ラピスと同じさ。俺もまた、故郷を捜しているんだ」
「……ソウ。なら、ワタシもアキトのフルサトを一緒に捜す。ワタシも、アキトと同じフルサトがいい」
「…………そうか。そうだといいな……」
そう言ったきり、黒百合は口を閉ざした。ラピスも納得したのか、フォークに突き刺したままだったセロリを再び口に運ぶのを再開した。
そんなラピスを複雑な感情の篭もった視線で見守りながら……黒百合は哀しく独語する。
(だが、それは無理なんだよ、ラピス……)
口の中に入れたオート・ミールは、味覚が失われているというのに何故か苦く感じられた。
◆
朝食を終えたイツキは、カイトと共にヨコスカ・ベイの管制管理局を訪れていた。待ち受けていたプロスが、諸手をあげて迎え入れる。
「やあ、申し訳ありませんでしたな、カザマさん」
「いえ、お構いなく。それで、一体誰が……?」
「ああ、それはですな……」
「姉さん!」
プロスの後方から声が上がった。背後の部屋は、管理局の応接室になっている。その扉が開いて、少女が顔を覗かせていた。
歳はまだティーンに差し掛かっていくつも数えていないだろう。ストレートの黒髪を腰に届くまで伸ばした、可愛らしいと言うよりは可憐という表現の 似合いそうな少女である。その顔立ちは目の前にいるイツキに似ており、彼女を数年分幼くしたらこの少女のようになるだろうか。
その少女を認めて眼をぱちくりとさせるカイトの傍らで、イツキが驚きの声を上げていた。
「アサミ!?」
「アサミ……って確か、イツキの妹さんだったけ?」
「ええ、そうだけど……アサミ、貴方、何でこんな所に?」
「何でって、ヨコスカでドラマのロケがあったの。それで、姉さんが乗った船が港に逗留してるって聞いたから……」
「ドラマのロケって……貴方、そんな仕事してたの!?」
「そうよ、姉さん」
「と、父さん達はその事知ってるの?」
「もちろん知ってるわ。姉さん、もしかして知らなかったの? 私、4年くらい前にプロダクション・ラ・グルンにスカウトされて……子役としてドラマ とかにも結構出てるのよ。アサミ・ミドリヤマっていう芸名なんだけど。TVとかで見なかった?」
人差し指をその細いおとがいに当てて、こくりと可愛らしく小首を傾げるアサミである。
「そ、そうなの? 訓練学校では、そんなの見ている暇はなかったし……このところ、TVはニュース以外は見ていなかったから……」
「姉さん、相変わらず色気のない生活してるのね……」
呆れたように嘆息したあと、アサミはイツキの横にいるカイトに気が付いた。
「あ、すいません。私、イツキの妹で、アサミ・カザマと言います。いつも姉がお世話になってます」
「あ、ああ、よろしく。僕はヤマモト・カイトって言うんだ。イツキの訓練学校時代の友達だよ。今はね。
それにしても驚いたな。ドラマとかで見てた時は、確かにイツキに似てるなぁとは思ってたけど、まさかアサミ・ミドリヤマがイツキの妹さんだったな んて」
心底驚いているカイト。そういった芸能関係の情報にいまいち疎いイツキは、疑問の視線を向ける。
「カイト、知ってるの?」
「知ってるも何も……最近人気の子役だよ、彼女は。近々歌手デビューもあるって事らしくて、熱狂的なファンもいるくらいさ」
1年近く地下シェルターで避難生活をしていた割には、随分と世情に聡いカイトである。
「そ、そうなの? でも、アサミはまだ13歳なんだけど……」
「でも、年齢の割には物腰が落ち着いてるって、その筋には人気があるんだ」
「その筋って、どの筋なの?」
アサミそっくりの仕草でイツキが首を傾げる。確かにこの二人は似たもの姉妹らしい。
どの筋かと問われれば、○リ筋と答えるしかないのだが、カイトは語尾を濁して誤魔化した。
「え〜、そんな事より、アサミちゃんはどうして此処に? 何か用があったんじゃないのかい?」
「あ、いえ、用って程のものじゃないんですけど……ただ、ネルガル・グループの船に乗るって言う手紙を最後に、ここ半年ほど姉さんから音沙汰がな かったから……
それで心配してたら、ちょうどロケしてるヨコスカの軍港に《紫衣の聖女》の乗る船が寄港するっていう噂を聞いて……ナデシコの名前は手紙で知って たし、此処に来れば姉さんに会えると思って、マネージャーに無理言ってスケジュールを空けて貰ったの」
妹の言葉に、6歳上の姉は申し訳ないと言ったような表情を作った。
「そうだったの……ご免なさい。ちょっとこのところ立て込んでたし、事情があって手紙とか出せなかったから」
此処で言う手紙とは、当然電子メールの類である。だが、火星に向かっているナデシコから地球に向けてメールなど送信すれば、たちどころに送り元の 場所が知れてしまうため、手紙を出そうにも手段が無かったのだ。
それは仕方のない事だが、せめて前回の手紙でしばらく知らせを送れない事を告げておけば良かった……と反省するイツキだった。
「これからは、そういった場合はあらかじめ触れておくわね」
「うん。お母さんが心配していたから……後で連絡を入れて上げて」
イツキは曲がりなりにも軍隊に勤務しているのだ。それも危険度の高いパイロットである。その娘から、定期的に届いていた便りが途絶えたとなれば、 親ならずとも心配になるだろう。
イツキは素直に頷いた。
「ええ。分かったわ。プロスさんもすいません。わざわざ知らせて頂いて」
「いえいえお構いなく。本当でしたら、カザマさんのお部屋で姉妹水入らずでお話していただければ良かったのですが……何分、ナデシコにはネルガルの 機密を含んでいる部分もありますし……」
「いえ、それは仕方のない事ですし」
「……それに実のところ、アサミさんをナデシコに連れて行ったら、クルーの方たちが大騒ぎをしてそれどころでは無くなるでしょうからなぁ」
「そ、それは……その通りかも」
その場合のクルー達のリアクションが容易に予想できて、イツキはぷっと吹き出してしまった。傍らのカイトもくつくつと笑いを漏らしている。
「姉さん……楽しそうな所で働いてるのね。良かった」
眼を細めて安堵するアサミに、イツキもまた微笑みを返した。
「そう……そうね。とてもいい所よ。それに、とってもいい人達のいる所。アサミにも紹介したいくらい」
「私も、姉さんと一緒に働いている人たちに会ってみたいわ。ねえ、姉さんは後どれくらいヨコスカにいるの? 私はあと4日間ほどロケが残ってるんだ けど」
「えっと、それは……」
イツキはプロスの顔を振り仰いだ。ナデシコの逗留期間を、身内とはいえ部外者に伝えていいのか迷ったためだが、プロスは構わないという様にこくり と頷いた。
「ナデシコは、あと1ヶ月くらいはヨコスカにいるわよ。その内、1週間くらいは休暇が取れると思うけれど」
「なら、私のオフが取れたら、一緒にヨコスカを廻らない? 今までの話も聞きたいし」
「ええ、構わないわよ」
「じゃあ、姉さんの連絡先を教えて。オフが取れたら連絡するから」
「あ、それはちょっと……私は普段はナデシコの中にいるから、通常通信は繋がらないのよ」
ナデシコ艦内での個人間の連絡はコミュニケを使用しているため、それ以外の外部との連絡手段は、クルー達には用意されていないのだ。
「そうなの? それじゃあ、どうすれば……」
「それでしたら、こちらの管理局の方に連絡を頂ければ、カザマさんのコミュニケにお繋ぎしましょうか」
傍らから助け船を出すプロス。
「そうですね……お願いできますか? プロスさん」
「ええ、お任せ下さい。代わりといっては何ですが……」
プロスは眼鏡をキラリと光らせると、後ろ手に隠していたものをアサミに差し出した。それは――
「アサミさん、サインして頂けませんか?」
まっさらな色紙を手に、プロスはにっこりと笑った。
プロスペクターは、アサミのサインを後生大事そうに抱えて部屋を後にした。それを見たカイトも今時珍しい紙のスケジュール帳にサインを貰い――色 紙がなかったのだ――、用があるからと言って出かけていった。
男二人の姿が無くなると、アサミは先程から気にかかっていた疑問を姉に投げかけた。
「ねえ、姉さん。あのカイトさんって、姉さんのいい人なの?」
「いい人って――そうね カイトは確かにいい人だと思うわよ? ちょっと軽いところがあるけど」
「えと、そういう事じゃなくてね……」
妙な部分で察しの悪い姉に、アサミは呆れたように言い直した。今度は誰にでも理解できるように。
「つまり、カイトさんは、姉さんの恋人なの? って訊きたかったんだけど」
「恋人? カイトが? やだ、違うわよ。カイトは私の大事な友達なんだから」
「友達って……それだけなの? 姉さん」
「そうよ。何言ってるの。カイトだって、私にそんな気があるわけないでしょ?」
「そうなの?」
「そうよお」
笑って手を振る仕草をするイツキに、アサミは首を傾げる。彼女の見るところ、カイトはイツキに対して友人以上の好意を抱いているように見えたのだ が。
たとえばカイトは自己紹介の際に、『今は』訓練学校時代の友達だと言った。今は――つまり、これからはそれ以上の関係を目指しているのだという意 思表示ではないのだろうか。
だが、イツキはその事に気付いていない。普段は明晰な姉だけに、こういった部分のギャップは信じがたいものがある。
「姉さん、相変わらず鈍いのね……」
「え、何?」
「何でもない」
かぶりを振って嘆息する妹に、イツキは不思議そうな表情を作った。
◆
しばらくたわいもない会話を楽しんだ後、アサミは次の撮影の時間が押しているからと断って部屋を後にした。撮影さえなければ、いつまでも話し込ん でいたかったに違いない。何故か、黒百合の話題に関心を寄せていたようだったのだが、イツキにはその理由は分からなかった。
イツキが談話室を出ると、ちょうどカイトと鉢合わせした。
「あら、カイト」
「あ……ああ。イツキか」
返事が来るまで、若干の間があった。
「アサミちゃんはもう帰ったんだ?」
「ええ。また、今度の休みにでも街で会おうって話してたんだけれど。カイトの用事は終わったの?」
「う……ん。まあね」
カイトは語尾を濁して、曖昧な笑みを浮かべた。怪訝に思ったイツキが、
「どうかしたの?」
「え……ううん。何でもないけど……」
と、そこでカイトが思いついたように声を上げた。
「そうだ。イツキ、今度の休みって何時だっけ?」
「え? えっと……確か、次の日曜日だったと思うけど……」
「なら、その時一緒にヨコスカを廻らない?」
突然のカイトのお誘いに、イツキは眼をぱちくりとさせた。
「別に構わないけれど……どうしたの、急に」
「ん……ちょっと、思い立った事があってさ。まあ、気分転換ってのもあるんだけど……」
笑みを漏らすカイト。だが、その表情は僅かに蔭を帯びているように見える。遠くを見るような目線で、独り言のように呟く――
「その時、イツキに伝えたい事があるんだ……」
――深夜。
ミナトは、眠気に下がりそうになる瞼をしきりに擦りながら、ナデシコの廊下を歩いていた。
「まったく……本をブリッジに忘れちゃうなんてねぇ……」
昼の勤務の間に読んでいた情報誌を、コンソールの上に置き忘れてしまったのだ。よりにもよってそれに気付いたのが、就寝しようとしてベットに横に なった直後だった。
それだけなら別に今すぐ取りに行かなくても良さそうなものだが、ミナトにはそういう訳にはいかない理由があった。
(寝る前に、ちゃんと予習をしとかないとね〜♪)
何の予習なのかは本人しか知らない。ちなみに、置き忘れてしまった情報誌には、近隣の遊楽マップが載っていたりするのだが。
幾分か軽くなった足取りで、ミナトはブリッジに向かった。
夜も遅く、ほかに出歩いているような者もいない。誰にも会う事無くミナトはブリッジに辿り着いたのだが、出入り口のハッチの前でふと足を止めた。
「あら……?」
何故か、ハッチが半開きで固定されている。感知式の自動ドアであるはずなのに、だ。そして内側のブリッジから、ほの暗い青色の光が廊下へと漏れて いる。
怪訝に思って、ミナトは扉に身を寄せた。やはり感知機能がカットされているらしく、ミナトが近づいても扉は動かない。僅かに開いている隙間から中 を覗いてみると、真正面にツインテールの髪型の少女の後ろ姿が見えた。このナデシコ中に、そんな少女は一人しかいない。
「ルリルリ……?」
思わず言葉が漏れる。ルリはこちらに気付く気配もなく、熱心にコンソールに向かっているようだ。
だが、その姿にミナトは違和感を覚えた。何しろ優秀なルリの事、通常業務を深夜まで残すなどあり得ないし、さりとて見た限り、何かゲームなどを やっているようにも見えない。
隙間の向こうに見えるルリは、彼女らしくもなく感情を乱しているように見えた。時折髪を振り乱し、大きくかぶりを振って再びコンソールへと向き直 る……そんな事を何度も繰り返している。
(何やってるのかしら……?)
ミナトは疑問に思ったが、何となく出ていく事も躊躇われて、ミナトはそっと扉から身を離した。
すこし考える仕草をした後、くるりと身を翻す。仕方がない、今日の所は雑誌は諦める事としよう。
(でも、ほっとく訳にもいかないわよねぇ……)
頭の中で策を練りながら、ミナトはベットが待ち焦がれている自室へと、先程来た道を戻って行く……
ミナトが去った後もしばらく、ブリッジからこぼれる光が途切れる事はなかった。